ボランティア

ボ ラ ン ティ ア
(vulunteer)

知恵と力と余力があれば そっと差し出す社会の為に

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マイク宣伝
平和で豊か道理が通る世の中ならば、老後は安穏に暮らしてもおれましょうが・・・
国民の多数が賢明な意識をもてば、憲法に定めた社会が実現可能になるのだが
憲法9条を解釈改憲し集団的自衛権を閣議決定戦争への策動が強められている

谷 川 岳 史


谷川へのメッセージはここからどうぞ
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・・・一人はみんなの為に みんなは一人の為に・・・



平 和 ボ ラ ン ティ ア へ の 歩 み




平 和 ボ ラ ン ティ ア へ の 歩 み
   1, 文 学 を 愛 好 し て
   2, 首都圏をエリアにサークル活動
   3, 文学を通して社会の矛盾に目覚め
  4, 職 場 要 求 実 現 を 目 指 す
   5, 1960年を起点に資本の本格的攻撃が
   6, ケネディー・ライシャワー路線の懐柔・分断政策
  7, アメリカ式労務管理と労働貴族の台頭
   8, 社員制度導入と差別政策による搾取強化
   9, 極めつけは労働運動の潮流感差別に
  10, 孫子の兵法と10回党大会6中総の方針
職場に自由と民主主義の旗を掲げて
  11, 職場の自由と民主主義を確立する闘いへ
  12, 画期的な伊達判決勝取った坂田氏逝く
  13, 三六協定での”六さん”のたたかい
  14, 時を打ちづけて(女性差別解雇裁判)
  15, 稲垣をかえせ(稲垣労働災害の闘い)
  16, 失われた右腕の痛み(渡辺労災裁判)
  17, NKK京浜労組役選介入・不当労働行為事件の闘い
   17-2, 組合役選に於ける労使一体の実態=連合の本質=
  18, NKK鶴見中高年差別差別争議ー熟年の誇りー
  19, 鉄の扉ひらいた男たちー神戸製鋼争議勝利総括集
  20, 苦節27年川崎重工近藤正博配転拒否不当解雇撤回闘争
 (特別編)神奈川争議団共闘会議の歴史と果たした役割
  21, 石流れ木の葉沈む日々に
  22, ブラック企業・臨港バス鈴木不当解雇撤回争議
  23, 神奈川の巌窟王健在なりしか
  24, JMIU昭和メディカル神谷不当解雇撤回争議
(つづく)



1,文学を愛好して

処女作
  私達と、それから終戦になり数年後に生まれた第一次ベビーブーム、所謂現代で言うところの団塊の世代は、日本の高度経済成長を支えた中心的な働き手であり、年代であるといえる。それ故歴史的にも役割を果たし、人生に対する一定の誇りを持ち、生きてきた世代でもある。

 若い頃は、いつも文庫本や月刊誌を小脇に抱えて歩いていた。特に夏目漱石の作品は殆ど読破し、その他いろんな傾向の作家の文芸作品も読みあさった。当時流行していた、石坂洋次郎の青春物や源氏鶏太のサラリーマンものも、愛読していたのは勿論である。

 ところが、実際に職場へ入ってみて、文学の世界と現実との落差の大きさに矛盾を感じ、それをきっかけに社会の仕組みに関心を持ち、その疑問を自ら解明すべく、社会科学に興味を持ち資本論を勉強するコースを辿る。

 また、当時は労働組合も、第二労務室と言われる程には極悪な右傾化をする直前であり、一部真面目な部分も残っていた。組合の中には従来からの継続で、民主的な部分も一部維持され、種々の活動も残存していた。その中に文学サークルも細々と活動していた。そんなサークルから呼びかけられ、短編の作品を書き投稿して入選し、冊子に掲載されたりもした。いわゆる文学青年らしき青春であったのだが、その青臭い文学的ヒューマニズムが、後に私の生きる方向を決定づける大きな要因になるとは、未だ当の本人も気が付いていなかったのである。



2,首都圏をエリアに若者を集めたサークル活動

ふきの旅
  私は終戦前の生まれ、終戦で招集されていた若い兵隊さんが戦地から帰国、第一次ベビーブームの人達は、私より5〜6歳若い。池田勇人内閣が打ち出した「高度経済成長政策」=「所得倍増政策」が打ち出されて、中学を卒業すると、”金の卵”ともてはやされ、安く使える労働力として集団就職列車につめこまれ、工場へ就職し大都市へ若者が集中してきた時代。私は5〜6歳年上でそんな青年達を正しく健全に成長させようと、サークルを組織し主宰していた。

 その頃は大新聞もこうした活動に協力的で、無料で紙面の一部を割き、週に一度はサークル員募集の短い宣伝文を掲載してくれた。私が主宰していたサークル名は「蕗の会」と称し、朝日をはじめ大新聞に3〜4回取り上げられたこともあり、東京・神奈川を中心に50〜60名の会員を擁し、活発に活動していた。

  「蕗の会」は、文化部と娯楽部があり、月一回ボーリングやハイキングを行い、子供の国へ行ってフォークダンスを踊ったりして過ごす、健全な集まりであった。そうした活動や行事の後に全員が感想文を書き、文化部を中心に集まり、文集を編集して作成し配布した。ワープロなどまだ存在しない時代で、2〜3人で手分けし、ガリ版刷りの苦心作であった。三つ峠から河口湖までのハイキングを行った際は、白糸の滝を観た帰路に雨に降られ、幸い途中に会員の実家が在ったので、暫く雨宿りさせて頂き、ズブ濡れにならず、熱い御茶をご馳走になり身も心も温まり幸であった。

  大きな行事としては、夏に白樺湖のバンガローへ泊まるキャンプを行い、30名近くが参加して盛大に行われた。 飯盒炊飯で食事やカレーを作り、夜はキャンプファイヤーを囲み輪になって踊り唄い、アルコールも多少入り楽しい一時を過ごした行事であった。翌日は皆で車山へ登り、頂上で昼食を食べていると急に濃霧が湧いて流れ、「ワァー涼しい!霧ヶ峰だー」とはしゃいだ。下りは安全を期して全員がリフトで降り、バンガローへ無事帰着、荷物をまとめて帰路についた。この時は、参加者全員が感想文を書き、ガリ版刷りの「ふきの旅」と題して、立派な文集が作成され、記念誌として残され大事に保存されている。



3,文学を通して社会の矛盾に目覚める

 夏目漱石や白樺派の武者小路実篤等の作品は殆ど読んではいるが、特別目標を定める事無く、濫読で、何でも目に付いた小説は手当たり次第に読み漁った。山本周五郎や織田作之助等の作品も好きで、ずいぶん読んだものです。ただ私は、内容を理解しないと前へ進めない性格で、目読の速度は遅く、単行本一冊読むのに何日も要し、自分でもじれったくなるが、忍耐強く読み進むしかありません。

 月刊誌も当時から出版されていた中央公論や文芸春秋等何冊か購読していましたが、文芸春秋が自分の性分に合っていたのか長く読み続け、現在も購読しています。月刊誌を読み始めると、連載物が掲載されており、次回に期待を持たせる場面で終わるので、来月号の出版が待ちどうしく、読み続けることになります。私達の青春期は、石坂洋次郎の青春物や、源氏鶏太のサラリーマン物が青年に愛読され、ベストセラーとして人気がありました。私も暗に違わず出版されるとすぐ購入し読んでいました。サラリーマンである自分を、あたかも作品の主人公に置き換え、ハラハラドキドキしながら読み進んだものです。

 ところが、小説では困った事や問題が起きた時には正義感の強い先輩が出てきて助けてくれたり支援してくれるのに、現実のサラリーマンの世界は冷たく小説とは大違い、それ程甘くは有りません。後輩が困っていようが悩んでいようが、見てみぬ振りで手を差し伸べてはくれません。

私は、普段は温和で寡黙なのですが、重要で肝心かなめな時には譲歩せず持論を主張するので、上司や労務担当に不気味に受け止められていたようです。後で判った事ですが、政党政派に所属しているのではないかと、上層部や周囲は思想色に染まっていると勝手に判断しレッテルを貼って、警戒していたようです。私が社会に矛盾を感じたのは何も複雑な事ではなく、源氏鶏太の小説の世界とは全く異なる現実であるといった、単純な事が実は大きな要因であり、動機となったのは確かでした。



4、明るく働ける職場要求実現を目指す方向性

   1960年のこの年は、安保条約10年期限の改定に当たる年で、安保条約改定反対闘争が盛り上がり、「60年安保闘争」といわれる大闘争が闘われた年です。社会党・共産党・総評など134団体が参加し「安保改訂阻止国民会議」が結成され、全国700ヶ所で集会が開かれるなど、地方組織も確立され、文字通り国民的な大闘争に発展していきました。当時の首相は岸信介氏であり、国会のテレビ中継が始まった年でもあります。安保条約改定の国民的大闘争は、今で言えば3・11東日本大震災で東北3県が津波に襲われ、東電福島原発が爆発し制御不能に陥り、日本国民が注目するに匹敵する大事件であった筈であるが、未だ若干17〜18歳の時で、晩生であった私の関心は薄く、ただ眺めているだけで過ごしていたというのが実態でした。

 しかし、6月15日、起きるべきして事件が起きました。全学連主流派が衆議院南通用門から国会へ突入して警官隊と衝突、東大生であり過激派の樺美智子が圧死するという事件が起きました。これを機に自民党政府や警官隊に対する国民やマスコミの批判は高まりました。しかし、33万人のデモ隊が議事堂を包囲する中、国会では安保条約の継続を強行可決し、岸信介首相が責任をとって辞任する筋書きで国民の怒りを沈静化し、全国民を巻き込んで闘われた60年安保闘争は幕を閉じました。後に、樺美智子事件は、政府中枢の指示のもと警察と右翼の田中清玄らが周到に準備し仕組んだ策謀であった事が、詳細に明らかになりました。こうした事件が、視覚を通しテレビで放映されるにつけ、自然と関心は呼び覚まされ、ただ眺めているだけでは済まされない意識的変革が、心の内部で生じたのは自然の摂理と言えるであろう。

 職場では、当然な要求や皆の為にと発言したり、改善要求を出しても、中々取り上げてくれません。予算が無いとか時期が早いとか、何かと理由を付けて拒否します。反面、事故でも起きたり、儲けに関わることであれば、直ぐに大金を注ぎ込むのに、何故か下からの職場要求は中々実現しません。しかし、私が提案したり要求した案件は、5年か10年後には、組合か会社自身が取り上げ実現しています。この事実は、私の要求が正しく先見性があり過ぎて、会社やの上司や周囲の人達には、理解し難かったものと思えます。

 そうした会社生活や社会の動向にも目を向け関心を持ち、自然と政治にも目を向けるようになっていきました。当たり前な事が潰され、道理が通らない。同じような問題意識を持つ同僚が職場に存在していることが分かり、勉強しなければ世の中の仕組みは理解できないと、二人で「資本論」を購入して勉強を始めました。製鉄所で働いている関係から鉄に類した例になるが、鋭くても一本の針や釘では折れたり余り力にはならない、数多く寄せ集めれば槍にもなる。釘一本では敵わなくても、槍を持てば猛獣にも対抗出来るし勝てるかも知れない。私の頭の中で、数多くの人が集まり団結し、同じ方向で要求を出して迫れば大きな力となり、相手を譲歩させ要求は実現するし勝てる。こうした方向へ自分の考えが傾き醸成され、徐々に前進し確信になり集約されていきました。



5、1960年を起点として資本の本格的反撃が始まる

  1)資本の総力を挙げての巻き返し

 自民党政権とその裏にあって実質的に日本を支配している財界は、安保条約改定を強引に通したが、この闘いの先頭に立ったのは、労働者や学生・青年であり、全国的で国民的な闘争に発展していきました。安保条約は強硬採決で国会を通過したが、歴史の流れはそう簡単に収まりはしない。資本の側は、この闘いの中で実は闘う労働者を多数生み出し、優秀な幹部を育てると言うリスクを負っていたのである。
 一方労働界は、総評がまだ一定にまともな時期であり、社会党を中心とする勢力が執行部を握り、下部組織にも影響力を持ち一大勢力として、労働運動も高揚していた情勢でした。同時期、私が勤務する日本鋼管(株)(以下「NKK」という)では、春闘の賃上げ闘争が行なわれ、回答が不満として49日間という長期のストライキが行なわれました。これは労資のチャンピオン方式で、鉄鋼ではNKKのみのストライキであり、労組は鉄鋼労連が支援し、資本の側は鉄鋼連盟がNKKを全面支援し、鉄鋼資本対鉄鋼労働者の総力戦の形になりました。NKKが受注した製品の納入は出来ませんから、他社が製造した製品をNKK製品として出荷するという資本間の協力体制を採り、NKKのストを支えて持ち堪える労資の決戦場となりまた。賃上げの前進はなく、結局労組側の敗北という形で終わり、以後半世紀以上ストライキは一度も打たれず経緯し、現在もなお継続している状況が続いている。

(総資本対総労働の対決=関が原の決戦は、時代の趨勢で、石炭から石油へと燃料が代わるエネルギー革命と言われた三井三池の大闘争が挙げられるとは思いますが)

  2)経営側の策動は裏で着々と進められていた

 このストライキを、資本は手をこまねいて見ている筈はありません。正面からつぶす事はできず、内部から切り崩す戦術を考え、裏で着々と準備を進めていたのです。共産党から除名された、三田村四郎・鍋山貞親・佐野学等がつくった、「労働研究所」を活用し、密かに企業親衛隊を教育・育成していたのです。NKKでは主に「三田村労研」が利用され、今でもその流れは続いているのです。新選組よろしく企業防衛隊として組織し、金を使いアメを与えて組合員の内部に着々と勢力を拡大し、準備は進められていきました。そして時機を見て、職場の内部からストライキ反対の声を挙げて決起させ、ストライキを内部からつぶし、労組側敗北という結末をつくりだしたのである。

 ここでは、NKKという企業を典型として一例に挙げたのであるが、労働者の間に楔を打ち込んで分断し、労働者同士を闘わせる、利潤追求のために資本はどんな策謀をも辞さない構図がハッキリ見えるというものです。大企業は勿論中小企業を含めて、闘う労働組合を潰し弱体化させるため、財界労務である日経連の方針のもと、職場にインホーマル組織をつくり、組合の弱体化乃至は企業側が乗っ取るということが、全国的に公然と進められていった。そして、会社派右派幹部は労働組合としてはタブーであった労使協調路線へと、まっしぐらに転落して行ったのである。



6、ケネディー・ライシャワー路線による労働組合の懐柔・分断政策

  歴史的な安保闘争後、アメリカでは、1960年の大統領選挙で、リベラル派といわれるケネディーがニクソン副大統領をやぶり当選した。翌61年、東京生まれで日本育ち、夫人が日本人で知日家である、ハーバード大学教授という異色の学者大使、ライシャワー氏が日本大使として着任する。以後、労働界に嘗て無い懐柔路線で異変が起こるのである。

  ライシャワー大使は、それまでのマッカサー大使と異なり、労働組合幹部などの招待外交をとり、日米政府に都合の悪い安保改定阻止国民会議の分裂を生じさせた。更に、IMF・JC路線の働きかけが強まり、1966年には鉄鋼労連がJCに加盟し、以後、同盟と共通路線を歩み、いわゆる「労働組合主義」を標榜することになった。そして、春闘の先陣を務め低額一発回答のストなし春闘を定着させる役割を果たし、後続の産別はその上に幾ら積み上げるかといったゲーム感覚でマスコミが報道し、春闘の本質を見失わせる役割をを果たしていた。

  自民党政府と独占資本は、60年安保闘争とストを連発して苦慮する労働組合運動から大きな「教訓」を引き出し、本格的な反撃に打って出る。こう記述すると前項のダブりではないかと指摘する向きもあろうが、5年も経過すると陰湿かつ巧妙な攻撃で職場支配が強化され進められていく。その手法は、職場に企業防衛隊を秘密裏でなく、白昼公然と拡大強化政策を執り推進していく。企業防衛隊を職場に組織し(インホーマル組織)、アメリカ式労務管理といわれる社員制度を導入し、組織の会員には昇進・昇格(出世)・成績査定を良くして賃金を優遇し、アメを与えて組織拡大を図る。逆に、会社の方針に従わず逆らう者にはムチとして、賃金のみならず、結婚しても社宅入居は拒み、ありとあらゆる面で徹底した差別を行い、他労働者への見せしめとして”職場八分 ”政策さえ実施していたのである。

 インホーマルの組織化は、NKKでその数は、12,000人の京浜製鉄所で30〜40%であったと言われている。その会員の中から組合役員候補を立て、労使一体で労組役員の不正選挙を行なう。当然のことながら、組合役員の殆どがインホーマル組織の会員であり、ホーマルな組合役員となるので、労組幹部は会社派幹部で占められることになる。更には、選挙法を改悪し、事実上の小選挙区制とし、職場の意見を代表する民主的・良心派候補を締め出し、労使協調・会社派幹部の独裁支配体制を築いていく。

 次は何が待ち構えているかというと、労組幹部になると外遊である。アメリカの招待という形式をとり、アメリカの労組幹部との交流や視察という名目で、ハワイやアメリカへ長期外遊し、飲み食い遊びで篭絡され骨抜きにされて帰国するのであるが、それも実は全部組合費で賄われているのである。当時の経済的背景として、所得倍増計画なる政策が執られ、高度経済成長時代とあって、企業は次々に設備投資を行ない事業を拡大し組合員は増加する、賃上げも程ほどに行なわれインフレで、組合の財政も豊かな時期であった。組合役員を降りると、普通高卒では成れない係長や課長の椅子が与えられる。また、企業が親衛隊にアメを与えられたのも、設備投資で事業を拡大し役職のポストも増加し昇進・昇格や賃金での優遇が出来る、経済的な背景と基盤が備わっていたと言える。こうして民間大経営の職場では、労資協調路線を採る会社派右派幹部によって、組合の主導権が独占される事になっていった。

   国公労働運動の分散化
  1960年代前半に国公共闘の一部加盟単組で第二組合の結成が相次ぎ、国公共闘側はその挑戦を受けるようになる。具体的には、1962年から1964年にかけて、建設省、国税庁、税関、総理府統計局における組合間の対立であり、それらは当局による国公共闘系からの脱退工作や同組合員の差別的な不利益取り扱いなどの団結阻害行為(不当労働行為)が付随する場合もあった。抗争の推移は官庁で違いがあり、建設省では劣勢から国公共闘系の全建労が70年代に巻き返しに成功したが、国税・税関では劣勢のまま少数派組合に転落して現在に至る。(国交労連HPより転載)

 ケネディー・ライシャワー路線と言われるが、その方針を日本の現状に合わせ、具体的に実践したのはライシャワー日本大使である。日本に於ける情勢のもとでの労働政策は、失業や低賃金や疾病・災害等総じて労働者階級の貧困化過程を阻止することができないのみでなく、むしろ、大量解雇と賃金ストップ・労働強化および労働組合の権利の剥奪にその中心をおいた。アメリカ式の生産性向上がこういう労働政策のもとで、正に日本の現在の状況を創り出す根源を策定したと言えるであろう。私が指摘したのは労働者及び労働組合側からの見解の一部分にしか過ぎない。更に他分野に於ける一例を挙げれば、農産物購入協定は現在のTPPの押しつけに繋がり、これらは政治・経済を中心とする日本の対米従属をつよめる事になっているのである。ライシャワー氏の5年間という長期日本大使在任中、学者大使という特質から、細部に亘りあらゆる面で日本に対するアメリカ支配の強化、対米従属という日本の主権に関わ大きな負の遺産を残して去った人物として、後世に語り継がれるであろう。



7、アメリカ式労務管理政策と労働貴族の台頭から終焉へ

偽装労連
 今迄記してきたのは、60〜70年代にかけて、あらゆる企業や国・地方公務員の職場で、共通して行なわれてきたことである。更に記せば、一般労組役員も役職のランクに応じて度合いは異なるが優遇されていた。特に職場を離れて専従役員になると、メリットは格段に違ってくる。会社での役職は別にして、社員制度を導入して従来の年功序列賃金制度を廃し、資格によって賃金が上昇する仕組みに変えているので、会社は専従役員の査定を良くして資格を上げる。賃金は組合費で支払われるので会社の腹は一銭も痛まず恩を売れる。飲み食いは会社の使う高級料亭で、一定の額まではサイン一つでツケでOK、会社払いとなるが恩を着ることになります。

  労組は殆ど全てが労働金庫を利用しています。預金額は、1万人を越す組合員が居れば何十億円、それも賃金天引きですから労金の人件費はただで済みます。組合費も億の単位で労金に預け、一時金の預金も職場の支部役員が集金して本部へ持参、億単位で労金へ預けて置きますから、そのリベートはスーツの仕立券や商品券で本部役員へ届けられます。組合員への物資の斡旋の窓口にもなり、多数の業者からの付け届けも毎日沢山あります。そして組合費で外遊し、あちこちの関係者・団体から餞別が届きます。世知辛い話になって気が滅入るのですが、労組幹部がどのようにして堕落していくかのほんの一例に過ぎません。

 前記したように、職場労働者の血と汗の犠牲の上で、労組幹部が一般労働者・組合員から乖離し、労働貴族としてもてはやされた時期がありました。その最も典型的なのが日産自動車労連(日産自動車や下請け関連企業を含めた労組の連合体)会長の塩路一郎氏です。彼は、労働組合会長(委員長)の立場と力を利用し、組合幹部を重役(役員)に送り込み、日産の経営そのものを支配する勢力を持ち、”塩路天皇”とか、日産の陰の社長ともてはやされ君臨した一時期もありました。その私生活ぶりは、品川の自宅は7DK,別荘を持ち自前のヨットを持つ、車はプレジデントとフェアレディZ2台を乗りまわしている。銀座の女と豪華なヨット遊び、ロスには愛人が居ると、週刊誌で騒がれ、正に労働者を食い物にした「労働貴族」そのものでした。最後は石原俊社長と対立する形で放逐され、政治生命を失って失脚し、哀れな末路となるのですが。

 塩路氏の例は一典型ですが、一般の労組役員は、組合員をどう誤魔化すかに知恵を絞り、職場労働者の権利や利益を守るこ等頭にはなく、会社に点数を稼ぐことのみに集中し、折角得た専従役員の立場を維持するために躍起です。労働組合が労務課の出先機関とか、第二労務課と言われた所以です。第一次オイルショックを機に日本の景気が翳りはじめ、労働貴族という言葉も陰は薄れましたが、その間に労資(使)の関係は構造的に密着し、強調から労資一体のより深く強い密着度を増し、一般組合員から益々乖離した存在となりました。日本経済が底をつき低迷する中で、企業のリストラを容認するだけでなく、その尖兵としての役割を果たす凶暴さを持つに至ってきました。老病弱者を抱えた労働者への遠隔地配点の強要、リストラの指名に窮して相談に来た労働者へ、「あんた方が選んだ役員だろう、困っているなら、こんな時こそ組合に相談に行ってみたら・・・」と差し向けると、藁にも縋りたい労働者が期待半分で行き帰って来ると「いやー大変なもんだよ!労務以上だよ、会社の方針に従えないなら辞めろだってよ!組合がそこまで言うかよ!」こうして、退職後のあてもなく職場を去って行く人が多数居ました。これが連合組合の実態です。資本の飽くなき利潤追求は、こうした労使協調と言うより、会社派幹部を利用し労使一体で、大量の人減らし「合理化」による労働強化・労災隠しや賃金抑制政策によって、”去るも地獄残るも地獄”と言える、酷い状況が生まれたのです。

 資本の戦略はさらに大きく広く包囲網を張って仕掛けてきています。財界に都合の良い労働法制の改悪、労働基準法は骨抜きにされ、労働者を護る法律の改悪を含めて全面的なものですが、今迄記したことはその中の一断面にしかすぎません。労働運動と政治は深い関りを持っていますが、連合が民主党の最大の支持母体である事を知る賢明な労働者や庶民は、国民から見放された現在の民主党の姿を確信を持って予想していたことでしょう。
  (塩路氏については、「偽装労連 日産S組織の秘密」(同時代社叢書)青木慧著 参照)




8、新社員制度導入の狙いと徹底した差別政策による搾取強化

資格制度
 この辺りで、鉄鋼職場での社員制度について、若干掘り下げて展開しておく必要がありあります。何故ならば、資本の側にとっては利潤を追求する最も初歩的で簡単なな経営方法は、賃金の抑制乃至は賃下げと人減らしを行い、人件費を減らすことが大きな柱です。更に、科学性を装って如何に労働者をだまして搾取する、その為には組合を弱体化し職場支配を強化する事が必要不可欠であるからです。

又、労働者にとっては、憲法で保障された生存権、「健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。」とする、労働力の対価として、正当な賃金水準を確保しなければなりません。日常生活を維持していく糧としてのみならず、子供の養・教育費や文化的な生活を維持し、自らの休息と向上を図り明日への鋭気を養い、労働力の再生産に必要な賃金水準に影響する、重要な問題であるからです。


   新社員制度導入の地ならし

 鉄鋼独占資本の職場支配は、日本古来の年功序列型から1966年(昭和41年)に、新社員制度の導入を図りました。しかし、直接移行するには矛盾が生じ無理なので、その前に古い殻から脱皮しておく前段の準備が必要でした。前近代的な徒弟制度の残滓で、工場で働く一般の現場労働者を「工員」と言い、学卒の事務職は「職員」と称して待遇が全く違っており、賃金面のみならず、職員と工員では入退出する通用門や食堂まで差別されていたということです。それを1964年(昭和39年)に、工員をA社員、職員をB社員とし、呼称の変更を行い、社員制度の地ならしを行っていたのです。

 新社員制度の導入は、労働者からの搾取を強め、より多くの利潤を上げるのが狙いですが、その為には労働者への支配を如何に強めるか、より巧妙な職場支配体勢を構築するかに重点がおかれているのです。その基本はアメリカ式労務管理から学び、新しい制度へと移行していったのです。従って、1966年に導入されたアメリカ式労務管理に「新」をつけ、新社員制度とする、二段構で手の込んで策謀をこらす必要があったのです。

軍隊式の階級制度からアメリカ式労務管理への移行と特徴
  社員・監督職制度の移行
(旧来の現場役付き制度)    (新社員制度)
   職長                作業長
   組長                  作業長
   伍長(班長)              工 長
   棒心                 A・B 工
    一般                 一般
 上記表は、従来型から新社員制度へ移行時の生産現場の役付き制度です。特徴的なのは、作業長制度の導入です。旧来の制度は、伍長など如何にも軍隊の階級制度を真似て取り入れたかが伺えます。又、棒心など役付きの下にあって一般職をまとめる心棒の役割で、おとなしく失策をしなければ次期伍長への昇格が約束され、如何にも年功序列型の制度が伺えます。また、職長と言うのは、職場の下から仕事一筋に20〜30年かけ、自分の経験で感と技術を身に付けて叩き上げてきた職人、仕事の上では”神様”扱いで、部下の面倒見がよく、信頼の厚い人格者も一部存在していました。
 新社員制度に於ける作業長制度の最大の特徴は、作業長職は仕事面でなく労務管理が主であり、私生活を含めて部下を把握し、社内だけでなく24時間社員を管理する役割が課されます。日常生活まで掌握するには人数に限界があり、20人程度の割合で配置され、部下を看視する役割を担わされていました。


賃金制度・・・年功序列型賃金から職務・職階(資格)賃金への移行

従来の賃金政策は、年功序列型賃金制度を採用してきたのが、日本の企業の一般的な賃金体系でした。単に経験年数が多いだけの理由ではなく、家庭を持ち家を建て子供が生まれれば、養育費や教育費に出費がかさみ、年功序列賃金には生活給的な要素が含まれており、生活が立ち行かない社会状況から発しています。その内容は主に、本給、業務給、能率給の三つから成っていましたが、子供の人数による育児(子供)手当や住宅手当も支給され、文字通り生活維持型の賃金体系で、それでなければ生活出来ない日本の低賃金政策であったとも言えます。

 しかし、鉄鋼独占資本が高度経済成長政策に基づいて生産性を高め、所得倍増政策によって一定の賃金水準が確保されるに至り、資本の側は日経連を軸に長期計画を立て、賃金抑制にのり出しました。合理化を推し進めるなかで、近代的な設備によって生産性をあげるのに適した賃金体系とし、生産コストに占める賃金コストの比率を低く押さえ込む事をねらい、職務・職階賃金制度の導入を画策したのです。経営側は、「技術革新と近代化が進んだ今日では、年功序列型の生活給は不合理である」、同じ仕事をしていれば誰でも同じ賃金がもらえる「同一労働同一賃金の原則にたった職能別賃金に」と、特に若い層を狙った宣伝をつよめてきました。


新社員制度導入の真のねらい

 職務給導入のねらいとするところは、一つには「合理化」の新しい段階のもとで、新しい型の差別賃金体系を再編強化することにあります。二つ目のねらいは、職階級差別賃金を前提とする職務給によって、元々少ないパイを労働者を競争させこのパイを取り合い、団結を妨げ仲間同士の分断を意図し、労務管理の巧妙な手法とし、職場を専制支配すところに真の狙いが隠されているのです。そして、オートメ化によりもっと高い能力で働けば賃金が上がるとし、能力主義賃金政策で更に生産性をあげ、労働者を絞り取ろうとする新しい武器にしようとしたわけです。更には、社員・賃金制度を改訂し、資格制度を取り入れ、どんなに優秀であろうが会社の方針に従順に従わなければ悪い成績査定をつける。評価が悪ければ資格は上がらず、賃金も頭打ちで上がらない仕組みへと、更に改悪を推し進めていくのです。


新社員制度のもたらした結果

 日経連がこうしたアメリカ式労務政策から学んだ新社員制度を企業が導入することにより、労働者同士を競争させ分断して、インホーマル組織を育成し強化していきます。労働組合を、会社防衛隊と称するインホーマルが独占し、労使一体の労働組合が作りあげられていきます。好況の時には、不況の時のために準備をして蓄えておくとして、賃上げを抑えて低賃金のまま措え置き、内部留保として貯めこんでおきます。そして、オイルショックや円高不景気がおとずれると、何次にも亘る人減らし「合理化」が強行されます。インホーマルに加盟し会社施策に協力してきた労働者は安全圏と思いきや、そうした人達にも「会社が苦しい時こそ協力しろ」と、容赦のないリストラの嵐が吹き荒れ、立場上職場を去らざるをえない状況に追い込まれます。

そして会社や労使一体で会社の尖兵となった労働組合の横暴に反対し、職場要求を取り上げ、真に労働者の立場で闘い活動する真面目で民主的な労働運動を進める活動家に対しては、差別賃金制度を悪用して徹底した賃金差別をおこなって来ました。本人のみならず、他労働者への見せしめ分断政策として、結婚しても社宅入居は拒否し、福利・厚生は勿論社内教育等、ありとあらゆる面で不当差別を行います。憲法違反の人権侵害や労働基準法を無視した不当労働行為も平然と行われました。正に現在で言うところのパワーハラスメント・いじめ以上の行為が大人の世界、企業という会社の高い塀で隔離された閉鎖社会の中で組織的に公然と行なわれていました。会社管理職いわく、「門を一歩入ったら、会社の塀の中では日本国憲法は通用しない」と、治外法権をうそぶく始末でした。



9、極め付けは労働運動の潮流間差別に

大径管
 アメリカ式労務管理の導入により、新社員制度への移行によって、日本古来の年功序列型の賃金制度が破壊され、さじ加減でどうにでも出来る賃金制度に変え、会社の方針に背いたり上司の気分次第で勝手に操作できる制度となりました。こうした中で、今迄記載してこなかった重大で看過できない問題が存在し残されています。
 企業がもの言えぬ職場の専制支配を目論み、労働強化や賃金抑制を押し付けられれば、当然職場に不満が生じます。仲間同士では不平不満を言い、一杯飲んではけ口に上司や会社の悪口を言い、うさ晴らしをして実際には何もせず、諦めてしまう労働者が大部分です。しかし、会社の方針に従順に従うイエスマンばかりでなく、骨のあるしっかりした労働者がいない訳ではありません。職場からの要求を取り上げ実現したり、労働条件を改善する闘いに立ち上がり献身的に取り組み闘う真面目で勇気ある労働者も存在します。

 労働者の拠りどころである労働組合が右傾化し、会社派幹部に独占されている中で、真に労働者の立場に立って闘う、民主的・階級的な労働組合を取り戻そうと日夜奮闘している労働者も居ます。組合役員選挙には、当然立候補し当選を目指して闘うが、会社のあらゆる組織とインホーマルが全勢力を注ぎ込む会社派右派候補との対決では当選することは出来ません。連合が支配する大経営の職場に、このように真の労働者の立場で闘う潮流が存在しています。この潮流に属する人物は、概して真面目であり優秀な能力の持ち主であるが、会社はこれらの人達に徹底した差別攻撃を行ないます。その実態は活動家への徹底した差別政策の極め付けと言えます。以下は、職場に自由と民主主義を確立するため裁判に立ち上がって闘った原告が、裁判所へ提出した陳述書です。どんな説明を加えるより、説得力を持つ内容であります。

(一原告が裁判所へ提出した陳述書の差別に関わる一部)

 1966年(昭和41年)夏の組合役員選挙で初めて支部の実行委員の選挙に立候補しました。職場の人達の声や意見を組合に正しく反映させ、組合員の権利と利益を守り要求を実現させる立場から、民主的な候補者として、会社派の候補と対立し選挙に出ました。41年の選挙では、支部機関紙担当として立候補しましたが、その後毎回組合役員選挙には、職場の真の声を代表する、民主的な候補者として立候補し奮闘しています。組合役員に立候補して当選し、役員として職場の意見や要求を労働組合に反映させ、働く者の権利や利益を守り、要求を実現し働きやすい職場を作り上げるために奮闘しましたが当選することはできませんでした。

 会社は職制会議で会社派推薦候補を決め、職制機構をフルに使い、又インホーマル組織を使って成績査定を盾におどしたり壊柔し、あらゆる会社機構と手段を駆使し、労務担当係長を中心に総力をあげて取り組みます。そして対立候補である私の当選を妨害しました。投票箱の中味を入替えたり書き替えたりといつた民主主義社会ではおよそ考えられない不正も行つています。私は労働組合の役員には当選できませんでしたが、一組合員として労働者の立場から要求を取り上げ実現するため日常的に職場活動を行い進めて来ました。

   不当差別が始まる

  私は昭和41年に、前述の通り初めて労働組合役員選挙に職場の声を代表する民主的候補者として立候補しました。それまでは格別低い査定や評価を受けたことはありませんでした。昭和42年春の定期昇給を境として、俄然他の同僚と明確な格差をつけられ低い評価を受けるようになりました。しかも、私の場合はその当時では考えられない、これ以上下げてはならない下限ギリギリの極めて低い評価に落とされたのです。

昨年の役員選挙立候補に当つて、当時のN作業長より強く「考え直せ」と立候補をとりやめるよう執拗に迫られる干渉を受けました。職制が組合役員選挙に介入すること自体が不当労働行為であると主張し、撥ねつけて立候補致しましたが、賃金差別はこの指示に従わなかつたことに対する報復として明確に現われました。私に対する差別の発端はまさに組合活動への積極的な参加の時期と符号する事が目に見える形で表れたのです。

 その後不当な差別は本給部分のみならず、他の賃金部分や一時金にも及び差別は年々拡大していきました。賃金水準の低さに加えて不当な賃金差別をし、生活権を犯し他への見せしめとして私達を苦しめている会社に、強い憤りを禁じ得ません。また資格の昇格についても不当な差別を受けております。勤続29年、会社の為に献身して来ましたが現在担当職、主務二級、見習い扱いという極めて残酷といえるひどい扱いを受けています。

 また技術教育、講習、資格取得の面に関しても不当な差別扱いを受けております。25年に全員で受けさせられた玉掛技能講習修了証を、同36年に仕事上どうしてしても必要な揚重機運転士適格者証(物資運搬エレベーター)を取得しておりますが、会社は電気技能適.格者証については、他の同期生、同僚と異なり、当然受ける順番にもかかわらず、一切講習の機会を与えられませんでした。私はこのような差別待遇にたいして再三抗議を続けてきましたが、会社は一貫してこれを拒否し、本裁判提訴直前の47年9月に、慌てて講習を受けるよう指名してきました。勿論この際は率先して受講し合格しています。さらに、研削砥石車(グラインダー)の取り扱い適格者証についても作業上、安全上必要であるにもかかわらず、私を暫時排斥し47年9月になってやつとその受講を認めたという状況です。これも会社が本裁提訴の動きを察知してからです。その他昇級、昇格に深いつながりのある中堅社員教育などに至つては、勿論私にその機会が与えられたことはありません。

また職場の同僚から私を引きはなすが如き卑劣な職場管理が行なわれております。例えば上司である工長の新築祝いには、私を除いてグループの全員(この中には当日休日の人も含まれていた)が呼ばれていました。私を職場八分にしようとするN作業長の指示によるものであることは、はっきりしています。

 私はこのような差別的待遇や賃金差別に対しいろいろと抗議をしてきましたが、会社側の対応は不誠実の一語につきます。例えば、賃金差別について上司である作業長や係長にその理由を問い質すと「評価は相対的に決まる」などとあいまいなことを述べ、理由を明確にしようとしません。さらに追及すると「仕事が荒っぽい」とか、あるいは「遅劾が多い」と言つた上司もありました。私は仕事の上でも仲間の労働者に、一目も二目もおかれるだけの能力を発揮し、生産組織の一員として協調し、同僚の支持を得るよう努力してきました。

会社は昭和49年3月、春闘時交通機関のストの影響で5分間遅れたことがありました。 この扱いについて「遅刻扱いか? そうでないのか ?」問い質すと、その判断を示さずに引き伸ばして一日待機させておき、結局私に対して欠勤扱いとした不当な事実があります。私以外の人でしたら何の問題にもしなかったのでしょうが、私が組合活動家であるが故に殊更不当な差別扱いをしたのです。低賃金の為生活は苦しいが会社の責任による不当な欠勤扱いは認められず、筋を通す為現在に至るまでの12年間、49年3月分の賃金の受領を拒否し、支払いを受けていません。生活に関わる重大な問題です

昭和45年3月中旬頃、K作業長は昼休みの対談中「何故成績が悪いのか?」という私の質問に対し、「組織に入っているから悪い」と述べたことがあります。私は、会社の気にいるインホーマルには属していないが、職場労働者の権利を守り利益を護る立場で労働運動をして何処が悪いのか。どんな考えを持とうが、思想信条の自由は憲法で認められ保障されているではないか、と正論を言うとK氏は困ってしまいました。私は「思想、信条による不当な差別である」とし、会社に対し調査と善処を要求する意見書を文書で提出しました。結局この件に関しては「証拠がない」としてウヤムヤにされてしまいました。

このように私に対する不当な差別は、数えあげれば枚挙がありません。そして現在も不当差別は是正されるどころか拡大強化されています。賃金でいえば、勤続30年で年収400万円、親子四人の最低限の生活を維持するのに苦慮する水準であり、同期入社の同療の平均水準と比較して差別額は一年間に約100万円になります。私はこのような会社の見せしめ、労務管理の柱としての不当差別を早期に是正解決し、真に仕事に打ち込める、明るく働き易い労働環境が整えられるよう望むものです。その為に裁判所の公正な判断とご尽力をお願い致します。

この原告への差別や攻撃は、活動家一般の誰もが受けている平均的で、まだましな方です。悪質な例な例を挙げると、田舎の親元へ上司が訪ねたり手紙を出して活動を辞めさせるよう脅迫する。又、婚約者の家まで行き、結婚を妨害する、子供の入学や就職を妨害する等々、数え上げたら枚挙にいとまがありません。

   民主的労働運動活動家への徹底した差別政策は国策であった

 こうした真面目な活動家への差別政策は、財界労務と言われた日経連(現在はその存在と役割がなくなり2002年5月、日本経団連に吸収)が中心になり作成された制度・方針で、国策でありどの企業でも取り入れ実施されていた労務政策の柱であった。しかし、その存在は分っていたが、企業の"厳秘"資料で実物は中々入手できず明らかにされてこなかった。この基礎資料に基づき企業内で作成に関わった人物からの資料の提供で、2000年石播の差別裁判原告に寄せられた厳秘資料によると、「A(共産党員)、B(その支持者)にランクされている者の昇格について、定年までの上限を昇給・昇格に関して平均的な「標準者」が30歳代に到達する職位に設定し、それ以上昇格させない管理を行なうため、活動家個別に定年までの各年度の職能点を決めるよう会社に指示していた。」(石播「切り拓いた勝利への道」より)と、資料が示すように、活動家に対しては定年まで、平均的な労働者の30歳代の資格と賃金水準という、ひどい差別政策が押し付けられていた事実が判明したのである。現在では、種々の企業のマル秘資料が見つかり明らかになってきているが、これ程ハッキリとあからさまな表現で差別を指示する資料は珍しいと言える。

NKKでは、鉄鋼産業の特質で、昔から一日24時間三(二)交替連続勤務で、50歳代の活動家の賃金は、同期入社の同僚と比較して年間200万円も低く査定されるという、ひどい仕打ちが行なわれていた。こうした企業の労務管理の柱として、思想信条による不当な差別政策を見せしめとして、労働者間の分断を図り職場を専制支配し、憲法違反の人権侵害・不当差別が続けられていたのです。



10、孫子の兵法と10回党大会6中総の方針

     アメリカ式労務管理は、嘗て財界労務であった日経連が、御用学者や労務管理の専門家を集め、アメリカ輸入の労務管理を下敷きに集団で検討し、財界の総力を挙げて日本の実情に合わせて具体化し作成された労務管理政策です。これが、各企業の労務担当者によって更に詳しく経営実態に合わせて策定、鎧が隠され職場に取り入れられます。これが実施されて行くと、とても階級的・民主的な活動家が個々バラバラにに対応していたのではとても太刀打ちできる筈もなく、全体的に押し込められ後退せざるをえませんでした。

 ケネディ・ライシャワー路線で行き詰った共産党は、1968(S43)年2月29日〜3月6日に、第6回中央委員会総会(第10回大会)を開催し、「労働戦線の階級的統一をめざす、労働組合運動のあらたなな前進と発展のために」と題する政策を決定し発表しました。ここで共産党の、労働運動に対する本格的で全面的な方針が確立され、現在でもこの基本政策は営々として生きています。この方針は、全く新しい資本の作戦攻撃に、未だ防御し闘う術を持たない労働者に、どう闘えば良いかの知恵を与えたものです。孫子の兵法を学び糧として作戦を立てる羅針盤の役割を果たす、大きな意味を持つことになりました。ただ、A4サイズで77枚に及ぶ大論文ですので、ここで全文を掲載する必要性はなく、私が関連する重要な部分をコンパクトに纏めた要旨を、以下掲載しておきます。

6中総では、労働組合運動の真の統一を前進させる四つの基本的な方針が提起されました。

孫子十三篇
(1)労働組合運動の全戦線で、労働組合の階級的、民主的強化の
活動をつよめ、労働者と労働組合の階級的団結をさまたげている
障害をとりのぞくこと。とくに「特定政党支持」の枠をやめさせ、
政党支持の自由政治活動の自由の原則を確立させる。

(2)労働者の切実な経済的、政治的要求にもとづいて、一致する
要求で統一行動を、全国的にも、産業別的あるいは地域的にもす
すめる。

(3)労働者と労働組合の統一をさまたげる、反共主義、分列主義、
労資強調主義の主張や行動に反対し、これを大衆的に克服する。

(4)広範な未組織労働者を、労働組合の階級的、民主的な諸原則
に基づいて組織する。

 というものであり、労働組合は、資本からの独立、政党からの独立を明確に掲げ、一致する要求で統一し、どんな組合であってもその中での多数派形成を目指していずれ主導権を獲得することを目標に努力し、分裂組合を結成して割って出ることを厳に戒め、未組織労働者を組織し、組織を拡大していくという内容です。
     
     10回大会6中総決定が提起され、ケネディー・ライシャワー路線によって停滞していた労働運動の分野でも、その方針の実践によって、一定の活性化が図られ活路も拓かれてきました。6中総の具体化の一例として、1969年2月から職場政策をつくり毎週一回門前で配布し労働者に呼びかけたものがまとめられ、1970年6月に「紙の弾丸」(ー職場政策とビラ宣伝活動ー)として発行・宣伝され、全国の経営支部組織に普及されました。これをキッカケとして、経営支部組織の「公然化」(74年)の方針化が準備され、自前で工場門前での政策・要求ビラ宣伝が組織されていきました。

 反面、公職選挙では共産党国会議員数の倍々ゲームと言われ、共産党と革新勢力が躍進していった時代的な背景も生まれました。1971年4月に行なわれた第7回いっせい地方選挙では、革新統一候補で東京都知事に美濃部亮吉氏が、大阪府知事に黒田了一氏が当選し、川崎・吹田・高松等の自治体で革新統一首長が勝利し、その後の革新自治体躍進のはしりとなりました。翌1972年12月10日に実施された、第33回衆議院総選挙で共産党は革新共同を含めて39議席と、沖縄人民党を合わせると40名となり、野党第2党に躍進しました。1973年4月には、民青同盟員が20万人を越え、日本の青年組織としては一大勢力に発展しました。同月末に行なわれた名古屋市長選で革新統一候補が当選、羽曳野市長選でも革新共同の候補が当選して、それ以前から存在する京都府知事、その後誕生した神奈川革新県政を含めて、文字通り革新自治体の太平洋ベルト地帯が形成されていきました。更に同年7月行なわれた東京都議選でも24議席(現有13に減)と躍進し、公明党の26議席に次いで第3党となりました。

 1974年6月(12大会 中総)で、「三つの自由」(@生存の自由A市民的政治的自由B民族の自由)が提起され、党内外の論議を経て内容を発展させてそれを集約し、1976年7月28日に開かれた、第13回臨時党大会で「自由と民主主義の宣言」が採択され、「職場の自由10ヶ条」も大々的に発表されました。そして、「職場に自由と民主主義を」が強調され、日立武蔵の女性労働者をガラスのオリと言われる隔離部屋に閉じ込められた事件を解決(76年8月)させたり、企業ぐるみ選挙反対の闘いが盛り上がっていきました。
 1976年10月には、「職場の自由と民主主義を守る全国連絡会」(職自連)が結成され、翌77年2月20(日)〜21(月)伊東のホテルで第一回全国交流集会が開催され「職自連」運動は全国の職場・地域に波及していきました。神奈川では79年3月4日に結成されました。

社会科学の思考法(唯物論的弁証法)

 この項では、職場の問題が主である筈なのに、企業の外の選挙や全国的な運動が強調され、職場問題が軽視されているかに感じられてるかもしれません。その関係を理解して頂く為、社会科学の思考法を若干解説しておきます。

    唯物弁証法の思考法

@ 物事は絶えず変化し発展する
  平家物語に「諸行無常」という言葉がありますが、世の中の一切のものは常に変化して、永久不変なものはないということです。世界は絶えず運動し、変化し発展しているといえます。併せて人間の思想や意識も変化し発展しています。一時的には反動化・後退する事もありますが、長い尺度で見れば確実に発展し前進しています。民主主義と言う観点でも、明治時代と現在では大きな進歩があります。

A 全面的な見方
世界の全ての物事・現象は、それぞれ個別に発展しているのではなく、たがいに結びつき関連しあって発展しています。そして、物事や現象の変化を反映して、人間の意識や思想もたがいに影響しあって変化していきます。

B 対立物の統一の法則
敵対し対立する二者は、相手より勝ろうと切磋琢磨しますから、物事の発展の原動力であり核心です。発展の原動力は、物事の内部にあり、自己運動によって変化します。外部からの働き掛けや力は、物事の変化・発展を促したり妨げたり影響は与えますが、原動力にはなれません。例えば、議員が靖国神社へ参拝に行けば、中国や韓国から激しく非難され、国民が批判するより神経を尖らせます。しかし、こうした議員を無くす事は、選挙で落選させる日本国民しか出来ません。

C 量的変化と質的変化、その相互変化
水を加熱していくと、100°Cで沸騰し、蒸気という気体に変化します。逆に冷やしていくと0°Cで凍結し氷という固体になります。水はいきなり沸騰はせず、温度と言う量の変化が進み、蒸気と言う質的変化が準備されます。100°Cで沸騰し蒸気になりますが水と違い爆発的なエネルギーを出します。質的な変化が飛躍です。

D 否定の否定の法則
マイナスとマイナスを掛ければプラスになります。「無い筈はない」と言えば「有る」事になります。ただ、弁証法的な否定は、古いもの・反動的なものを否定し、新し物・積極的なもの・進歩的なものを引き継ぎ発展させる、肯定を含んだ否定でなければなりません。

   まとめ
 唯物弁証法の概略を説明しましたが、職場の内部の変化前進は、基本的には職場の内部で多くの労働者が自覚を高め発展させるのが中心ですが、BCで示したように外部からの力や変化も大きく影響します。又、今回の選挙でも明確なように、前進したり後退し逆戻りしたりたり、直線的に前進するのでなく、否定の否定によって、らせん状を描いて進むことになります。

 このように、10回党大会6中総決定は、一政党の提起した方針ではあるが、1960年を起点として始められた労働者に対する資本の本格的な攻撃と、ケネディー・ライシャワー路線によるアメリカ式労務管理によって押し込められていた労働者に、孫子の兵法とも言うべき明確な闘う羅針盤を示した事になります。そして、逆に押し返し反撃し攻勢に出る出発点として、労働者と民主勢力を励まし、70年代に力を発揮し革新勢力が躍進する基盤をつくる役割を果たしたと言えます。


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職場に自由と民主主義の旗を掲げて


11、職場の自由と民主主義を確立する攻勢的な闘い

   (1973年4月9日〜1988年3月23日  15年)


1、日本で最初に人権裁判提訴に起ち上がる

人権裁判
 日本鋼管人権裁判は、1973(昭和48)年4月9日、日本鋼管(以下「NKK」という)が行ってきた憲法違反の人権侵害と思想信条による差別を撤廃させるため、民主的な労働組合運動活動家が、自らが勤務する会社を相手に職場から裁判提訴に決起した、画期的な闘いである。この日、思想信条によって苛酷な昇格・賃金差別を受けてきた35名の労働者と、首都圏を中心に65名の弁護団が代理人に名を連ね、日本で最初に思想信条による差別の撤廃を求め、日本鋼管人権裁判(以下「人権裁判」という)を横浜地裁川崎支部へ提訴し、弁護団代表と35名の原告全員が揃って裁判所へ出向き、訴状を提出して闘いの幕は開きました。

 差別争議は、NKK労働者が最初に差別撤廃闘争の先陣をきり、これを機に その後73年12月に小田急で、74年6月全税関横浜支部が、76年10月には東京電力やNKK鶴造が闘いに立ち上がり、神奈川を中心に差別撤廃の闘いが連続して起こりました。そして、中部電力や電機・自動車・重工等あらゆる産業に連鎖し、全国に波及していくといった歴史的経過を辿りました。

 人権裁判は、憲法違反の人権侵害と思想差別をなくし、”職場に自由と民主主義”を正面に掲げた闘いでしたが、具体的には思想信条による昇格差別・賃金差別を是正し、社内で仕事に必要な教育や研修からの排除と資格を取得させない、果ては社宅入居差別や私生活への監視や干渉等々、人権侵害やありとあらゆる差別を撤廃させることにありました。私達の戦いは、資本が行なうアメリカ式労務政策・思想差別を打破し、職場に自由と民主主義を確立し、自由にもの言える明るく働き易い職場をつくっていくことにありまた。そしてこの闘いを通じて職場は勿論、全国津々浦々に憲法の風を吹かせ、自由と民主主義を定着・発展させる闘いであり、多くの原告が自らの問題としてだけでなく、そうした大志を抱いて起ち上がり、その実現を目指し理想に燃えて奮闘する闘いでした。

2、百年戦争も辞さず

 横浜地裁川崎支部の旧庁舎は、木造平屋建てでだだっ広く、夏は冷房もなく汗だくで法廷での闘争が始まりました。当初は「次回期日は4ケ月後」という訴訟指揮で、年3回しか公判日が入らず、総論立証から35名の個別立証を終えるには、100年戦争も辞さず、先の見えない時期もありましたが、それでも必ず勝利する気概で奮闘しました。

   裁判長忌避を行い闘う
 強圧的で企業よりの訴訟指揮を改めさせるため、裁判長忌避を行う戦術も取りました。この時代は、労働者や労働組合、弁護団や革新勢力に全体として闘いを攻勢的に進める活力と勢いがあり、川崎支部だけでなく、横浜地裁や小田原支部で闘う争議団・弁護団とも連携し、被告会社に有利な訴訟指揮を執る悪質な裁判長を忌避する共同作戦も組みました。裁判長の忌避を申し立てても、審理するのは同じ仲間の裁判官ですから、忌避が認められる事はありませんし、審理が1年近くストップし停滞しましたが、結局その裁判長は他へ飛ばされ、神奈川から追放の形で事実上の忌避作戦は成功し、後任の裁判長は「ものわかりのよい」姿勢の裁判官に代わるといった闘いの積み重ねで、法廷闘争が進行するという経過を辿りました。 法廷での闘いは勿論、法廷外で世論に訴え社会的に包囲する闘いと併せ、毎月1回一日を確保させ、一期日一原告を終わらせる(原告・会社側あら捜し証人2人の主・反対尋問を一日で終わらせる)ところまで前進させ、法廷での進行を迅速化させるに至りました。

3、反撃の機運は熟していた

 ケネディーライシャワー路線によって、いったんは後退を余儀なくされた労働者も、孫子の兵法とも言える6中総の方針が提起されると、元々勤勉な活動家は勉強して身に付け職場の中でも資本の攻撃に反撃する力を付けてきました。同時に、企業の塀の外では、選挙で革新勢力が躍進する明るいムードが漂ってきました。そして、大企業の排出する公害や勝手な工場移転など産業の空洞化政策に対して、市民の目も厳しく、行政もその声を無視できない状態も存在しました。こうした状況下で、労働者は励まされ更に革新の前進という相乗効果の歯車が噛み合い、労働者にとってうまく回転する方向へ進んでいた時期といえます。こうした中で、厳しい闘いではあるが、頑張れば展望が見出せ、自由と民主主義を獲得し定着させる運動と闘いは、全国へ広がる情勢に合致していた提起と言えます。

4、闘いの経過と勝利の要因

  弁護団と団結し会社を圧倒する法廷闘争
法廷では、原告団と弁護団が団結した闘いを展開、強力な弁護団の献身的な活動に支えられ、法廷闘争を有利に進めて被告会社を追いつめました。法廷内での腕章着用闘争や反動的な裁判長を忌避して法廷が一年間空転するなどの事態をおそれず、司法反動化との真正面からの原則的な闘いをすすめました。原告が証言台に立つ前に、担当弁護士と原告の職場の仲間数人が堀の内の安旅館へ泊まり込み、集団で討議し尋問に当たる周到な準備を行いました。 また「差別」裁判としては全国で初めて、現場検証を実施させ、バスで原告の職場を一日かけてまわり、裁判長をして「百聞は一見にしかずですね」と言わしめた。原告に同行の被告会社労務は「原告にすっかり点数を稼がれた」となげくなど、職場での活動家の説明は室長(課長)に優る有能ぶりを証明する結果となりました。こうした実体を見た職場の労働者は、原告に対し改めて信頼を増す副次的な効果も与えました。

   職場を基礎にした果敢な闘い

 職場の闘いも重視して取組みました。NKKが活動家にたいして加えている差別が”見せしめ差別″であり、人権裁判が活動家対会社の争いではなく、すべての労働者の闘いの集約であるとの理解を求める宣伝をおこないまた。そして現実に、労働者の切実な要求を実現していく闘いの先頭に立ちました。具体的には、NKKがおしすすめている全社で8000名の人減らし「合理化」に反対する闘いはもちろん、労働災害かくしの摘発、サービス残業や出向、配転・退職強要をゆるさないための″職場の110番運動″など、労働者の生活と権利をまもる闘いの先頭に立って奮闘しました。
1987年12月4日、職場から二次提訴団115名が決起し、支援団体をふくめ250名を集めて結団式をおこない、陳述書もそろえていつでも提訴できる体制をかためて解決をせまったことが、会社に和解の決断をさせる大きな力となりました。

   会社を追い詰めた社会的包囲の闘い

 法廷闘争と職場闘争を基本に闘いを強めるとともに、地域や闘う労働組合、民主団体の仲間と連帯し、NKKの横暴を社会的に糾弾する闘いを重視し、大きく急速に発展させてきたことが会社に全面解決を決断させる大きな要因になりました。NKKでは、人権裁判提訴の一ヶ月前の3月15日、同じ京浜製鉄所において「周辺業務」の外注化の受け皿としてNKK100%出資の新会社を設立し、(解雇移籍し同じ仕事をしても賃金は三分の二にする)を強行したが、これに反対して松島千恵子さんが女性差別による解雇撤回の裁判闘争をおこなっていました。同じ資本を相手に、同じ場所で闘われていたにもかかわらず、人権裁判と結合させ有機的に闘うという方向での認識がこの時点では不足していました。

   労働戦線の統一と神奈川争議団運動の相乗効果

  この闘いは、後に「神奈川争議団」の項で詳しく触れる事になるが、その背景に労働戦線統一の激しいつばぜり合いの時期に闘かわれ、好むと好まざるとに関わらず、否が応でもその影響を受ける事になるが、依拠する陣営や勢力、つまり「軸足」を決めて対応せねばならない時期でした。人権裁判原告団が所属する京浜労組は連合路線で、前記したように労使一体で「妨害はしないが、精神的な支援」という態度で、全く頼りになません。こうした背景のなかで、人権裁判争議団は、統一労組連絡会議(現神奈川労連)や闘う労働者・民主勢力に依拠し連帯して運動を発展させるという「原則的な闘い」をすすめてきました。金属反「合」闘争委員会からの神奈川への共同行動のよびかけは、差別の闘いを通してとりくまれてきました。全金傘下の争議組合・争議団が中小組合であり、また金属連絡会に結集する組合として、自らの争議をつうじて自覚的・階級的労働組合のありかたをもっとも切実にもとめて、右翼再編の策動に対決していた。したがって東京における金属反「合」の共同行動への参加は、自らの争議解決をめざす要求とともに、右翼労戦に対決の行動としての意義をもっていました。こうして全国規模の闘いの現場となった神奈川で、神奈川争議団はもとよリ神奈川労組連絡会議をはじめとする県内の自覚的・階級的労働組合は、金属反「合理化」闘争委員会との共同・連帯をつよめることになったのです。

  金属反「合理化」闘争委員会との共同・連帯の端緒は、全金気工社 と日本鋼管関連争議団によって組織されました。当時県内には、日本鋼管関連争議として思想信条差別と闘う日本鋼管人権裁判原告団、女性差別蟹雇の松島闘争、潮流間差別として地労委で闘う鶴見造船「差別をなくす会」、そして系列下の全金気工社の中村解雇闘争の四争議がありました。これら四争議団は、日本鋼管という共通資本にたいする共同闘争を積みかさねてきました。
  9年後の1982年7月、松島裁判が不当判決を受けて総括し、態勢の立て直しを図る時期であり、四争議団のなかで女性差別解雇の松島闘争を重点課題として位置づけ、「松島支援共闘会議」の結成に大きな力を払うことになります。そして2年が経過していたが、1984年6月、川崎産業文化会館大ホール満杯の1600名を集め、6・20大集会を成功させ、同時に「松島支援共闘会議」を発足させました。そして、主要な役員には、金属反「合理化」闘争委員会の委員長を迎え、神奈川の主要な組合や闘う組織の、闘争経験豊かな幹部を揃え、勝利に向けて大きく踏み出すことになります。そして松島争議は、1986年2月に東京高裁で勝利的和解を勝ちとることができました。

  その年、松島闘争の勝利和解の調印を経て継承発展させ結成された「日本鋼管差別争議支援共闘会議」(日本鋼管人権裁判原告団・鶴見造船「差別をなくす会)は、議長には東京から金属反「合」闘争委員会の石川委員長が就任し、事務局長には、神奈川から三瀬勝司氏がすわり、争議経験豊かで実践的で強力な支援共闘が結成される運びとなりました。争議団共闘会議との協力・共同の関係は、個別争議団の闘いをとおして、いっそう緊密なものとなりました。「軸足」論からみれば、独占大企業の生産現揚が集中する神奈川県で、資本の攻撃と右翼的労働組合運動と対決して闘ってきた神奈川争議団共闘会議が、統一労組連絡会議をはじめ金属反「合理化」闘争委員会との協力・共同関係をいっそう強めたことは必然的であったといえます。特に、全国的に注目を集めた日本鋼管京浜製鉄・同鶴見造船・池貝鉄工・日産厚木の争議が神奈川に集中し、画期的な全面勝利解決をおさめたことは、神奈川争議団共闘会議の運動路線のうえからも特別の意義あるものでした。

5、構築し発展させた運動の主なものを集約すると

@ 大集会 1600人を集め川崎産業文化会館大ホールを満杯にする集会を2回。
A 本社への抗議要請行動。
B 共同行動・独自行動(その規模は最低100名程度から最大規模で700名)を数多く取組んできた。
C 主要取引銀行である富士銀行本・支店への恒常的・集中的な要請宣伝行動。
    役員宅要請行動
  定期要請行動・・・・・大晦日例年
  重要局面・・・・・・・一斉巡回
D 全国総行動二回 雪の札幌から九州まで。
E 鋼管独自の総行動(2回)で東京本社への抗議行動。
  鉄の闘う仲間(産業別)の結集と(造船)とのドツキング。
  通産省・鉄鋼連盟・アメリカ大使館などへの要請。鋼管関連国会議員要請。
F 鋼管の人減らし「合理化」反対・産業「空洞化」に反対する「川崎市民会議」の結成と運動。
G 裁判所への要請行・・・・・署名・傍聴動員。
H 社長宅へのジャンポハガキ作戦
 など可能なかぎりの知恵と力を出し、数多くの運動を構築しました。

 原告の奥さん達を集めた社長宅要請行動では、活動家の婦人を中心に女性だけで社長に面会し、夫の給与明細書を示して「これでは生活できない。早く解決してください」とせまり、女性ならではの力を発揮し、「思想差別はいかんね。早期に解決したい」との社長の言明を引きだし、争議解決へむけて大きなレールを敷くことにつながりました。
差別争議では初めての全国総行動をおこない、全国一四カ所各県に散らばるNKKの事業所と支店および富士銀行支店へ2回、要請宣伝行動を行い成功させました。
 こうして、支援共闘会議結成から二年で全面的な解決をおさめ、一五年にわたる人権裁判争議の勝利的和解にこぎつけることができた。鋼管の差別争議全面解決にむけての社会的糾弾の運動面でいえば、差別撤廃という新しい労働争議としては高い運動の到達点をつくりだすことができたと言えます。

6、1988年3月23日和解成立

    和解協定の主な内容

@ 会社は解決金を支払う。

A 在籍原告等の賃金と社員資格を調整する。

   というものであり、原告以外の活動家に対しても、原告に準じて若干の調整が行われた。

  日本鋼管人権裁判の総括は、何故か組織的には行われていない。その理由は終結後十数年経った集会で、担当弁護士の口から人権裁判に起ち上がる経過が報告され明らかになるので有るが。私が人権裁判の闘い全体を分析し総括した文書は、1990年12月1日に刊行された「闘いは奔流となって」という、数人で共同執筆し出版した本のトップレポートで「日本鋼管人権裁判一五年の闘い」として、始めて個人論文として発表掲載されている。既にその2年以上前に或る組織へ提出したが、お蔵入りとなり眠っていたことになる。私が独自に総括した内容であり、当初は運動や闘い・組織的に不十分な点や批判も含まれていた。しかし、外へ向けて発表するとなると、闘争相手である会社労務や他企業の労務屋の目にも触れる事になり、後続する差別争議に悪影響を与えることを危惧した。従って、そのような内容は削除して整理し、3分の2程度に短縮し纏めたものである。この連載が今後どう展開していくか、その時点で検討を加え対応を試みたいと考えている。




12、画期的な伊達判決を引き出した坂田茂氏が逝く

   (1959年3月30日〜1975年2月3日  16年)


   物事は、先ず足元を固め、報告していく事から始めねばなならい。2月20日の東京新聞訃報欄を見て、坂田茂氏が亡くなったことを知り、次は、氏が被告として関わった砂川事件を取り上げ、報告しておく必要性を強く感じた次第である。以下、砂川事件と、私が知る坂田茂氏像を記載しておきたい。

    砂川事件第一審判決

日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約第3条に基く行政協定に伴う刑事特別法違反事件

砂川闘争
    東京地裁昭和32(特わ)第367号、368号

      1959(昭和34)・3・30判決

       被告人 7名

        主   文

「本件各公訴事実につき、被告人らはいずれも無罪」

        理    由

 東京地方裁判所(裁判長判事・伊達秋雄)は、1959年3月30日、「日本政府がアメリカ軍の駐留を許容したのは、指揮権の有無、出動義務の有無に関わらず、日本国憲法第9条2項前段によって禁止される戦力の保持にあたり、違憲である。したがって、刑事特別法の罰則は日本国憲法第31条に違反する不合理なものである」と判定し、よって、被告人等に対する各公訴事実は起訴状に明示せられた訴因としては罪とならないものであるから、刑事訴訟法第336条により被告人等に対しいずれも無罪の言渡をすることとし、主文のとおり判決する。と、画期的な全員無罪の判決を下した。(裁判官 伊達秋雄・清水春三・松本一郎)(東京地判昭和34.3.30 下級裁判所刑事裁判例集1・3・776)ことで注目された(伊達判決)。これに対し、検察側は直ちに最高裁判所へ跳躍上告している。

 この7名の被告のうち4名は、私が勤務していた日本鋼管(株)の社員で、内3人は度々顔を合わせた知人であり、その中の1名が私の良く知る坂田茂氏(享年82歳)であった。坂田氏は、同じ会社ではあったが、裁判解決後職場復帰したが、離れた場所にいたので時々顔を合わせる機会は有ったが、違う職場で会ったため親しく話し合う機会は少なかった。年齢は私より一回り上で友達つき合いとは言えないが、気さくな性格で面倒見が良く「Sちゃん」と、気やすく接し、頼りがいのある先輩であった。

   砂川事件とは

 砂川事件は、1955年から1957年にかけて、東京都北多摩郡砂川町(現在の立川市内)のアメリカ軍の立川基地拡張に対する反対運動をめぐる一連の事件である。特に、1957年7月8日に特別調達庁東京調達局が強制測量をした際に、政府は、装甲車、武装警官を動員、基地内の民有地に立ち入り、測量を強行した。その際、基地拡張に反対するデモに参加した学生や労組員七人が境界のサクをこえて基地内に数m立ち入ったとして、デモ隊のうち7名が日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約第六条に基づく施設及び区域並びに日本国における合衆国軍隊の地位に関する協定の実施に伴う刑事特別法違反で起訴された事件である。

 この頃、日本鋼管の労働組合は、労働者や国民の権利と利益を守る立場にあり、基地拡張反対運動のデモに、組合動員として派遣され参加していた。デモといえば集団の示威行動であるから、前方に居た坂田氏ら七人は、後方から押され基地内に脚を踏み入れたようであったが基地内に入ったのは、わずか数歩くらいだったと聞いている。普通なら、軽犯罪法違反程度の事件である。だが、米軍基地ということで、安保条約に基づいて作られた、罰則の重い刑事特別法が適用され7人が起訴されたのである。

   アメリカからの猛烈な圧力

2008年4月29日、機密指定を解除されたアメリカの公文書の調査から、新たな事実が判明した。解禁文書は、米国立公文書館で入手したもので、米軍駐留違憲判決に対する米側の衝撃ぶりと、今日に続く、憲法法体系と相容れない安保法体系を無批判に受け入れる日本側の異常な対米従属ぶりが示されている。東京地裁の「米軍駐留は憲法違反」との判決を受けて当時の駐日大使ダグラス・マッカーサー2世が、同判決の破棄を狙って外務大臣藤山愛一郎に最高裁への跳躍上告を促す外交圧力をかけたり、最高裁長官・田中と密談したりするなどの介入を行なっていた。跳躍上告を促したのは、通常の控訴では訴訟が長引き、1960年に予定されていた安保改定に反対する社会党などの「非武装中立を唱える左翼勢力を益するだけ」という理由からだった。そのため、1959年中に(米軍合憲の)判決を出させるよう要求したのである。
 米国からの指令どおり、日本政府は、過去に一例しかなかった最高裁への「跳躍上告」を行った。「日本政府が迅速な行動をとり東京地裁判決を破棄すること」を求めた大使の要求に応えたものである。米大使と密談した当時の田中耕太郎最高裁長は、直接裁判長を務め、当時三千件もの案件を抱えていたにもかかわらず、砂川事件を最優先処理、「迅速な決定」へ異常な訴訟指揮をとった。そして期待されたとおり、一審判決を破棄、東京地裁へ差し戻した。

   最終判決

この事件は安保体制と憲法体制との矛盾を端的に示す政治的に極めて重要なものであることから大いに論議を呼び、特に最高裁判所の判決に対し強い批判が浴びせられたが、日本国憲法と条約との関係で、最高裁判所が違憲立法審査権の限界(統治行為論の採用)を示したものとして注目されている。
 田中の差し戻し判決に基づき1961年3月27日、東京地裁(裁判長・岸盛一)は再審で罰金2000円の有罪判決。1963年12月7日、最高裁は上告棄却を決定し有罪が確定した。

    坂田茂氏のその後

 安保条約と言う不平等条約、アメリカの属国である日本の政治の狭間で、氏の人生は翻弄されることになる。アメリカの圧力による日本政府の対応もさることながら、日本経済は発展途上であり、日本はアメリカの主導するIMF(国際通貨基金)より経済的援助を受け経済復興を図る時期であった。その金を借りて設備投資を行う会社は、二重三重にアメリカによって拘束されるという状況下にあった。普通なら間違えて他人の土地に入った程度の、たかが軽犯罪法で解雇されることはないが、アメリカの属国という不平等条約の下、刑事特別法によって起訴と同時に解雇となる。それでも組合動員で、組合の任務で参加した集会であり、給料は組合から保障され生活は一応維持されたが、それもアメリカの圧力の下での裁判所で不当判決が出されると、組合も会社に屈し、給料の支払いを停止するという態度に変わる。

    職場復帰から市会議員へそして職場で

  東京地裁で差し戻し裁判の判決が確定する1960年代半ばを過ぎ、数年が経過すると労働者・労働組合の巻き返しの力も徐々に回復してくる。日本大使もマッカサーから代わり、時間の経過がもたらす情勢の変化が現れてくる。元々罰金2000円の判決で軽犯罪法並みの処分に過ぎない。坂田氏は、解決交渉で和解し職場復帰を果たし、昔の仲間のもとへ戻り仕事に就く。前記したように、70年代になると職場労働者も力を付け、選挙では革新勢力が躍進して、世情も明るいムードへと開けて行く。坂田氏は、元々人当たりも良く、面倒見の良い人物で信頼もあり他から推薦され、川崎市中原区の選挙区から立候補し高位で当選、政令指定都市の市会議員として市民の立場で活躍する。
 だが、2期目の選挙では、その活躍と人気が仇となる。地元の地盤で人気が良いのは当然である。しかしその十数倍の広い選挙区で、全体的な情勢分析を誤れば選挙には勝てない。木を見て森を見ない周囲の選挙参謀の楽観論により、情勢分析の失敗で落選したのである。氏は再度議員に挑戦することなく職場へ戻り、仲間と打ち解けてコツコツと仕事をし、無事定年を迎えた。坂田氏は職場が好きであり、それが合っていたのであろう。(坂田氏の冥福を祈り合掌)



13、三六協定での”六さん”のたたかい

   (1967年7月7日〜1976年7月   9年)


1、はじめに

工場風景
  装置産業である製鉄業の工場は、小さな町がスッポリ入る広大な地域に生産工程に沿って工場が建てられ、嘗ては1万2千人の従業員が働き、更に構内に下請企業が散在しており、正に一町村の規模に匹敵するマンモス工業である。従って職場が違えば、同じ会社に数十年籍を置きながら、定年まで全く名前も顔も知らないまま過ごす人達が多い集団でもある。”六さん”こと、渡辺六視氏の闘いは、私がまだ文学青年で世事に疎かったころ始まり、9年という長い闘いの後半に知り最終盤に関わった事件である。

 しかし、前記人権裁判の提訴を機に、会社は差別の実態を裁判所に覆い隠すため、明らかに差別と判明する社宅入居等については、軌道修正を余儀なくされ方針の変更を迫られていた。希望者や結婚を控えた人には社宅への門戸を開かざるを得ない状況が生じていた。私が結婚し入居した借り上げ社宅は遠距離ではあったが、偶然にも六さんの自宅に近い所であった。従って、地域でも顔を合わせ、種々の行事や活動などでも、お互いの夫婦が一緒に参加して懇親会など行うという、親しい関係にもなったのである。六視氏は既に11年前、68歳で逝去され、告別式には夫婦で焼香に参列している。氏に関する資料の一部が見つかったので、追悼の念を込め”六さん”の闘いを報告しておきたい。

2、渡辺六視氏の不当処分反対闘争

 「渡辺六視君を守る会」の第一回総会、1967(S42)年10月10日における資料は、”六さん”こと渡辺六視氏の不当処分と提訴に至った経過について次のように述べている。
    渡辺六視君に不当処分がかけられた背景と今日までの経過
  鋼管川鉄の労働者、渡辺六視君が、去る7月4日から11日までの7日問、出勤停止の不当処分をうけたことは、すでに皆さんはご存知のことと思います。処分の理由は、今年の1月20日にたった一日残業をせず定時間で帰ったことを主な理由として、その他、日常誰でもが行なっている普通の行動を故意にこじつけて処分の体裁をつくろったまったく不当なものです。例えば、「作業中にパンを食べた」、「作業中に歌を唄った」、「門前でチラシを撒いた」、「指名者以外は運転してはならない、バッテリーカーを運転した」等々、まったくばかげたものです。六さんは、1月13日に上司に対し、1月16日から20日までよんどころない理由から、定時間で帰してもらいたい旨申し入れておきました。ところが職制は、「正当な理由にならない」として1月16日の1日だけしか認めませんでした。六さんは、上司に対し、私も出来るだけ残業が出来るよう努力するから、職制も定時で帰れるように努力してほしいと再三、再四頼み、1月17、18、19日の3日間は、残業に協力して来ました。 ところが1月20日は、日程的にどうしても定時で帰らないと問に合わないため、当日六さんは、今日定時で帰してほしい旨再度上司に申し入れたところ前述の理由(正当な理由にはならない)をもってこれを認めようとはしませんでした。1月20日六さんは、やむを得ず定時で帰ったのです。この事が、今回の六さんに対する処分の主な理由になっています。

3、攻撃の本質は労働者の権利侵害

 この処分理由のなかで、超過労働拒否のほか、ビラまきやバッテリーカーの運転、欠勤、労働歌を唄ったなど、種々の理由をあげている。このことは一つには、会社が役付に命じて活動家の行動を監視させ、克明にメモをとらせていたことを意味するし、残業パンが出る以上、仕事中パンを食べることは有り得ることで、まして歌をうたうなどは当時としては特別に奇異なことではなかった。またバッテリーカーは指名者以外の運転禁止であるのに動かしたというが、これはのちに第一回公判で指示が不確実であったことが明らかにされている。だからこれらの理由はいわば付け足しにすぎない。この処分の本質は、前項で述べた、倉崎氏や金木氏の欠勤届けを受理せず処分したことにみられるように、労働者の政治活動と権利に対する侵害である。問題の1967(S42)年1月20日、定時で帰ったことに対し、残業を拒否したとしているが、これとて10日ほど前から、一週間は定時で帰りたいという個人の事情に対し、1日だけしか認めないとして拒否、らちがあかない交渉の末のことであった。

4、労使一体で長時間労働の強要

  当時、労組と会社間の三六協定で、製管工場では恒常的な残業がおこなわれており、多い職場では毎日2時間で、二交替制であった。だから一日24時間中、昼勤10時間、夜勤10時間で、交替時の2時間にロールの組み替えや機械の整備をおこなえば極めて効率よく工場を運転することができ、いわば二交替制で人を増やさず、三交替制と同じ効果をあげることができるのであった。だから組合との三六協定で、労働者に月数十時間、多い人で100時間近い残業が強いられ、会社はこの半強制の残業で労働者の搾取率を高めることができたのである。このような二交替制の非人間的な勤務は当時の八幡製鉄など同業種ではあっても例のない過酷な労働条件であった。一方、労働者の側も基本給は低賃金に据えおかれるなかで、月の半分は夜勤となり長時間残業で、深夜・残業割り増し賃金となり、長時間残業勤務ではあってもで収入が増えることを歓迎する空気があったことも事実である。

  この問題をめぐっての組合の見解は会社側の主張を認め、処分を是認したものであった。組合機関紙「川鉄新聞」689号(1967年7月20日)は本部の執行委員会と支部職場委員会の間で検討し処理してきたとし、その所見のなかで「超過労働協定は、労働基準法三六条に基づいて会社と労働組合とが生産計画に対応して、四半期毎に協定するものであり」という書き出しで、公民権行使について便宣を与えなくてはならないという規定はまったく存在しない、と断定した上で、第五項で「以上の考察から渡辺がいう『定時帰りをするのは本人の自由だ』『これを規制するのは権利侵害だ』とする主張は全くこれを容れる余地はないというべきである」と述べ、ついで第五項で上司である佐藤作業長の言い分を全面的に認めた上で、「勝手に職場を離脱し、定時帰りを強行したことは、誠に遺憾であり、企業内秩序及び、職場規律の維持確立、更には労使問の協定尊重という観点からも、許されるべきではなく、情状としても特に重いといわざるを得ない」と結んでいる。

5、働く者の権利と職場の民主主義を守るために

  組合の見解は、渡辺氏を渡辺と呼び捨てにした上で、情状としても特に重いといわざるを得ない、と検察官の論告を思わせる調子で、会社側の所見かと見まがう内容であった。これについて次号の「川鉄新聞」第690号(1967年7月30日)に木原敏昭氏は投稿して、三六協定についての本部見解を反駁するとともに、嵐のような独占資本の「合理化」攻撃のなかで、労働者の権利を守ることの重要性を強調した。法律は、解釈するためにあるのではなく、権利を守るために活かすべきものであり、渡辺君の懲戒をめぐる組合の見解は、残念ながら解釈する立場に立ったものであり、労働者の権利を自から手放す道につながるものとして再考を訴える、とその投稿を木原氏はむすんでいる。

6、三六協定で残業は強制できない

  この渡辺氏の不当処分に対して、1967(S42)年7月7日、出勤停止の期間の賃金の支払いと、始末書提出の義務が存在しないことを求めて横浜地裁に提訴した。主任弁護士は増本一彦氏であった。また、この事件以後の判例は時間外労働協定があるからといって、残業を強制的に命ずることは許されないことを示した(明治乳業事件、東京地裁、1969(44)年5月13日判決)。時間外労働協定は、残業はさせても罰則規定ではないことが明らかになったので、法廷での公判進行にも有利に作用したのである。提訴以来9年間の裁判闘争の後、1976(S51)年7月和解に達し解決した。この和解文のなかで双方ともこの内容についての宣伝行為は行なわないとしているので、和解内容については省くが、提訴側が納得できるものであったことは言うまでもない。

 この渡辺氏の処分を撤回させるための裁判闘争では、「渡辺六視君を守る会」が中心となり、和解解決を勝ち取るまでの9年間、ねばりづよく闘ったがこの教訓は、前記した人権裁判の闘いに引きつがれていくのである。



14、時を打ちつづけて(女性差別解雇事件松島裁判の記録)

   (1973年3月15日〜1986年2月7日  13年)


松島裁判
 企業のリストラには種々の形態があるが、不況になったり経営が困難になると、経営者は先ず社員を減らし人件費を削減する事しか考えない。有能な経営者であれば、この機に新製品を開発して設備投資をし、事業を拡大して難局を乗りきる努力をするが、日本の経営者は無能、一つ覚えで働く者を犠牲にする安易な首切りしか頭に浮かばない。せいぜいその人減らし「合理化」の、方法と形態が多少違う程度のものである。身近な職場で起こり、企業の利潤追求と、病弱者・弱い者いじめと女性差別は許せず、支援し共に闘った女性の闘いを紹介しておきたい。

   不当解雇の背景

 日本鋼管株式会社(現・JFEスチール・以下「NKK」という)は、1971年の暮れには不況、減産を理由に、川崎や鶴見の高炉、川崎の転炉などの設備休止をおこない、1700名におよぶ人減らしをはかったうえ、さらに1972年の2月には最高時550万トンの粗鋼を生産した京浜製鉄所を『360万トンに減産しても見合う人減らし』と称して6000人の大量人減らし「合理化」を組合に申し入れてきた。この年の正月、社内のPR誌『こうかん』や『けいひん』で日本経済の危機、会社の危機を強調しながらその情勢を最大限に利用して「発想の転換」で「身軽な製鉄所をつくろう」と呼びかけ抜本的な人減らし攻撃の態勢を構えたのである。対象は作業系の労働者で、一番やめてもらいたい中高年労働者にたいしては1973年3月末までと期限を切り、退職金に特別加算金を年齢別で50万円或いは80万円上乗せするからと迫ったり、9月には群馬県のスバル大田工場に225人の労働者を派遣したりして、退職を強要した。

     「周辺業務」労働者の首切り提案

 扇島建設に名を借りた6000人の人減らし「合理化」の嵐のなか、会社は1972年9月30日、「周辺業務」の労働者を解雇して新会社・グリーンサービスヘ移籍するという、かつてない首切りによる「合理化」を組合に申し入れた。会社がいう「周辺業務」とは、製鉄所内の清掃、文書集配、所内印刷、寮・社宅補修。清掃、緑化などであるが、これらの業務も鉄をつくるうえで欠くことのできない歯車の一つであることはいうまでもない。この「周辺業務」に従事する労働者を少数の健康体な人(男性のみ)と労災者を除いて解雇し、新会社グリーンサービスへ移すという提案であった。ここへ移されると40歳で税込み6万円強(当時の男子40歳の平均給与役10万円)という生活保護世帯並の低賃金となる。これでは生活できないといって、もし新会社をやめれば2回首を切られることになるのである。
また会社提案では、社員が健康をそこねた場合、グリーンサービスで一年半の復帰訓練を受け、それでも健康が回復しない場合は、日本鋼管を解雇され、グリーンサービスの採用条件に合致した場合にはグリーンサービスヘ移籍するという提案が含まれており、職場のきびしい「合理化」や交替勤務で健康をそこねた場合の首切りをも制度化するものであった。周辺業務そのものは閉鎖も縮小もしていない、京浜製鉄所にとっては必要な業務である。周辺業務を一括してNKK100%出資の別会社「NKグリーンサービス」に外注委託化するというかたちをとれば、そこに従事する労働者が職場も仕事の内容も同じなのに給料が30%ダウンし、ボーナスは約半分になり、休日も減るという、会社にとってこれほど都合のいい話はないと言える。

    労使一体の労働組合の実態

 1972年10月6日、松島さえを先頭に、14〜5人の女性が組合本部に押しかけこの措置の撤回を求めた。労災で死亡した夫の身代わりで採用され、分析の洗い場で働いていたGさんは執行委員長に長い手紙を書いて持っていった。その効果があって身代わり採用の女子については公傷者(労災)同様NKK在籍で出向扱いとなった。10月23日の京浜労組中央委員会は「周辺業務の合理化にたいする対応方針」を中心議題として開催された。傍聴者が見守るなかで二時間緊張した討論が続いた。討論では発言者の全員が不安や怒りを訴え、反対ともとれる発言だった。ところがいざ採決になると中央委員のほとんどが頭を下げて手を低くあげて賛成の「意志表示」をしたのである。代議員の多数は役付ぎでもあり、職制やインフォーマルのしばりが強かったのであろう。

    労働者は憤激したのだが・・・

 この血も涙もない会社提案に労働者は憤激した。該当職場はもとより、多くの労働者の怒りを背景に組合も交渉をすすめた。会社は譲歩して新会社の給与水準を若干引き上げたが、それは家族手当、住宅手当、皆勤手当などを付けるということであり、新会社の賃金では生活保護世帯なみの生活しかできないことを間接的に認めたものであった。「周辺業務」の「合理化」は、労働協約46条5項「工場閉鎖、業務縮小」の解釈を拡大し、外注化にも解雇適用の道を広げたものであった。会社はこのような「合理化」を強行するにあたって前年(1971年)からの不況を理由の一つとしていたが、すでに1972年には景気は回復に向かっており、9月期の決算が、それまで史上空前といわれた1969年9月期の売上げを1・46倍も上まわるなかで「合理化」は強行されたのであった。この「周辺業務」の外注化による首切りというかつてない労働者にたいする犠牲転化が、「解雇は認めない」「企業内で転活用をはかる」「外注化に反対する」という組合方針があったにもかかわらず押し付けられたのであった。

    「女性」というだけで解雇とは

このなかで、とりわけ問題なのは「周辺業務」に従事していた女性労働者が、夫が労災で死亡し身代わりに就職した人を除いて、全員解雇されたことである。周辺業務「合理化」は11月13日、会社と組合とで協定化された。周辺業務従事者たちは、いやいやながら 「退職願い」を書き、NKグリーンサービスヘの移籍手続きをとった。「女性」というだけでさらに不当に差別され、解雇されたことに抗議して、仲間の女性がやむなく移るなかで、ただ一人・松島智恵子さんは多くの仲間に支えられ、闘うことを前提に退職職金の受け取りを拒否した。1972年12月、会社は松島さんに対して解雇通告を送りつけてきた。

    裁判提訴とその後の闘争経過

 松島裁判は1973年3月15日、横浜地裁川崎支部へ提訴し、闘いに起ち上がった。 私は、身近な知人である松島さんの不当解雇に、当然のことながら会社に対して怒りを感じ黙って居るわけにはいかなかった。支援する会を結成し、周囲から支援したのは当然のことである。当初は、身近な人達数人が核になり、闘いの方針や裁判の証拠や作戦など、対策会議を開いて奮闘したが、多くの個人や婦人団体等も加わり、次第に大きな力を発揮する組織に発展していった。

    人権裁判と共に闘い前進

 松島裁判提訴から約一ケ月後、1973年4月9日、35名の原告が起ちあがった人権裁判は、横浜地裁川崎支部へ提訴して始まったので、同時併行して闘いは進められた。しかし、同じNKKという相手でありながら、当初は二つの争議が有機的統一的にかみ合い闘いを進めるという意識は弱かった。国際的には、1975年から国際婦人年という、男女差別を無くし女性の人権を守り、地位の向上に向けてのキャンペーンがはられ、これを活用すれば女性差別争議にとっては有利な側面では有った。しかし、日本の裁判官というのは、徳川260年の鎖国政策の尻尾を引きずり、国際感覚というものが全く欠落している。更には、伊達判決へのアメリカの属国的圧力に屈して、行政や資本、強いもの大きいもの上位の者に頭が上がらず、司法の独立・裁判官の独立性はなく、いつもヒラメで独自の判断ができない。自立できず世間知らずで幼稚な水準の人種という以外に表現のしようがない集団が裁判官である。1982年7月19日、午後1時、「原告の請求を棄却する」という、不当判決がだされた。その理由は、労働協約46条一項五号の「工場閉鎖・業務縮小のため必要を生じたとき」を適用し、「整理解雇」と認定したのである。しかし、実際にはNKK100%出資で、「NKグリーンサービス」という別会社をつくり、業務を拡充する方向であったのだが。

     人権裁判原告団の奮起を促す

 しかし、この不当判決は思わぬ波及効果を生んだといえる。不当判決を分析し総括するなかで、同時併行して闘われていた、人権裁判原告団は危機感を抱き、自らの闘いの勝敗に結びつく前哨戦という自覚を呼び覚まし、共通の闘いとして運動の前進を図る転換点となったのである。東京高裁への控訴は勿論、運動面での共同行動は強化され、松島支援共闘会議も結成され、運動は飛躍的に前進した。(「人権裁判」の項参照)

      女性ならではの独自行動も多彩に

 この「時を打ちつづけて」を、改めて読み直してみると、独自の優れた行動と闘いを行っていた事を知らされる。母親大会連絡会・新日本婦人の会・はたらく婦人の連絡会・労働組合婦人部によって「労基法改悪を許さず実効ある男女機会均等法の制定を求める神奈川連絡会」が結成され、NKK本社や東京高裁への要請行動をを取り組むなど、多彩な行動を行っている。1985年7月には、「国際婦人の10年」最終年にあたって、ケニヤのナイロビで開催された「国際世界婦人会議」に参加し、日本の女性差別解雇を世界に訴えるユニークな国際活動も行ってきている。この会議には、皆でカンパを集め、1985年7月6日に出発し、ケニヤのナイロビで開催された「国際婦人会議」に派遣し会議で発言してきている。その松島さんの帰朝報告を掲載しておきたい。


      国際世界婦人会議(ナイロビ)に参加して
                                 松島智恵子

 7月10日からケニヤの首都ナイロビで開催された「国連婦人の10年」世界婦人会議NGOフォーラムに統一労組懇チームの一員として参加しました。皆さんから多額のカンパと激励をいただき、日本鋼管の不当な女性差別解雇を世界の女性に訴える機会を与えてくださったことを心から感謝いたします。

NGOフォーラムには、開会式、ワークショップ、ナイロビ大学キャンパスでの訴えなどに参加しました。「日本鋼管の女性差別解雇は許せない」という英文のピラ1500枚を用意して行き、会場で全部配布しました。世界各国から沢山の人が参加しているので、大学教室を借りてワークショップを開催するのはなかなか大変でしたが、さいわい私たちは教室を借り日本の婦人運動と核廃絶について訴えるチャンスを得ることができました。こちらの心配をよそに、私たちのワークショップは皮膚の色のちがう女性たちで満席になり、訴えを聞いてくれました。

 そして「日本は経済大国なのにどうしてそんなに労働者が苦しまなくてはならないのか」「組合はないのか」「組合はどうして闘わないのか」と矢継ぎ早に質問され、私たちは必死になって説明したのですが、どうしても理解してくれません。私が仲間に小声で「私達だって労使協調の組合がやることは理解できないのに外国人にわからせようとしても無理よ」といったら大笑いになってしまいました。

 言葉は不自由でも、女性差別を撤廃するために闘っている女性同士、気持ちは通じます。ビラをていねいに読んでくれた法律学者だという女性とは、すっかり意気投合して仲良しになりました。ナイロビは軽井沢のようにすがすがしく、赤い花が咲きみだれる美しい街でした。体日にはサファリにも行かせてもらいました。生涯の記念になる旅でした。この貴重な体験をぜひ私の争議にも生かしたいと思います。

     高裁での和解勧告で全面解決

 1984年12月の口頭弁論で裁判長の和解勧告が出される。法廷でも運動でも追い詰めている証である。具体的には翌年3月29日の裁判長を入れた三者の打ち合わせから始まったが、その後10回の交渉で決着することになるが、この間交渉だけでなく、多彩な運動と行動が行われ、本社や社長宅要請と霞ヶ関の街頭宣伝等が継続して行われた。こうした中で交渉は、何度も暗礁に乗り上げる危機を乗り越え粘り強く交渉を続け、最終的には当事者間の自主交渉でまとめ、高裁和解の形式で、1986年2月7日全面解決にこぎつけた。


     松島裁判高裁和解内容

 和解の期日は、1986年2月7日、午後3時からであった。双方の和解合意ができたことを報告し、内容を説明すると、担当の加茂裁判官はちょっと呆気にとられた顔をした。しかし加茂裁判官は二・三の質問をし和解成立を確認した。

  和解条項は原文では九項目だが、以下のように要約できる。

1,被控訴人は1972年12月6日付けで行ったた控訴人の解雇をとり消し、1980年3月31日(定年時)まで嘱託として雇用契約が継続していたことを確認する。

2,控訴人の雇用継続期間中の賃金総額は1307万8880円であることを確認し、被控訴人は賃金総額より源泉徴収税と厚生年全保険料(個人負担分)を控除した1174万6060円を控訴人に支払い、被控訴人は税・保険料の入手続きを行う。

3,被控訴人は控訴人に和解金とし1360万円支払う。

4,被控訴人は税・保険料を控除した賃金と和解金の合計2524万6060円を川崎合同法律務所に送金する。

5,被控訴人は控訴人の厚生年金受給資格が入社時から定年時まで継続したものとして現行法上可能な範囲で遡及的に受給できるよう手続き面で控訴人に協力する。

  と、いう内容であった。

 和解解決時点で、松島さんは既に62歳になっており、NKKの定年協定60歳を過ぎ、職場復帰は果たせなかったが、厚生年金の遡及措置等、争議解決に於いて、かつて無いきめ細かな高い水準での解決を勝ち取ったと言える。


    (松島さん死去後、9年後に発行された「時を打ちつづけて」に寄せた一文)
     日本鋼管京浜製鉄所分析室・元人権裁判原告団   篠ア 節男

   「忘れられない手料理」

  「松島さんを知らない人はもぐり」と言われたほど古い人たちには有名で、女性活動家として鋼管では著名な人でした。ただ、枠にはめられるのを嫌い自由闘達な生き方を求めていたようです。その松島さんが決意をされたのは、私が管理部門の責任者をしている時のことで、いかにも松島さんらしく豪快な決意文を書かれたことをおぼえています。機関紙拡張行動でもいろいろな面で力を発揮してもらいました。松島さんの知入友人を訪ね、寒風の吹く中を自転卓をならべて機関紙の講読を訴えて廻ったこともありました。

また統一行動の時には、炊き出しで自慢の料理の腕をふるってもらったことが度々ありました。センターでみんなが活動から帰ってくるまでの間に手際よくご飯を炊ぎ、おかずを準備してくれました。時節や時によって天ぶら、とん汁、鮭のあら等々で、腹をすかして戻ってきた若い活動家にたいへん喜ばれました。活動が終わったあとは炊き出しのおかずをつまみながら、多少アルコールもはいって支部全体の雰囲気がもりあがり、拡大の成果にもつながりました。口八丁手八丁の松島さんの面目躍如というところでした。

  松島さんは、私の会費制の結婚式では料理の腕をふるってもらいました。当時流行したが既に下火になりかかっていた頃のことで、会費制の結婚式にはあまり好感をもっていないようでした。理由は「会費制でみんなに祝ってもらい、立派な誓いの言葉を披露するが、満足に活動を続けている人は少ない」というのが理由のようでした。結婚後、種々の困難を克服できず、活動が停滞したり挫折していく人の姿をまのあたりにして、潔癖性な松島さんには堪らなく許せないことであったに違いありません。しかし、私の結婚式の実行委員をお願いすると快く引き受けてくれました。会費制でしかも手づくりの料理での結婚式でしたので、実行委員の皆さんには大変ご苦労をおかけしたわけです。特に松島さんには料理の腕をふるって頂だき、盛りつけもきれいで、参加者の皆さんに大変喜ばれました。

  その準備は入居予定の社宅で松島さんを中心に、六、七人の実行委員の方が結婚式の前日から泊り込み、準備をしてくれました。そして結婚式の当日朝出がけに松島さんが「今日は婿さんなんだから風呂に入っサッパリしてきたら」と、社宅の風呂を湧かしてくれました。活動疲れでヨレヨレの私を見かねて朝風呂をたて、会場準備に皆と先に出かけました。豪快で男まさりに見えたが、”よく気のつく女性”それが本当の松島さんではないかと思いました。

               ◇     ◇     ◇     ◇     ◇

 松島さんは、争議が勝利和解で解決し、一段落したところでヨーロッパ旅行を計画し準備していた。そして翌日出発という前夜に脳の血管に異常をきたし、そのま帰らぬ人となってしまいました。さぞ無念であったろうが、考えようによっては楽しみな計画を胸に抱えて逝き、あの世で時間に制限無く、今でもヨーロッパを自由に歩きまわって旅を楽しみ、時を刻んで居るであろう。それが松島さんの極楽大往生であったと信じたい。


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15、稲垣をかえせ(稲垣労働災害の闘い)

    (1967年9月20日〜1972年6月30日  5年)

1、 「恋の東芝・浅野のギャング・金と命の交換(鋼管)会社」

稲垣労災
 これは鶴見駅を始発とする臨海工業地帯を走る、鶴見線沿線を詠った言葉である。
日本鋼管(NKK)は製鉄業であるため、高炉(溶鉱炉)を抱えており、一度火入れをすると高炉は休止することが出来ないので、24時間連続操業が避けられない業種としての宿命を抱えている。それを2交替で賄うため、一勤務12時間という長時間労働を強いられ、毎日4時間の残業と深夜勤務があるため、残業や深夜手当ての割り増しが付き、高熱重筋・長時間労働を強いられ、生計を維持していたのであり、基本給で格段に他を上回っていたのではない事実を認識せねばならない。「金と命の交換」とは、高給取りを意味せず、それほど労働災害が多く、事故による生命の危険と隣り合わせ、自分の健康と命を削るのと引換えに3K職場で働いている事を表現しているのであり、若い女工さんの多い他産業と比較して多少収入が多いのは当然である。稲垣労災は、そうした鉄鋼産業の利益優先・生産第一主義の犠牲者として、労災死したのである。NKKは、1970(S45)年4月1日より、4組3交替制、新勤務制度に移行した。1日二交替12時間長時間勤務から、一日を3組に分けて働く三交替勤務制度を取り入れたが、「労働時間短縮」という名目で人員を増やさず、労働強化と低賃金と引換えに変更にしたにすぎないのである。

2、NKKの企業形態

  NKKには、同じ企業で経営しているが、私が勤務するNKK発祥の地である川崎製鉄所と鶴見製鉄所、そして後に新鋭工場の水江製鉄所が建設され、それぞれ独立して運営されていた。稲垣労災は鶴見製鉄所(以下「鶴鉄」という)で起こった問題である。従って、私は事故発生当初は別事業所で深く関わる場所には存在せず、途中から関与した事になる。勿論同じNKKとう企業の関わりは強く、事故の翌年1968(S43)年4月1日には三所が統合されて京浜製鉄所となり、仕事上も人事の交流が徐々に進み、当然情報の伝達も行われるようになる。特に私は、故人の夫人が所属している京浜協同劇団に友人が居たことや、「ゆうづつの家」という共同住宅に、数人の友人がいた関係で稲垣裁判を知り、以後支援活動に自然に参加し、のめりこんでいくという経過を辿ることとなる。

3、I鉄は造船材料の生産

  鶴鉄は、南極観測船”宗谷 ” ”ふじ ” ”しらせ ” 等の艦船を建造したNKK鶴見造船所に隣接し、主に船の材料を生産する厚板工場であった。又、かつては昔の住宅建設に使われた、鶴のマークで知られる屋根を葺くトタン板を圧延製造しており、従業員は4千人程度であった。”鉄は熱いうちに鍛えろ ”の言葉通り、高温に加熱した鋼片を圧延ロールに通して薄く延ばし鋼鈑にしていく。こうした文字通り高熱重筋の生産現場と、これらの各段階の設備や機械の点検修理を行う機械保全部門とが存在していた。稲垣は、汗と埃と油にまみれる3K職場であったが、圧延作業を行う機械類の点検保守・修理を受け持っており、故人は1956(S31)年以来10年間、同じ業務を担当してきた熟練労働者であった。

4、利潤追求・生産第一主義・ 安全無視の会社

 企業は一時も機械を止めず生産を最優先する。厚板工場は毎週土曜日を定期修理日にあて、この日稲垣は、修理した加熱炉の戻りラムの水圧テストに立会い事故に遭ったのである。稲垣たちが点検するのは、鋼片加熱炉に鋼片を押し込むプッシャーと呼ばれる水圧装置である。プッシャーは、直径40センチの二本の主シリンダーに高圧の水を送りこみ、シリンダーの中のピストンの役目を果たすラムを動かし鋼片を押し出す。その時の力は、二本のラムを合わせると100トンにもなる強力なもので、一回の作動で5メートルずつ鋼片を炉の中に押し込むことができる。そしてラムが伸びきると、主シリンダーのまんなかにある直径10センチの戻りラムによって元の位置に引き戻される仕組みになっている。この戻リラムは、何度もひび割れが入り、そのたびに電気溶接で穴うめをして使用していた。中を通る水が高圧なためひび割れは致命的なものとなる。点検の結果、稲垣は、10日前に溶接修理したばかりの付近から水が洩れているのを発見したのである。本来老朽化したラムは、新しいものと取替えなければならず、溶接修理では危険だといわれていた。しかし、亀裂部分は7月15日に溶接修理をおこなうと修理会議で決められていた。

5、突然40キロの水圧が

 この日稲垣は、その戻りラムの溶接修理をした下請会社の仕事に立会い世話をしていた。午後2時40分ごろ、修理が終ったので、水を通して試運転を開始した。稲垣は、修理箇所から水漏れがないかどうかを確認して工長に報告する役目だったので、その下請会社の責任者ととに、主シリンダーの上に乗り、しゃがんで修理箇所をじっと見守っていた。外は7月の太陽がギラギラ照りつけていたが、煤煙に汚れた古い工場の中は昼間でもうす暗いため、わずかな水洩れはよほど近づかないと判別できない。徐々に水圧があげられ、主ラムが4回、約50センチほど前進した。それに連結された戻リラムが25センチ移動した。そして、5回目の前進がはじまったとき、突然、戻りラムの溶接部分が破裂、水圧四十キロの水がドッと噴き出したのである。

6、4トンの圧力で吹き飛ばされた稲垣とヘルメット

 40キロといえば、わずか1センチ四方(一平方センチ)に40キロもの荷重がかかる圧力である。そばで見守っていた稲垣は、この水圧をまともに胸に受け、3メートルも吹きとばされ、高さ3メートルの炉床と地面との間に設置されている鉄の階段に叩きつけられたのである。戻リラムの破裂口は、長さが30センチ余におよび、稲垣が胸に受けた水の圧力は4トンにも達していた。ヘルメット(安全帽)は、彼の体が宙に浮いたはずみに吹き飛んで、彼の後頭部は鋼鉄の階段の角に激突し、意識不明となった。稲垣の向かい側や両隣りで同じようにしゃがみこんで点検していた同僚も、その瞬間の出来事をつぶさに見届けることさえできなかったほど、激しい一瞬の出来事だった。吹き飛んだヘルメットには、会社が強制的につけさせた「思慮ある者にケガはない」というワッペンだけがあざやかに光っていた。1967(S42)年7月15日(土)午後2時40分頃に起きた事故であった。

7、金と命の交換会社

 京浜東北線鶴見駅の構内で真下に見おろす、直角に入るホームから工場地帯に向う線路がある。海に面しているので俗に臨港線とよばれる鶴見線である。浅野、安善、武蔵白石と、NKK創設の会社幹部の名前を駅名にしたこの鶴見線は、一日を三回に区切った時間帯に交替勤務に就く労働者を運ぶ企業のための国鉄線である。この線に沿って、NKKの鶴鉄、川鉄、(現在は京浜製鉄所→JFE)、同じく鶴見造船所があり、旭ガラス、東芝企業群、富士電機、東京電力、東京ガス、シエル石油、昭和電工・・・と鶴見の中柩をなす大企業がひしめきあっていたのでる。
 「恋の芝浦(東芝)浅野(旧NKK鶴見造船)のギャング、カネといのちの交換(鋼管)会社・・・給料安いは昭和の肥料、ちよくちよくさわぐは蓄音器、仲をとりもつ富士電機」と昔から労働者の間で唄われてきたように、NKKは激しい合理化と労働災害で知られていた。とくに、1960(S35)年、日米安保条約が改定され、池田自民党内閣が「高度経済成長政策」を打ち出してからは、鉄鋼資本の増産ぶりにはめざましいものがあった。1963年、鶴鉄の製鋼工場には、平炉にかわって転炉が導入された。このため、三分の一の要員で2倍以上の生産量をあげるようになった。「IE工程管理」調査がおこなわれ、労働者の1分1秒の動作をストップウォッチや8ミリ撮影機で測定し、それを見て無駄な動作や作業をチェックし省かれた。そして、大幅な人員削減がおこなわれ、生産は月産5万トンから8万トンへと引き上げられたのである。

  8、人間の生理を無視した生産計画

 会社は「転炉は生きものだから」といって人間の生理を転炉のテンポに合わせるようにした。転炉は大量の酸素を必要とする。したがって、製鋼工場では酸素工場の酸素がなくなった時が食事休憩時間になる。このため一直者は6時半に出勤し、2時間後の8時半にはもう昼めしにされたり、夜勤の場合、平炉時代には交替要員がいたので2、3時間の仮眠が採れたがそれも出来なくされてしまった。
 アメリカのベトナム侵略戦争がエスカレートするにつれ、鉄の需要は増え続け、NKKも他社に負けじと、巨大な福山製鉄所(広島)の建設にとりかかった。「社運をかけた」この計画を達成するため、社長は「血の小便をしてもがんばっ欲しい」と、年頭のあいさつで全社員にハッパをかける。1967(S42)年、鶴鉄のすべての設備、機械は、その公称能力をはるかに超えてフル稼動させられた。日産600トンの第二高炉は1000トンヘ。日産1000トンの第一高炉は1600トンの銑鉄を生産するに至った。
 稲垣の厚板工場では、月産5万トンの圧廷機で9万トンの厚板を生産した。そしてその目標は10万トンに引きあげられた。それまで厚板工場では、一週間のうち1日(24時間)は週休日として機械を停止し、その間に修理がおこなわれていた。しかし、生産をあげるため、早出、残業がふやされ機械の停止時間は今までの四分の一に短縮された。従って、修理時間は24時間からわずか6時間にされた。その結果、修理したくてもやりきれない項目がふえ、機械を休ませないため一時しのぎの応急処置で済ませてしまう状態になった。

9、ケチケチ合理化でぎりぎりまで使う機械

   会社は、「一割倹約運動」をはじめた。ボルト、鉛筆などの消耗品にいたるまで節約させた。稲垣の所属する機械保全の係長は、部下を集めてつぎのように説明した。「アメリカから昭和27年ごろ導入された保全制度というのは、機械が壊れてから修理するのではなく、こわれる前に修理する予防保全のことです。しかし、今必要なのは、それをさらにすすめた『生産保全』です。これは、その機械がこわれると生産がストップしてしまう重要設備と、壊れても生産をストップさせるには至らない補助的設備の二つに分類し、予防保全にくらべて安上がりの保全をやろうとするものです。重要設備にとって一番よい点検は、機械がこわれる直前に修理することです。つまり、こわれる時期と修理する時期が近くなればなるほどよいわけです。たとえば、クレーンのワイヤーが傷んできたとする。みなさんが10日に切れると判断したら、9日に取り替えるように手配することです。もし判断が誤まっていて8日に切れてしたとしても、五日にとりかえるよりは九日の方がより正しい判断なのです。それは切れる日に一番近いからです。一方、補助的設備は壊れてから修理してもよいのです。」

10、稲垣労災の真の要因

 このようにして、今まではワイヤーが切れる日より20日か一カ月前に取り替えていたものが、切れるギリギリまで使うようにさせられた。大増産のあおりで機械の故障と傷みが早くなったにもかかわらず、修理に必要な予算は増やさなかった。稲垣の事故はこういう状態の中で起きたのである。のちに裁判の中で、会社が「稲垣の居場所が悪かった。本人の不注意だ」と主張してきたことは、こうした激しい合理化の実態を覆い隠す何物でもなかったと言える。事故から約90時間、強靭ともいえる生命力で持ち堪えてきた稲垣の心臓は、ついに鼓動を止めた。1967(S42)年7月19日(水)午前8時6分であった。死因は「頭蓋骨骨折と脳内出血」であった。享年29歳の若さで逝ったのである。

11、人間の命がたった80万円?

 私が入社した頃、先輩からよく聞かされた話があります。昔は死亡災害が多く、会社の方もそれらの対応に慣れていて、労災で死亡者が出るとマニュアルがあり、それに習って事を運ぶ手順ができていた。古い話ですから電話など家庭にはない時代です。死亡災害が起こると、先ず第一陣の報告者が2人1組で出発します。自家用車や社用車などない時代ですから、近ければ自転車で、遠距離ならバス電車を利用して故人の通勤経路を辿って出かけます。この人達の連絡の任務は、先ず「お宅のご主人(お子さん)が会社で怪我をされました」という報告だけです。「死亡」したということは絶対に言ってはなりません。善意に解釈すれば、遺族に突然衝撃を与えない配慮からとも考えられます。それからちょうど1時間後に、第二陣の使者が出発します。これも二人で、「手当ての甲斐なく残念ながら死亡されました」という、遺族に対する最後通告の役割です。こうしたマニュアルが存在すること自体、頻繁に死亡・重大災害が発生していた事の証左です。そして、第二陣の派遣者は先発隊と合流し、遺族と相談し葬式の段取りや準備手伝いに手馴れた人物を派遣します。遺族は突然の訃報に動転し平静さを失っていますから、この機に会社の厚意や善意を見せて押付け、遺族に怒りや不満を与えないよう、上手に取り計らう狙いであります。当時、労災で死亡しても、会社が弔慰金を出すという責任や慣例はなかったのである。ただ、稲垣が死亡した1967年、NKKで初めて業務上死亡の特別弔慰金制度が新設されたが、その額はたった80万円であった。

12、ハインリッヒの法則

ハインリッヒ
 そればかりでなく、金と命の交換と言われるように、これまで何百人という人が労働災害で死亡し、傷つき片輪になった人も多数存在します。しかし、こうした人びとに支払われたものは、ほんの雀の涙ほどの見舞金でしかなく、奴隷のような扱いでした。そればかりでなく、職場で怪我をしても、私傷病扱いを強要したり、有給で休ませたりして労災隠しは絶えません。どんな小さな災害でも職場全体の問題にしていかなければ次々と事故は発生し、重大な災害に繋がっていく。これは既に、アメリカでハインリッヒの法則として確立された理論である。一つの重大な災害の下には、300件以上の重傷乃至は軽微な災害が起きており、災害には至らないがヒャリ・ハットする事例が無数に起きていることが統計的に裏付けられている。それらは皆、隠されたりモミ消されたりしてきているので、あたかも突然重大災害が起きたかに見えるが、実は既にその兆候は現れてるのを隠し見過ごしていたことになる。稲垣は、「どんな小さなケガでもみんなの問題にし、みんなの力で解決しよう」と呼びかけ、その先頭に立っていたのであった。

13、裁判闘争への決意

 初七日が過ぎたある日、稲垣の職場の仲間が数人でおとずれ、仏壇に線香をそなえ、事故の様子や職場のもようを、稲垣の写真を見ながら思い思いに語りあった。NKKは夫人をはじめ、遺族に対してなぜ事故が発生したのか、はつきりとした説明をしていない。遺族はなぜ事故がおきたのか、その原因と、誰が事故の責任をとるのかということをます第一に知りたかったのである。この日おとずれた仲間たちは、「合理化」が進むにつれて、ますますケガをしたり、死亡する事故がふえていることや、ケガをしても私傷扱いされ、十分な体養や治療も受けにくくなっている様子を詳しく説明した。そして、生前、稲垣は、こうした職場をなんとか安全な職場にしようと奮闘していた。今度の事故の原因も、危険な応急修理を繰り返した為に発生したので、稲垣になんの落ち度もなく、まったく会社の責任であることを詳しく説明した。  夫人は、夫が生前話してくれた、会社でおこる労働災害の問題や言葉がよみがえってきた。そして、悲しんでいるより二度とこのような事故をくり返さないために、夫に代わって自分が何かしなくてはならない、と考えていたのだった。労働者一人が死亡しても、80万円で済むと思えば、何百万円もかけて設備の改善などしやしない。「そうだ、夫のやろうとしていたことを、私は、この子と一緒に、大勢の働く仲間たちと共にやっていこう」こうして、NKKを相手に、裁判で闘うことを決意したのである。夫人を中心に、たくさんの仲間が結集し、着々と準備が進められた。 そして、1967(S42)年9月20日、横浜地裁へ提訴したのである。

14、「裁判は長いから最後までご支援を」父の心情

 四十九日もすぎ、裁判の準備も軌道にのりだした頃、稲垣の父親は、準備をすすめている人たちへ、孫を抱きながら、つぎのように話した。「弘の嫁はじつに立派な嫁で、弘も幸せ者でした。この人が、裁判を起こそうと何をしようと私は反対はしません。自分で納得がいくように何でもやればいいと思います。私も弘の事故の責任が誰にあるのか、白黒をはっきりとつけてほしいと思います。ただ、裁判というものは、非常に長い時間がかかるので、その間に最初は大勢で取り組んでいても、そのうちに一人減り、二人へりして、最後にこの人だけになり、すべて金を使い果たして路頭にまようような事にならないか。それだけが心配なのです」お父さんは夫人が裁判闘争を起こすからぜひ支援してほしいと労働組合に申し入れたが、拒絶されたので、特に心配していたのだった。

15、稲垣労災訴訟をすすめる会

渡辺・稲垣夫人
 1967(S42)年10月11日、鶴鉄の仲間と渡辺義寛さんをまじえて、裁判についての話し合いがもたれた。渡辺さんは、同じNKKの水江製鉄所で、ローラーに右腕を噛みこまれるという災害にあい、手術の失敗も重なって右腕を切断されてしまった。その上、首を支えている骨の一部を削り取るという、医学上の常識では考えられない生体実験のような手術をされた。このため、ほんのちょっとしたショックでも生命の危険をともなうので、一生コルセットをつけて首を固定しなければならない身体になってしまった人である。このため、会社と病院を相手に、NKKではじめて損害賠償請求の裁判をおこしてたたかっている。稲垣さんが裁判を起こすと伝え聞いて、不自由な体をおして、わざわざ訪ねてともに話し合いに加わってくれたのである。そして、この話し合いのなかで体験上から得た重要な内容のアドバイスをされた。そして、裁判闘争を強力にすすめ、ひろめていくため「稲垣労災訴訟をすすめる会」を結成することが決められた。それらを参考にして一週間後の10月18日、すすめる会の6つの活動方針が決められている。

16、京浜労組への申し入れと組合の見解

 1971年2月、稲垣裁判と水江の渡辺裁判の代表者が、組合に協力してほしい旨の幾たび目かの申し入れをおこなった。組合は、要約して、次のように答えたのだった。

   京浜労働組合の見解

 両裁判の原告、および事務局からの要請文に対して、 鋼管京浜労紅として、二月一日、執行委員会を開催し、検討致しました。検討すうにあたり、二つの裁判については、旧鶴見労組、水江労組当時においても要請された経過がありますので、その事実経過についても知っている執行委員かおり、当時の事実経過と提出された資料にもとずいて、執行委員会の見解を述べます
※ 書面で回答をと要請されましたが、答える形は答える側の判断であって、口答でも書面でも同じである。

<見 解>

@ 組合として、まず第一に考えなければならないのは災害をなくする事である。今後も起こさない方向として運動を進めなければならない。健康と命を守る闘いは、春闘や運動方 針書で具体的に提示されている。不幸にして亡くなられた稲垣さんや、ケガをされた渡辺 さんの裁判についていえる事は、目的が賠償請求でしかなく、二次的に公判の中では数々の職場の危険個所や災害の問題を取り上げているが、現実には間接的であって、労働組合としての災害撲滅の闘いは、労使間でおこなう安全対策委員会で改善させる方法や、組合独自の改善闘争の方が良策であり、最も近道である。

A 企業に対する過失責任であるが、災書の100%が企業側にあると断定する事は困難である。災害の中には本人のうっかつ等もあり、その過失基準がむずかしい。両裁判については、法の裁定で明らかになるであろうし、単純こどちらに過失があった等と組織として 定めるべきではない。

B 請求金額についても、責任度合や、個々の災害状態で違うし、ホフマン方式等の算出 方法等でも大きく差がでて来る。また慰謝料の請求額にしても、求めずらく、個人の条件 による差が大きすぎ、組合として取り上げて援助する場合、全体の事を考えるので、その ような金額のアンバランスが起る事は、組合の組織強化にならない。

C 弔慰金については、組合として毎春闘でアップさせて行く方向で取り組んで来ているし、労災保障法の改善等は総評及び鉄連として闘つて行く。

※ カンパについては、不幸な方に組合が加入している共済会により一定の援助は行なって 来ているし、今後もそうして行きたい。もしカンパ活動をおこなうとしても、個々のカン パニアではなく、同じような形のカンパで統一して行なう考えをもっており、両裁判につ いても上記の考え方より行なう考えはない。
  以上のような見解で労働組合としては援助出来ない。
という木で鼻をくくったような内容で、組合員より会社を擁護する、これが連合の組合であってみれば、知る人は予想通りで驚くこともありません。

16、会社の責任を全面的に認めた横浜地裁判決

 組合の支援は得られなかったが、「稲垣労災訴訟をすすめる会」に結集した多くの人達の献身的で粘り強い闘いがありました。この間に12万枚以上のニュースやビラの宣伝活動が、鶴鉄だけでなく京浜の工場門前や駅頭で行なわれました。「稲垣をかえせ」という、中間総括的に出版された本等、多面的な活動でひろく世論に訴え、支持を得る闘いを進めました。そして、1972(S47)年6月6日、横浜地裁は、会社の責任を全面的に認めた判決を出しました。その内容は、原告と子息に対する賠償を認めると共に、訴訟費用の被告会社負担と仮執行をも認めた、特質すべき全面勝利判決と言えるものです。

17、怒りの抗議に会社は控訴を取り下げる

 仮執行を認めた裁判判決を根拠に翌7日、夫人と弁護士、稲垣のお父さん、「すすめる会」の代表一名が参加し、賠償金をすぐ支払えとの交渉に出向いた。会社側からは弁護士と他に労務関係三名が応待した。この場で弁護士は「仮執行の宣言に対してこれを停止させるため、控訴の手続きをとった」と述べたのであった。これに対して稲垣のお父さん(67歳)はすっくと立ち上がり、「昨日の判決をみやげにこれから新潟に帰るところだが、いまの会社の言い分では、折角の判決もあいまいになってしまった。公にされた判決なのだからどうか会社もそんなことをしないで、5年もがんばってきた嫁のために、判決どおり回答してくれ」と訴えたのである。
 会社側は「この措置は法律上、弁護士としてやったまでで、会社の意向はまだ何も入っていないので・・・」と仮執行に対するおびえと体面の取り繕いを示したのであった。その後、6月10日「すすめる会」の総会で控訴に対する怒りの決議、会社に対して控訴とり下げの抗議電報、「稲垣裁判の判決と原告・被告主張対比資料」をつくり、各団体、労組関係への配布、14日にはビラ「会社はすぐ判決に服し、不当な控訴を取り下げよ」を京浜製鉄の各門前で配布、さらに会社に対して各民主団体、京浜製鉄委員会、市会、県会の議員団などから抗議電報がうたれた。このようななかで会社から6月20日、控訴期限ぎりぎりの日に「控訴のとり下げをした」との連絡が入り、30日には原告に「会いたい」と連絡してきたのであった。

18、裁判に勝っても稲垣は帰らないが

 報告集会で夫人は、「いくらお金がでても死んだ夫は帰ってきません。事故をおこしてから補償してもらうのではなく、事故のない職場をつくることが大切です」。このように泣きながらのべると、涙をぬぐう女性、くちびるをかむ労働者で、100名をこす集会はしんとしたのであった。たくましい鉄鋼労働者であり、誠実な組合活動家であり、すぐれた文化(演劇)活動家であり、職場では先頭に立って働き、皆から好かれた稲垣弘の燃えるような生涯であった。この稲垣の遺志は、夫人や遺児、そして多くの職場の仲間たちに受け継がれている。そして仲聞たちの職場に労働災害をなくす闘いとしていまも続けられている。
 また稲垣が死亡した1967(S42)年にNKKでは初めて労災の業務上死亡の際の特別弔慰金制度が新設された。その弔慰金はわずか80万円であった。それが「稲垣労災訴訟」に勝利した1972(S47)年には春闘で特別弔慰金600万円ほか退職時本給の八ヵ月分を勝ち取っている。またこの年に「遺児年金制度」が新設され、1967年4月1日以降にさかのぼって適用されることになった。稲垣が亡くなったのが1967年4月15日であるから、明らかに稲垣労災を意識してこの制度がつくられたと言える。これによって遺児にも適用されることになった。このように、「稲垣労災」「渡辺労災」は労働者とその家族の労災補償を充実させる上で大きな役割を果たしたのである。




16、失われた右腕の痛み(渡辺労災裁判・粘りづよく闘い勝利)

      (1966年10月〜1973年12月25日  7年)


圧延工場
 1966(S41)年4月、NETテレビドラマ「判決」で放映されされた「失われた右腕の痛み」(脚本、深沢一夫)は、職場で働く労働者に大きな反響を呼んだが、この主人公の渡辺義寛さんと家族、「渡辺さんを守る会」の人達は、日本鋼管を相手どった7年間にわたる粘りづよいたたかいの末、ほば全面的な勝利をかちとったのであった。勝利の報告ビラを紹介しておきます。

 労働者の皆さん、長い間のご支援ありがとう”渡辺労災裁判″は勝利しました!

    要求額の85%を獲得

 昨年(1973(S48)年12月25日、被告日本鋼管と東京医大は渡辺義寛さ(48歳)に対して、(1500万円(年金を含めると2900万円)の損害賠償を支払いました。一人の労働者が1000億円の資本金を持つ大企業を相手に7年にわて裁判闘争を続け、みごと勝利しました。冷延工場、オープン焼鈍で機械を掃除中右腕をまきこまれ、腕を切断し首の骨まで削りとられ一生働くことができない身体にされたのは1963年10月のことでした。
渡辺さんは生産第一で安全対策をおこたった日本鋼管と手術に失敗した東京医大を相手どり3300万円(年金も含む)の損害賠償を要求し、1966(S41)年10月から今日までの裁判を闘ってきました。裁判は46回の公判と3回の現場検証、そして22人の証人調べを行い、会社のでたらめな安全策を現場の労働者、学者等が追及してきました。会社側証人の労務課長、工場長、係長等はまともに答えることもできないみじめな証言ばかりでした。公判は1972年12月結審し、裁判所の要請により和解を進め要求額の85%を勝取りましたが、渡辺さんがケガをした1963年当時は会社の見舞金はゼロでした(現在は死亡、障害1、2級は800万円)。もし裁判で闘わなければわずかな退職金で会社をほうり出されていたでしょう。会社から謝罪文を出させることはできませんでしたが、要求額の85%の金額を和解とはいえ勝取ったことは他の労災裁判ではあまり例がなく、渡辺さんの大きな勝利といえます。

   運動の輪を広げて闘う

 日本鋼管の組合うが支援をしないという極めて困難な中で、現場の労働者が中心となり「守る会」を作り、他の組合への支援要請、署名、カンパ、宣伝等の活動を進めて来ました。そうした中で鋼管労働者が会社の圧力に負けず支援を行い渡辺さんを励ましてきました。又、横浜市従労組、鉄鋼の或る組合(名前は公表できない)、全国金属傘下の各組合、港湾、電機、同盟系の組合、さらに総評弁護団、自由法曹団、学者 、文化人ら広範な人々が支援を行い、テレビ、新聞、総評の働く者の写真コンテストで最優秀賞に選ばれる等運動の輪が広がって来ました。物心両面にわたって暖いご支援をいただいた皆様に心から感謝を申し上げます。しかし、渡辺さんは組合員でありながら最後まで組合が取上げなっかたことはきわめて残念なことであり、今後、労働者が裁判で闘う場合は、「守る会」等を作らなくても、組合が支援を行うよう強く訴えるものです。

   いぜん癒らない渡辺さんの身体

 労働災害にあった渡辺さんは現在でも切断した腕が痛み、頭痛、めまいが多く、外出する時は薬を飲まなければならない状態です。渡辺さんをこのような身体にした会社に対し断固抗議するものです。入院や裁判で貯金も使いはたし、奥さんは現在学校給食の調理員として働き家計をささえています。当時7歳と6歳だった二人の子供さんも現在は二人とも高校生になり、家族そろって困難にもめげず10年間闘い抜いてきました。

   4連勝の労災裁判

  日本鋼管を相手に裁判で闘った稲垣労災、神農労災、清水造船の千葉労災、そして今度は渡辺労災が勝利し、これで会社に対して4連勝しました。現在は新潟からの出稼ぎ労働者の富樫さん(左右の指7本を切断)が裁判で闘っています。このように、労働者の命を奪い、身体を傷つけた会社はことごとく敗北しましたが、今後は災害の発生しない職場づくりのために頑張り、命と健康を守る闘いを一層強化していかなければなりません。7年間の長いご支援ありがとうございました。
    1974年1月7日
                                           渡辺さんを守る会




17、NKK京浜労組役選介入・不当労働行為事件の闘い

    (1992年10月8日〜2001年7月25日  9年)


NKKの役選干渉・介入と労組の労資強調主義

高炉風景
 1966年、NKKは「新社員制度」という能力主義管理を導入。同時に共産党員活動家に対する見せしめ差別があからさまに行われるようになりました。この年、鉄鋼各社が次つぎと新製鉄所を建設する無政府的競争が進行する中、NKKは世界最強といわれる福山製鉄所を稼動。そしてこの年、鉄鋼労連がIMF・JCに加盟し、反共労資協調主義の旗をかかげました。組合役員選挙規定は毎回のように改悪され、選挙運動を極端に制限し、「定数連記制」で少数派を締め出し、開票立会を認めず「密室開票・密室集計」がおこなわれ、得票の改ざんまでされていたという秘密情報も聞かれました。会社の役選への介入も常態化していました。

 1968年、京浜地区の三製鉄所が統合して「京浜製鉄所」がスタート、扇島建設計画が始動しました。これと連動して会社は、労働者への犠牲転嫁を抵抗なく受け入れる[労組づくり]をすすめました。そして、その核となる反共インフォーマル組織「京浜労働創友会」が労務部の肝いりでつくられました。鉄鋼の職場に、労働者の利益を守るまともな労働組合をつくる上で大きな障害となっていたのは、会社の役選をはじめとする労働組合への支配介入と役選規定に象徴される労働組合の非民主的な運営、活動家にたいする見せしめ差別でした。

 1972年、不況・減産カルテルを受けて京浜製鉄所は6,000人削減につながる2,236人の削減を提案、強行しました。この「合理化」で技能系女子全員が解雇され、松島智恵子さんの解雇撤回闘争が起こりました。同時に、激しさを加えていた民主的組合活動家に対する思想差別撤廃をめざして日本鋼管人権裁判が開始されました。松島闘争は13年、人権裁判は15年の闘争で、支援を全国に広げ勝利的に解決しました。 1988年、人権裁判の解決後「NKK権利闘争すすめる会」(以後「すすすめる会」)が結成されました。すすめる会はその後、門前からの大量宣伝を武器に要求実現と権利闘争の先頭に立って闘かってきました。

 争議の経過

 NKKは長年にわたって労働組合役選に直接介入・干渉を続け、会社の意に沿う労働組合づくりをめざしてきました。会社の介入の事実をこれまでも多く把握していましたが、物証・人証を整えて第三者機関に訴えることはできませんでした。1992年の第12期役選でNKK権利闘争すすめる会の会員が会社の介入を明瞭に示す文書を発見しました。会社に抗議し謝罪を要求しましたが、会社は、[調査したが、そうした事実はない]という回答。労働組合にも事実の確認と会社への抗議を要請しましたが、組合は、「本人を呼んで調査したが、本人の書き間違いであった」というまったく信用のできない回答でした。すすめる会は、このまま放置することは絶対にできないと判断して、会社の介入の排除と再発防止、謝罪を求めて、1992年10月8日に神奈川県地方労働委員会に対し当該職場組合員及び本部役選立候補者ら19名で救済申立てをしました。
 争議は、1992年の地労委の闘争から始まって、行政訴訟の地裁・高裁を経て、2000年3月の最高裁まで8年間の法廷闘争と最高裁後も1年半、職場・地域をむすんだ運動を展開しました。その結果、会社との自主交渉で合意に達し、別紙の「確認書」に調印して全面解決に至りました。

1、法廷闘争

@ 神奈川地労委(1992年10月8日〜1994年4月27日)地労委は、2回の調査と10回の審問で結審。 1994年4月27日、申立てを棄却しました。命令は、会社の関与を認めながら、「関与は『人事調整』のためのもので、不当労働行為ではない]とし、申立てを不当にも棄却しました。この「人事調整」なるものは、会社側さえ主張も立証もしていないもので、地労委のまったくのデッチあげでした。このような命令は、のちに地労委の事務局員も「意外な結果だった」とコメントしたよ引こ、だれも予測しなかったものでした。しかし、連合の有力単組である京浜労組の事件は鉄鋼労連から連合までの正当性が問われる重大問題になります。地労委の判定は極めて政治的なものでした。

A 横浜地裁(1994年7月22日〜1998年4月28日)中立入団は、中央労働委員会に、再審査請求を行いつつ、地労委命令の取消しを求める行政訴訟を横浜地裁に起こしました。横浜地裁は原告請求の柏木氏(柏木文書の作成者)の証人採用をかたくなに拒否しましたが、1982年エネルギーセンターの役選介入事件関連で小林元作業長に対する尋問を6回行いました。そして17回の期日で結審。原告団は全国にオルグを展開し、わずかな期間に10万8千人の「公正判決要請署名」を裁判所に集中しました。しかし1998年4月28日に出された判決は、原告の訴えを棄却する不当判決でした。
  横浜地裁判決は、@事実が明確な支配介入事件で詳細な立証を労働者側に求めた違法性A会社の「関与」を認定しながら「関与あれど介入なし」という矛盾する判断 B1982年役員選挙での支配介入の認定をエネルギーセンターに限定し、支配介入の継続性を証明する証拠を採用せず重大な事実誤認をしています。しかし、第12期役選で会社職制の関与自体を認め、1982年の役選では会社が京浜製鉄の労務管理の最高責任者(当時地労委使用者側委員)らの督励で職制機構を使って介入・干渉を行った事実を、労組法第7条3号違反(支配介入)と認定したことは、その後の闘いに新たな展望を切り開くテコとなりました。

B 東京高裁(1998年5月11日〜1999年11月16日)東京高裁でのだたかいは、地裁判決の前進面をさらに発展させつつ、訴えの第12期役選での支配介入を認定させ、勝利することが求められました。しかし東京高裁は、1999年11月16日に「控訴棄却」の反動的な判決を出しました。判決は控訴人の詳細な立証と、地労委や地裁の事実認定さえも無視して柏木氏の「労担班長が候補者選定の四者に入っているというのは、書き間違いであった」という話を認定し、会社は役選に関与していない、と開き直りました。この判決は、新民事訴訟法(1999年4月より)を悪用して法解釈をさけ、「事実認定」で原告の訴えを切り捨て、上告の道まで事実上断つという、二重三重に悪質な大企業擁護の不当な判決でした。

C 最高裁(1999年11月29日〜2000年3月24日)新民事訴訟法のもとで、最高裁でのだたかいはきわめて困難が予測できる(門前払い)が、すべての可能性をくみつくす立場から、原告団、弁護団、対策会議が団結して風穴をあけるために運動を強めることとし、上告しました。そして最高裁宣伝要請行動を3回行い、あわせて司法制度改革審議会に対しても裁判の実態を訴え、裁判官の独立、司法の民主化を訴えました。しかし最高裁第一小法廷は事実認定はしないという立場から法律判断までも避けて「上告を棄却する」という決定を出しました。

2、職場闘争

 この問NKKは、「タブーなきリストラ」などと称して、8000人削減を柱とする過酷なリストラを強行してきました。「京浜製鉄所の存続」が重大な問題として投げかけられ、「京浜製鉄所の存続」のためには、相当の犠牲もやむを得ないという思想攻撃の中、「分社化」、外注化、55才以上の出向者の「転籍」などが次つぎと強行されました。組合が「経営基盤の確立のために」としてリストラ協力の方針をとっているために、人減らしは容赦なく強行され、会社の支配介入のない、組合員の利益を守る組合が切実に求められている状況下で、すすめる会・原告団は、争議の解決をはかる課題と固く結んでリストラ反対闘争を取り組み、労働者の共感を得ました。リストラに反対して雇用と労働条件を守るたたかいを励ます門前ビラと争議解決を訴えるビラの配布は、この問200回を超えています。原告団を中心にNKK権利闘争すすめる会の会員は、第13期役選以降も引き続き組合役選に積極的に立候補しながら、会社の支配介入を排除するたたかいをすすめ、同時に、組合役選の民主化を求めて精力的に取り組んできました。

3、社会的包囲の闘争

@ NKK権利闘争すすめる会の結成以来一貫して取り 続けてきた全労連運動との連帯を柱に、金属反合闘 争委員会、神奈川労連、争議団共闘会議、地労委民主化対策会議と共同を追求しつつ、運動を全国的に展開してきました。

A NKK関連争議(東北造船、清水、鶴見中高年差別)については、連絡会を結成し、連携を強め、全国事 業所・背景資本・要請行動をはじめ、共同行動を展 開しました。

B NKK本社、京浜製鉄、背景資本(第一生命、富士 銀行〈後にみずほグループ〉)に対して、争議発生以降一貫して抗議・要請行動を展開してきました。金属反合共同行動をはじめ、全労連総行動、神奈川争議団東京行動、NKK関連争議共同行動、独自行動など、その数は100回を超えています。

C 地労委・裁判所での重要局面でのたたかい
 審間日の各駅頭宣伝、重要局面(証人採用問題、結審以降、判決剛での県下主要駅頭宣伝行動をばしめ、団体署名・個人署名の取り組みと合わせ第三者機関への要請行動を展開しました。また、このたたかいと合わせ地労委民主化闘争にも積極的に取り組みました。

D 株主総会での発言と宣伝行動
 NKK関連争議連絡会の重要な運動として取り組んだ株主総会への宣伝と行動は、争議発生以来一貫して取り組み、会社トップをゆさぶりました。

E 法廷、職場、社会的包囲の3分野の運動は、一部不十分さを残しつつも、基本的にはやり遂げることができたと確信しています。

4、自主交渉の進展について

 NKK会社側の「最高裁の決定により、法的には決着済み」という基本的態度を改めさせ、争議を全面的に解決するためには、運動の新たな飛躍を土台にして、自主交渉の場での理論構築と特段の交渉能力が要求されたと言えます。私たちは、@法廷闘争の到達点を握って離さず、A職場実態からNKKの遅れた企業体質を浮き彫りし、大企業が社会的ルールを守ることの重要性を、説得力をもって鋭く追求し、突破口を切り開いてきました。そして、「労働者の団結権と要求実現に貢献する解決」することに力を尽くしました。

5、対策会議のとりくみと果たした役割

 横浜地裁判決を前にして、支援共闘会議の結成をめざす相談会をひらき、結成の準備と当面の運動について協議しました。そして第3回相談会(1997年12月10日)で、「NKK京浜労組役選介入事件対策会議」が発足しました。以降、事務局体制も強化して、第41回幹事会(2001年9月16日)まで、基本的に月1回の幹事会を開催して運動の推進をはかってきました。そして以下の主な取組みを成功させました。

1 横浜地裁への要請行動36回、高裁への要請行動22回、要請行動に合わせた駅頭宣伝。
2 署名では、地裁への「公正判決要請」個人署名が集約で12万筆、高裁への「公正判決要請」団体署名を集約で5,000団体。
3 地裁判決日行動(1998年4月28日)のべ635名。
4 高裁結審目行動(1999年7月1日)100名。
5 高裁判決日行動(1999年11月16日)215名。
6 金属反合共同行動(1999年9月28日)の昼のメイン行動330名
7 神奈川県下の主要駅頭宣伝は地労委民主化対策会議と共同で4回取組みました。
8 NKK役員宅や背景資本への要請行動の展開。

全面解決でかちとった背景とその要因・教訓

     <5つの大きな成果>

@ 会社が、京浜労組への介入はもとより、京浜製鉄の労働組合運動にかかわる様々な組織に便宜供与したり敵視行為をすることは、不当労働行為をなすものであって、「絶対にあってはならない」とあらためて宣誓したこと

A 京浜製鉄における労働組合運動の今後の健全な発展の土台を担保したこと

B 憲法と労働組合法に定められた労働者の団結権にかかわるルールを守ることを会社があらためて約束したことは、当然のこととはいえ、大企業が社会的責任を果たす上できわめて重要であること

C 会社に、京浜製鉄における労働組合運動の潮流としてNKK権利闘争すすめる会をあらためて認めさせ、不当労働行為の再発防止のための窓口の設置を実現したこと

D 解決金を支払わせたこと

    <成果をかちとった要因と教訓は>

@ この闘争は、企業に最低限の社会的ルールを守らせて労働組合の健全な発展の土台を保障するという、大義と道理あるものであったこと

A NKK権利闘争すすめる会が、組合役選の民主化と会社の介入・干渉を許さないことなど、労働者の権利を守る立場で日常的に職場で奮闘していたこと

B 法廷闘争、職場、社会的に包囲するたたかいの3つの分野で統一的、相乗的に運動をすすめたこと、とりわけ、原告団が弁護団と力を合わせて正確な法廷闘争をおこないつつ、1997年の対策会議結成によって知恵と力を結集し争議支援の輪を大きく広げ、相手にふさわしいたたかいを展開してきたこと

C この闘争は、不当労働行為を許さないたたかいでしたが、同時に、連合労働運動の拠点職場で「選出」された労働組合役員の正当性を正面から問うものであり、その上部団体役員の正当性にも連動するものです。しかも、多くの大企業職場で同じような実態が指摘されていることからも、いわば日本資本主義の支配体制の根幹に迫る性格をもった重大なたたかいでした。地労委の棄却命令でいっそうそのことを思い知り、このすぐれて階級的なたたかいにふさわしい構えと体制をつくりきることを、その後一貫して追求してきました。

D 不当決定(敗訴)の確定は、全面解決をはかる上で大きな障害となりましたが、知恵を集めて正しく不屈にたたかえば必ず争議は解決できることを事実で示せたこと

E 労働争議は当事者間の話し合いで早期円満に解決することが基本、という立場を一貫して堅持し、全面解決に結実したこと

F 背景にあった要素として、NKKと川鉄の経営統合が2002年10月に予定され、NKKの経営者がその前にこの争議を含めてNKKの3争議を解決したいと考えたことは明瞭で、これを重要なチャンスとして位置づけ、攻勢的にしっかりと活用したこと

     <成果を生かし要求を実現できる労働組合を>

 リストラ攻撃が荒れ狂ういま、労働組合を階級的民主的に強化することが本当に切実に求められています。そのうえで、切実な要求での一致を大切にし、職場から大きく共同をすすめながら、同時に、組合役選を軸に労働組合を強くすることに取り組むことが必要です。この争議解決の貴重な成果をいかし、京浜製鉄の労働組合の階級的民主的強化を図るために全力を尽くすことが求められています。このことは、同じような実態にある全国の大企業職場での労働組合運動を強めることを願う労働者を大いに励ますことになると確信します。


            NKK京浜労組役選介入事件全面解決にあたっての声明

                                 2001年9月16日

                            NKK京浜労組役選介入事件対策会議
                            NKK京浜労組役選介入事件弁護団
                           NKK京浜労組役選介入事件原告団
                           NKK権利闘争すすめる会

 NKK京浜労組役選介入事件は、2001年7月25日に当事者間の話し合いで合意に達し、全面解決しました。1992年事件発生以降、九年余の長い間、本争議の勝利をめざして支援と激励をよせていただいた全国の皆さんに心からお礼を申し上げます。
【合意内容】
  これまでの経過を踏まえ、長期にわたった紛争を解決し、今後より良好な労使関係の構築に資するため、以下の三点を確認しました。

1.会社と交渉団とは、過去、見解の相違から不当労働行為に関して紛争が起こり、それが長期に及んだことは誠に残念であったと認識している。

2.会社と交渉団とは、健全な労使関係の維持発展を強く望んでおり、会社が不当労働行為にかかわることはない。

3.会社は健全な労使関係の重要性や不当労働行為の違法性については十分に認識しており、今後とも従業員に対する周知徹底を図っていく。

  NKK京浜労組役選介入事件は、京浜労組の92年役員選挙でNKK権利闘争すすめる会が、京浜労働創友会(=反共インフォーマル組織)と会社職制が役員候補者を選考したと記された文書を発見し、不当労働行為(支配介入)として神奈川地労委に申し立てました。地労委は、会社の関与は認めたものの、不当労働行為を認定しなかったので、原告団は行政訴訟をおこしました。
 横浜地裁は、82年の役選介入事件(訴外)にっいては労務部長以下の不当労働行為を認定しましたが、92年の役選にっいては会社の介入事実をにじませつつ、立証不十分として原告の訴えを棄却しました。神奈川地労委の不当な「棄却命令」をはじめ、最高裁の「受理せず」という決定に至るまで、この闘いは極めて困難できびしい面がありました。しかし、これらの困難をのりこえ、今回会社と合意した内容は、今後の京浜製鉄の労働組合運動をすすめる上でも、日本の労働運動の発展にとっても大きな意義をもっものと確信します。

 合意の内容は、

  第一に、会社が京浜労組そのものへの介入はもとより、京浜製鉄の組合運動にかかわる様ざまな組織に対して、便宜供与したり、敵視行為をすることは不当労働行為をなすものであり、「絶対にあってはならない」とあらためて宣誓したことです。このことは今後、「会社が労使協調の組合や反共インフォーマル組織に関与育成するのはあたりまえ」という職場のゆがんだ「常識」をただし、今後労働者の団結と要求実現など職場闘争を発展させる上で重要な一歩を切り開いたものです。

  第二に、「国家的」リストラが強行され、日本の大企業職場の労働運動の「あり方」が社会的に問われている今日、京浜製鉄における労働組合運動の健全な発展の土台を担保したことは、神奈川をはじめ全国の労働組合運動の発展、とりわけ大企業職場の労働運動の発展に寄与することができると考えます。

  第三に、会社が、現代社会における労使関係のあり方、憲法と労働組合法に明記されている労働者の団結権にかかわるルールを守るとあらためて約束したことは、大企業として当然の社会的責任を果たすものであり、それはまた、企業として健全な発展を保障する上でも重要な意義をもっものとなりました。
 今回の全面解決を果たすことができた大きな要因は、京浜製鉄所の職場実態と労働者の要求に立脚し、企業に社会的責任を果たさせる大義ある闘いであったこと、労働争議は当事者間の話し合いで早期円満に解決する立場を一貫して堅持したこと、対策会議、弁護団、原告団、NKK権利闘争すすめる会の固い団結のもと、全労連運動との連帯、進歩と革新をめざす広範な人びととの共同のうえに、創意に満ちた多面的なねばり強い運動をつくりだすことができた結果だと確信しています。

 2002年10月の川鉄との経営統合を前に、NKKの職場では新たなリストラと労働条件切り下げの攻撃が行われています。私たちは、今回の合意内容を大きなステップにして労働者の権利を守る闘いを一層前進させる決意です。
 本争議に対し、共に闘い、支援と激励をよせていただいた全国の皆さんに、重ねて感謝申し上げます。
                          以 上




17-(2)、添付資料==NKK京浜労組役選全般に於ける労使一体の実態==

              = 連 合 の 本 質 =

          ・・・組合役員選挙民主化闘争の経過から・・・


(添付資料であり、関心のない人は読まずに飛ばしてください。ただ、大企業の連合組合は全て共通しており、前記の通り経営側が認め、謝罪している事実を認識してください。以下の内容は、私が原告から聞き取り調査及び書面での提出を求め、弁護士が類型別に整理したものです。民主党のマニュフェスト放棄、消費税率増税、選挙での衰退の根源と本質が明らかになるのでは)


 NKK京浜労組の役員選挙では、考えられないような種々の不当な制限がある。即ち、会社の育成する「創友会」系の人物が執行部を独占する中で制定された現在の役員選挙規定は、役選での自らの候補者の当選を確保する意図のもとに、候補者及びその支持者の選挙活動を極端に制限し、投票の秘密が守られず候補者の指名する者の開票立会い、参観さえも認められていない。そこで、1988年の第10期役員選挙に際して、投票の秘密の確保・開票の立会い・被選挙権の不当な制限の撤廃を求め、労組を債務者として横浜地裁川崎支部に仮処分申請を行った。


            仮処分申請書

                                      1988(S63)年7月4日

労働組合役員選挙禁止仮処分申請事件

         
                       申  請  の  趣  旨

債務者は、
1、投票の秘密が厳格に確保しうるように、投票記入場所を設置し、そこに、三方を囲み、他から記入内容を見ることができない構造の衝立を設置して、投票記入は、この投票記入場所で行なうこととする。

2、開票に際して、投票全数の把握、有効無効の判定及び開票の正確を期するために、立候補者又はその指定する組合員の立会いを認めること。

3、大会代議員の被選挙権につき、支部委員に限るとの制限を撤廃すること、との各是正措置をとらずに、第10期組合役員選挙、大会代議員及び中央委員選挙、支部役員選挙を実施してはならない。



                   申  請  の  理  由

   当事者
 債務者は、申請外日本鋼管株式会杜京浜製鉄所(以下会社という)の従業員及び駐在する本社従業員等をもって構成される労働組合(組合員約一万名)であり、主たる事務所を肩書地に有している。
 債権者らは、いずれも債務者の組合員で、労働組合の会社からの真の独立と、その民主主義的運営を一貫して求めてきたものであり、債務者の第10期組合役員選挙、大会代議員及び中央委員選挙、支部役員選挙について、別紙立候補予定一覧表の通りに(12名)、立候補を予定している者である。


                    仮 処 分 決 定 書

                                    1988(S63)年7月19日

                       主     文

1、債務者は、本部選挙管理委員会をして、その第10期組合役員選挙、大会代議員選挙及び中央委員選挙の実施に際して(ただし、信任投票は除く)、組合員に対して、投票記入行為を投票記入場所で行わしめよ。

   このように、投票を「投票記入場所で行い、投票の秘密を確保せよ」という、一般常識では当然であるが、労組役員選挙においては、貴重な前進が勝ち取られたのである。


一、役員選挙の各段階で行われる会社の不当労働行為の事実(これが連合の実態だ)

 このように、京浜労組が成立する以前から現在に至るまでの30年以上の間、会社との協調路線をとる創友会系候補者と労働者の権利を擁護し労働組合の本来の機能の回復を目指す権利闘争すすめる会との間で熾烈な選挙戦が繰り広げられてきた。選挙の長い歴史上会社は一貫して会社の意のままになる創友会系候補者を当選させ、組合の支配を実現すべく、立候補者の選択から始まって投票用紙の入れ替えに至るまで、選挙過程の全てにおいて干渉・介入を行ってきた。
 会社の介入は不当労働行為として法的に禁止されるため、当然のことであるが、証拠を残さないように細心の注意を払いつつ秘密裏に実施される。会社の介入は職場で働く労働者にこそ公知の事実となっているものの、会社介入を裏づける明白な証拠を発見することは至極困難である。しかしながら、介入の事実を完全に隠し通すことは所詮不可能であり、長い組合選挙の歴史において、K文書のように、偶然会社の介入を裏づける証拠が発見される場合もあり得る。また一見介入とは見えないような事がらでも他の証拠とつき合わせて見ると会社の介入を明白に裏づける証拠となる場合もある。そしてそれらの断片的な証拠を集積し、分析すると会社の組合役員選挙介入の全貌が浮かび上がってくるのである。
 会社の介入は選挙過程全般にわたるが、具体的に列挙すると次の通りとなる。

 (一)立候補者の選考段階における介入
 (二)票読み体制の確立(選挙人名簿の作成)における介入
 (三)票固めにおける介入
 (四)資金援助
 (五)投票、開票における介入

以下30年の間に発見された証拠、事実から、会社の役員選挙介入の全貌を再現する。

(一)、 立候補者の選考段階における会社の介入

1、支部長、副支部長候補等三役の決定に見られる介入

  本件の発端となった1992年4月に発見されたいわゆるKメモには、非組合員で、労務対策を職務とする会社職制である労務担当班長(係長)を交えて第12期支部役員選挙において、製銑支部、コークス支部の三役候補を選考し決定したとの記載があり、会社の介入を裏づけた。立候補者の選考に関して会社が介入したことを示す拠は、1968年の計装整備職場における会社介入を記録したHノート、1970年水江地区レバース工場における会社介入に抗議した証の書類がある。
  これらの証拠をつき合わせると、創友会系の立候補者の決定につき、会社が介入している実態が浮かび上がってくる。30年間、役員選挙においては、会社介入の後押しもあって創友会系の候補者が執行部を独占し続けているが、かかる現状においては、創友会系の立候補者は選挙後当然組合の役員になることが予想されるため、会社は候補者の選考につき重大な関心をよせ候補者選考段階から介入するのである。
   以下、過去の役員選挙に表れた会社の介入の事実を見る。

2、1968年、川崎製鉄計装整備支部の役員選挙

  1968年7月、川崎製鉄計装整備支部において支部三役選挙が実施された。当時創友会は結成されておらず、その前身であり会社協調主義を標榜する「第三グループ」という名称のインフォーマルグループが活動していた。同グループからは支部長候補としてHが立候補したが、Hの立候補は会社の指名に基づくものであった。
  Hは当時組合計装整備支部の支部長であり、インフォーマルでは幹事であり、会社の機構上は工長を補佐するA工の立場にあった。羽柴は当時の選挙戦につき詳細な記練いわゆる「Hノート」を残している。同ノートは後述するように会社側の客観的資料にも合致し信用性の高いものである。Hノートの2月20日欄には、「課長との話合いの嘸で来期の支部長は後一期という話であった。協力をしてもらいたいとのこと。その後、職場に帰りポストを考えるとの事を言っていた。」と記録されているが、このこ とは組合役員人事を職制が牛耳っていたことを示し、かつ、人事部の昇進問題とからめて画策していたことを示す。すなわち会社職制との話し合いで、1968年2月当時支部長であった羽柴について、もう一期支部長をやることの協力要請が課長からあり、その協力の見返として職場に帰った後のポスト(昇進)を約束することが羽柴自身のメモによって 明らかにされているのである。
  当時Hが支部長であったことはHノートの各種記載から明らかである。また地労委で証人にたったMが証言をしている。そしてHは、課長の要請どおり支部長に立候補し当選していることも間違いがない。一方、昭和45年3月30日付け西計装係作業配置一覧表によると、同年4月1日付けで工長に昇進している。そして、記載上の問題だけでなく現にHが工長に昇進している事実はM証言によっても裏づけられている。

3、1970年 水江レバースエ場

  1970年6月、京浜労組が成立した最初の組合役員選挙において、その週が第一直にあたった直の、工長・作業長を集めて係長が実施する会社の似付懇談会で支部長の予定候補者をきめ、リコピーをして各職場の詰め所に掲示した。会社が立候補者の選考につき完全に主導した露骨な不当労働行為である。
  後述するようにその10年後に実施された1982年第7期エネルギーセンターの支 部選挙における会社の介入を詳細に記録したKノートを読むと、水江レバースエ場においてなされたように、労担班長が主催する会社職制機構上の正式な組織である連絡会において支部委員候補が決定したことが記録されている。即ちかかるやり方は、1970年水江レバース工場に引き続いて、1982年、エネルギーセンターの第7期支部選挙においても繰り返されているのであり、会社の役選介入の常套手段であることがわかる。

4、1986年コークス支部

  1986年、第九期役員選挙が実施され、組合コークス支部においても役員選挙が実施された。そしてこのときも会社の主導により三役候補が決められている。即ち当時発行された創友会コークス班のちらしによれば、同班は創友会、作業長会、工長会、職制で構成される役選選考委員会を、1985年12月、86年2月、4月、6月に開いている。職制が通常非組合員のことを指すことは、当時創友会コークス班長であり、前記ちらし作成者であるKも自認するところである。従って当時コークス班においても非組合員である労働関係の職制=労担班長を交えて創友会系のコークス班支部長候補が決められているのである。
  立候補者の決め方であるが、1968年の計装整備支部の例、1982年のエネルギーセンターの例とつき合わせると、役選選考委員会で候補者を決・めるに当っては、労担班 長を通じた会社の意向が主導しているものと推定される。

5、支部委員候補者の決定

  支部では三役以外の職場委員、執行委員も選挙で選ばれるが、前述のSノート、Kノートによれば、会社は右選考についても介入している。
 例えばSノート5月欄には、1968年、川崎製鉄計装整備において実施された役員選挙につき、「次期役員の件、T氏、D氏との第一回この相談をすることにする(考え方のまとめ)。K係長の要請で次期役員の構想を提出する(5月6日)」との記載がある。係長とは事務係長のことをいい、労担班長に当たる。右記載は木島係長の要請で次期組合役員の構想を提出しろということで、Tらと第一回目の相談をすることにしたという意味である。同ノートの6月欄には、Hの方からTを通じて事務係長に来期の役選に関し連絡を依頼している。6月15日欄には、「各実行部長の方の連絡をする、次期役員立候補について、各実行部長、代議員立候補を依頼する、全員諒解をしてもらう。会計監査についてはまだ検討していない」との記載がある。実行部長とは支部の執行機関としての労対部長、教宣部長などの専門部の部長をいう。同ノート7月欄には「金田作業長より、職場委員の変更について話しがあり、K係長のところで一笑に付される」との記載がある。以上より、支部長候補以外の役員候補者についても全面的に労担班長の指示のもとに選任されていることが明白である。

6、1982年、第7期エネルギーセンター支部の役員選挙においても
  会社が露骨な介入したことを示す明白な証拠がある。即ち当時エネルギーセンター室で作業長であったK・Sが作成したノートには、57年5月13日に開かれた労担班長も出席した会社連絡会席上で、T作業長が創友会の幹事会の報告を行い、支部の実行部と支部委員の選出を6月1日までに報告することが記録されえいる。連絡会とは現場責任者会議と呼ばれ、労担班長が召集し、労務部員、出勤している作業長全員、そしてエネルギーセンター室長出席する会社職制機構上の正式な会議でありその席上で、創友会系の支部長以外の役員候補者の選任のための会議の内容が逐一報告されているのである。
  Hノートは1968年の計装整備の会社介入の記録であり、Kノートは1982年のエネルギーセンター室での会社介入の記録であり、両者は場所と時期こそ異なるが、会社主導で執行委員、実行部長などの候補者の選考がなされている点で共通しているのであり、同様のことが他の支部でも、他の時期においても繰り返されている事が容易に推定される。

(二)、票読み体制の確立 (名簿の作成)

1、支部長など三役の立候補者が決まると
  立候補者を当選させるべく、選挙運動の準備 にとりかかる。選挙活動において重要なのは票読みである。票読みを能率よくかつ効果的に実行するためには、有権者名簿の作成、各有権者の動向即ち支持と不支持、支持の程度の分析が不可欠である。
  有権者即ち従業員の情報を握っているのは会社、具体的には職制であるが、第7期役員選挙に関する乙七九号証及び第九期役員選挙に関する記載を読むと、職制が票読み用の名簿を作成、票の分析に全面的に協力していることがわかる。

2、1982年 7期 技術研究所

                   1982年、組合技研支部において第7期役員選挙が実施されたが、同年2月、創友会、技研班が作成した「組合役選対策案」を見ると、既に一月に創友会会員名簿と幹事分担表の作成を終了し、2月に組合員全員の名簿作成との記載がありカッコ内 に職制とある。更にその一行下に、「創友会としては会員全体の組合知識を強めるために学習会を開く」との記載がある。これは、役選対策に取り組む上で、全組合員の把握が必要であるが、当時組合技研支部の組合員は800名であり、創友会会員はその内200名弱しか組織していず、創友会単独で組合員全体を把握するのが困難であったため、職制に票読み名簿の作成を依頼したものである。更に、3月の欄には、会員全体の集計(第一回)会員138名、二行目に技研全体の集計(職制)組合員との記載がある。これは2月段階での第一回の票読みを終らせ、会員については創友会が行うが、技研全体のものについては、会員も含めて職制組織が担当するという意味である。以上より、名簿の作成から票の分析まで創友会と職制は役割分担をしていることがわかる。

3、1986年 9期 技術研究所

  1986年、第9期役員選挙が実施された。同年二月に作成された技研役選関係日程表によれば、「一月、名簿作成、1、幹事各会員毎分担表の作成及び各人のチェック、2、職制組織表の作成及び各人のチェック、活動を実施する」との記載がある。
職場組織表の作成及び各人のチェックについて、前記と異なり担当者につき具体的な記載がないが、@前述のように四年前の同じ技研支部の選挙において、名簿作成につき、職制の協力を得ていること、A三月欄には「支部役選に向け協力要請、職制要請」との記載、四月欄{職制、組織により各人へ協力要請}との記載があり、依然票読みにつき職制の協力をあてにしていることから、名簿作成についても職制の協力を得ていることは間違いない。

(三)、票固めの実施

 1、職制の協力を得て、選挙人名簿が作成され、選挙人の投票動向が分析された後は票固めを行う。

  後述のKノートには、票固めを創友会と職制が分担していることが記載されている。また票固めにつき進捗状況が労担班長が主催する連絡会で報告され、報告にもとづき労担班長がはっぱをかけたり、また必要な指示を行うことが記載されている。票固めの手法としてソフトボール大会などスポーツ交流会が利用される。選挙の年にはスポーツ大会がさかんに開かれ、創友会主催であっても全従業具に参加が呼びかけられる。1992年5月に開かれたソフトボール大会を報じた作業長会ニュースには、作業長のほか、労担班長、更には室長までもが参加したことが報じられている。会社職制が参加するスポーツ大会となると、従業員は、成績査定への影響などの心配から出席を拒む事は困難である。1986年5月のスポーツ交流集会を報じた創友では、スポーツ大会後の懇親会に、創友会系の立候補者が顔を見せ顔を売っていることを報じている。スポーツ大会が票固めであることは創友会幹部神尾も地労委で自認しているところであり、スポーツ大会が会社ぐるみの票固めの場であることは明らかである。

  以下証拠に表れた会社ぐるみの票固めの実態を述べる。

 2、1982年、技術研究所支部選挙

  前述の1982年技術研究所における支部選挙゛の際作成された創反会技研班の組合役選対策案を見ると、3月に第1回の集計が行われそこでなされた分析をもとに、4月、作業長会、工長会、三役の交流会を階差押し、春闘報告会で役選勝利に向かっての集会を開き、5月に創友会と作業長会、工長会が分担して、「不安定的な員数を零に持っていくように活動する」と記載されている(同)。具体的には、5月にはソフトボール大会などのさまざま行事があるので、そのような機会を利用して得票活動を行う。そして6月には第二回集計が実施され、反対の者の最終確認をする。そして作業長会、工長会、三役の交流会を開き、一時金報告会を役選勝利にむかっての最終集会と位置付ける。創友会と職制組織が役割分担を行って票固めを行うのである。特に作業長は、人事権の一部である第一次の査定権限を有するため作業長に

3、ソフトボール大会を利用した票読み

創友会の選挙運動として、ソフトボール大会などのスポーツ交流会が盛んに行われる。
 例えば1982年6月のエネルギー支部選挙におけるソフトポール大会、1986年5月のソフトボール大会、1992年4月のソフトボール大会、同5月の五者交流ソフトボール大会などである。ソフトボール大会などスポーツ大会は、選挙がある年には頻繁に行われるが、選挙区毎に実施されるなど、票読み、候補者の紹介の場として位置付けられている。組合役員選挙の実施方法として、スポーツ交流の記載があり、また創友会幹部もソフトボール大会は重要な選挙活動と位置付けていると証言している。実際、第9期役員選挙が実施された1986年の12月に発行された創友会機関紙「創友」を見ると、ソフトボール大会の写真が掲載され、その後の交流会、親睦会に役選勝利に向けての掛けあいコール、完勝コールを行い、当時鉄鋼ブロックから執行委員候補として立候補した松元秀夫が交流に名をかりて票固めを行っている模様が写真に残されている。
  創友会主催あるいは創友会と職制共催のスポーツ大会は、創友会会員のみならず非会員も対象となり、非会員も事実上参加を強制される。即ちスポーツ大会には創友会会員であ る作業長が参加するが、作業長は部下を査定する権限があるため、大会に参加しないと創 友会の選挙活動の非協力者としてにらまれるためである。例えば第三期役員選挙が実施さ れた1978年6月に作成された創友会の幹事会の報告には、100%の支持を目指すこと、そのために職場各局の役付者に対して票読みを指示し、支持不明のものがあれば名前を明瞭にして報告することを求めている。ちなみに右記載の三行下にはソフトボール大会の記載がある。即ちこのように激烈な締めつけの下にスポーツ大会が票固めの場として位置付けられるのであり、会員はいうまでもなく、非会員も参加を強制されるのである。
  以上から創友会のスポーツ大会が重要な選挙運動の一環であることは明白であるが、本件で問題になった1992年、第12期の役員選挙においても5月2日多摩川のグランドで、職制、創友会、作業長会、工長会、組合支部の五者が合同ソフトボール大会を開催し部長、工場長、各ライン班長、そして労担班長らも職制チームを作って参加し、ソフトポール大会終了後、クラブで懇親会を開いている。当然クラブの懇親会に候補者が顔を見せ票固めを行った事が推定される。創友会の選挙運動であることが明白なスポーツ大会に労担班長、部長ら非組合員職制が参加して、創友会の選挙活動を応援すること自体中立義務違反であり、不当労働行為である。
  なお、Kノートの「57年9月9日の連絡会メモ」には、「調整金・・・役選で活躍した人、表面安全面」と記載があるが、この記載につき、同ノートの作成者である小林証人は役選で活躍した人に調整金をあげようと考えて、創友会会員だった青木を選び、その理由の一つとしてソフトポールで頑張ったことを上げた。即ち1982年当時、会社介入の先兵となり、地裁においても会社側証人として 証言した小林自身もソフトボール大会のスポーツ交流が票固めの重要な役割を期待されていることを認めていると言える。

(四)、資金援助

創友会の選挙活動に対し、会社から飲み食いの費用につき現金がでている。

1、例えば前述のHノートによれば、1968年の計装亀整備支部の選挙において、インフォーマルグループは四月八日、職務中の午後二時に、川崎駅西□にある「みその」において会議を開き、これを公用扱いにしてもらった上、職制から飲食代として5000円の寄付を受けている。同年5月にも課長を通じて課職制から寄付 を受けている。
  同ノートの10月21日の記載を見ると「作業長会の議事録はうまくないとの声が出ている。この次は費用をかけないで対処すること(この前は料理だけ見て、あとは課長、係長の方より出ている)」と記載され、作業長会に課長、係長から飲み代が出ていることを記し、かつ、議事録で飲み代をもらっておおっぴらに社外でのんでいることに対する職場の批判を気にする文面となっている。同ノート1月9日欄を見ると「午後4時30分より実行部会(課交渉)要員設定に関する件」「実行部長会議(課交渉)係長、課長より酒二本、ピールー打とおかず代1000円、帰りK係長宅による。全員」と記載され、労使の団体交渉直後に職制から酒、つまみ代が出され、なお労担係長K宅まで飲みに行っている。これも労使の癒着ぶりを示すものである。
  なお以上の外、1月7日に5000円、7月12日に5000円、7月31日に1万5000円、10月14日に1万円の寄付をもらっている。そして6月26日には奇怪なことに投票用紙作成の名目で1000円をもらっているのである。

2、 また1976年の第4期役員選挙につき、1976年9月27日付けの鉄鋼新聞  は「労担班長を通じて、150万円の役員選挙対策費が支出され、労働創友会の各種会議で飲食代として使われた」と報じている。

3、 また乙八〇号証は創友会小径継目無管班の会計報告であるが、創友会と会社から祝儀をもらったことを報告している。

4、1982年の第7期エネルギーセンター支部役員選挙において、前述のKノートの9 月9日の連絡会メモの箇所には、表面安全面として調整金が会社から出ている。買収による会社介入の手□が明らかにされている。

(五)、投票における干渉・介入

  選挙が選挙人の意思を反映するためには、投票の自由が確保されなければならず、そのためには秘密選挙が保証されなければならない。しかし、組合員の投票は会社の影響下に ある作業長によって占められた選挙管理委員会の監視下で行われ、選挙の秘密も十分保証 されていないため、組合員は不利益取扱を恐れて、創友会の対立候補に投票できない状況 にある。

1、例えば、一九八四年(昭和五九年)に実施された技研支部三役選挙において、技研支部全体を一括して開票したにもかかわらず、技研支部の京浜研の投票数が会社職制に判明するという不可解な事件が発生した。このことは投票の内容を会社職制が知っていることを意味する。

2、また1976年(昭和51年)の組合動力支部三役選挙においては、、組合員であったMは、開票業務に携わった選管委員から、「職場の投票数を確認するという名目で、各職場毎に投票箱を開けて、投票数を確認すると同時に、民主的な候補の入った票数をメモして、開票業務の終了後に、作業長に報告し、作業帳はそれを事務所に直ちに報告するという体制になっていた。それぞれの選管が票のとりまとめを行ったが、集計は一部の人が行ったので、最終の票の確認はその選管でもできなかった」との報告を受けている。その後会社側の候補者に投票しなかった組合員に対し攻撃が始まった。即ち「○○ 職場から○票入った。」「誰と誰とが票を入れた」と組合員に対する攻撃が強まったのである。

3、 1970年(昭和45年)水江地区のレバースエ場では、前述したように、会社の懇談会で支部長の立候補者をきめ、各職の詰め所に掲示する一方職制を通じて「○○には投票するな」という脅迫を行った(乙六七のI)。かかるあからさまな会社の介入に対して、本部選管も作業長、会社による介入の事実を認めざるを得ず、「1、投票の秘密を守る。このため作業長の目の前で書かせるようなことはしない。2、投票用紙は選挙人名簿と照合して、投票所で本人にわたす。代理人にはわたさない。もし、代理人にわたした場合は違反行為となる。3、選挙に対する会社の不当・不法な介入はやめさせる」などを確認せざるを得なかった。

(六)、開票段階における介入

1、開票の段階でも会社は介入する。

 役員選挙規定は開票につき、選挙管理委員会、開票従事者以外の者は選管の許可なく  開票所に出入りしてはならないと規定されている。本部選挙管理委員会は支部長、支部選挙管理委員会は支部委員会の指名によるのであり、執行部を独占する創友会系が選挙管理委員会を牛耳る。そして選挙管理委員会は、右規定を盾にとって、権利闘争すすめる会会員はもちろん一切の組合員の立会いを認めない。その結果密室の中で票の入れ替えが横行する。票の入れ替えは密室の中で行われるが、投票箱の封印の異常の目撃、開票結果の告知の際の票の数の矛盾などで表面化する。

2、投票入れ替えを直接裏づける証拠はSノートである。Sノートは原本が存在し、Sの判も押されその成立は疑いがない。ノートの作成者Sは検査課の労務担当係員であった。 そのSノートの記載内容は票の改ざんを記録したものである。まず1967年11月2日に一時金闘争のスト権確立を求めた投票結果が記載されており、左側に「生」とありこれが本当の投票結果であり、右側に修正した投票結果が記載されている。
  同2は組合が神奈川県評を脱退することの可否を問うた投票であるが(昭和42年9月)、ここで開票実務に立ち会える組合執行部の手によって「生」・および「修」として票の入れ替えをしている事実が明らかになっている。清野ノートは選挙に関するものではないが、以下述べる選挙に関する実例と重ね合わせると、選挙の際もSノートに記載されたと同様の票の入れ替えが行われたことは容易に推定される。

3、投票の入れ替えの具体例は以下のとおり無数にある。

  (1)、1968年 分塊工場

組合細片支部役員選挙において、投票箱の封印が‘投票時と開票時で異なっていた。即ち投票箱が入れ替えられた疑いが濃厚である。

(2)、1970年 機械工事支部旋盤職場

(@)組合大会代議員選挙で、Hが立候補し、優勢な情勢に驚いた選管である職場職制が、開票作業を一日伸ばそうとしたが皆の抗議により失敗し、その結果Hは当選した。
(A)支部役員選挙において、投票日3日目にもかかわらず、投票箱の封印が糊でぬれていた。開封して票を入れ替えたのではないかとの疑惑がもたれた。また投票箱の中から筆跡の同じ投票用紙が10枚重ねて折ってあるのが出てきた。おそらく作業長が10人分の票をまとめて投票したものと推定される(同)。票の書き換えもする(同)。
  また信任投票の場合、白紙投票が信任になるため、信任投票では投票用紙の記入場所に行くこと自体不信任票を投票するものとみなされ、記入場所に行こうとした者が投票管理を行っていた選管委員長に「そのまま投票すればいいのだ」と恫喝されるなど、選管によって自由な投票が妨げられた。
(B)、1976年
  選管が各職場毎に投票箱をあけ、投票総数と反対票をメモし、作業長に報告し作業長は 事務所に報告していた。集計は選管の一部の人間がする。
(C)、1982年 小径溶接管支部
   創友会と権利闘争すすめる会の候補者が立候補し激しい選挙戦になり、創友会系の候補者が当選したが、告示された選挙結果を見ると二人の候補者の信任票の合計と有効投票数と一致しない。単純な計算ミスというよりも信任票につき何らかの操作が行われた可能性が高い。
  同時期実施された電縫管支部総会代議員選挙において、運転班において、KとEの決戦投票となったが、開票に立ち会ったK・Tは自分の投票用紙が出てこなかったため、選管に抗議したがとりあってもらえなかった。即ち投票箱が取り替えられた可能性が高い。

  (七)、結語

 以上会社の介入は立候補者の選考、票読み、票固め、選挙運動に対する飲食費の提供、組合員の投票に対する介入、投票用紙の入れ替えまで、あらゆる段階で行われている。


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18、NKK鶴見中高年差別争議ー熟年の誇りー

       (1993年8月3日 〜 2001年7月26日   8年)



T、はじめに

熟年の誇り
 この闘いは、同じNKK京浜の隣にある鶴見造船の仲間が、起ちあがった闘いであり、私が原告として闘った前記「役選介入事件」と、ほぼ同時期に同時併行して進んだ争議である。しかも、私は自らの争議の原告として闘いながら、鶴見中高年差別争議支援する会の事務局に席を置き共に闘ってきたので、二つの争議を同時に闘い抜き、我が事として、深い関わりを持つ内容の闘いであった。
 55歳で3万円の賃金カットは、NKK全体のに掛けられた攻撃であり、鉄鋼で働く私達にも同時に降り懸かる不利益でもあった。だが、その問題で闘うかそうでないかの差によって、違いが出てくるのが現実である。鶴造の皆さん(10%)は、闘いによって勝利解決し損失分は取り戻し救済されたが、闘わなかった鉄鋼部門の労働者(90%)に対しては会社は知らん顔、55歳3万円のカットは実施されている。8年間闘ったか否かの差であり、闘わなければ権利は守れない厳しい現実の証であり、全ての事柄に共通して適用されるのである。その典型として寝食を共に闘った仲間の闘いを紹介しておきたい。尚、私が関わった争議は、全て勝利解決しているが、共通しているのは多数の支援者が多彩な運動を展開しているが、その内容は、原告団・弁護団・支援する会事務局で集団的に討議し、作成し発表した声明文に集約されています。重複しないよう、当該争議の特徴的な部分を掲載してありますので、その旨ご了承ください。

U、闘いの背景と経過

1、なぜ裁判に起ち上がったのか
  いくら不満があっても、いったん労働組合と会社が協定してしまえば「やむをえない」、と諦めてしまうのが一般的です。ましてや大企業の中にあっては尚更です。NKK鶴見の中高年賃金差別争議は、その意味で全国的に画期的な闘いであったと言えます。55歳から月額3万円カットを中心とする賃金制度等の改悪は、鶴見事業所だけでなく、NKKの京浜製鉄や福山と製鉄部門を含め、全社的なものでした。このうち裁判に持ち込んだのは鶴見だけでした。組合員数では、約1200人(当時)で全社員の一割程度にすぎず、当初から厳しいものがありました。しかし、鶴見には闘いに立ち上がる土壌がありました。
  第一に、職場に「NKK鶴見・希望の会」という存在があったことです。希望の会というのは、「定年まで働こう」という一点で結集した職場の自主的な組織で、1986年に作られた会で、かつてない多くの労働者がこの会に結集しました。そして、希望の会は多くの成果をあげてきました。原告の母体となったのは希望の会です。職場要求を掘り起こし、ビラや職場集会での発言などを通じて職場に根を張ってきました。政党、思想信条にこだわらない幅広い人たちの結集体にふさわしく、ゆるやかでのびのびと活動してきました。私たちは他の企業の人たちや他の争議団の経験や教訓に学びながらも、それを機械的・教条的に受け入れるだけでなく、自分の頭で考え、創意ある活動をしていくことに力を注いできました。多くの要求を実現したことから、職場労働者の希望の会に寄せる期待は大きく、工場門前で行う活動資金カンパは、少ない時で1回9万円、多いときは13万円も寄せられていました。このように希望の会の活動は職場の労働者に支えられてきました。裁判に訴えることができたのもこうした活動が土台にあったといえるでしょう。
 第二に、あまりにも低い賃金をさらにカットしようとした会社への怒りです。勤続年数が30年近くになるベテランでも月額32万円という低賃金なのです。それを会社は「当社の高齢者の賃金は、世間や造船他社に比べて優位にある」とウソを言って、55歳からの賃金を3万円(約一割)カットしてきたのです。組合も会社に協力して、若干の手直しをしただけでわずか2ヵ月で妥結してしまいました。「30年も40年も働き続けた最高の熟練労働者が、55歳になったからといって、一割もの賃金をカットされるなんて、『ふざけるな、この野郎!』と言いたい。そう思っている人は職場で百や二百人じゃないと思う」許せない、がまんならないという怒りが、闘いの原点です。それが裁判に踏み切らせました。提訴当時、55歳からの賃金カットの対象者は3名にすぎず、あとの17名は55歳未満で、まだカットされていませんでした。それでも将来カットされることが確実なので原告団に加わったのでした。

2、闘いの経過
   争点は何だったのか
 1993年8月3日、鶴見と浅野ドックに働く労働者20名が横浜地裁に提訴し、この争議は始まりました。その日、NHKテレビは夜のニュースの時間で報道しました。新聞も翌日、朝日、毎日、東京、神奈川、赤旗などが報道しました。NHKテレビまでが報道したのは、大企業を相手に、「労使双方が結んだ協約は違法だ!」という闘いに挑んだことが、特筆すべき争点の裁判だったからでしょう。
  争点の第一は、これが不当な「年齢差別」であるということです。「造船不況」の下で、会社は現場配属の新規高卒者の採用を手控えたため職場の平均年齢は40代後半から50代となっていました。つまり、中高年者が主力となってNKKの造船現場を支えていたのです。昨日と全く同じ仕事をしていて55歳になったというだけで、何の代償措置もなく賃金を一割もカットするというのは不当です。これは、法の下の平等をうたった憲法第十四条および労基法第三条の均等待遇に違反するのです。そして国際法の国連人権規約やILO条約の第162号勧告では、労働者の年齢差別を禁止しており、これにも反するのです。
  争点の第二は、労働組合が不利益を受ける当事者である組合員の意見を聞こうとせず、非民主的な手続きで締結してしまった労働協約であり、これは無効だということです。つまり、組合のあり方を問う裁判でもあったわけです。本来、自由と民主主義を一番大事にしなければならない労働組合が、十分な討議もさせずに2ヵ月という短い期間に超スピードで妥結してしまったのです。若年層の低賃金をカバーするために高齢者から賃金を奪い取るというのですから、組合員同士で利害が対立する問題でした。従って、時間をかけよく話し合う必要があったのです。なぜ彼らはそれほどまでに急いだのか?この問題をめぐって希望の会は門前宣伝ビラや職場集会での発言などを通じ、制度の改悪をやめさせようと訴え続けました。その結果、職場では組合の思い通りにはいかなくなってきたのです。
  職場集会で否決する職場も出てきました。ある職場では賛成が少なかったため、当日休んだり出張している人に電話をかけて聞き取りをし、賛成票を水増しするという前代未聞のことまでやったのです。また、ある職場では拍手で採決をとると言って、賛否伯仲であったにもかかわらず、「賛成の方が多かった」として賛成にしてしまいました。組合が「不退転の決意で臨む」と言明したのは、組合員の不満を受けてがんばるという決意ではなく、会社の意に沿うような形で早期決着を図るためのことだったのです。大企業職場で、執行部提案が否決されるという事自体、嘗てなかった出来事であり、いかに妥結の仕方が強引かつ卑劣であったかを物語るものでした。

   V、 法廷での闘い

     横浜地裁での闘い
 横浜地裁に訴えたものの、情況は決して甘くはありませんでした。リストラ「合理化」の嵐の中で、高齢者がやめさせられたり、賃金ダウンの仕打ちを受けたりすることに対し、不満はあっても「やむをえない」とする風潮が世間にあったからです。また、高齢になれば労働能力が下がり賃金カットも仕方がないという一部の世論も障害となりました。ましてや、労使協調の組合とはいえ、組合が会社と協定を結んでしまったわけですから、組合員が裁判に訴えるというヶースは余りありませんでした。
 しかし、「中高年差別をはねかえす神奈川の会」ができ、そこがよびかけ人となって集会を開いてくれたのは、我われを勇気づけてくれました。神奈川でも太陽東洋酸素労働組合が私たちに続いて中高年差別の裁判を起こし、気運が盛り上がってきました。
 横浜地裁の法廷では、次のようなことを明らかにして会社側を追いつめました。
 @ 賃金カットをしなければならないほど会社の経営状況は悪くはなかった。
 A「他社に比べ、NKKの高齢者の賃金は優位にある」というのはウソである。
 社会水準との比較でも優位という会社主張のウソも具体的な数字を上げて反論した。
 B 高齢者の労働能力低下論の誤りを、最新の労働科学の成果をもとに指摘した。
 C 下山房雄、芹沢寿良、古屋孝夫の三氏には賃金論の学者・研究者として、55歳からの賃金カットという年齢差別  の誤りについて詳しい意見書を書いてもらい提出した。
   D 労組は組合員の中に大きな不満があったのにそれを強引に押さえつけて非民主的な手続きで会社と協定を結んでし  まった。
 E 組合役員を法廷に引き出し、手続きの不当性を暴き出した。
 F 高齢者からカットした分は若年層に充当するというが、中堅層も生涯賃金では損をするということを暴露した。ま た、若年層に回わすといっても若年層の採用をほとんどしていないので、会社がネコババしていることを突いた。
 G 会社側の主張はまずはじめに賃金カットありきであって、理屈は後から付けたものであった。原告は会社側の主張  がクルクル変わる矛盾を突き具体的に反論した。
  こうしたことを明らかにする中で、当初「門前払い」されるかもしれないという情況をはね返し、「相手を土俵の中に引きずり込み、互角の闘いにまで持ち込んだ」というところまで追い込んだのです。
 そして、横浜地裁に公正な判決を出すよう、全国から3、047団体、個人署名28、613名を集め提出しました。また、1999年12月に結審してから7ヵ月後の判決まで、雨の日も風の日も毎週欠かさず、35週にわたって横浜地裁への要請行動と石川町駅前での宣伝行動をくりひろげ、7年間に35回に及ぶ口頭弁論を行い、原告団が会社側を圧倒しました。しかし、横浜地裁の南敏文裁判長は2000年7月17日、「3万円の賃金カットは、労働者にとって苛酷とまでとはいえない」として大企業の言い分に屈した不当判決を出しました。原告と支援する会、弁護団は、この不当な判決に怒りを燃やし、即刻東京高裁に控訴しました。

    東京高裁での闘い
 会社は、東京高裁でも「労使自治」を盾に裁判所が関与する問題ではないと主張し、労働協約は有効である、早く結審してほしいと主張しました。それに対し、私たちは横浜地裁判決に徹底的な反論を加えるとともに、全員が陳述書を再提出しました。控訴人、岡崎は、賃金が安いため娘を嫁がせるとき親としてどれだけみじめな思いをしたかを切々と語り、労働実態、生活実態を陳述しました。控訴人を代表して証人に立った高間もベテランも進歩の途上にあることを実績をもとに証言し、横浜地裁の判決の不当性を追及しました。
  こうした訴えが裁判官の心を動かしたのでしょう。東京高裁は2回の□頭弁論のあと、和解の勧告をしました。そして2月22日以降7回の和解交渉がもたれ、2001年6月26日、異例ともいえる裁判所の和解勧告書が出され、それを双方が受諾するということで和解が成立しました。 裁判所の示した解決金は700万円ですが、これはカットされた賃金額に相当するものであり、そのことが和解勧告書の表現から分かるようになっており、一審の横浜地裁判決を事実上くつがえす内容のものでした。会社側と私たちとの自主交渉は続いていましたが、東京高裁での和解受諾後、交渉は急速に進展し、1ヵ月後の7月26日には全面解決の調印となりました。制度の撤回までには及びませんでしたが、実損分(カット分)に相当する金額を高裁で取り戻すことができましたし、会社との自主交渉で高裁での解決金とは別にその数倍に及ぶ解決金を手にすることができたのです。また、職場に残る原告たちの処遇についても、解決にふさわしい措置を行うなどの約束もさせたのでした。
  和解交渉が進展したのは、交渉だけに頼らず、併行して社会的包囲の運動の手を緩めず、全国行動を展開したこと、銀行などへの要請行動など、さまざまな行動を連続して行ったことが大きく影響し力になったと思われます。

     法廷での闘いまとめ
  私たちは、法廷での闘いを弁護士まかせにせず、現場の実態を知るのは自分たちであり、自らの闘いと位置づけて取り組みました。会社は法廷の中で「原告側の計算で間違いないか」と問われ、「ほぼその通りです」と認めざるをえませんでした。会社は当初、歳をとると労働能力が落ちると主張していましたが、原告側が学者の論文や労働現場の実体を明らかにする中で、会社はすぐそのことを言わなくなりました。また、55歳になると標準生計費が下がるので賃金を抑えてもいいという主張に対しても、原告側は政府の発行する資料をもとに反論し、会社の言い分のデタラメさを追及し会社側を圧倒しました。
  私たちは当初、法廷では会社を相手としてやっていましたが、実はこの賃金カットを認めてしまった組合側にも問題があるのだから組合幹部も法廷に引っ張り出す必要があることに途中で気がつきました。組合幹部の証言で、次のようなことが明らかになりました。賃金カットをされる人たちの意見を特別に聞くようなことはしなかったこと。高齢者からカットした分を若い人たちに配分するという会社側の言い分について、「若い人たち何人にいくら配分したのか」と質問され、「調査していない」と答えたのです。さらに「なぜ調べなかったのか」と問われ、「会社を信用しているから」と答え、会社との癒着ぶりを自ら露呈してしまいました。「要するにあなたは、組合員の利益より会社の利益を優先させたのですね」と問われ、「結果的にはそういうことになりますね」と白状してしまったのです。
  なかでも原告の岡崎悦明の、娘を嫁がせる時に20万円のお金しか渡すことができず、娘の顔を見られなかったという目頭陳述は傍聴者の涙をさそっただけでなく、高裁の裁判官の胸にも響いたものと思われます。

      W、神奈川争議団の伝統に学び会社を社会的に包囲する闘い

     支援する会の結成
 原告団は、この争議を本当に勝ち抜くためにはNKKという企業を社会的に包囲していく必要を感じました。それは、多くの他争議から学んだ教訓でありました。横浜地裁で勝っても負けても争議は長引くわけで、全面解決を果たすためには会社が「もう降参」とネを上げるまで社会的に包囲する運動が必要となります。それにはどうしても支援してくれる組織が必要です。横浜地裁での結審を間近にした1999年7月頃から具体的な準備に取りかかり、同年11月4日に「NKK中高年差別争議を支援する会」として結成しました。支援する会は、鶴見事業所のある鶴見地区と浅野ドックのあった神奈川地区から主な役員を出してもらうことにしました。争議の発生した地元を重視したいと思ったからです。その結果、全労連鶴見区労連から会長と事務局長を、また、神奈川地区労連から副会長と事務局次長をそれぞれ依頼しました。さらに、争議の焦点」を明確にするため、副会長に中高年差別をはねかえす神奈川の会からも出してもらいました。その他、争議団や労組、民主的な組織から、争議経験豊かな人材を代表として派遣してもらいました。
  支援する会の結成は、この争議の視野を広げる上でも大きな役割を果たしました。どちらかというと、「賃金制度をめぐる会社と従業員の争い」といった性格から今一歩脱皮し切れないきらいがありました。しかし、支援する会ができてから、「人間の尊厳を守る闘い」、「物造り日本を守る闘い」、「リストラ合理化から地域経済を守る闘い」へと、争議の性格は高まっていきました。支援する会は、一審の横浜地裁で結審となる前に結成されていたため、横浜地裁の不当な判決に対し、すぐ対処方針を決め、東京高裁での逆転勝利をめざす行動を果敢に行うことができました。争議団の経験がここでも生かされたといえます。
  その基本的な基準として、神奈川争議団が長年の闘いで経験し築き上げてきた、「要求を明らかにする」、「情勢分析を明確にする」、「闘う相手を明確にする」、さらに「自主的主体的運動を行う」、これらの闘いの法則を自分たちの争議に当てはめながら、後半の運動を構築していったのです。そして、支援する会の結成はこうして、会社や銀行にとっても無視できなくなり、申し入れや要請に対しても「動かざるを得ない」情況をつくり出したといえます。銀行側が「会社には正確に伝えておきましたよ」と言ったことと、会社側が「○○銀行にも行ったんですって?」と言うこととが合致していることをみても、効果のほどが分かります。支援する会は、原告の意向を尊重しながら方針を決めていき、おおらかに実践していくことができました。

    株主総会を重視し活用
  私たちは株主総会を重視してきました。それは、株主総会が一応一般社会に開かれた企業の公式な行事であること、株主であれば一定の発言が出来ること、会社の答弁や反応を引き出すことが出来ること、それを宣伝に使える事などからです。情報公開やアメリカ流の経営指標の重視、企業分析が重視される風潮の中で、社会的にも株主総会を重視する見方が強まってきました。そうした事から、私たちも株主総会を重視するようになったのです。そのため、原告個人または原告団、支援する会で会社の株券を購入し、株主総会への出席権を手にしました。株主総会では、会社の経営上の問題点を具体的な事実をあげて質問します。その場合、単に痛いところを突くだけでなく、企業が健全に立ち直るための提言という観点で発言することが大事です。なぜなら、そこに出席している人は、会社の役員、社員そして一般株主だからです。その人たちは会社の発展を期待している人たちを「敵」に回すことはありません。
  1996年から株主総会に出席し、争議の早期解決を迫りました。1998年には、希望の会顧問の小川善作さんが「20世紀中に起きた争議は20世紀中に解決すべきだ」と迫ったのは会社役員たちの耳に強く響いたようでした。「争議が残っているのはよくない。解決した方がいい」という抽象的な答弁を私たちは宣伝面でも活用しました。1999年には、「裁判のなりゆきを見守っている」という答弁にとどまりました。しかし、「争議を残したままでは企業は発展しない」という指摘に、一般株主からは「話を聞いていたら、この会社がますます不安になってきた。社長、しっかりせい」との声があがりました。2000年には、会社はついに「争議解決のために誠意をもって努力したい」との答弁を引き出したのです。

    全国行動と支援する会の果たした役割
 こうした答弁を弾みにして私たちは事業所への申し入れや銀行への要請のとき最大限活用しました。「副社長がこう答弁してるんだからあと一押しで解決できる」と判断し、そして、運動も神奈川や近県だけでなく全国に広げていきました。2000年11月から12月にかけ、全労連本部や神奈川労連などの協力を得て全国主要12都市へ要請団を送り、NKK本社や全国の事業所や支社・支店、背景資本であるみずほフィナンシャル・グループ銀行の本店や全国の支店等への申し入れや要請行動を行いました。更に主要駅頭でのチラシや宣伝で市民へ訴え、団体署名のお願いなど、全国的規模で行いました。この行動には支援する会をはじめ、全労連、地方・地域労組、民主団体、争議団などなどの強力な支援があったからこそできたのです。事前の準備や根回し等、支援する会の果たした役割は大きなものでした。こうした全国行動は、原告一人ひとりに自信を持たせるとと共に、運動を広げ、NKKと銀行に対して大きな影響を与えました。そして、全国に支援の輪を広げ、全国から寄せられた団体署名、個人署名の延べ合計3万余も有効にはたらきました。

    家族会の果たした大きな役割
ドック
  2000年4月2日に結成されました。原告団の家族で構成された家族会は、夫・父の争議を理解し一日も早い勝利判決を願い、裁判傍聴・各種集会・行事や行動に参加して、原告団の活動を支えてきました。原告の家族として一番知りたいのはこの闘いの現状です。そこで原告団や支援する会の皆さんの活動や運動の内容を「家家族会ニュース」に載せて報告することにしました。それには@難しくならず分りやすく。A見やすく面白く。B活動や運動の状況。などをマンガチックに描く事で読んでもらえるように工夫し、また直接家族に届くように郵送したことで読んでもらえました。この闘いの意義や情勢も理解されて「生活の苦しさは自分達だけではない、原告の皆が苦しいのだ!こんなことは絶対に許せない。」と家族の中から原告団の活動を支える力が出て来たことです。裁判結審後、半年間毎週一回も欠かさずに続けた駅頭ビラ宣伝、地裁要請行動。月に一度の「女性デー」を設定し、家族会の女性を中心とした宣伝と地裁要請行動では怒りのこもつた切実な気持ちを裁判所に訴えました。
 夏の陣馬山への交流キャンプでは、参加者が登山や行楽で楽しんでいる間に、交流会の準備に汗を流しながらの裏方の役割を担い、キャンプの成功にも寄与しました。家族会事務局長が、支援する会の事務局会議に常任メンバーとして会議に参加することで時々の情勢と方針が理解され「家族会ニュース」の内容にも反映しました。原告が出勤している間に、東京高裁への団体署名の準備、全国発送や送られてきた約3700団体の署名の整理・保存に取り組んで来ました。全国行動にも家族会から参加し、オルグ先の組織を励ますと共に中高年差別の闘いを他県に宣伝する役割も果たしました。このように、夫人や親族が家族会を結成して原告を支え、解決に力を発揮した争議は、多くの支援をしてきたが二例目にすぎず、当然のように見えても中々成功しないのが実態です。

      その他勝利解決の要因
  長い不況の中で企業統合の流れが出ていました。NKKも2002年10月の川崎製鉄(株)との統合、日立造船との新会社設立などを控えており、争議を解決し身ぎれいにしておかなければならない、会社として「お家の事情」と必要性があったと言えます。なお、同じNKK内の他の二争議、清水の配転拒否解雇争議と京浜の労組役選介入争議も同時に解決しました。三争議は、常に綿密な連絡や話し合いをしながら共闘してきました。そうした運動の積み重ねが、会社側に争議の解決を決断させたものと思います。

    解決にあたって
NKK中高年差別争議は、2001年6月26日、東京高等裁判所の和解勧告書を双方が受託して和解が成立し、その後の当事者間の交渉により、7月26日の調印をもって争議を解決することができました。

   ー解決内容ー
 職権和解と当事者間の交渉で勝ち取った成果は次のとおりです。
 @東京高裁において横浜地裁の不当判決(2000年7月17日)を実質的に退け、新制度発足以来の新賃金制度によって生じた実損分の回復を勝ち取ったこと。
 Aまた東京高裁の解決金とは別に、当事者間の自主交渉によって争議解決に見合う金額を解決金として会社に支払わせ、不当な賃金制度の押しつけに対する償いをさせたこと。
 Bその他、解決にあたって必要な是正措置を会社に約束させたこと。

     結びにかえて
  全国の皆さんに支えられて全面解決を果たすことができました。その私たちの争議がもし皆さんに。”お返し”できる影響があるとすれば次のようなことではないかと思います。 (1)大企業において、会社と労働組合とが癒着して労働者に不利益をもたらす労働協約を結んだとしても、断固として粘り強く闘えば労働者の権利は守れるということ。
(2)日経連を中心としたリストラ合理化、中高年労働者攻撃の下で、大企業においても年齢差別、賃金カットなどに一定の歯止めを掛ける事が出来るという展望を与えたこと。
(3)労使が合意した労働協約について、同じ組合の組合員がその協約を無効として訴えた争議で、実質的な勝利を収めた稀有なケースであること。非組合員(管理職)が、就業規則や賃金規定の一方的改悪の無効を訴えて勝利した例(みちのく銀行事件)や中小企業で見事そりを収めた例(中根製作所事件)などがありますが、大企業においてはおそらく全国初のケースといえるでしょう。私たちは今回の争議を通じて、年齢差別禁止法を日本でも法制化することが必要だと痛感しています。今回の争議はおかげさまで勝利的解決を収めることができましたが、これからもまだまだいろんな合理化攻撃が予想されます。私たちは身を引き締めてこれからに備えていくつもりです。

                                      
            全国の皆さん、ご支援ありがとうございました。(声明文)

                                      2001年8月6日

                              NKK鶴見・中高年賃金差別争議を支援する会
                               NKK鶴見・中高年賃金差別争議弁護団
                              NKK鶴見・中高年いじめと闘う原告団

  NKK中高年差別争議は、2001年6月26日、東京高等裁判所の和解勧告を双方が受諾して和解が成立し、その後の当事者問の交渉により7月26日、争議は全面解決しました。1993年8月3日、横浜地方裁判所に提訴以来8年に及ぶ永い闘いでありました。ここに、争議を物心両面でご支援いただきました全ての皆様に対し、深く感謝の意を表明するものです。

一、職権和解と当事者問の交渉で勝ち取った成果
  横浜地方裁判所の不当判決を実質的に退け、新制度発足以来の新賃金制度によって生じた実損分の回復を勝ち取ったこと。また、解決金を支払わせて、不当な賃金制度の押し付けに対する償いをさせたことであります。

二、この間の経緯を振り返って見ますと
 (1) 1993年8月3日、横浜地方裁判所に原告20名で提訴しました。
争点の第一は、日本鋼管(NKK)と日本鋼管電工労働組合とが、中高年層の賃金カットに合意して労働協約を締結し、1993年4月、会社は55歳からの賃金を一律・1割カット(約3万円)を強行したことが、中高年労働者に対する人間の尊厳を踏みにじった違法・不当な年齢差別で無効であること。
 争点の第二は、労働組合が不利益を受ける組合員の意見を全く聞こうとせず、非民主的な手続きで決定した労働協約はむこうであること。つまり、組合のあり方を問う裁判でもありました。
 (2)横浜地方裁判所では、7年間に35回に及ぶ口頭弁論で十分な審理を尽くし、原告側が最終的には主張立証において会社を圧倒したしたにもかかわらず、2000年7月17日、南敏文裁判長は「3万円のカットは、労働者にとって苛酷とまではいえない」という、労負者の痛みを無視して大企業の言い分に屈した不当な判決を出しました。
原告と支援する会は、この不当な判決に怒りを燃やし、即刻東京高等裁判所に控訴しました。
 (3) 東京高裁では、横浜地裁判決に対する詳細な反論、全員の怒りを込めた濠述書つ再提出、原告を代表する高間本人ペ尋問の成功などを通して、2001年2月5日和解が勧告され、以降7回にわたる交渉がもたれ、裁判所による和解勧告を双方受諾して合意に達しました。その後、当事者間の交渉により7月26日全面解決の和解協定書を締結しました。

三、この闘いの勝利の要因は
 (1)怒りを原点に粘り強く闘った原告の団結と、迫力ある陳述書の提出、また、弁護団と、学者・研究者の綿密な連携と尽力によって裁判官の心を動かし、強力な和解勧告を行わせたこと。
 (2)支援する会をはじめ、全労連、地方・地域労働組合、争議団などの強力な支援をもとに、本社・本店や全国の事業所、みずほフィナンシヤルーグループ支店への要請行動を行うなど、会社と背景資本を繰り返し攻めたこと。全国からの延ベー万余の個人・団体署名の力で「年齢差別はとんでもない」という世論を作り上げたこと。
 (3)日常的に原告団の母体である職場の「希望の会」を中心として、職場要求の掘り起こしによる問題堤起と会報の発行で、職場労働者の支持を得て闘いを進めたこと。
 (4)横浜地裁による不当判決の直後、最高裁判所が8月「みちのく銀行事件」、11月「中根製作所事件」で「本人の了解なしの賃金カットは不当である」との労働者勝利の判決を下したことにより、大きな励ましと勝利への確信をもてたこと、などです。

四、この闘いの及ぼした影響は
 (1)大企業と労働組合が癒着して労働者に不利益をもたらす労働協約を締結しても、断固として粘り強く闘えば労働者の権利は守られるということ。
 (2)日経連を中心とした、大企業の中高年に対する賃金カットの攻撃をはね返し、全国の中高年差別に苦しんでいる労働者に、大企業においても年齢差別に一定の歯止めをかけることができるという大きな展望を与えることができたこと。などです。
 ここに、これまでのご支援へのお礼と、今後も奮闘する決意を申し上げます。
ありがとうございました。


               「熟年の誇り」総括集へ寄せた私の一文

            先見性と展望を持ち団結して闘い取った勝利
                NKK権利闘争すすめる会・支援する会事務局次長    篠ア 節男

     ついに失業率最悪の5%の大台に。更に自動車や電機で一社数万人のリストラが計画実施されている。そのターゲケットは高度経済成長を支え、日本と企業を発展させた中高年層に向けられ、激しさを増している。労働者に痛みを押しつけ一方的に犠牲を強いることは、労働運動の分野を越え、今や政治的な中心課題として取り組む必要があると思うのだが。「NKK中高年いじめと闘う原告団」は9年前、世間の関心が希薄な時に”中高年差別は許さない!”と、闘いに立ちあがった。当時、現在の情勢を予見したかは別にして、その勇気と先見性には敬意を表します。
 勝利の要因は、「声明」に分析されてありますが、特に神奈川の反合権利闘争の歴史と教訓に学び発展させ、果敢に社会的包囲の運動を展開し、団結した力で困難な情勢を自ら切り拓いてきました。最後は高等戦術を駆使した交渉で高い水準の勝利解決を果たしました。同じNKKで働く労働者として、支援する会で闘いの一端を担え、安堵の念と共に、今後も働く仲間と連帯して闘いぬく所存です。




19、鉄の扉ひらいた男たちー神戸製鋼争議勝利総括集ー

ー神戸製鋼3つの争議一括勝利解決の記録ー

        (1992年4月20日〜2001年6月26日    9.2 年)


T、なぜ争議をはじめたか
 
神鋼総括集
 かつて(1955〜1957年)、神鋼労働者も鉄鋼資本と全面対決、激しいストライキを決行して闘った時期がありました。これに対して、神鋼においても1953年頃より会社の方で密かに人選を行い、出張扱いで、三田村学校(反共労務対策専門の三田村四朗主宰)に派遣し、その卒業生を中心にインフォーマル組織「労働問題研究会」を結成し、会社派幹部として育成、組合機関を占拠させました。会社の人員削減合理化計画を100%前倒し達成に協力する労働組合に変貌させました。一方民主的で階級的な組合活動家に対しては、その後労使一体で会社が導入したアメリカ式労務管理を武器に作業長制度を使い、露骨で徹底した孤立化とあらゆる差別を行い、その頂点として生活破壊の「賃金差別」、兵糧攻めを行いつづけてきました。長い差別とは来る日も来る日も職場で隅っこの吹きだまりのゴミ扱いされ、知らず知らずのうちに心にも影響し、活動家勲章論で何とか心のバランスを保っていました。差別を許し、闘わなければどんなりっぱなことを言っても、労働者は会社への恐怖心で逆らえず、客観的には職場専制支配の道具にされ、その片棒を担がされてきました。職場は能力主義という恣意的評価によってバラバラに分断され荒廃し、自己保身が蔓延して人材が育たず、経営陣の総会屋への利益供与はその極みといえます。これら、会社が行ってきた不法・不当な人権侵害、賃金差別を社会的に明らかにし、是正させる。以上の思いで争議を始めました。

           U、闘いの目的

  1、労働者の社会的地位の向上へ

 先ず何よりも神戸製鋼が行ってきた、労資協調に組せず労働者の立場に立って、会社の人減らし合理化に反対して活動する。労働組合活動家の職場内外の日常活動及び私生活、その妻子友人にまで及ぶ公権力を使ってまでの監視体制によるよる不法な人権侵害、年間60万円〜280万円におよぶ賃金差別、活動家が仕事をおぼえ向上していく意欲を打ちくだく昇給昇格差別、技能技術教育の受講差別、その他あらゆる差別を社会的に告発断罪し、撤廃させ、差別賃金を支払わせ救済させる。差別を受けている私達活動家には、@賃金差別されることは労働組合活動家の勲章にはならない、違法行為(不当労働行為)としての賃金差別を撤廃させる責任がある。A他の組合員へのみせしめにし、職場専制支配の道具にされている賃金差別を許さず、労働者支配のカナメであるその手を縛る責任がある。B神戸製鋼(鉄鋼産業)の労働者の無権利状態と低賃金のしくみとその実態を社会的に明らかにしていく責任がある。C具体的課題を通じて、地域や全国の階級的労働組合、民主勢力との協力共同の闘いをつくり広げる。D公然とした闘う労働組合(グループ)として、労働組合法の適用のもとに運動を行って要求を獲得する。E賃金差別、人権侵害に対する職場から反撃し闘いを行う。以上を通じて、自ら侵された賃金差別、人権、人間の尊厳を回復し、もの言える職場と民主主義を前進させ、労働者の社会的地位向上運動の発展に寄与する。
 
2、 神戸製鋼とはどんな会社か

  神戸製鋼は、「鉄は国家なり」と言われる日本の基幹産業であり、鉄鋼5社の中で5番目に位置し、日本政府から手厚い保護を受けている。歴代の監査役には、関東管区警察局長、公安調査庁長官(元)が就任するなど米日独占資本、国家権力との結び付きが根強く、下請け単価切下げ、人減らし、石炭火力発電所建設と稼働の強行など企業利益最優先の経常方針は地域貢献とは名ばかりの地域住民に背をむけた経営をおし進めている。
  神戸製鋼は、労務政策においても真先にアメリカ式労務管理手法を導入し、年功賃金から能力給賃金に移行し、労働組合役員選挙への支配、介入、体系的な社員教育制の確立など職場労働者の闘うエネルギーを抑圧し搾取の強化をはかる典型的な日本独占資本の一つです。神戸製鋼の場合はその経営基盤が脆弱であるがゆえにその「合理化」攻撃は野蛮であった。神鋼は1兆8525億円(連結2001年3月期)の内部留保には全く手をつけず巨額のかくし利益を労働者に隠したまま、一方で「巨額の欠損金、疲弊した財務体質、市場の信任を回復するため」を口実に「経営環境の悪化に対応」するとして全社員を対象に年収水準の5%引下げ、1300名の追加人員削減、新たに雇用延長型転籍制度の導入、退職金制度の大改悪を押付けてきている。

V、 神戸製鋼”3つの闘い”の意義と争点

     はじめに

  昭和30年代、鉄鋼労働運動は「賃上げ」や「一時金闘争」、そして「労働協約」闘争など、日本の労働運動の中でも先進的役割りを果たしていました。こうした鉄鋼労働運動の強まりに危機感を待った日本の鉄鋼資本は、国策の推進・鉄鋼一貫体制の製鉄所づくりを構築するために長期的な展望の下で労働組合へ支配・介入し、労働組合丸がかえ攻撃を強化してきました。神戸製鋼の13名の労働者が闘った”3つの闘い”は、こうした鉄鋼資本の長期に亘る労務管理の実態を告発し、社会的に明らかにする闘争であったと言えます。

(1) 労務管理のシステムづくり

 昭和30年代、活発な組合活動が展開されていた鉄鋼の組合では、役員の中に少なからず共産党員や社会党員及びその同調者がポストに就き、先進的な役割りを果たしていました。鉄鋼資本はこうした鉄鋼労働運動の高まりに対し「鉄鋼を第二の炭労にするな!」を合言葉に、執拗な組織介入を行ってきました。フォーマル組織として「作業長制度」を確立し、役職者を中心にして「労働者の手によって労働者を管理」させるシステムを作り上げました。このシステムはラインアンドスタッフ制度とも呼ばれ、職場の末端組織を班単位で組織し、労働者の5名の中に1名の班長を配置し、班長を中心に労働者を組織し、その上に「組」 (作業長・もしくは職長と呼ぶ)によって班を管理していく。その上に「係」「課」を配置して、一人ひとりの労働者を三重・四重に管理していくものでした。また、この作業長制度の特徴は、これまで人事権(労働者の勤怠の取扱い等)を課長(室長)に集中していたのを、作業長に大幅に委譲し、労働者の手によって労働者を管理するものとなりました。このことによって、労働者個人の労働時間の管理はこれまでの「タイムカード」による個々人管理から、作業長(職長)との面着による管理に変えられ、作業長の指先一つで労働者の勤怠が取扱われることになったのです。
  その後、作業長の権限は拡大されて、個々の労働者の作業配置まで自由にやれることになり、職場は必然的にラインによる支配力が高まり、一人ひとりの労働者は好むと好まざるとにかかわらず、役職者の顔色を見て働かざるを得なくなってきました。また、スタッフ制度はこのラインを側面から補強する役割をはたし、個々の労働者を属人的に管理するシステムまで強化されることになり、職場での先進的組合活動は、このシステムから排除されていくことになると共に、組合役員選挙においては、活動家を組合役職から巧みに排除していくシステムとなっていったのです。

(2) 能力主義の名による「みせしめ差別」

  ライン・スタッフ制度の管理とシステムを容易にし、労働者を分断支配するために、鉄鋼に持ち込まれた労務管理の大きな柱が「賃金体系」の改定です。これまでの鉄鋼の賃金体系はいわゆる「年功型賃金制度」と呼ばれるもので、その基本は初任給に毎年の定期昇給が増額され、それが基本給の基礎になり、それに賃上げ分がこの基本給に比例して増額されていくシステムで、年功を積むことにより必然的に賃金総額が増加していくものでした。ところが、昭和39年以降、職務給が導入され、賃金の増額と社員制度(資格制度)が結合されたことによって、ライン(職長)による「考課査定」制度が制度化され、それが毎年改訂され、賃金体系の中に占める「考課査定」は80%にも達することになりました。こうした「考課査定型賃金」は、賃金のみでなく、一時金にも導入され、拡大されていきました。その上、この「考課査定」は、通常作業上の労務管理に適用されるのみではなく、鉄鋼の場合は労働組合管理・介入の武器として用いられることになったのです。
  日常作業上、ライン・スタッフ制度の職場管理の充実の中で、組合活動家が個々に職場で浮き彫りにされると、その一人ひとりが職場の中で「みせしめ差別」の対象として、みせしめを受け、良心的組合員との分断が進められ、制度化された「能力型賃金体系」は、役職者の恣意的運営の中で、組合活動家と目された労働者に厳しい差別を受けさせることになりました。

(3) 組合活動家の扱われ様

  鉄鋼資本はフォーマル組織としてのライン・スタッフ制度を充実させ表面的な労務管理をやらせるかたわら、インフォーマル組織を確立し、三田村労研等へ派遣して、労資協調路線(合理化協力・成果配分方式)の組合活動基調を労働組合の中心に据えると共に、会社派組合役員を育成・擁護してきました。こうした攻撃と併行して、組合活動家と目された組合員に対しては、作業上の些細なミスや事故を取り上げ、みせしめ処分を行い、組合員との分断をはかったり、退職へ追い込むという不当労働行為を繰り返し行ってきたのです。このため、組合活動家と目された組合員は鉄鋼の職場に嫌悪感やアキラメを感じ、自ら退職したり、転向攻撃に応じ、急激に少数派へ転落していきました。しかし、鉄鋼の職場に生き残った活動家は厳しい資本の攻撃に屈することなく、力強く闘いを続け、隔年に行われる組合役員選挙に立候補し、厳しい会社側の介入の中でも約10%の支持を獲得して、日常活動は多くの組合員に勇気と自信を与えました。
    

(4) 怒れる13名の鉄の仲間の闘い

  昭和30年代、当時の組合活動家は「差別を受けて一人前・・・」「会社から睨まれ、差別は勲章や・・・」と叱咤激励されて育成されてきました。神鋼の闘う仲間もほぼこの時代に、鉄鋼の仲間と同格に育っていました。その後も、ネバリ強く、鉄鋼資本の人べらし合理化に激しく対峙し、職場抵抗闘争を展開しつづけました。神鋼の仲間「左派等活動家」は、広く組合員の声や下請労働者の声を組織し、「明るい職場づくり政策」をつくり上げ、その実現のため死力を尽して闘いつづけました。しかし、会社側の容赦のない攻撃は、個々の労働者を苦しめ、年々強化されていく「賃金改訂」と「みせしめ政策」の労務管理によって、活動家と目される組合員は「同年令・同勤続者」の他組合員と比べ、年間、60万円から400万円もの差別を受けることになったのです。昭和40年代からこの30年間の間で、鉄鋼の職場で最も「権利を奪われていた」のは、まさに、こうした左派等活動家です。
  鉄鋼資本の長期的展望にたった労務管理・活動家と一般組合員との分断支配は、こうした「不当労働行為」の中で、ほぼ成功し、鉄鋼の労働組合は大手5社を中心に労資協調路線派に牛耳られることとなりました。このため、神鋼の左派等活動家は、このまま差別を黙認し、泣寝入り状態で見過ごせば、@鉄鋼の職場に新たに良識的組合活動家が育成できないし、誰もまじめな組合活動家はいなくなる。また、Aこうした労務管理を放置すれば、鉄鋼に限らず、他の産業に拡大され、労働組合の骨抜きが広げられていく。さらに、思想信条の自由等が侵されたままの職場を、このまま放置すればすべて大企業の職場は「治外法権」に晒され、ドレイエ場がつくられていく。ことを確認し、やむなく1992年4月、兵庫県地方労働委員会へ「不当労働行為の救済」を求め提訴しました。

 (5) 新たな出向攻撃、さらなる搾取強化は許せず

  会社は、更に利潤追求を目論み、仕事も仕事をする場所も全く同じで労働時間延長、休日減少、勤務形態を4直3交替から3直3交替制へシフトダウンさせ、労働者の生態リズム無視の不定期な休暇制度にし、家族が団欒うる「生存権・生活権」を奪う「職場丸ごと出向」を、労使一体で押付けてきました。神鋼では94年9月に「出向命令無効確認請求裁判」が神戸地裁で闘われていました。さらに97年3月―日、すでに地労労委に「賃金差別是正」を申立て闘っている4名(加藤、渋田、尾村・鴨川)の所属する職場を、「職場丸ごと出向」とし4名は白紙撤廃を求め反対して闘いました。会社は「職場丸ごと出向」に反対することを予測し、1年前からあらかじめ設立して置いた勤務制度が同等の「ペーパーカンパニー」へ出向先を変更し、賃金低下を伴うみせしめの職場に出向命令を出し強制出向させました。そこから訴訟を起し、会社の実態を社会へ知らせる闘いを始め、2つの「出向命令無効確認請求」裁判闘争が始まりました。
  神綱の全職場を面とすると「職場丸ごと出向」は小出しに少しずつ点として行われるので労働者全体の門題とならず、争議団員もその、一部であるところから出向裁判に対する認識のずれが争議団の闘い全体に負の影響を与えました。点が広がり面の50%以上を越え、神鋼の労働条件は3直3交替勤務の労働者が多数を占め、その労働実態の超苛酷さを示す羅病率は70%にもなりました。出向労働者の増大とともに「出向命令無効催認請求」裁判闘争に対して期待と関心が労働者の中に高まり広がりました。
           
     (6) 出向裁判と争点  <生活と権利を守るため、闘うしかなかった>

  この出向裁判の争点は出された出向命令が無効であるか又は有効であるかです。被告会社はこの出向は、1995年1月の阪神淡路大震災によって、設備の損壊、機械損失を中心として、1020億円もの被害を被った上に、成品価格の下落にみまわれ、95年7月特定雇用調整業種の指定を受けるまでになって、無配を余儀なくされ、累損解消、復配を最重要課題として早期に実現すべく、神戸製鉄所としても徹底した収益改善を図る、コストダウン、固定資産税削減、要員合理化として、95年、96年で累損解消、黒字化。本件の棒鋼加工・分棒加工、両工場の設備と業務を97年3月1日で付けで丸ごと「(株)島文」に一括移管、同時に両工場の従業員全員83名を「職場丸ごと」出向させ、勤務形態を4直3交替から3直3交替にシフトダウンさせることによって、1直分の要員以上31名の要員削減を図ったものである。原告を省く83名の従業員に対する「(株)島文」への出向及び原告4名に対する「神戸総合サービス(株)」への出向命令は、就業規則、労使間の出向協定で定められた労働組合との間の協議を経た上でなされたものなので合理性があり有効であるとの主張でした。

 (7) 労使一体で労働者の健康破壊・自殺者も

  健康破壊も深刻化、10人に7人が罹病、昨年来加古川製鉄所で3人の自殺、神戸製鉄所でも2人(電車へ飛び込み、工場内での首吊り)が自ら命を絶ちました。復帰することのない過酷な労働を伴う「職場丸ごと」出向に展望はなく、職場モラルの低下、技術継承の弱体化、日本鉄鋼業の一員である神鋼で質の高い製造業として品質、多品種、納期と国際競争力を支えてきた、現場労働者の高い熟練度、工程管理、品質管理能力が消失して行くこと。出向について、被告神鋼が合理性の根拠として、協議したといっている労働組合機関役員は労働室にて人選、職制機構を使って選出され、組合機関とは到底いえないものとの協議によって出向命令をだされ、神戸製鉄所内で一番職務評価の低い(ゴミ集め、更衣室、風呂掃除)を業務とする、年間196、000円もの賃金低下が伴う、原告が「職場丸ごと」出向に反対することを予測して、1年前にあらかじめ設立しておいたペーパーカンパニー「(株)神戸総合サービス」へ停年まで復帰することのない片道キップの転籍同様の扱いで、同意を得ず出向命令を出し強制出向させました。

  (8)  日本の将来を見つめた闘い

  このような出向は転籍同様に民法625条―項の趣旨、労働条件対等決定の原則(労基法)を適用し、労働者の同意のもとに行うべきです。この強制出向は原告がこれまで培ってきた職務能力、技術、経験と熟練を上昇させ産業の米と言われる、鉄鋼製品生産への参加を通じて、労働者として社会への貢献に対する自負心と誇りを踏みつけて否定され、長い間労働者の社会的地位向上に向って生きる希望としてきた労働運動の場も奪われたことを主張しての闘いでした。今、労働者を巡る状況は厳しいものがあります。職場の状況を見れば、労働者は使用者とは利害が対立し闘うことなくして生活も権利も守れません。それは歴史が証明しています。出向裁判はこれから日本中に広がりつつある合理化法、資本の利潤追求優先、神鋼経営陣と自己保身の労組役員の犠牲にされた労働者の、深刻で過酷な労働実態と生活実態を告発し、社会と司法に問う闘いの一つでした。

W、支援共闘会議の結成

1、 勝利まで共に闘おう
  神戸製鋼では30数年にわたり正当な労働組合活動を敵視し活動家に対して「みせしめの差別」と権利侵害の攻撃が執拗に行われてきました。12名の労働者は苦闘の末の社会的告発として1992年4月に兵庫県地方労働委員会に「不当労働行為」による賃金差別の是正を求めて提訴しました。この鉄の男たちの勇気と心意気をたとえ、勝利まで共に闘おうと1992年5月に神鋼争議の支援共闘会議が結成されました。原告の地労委提訴―力月後という早い時期に支援共闘会議を結成することができたのは、それ以前に大企業の社会的責任を追及する地域の運動実績があったからと言えます。

2、 基盤は地域の闘いに存在した
  80年代、日本の財界、大金業はバブル経済破綻、国際経済摩擦、急激な円高を口実に国内事業所の縮小、再編と生産拠点の海外転換などの構造転換を促進して産業を空洞化させ地域の経済や雇用に深刻な打撃を与えていました。1987年10月に東灘、灘、旧葦合地域の労働組合、民主団体の共同による「円高・産業空洞化反対、雇用と営業、地域経済を守る東神戸共闘」が結成され、神鋼、川鉄葺合、ナブコなど大企業の工場閉鎖、人減らし、転籍出向など実質的な首切りに反対し、工場門前、ターミナル宣伝、大企業包囲デモ・集会、代表による会社との要請交渉シンポジューム、市場・商店街での暮らしと営業アンケートなどの活動が取り組まれ、大企業労働者の闘いを激励すると共に、地域の中小業者からも熱い期待が寄せられました。この「東神戸共闘」に加盟していた東灘地区労、灘区労協、中央区労協、灘民商、東灘民商などの組織やそのメンバーが兵庫労連と連携しながら「神鋼争議支援共闘」の結成準備に参画していきました。

3、強力な役員体制で結成され闘いの方針も明確に
  1992年5月29日の夜、御影公会堂で「神戸製鋼賃金差別撤廃闘争支援共闘会議」の結成総会が聞かれました。神鋼争議は会社の憲法違反・人権侵害の労務政策に立ち向かう人間の尊厳をかけた闘いであること。また、賃金差別、権利侵害をやめさせる闘いを通じ大企業の横暴を規制し、神鋼に働く全ての労働者の生活と権利、雇用と安全を守る闘いであることを明らかにして、争議勝利の一点で粘り強い運動構築を確認し合いました。
  そして、争議勝利への道筋として@職場からの闘いの強化〈労働者の要求を握って放さない〉A地域の団結と共同の強化〈世論の力で会社を社会的に包囲〉白地労委闘争の強化〈原告・弁護士団・支援共闘の一体化〉3つの分野の闘いの重要性を運動の出発点として明らかにしました。そして、議長他の役員体制も決定されました。支援共闘の役員会では、原告団からの作戦・行動計画案の提起をたえず積極的こ受けとめ具体化をはかってきました。原告団・支援共闘が一体になった特徴的な取り組みでは、(1)団体署名7000団体超、個人署名36000筆超、(2)地労委審問70回、審問日宣伝行動8回、(3)神鋼本社要請交渉41回、(4)メインバンクの要請40回、(5)役員宅要請王道3回、(6株主総会会場前宣伝行動8回、(7)ラグビー会場宣伝行動(神戸・東京)4回、(8)川鉄・神鋼総行動2回、(9)神鋼本社抗議行動12回があります。多様な行動を展開しましたが、以下典型的で効果的な運動のみを簡略に報告しておきます。

4、本社前抗議宣伝行動
    全国支援の仲間とシュプレヒコール
  神鋼争議として、神鋼神戸本社への要請は解決まで41回の要請行動を行った。しかし、当初、支援共闘会議、地域総行動実行委員会、全県争議支援総行動時の要請行動では本社前での抗議宣伝行動は行っていなかった。1997年3月29日「神鋼総行動」第1回学習会以降、この学習会と原告団、支援共闘会議、6・20実行委員会、5・29実行委員会の確認にもとづき神鋼神戸本社前抗議宣伝行動を実行した。2000年11月10日、第10回の神鋼包囲総行動は、岩屋公園で2500人大集会後、神鋼本社へデモ行進。2500人で本社を二重、三重に包囲、抗議のシュプレヒコールは神鋼をして震撼とさせる一大行動であった。

5、本社要請行動
    抗議署名の積み上げは大きな威力
  神鋼争議は9年2ヵ月の長い闘いでした。その問に支援共闘会議を中心に神鋼本社との要請交渉は41回に及び、神鋼の代表取締役社長は亀高素吉氏、熊本昌弘氏、水越浩士氏と3代替わりました。支援側の交渉団は5名の人数制約があったため、通常は支援共闘会議から2〜3名、原告団より1名、他に兵庫労連、中央区労協、東灘地区労の各代表が交互に入り構成されました。要請交渉は多くの場合、総行動の一環として行われました。要請交渉では交渉団の代表が社長宛の要請書を提出し趣旨と要求事項を説明して、会社の見解(前回の分)を求めながら争議解決・要求実現を迫りました。また、争議の中盤以降は全県・全国から寄せられた団体・個人署名の累積数を示しながらテーブルの上に署名の束をドント積み上げ交渉が進められました。広範な労働者・市民から会社の不当性に対する抗議を争議の早期解決への熱い思いが託された署名数の増大は目に見えぬ大きな威力たなり、会社に運動と支援の大きな広まりを示す圧力となりました。代表団が署名の扱いを追及すると、交渉相手は「重く受けとめ、必ず上層部に届ける」と毎回約束させました。
  要請交渉の中心点は活動家が職場組合員の要求・要望にもとづいて行った自主的職場活動、正当な組合運動を嫌悪、敵視し不当なみせしめの賃金差別、さらには人間の尊厳を傷つける人権侵害の行為が30年以上に及んだこと、この憲法違反の企業犯罪を深く反省し、異常事態を早期に解消するため、3つの争議を一括・全面自主解決するための、責任ある代表が交渉のテーブルにつき、真摯な努力をすることを求めるものでした。これに対して会社側の答弁は「差別はしていない。地労委に託された以上、その決定を待ち、結果は尊重する」と言う不遜で無責任な態度に終始しました。 交渉団は交渉の度毎に労働者犠牲の人減らし、転籍、賃金削減などのリストラ計画の強行が労働者・国民の生活不安と消費購買力を低下させ、地域経済に深刻な影響を及ぼしている事情を厳しく批判し、神鋼と関連企業の全ての労働者の雇用、生活、生命、安全、健康を守るため大企業としての社会的責任を果たすことを強く求め続けました。しかし会社は、兵庫地労委の結審を前に、一方的に「交渉打ち切り、折衝窓口閉鎖」を通告し、一時窓口閉鎖の時期もありました。本社を2500人で包囲した、11・10総行動では、一転して交渉拒否から、交渉団枠を10名へと拡大、その後の事前折衝も容易となり、交渉の主導権を原告・支援の側が握り、神鋼を自主交渉のテーブルへ着かせるレールを敷きました。

6、ラグビー宣伝     創意工夫ビラで社会的包囲
  最初、支援共闘会議の一部にラグビー試合会場前で神鋼の争議についてのビラ、横断幕、ノボリ旗、ゼッケンとマイクでの宣伝行動について、観戦者の反感をかうのではないかとの心配から反対の声がありました。原告団では真剣な討議を行い、原告団の総意によって・ラグビー宣伝を実行しました。第一回は、神戸の総合運動スタジアムで神鋼・トヨタ戦でした。ビラに工夫をこらし、表は「ラグビー観戦者の皆さん、神鋼チームに熱いご声援を!!」から始まって「神戸製鋼の賃金差別事件の早期解決にご理解ご支援を」。裏は「ルール大幅改正、ラグビーどう変わる」と主なルール改正の解説のビラで大変好評で、宣伝は成功しました。3回目からは、支援共闘会議の強力なバックアップがありました。東京の国立競技場でラグビー日本一をかけ、社会人と学生チャンピオンが激突する、6万人の慣習にビラを配布し、ノボリ旗、横断幕、ゼッケン、2台の宣伝カーで3つの入り口で宣伝を成功させました。 事前オルグをし、同じ鉄鋼で神奈川のNKKの仲間に依拠し、石川島播磨争議団、東京争議団に結集する争議団、差別連、トーアスチールをはじめ、多くの皆さんの支援があったからです。国立競技場へはバスを仕立て、4回実施し成功させました。ラグビーは会社の”広告塔”でしたが、争議団も活用し、神戸製鋼、地方労働委員会、裁判所を全国的に注視させ、団体署名・個人署名等をもって社会的に包囲する運動に、ラグビー宣伝は有効な役割を果たしました。

7、 株主総会包囲行動

   株主総会会場前宣伝

(1)宣伝行動開始のキッカケ
  一部上場の企業の条件、その一つに「紛争のないこと」がある。しかし、兵庫を代表する大企業神戸製鋼では戦後半世紀労働組合への支配介入、より搾取を強化するために、まともな組合運動活動家への見せしめ賃金差別攻撃が行われている。この実態を株主のみなさんにも直接、訴え争議を一日も早く解決しよう。と原告団支援共闘会議で検討、確認して、この行動は展開された。

(2)阪神・淡路大震災前の株主総会会場前宣伝行動
  93年度の株主総会は震災で倒壊する前の神鋼健保組合大ホールであった。この旧本社前の株主総会会場前で 灘民商の宣伝力ーによる訴えと「神戸製鋼は賃金差別やめよ」の横断幕「神戸製鋼の賃金差別は企業犯罪」と書いた「ノボリ」を林立させて、株主総会参加者と通行中の市民のみなさんへのビラを配布しての宣伝行動を展開した。この宣伝行動には会社も「ビックリ」。会社保安・職制を急進動員して警備を強化、原告団・支援共闘会議側との緊迫した対峙が続いた。掲げた宣伝要求項目は、争議解決・職場要求・地域経済を守れを結合した。翌年の特徴は、葦合警察がパトカーと警察官数十名を配置、道路交通法を口実とした、宣伝行動への徹底した妨害を行ってきましあた。地労委へ提訴2年後、警察権力の不当介入を行使させた、効果的な宣伝行動となりました。

(3)神鋼株主総会会場内での発言
  株主総会会湯前での宣伝行動は、1993年以降旺盛に続けられたが、株主として直接経営陣に対し、経営姿勢を正し、神鋼における3つの争議を企業的犯罪として告発し解決を迫る取組みが弱かった。1992〜1995年までは、争議団員株主は、わずか1名、1996年、1997年は2名となって入場したが発言の機会を失したそれは、会場に入ると争議団株主1名につき管理職2名が待ち構え、飲み物の接待、その後着席すると両側にぴったり粘り付き挙手、発言を警戒。議事が進み「質議応答に入ります」との司会者の声に全管理職が間髪入れず一斉に「異議なし!議事進行!」の大合唱、総会数日前から総合事務所屋上で発声練習させられていたもの。あっという間の出来ごとでした。
  不発に終わって、その後の争議団会議で総会の雰囲気、議事の進め方を分析し今後の対策を練り上げた。そして1998年は大合唱の渦に負けないよう資金を投入し、10名の株主がつくられた。しかし、神鋼争議を一般株主に知られたくない会社が、挙手したからといって指名するとは限らない。議案書を振り回すなどし、大声で”意義あり”と叫ぶなど目立つ創意が発揮され、「神鋼石炭火力発電所公害反対」「争議解決せよ、地域経済・環境を守れ」等、会社のアキレス腱を突く内容で、毎年会場内で2〜3名が発言の機会をえました。

8、役員宅要請行動

   心良く聞いてくれた役員家族も
  争議解決を求める役員宅要請行動は神鋼の原告団にとって提訴前からの運動方針の重要な柱のひとつに位置づけていた。原告団がこの行動を支援共闘会議で提案した時、会社でない役員の自宅、加害者ではない役員の家族にまで「迷惑」をかけることは争議解決運動の「大義」から外れているのではないか。と言う異論もあった。しかし、原告団は30年以上本人の差別のみでなく家族もその被害者であり原告側は「差別という土足で家の中まで踏み込まれている。したがって、正々堂々と役員本人とその家族にも「率直」に訴えようと原告団、支援共闘会議で確認し実行した。本人不在で奥さんが対応したところでは、「迷惑とは受け止めず、快く聞いてくれた」等の報告があがっている。社長宅では、直接本人と面談する事ができ、争議解決に向けての要請や内容など、約1時間話し合った。

X、     解決内容

     勝利をともに喜んでくれた職場労働者
  「君らは会社に勝つたんだ。すごい‐おめでとう」始業ミーティングでも労働者勝利の話題で持ち切りとなり、定年退職者の送別会で「報告」を求められた原告が職場の仲間の支援に心からのお礼を述べたとき、期せずして大きな拍手が沸き起こりました。9年2ヵ月に及んだ神鋼の賃金差別争議は6月26日、兵庫県地方労働委員会において出向裁判2件とともに、3つの争議を一括全面解決する和解協定が調印されたのです。

和解協定の骨子は次の通り

1、 会社は憲法・労働諸法規、及び企業倫理綱領に則って申立人らを含む従業員の労務管理を行い、労働条件の改善に取り組む。

2、 会社は申立人らに対し解決金を支払う。

3、会社は、基本的人権を尊重するとともに、在籍従業員を他の従業員と同様に公正、公平に評価、処遇することをを約束する。

   というものでした。


                      発 刊 に あ た っ て

               元日本鋼管人権裁判原告団      元神奈川争議団共闘会議副議長
               元東電争議神奈川支援する会事務局長   NKK権利闘争すすめる会

                                           篠 崎 節 男

 神鋼争議三つの争議全面勝利解決おめでとうございます。
人間の尊厳をかけて9年2ケ月必死に又果敢に闘い、21世紀の幕開けの年に”鉄の扉をひらいた男たち”に、同じ鉄鋼に働き闘う仲間として、心より祝福したいと思います。
  私と神鋼差別争議の原告団との関わりは、1990年10月に熱海で行なわれた、職自連全国交流集会から始まり、ちょうど11年になります。初め私が参加する予定ではなかったのですが「神戸製鋼の労働者が裁判を始めたいので詳しい人に話を聞きたい」との要請で、急遽前日になって私も行くことになりました。神鋼からは、堂薗氏と渋田氏が参加しており、三人で夜を撤して職場問題や裁判について話し合った事を、今でも鮮明に記憶して居ります。二人の態度は真剣そのものでした。そして正式に私が鋼管の窓口として対応することになり、争議の立ち上げから、重要な局面では講師に招かれ学習会を行い、泊り込みで深夜まで作戦会議と交流を行なってきました。原告団とは以来11年間争議を通じて寝食を共にし、ともに考え闘い人間的な信頼関係を築き親交を深めてきました。併せて原告団の団結も強化されました。
  神鋼の争議は当初裁判所への提訴を前提に準備が進められていました。当時差別争議に関わる全国の裁判官を集めて最高裁の裁判官会同が行なわれ、原告側に「立証責任論」が課され、司法の反動化が進行し強化された情況にありました。裁判で原告勝利の判決を展望するには非常に困難な情勢であり、それを裏付けるように前年には、全税関神戸で反動不当判決が出され、こうした背景のなかで神鋼原告団は、「熱海の夜」の出合いから一年半後に地労委への申し立てに踏み切ったのでした。

  神鋼争議団の闘いの特徴
地労委申し立て当初から一貫して”大衆的裁判(地労委)闘争”を貫いたところにあると思います。差別の闘いは労働運動の分野ですから、@職場を基礎に要求実現の闘いを強化、A法廷(地労委)闘争の重視、B特に会社と地労委を社会的に包囲する運動を強め、兵庫県下は勿論全国の労働組合と民主勢力に訴え運動を大きく拡げたところに、勝利解決の大きな要因があったと言えます。そして、自分たちの頭で創造的に物事を考え、自主的主体的に運動を構築し、合法的なあらゆる作戦を次々とあみ出しては提起し、躊躇なく実践して会社の嫌がる弱点をあらゆる角度から攻めたのも有効な闘いでした。地域要求と結合し、要求で広く結集して闘いながらそこに埋没する事なく、自らの獲得目標である「差別争議で勝利する」事を明確にして、不屈に闘いぬきました。
全国をオルグし、7,000以上の団体署名・36,000筆に近い個人署名を積み上げた地労委への要請行動は、「下手な命令は出せない」と地労委を緊張させ、おそらく蓋を開ければ原告勝利の素晴らしい内容の命令書であったと確信しています。その事が「差別はしていない」と平然とうそぶく会社を動かす、大きな圧力になったことは間違いありません。 神鋼本社を包囲する行動は益々大きく拡がり、自ら解決交渉のテーブルを開かせるまで会社を追い詰める力になりました。そして、単独の闘いでは解決困難な出向裁判を併せ、同時全面勝利解決を勝ち取った意義は大きいと思います。

  総括集を編纂するにあたって、私が幾つかの争議の総括に関わった経験から、深く討議し総括してもそ中身の全てを活字として残すことには制約があります。実は、そこが総括の最も重要な部分でもある訳ですが・・・
一つには、会社との約束で信義上発表できない内容も有るということ
もう一つは、陣営内部の問題です。これから共に闘っていく仲間としの配慮からです。
 神鋼争議団は、兵庫の地で素晴らしい闘いを構築し、”正しく闘えば必ず勝利する”という一つの典型をつくり、人間の尊厳を守る貴重な成果をあげました。深く総括して教訓を引き出し、後に続く闘いに展望を与えると共に、反合権利闘争の前進に役立つことを願ってやみません。
                        



20、苦節27年川崎重工近藤正博配転拒否不当解雇撤回闘争

     ー最高裁決定が確定しても解雇撤回を勝ちとるー

    (1978年10月09日〜2005年09月21日  27年)


1、はじめに

  神戸製鋼の争議報告で話が神戸に飛べば、どうしても欠かせない争議が存在する。22歳で不当に解雇され、最高裁で不当決定が確定しても挫けることなく27年間闘い抜き、2005(H17)年9月21日に自主交渉による和解によって解雇を撤回させ勝利解決した、川崎重工近藤正博君の不屈の闘いを抜かすわけにはいかない。彼とは、私が神鋼争議で神戸へ何回か学習会に呼ばれたり、幾つかの争議支援で行ったのを含めれば、都合15〜16回は神戸へ足を運んでいる。その都度何回も顔を合わせ、又彼が神奈川へ来た時には支援活動をして協力してきた知己の間柄である。

  年齢は私より15歳下である関係から、ここでは敢えて親愛の情を込めて君づけで呼ばせて頂きたい。27年間闘い抜いたと言えば、一般的には心身共に頑強でさぞかし屈強な人物を想定される方が多いかも知れない。しかし、あんに反して彼は色白で優男、女形にしても立派に通用する好男子である。その彼が何ものにも挫けない芯の強さ、何処にそんな力が秘められていたのか、勿論夫人や家族の理解と支えがなければならず、職場や周囲の多くの仲間の支援に守られ援助がなければ挫け、一人では闘えませんが、そうした中での彼の健闘振りを簡単に紹介しておきたい。

2、配転拒否を理由に不当解雇

  近藤君は、兵庫県神戸市に本社を置く造船・重機では大手である川崎重工株式会社(以下「川重」という)神戸工場へ勤務していました。1789(S53)年5月16日、近藤君に対して岐阜工場への遠隔地配転が命ぜられました。当時彼は若干22歳であり、その半月前に職場で知り合った尚子さんと婚約したばかりでした。結婚を真近に控え、母親の介護の必要性を理由に配転を断りました。会社は連日執拗に配転を迫り、尚子さんの自宅にまで押しかけるという卑劣な手段まで使いました。「君はもう岐阜の人間だ」と、仕事もタイムカードも取り上げてしまいました。尋常であれば、新たな人生の門出で喜びに満ち溢れている筈の結婚を、会社は「そんなもん君、平凡だよ配転こそ神聖なんだ」とうそぶく始末。更に「君は職場の秩序を乱し、会社に盾ついたんだから、よって解雇する」と、10月26日の結婚式直前、配転拒否を理由に8月17日、近藤君を不当に解雇したのです。

3、近藤君解雇の背景

  翌年の1979(S54)年3〜4月、川重は「第一次造船不況」を口実に、4,500人の人員削減を打ち出し、「希望退職」とは名ばかりの退職強要を行い、多くの労働者が泣くなく職場から去らざるを得なかったのです。そして、ムリヤリ長年精励勤務し親しんだ職場を奪われ追われていった人は、会社の当初の目標を大幅に上まわる数に達しました。この人減らし「合理化」の嵐が吹き荒れる半年前、22歳で結婚式を直前に控え、将来を夢見ていたごく普通の青年、近藤正博君が狙われ、”見せしめ”として解雇されたのです。企業エゴを達成する為には手段を選ばず、「会社にたてついたら、あーなるよ」という、半年後に計画していた退職強要の布石として、他の労働者への”踏み絵”として犠牲にされたのです。

4、近藤君の法廷での闘いが始まる

  1978(S53)年10月9日に神戸地裁へ、地位保全仮処分申請を行なうと同時に、同日「近藤君を守                  る会」(支援する会)が結成される。

 1980(S55)年6月27日、神戸地裁で近藤君地位保全の勝訴決定が出る。
                     会社は一週間後に、大阪高裁へ控訴(特別抗告)する。

 1983(S58)年4月26日、大阪高裁で近藤君敗訴不当判決。(仮処分の)同年7月25日、                   連絡会議結成以前の県内争議団の状態

 1989(H1)年6月1日、神戸地裁で敗訴不当判決。同月・大阪高裁へ控訴。

 1991(H3)年8月9日、大阪高裁で「控訴棄却」の敗訴不当判決。   8月20日、最高裁へ上告。

 1992(H4)年10月20日、最高裁「上告棄却」の敗訴不当決定。

  ※ 2005(H17)年9月21日、自主交渉による和解解決

5、最高裁敗訴決定後広がる支援の輪

 司法の場での判断が出されても、労働者の連帯と支援の火は消えるどころか、益々広く大きく燃えあがり、支援は大きく 広がって行きました。「近藤君を守る須磨ニュータウンの会」や「近藤君を守る明石地域の会」等、地域ごとの支援組織があちこちで結成されると共に、最終的には「川重・近藤君の不当解雇撤回支援共闘」という、労働組合や民主団体、そして各地に結成された支援団体が組織として加盟し、個人も参加する巨大な支援組織が結成されました。そして、地域から川重を世論で批判し包囲する強力な態勢が確立しました。

  同時に、近藤君をジュネーブへ派遣し国連人権委員会への働きかけを行い、国際世論にも訴えてきました。近藤君自身も兵庫県下は勿論全国に飛び、団体署名や個人署名を集めに各県を廻る全国行脚に取り組みました。行った先では、地元の争議団や労働組合が宿泊の手配から要請オルグ等の準備や受け入れ態勢を整えてくれます。そして、地理に明るい案内人と車を手配してくれ、労働組合や民主団体を案内し、各団体の組織数以上の個人・団体署名や支援を要請し、カンパを訴えて廻ります。通常一人争議では財政が困窮していますから、片道切符で出かけます。そして出先の県で、要請オルグをしながらカンパを訴え、宿泊費や帰りの交通費を募金を募って確保しなければ帰れませんから必死です。しかも、遠方では交通費が掛かりますから有効に活用する為、隣県の何県かを廻り、一週間はオルグ活動に専念して帰宅する事になります。

  こうした本人の奮闘と支援者の協力によって、裁判所宛の個人署名2万6千筆、川重社長宛の要請署名6万7千筆、メインバンクである第一勧業銀行宛の団体署名1900団体、そして地労委宛の団体署名8千団体など、全国から署名が寄せられてきました。同時に、川重本社前での包囲総行動には、400人、500人、700人という規模で支援者が駆けつけ、何回も抗議要請行動を行い、回を重ねる毎に輪は大きく広がり、固く閉ざした川重の門を開けさせ、交渉へと進んで行く事になります。

6、仮処分での勝利が重い足かせに

  近藤争議は神戸地裁での地位保全仮処分で一度勝訴しています。これが後に、大きな障害となり、逆に足かせとなったことです。地位保全の仮処分で勝訴したため、解雇時点から高裁で逆転敗訴決定するまでの4年半の間は、賃金は保障され支払われていました。その間の合計額は605万664円となります。ところが、1992(H4)年10月20日の最高裁での敗訴決定は、併せて近藤君へ仮払いした金額に年5分の法定利息を付け、川重へ返還する内容で確定してしまったのです。これを受けて会社は、近藤君に対して支払い済みの賃金と利息金約一千万円の返還を迫ってきました。争議を長年続けて来て、借金生活を余儀なくされ支払える筈は有りません。会社はこれを盾に、解決の話し合いに応ずるどころか、以後これが大きな障害となって横たわり、解決への進路を阻む事になります。

7、職場の仲間が差別是正の争議を起こし援護

  1994(H6)年6月14日、職場の仲間17人が、労働組合運動を理由とした昇格・賃金差別の是正を求めて兵庫県地方労働委員会(以下「地労委」という)へ救済を求めて申立を行ないました。職場の仲間は、自らの賃金昇格差別を認定させ是正させることもさることながら、近藤君の解雇を撤回させ、職場復帰を勝取る事を最大の目的として、後から援護の闘いに立ち上がったのです。川重本社への包囲抗議行動は飛躍的に規模を増し、本社包囲総行動は500人〜700人と大きく膨れ上がり、以後、年に数回大規模に取組まれる事になります。又、全国行動や個人・団体署名も取組まれ、地労委への要請や社長への要請で高く積み上げられるほど、支援の輪は広がって行きました。

  2003(H15)年12月9日、地労委は川重の不当労働行為を認定し、労働者救済の勝利命令を出しました。会社は、中労委への不服申立を行なわず、地裁への行政訴訟を起こすこともなく、地労委命令を受け入れました。そして、自主交渉による話し合いを粘り強く行い、2005(H17)年9月21日、和解による争議の全面一括解決に至ったのでした。

8、苦節27年の闘いが実を結び解決

  2005(H17)年9月21日、青春と生活をかけた長い闘いに終止符を打ち、和解による解決をみました。

   その内容は

 1) 憲法に定める基本的人権、労働諸法令を尊重して公平な人事施策を実行する。

 2) 近藤さんへの仮払金の返還請求権を放棄する。

 3) 解決金を支払う

事を「和解協定書」をもって確認したのです。
最高裁での不当決定が確定し、司法の場では決着した事件でしたが、当事者間の自主交渉によって、和解解決に至ったのです。

9、「貴重な27年間で感謝でいっぱいです」

  22歳という若さで、しかも結婚を真近に控えて解雇され、青春の一番良い時期を企業の独善によって、厳しい争議に明け暮れする生活を強いられ、人生の大半を企業の横暴によって翻弄される事を余儀なくされた近藤君。解決後に出版された総括集「明日をつくるたたかい」のなかで、「なにもかもが初めての経験でしたが、すべてが貴重な27年間でした。」そして、「川重はひどい会社です。しかし労働者は、心のあたたかい人ばかりです。すべての支援してくれた人に感謝。これからの人生、27年の教訓を活かしていきたいと思っています」と結んでいます。

  会社は、支援組織の運動によって、世論に包囲され、解決しなければならないところまで追い込まれた訳ですが、仮払金の返還を放棄し、解決金を支払って和解しました。これは、決して会社の温情でも理解ある態度からでは有りません。あくまでも仮払金の返還を請求すれば、”死人にムチ打つ会社”として後生に語り継がれ歴史に大きな汚点を残し、一生世論から追求されることを恐れ、それを避けたいが為に取らざるを得なかった措置にすぎません。

  和解して争議が解決をしても、会社の酷い仕打ちは一生涯彼の頭からは消えないし、許せない気持ちは変わらないと思います。いくら人生を悟ったかに見える人間でも、人ちしての尊厳を傷つけられ、生活や家庭を土足で踏みにじられた恨みは、容易く許せるものでないことは私にも良く理解できます。反面、共に闘い支援してくれた仲間や労働者に対する信頼と感謝の気持ちは熱く胸に響いて消える事なく彼の心に残るでしょう。幸い彼は解決時に49歳でしたからこれからの人生を家族と有意義に過ごしてもらいたいと念ずるのみです。若くして解雇され、苦難の道を歩まざるを得なかった近藤君が、50歳から新しい自らの道を歩む進路が開かれたことは、個人的な感情ながら救われた思いがします。

10、労働者の連帯と労働争議の果たす役割

  神奈川県と兵庫県との共通点は、大企業の生産拠点として、大工場が集中していることです。神奈川は更に首都東京の隣県として、又沖縄に次ぐ基地県としての要衝であり、当然資本の労務管理も一段と厳しさを増します。東京に集中する本社機能が麻痺する事よりも、工場が麻痺し生産活動がストップする事を一番恐れる資本の労務政策は、強烈さを極める事になるのは当然であります。しかし、作用に対する反作用で、抑圧する力が強ければそれに比例して労働者の反発力も強くなるのが弁証法の法則です。神奈川では、解雇事件や昇格・賃金差別事件が多く発生し、名誉な事ではありませんが、労働争議の先進県とも言える地理的な特徴を持った所であると言えます。従って、数多い争議から経験や教訓を学び取り、そこから総括し運動論として一定の理論化をし蓄積されています。

  兵庫県は、大企業の生産工場が集中する点では神奈川と似ていますが、地理的にはやはり首都から離れたローカル県であると言えます。私は元NKK(現JFE)に勤務していた関係で、鉄鋼という同じ産別の神戸製鋼争議団とは緊密に連携し、支援をしてきました。集会や支援活動にも参加し、神戸へは十数回足を運んでいます。前記したように、神戸製鋼争議団は、出向拒否裁判2件と昇格・賃金差別事件と合わせ、3つの争議を抱え闘っていました。2001(H13)年6月26日、賃金差別事件の兵庫地方労働委員会(現県労委)の命令が出される直前、自主交渉によって3事件の一括全面解決が図られました。このように闘わなければ、憲法に明記され保障された基本的人権も守られず活かされません。一つひとつ闘い勝ち取り憲法の条文をを補完していく、争議で闘い勝利するとは、労働者の生活と権利を守るだけにあらず、社会進歩に寄与する重要な意味を持つと確信するものです。川重近藤解雇事件の勝利解決は、そうした意義ある闘いであったと言えます。

11、まとめ

  このように、私が神戸へ行った時には近藤君とも顔を合わせました。学習会には、川重争議団の仲間も参加して私の話を聞き、海員会館へ宿泊して交流会にも残り、議論に加わる人もいました。2002(H14)年12月9日、「全国造船産業16事業所共同宣伝行動」と銘打った川重争議団の全国行動で、兵庫県から近藤君を含めて数人が神奈川へ来ました。前夜は横浜の中華街で神奈川の支援者との顔合わせ、お酒も軽く酌み交わして交流会を行い、翌日の行動計画の打合せと準備を整えました。

  当日9日は、近藤君ともう一人の2名が、NKK鶴見造船所(現JFE)の門前でチラシをまき宣伝を行ないました。私と鶴見造船の仲間が支援し一緒に宣伝行動に加わりました。当日神奈川は朝から生憎の大雪で、早朝から出勤の途切れる9時まで、チラシをまき一緒に宣伝を行ないました。手が凍える寒い雪の中の宣伝行動でした。宣伝が終った後、工場前にある定食屋で温かいみそ汁で朝食を食べ、凍えた身体を暖め、激励して駅まで見送りました。

 それから2年9ヶ月後の2005(H17)年9月21日、最高裁不当決定判決から13年間、粘り強い闘いで司法の場では決着済みの近藤正博解雇事件は、川重との当事者間の解決交渉によって和解が成立しました。勝利解決の朗報は、その日のうちに神戸の友人から私へ届けられました。




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(特別編) 神奈川争議団共闘会議の歴史と果たした役割

    (1977年09月03日〜   年 月 日  現在36年)



   T、「神奈川争議団共闘会議」というバンドラの箱


結成総会議案書
私が今迄幾つか直接関わった争議の概要を報告してきました。結果は全て、勝利解決という内容の終結でした。一読した皆さんはお気づきかと思いますが、裁判で勝利判決を取ったのは一事件だけです。不当判決を受け裁判で負けているのに何故、最終結果は勝利解決と言えるのか、疑問を持たれた事と思います。裁判所の判決で勝てずに何故勝利解決が出来たのか?不思議に思われて当然かと思います。何かカラクリがあるのではないか、勝ち負けの基準が違うのではではないかと、想像豊かな人は様ざまな思いを巡らせていることでしょう。

 神奈川には、「神奈川争議団共闘会議」という自主的な組織が有ります。賢明な皆さんは、この争議団という箱の中に何か有効な仕掛けが施されているのであろうかと、察知されてた方がおられるかも知れません。確かにこのボックスの中に特効薬に近いものが隠されているようです。結成以来36年の歴史の中で、争議団加盟154の団体・個人、のべ1500人の争議団員が勝利解決を図ってきています。毎年総会を行い、争議団活動の報告と総括をやり、立派な議案書が作成され発行されています。

 これだけ素晴らしい実績を持ちながら、神奈川争議団とは?となると、知る人ぞ知る程度で、さほど知名度はなく、争議団というと葬儀屋さんと間違えられる事が多く、簡単に説明して分かってもらうのは難しいのが実態です。ここでは、現存する幾つかの資料を基に、その謎を解き明かしていきたいと思います。開けてはならないパンドラの箱、病気や悪は飛び出し、今や世の中に蔓延しています。バンドラの箱にはあと希望だけが残っていると言われています。希望には知恵も付いて残っているかも知れません。「神奈川争議団共闘会議」というパンドラの箱、勇気をもって開けてみたいと思います。

   U、結成までの経過

1、神奈川地方争議団共闘会議(神奈川県下争議団共闘会議)(1962〜1965年)

 日本独占資本の生産の心臓部にあたる神奈川、労働者の闘いは歴史が古く、頑強さでも伝統があり、60年代前半には以下の争議が発生、大和電気・ウルべ、・三協紙器・メトロ交通、滝の川交通、不二越精機等の争議の中にもそれが輝かしく生きていました。60年代前半には、一時期、神奈川地方争議団共闘会議(県下争議団共闘会議)が結成されましたが、大型争議が相次いで解決して中核争議団がなくなり、開店休業状態になりました。

 その後各地域争議組合・争議団の要求にもとづき、地域争議団共闘が結成されて行きましました。神奈川地方争議団共闘会議は、まだ労働争議が整備されていない初期の段階で、闘いの経験も蓄積もないな中で、暗中模索しながら闘われてきました。ただ、労働者は団結権と連帯、組合に組織され企業を超えて連帯と支援、一致した要求での団結した行動を身に着けています。争議解決とともに自然消滅したとはいえ、今日の神奈川争議団共闘会議の手本(基礎)になり、労働者が団結と連帯して闘うことの意義と必要性を、この時期残したと言えます。

 日本オイルシール(1967・4・20〜1977・9・5)組合役員配転解雇・復帰1
 日本鋼管I造(1962・6・15〜1977・10・15)臨時工解雇・職場復帰・解決金
  大和電気(1962・10〜1968年)和解
 ウルべ帽子店(1962・11〜1968年)和解
 三協紙器(1964〜1965・11)和解
 油研工業(1965・12〜1968年)和解
 横浜ゴム(1966・1・6〜1977・12・27)活動家排除・解雇・復帰7・解決
 滝の川交通(1965・12〜)
 NCR(1966〜1977・12・24)組合役員解雇・職場復帰・解決金
 不二越精機

2、神奈川争議団共闘会議連絡会議(1974年12月〜1977年9月2日)

 (1)地域争議団共闘の活動=連絡会議結成以前の県内争議団の状態=

  60年代前半には、一時期、県下争議団共闘か結成されましたが、大型争議が相次いで解決する中で、中核がなくなり、開店休業状態になりました。その後各地域争議組合・争議団の要求にもとずき地域争議団共闘が結成されていきましました。

  川崎では71年に市内争議組合・争議団による共闘会議がつくられ、相互支援やカンパ活動、地裁川崎支部腕章闘争、工場、駅頭でののビラ入れ等で協力しあいました。横浜では70年に結成し、同様に傍聴支援やカンパ活動、行商等を行い、定期的な会議を開き、それぞれがかかえている問題点を出し合い、解決への努力がなされました。湘南では、横浜ゴム争議団や油研争議団をはじめ全国一般争議団が中心となり、同様の闘いが進められました。油研争議団は職場の仲間の争議と結合させ、職場復帰を果たしました。県央争議団は、当時厚木争議団共闘と称し、東缶争議団が中心となり運動が進められました。

    4つの地域争議団共闘会議結成と役員
@ 川崎争議団共闘会議  1971年3月20日
    議長     高山  尭(東亜石油労組)
    事務局長  佐藤 信吉(東芝争議団)
A 横浜争議団共闘会議 1972年6月10日        (1969年結成説・資料なし)
   議長     生井 一一 (全配管労横浜支部)     五十嵐富士弥(石播横浜)
   事務局長  池田  實(大日本塗料争議団)      中村 進亮(大日本塗料)
B 湘南争議団共闘会議 1974年
   議長     咄島 三郎(横浜ゴム争議団)
   事務局長  大山 金光(オイルシール分会)
C 県央争議団共闘会議(1976年) ← 厚木地区争議団支援共闘会議(1974年3月)
    議長    平田 一清(東缶争議団)

   神奈川争議団共闘会議連絡会議役員
    議長     高山 尭(東亜石油労組)   川崎争議団
    事務局長   池田  實(大日本塗料)   横浜争議団

     V,神奈川争議団共闘会議の結成

 神奈川争議団共闘会議は、幾多の曲折と試練を経て、1977年9月3〜5日、西丹沢「中川荘」において結成総会が開かれ、結成されました。36年の長い歴史を持つ組織であり、現在に至るまでの間154加盟争議を勝利解決に導き、多くの実績を誇る自主的な大衆組織です。その目的は、「資本の首切り「合理化」、権利侵害、生活破壊に反対して闘う。」「一日も早く勝利するために、統一と団結を固め、相互支援と交流を深める」ことにあります。

 争議を一日も早く勝利解決するためには、各争議団だけの相互支援だけでなく、労働組合や「民主的諸勢力との連帯を深め、共闘を強化する。」事が必要であり、神奈川県内という狭い範囲にとらわれず、全国的視野に立ち、大きく広い観点で力を結集し、支援体制を構築することを目標にして結集しています。
 
3、結成総会の趣意書(宣言)

  ここでは、歴史の事実に基づいた資料を活用し、記載しておきたいと思います。結成総会議案書の最初に、趣意書(宣言)が載せられていますので、以下そのまま転記いたします。

       は じ め に (結成宣言)

 「神奈川は独占資本の生産工場が集中し、生産労働者が結集しており、資本主義の牙城であるといわれ、そこでの労働運動の動向は今後の革新勢力の発展に大きな影響を与える」と言われています。この重要な神奈川での争議組合・争議団の活動は60年代の三協紙器・ウルべ・大和電機等の首切り、企業閉鎖・組合つぶし反対の闘いで輝かしい教訓的な解決を勝ち取り、その教訓はいくつかの長期争議の「敵よりも一日長く」を合言葉に引き継がれてきました。

 1974年神奈川県下の四地区争議団が結集して「神奈川争議団共閣連絡会議」を結成し三年間にわたって活動を進めてきました。東京での総行動方式に学んで企業抗議・門前集会・駅ビラ・裁判所抗議・自治体要求とこの3年間は行動の期間でありました。そして「県下のたたかう争議組合・争議団が進行する情勢に対応する反合理化闘争と自らの争議勝利、そのために有効かつ質的なたたかい」が求められ「資本の『合理化』のねらいや、労働運動の・右寄り化と企業フアシズムを正面からとらえるならば、私たちも職場を主戦場に、地域、産業別に根をはった闘争強化を多くの仲間とともにつくりあげる時代、共同・統一闘争の時代にたっていることの認識を重視し、さらに首都圏の仲間との反合闘争・親会社、背景資本ヘのたたかいの前進に努力をし、相互の支援・交流の力を全県的なものに作り上げる」ために神奈川争議団共闘会議の結成のはこびとなったのです。

 低成長時代の中での労働運動の困難さ、その中での争議組合・争議団の勝利には更に大きな力が必要となっています。新しく結成される神奈川争議団共闘会議がその運動のカナメの役割を果すよう、全員の英知と情熱を結集してがんばろう。

W、情勢分析を綿密に徹底して行う

 政党であれば、国際情勢から分析するのが基本的姿勢で当然であるが、争議団も国内外の情勢を深く掘り下げて分析を行う。争議の勝利に向け、戦略戦術を立て検討する上での重要な要件で、必要不可欠であるからです。世界情勢、争議をめぐる動きで、どんな些細な情報や知識でも、知っておいて損はなく、やがて争議はILOや国際的視点での関連性をもち、ちょっよした情報が、解決に向けて有効なヒントとなる場合もありうる。以下は結成総会に提起された、国内情勢を分析する上での議案書の一部を掲載しておきたい。

1、私たちをめぐる動きー深まりゆく資本主義体制の危機と革新の前進

 いま、世界の資本主義体制は、止まりようのない不況とインフレの谷間に突き進んでおり、失業の増大がつづいています。こうした危機打開のため、第3回資本主義七大国首脳会議(5月、ロンドンサミット)は、景気対策国際収支、貿易問題、核エネルギー、南北問題について討議をしたが、抜本的な問題解決を見いだし得ないまま終っています。73年秋のオイルショック以降、国際的にも日本においてもエネルギー、資源問題と設備過剰が重なり、インフレ抑制策は不況を呼び、景気対策はインフレをふかめる矛盾をうみ、これまでのように経済活動をつづけることが不可能となっています。

 そのため、各国とも4〜5%の経済成長率のなかで低成長政策をとらざるをえず、高物価、賃金抑制策、失業の増大がうみだされ、重税、社会保障の削減など回復の能力のない矛盾と衰退をしめし、深めています。こうした資本主義支配体制の全面的な危機のなかから、労働者、労働組合の生活と権利を守り、国政の革新を求める力がおおきく前進ーーフランスの左翼連合の進出、スペインの全政党合法化と総選挙、イタリアの全政党一致の政策確立、ポルトガルの労働運動合法化−ーしているまぎれもないこの事実こそ歴史の主たる流れとして確信をもつことができます。

2、ゆきづまりつつある自民党政府と独占の対応

 こうした構造的ともいえる国家独占資本主義の深刻な危機は、日本においても例外ではなく、独占資本と政府自民党はその支配体制の維持と避けがたい改革の流れに必死の攻撃をくわえていることに情勢のきびしさがうまれ、本質があるといえます。まさしくいずれかの力の均衡が破れるならば、支配体制がうつりかわる全国的な情勢がひきつづくでしょうし、いっそうきびしい攻撃がつよまるといえます。昨年のロッキード疑獄事件につづき、いま、それにまさる日「韓」汚職、全大中事件は、米・日・「韓」の政治的、経済的な構造が腐敗の極にきていることを示しています。ここにも、国民のきびしい審判がくだされ、総選挙・参院選をつうじて政府・自民党をおおきく後退させ「保革伯仲」という政治情況をつくりだしました。そのため、支配体制もまた、野党の抱き込みと分断の攻撃をつよめ、政治戦線・労働戦線の右寄りを推し進めています。(長文が続くが、現状と違うので後略する)

3、綿密な情勢分析を行い共通の認識に

 国際・国内情勢と同時に、争議団をめぐる身近な情勢も分析し、判断して戦術を練らなければならない。県内のどの組合や勢力が頼りになり依拠したらよいか、誰に支援組織の役員を依頼したらよいか、県内の力関係や争議状況についても全体的に状況を把握しておかねばならない。以下は結成総会で提起された、県内情勢、県内争議の闘いの特徴と教訓と題して、全体で討議し深めるとともに、共通の認識として確認しておく内容である。

4、県内争議組合・争議団の闘いについて

 県内争議組合、争議団は、現在 ( )団体(   )人 であり、地域争議団共闘に未加盟の仲間や差別、労災、刑事弾圧、官公労働者の不当処分で闘う仲間を加えたならば、県内で権利闘争をおこしている数ははかり知れません。「姿なきピケットライン」三協紙器闘争、「労商の共同戦線」のウルベ闘争、「コブだらけの勝利」の油研解雇反対闘争など、60年代の教訓的、先駆的闘いは全国的に影響をあたえ、「統一こそに勝利がある」のスローガンで反合理化闘争をたたかった日炭高松の仲間の「統一戦線方式」を着実に実践し、神自交滝の川、メトロの仲間も地域の共同の団結の力て権力の弾圧をはねのけて勝利をしました。

 そして、横浜ゴム争議団、東亜石油争議団、川崎化成争議団など、いくつかの仲問がひきつづく困難な闘いを続けはするが、多くは解決をし、第一期県内争議団共闘はその役割りを一度は閉じ、あらたな闘いの準備のために、地域で闘いの火種を燃やし続けていました。多くの労働組合が、その方針に掲げはしていたが、「合理化」反対闘争、そして、中心ともいえる争議は、解雇者をかかえたいくつかの単産の指導と当事者の「闘えばいつかは勝利する」ド根性路線でがんばり、たたかわれていた。しかも、先輩争議団との交流があるのは良いほうで、法廷、地労委闘争の孤独な、長期闘争を家族や少ない仲間とともにすすめていた。生活苦から、労働組合、民主団体の専従に活動の主体がうつってしまった仲間もいた。

 1973年(昭和48年)9月、神奈川総評弁護団の労働委員会民主化九大要求の呼びかけがされた。おりしも、オイルショックによる狂乱物価、経済不況がふかまりつつあるなかで、大型倒産、大量首切りがおこり、職場ではたたかう組合や活動家に対する分断攻撃や不当差別が一層つよまっていた。倒産・解雇・差別でたたかう多くの仲間は、自からの職場とその周辺の労働組合、地区労、そして単産がらみの争議は、その単産の春闘夏期、秋期闘争のからまりのなかで大きくはないが闘いはとりくまれていた。しかし、職場や労働組合からの支援も受けられない争議団は、そのよりどころを地域争議団共闘に求め、集まりはじめていたのが現実でした。

 また、これらの仲間は、県内の民主的法律事務所・弁護士とむすんで労働委員会、裁判所に提訴し勝利をめざしていた。とりわけ、神奈川の労働委員会はその救済率の低さ、審理の長期化に泣かされ、ウルベ事件以来、倒産や配転解雇事件で労働者側の敗訴は当然視され、単に反動地労委というばかりではなく、期待をよせる機関でないという風潮であった。不当敗訴命令か、よくても和解、それもわずかな涙金で職場を去った仲間が多くいた。労働委員会の体質的機構に、怒りよりもまず、何んとか変えなければという闘う単産、弁護団、争議団の共通の要求が結合、再び、全県的な広がりをもった運動が労働委員民主化という自からの闘いと結合しておきあがりました。

  常盤車輛、江の電自校、全配管労、須坂港運、高野鉄工、後の昭和無線 ヤシカ、牛乳支部、中山水道の大型争議団が、それらの所属する単産とともに、地労委で提訴したたかっている仲間を包む争議団共闘の仲間、県下の弁護団と共闘がつよまり、運動のたかまりのなかでは、県職労、全税関をはじめ国公共闘の仲間も加わり民主化闘争は52団体が、それも、地域、上部団体の違いをこえて結集するに至りました。(まだ、長文が続くが後略)

X、結成総会  活  動  方  針

  こうした国際情勢から国内情勢・県内情勢を綿密に討議しても、その状況の中で神奈川争議団共闘会議として、また個別の争議団が何を行うか、活動の基本方針を提起し決定して闘う方向を打ち出さなければ意味がありません。決定した方針は意志統一を図り、決めた事は必ず実践しなければ絵に描いたモチで何の役にもたちません。以下は結成総会で提起された、活動方針である。

 私たち争議組合・争議団は、生産現場の集中する神奈川で資本の不当な首切り、企業閉鎖、差別の攻撃に対し不屈な闘いを展開してきた。日本経済の低成長の中では労働者に対する資本の攻撃も複雑巧妙かつ露骨になってきている。 私たちは、これらの情勢を正確につかんで自分達の活動の中に生かし、すべての争議組合・争議団が、一日も早い勝利を勝ちとるため、次の活動を行っていきます。

▲ 幹事会の充実と組織体制作り
  県内争議の実情を正確に把握し行動をつよめるために各地区争議団、主要争議団から幹事を選出し組織の充実をはかります。
  幹事以外の争議組合・争議団が自由に幹事会に出席するよう呼びかけます。幹事会は月一回以上開催します。

  ▲ 宣伝活動を重視し情報交換に努めます
  争議組合・争議団に対する資本家側のうごきを始め、裁判所・地労委・警察権力又は職場に現れる合理化の実態などの宣伝につとめる。

▲ 各争議組合・争議団・地区争議団の相互交流の強化
  地区争議団・個別争議組合・争議団相互の 支援、交流を強化し、それぞれの経験と教訓を学び合います。また、県争議団共闘への参加や加入を積極的に呼びかけます。

▲  傍聴動員の強化
  各争議組合・争議団が裁判所・労働委員会日程を報告しあい、傍聴動員の相互支援を強化します。

▲ 討論集会と交流会
   情勢の把握とたたかいを強めるために次のことを行います。
  @ 春闘討論集会
  A 問題別研究交流集会
  B 弁護団・労働委員会労働側委員との交流
  C ひとり争議激励集会

▲ 統一行動・共同行動の強化
   私たちは闘いを発展させるために次の行動にとりくみます。
  @ 地区総行動
  A 司法反動とのたたかい
  B 重点争議の解決のための行動
  C 警察権力介入排除のたたかい

▲ 文化レクリェーション活動
  各争議組合・争議団の要求にそって健康保持と団結強化、家族交流のためにレクレエーション活動を積極的に行います。

▲ 他団体との共闘について
  争議勝利と地域での労働運動の強化のためにはさまざまな統一行動と共闘が求められます。神奈川争議団共闘は加盟する争議組合・争議団の実情や自主性を尊重し合って運動の発展に協力します。
   要求で一致する団体との共闘・統一行動には積極的に参加しす。

▲ 自治体交渉を前進させるため
  今までの経験をひきつぎ革新自治体の有利な面を生かして定期交渉、問題別交渉を発展させます。

      Y、自主的・主体的な運動の構築へ

 神奈川争議団共闘会議は、結成の当初から自立した組織として団体間の関わりを重視してきた。その主要な背景は、争議団の特殊な組織的性格にあるといえる。神奈川の個別争議団は、組合の組織としての争議の場合は、主体的な闘いが初戦から取りくまれるが、地域的にも、産業構造のうえからも独占大企業の生産現場が集中しており、争議、事件の多くは、JC、同盟の職場や組合からの支援がないもの、また未組織の職場となっていた。これらの争議は、組織的活動の経験が少ないことに起因し特徴となっていた。したがって、共闘会議は、それぞれが属する産業別組織の運動を重視しながらも、組織の違いをこえ、また争議団の大小に関わりなく対等平等の立場で参加し、自立した共闘組織を構成している。しかしながら、組織的運営、運動のうえからは、経験を重ねてきた争議団、力量をもつ争議団が新しい事件、困難な争議をはげまし援助する役割を果たしながら共闘会議の統一と団結をはかってきた。

 また、神奈川では、横浜、川崎、湘南、県央と地域争議団共闘が結成され運動を発展させるなかで、地域争議団を全県的に統一して神奈川争議団共闘を結成してきた。そこでは、運動をつうじて、争議団運動の蓄積、闘いの教訓の継承、発展がもとめられたと同時に、資本の系統的・総合的な攻撃に対応する闘う組織としての自主的、自立した共闘組織が求められてきたのである。従って、全県を結集する組織の確立はきわめて重要であったと言える。争議団の性格ともいえるが、主要な争議団の解決によって、地域争議団共闘の機能が停滞することがあり、残された個別争議にとってはきわめて切実な課題となっており、運動を拡大強化するうえからも共闘組織は不可欠であった。

  1960年代に神奈川争議団が地域争議団共闘に解消され、70年代に再構築してきた歴史的教訓からも全県的に統一し自立した争議団共闘会議の発展強化は、闘う争議団に課せられた固有の任務であるといえよう。それはまた、直接的に支援をあおぐ労働組合あるいは団体との関係においても、自立した組織としての任務と役割、さらには責任を負うものといえる。こうした立場から今後の争議団運動をみるとき、争議団共闘会議がつねに自主的・主体的な立場から自らの争議の勝利解決と労働組合の階級的強化のために奮闘することが今後とも更につよく求められているといえよう。

1、結成当時の東京争議団との関わりから

  東京争議団との関わりでは、当時相手会社の本社が東京にあること、「東京総行動」による本社抗議などが取りくまれ闘争勝利に積極的役割を果たしていたことから東京以外の争議組合・争議団が東京争議団に加盟することが多かっか。東京争議団も「東京で闘うには東京争議団に入って闘う」よう勧めていた。そのため東京争議団には東京以外の争議組合・争議団がかなり参加していた。当時の東京争議団の一部幹部は、争議を通して総評・地県評との共同の拡大をはかろうとしていた。そして東京争議団のこの方針をすすめるため、「東京争議団は『東京地方争議団共闘』が正式名称である。したがって東京以外の争議組合・争議団が東京争議団に入って活動することに問題はない」としていた。

  1978年の東京争議団共闘会議第17回議案書によれば、参加争議組合、争議団の数は98労組・団体でうち神奈川からの争議組合、争議団は8労組・団体である。またその他に茨城1、埼玉3、大阪1、群馬1など、神奈川以外の府県からも東京争議団に参加していた。1988年の東京争議団共闘会議第27回総会議案書によれば、参加争議組合、争議団の数は48労組・団体で、うち神奈川からの争議組合、争議団は5労組・団体であった。また大阪は0、京都、広島、静岡、埼玉が各1、千葉が2労組・団体参加している。当時の東京争議団の議案書には、東京を中心とした各単産ごとの報告とともに、各県ごとに争議の報告がのせられており、神奈川争議団の役員にたいし東京争議団の議案書に神奈川県内の争議報告を出すよう求めたりしていた。

 また、東京争議団は、総評の関東ブロックと共同も一部で進めていた。こうした一連の東京争議団の一部幹部の行動や発言は、争議団内で「首都圏構想」といわれていた。現実に、多摩川を越えて鶴見川迄は獲得し、相模川の向こうは制覇し、残るは鶴見川から相模川の間だけであると、まことしやかにささやかれていた。こうした東京争議団の方針のもとに、東京争議団と東京地評の専従オルダ、神奈川県評の専従オルグ、それに東京、神奈川の争議団共闘会議の役員で、神奈川争議団と県評の関係を改善するための話し合いも設定された。このように、神奈川争議団共闘会議結成に際しては、東京争議団共闘会議の干渉まがいの行動もあった。

 そこには、神奈川の労働運動の歴史的経過、首都東京の労働運動の置かれた立場と歴史が異なり、存在の違いからくる認識の差異、運動路線のちがいがそこにあった。神奈川での運動を重視し、神奈川の自覚的労働組合に依拠した運動を通して闘争勝利を目ざそうとする自主的・主体的運動をすすめる神奈川争議団指導部の見解と、東京争議団の東京地評、総評に依拠した運動を進めようとする東京争議団指導部の方針のちがいを、神奈川の労働運動の単純さ、幅の狭さとしてその是正をせまり、そのため運動の路線をめぐってこの問題は神奈川争議団共闘会議内部の意見対立にまで発展した。これは神奈川争議団共闘会議の方針や役員人事にも当然反映した。神奈川争議団共闘会議結成にあたって、東京争議団共闘会議の副議長が神奈川争議団共闘会議の議長になるかをめぐって神奈川の争議団内部に論議がおこった。後にこれは、東京争議団の副議長を辞任することで解決したのであるが。

2、結成当時の県評と争議団との関わりから

  当時、神奈川県内では574労組・団体(443名余)が神奈川争議団共闘会議に参加しており、うち43団体(249名)が解雇され、撤回闘争で闘っていた。神奈川県評の右翼的な闘争指導による神奈川県評の指導を断る組合も出て、当時でもかならずしも神奈川県評がすべて関わっていたのではなく、1970年初頭から、むしろ神奈川県評に依存せず独自の闘いを組むところが増えつつあった。当時一般的な支援共闘会議の形態は、神奈川県評の役員が支援共闘会議の議長を、争議組合が所属する単産の役員が事務局長をやることが多かった。しかも、支援する条件として三権(争議権、交渉権、妥結権)を委譲しなければ支援しないと恫喝し、無理やり三権を握ってしまう。しかも、運動が高揚して会社が音を上げたところでおもむろに出てきて運動を止めさせ、当事者を退けて会社と結託して勝手に交渉し、低水準の解決で妥結してしまう。

 神奈川県評や右翼的単産幹部の指導する争議の解決の多くは、職場復帰はおろか、僅かばかりの解決金で路頭に迷わせ、資本との裏取引や無原則的妥協が多く争議組合当事者からその闘い方や解決条件をめぐって批判が絶えなかった。当事者が単産指導のやり方を不満として、組合印をもって一時行方不明になることもあり、職場復帰ができない事件なども発生した。このような腐敗した県評幹部の状況のなかで各争議団に、神奈川県評に依拠せず自覚的な労働組合に依拠して闘いを勧める自主的・主体的運動構築の傾向が強まり、支援共闘会議の形態も、実質的に県評を中心としない形態がとられるようになっていった。そうした状況での「神奈川争議団共闘会議」の結成は、他に影響されず、自覚的・主体的で自前の組織、努力次第で希望と展望を持てる独自の組織を手にして闘う要求と結びついていた。

3、軸足論をめぐる論争・労働戦線右傾化との闘い

 このように、神奈川争議団の基軸となる自主的・主体的な運動路線の方針は、「東京地方争議団共闘」路線からの脱却と県評依存からの独立という、多方面での選択肢を迫られるのは当然である。当時は、労働戦線の統一をめぐって、先鋭的な闘いが行われていた。神奈川県には、日本の独占といわれる大企業の九割が集中しているといわれていた。その神奈川で資本の労働組合運動への対応はきわめて高度な対応がとられている。階級的労働組合の御用化・右傾化は、一貫しており系統的・組織的で、警備公安警察、企業の労務担当との一体的な連携のもと、労働争議への警察の介入や暴力団の介入も多く行われていた。神奈川県評の右傾化はひどく、総評内単産での神奈川県の組織は、全国でもっとも右派に属する組合が多かった。従来から一般的にいわれていた「総評は闘う労働組合」とのイメージは、神奈川県では70年代初めからすでに崩れつつあったのは前記したとおりである。

4、 闘いの基本と労組連運動

 神奈川争議団共闘会議は、第三回総会議案書(1979年)の闘いの総括と教訓の項で「争議団の原則的な闘い」を提起・決定している。
 このとき、現在の神奈川争議団共闘会議の方針が基本的には確立されたといえる。

 @闘いの原点をつねに明らかにすること。
 A自主的・主体的な闘いをおこなうこと。
 B労働戦線の階級的統一、革新統一戦線の結成をめざす闘いに寄与すること。

 東京争議団の基本方向が、職場からの統一をかかげ、東京地評に重心をおいた運動を展開し、争議をつうじて労働戦線の階級的統一を追求したのにたいし、神奈川争議団はその「軸足」を自覚的階級的労働組合におき、労働戦線の階級的統一、革新統一戦線の結成をめざす闘いを追求していることである。この方向を神奈川争議団が追求するようになった背景には、当時の神奈川労組連絡会議の運動に特徴的にみられる神奈川の労働運動が影響をあたえていると考えられる。総評が解散を決定し「連合」へ吸収合併されたこんにちでは、統一労組懇の運動を否定する人は少なくなっているが、神奈川においてはこの原型ともいえる運動は横浜地区労が中心となり、1965年からおこなわれていた。組織体でなく運動体として、自覚的労組の共同行動を拡大強化し、運動を通じて右翼的潮流を圧倒していこうということから、目的意識的に「労組連絡会議運動」が展開されていました。

  労組連絡会議運動は、神奈川県労組連絡会議(統一労組懇)へと引き継がれていった。これが、独占大企業の工場が集中する神奈川県の労働運動の歴史的経過である。こうした自覚的労組の共同行動が、神奈川争議団の運動方向に大きな影響を与えたといえる。神奈川争議団代表者会議では、役員会が提起した、共同行動の組織化にあたり統一労組懇運動の先がけでもあった神奈川労組連絡会議をはじめとする白覚的労働組合との共闘強化をめぐって感情的な論議になり、「労組連」の名がでただけで争議団共闘の会議で「ナンセス!」のヤジがとぶ状態もあった。小異を捨て大同について団結出来たのは、過去に味わった屈辱と悔しさが根底に流れ、人間としての尊厳を大事にし自由な意志での闘いを求める点で合致していたからでもあった。神奈川争議団共闘会議の第一回総会(1977年、結成総会)の議案書は、このように複雑な状況のなか、困難な条件を克服する討議を尽くし、統一の方向でつくられたのである。

  結成総会は、県内のほとんどすべてといってよい争議団が集まり、活気に満ち闘う決意にあふれていた。いままで孤立し必死にがんばってきた争議団は、自分の争議を多くの人にわかってもらおうと、交流会は夜遅くまで続けられ大変賑やかさであった。結成総会のさなか全国一般オイルシール分会の争議が、解決金一億円をとって解決したと報告され、闘う神奈川争議団共闘会議の門出に「華」をそえた。
 結成総会は、議長に全国一般全配管労の糸川氏、事務局長に大日本塗料争議団の池田氏を選出した。

Z、争議団共闘の統一行動から「神奈川総行動」へ

  神奈川争議団共闘会議は月一回の代表者会議を開催し、各争議団の報告と当面の重点を決定し、全県の争議団が一つの争議団に集中し、労働組合の支援も得ながら抗議行動などを本格的におこなうようになっていった。会議は解雇争議が大部分だったため午前中役員会、午後から夕方まで代表者会議と時間もたっぶり採っておこなわれた。

  各地域争議団共闘会議も、それぞれ会議をひらき地域での運動をつくっていった。「県内企業のリレー抗議」に代表される神奈川争議団共闘会議の統一行動は、労働組合の支援も加わり産別の枠をこえ地域共闘発展の基礎ともなった。またこの「リレー抗議」は、神奈川から独自に東京に攻めのぼる東京行動にも発展し、争議解決に大きな威力を発揮した。

[、兄弟姉妹組織と分担連携して

  神奈川には、差別連絡会議・地労委民主化対策会議・神奈川職場に自由と民主主義連絡会議(神奈川職自連)・連合職場連絡会等、いろんな分野の組織が設置されており、それぞれが独立し分担すると共に、そうした組織が有機的に結合し、情勢や必要に応じて連携し、協力・共同の関係を築き合同して総力戦で闘う場面もあります。労働争議には、地労委(現・県労委)の民主化闘争は欠かせません。司法の反動強化は許せず阻止しなければなりません。弁護士団体を含め五者で、憲法記念日に例年共同して集会なども開催してきました。

  私は、神奈川争議団共闘会議の副議長を務めた経歴を持ちますが、当時は自分の争議や加盟争議の一日も早い勝利解決を勝取る事に専念してきました。しかも、差別争議を闘う争議団は、NKK・東京電力・小田急・日産・日立・東芝等に見られるように、国を代表する大企業であり、所属する組合も連合傘下の産別に組織された組合員であって、対極にある全労連に所属する組合員でもありません。当然の事ながら、連合職場連絡会での活動もあります。神奈川争議団は、1977年9月に結成され、36年の長い歴史を持って活動している。その目的は、争議を「一日も早く勝利するために、統一と団結を固め、相互支援と交流を深める」ことを、主な目的としています。 神奈川県下の不当解雇事件や女性差別の撤廃、労働組合運動を理由とした解雇争議や昇格・賃金差別等の是正を求めて闘っている争議団が加盟しています。、相互支援と交流を深めながら協力・共同し、助け合い、争議の一日も早い勝利解決を目指して闘う組織であり、規約に基づいて運営されています。

  労働関係のあらゆる行政組織に相談や救済を求めても解決せず、地方労働委員会(現県労働委員会)や裁判所への訴訟をやむなく提起して闘わざるをえない、非常に厳しい状況に置かれた争議団が加盟し共闘しているのが特徴です。 不当解雇や労働問題で困っている人達の相談も受付け、蓄積された知恵や力を提供して相談も受けています。そうした意味では、労働問題で困り果て助けを求めても行き場の無い最後の”駆け込み寺”というのが、適切な位置づけとなるでしょうか。そして、新人争議として加盟し活動し、めまぐるしい渦の中で運動しているうちに年月が経過し、いつの間にか自分も渦に巻き込まれ、自ら新しい提案をし実践の先頭にたって運動しながら育っていく。孫子の兵法を学びながら、現場で実践し戦術家として自分が気が付かない間に自然に成長していく。そんな実戦の場が神奈川争議団であると言えます。

 争議が解決すれば、当然その争議団は去っていきます。しかし、そのノウハウは自然に後進に継承され引き継がれていきます。神奈川争議団の方針の下で共闘し、36年の歴史の中で、154の加盟争議組合・争議団、1500人が勝利解決を図るという、輝かしい実績を残しています。その経験と知恵が濃縮され集約されたものが、下記「神奈川争議団共闘会議の理念」です。争議が解決すれば、当然その争議団(組合)は神奈川争議団共闘会議から抜けていきます。しかし、残った争議団や新たに加盟する争議団は、先人の築いた精神とノウハウを継承し、闘いを前進するなかで更に内容を充実発展させていくという関係が継続していきます。

\、神奈川争議団共闘会議の基本理念

  闘争勝利の四つの基本と三つの必要条件および闘争勝利のための原則的な闘い

一、【 三 つ の 原 則 】    第3回総会(1979・9・7)

 1、闘いの原点を明らかにすること
 2、自主的主体的に闘う
 3、労働戦線の階級的統一、革新統一戦線の運動に寄与すること

二、【 四 つ の 基 本 】

 1、職場からの闘い
  2、産別・地域の仲間との団結と共闘の強化
 3、争議団の団結の強化
 4、法廷闘争の強化

三、【 三 つ の 必 要 条 件 】

 1、要求を具体的に明らかにする
 2.情勢分析を明確にする
 3.闘う相手を明確にする

]、 バンドラの箱、蓋は開けてあります

  昔から開けてはならない禁断の箱、「神奈川争議団共闘会議」という、バンドラの箱、蓋を開けてみました。希望や知恵が沢山残っていましたが、その全てを書く事は避けます。味方だけでなく、相手を利するかも知れませんし、司法改革で労働法制の改悪化が進み、現在の情勢に無条件に適用する情勢ではなくなって来ている点も出てきています。同時に、モザイクで不透明なものは、自ら努力しいろんな角度からアプローチして、真剣に取り組まない限り真髄を会得することは不可能です。

 この項は、いわば中間総括的な位置づけとして記載したもので、今後も私が深く関わった争議を何件か掲載していく予定です。そうした具体的な事件や争議の取組の中に、新たなエキスやヒントが含まれ吸収できるかも知れません。私は、そうした体験から改めて謙虚に学び、新たな分野で、更にボランティアへの道を模索し発展していくつもりでいます。同時に、最後に救いを求める労働者の”かけこみ寺 ”の門は、現在も開放してあります。



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21、石流れ木の葉沈む日々に

     ー三菱樹脂・高野不当解雇事件全面解決ー

    (1963年09月30日〜1976年03月01日  13年)


三菱樹脂・高野
1、入社時の身上書を理由に解雇
  三菱樹脂高野不当解雇事件は、入社の際の身上書に、「学生運動をしていた事を隠した」「君の考えは会社にとって好ましくない」として、試用期間終了直前に本採用拒否・解雇を言い渡された事件です。

2、裁判の経過

 1)1963(S38)年09月30日、東京地裁へ地位保全の仮処分申立
    1964(S39)年04月27日、仮処分決定出される
高野さん全面勝利の決定であったが、会社は組合の粘り強い自主交渉にも拘わらず、職場復帰をさせなかった。

 2)1965(S40)年06月25日、東京地裁へ本裁判提訴
     1967(S42)年07月17日 東京地裁で高野勝訴の判決出される。
この東京地裁への提訴は、敗訴決定を受けた会社側ではなく、勝訴決定を受けた原告高野側であり、敗訴決定を受けた三菱樹脂が本裁判提訴も行なわず、職場復帰もさせないところに大きな特徴があります。

 3)1967(S42)年07月17日、敗訴した会社側が即日東京高裁へ控訴
    1968(S43)年06月12日、「控訴棄却」で高野側の勝訴判決。
  第一審被告が第二審では原告となるという、複雑で陳腐な裁判であったが、地裁判決より前進した内容で、高裁判決も高野側が勝訴する。

 4) 1968(S43)年6月25日、会社は最高裁判所へ上告
     1973(S48)年12月12日、最高裁大法廷で判決。

   「主文ー原判決を破棄する。本件を東京高等裁判所へ差し戻す」 というものであった。

3、解雇撤回・職場復帰を勝ち取る

  以上のように、三菱樹脂高野裁判は高裁まで3連勝したが、15人で構成される最高裁大法廷において、東京高裁へ差し戻し再審理をするという、高野側敗訴の不当決定が下された。この高野不当解雇事件は、首都東京は勿論全国的な支援の輪が広がり、全国に知られる大闘争として、世間の注目を集めました。その運動は、裁判係争中から都心を揺るがすような規模で行なわれ、特にメインバンクである三菱銀行への包囲抗議・要請行動は大規模で頻繁に行なわれました。
 こうした運動を背景として、1975(S50)年11月27日、東京高裁に於いて和解勧告が提案され、双方が受け入れて和解交渉が行なわれる事となりました。そして、1976(S51)年3月1日付けで、解雇を撤回し高野さんの職場復帰が実現しました。こうして、三菱樹脂高野不当解雇事件は、最高裁大法廷で「東京高裁へ差し戻し再審理」という敗訴判決にも拘わらず、大規模な運動を背景とする自主交渉による合意を、裁判所和解とし、13年に及ぶ闘いに終止符を打ったのです。

4、首都圏を揺るがした争議が解決

  この争議は、1976年3月に三菱樹脂が解雇を撤回し、高野さんの職場復帰を認めて解決しました。私達、人権裁判が1973年に始まりましたから、3年後に勝利解決したことになります。この闘いは、首都東京は勿論、全国的に支援の輪が広がり、大闘争となりました。私たちは裁判提訴直後であり、多摩川を隔てた隣での闘いに大きな関心を持って見守るのは当然です。しかも、三菱樹脂のメインバンクは三菱銀行であり、大手町のNKK本社ビルとは道路1本隔てた正面が三菱銀行本店の建物です。終盤、三菱銀行本店への包囲要請・抗議行動は毎週大規模に行われました。三菱銀行本店へ勤務する友人の話では、包囲行動が行われる日は、課長以下管理職が招集され、階段の上下を警備で固め、一日中仕事にならなかったとの報告を受けていました。何も抗議行動に集まった人達が銀行へ突入する筈もなく、銀行の動揺振りから判断し、この争議の終結は近いと感じたものです。神奈川争議団とは直接関係ない争議でしたが、最終盤包囲行動に何回か参加し、闘いに勝利する何たるかを学び、記憶に印象深く残る闘いでした。





ボランティア 22、ブラック企業・臨港バス鈴木不当解雇撤回争議

       ー生命を懸けて闘い、真実を追求した執念の軌跡ー

        (2000年04月06日〜2006年07月20日  6.3年)



1、日本で初めてインターネットを悪用したブラック企業、臨港バスの不当解雇事件が突然起きる

鈴木争議総括集
 長年会社を信じて真面目に働いてきた労働者が、企業の都合で狙いをつけられ、会社方針のもとに幹部と労務や弁護士を含め、その道の専門家が周到に準備をし、監督官庁である行政をも抱き込み一体となって謀略のワナに嵌められたら、善良な労働者が一人ではどうにもならない事態に陥ることの典型例である。

 インターネットという一見便利であるが、掴みどころのない文明の利器を謀略に悪用し、労働者を不当に解雇するという悪質な事件が、事もあろうに、日本で最初に労働者の街川崎で発生した。闘いという事など頭にもなく、善良な労働者であるがために、仕掛けらえた策謀、アリ地獄にもがけばもがくほど深みに嵌っていく苦闘。労働者の味方と信じた自由法曹団弁護士や労働者・市民の立場を標榜するエセ労働団体である川崎労連に支援を求めたが、手を差し伸べるどころか逆に頭を押さえつけ、アリ地獄の底に沈めようとする悪辣な裏切りに耐え、懸命に果敢に闘った一人の男の実在した闘いの記録である。

  川崎と鶴見をエリアに営業する「川崎鶴見臨港バス」、そこで長年真面目に働いてきたバス運転士、鈴木哲夫さんの血の滲むような闘いである。皆で力を合わせ、アリ地獄から鈴木さんを懸命に救い出すための支援する会結成は、不当解雇されてから2年8ケ月も経過した、2002年12月11日で、それ以後鈴木さんを職場復帰させる為に深く関与し、真実を追及し、共に闘い抜いた執念の軌跡である。

  (1)、土岐美恵子という正体不明な乗客からの「苦情」をでっちあげて

 川崎鶴見臨港バス株式会社(以下「臨港バス」という。)に勤務するベテランバス運転士である鈴木哲夫さんは、2000(平成12)年4月6日、臨港バス神明町営業所所長であった入野晴朗(以下「入野」という。)から、突然同営業所に呼び出され、
  @「平成12年3月14日、原告が色の濃いサングラスを着用してバス運転業務に従事した上、乗客である訴外土岐美恵子(以下「土岐」という。)からバスの行き先を尋ねられ、行き先は前に書いてある旨怒鳴り、乗客に対し不適切な言動を取った」と土岐からの訴えがあり
 A 「その苦情がインターネットで全国に流れた。その内容を監督官庁である陸運局が察知し、『お前のところの運転士教育はどうなっているのか』と陸運支局から呼び出しを受け、今、社長と上層部が謝罪に行っている。」
 B「今日退職願いを書かないと、明日賞罰委員会を開いて懲戒解雇にする。懲戒解雇になると、退職金が貰えなくなる。今日書いた方が得でしょう!」と言った。

(2)控訴人は身に覚えのない事実であったので、はじめは「そういう事を私はしていません」と反論をしていた。しかしながら、会社側(入野所長と労組幹部の吉田支部長)が上記のような内容を2時間以上にも亘って密室の中で迫り、その強い態度から、控訴人としてもだんだんと懲戒解雇になると退職金も貰えないし、将来再就職の道も閉ざされ、まともな生活が出来なくなるという気持ちになり、追いつめられ、もう仕方がない、とあきらめの気持ちから頭の中が真っ白になって思考力を失い、入野所長の示す予め準備してあった見本に倣って、「退職願」を書いてしまった。

(3)しかしながら、後になってインターネットへの苦情など流されておらず、会社代表者が監督官庁に謝罪に行ったという事実もなかったことが明らかになった。控訴人は被控訴人会社が自分を辞めさせたいことからこのような作為を行ったことを感じ、退職届の撤回を求めた。しかし臨港バスはそれには応じなかったために、退職の意思表示の取消しを伝えた。これにより控訴人の職籍は残っている。

(4)また、そもそも被控訴人主張の本件事件は懲戒処分そのものに当たるような事実とはいえない。にもかかわらず懲戒解雇にすると被控訴人らが控訴人に迫ったことは、全く理由のない行為であるし、控訴人が退職もやむないと考えるに至った理由には、自分に関連して監督官庁に会社幹部が出向くなどの大事に至っている、という誤解があった。しかしこれは被控訴人会社側の欺罔に基づくものであった。したがって、控訴人は退職の意思は無効であり、控訴人の職籍はなお被控訴人会社に残っている。

 (5) 又、このような「苦情」などがあったときには、被控訴人会社は運輸省関東陸運局神奈川支局(現国土交通省関東運輸局神奈川支局に名称変更。以降『関東運輸局』とする。)にその経過や対応について報告をしている筈である。山口証言調書(平成15年3月12日45頁19行〜21行)でも「本件では報告書を出してないんですか」との問いについて「出していません」としか答えられないでいる。また、被控訴人会社から「乗客の苦情がインターネットに流れて、関東陸運局が察知し、呼出しを受けて、社長と上層部が陸運局に謝罪に行っている」などと被告会社から欺罔、強要、脅迫され退職届を略取され、職場を「解雇」同様に追い出されてしまったが、前記のようにそれが嘘であること、しかも控訴人らが2000年の4月以降関東運輸局へ訪問や要請を行っているが、その際、これらに対する関東運輸局の回答には控訴人が土岐証人に「怒鳴った」という苦情の報告があったということは一度もなかったのである。

 労働組合でも平成12年5月26日の被告会社の臨港バス交通労働組合の質問書(甲第5号証10行以降)で、その後、組合独自に調査を行ったところ、「この『陸運支局への苦情・社長のお詫び』は事実無根のようです。」「同氏の過去の処分歴や本件裁判が結果的にどうなるかとは関わりなく、労働組合に対して虚偽の事実を述べたこと自体が、労使関係上の信義にもとる、ゆゆしき問題であります。」「いったん同氏の過去の処分歴等を考慮した上でそれが処罰にあたる事であると会社が主張されるのであれば、当組合の主張通りに退職願の撤回を認めた上で、改めて賞罰審査委員会等で、ふさわしい討議をなすべきものと考えます。」と組合も主張している。


2,国土交通省も「苦情」の報告がウソである事を認める

@ 「乗客の苦情がインターネットで全国に流れ、会社の名誉を著しくきずつけた」のか否か。
A 「そのインターネットの文章を関東陸運局神奈川支局が察知した」か否か。
B 「陸運局から『おまえの所の運転手教育はどうなっているんだ!」と呼び出しの電話があった」のか否か。
C 「鈴木哲夫の件で、今、社長と上層部が陸運局に謝罪に行っているという事実があったか否か確認に行った際、
@については関東運輸局と直接の関係はないので回答はなく、ABCの項目について、「関東運輸局神奈川支局からは報告されていません。神奈川支局に再度確認してご返事します」との事であった。

 最後に「退職届に拇印を押さされた翌日、私が暴言を吐いたと言われたがその事により本当に苦情があったのかどうかを確かめるため、妻と二人で陸運支局に行きました。そこで『臨港バスについての苦情の報告は来ていない』と担当官(敢えて生名は伏す)から聞き、自分が騙されて退職届を書かされたことに気づきました。すぐに会社に退職届の返却を求めましたが、断られました。今は、アルバイトで月7万円の収入で食いつないで生活保護を受ける寸前の生活状況でいます。
 裁判長に申し上げます。私は乗客に対し暴言を吐いていません。私はバスの運転歴15年の間、乗客から一度も苦情を受けたことはありません。身に覚えのないことで職場を追われるなどとても耐えられません。私が退職届を騙し取られた当日の夜、職場の仲間が16名自宅まで来て心配してくれました。生活を路頭に迷わせられた家族にどんな非が責任があるというのでしょうか。冤罪で生活の糧を絶たれたら生活することはできません。家庭も崩壊します。私を職場の仲間のもとに帰してください。そして家族に安心を与えてください。非人間的状況に置かれている私のみならず、民営バスで働いている全国の多くの人々を含めて、私たちの人間性を回復するような御判決を願う次第です。」との控訴人の声を聞いていただいて、慎重な御審議を願う次第であります。(東京高裁・原告準備書面より)

弁護団との団結

 争議を勝利解決する為には、原告・支援組織と弁護団との三者の団結が不可欠の条件です。鈴木争議に於ける弁護団との関係を検証し、記録に留めておく必用があります。

1、仮処分では企業側に立つ弁護士に依頼してしまう。


  誰でもが平穏な生活を望み営んで生きているが、自分に突然不幸が降りかかるなど、予想もしていないのは当然の事です。正に鈴木哲夫さんへの突然の退職強要事件は、会社は前々から鈴木さんを狙い陥れるために事前に周到に準備をし、謀略を仕掛けてきたのであるが、当の本人は全く知る余地もなく無防備の状態で生活していした。労働組合運動も争議の経験もない一般の人間が、いざ裁判を起こすとなっても弁護士を選定する基準や基礎的知識等ある筈はありません。知人が知っているというだけで紹介された弁護士でした。

  だまし討ち解雇されて1ケ月後の2000年5月9日、横浜地裁川崎支部へ地位保全の仮処分申立を行ない、裁判闘争に立ち上がりました。支援者もなく弁護士と本人と家族だけで、裁判所の密室の中で審尋が行なわれ、証人も証拠調べも行なわれる事無く6回の書類審査と審尋が行なわれ、7ケ月後の12月14日決定が出されるに至りました。争議経験のない人は誰でもが、”弁護士は正義の味方、裁判所は正義と真実を判断してくれる所”と信じて疑わず、公正な判断を出す所と期待を持つのは当然です。結果は、期待に反して原告敗訴の「却下」決定でした。支援組織も無く、周囲の協力や助言も全くない中での密室裁判では、予想された結果と言えます。知人の紹介で依頼し代理人を立てたわけですが、経営法曹会議に所属する、経営者側の利益を養護する立場の弁護士であった。


2、弁護士主導の横暴で杜撰な法廷対策(実は弁護士間での裏取引が・・・)


 1)2002年3月27日、横浜地裁川崎支部へ本訴を行ないました。仮処分での経験と教訓から、今度は労働者側の立場に立つと言われていた自由法曹に所属する藤田弁護士に、代理人を依頼しました。受任の際2人分の着手金を要求され60万円を支払いました。

 2)「鈴木哲夫さんの職場復帰を支援する会」が結成されたのが、9ケ月後の12月、横浜地裁川崎支部で第1回公判が開かれた日でした。通常は、支援する会の会議に出席し、三者で情勢分析や法廷対策等を検討し、方針を立て意思統一するものですが、藤田弁護士には参加要請しましたが会議には一度も出席したことはありませんでした。
  そればかりか、法廷の打ち合わせは原告と家族のみで行なわれており、支援する会の参加は許されませんでした。支援する会は、法廷対策が不十分である事を具体的に指摘し、原告・弁護士・支援する会三者による合同会議を適宜開催することを強く提案し、法廷対策を強化する事に努めました。

2)藤田弁護士は「市民的労働争議」に固執

珍ドン宣伝
藤田弁護士の主張は、鈴木争議は、労働運動の闘士を狙った指名解雇ではなく、会社は大々的なリストラを行なっておらず、鈴木さんはリストラの犠牲者でもなく労働争議には当らない。一般的な市民事件であり、敢えて言うならば「市民的労働争議」と言えると規定しました。この位置付けは、労働争議のように大衆的裁判闘争を否定し、支援する会の結成や運動を抑えて傍聴動員程度とし、法廷内だけに止める市民的裁判に待ち込めればよしとする法廷至上主義の方針であり、しかも、素人目にもそれと読み取れる、法廷での主張・立証や意気込みもなく手抜きの多い、素人弁護士顔負けの杜撰なものでした。原告や支援する会とは時々意見の相違をを見ましたが、自分の主張をゴリ押しするため「何時辞任してもいいんだよ」が最後の決まり文句で、多くの人が何回この言葉を聞かされたか知れません。弁護士倫理以前の態度で、原告の立場で弁護する姿勢は見られませんでした。(死の直前に原告の口から・・・会社弁護士とは司法修習生同期、安い解決金で和解の事前合意があり、なんとその分を弁護士間で山分けの裏取引の密約が・・・)

 3) 藤田弁護士突然代理人辞任を表明

  横浜地裁川崎支部での公判は8回行われ03年10月15日に結審となり、04年1月28日、原告敗訴の不当判決が出されました。3日後の31日、三者合同会議がもたれ今後の対策を検討する事になっていました。前日には原告一人が呼ばれ、意向を聞かれていました。
三者合同会議の席で藤田弁護士は、
 @ 皆さんとは考え方が根本的に違うし変えるつもりも無いので、これ以上一緒にはやれない。
  A 弁護士は進級担当、私は地裁の任務は果たしたので、原告の名前で控訴手続きをし、ここで代理人を降りたい。
  B 労働事件は時間がかかって難しく割に合わない。鈴木さんに係わっている時間を他に当てれば”5人分の実入り”になり、全く割りに合わない無駄働きである。
 予測できない事態ではなかったが、一審敗訴と弁護士辞任という不測の事態を迎え、二週間以内という期限内に、原告と支援する会の2名で東京高裁への控訴手続きを行なわざるをえませんでした。
2人分として支払った着手金でしたが、弁護士は藤田一人だけで約束は守られず、辞任後に着手金半分の返済を求めましたが、姑息に逃げまわって話し合いにも応ぜず、ついに返却されることはありませんでした。


3、地獄で仏の人権派弁護士に受任してもらう


1)弁護士捜しに困難を極める

当時藤田弁護士は自由法曹団神奈川支部の事務局長であり、彼が辞任した後を引き受ける所属団体弁護士は神奈川や東京では居ず、自分が所属する「事務所の十数人はだめよ」と釘を刺され、労働弁護団全体に神奈川争議団に対する敵視方針が徹底され、浸透していた情勢下にありました。昔自分の争議で関係した人や他の争議団の紹介等、あらゆるツテを頼って依頼したが、種々の理由を付けて体よく断られれ、その数は神奈川及び東京で三十数人に上るでしょうか。

そんな中、他の関係で知り合った人権派弁護士さんに依頼し、弁護士倫理に即して快く受任して頂く事が出来ました。しかし、高裁第1回指定期日(4月15日)には間に合わず、電話で担当書記官へ延期を要請したり、「期日変更申請書」を発送すると共に、高裁第8民亊部に原告と支援する会代表とで出向き期日延期を上申し、第1回弁論期日が5月27日と1ケ月半ほど延期されたことによって、法廷対策の準備が間に合いました。
苦労して捜した新しい弁護士は、鈴木争議のみならず、神奈川のその後の争議運動に於ける弁護士対策に貢献することに繋がりました。

 2)三者の団結を維持した闘いに発展

  一審に於ける裁判対策が弁護士と当事者のみで行なわれ、代理人主導で不十分であった反省から、法廷対策を人材的にも経験豊富な人を依頼して補充する共に、法対部を設け、集団で討議し準備する体制を整えました。弁護団会議を頻繁に開催し方針を立て具体化すると共に、弁護士任せにならないよう原告や法対部が積極的に働き、一審では提出されなかった新証拠を発掘し、資料の作成や陳述書や準備書面の素案を作成し、最終的に弁護士が仕上げ裁判所へ提出する方式が定着しました。口頭弁論前日にはメールでのやり取りを含めて、深夜まで法廷準備に万全を期して取組みました。東京高裁では半年で5回の公判が開かれましたが、その間14回の弁護団会議を行ない、民主的で率直な討論が行なわれ、正に三位一体の裁判対策が行なわれるようになりました。一審地裁の段階でこうした体制が採れていたらと、悔やまれる声が出されました。

3、社会的包囲の本格的な闘い


(1) 「鈴木哲夫さんの職場復帰を支援する会」の結成

  結成されたのは、鈴木さんへの退職強要事件(2000年4月6日)が起きてから約2年8ケ月後になります。2002年12月11日、横浜地裁川崎支部での本訴が始まり、第一回口頭弁論が開かれた当日の夕、裁判所の真前に建つ教育文化会館で結成総会が開かれました。産別の労働組合という支援母体を持たない一人争議であった為、役員は各種民主団体の代表や争議経験豊富な有志を集めて構成され、支援する会の態勢が形成されました。

  支援する会は、法廷闘争・職場からの闘いを重視すると共に、大衆的裁判闘争として世論の支持を広げ、会社と裁判所を社会的に包囲して闘う方針を決定して取組みました。結成日当日の行動は、親会社である京浜急行川崎駅前でビラを撒きマイクで音を出して宣伝し、裁判所前での宣伝を行なってから法廷に臨みました。

 被告臨港バスは、初めての争議とあって最初から傍聴にも毎回社員70人以上を動員し全力を挙げ、22席の傍聴席を抽選で確保する争奪戦に挑み、最後までその姿勢を崩す事はありませんでした。臨港バスは、法廷外でも好戦的・挑発的なな態度を一貫して貫く態度に終始したため、支援する会も支援の輪を広げると共に、傍聴動員でも行動の規模でも常に会社を圧倒する取り組みを行なってきました。その基本は、神奈川の反合権利闘争と神奈川争議団が、長年の闘いによって蓄積し築き上げて来た教訓に学び、より発展させる気概を持ち取組んで来たことになります。

(2) 臨港バスを社会的に包囲する多彩な取り組み

1) 公判日を一日行動として取り組む

横浜地裁川崎支部での闘いでは、早朝駅頭宣伝から始め、臨港バス本社前抗議要請行動として取り組み、裁判の結果を待つのでなく、一貫して双方の話し合いによる早期解決を目指して要請行動を行ないました。京浜急行本社前要請行動、裁判所前宣伝行動と、一日行動として多彩な取り組みを行いました。第5回公判までは独自行動として取組みましたが、第6回からは神奈川争議団の統一行動として位置付けられ、他争議団や全県の支援者に参加を呼びかけ、常時100名近い参加者を得て、毎回の行動を成功させてきました。

2) 京浜急行本社抗議要請行動

  京浜急行(株)が臨港バス株式の83.6%を保有している親会社であり、歴代の社長以下役員を送り込んで完全に経営権を握っている事が判明、争議解決の鍵を握る企業として位置づけ、重視して抗議要請行動を行ってきました。京浜急行は、当初一度だけ代表を社内の狭い会議室へ入れた事がありますが、それ以後は 玄関をロックし、警備員を十数人配置し、固く門を閉ざして最後まで玄関先での対応に終始しました。

 3) 国土交通省等監督官庁への抗議要請行動

この事件の大きな特徴の一つは、監督官庁である運輸省関東運輸局神奈川陸運支局(現国土交通省)の名を騙り、「社長以下役員が謝罪に行っている」と鈴木さんを騙し、退職願を奪い取った事が事件の発端です。
  @ そもそも監督官庁である関東運輸局が当初から、「国交省の名を悪用するなどけしからん、現状に戻しなさい」と、臨港バスに対して適切で強力な行政指導を行なっていれば、事件は訴訟にならず防げた可能性があります。
  A 関東運輸局が知らない所で名を騙られ、不当解雇の片棒を担がされたのは被害者であるが、その事を知った以上、争議解決を早期に行ない指導する責任が生じます。放置するならば、臨港バスの悪行を追認し片棒を担いだ事になり、国家公務員として責任は重大であると同時に、官・業の癒着を疑われても仕方のない事であり、誤解を避けるには解決に力を果たす立場に立つ事が求められます。
  B 臨港バスは裁判傍聴に70人もの社員を動員して職場を空にしており、その間に緊急時の対応と安全対策はどうなっているのか。又、業務以外に社員を動員するなどは許されない。調査し強力な行政指導を行なうよう、協力に申し入れました。
 C アンケート調査結果を集約し、利用者や市民の苦情や要求等生の声を持ち込み、改善指導 を行なわせました。
   D 国土交通省本省へも要請を行い、課長補佐2人を含めて4人が対応しました。国土交通省関係へは本省を含めて粘り強く17回の要請行動を行い、その中で重要な証言を引き出しました。
イ、国土交通省の出先機関が、インターネットをキャッチし関与した事実は一切ない。
   ロ、傍聴動員はバス会社の職務以外の事で、具体的に抵触する条文はないが好ましい事ではない。
   ハ、平成14(2002)年10月に、関東運輸局は担当専門官より”厳重注意”処分を行なった。
   二、平成15(2003)年1月30日に、神奈川運輸支局運輸課長より”注意”処分を行なった。
ことが明らかになりました。

 4) 自治体・背景資本への要請

  @ 神奈川県を初めとして、川崎市・横浜市等の自治体要請

神奈川県へは、県の交通行政全般を把握して調整し、県民の安全と生命を確保する立場から、公共交通機関としての監督指導を求め、他争議と共同で申し入れを行ないました。 川崎市と横浜市については、敬老パス・福祉パス等直接多額の市民の税金を補助金として出してしている立場から強い影響力を持つもので、頻繁に要請行動を行ないました。「直接行政指導を行なう立場にないし余り力になれなくて申し訳ない」と言いながらも、要請を一度も断わらず真摯に受け止め、自治体の持つ権限の範囲で、臨港バスに対して要請の内容を電話で伝え、要請書をFAXや郵便で送る等の労をいとわず取組んでくれました。アンケート結果を集約したものについても、行政指導と政策立案の参考資料として届け、喜ばれました。

  A 背景資本への要請

争議解決に果たす銀行や生命保険会社等の背景資本が、争議解決に大きな力を発揮する事は幾多の経験則からして実証済みです。臨港バスの場合は株式が公開されていず、親会社である京浜急行(株)の出資銀行であるみずほコーポレート銀行や国策銀行である日本政策投資銀行、筆頭株主である日本生命や大株主である第一生命・みずほコーポレート銀行・横浜銀行の、本・支店への要請行動を頻繁におこないました。地裁の段階では川崎・横浜の支店への要請を行いましたが、一日に十数店舗の要請を行った事もありました。最終盤には東京の本店を回り、要請行動を行ないました。アンケートを集約した冊子を渡すと、「ひどい会社ですね、同じサービス業ですがこんな事をしていたらうちの会社が潰れてしまいますよ」と、余にも評判の悪さにビックリしていました。親会社の株主であり間接的なので、革靴の上から足を掻くようなもどかしさを禁じ得ませんでしたが、どの背景資本も、要請を受けたところは真面目に話を聞き、京浜急行へ出向いたり担当者を呼んで詳しく伝えると同時に、半ば説得にも似た形で積極的に取組んでくれた所もあり、大きな効果があったものと受け止めています。

 5) 株主総会での宣伝と発言

「株主総会は、株式会社における最高の意志決定機関である」と商法で定められ、通常は年1回開催されます。原告と支援する会は、この機会を活用して株主に争議の実態を知らせ、早期解決の機運を作るため、株主に訴える宣伝を行ないました。会場は品川駅前にある京急グループの”ホテルパシフイック東京”でおこなわれ、2003年から3回、ホテル入り口に宣伝カーを止めて宣伝し、チラシも1000枚近く配布しました。2005年には5名の支援する会役員が株を取得し、総会に出席し延べ3名が発言しました。会社は構えて、発言を抑えようとしましたが、「コンプライアンアンスはグループ企業全体に適用する」等の言質を引き出すと共に、一般株主からも争議解決を迫る支援の発言がありました。株主総会での発言は即、大株主の会社へも伝わりますので、要請行動の対応にも連動して丁重な扱いに繋がっていたものと思います。

 6) 役員宅要請行動

争議解決に鍵を握る人物は誰かを見極める必要があります。やはり実権を持つのは、親会社である京急の社長であると見定め、何回も要請に行きましたが最後まで一度も会えませんでした。終盤には、京急の社長だけでなく役員宅も対象に、要請にいきました。臨港バスの役員は、社長以下数人で対象は3〜4人であり、独自行動で何回も行ないましたが神奈争の統一行動にもエントリーして取組みました。解決交渉が中断した時、新任の社長宅へ要請に行き、「窓口は閉じていない。担当は田端だ」という言質を引き出し、この機を有効に活かし交渉の再開に結び付けました。

 7) 日本バス協会・民鉄協会・日本経団連等、経済団体への要請

  @ 東京高裁へ控訴した後は、闘いの舞台は東京へ移りました。
裁判所前での朝宣伝から、国土交通省や日本バス協会が要請の対象になりました。日本バス協会は、バス業界を取りまとめる利益団体ですが、事務局は天下りか企業からの出向者であり、団体に雇われているという意識が強く、業界や企業の利益は優先するが、企業を指導する立場には立てない同好会的な機構と体質を持っている事が分りました。当初は、要請を頑なに拒否する態度でしたが、粘り強く説得して当初から毎回要請を受けさせる事が出来ました。しかし、余り効果的でない事を見極め、その力を他への要請に向けました。日本経団連へは、争議団の共同行動の折に1〜2回要請を行いました。

    A 日本民営鉄道協会への要請
 2005年6月に行なわれた、京浜急行電鉄第84回定期株主総会で、小谷昌氏が京急の会長に就任しました。民鉄協会の会長に納まることが内定していたため、会長制度を執ったのでした。争議団にとっては絶好の要請先が出来た事になります。肩書きが付くほど汚名を恐れ攻めやすくなるからです。しかし、民鉄協会は、「バス会社は管轄が違うので会えない」という、理由にならない理由をこじつけ、要請を固辞し何としても要請を受けようとしません。仕方なく、協会事務局が入居するテナントビルの前に宣伝カーを止め、宣伝行動を長時間行ないました。初めての経験で珍しいのか、一階のロビーにはテナント内の聴衆が大勢集まり、演説に聞きいっていました。要請書の受理さえも断った為、民鉄協会全体に要請内容を知ってもらうため、協会副会長や幹事企業の会社へ直接要請書を送付しました。

 8)すべての活動の共通の土台である宣伝活動に力を入れる

   公共交通機関であるバス会社が、利用者や市民の安全を軽視して、営利第一主義に走ってしまったら利用者の安全と生命はないがしろにされ守られません。利益本意の経営方針のもとで、鈴木退職強要事件が起きており、根っこは一緒です。利用者や住民の見えない塀の中で無法な事が行なわれていることを何よりも多くの人達に知ってもらわなければなりません。先ず事実を知らせる事が前提です。鈴木争議も、支援する会が発足して宣伝を重視して取り組みました。

 @ 駅頭宣伝
   裁判公判日にはJR川崎駅と京急川崎駅で、音を出しチラシを撒いて宣伝しました。 支援の輪を広げ、臨港バスの発着する停留所や鶴見駅へと広げて行い、利用者への宣伝を強化しました。臨港バスの乗降客へ手渡すビラは、大変関心を持って受け取られ読まれました。最初は通勤ラッシュの時間帯に行いましたが、対象者が限定されますので、利用対象者の層を別に広げて、土曜や休日の午前中も川崎や鶴見駅のバスターミナルで宣伝しました。 関心が強く、2時間で1000枚ほどのビラを受け取って行く人がいました。

 A 地域宣伝を行なう
  臨港バスには、本社以外に4つの営業所が設置されています。この営業所周辺への全戸ビラ配布を計画しました。最初の皮切りは何といっても本社に焦点を当て、04(H16)年8月の真夏日の午前中、50名の参加者を得て1万5千枚を本社周辺へ配布しました。正に汗ぐっしょりになりながら一人200〜250枚を分担し、汗が眼に沁みて汗と涙の奮戦でありました。たて続けに10月半ばには浜川崎営業所周辺へ、42名で一万五千枚のチラシを全戸配布しました。しかし、一方的な宣伝では不十分であり、利用者や住民の声を聞くアンケートを付けて配布し、要求実現にも役立てるべきではないかとの提案が出され、3回目は05年3月半ばに鶴見区の山側を行ないましたが、53名の参加者を得てアンケート付きビラを1万枚配布しました。その後は、アンケートを付けて塩浜・幸区・本社周辺と計6回、236名の参加協力を得て74,700枚の全戸配布を成功させました。

川崎大師宣伝
 B 川崎大師宣伝
川崎の名物と言えばなんといってもお大師様が上げられます。正月の初詣には関東一円は勿論日本全国からお参り客が集まってきます。臨港バスも特別体制を組んで川崎駅からのピストン輸送を行ないます。何よりも親会社である京急大師駅前での新年早々からの宣伝は効果があります。2004年から06年まで3年間連続して取り組み、毎回30名前後の参加を得て、宣伝カーで宣伝し約2000枚のビラを、初詣客に配布し、臨港バス争議を広範囲に知らせる行動を実施しました。

C あらゆる宣伝効果を活用して
  宣伝の基礎であるビラについては、編集技術・読みやすさの工夫や内容については、担当者任せで課題を残しました。音の宣伝では宣伝カーやハンドマイクだけでなく、太鼓やチンドン屋さんの協力も得たり、視覚に訴える横断幕や桃太郎旗を作成して活用し、効果的な宣伝を目指しました。

 9) アンケート調査活動

 @ ビラ宣伝とアンケート活動
   ビラの配布にアンケートを添付し、利用者や市民の要求や意見を掴み、要求を集約して会社に実現を迫ると共に、監督官庁や行政、背景資本への要請にも利用者の生の声を持ち込むことがいかに重要であり、効果的であるかについて討議しました。鶴見駅や川崎駅駅での駅頭宣伝から始め、本格的には第3回鶴見地域宣伝から全戸に配布しました。その枚数は何万枚配布し、何百通のアンケートが返信されてきました。アンケートの効果は想像以上で、臨港バスの評判の悪さが際立ち、自分が実際に体験した内容の苦情やコメントが、用紙一杯に記入されたのもが多数寄せられました。集約したアンケートは、臨港バスへの改善要求として突きつけると共に、監督官庁である国土交 通省や関東運輸局へ持ち込み、行政指導の貴重な材料として活用するよう、要請行動に活用す ると共に、背景資本への要請行動にも持参し、銀行や生命保険会社等の出資機関が、臨港バスの経営分析資料として参考に活用するとして 喜ばれました。

A 京急駅頭宣伝
   アンケートについては、親会社である京急の主要駅頭で、最初は最先端の三崎口から三浦海岸・久里浜を行い品川駅まで攻め上る計画を立て、チラシに添付して実施してきました。これも裁判所からの要請で、久里浜迄の3回を行なったところで中断する事になりました。同じチラシの内容に貼り付けて配布したにも拘わらず、返信の中味は臨港バスとは違い、利用者の京急への評判が良いことが分りました。この事によっても、如何に臨港バスの経営方針に対する評価が悪いかが再確認された事になります。

B 社員へのアンケート
   アンケート活動については、臨港バス全社員へも郵送し、社員アンケートも実施し、職場からの声が沢山寄せられましたが、異常な職場監視の実態と会社への不満が強く存在している事が明らかになりました。

 10) キャラバン宣伝

 @ 地域独占と公共性
バス会社は、公共交通機関であると共に、地域独占企業でもあります。臨港バスの運行エリアでは、一部で川崎市営バスと競合する路線があるだけで、その他は競争相手がなく、利用者は好むと好まざるとに拘わりなく臨港バスを利用するしかありません。経営能力に欠ける企業はそこに胡坐をかき、経営努力をせず利用者や住民のひんしゅくを買うものですが、アンケートの結果を見ると臨港バスは、それに該当する典型的な会社であるといえます。

A 地域独占の弱点を突く
   競争相手のいない地域独占企業の弱点は、運行エリア内のお客さんの動向を常に気にして営業しなければならない宿命に置かれています。しかも、臨港バスは川崎市の南部と鶴見区に限定される狭い範囲です。従って、宣伝カーを巡回して事実を宣伝すれば、1日で全エリアを一巡出来る事になりますから、連日行なえば宣伝効果は非常に高く、会社にとっては逆に大きなリスクを背負うことに繋がります。

B 職場に大きな影響を与える
  臨港バス鈴木争議は、職場からの闘いと支援の基盤が弱いことでした。営業所へのビラ宣伝も検討しましたが、運転士さんの出勤時間がバラバラで、入る門も一ケ所ではなく効率が悪い事が判明し実行しませんでした。キャラバンで営業所を廻って宣伝することは、話題性もあり非常に効率良く宣伝効果が大きく、職場労働者を励ます事も意図しました。

C 内部からの妨害で一時宣伝行動を中断
    キャラバン宣伝の有効性は論議の中で確認され03年9月16日から実施をしましたが、残念ながら1年5ケ月間程中断せざるを得ない時期がありました。開始した当初川崎市内のエリアを一巡しましたが会社もビックリし、相手弁護士から裁判所へ苦情がだされ、F弁護士がお叱りを受けたとして、宣伝を止めるよう強く宣告されました。仕方なく1週間程で中断し今後の善後策を検討していましたが、選挙か何かが入り宣伝カーでの音出しを自粛しなければなりませんでした。

そうこうしている内に陣営内からの障害が発生しました。「東芝と共同するような鈴木争議に公害の宣伝カーは貸さない」という、理由にならないこじつけで長期間に亘って宣伝カーが利用できず、宣伝を中断せざるを得ない状況になりました。あのまま継続していたら、会社との力関係が変わっていた可能性は否めません。こうした内部からの妨害は、この件に限らず何かにつけて横やりを入れ運動の障害をつくり、前進を阻む要因をつくりました。このない部からの妨害は、歴史の事実として、記録に留め残しておかなければなりません。

D 本格的なキャラバン宣伝の再開
2005年2月15日、中断してから1年5ケ月ぶりにキャラバン宣伝を再開しました。今度は当初の計画通り、原告の軽自動車を自ら改造して宣伝カーを作成し、音響に詳しい活動家の協力を得てスピーカーも取り付け、自前の宣伝カーを仕立て上げ、警察署へも届けて道路使用・宣伝許可証を取得し、何処からも妨害を受けない体制を整えて実施しました。初日は本社前で出発式を行い、連日行なう事を宣言して出発し市内をキャラバンし、営業所も廻って宣伝しました。当初は原告と役員を中心に弁士のローティーションを組んで平日に連日実施し、次第に土日や祭日も現役労働者が支援担当して行うようになりました。継続は力で、終盤には原告の熱意に共鳴して支援の輪が広がり、役員でない支援者が続々と弁士を引き受けてくれる状況が生まれました。06年04月14日、裁判所からの助言もありキャラバン宣伝は終了しましたが、1年2ケ月間連続して行い、その日にちは225日間になり、新しい峰をつくりました。

 11) 鈴木争議を支えてくれた基本勢力

猿島
  @ 情勢 神奈川では残念ながら闘う労働組合と自称する組合の支援は全く得られませんでした。マインドコントロールのじゅう縛から解放された、自主的・主体的に物事を考える個人や集団からの力に頼らざるを得ませんでした。主には神奈川で反合権利闘争を闘った経験者や神奈川争議団結集する人達と一部の民主的な労働組合が大きな力を発揮し、支援をして頂きました。これも、歴史の証言として、後世に事実を伝え残す為にも記しておかなければならないと思います。

  A 私鉄連帯する会全国大会に参加し支援を求める
  私鉄・バスの仲間である「私鉄連帯する会」は全国的に大きな勢力を持っています。毎年全国大会が開催されますが、関東の仲間と参加して大きな支援を受けて来ました。特に裁判所への個人・団体署名や要請はがきでは、大きな力を発揮していただきました。琵琶湖で行なわれた総会では、高裁要請はがき1,025枚の普及に協力してもらい、また、解雇争議であるために片道切符で出かけ、帰りの交通費は皆さんのカンパでの協力も受けてきました。

  B 関東バス部会の支援
同じバスの運転士という仲間であり連帯感が強く、地理的にも裁判傍聴や行動参加での支援をして頂きました。特に京王新労組の皆さんには、複雑で厳しい情勢の中での勇気ある支援をしていただきました。

 12) 裁判所への要請活動

  @ 個人署名・団体署名・裁判長宛はがきの取り組み 支援する会が結成され、一審の段階から「慎重審理・公正判決」を求める、個人・団体署名に取組んできました。一審地裁の段階では個人署名 筆、団体署名 団体の署名と、緊急要請はがき枚を裁判所へ提出しました。引き続いて高裁への「公正判決を求める」個人・団体署名に取り組み、最終的には個人 筆、団体の署名を集めて裁判所要請で積み上げました。最高裁へも緊急の団体署名に取り組み、集まった署名を持って要請行動を行ないました。

  A 裁判所前宣伝と要請行動
一審地裁の段階から公判日には京急駅頭での宣伝を皮切りに、一日行動を組み裁判所前での宣伝行動を毎回行い、臨港バスの異常な傍聴動員合戦では、常に会社を上回る動員を行い傍聴席も優位を占めました。結審後は、京急川崎駅頭での宣伝を行った後裁判所前での宣伝を行い、毎週1回は署名を持って要請行動を行ないました。高裁に移ってからも、公判日には裁判所前での宣伝を毎回行い、集めた署名を持って要請し、結審後は毎週要請行動を行なうと同時に、要請はがき作戦も行ないました。


     鈴木争議で行なった闘いの新しい展開

1、インターネットのフル活用

 そもそもこの事件の発端は、インターネットで「苦情」が全国に流れ、それを監督官庁である関東運輸局が察知し、社長以下役員が今謝罪に行っている。社長を動かした責任は重大であるという臨港バスの嘘とデッチアゲから始まったものです。労働事件の犯罪として始めてインターネットが使われたものです。従って最初からインターネットに深い関りを持った事件であり、裁判闘争の中でも原告側がインターネットをフル活用し、闘わざるをえない条件と必然性がありました。

  @ 準備書面・陳述書等、提出書類の弁護士さんとのやり取りに活用
弁護士事務所は銀座で足繁く通っていられない地理的条件にあり、多忙な争議運動では時間は有効に使わなければなりません。弁護団会議は必要に応じて開催し、討議を深めて意思統一を行ない、方針に基づいて実務は電子メールでのやり取りとなり、実務上事務局長を中心に放射線状の下記の構図となります。(執筆者→事務局長→弁護士→事務局長→執筆者)
公判日前日等は、準備書面や陳述書完成のために交信は激しく、構図を飛び越えて交錯し、12時過ぎまで法廷準備の交信が行なわれました。 ニュース・ビラや要請書の作成にも、電子メールが有効・効率的に活用されました。 資料等のやりとりは添付送信し、FAXよりも効率よく送受信できました。

2、情報公開制度の活用

公共交通機関である臨港バスに対し、川崎市と横浜市から敬老パス・福祉パス等の名目で多額の税金が支出されていますが、情報公開制度を活用して開示請求を行い、資料を取得しました。
 @ 川崎市では関連資料800枚(費用8000円)が開示され、膨大な資料の中から臨港バス関係の数字を拾い出し、1年間に5億3000万円が臨港バスに渡されている正確な数字が判明しました。情報公開で得た資料は、その後公害や川崎市議団にも活用されました。
 A 横浜市では補助金の支出の方法が異なり、バス協会の申請通り一括して丸投げし、協会内で山分けしてその結果を横浜市はチェックもしていない事がハッキリしました。担当部署と1ケ月の提出期限の間に10回近く電話でのやり取りをした結果、書類は開示せず提示したものを臨港バスの部分だけノートに書き写す事で落ち着きました。横浜市から臨港バスへの補助金は、年間約3億円である事が判明しました。

  B 要請内容の実施状況チェック
 私達争議団が、川崎市と横浜市に行なっている要請行動が、各自治体によってどのように実施されているか開示請求を行ないました。結果は二市の間で明暗がハッキリ分かれました。
   イ、川崎市  私達の要請どおり、企業に対して要請内容を伝え、要請書を送り会社の対応も掴む努力を行なっている事が分りました。
   ロ、横浜市  何の資料もなく、何も行なっていないことが判明しました。担当者と10回近い電話でのやり取りをした結果、最後に出てきたのは、争議団が要請した「要請書」と、要請を受けた担当者の個人メモと参加者がサインした名簿だけでした。
   ハ、開示請求以後横浜市の要請を受ける態度はガラリと変り、正しい対応に改善されました。

3、厚生労働省への情報公開・川崎労働基準監督署

 厚生労働省へも情報公開による開示請求を行ないました。内容は、鈴木哲夫氏が退職強要を受けた2000年度、1年間に被控訴人臨港バスを所轄する川崎南労働基準監督署管内に於ける、2000(平成12)年度1年間に受理した「解雇予告除外認定申請及 び決裁文書」の行政文書開示請求を行ないました。管内の管轄対象企業は13,173企業・事業所で、労働者数は193,448人(平成13年度定期調査=川崎南労基署調べ)を管掌する労基署です。行政文書開示請求で開示された、解雇予告除外認定申請書及び決裁書、つまり企業が行なった懲戒解雇が妥当であるか否かを申請し、労基署が調査して認められたのは、たったの8件でした。20万人近い労働者数のなかで懲戒解雇が行なわれ、川崎南労基署によって処分が適法と決裁されたのはたったの8人という事になります。企業から懲戒解雇を申請された8案件の全てについて、職員が出向いて被申請者と面接調査を行い、更に関係者を呼び出す等して、実地調査を行って検証し、窃盗事件等で被申請者が拘留されている場合は、職員が警察署まで出向き接見を求め本人から事実の確認をする等の努力がなされています。臨港バスでは本人からの聞き取り調査もせず、一方的・主観的に断定するのと比して大きな乖離がありました。

  開示された8件の内訳は、窃盗・背任7件と長期無断欠勤1件で、監督署が調査しても連絡さえ取れず、常識で考えても懲戒解雇やむなしと判断できる悪質なケースであり、誰もが納得する案件であると言えます。更にこれらの被申請人は、監督署の意思確認に対して「懲戒解雇されてもやむを得ない」と認めているのです。横浜地裁川崎支部一審判決では、「原告には懲戒解雇事由に相当する事由が存在していたというべきである」と結論づけていますが、事実誤認も甚だしいと言えます。

  また、被控訴人会社の主張する内容は、労使一体の労組幹部に代弁させた会社方針である事は明らかであるが、事情聴取書(五野秀一氏)「会社にばれたら懲戒解雇になると思った」と言い、事情聴取書(吉田公晴)で「緊急賞罰が開かれたら、解雇は避けられない」と、懲戒解雇を断定しています。厚生労働省の開示した公文書で見てきたように、企業を防衛する為にやむに止まれぬ事情以外に、懲戒解雇を乱用する企業は皆無でした。ましてや、臨港バスの行なった行為は、事実無根の「苦情」を捏造して懲戒解雇で恫喝し、退職を強要したものであり、これは、企業の果たすべき社会的責任を放棄するだけでなく、社会常識から乖離し、企業倫理を逸脱した暴挙であり、最悪のブラック企業と言わざるを得ません。厚労省の情報公開で得た資料を陳述書としてまとめ、「懲戒解雇の認容に関する行政の実態」と題して、東京高裁への証拠として提出しました。

4、キャラバン宣伝 本社前・営業所・京急駅頭・大師駅頭等の効果的な場所で宣伝

既に社会的包囲の運動の項で、詳しく述べていますので重複は避けますが、225日間連続して行って来ました。地域独占でしかもエリアが狭く限定されている公共交通機関であるバス会社にとって、キャラバン宣伝は急所を突かれ、窮地に追い込まれ音を上げざるをる得ない効果的な戦術であったと確信しています。



      終章・・・真実を追究する闘いは終わっていない


1、 臨港バスを震撼とさせた鈴木争議

京急本社
  臨港バス鈴木争議は、支援する会の結成が一審地裁の半ばであり、不当解雇されて2年8ヶ月も経過し遅れた時期でした。その間に、裁判を知らない初心者の弱点と隙を狙い、その間隙を突いて臨港バスの陰湿な謀略と策動が巧妙に行なわれました。藁にも縋りたい原告の心理につけ入り味方を装って巧みに潜入し、こちらの情報を探る不可解な人物が原告に近づき情報を引き出す為に出没したりと、奇怪な動きがありました。手持ちの重要な証拠であるテープや資料も会社側に引き出され握られて対策を立てられてしまうという、スパイ映画まがいの策謀が実際に行なわれた事が、後に原告からの報告で明らかになりました。裁判戦術上の重要資料も事前に入手され手の内を探られ、相手を有利にさせてしまったとという、一人争議の弱点で未経験な盲点に付け入るという、緒戦の段階で不利な立場に立たされる条件を与えてしまった事になります。

 それのみならず、味方と信用し頼り切っていたF田弁護士と、被告弁護士とは司法修習同期生、数年の浪人でやっとどうにか司法試験に合格したF田、被告弁護士には頭の上がらない関係、法廷は芝居で裏取引の約束があったという。原則的に闘う支援する会とは、「私の見解とはどうしようもなく違うしかけ離れている」「そういう人達とは一緒にやっていけない」と言うのは、F田弁護士の偽らざる本音だったのでしょう。生前見舞いに行った病院で、死を自覚した原告が意を決して最後に打ち明けた言葉でした。

  しかし、今まで記して来たように「臨港バス鈴木哲夫さんの職場復帰を支援する会」は、地元中小企業ではあるが、地域独占という特質を持ったブラック・バス会社の不当解雇を撤回させる闘iいとして、こじんまりと纏まった組織では あったが、その活動の内容を分析すると、会の規模を越えるスケールの大きな素晴らしい運動を展開してきた事が認められると思います。これは自画自賛ではなく周囲の皆さんからの評価を受けてきたところです。それは何よりも、原告の執念と頑張りに共鳴し、鈴木争議に対する多くの皆さんのご支援が有ったればこそ可能なことでした。

 最高裁の決定が出され、司法の場では勝利したのに運動は止まるところか益々大きく広がり争議はず終らない。これはどうしたらいいのであろうか?、と会社に不安を与えたのは確かでした。そして、 最高裁で勝利した会社に、「争議を解決したい」と言わしめ、解決交渉のテーブルを設定させた事からも明らかです。鈴木争議が最終盤、臨港バスをして震撼とさせた事は事実です。唯一つ最大の反省点は、素晴らしい運動を展開し会社を追い詰めたが、柔軟な方針を打ち出して解決の着地点を探るという、短期決戦で臨んでいたら運動に相応した結果が出ていたに違いありません。方針上は明確に持っていながら、若干の決断の遅れから、運動に匹敵する解決水準を確保出来ずに集結。反省点として、そうした解決のチャンスを逸した点については、今後の教訓として重要な内容が含まれている。

2、 分りにくい結末で決着したことについて

 @ 信義則をも反故にするブラック企業臨港バスの救いようのない謀略体質
   臨港バスは解決交渉に応ずる振りをしながら、自ら持つ謀略体質から最後まで抜け切れず、交渉の中味については公表しないし、「例え再度訴訟になっても使わない」事を自ら提案してきました。これは、争議解決交渉の常識であり、イロハですから当方も了解したのは当然のことです。ところが自ら提案し締約した中味を反故にし、盗聴したテープを反訳し、細大漏らさず(会社に都合の良い部分だけ)裁判所へ提出してきました。正に信義則に反する行為というべきで、争議にもルールと信義があります。それを越えてしまった臨港バスと当時の役員・代理人に将来のない事は明らかです。

 A 壁になった旭ダイヤモンドの判例
   内容の違いは大分ありますが、過去に臨港バスが起こした仮処分同様の争議がありました。こちらは解雇されたが提訴せず、逆に会社が雇用契約不存在の裁判を起こし、労働者側が最高裁で敗訴し、司法の判断では決着済みですが、運動で解決するとして、最高裁敗訴後も運動を続けていました。会社が仮処分裁判を起こし労働者側が敗訴し、運動に制限が加えられると共に損害賠償も課せられました。攻めの闘いではなく守りになり、一定の制限で規制された中での闘いは、運 動の広がりもつくり出せません。財政的にも運動としても消耗戦となり、内部に疲弊をもたらすだけで何のメリットはなく、争議経験豊かな組合や争議団であれば、選択肢として避けるべき闘いでしかなく、勝って元々で残るものは何も有りません。しかも、現在の力関係・情勢ではその可能性は小さいと判断せざるを得ません。

 B 後に続く争議の障害をつくらない柔軟な対応
   労働者に保障された団結権と争議権に、手枷足かせが嵌められてしまえば、労働者の闘いは前進しません。それどころか警察権力の介入を招き益々運動を困難にします。こうした結果を招く事は避けなければなりませんし、後に続く争議団の闘いに支障を期たす恐れが大きく、厳に慎まなければなりません。つまり、臨港バス鈴木争議の闘いに制限が加えられるような結果を招けば、後に続く神奈川の争議運動に障害をもたらす危険性があり、今後の争議運動にマイナス要因を残す結果となり、絶対に避けなければなりませんでした。

 C 国家の品位が低下している
   そうした矢先、「この争議はどちらも益にはならず5〜6年もの長期に亘って消耗戦になるだろう、愚かなことをせず和解をしなさい」という、裁判長の強力な訴訟指揮がありました。定年間近で川崎支部の裁判長、現在の日本は「国家の品位が低下している」と公言、数十件の裁判に関わり、初めて労働者の気持ちに近い裁判官と巡り合いました。現在の政治情勢は、政権党が圧倒的多数を占め、官僚もマスコミも右傾化し、真面目な学者さえも自分の主義主張をまともに表明できない、日本の底流に右傾化の激流が流れていました。最も保守的で身の保全を中心に考え政治の動向に敏感な裁判官が、この流れに左右されない筈は有りません。

 裁判官の心証の大きな部分は、事件(争議)の内容よりもそこで形成される事が大であることも判りました。例え一箇所で勝訴したとしても、上級審へ行けば必ずひっくり返され、勝利する可能性が少ないことも理解せざるを得ませんでした。3回目の審尋直前、裁判所の職権和解案が提示されました。本人は勿論、弁護団・支援する会三者で何回も会議を重ね、柔軟な対応で和解に臨む事を意思統一し、裁判所を通しギリギリのところまで交渉を詰め、鈴木争議は裁判所の職権和解で終結しました。解決の中味については「ビラ等で公表しないでくれ」という、臨港バスのたっての要請であり、こちらは紳士的に対応し公表を控えました。

3、ご支援して頂いた皆さまに心より御礼を申し上げます

 臨港バス鈴木争議は、以上の経過をたどり解決しました。最高裁敗訴後も果敢に闘い続け、支援の輪を広げてきました。原告本人の正義を貫く執念と頑張り、支援する会の団結した力、今まで経験した事のない悪徳弁護士の裏切りや姿勢とも対応、最後に真面目な人権派弁護士とめぐり合い、悔いのない闘いができました。何よりもこの闘いを支援してくださった多くの仲間に支えられ、全国的な支援が有ったからこそ闘ってくることが出来ました。ご支援して頂いた皆さんに心より感謝の意を表明したいと思います。


法令順守を失し呪われたブラック企業に未来は有るのか・・・

鈴木原告宣伝
 最高裁で不当決定(敗訴)が出されても尚、「運動で職場復帰する」と、果敢に闘った鈴木哲夫さん、争議というのは寝食を忘れ不規則な生活を余儀なくされ闘わざるを得ません。こうしたブラック企業臨港バスによる不当解雇との不屈な闘いを続け、心身共に過剰な負荷とストレスが、鈴木さんの体力を消耗させ抵抗力・免疫力を減退させ、本人も知らぬ間に、病魔が鈴木さんの身体を蝕んでいたのでしょう。併せて、争議終了後もブラック企業臨港バスの謀略と悪質な仕打ちによって、平和な家庭と生活を破壊された怒りは、一時も頭から離れた事は無かったことでしょう。争議終結後も、一日として安穏な日々を送れる状態ではなく、ブラック企業臨港バスに対する怨念を忘れた事は無かったものと思われます。鈴木哲夫さんはそれらの無念さを胸に残し、2013年9月11日、永遠の眠りにつきこの世を去りました。未だこれからという、享年65歳の早逝でした。9月15日荼毘に付され、争議を共に闘った友人代表として遺骨を拾わせて頂きました。
戒名は「慈覚英哲信士霊位」、俗名鈴木哲夫さんの生前の奮闘とご冥福を祈り ”合掌”





ボランティア 22−2、《 F 田 弁 護 士 珍・迷 言 録 》

       (参 考 資 料)


                                        注 (    )内は編者


◯ 私が主任をやった裁判で今まで判決で負けたことは一度もない
       
〇 鈴木裁判も6対4で勝算はあった
     (判決前・私たち運動体はそんな事は信じず運動をつくってきましたが)

〇 負けたのは運動が脚を引っ張ったからだ

〇 五分五分で拮抗しているときは裁判所の心証で決まる。運動が妨害して負けた
       (”敗軍の将OOを語らず”が常識ですが・・・)

〇 支援する会の人達は我々がつくってきた労働運動を全て打ち壊した
           (えっ!弁護士が労動運動を?)

〇 自由法曹団がつくったものをみんな駄目にした
      (「大」自由法曹団がつくったのはそんな程度のものしか・・・?)

〇 大衆的裁判闘争は自由法曹団がつくってきた

〇 とにかく彼等は弁護士の言う事をきかない
       (裁判の主人公は原告では? 何様のつもり? 雇用関係も知らないで弁護士家業を?)

〇 話をしても彼らは絶対に変わることはない

〇 私はずっと恥をかかされてきた
             (能力がなくて・・・?)

〇 彼等は怒ったり怒鳴ったりするでしょうけど彼等とは一緒にやっていけない

〇 会社の役員とか社長はたまたまその時やっているだけで個人攻撃をしているだけ
          (役員宅要請の事で・リストラの方針を決め、不当解雇を実行させた責任は?)

〇 裁判所と連帯していかなければ勝てない
   
〇 裁判所を味方につけないと

〇 裁判所に共感を持たれる行動にしないとダメ

〇 そのことで騒いで書記官を巻き込んで揉め事を起こし裁判所の心証を損ねて不利にして負けた

〇 裁判所の職員の8割は「全司法」の組合員であり我が方の見方である(甘ちゃん?)

〇 支援する会は会社も裁判所も敵だと思っている、罵倒をあびせるような行為は良くない

〇 会社が紳士的ととられ、こちら側は暴力的ととられてしまう

〇 支援する会は逆の方向にばかりいっている

〇 私の見解とはどうしようもなく違うしかけ離れている

〇 私はものすごい違和感を感じた
   
〇 そういう人達とは一緒にやっていけない

〇 会社はリストラ達成のために鈴木を排除したのと違う
        
〇 鈴木は一般の組合員が不平や不満・愚痴を言っているのと同列でそれがチョッと目立った程度だ

〇 労働運動の闘士であるかのように誇大に描いて宣伝するのは事実をゆがめている

〇 職場では鈴木をリストラ反対の闘士とは誰も見ていない
          (誰もそんなことは言っていませんが・・・?)
     
〇 鈴木裁判は「市民的労働事件」である 〇 リストラとは違う問題だよ

〇 傍聴席を多く取る事が良い事ではない
 
〇 会社が傍聴動員するのは悪い事ではない

〇 誰が並んで誰が入ろうとそんな事は関係ない

〇 ビラは内容的に的を外れている
    
〇 裁判の主張と違う内容になっている

〇 二万人の署名は確かに凄いと思う。しかし、裁判所の意識を変える表現と方法が間違っている

〇 大衆的裁判闘争とは違っているし、かけ離れている

〇 過激な行動で負けたとまでは言わないまでもかなりの要素はある

〇 それはできないよ!自分が降りて他の先生に頼むなんて・・・・
        (”先生と言われる程の00でなし”エッ! 自分も先生とお思い?)

〇 ま―病気だとか死んだとかなら別だけどネ
    
〇 川合だけは全員ダメよ!

〇 支援する会は全国に恥じる”裏切り行為”を行なった

〇 裁判所は皆さんを”暴徒”とみなしてる、そう思われて当然だ

〇 この事件は仮処分で負けている裁判だから・・・

〇 運動だけでは裁判は勝てない
     (十分承知・F田弁護士が法廷で負けたのではないの ?)

〇 事務所の体制がなくて一人、二人は付けられなかった

〇 高裁に行くようになったら複数の弁護団を考えるから

〇 私はいつ降りてもいいよ
     (自分に都合悪い事を言われると代理人を降りるというのが口癖、情けない男)

〇 代理人は進級ごとに代わってよい、地裁担当の任務は果たしたのでここで降りたい

〇 労働事件は割に合わない、鈴木さんの分を他に当てれば5人分の”実入り”になる


      ( F田さん  哀れ悲しや  弁護士が 仮面を剥げば 守銭奴なりし )

       ( 能力(ちから)なく 裁判官に ゴマをすり それでダメなら 裏取引で )

        ( 法律の 知識チョッピリ 倫理なく 金の亡者は 節操を売り )

      (F田さん 弁護士騙る 詐欺師かな 二人受任と 一人で着手)
 
      (哲ちゃんか 俺だおれだよ 弁護する 相手弁護士 同期のサクラ)





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ボランティア

23、神奈川の巌窟王健在なりしか

   ー気工社中村松雄氏の中小労働運動と裏面史ー

       (1959年〜1985年    26 年)


                  === ま え が き ===

 物事は先ず足元を固める事から始めねばならない。建物も土台をしっかり固めず、上物だけ立派な豪邸を建てたとしても砂上の楼閣となり、地震や風雪には耐え難くすぐに崩壊してしまう。私が自らが所属し、人生の大半を過ごした職場を安全で明るく働ける雰囲気づくり、職場闘争を基礎として、職場に自由と民主主義を確立して皆が自由に物言える環境を整備する。そして労働者の要求を取り上げ実現し労働条件を向上する、そうした活動を実践し、一定の成果を勝ち取ってきた経過は既に述べてきた通りである。同時に、企業や産業は違っても、経営者の横暴で不当解雇された労働者の職場復帰の闘いの支援、思想信条や労働組合運動を理由とした憲法違反の不当差別を撤廃する争議に深く関わり、労働者の連帯で協力してきた経緯の一部も述べてきた。こうした正義の闘いの中で自らを省みず、我が事として献身的に支援し闘う優れた労働者の存在をも多数見聞してきた。そうした仲間と連帯し共に闘ってきた歴史を有している。

  私が若かりし頃、文学青年として過ごした経緯も既に記載してきた通り、白樺派の武者小路実篤作品は相当数読んでいる。氏は公家の出身で学習院と東京帝国大学で学んでいるが、進歩的で空想的社会主義、理想的な調和社会「新しき村」を建設、実験し作品にもして発表している。
 以下文中に現れるように、中村氏は資本主義体制の中に在って、マルクス経済学を具現しようとするユニークな経営者と出会い、労使一体となって新しい企業の経営形態を模索するという、希有で貴重な体験をしてきている。言葉だけの労使対等ではなく、実際に労働運動のなかで体験してきた希少な存在であり、それが氏の運動の基本に据わっているところに、揺るぎない先進的な運動論が伺える。

 1973年4月、憲法違反の思想信条による差別を撤廃する、日本鋼管人権裁判が日本で最初に提訴され、私も35人の原告の一人として加わり、神奈川争議団共闘会議へ加盟した時、副議長として最初に鋼管から派遣され活動している。中村氏が78年に神奈川争議団副議長に就任しているので、同時期に神奈川を拠点に、全国を飛び廻り共に闘ってきている。併せて、鋼管資本・日本鋳造が気工社を買収した関係で、「鋼管関連争議団共闘」関連4争議団を二人が中心になって組織し、同じ相手である鋼管資本を社会的に包囲する行動を組み共闘してきた、36年来の古き戦友でもある。

 そうした中で多くの優れた仲間に遭遇しているがその中でも、一貫して京浜工業地帯で働き、労働運動一筋に生き、その為経営資本に睨まれ一人で何回も解雇や苦汁を飲まされ、家族を犠牲にしても、めげずに闘い続けた闘士、神奈川の労働運動・労働争議史を記すについては、この人の存在を抜にしては語れないであろう神奈川の巌窟王、中村松雄氏の存在を紹介しておかなければならない。HPに掲載するに当たり、著作権の関係で本人の了解を得、長文の投稿を頂いたので、私なりに編集しその一部を掲載したい。ただ予めお断りしておきたいのは、一争議の報告ではなく一人の人間の”生きざま”の歴史であり、企業形態の違いなども可能な限り明らかにしておく関係から、従来の争議報告の記載とは大分ニュアンスが異なるので、その旨ご承知おき頂き解読を願いたい。


                     ☆       ☆       ☆



           目    次

     T: は じ め に

     U: 体で覚えた我が労働運動の遍歴
            日機装解雇事件争議・・・ 陳  述  書

     V: 気工社のたたかい
            新たな人生の再出発を目指して

          1)気工社求人広告
          2)気工社労使の歩みと歴史
         3)羽田工場閉鎖、藤沢移転闘争

     W: 倒産と並ぶ歴史的転換・茂木社長の辞任

          1)社長交替と組合の取組み
         2)社長交替とその背景についての個人的評価

     X: 気工社での業務と配転解雇の経過

     Y: 鉄鋼独占日本鋼管・日本鋳造との倒産闘争

     Z: 神奈中対策と団交対策に於ける個人的信頼関係

     [: ――わたしと労働組合――中村夫人

     \: 団地自治会結成の経過

     ]: JMIU気工社支部の沿革

     11: 気工社40年目の懇親会

      12: 中村松雄氏の労働運動・他略歴


T:はじめに

中村ー1
 私の出生は、四国・宇和島の片田舎、半農・半漁の小さな村である。9人兄弟の3番目、物心付いてからは、自由奔放に育てられ生きてきた思いがする。兄弟のうち、上級の高校へは、長兄が漁業協同組合で事務員の仕事で働き、その稼ぎの恩恵で初めて進学することが出来た。高校時代は、学生寮や町の小学校の校長の住宅に転がり込み校長と二人での同居・町の下宿屋等々、その場の成り行きで風の吹くまま気の向くままに、青春を謳歌し3年間の高校生活を満喫してきた。
 その工業高校で、出会った吹田先生(東工大・後に茨城大工学部長)の紹介で、当時は朝鮮動乱の景気が消滅し雇用問題は最悪の状況であったが、神奈川県横浜市・東神奈川の東海金属に入社する事が出来た。1955年・総評の春闘がスタートした年であった。 その年の暮れ、職場で鉛の盗難事件があり、新入社員であったことからであろう、県警に出頭させられ事情聴取を受けた。青年の潔癖感からであったであろうか、東工大出の課長と推薦者の吹田先生は同級生であったこと、入社受験は当初一人であったが3人が新に加わり4人が同時入社した。先生の立場を考え勤務は一心不乱に糞まじめに働いてきたが、警察に呼び出される時、課長は一言の声もかけなかった。そこに人としての課長の対応に激怒し即座に辞表をたたきつけ、会社を飛び出したてしまったのである。

 職場の友人の紹介で、大田区・六郷の自動車修理工場に住み込みで働くこととなった。その家には、高校1年生の息子がいた。高校時代の参考書を与え、少々の学習指導を手伝った思いがある。そんな関わりから、食事は食卓へ同席し家族並みに済ましたのであったが。そこでの社長の話に職人の解雇が出された。直ちに職人に報告、結果は、2人して退職することとなった。突発的な事態に、職人の家に同居することとなる。
 その後は早く独立し安定した生活を求め、職安を通じて3箇所ほど旋盤工場の職場を変えた。1956年、大田区・六郷の不二家電機に旋盤の臨時工で入社。同時期に入社した同じ旋盤工のFさんが、何でか理由も分からず解雇になった。同時に病気入院するにいたり、十数人の旋盤職場で課長を含めて見舞金を募り届けた。そこで、初めてFさんが共産党員であったことから臨時工を解雇となったことを知った。彼を通じて、地域うたごえサークルに参加していた。会社は見舞金騒ぎをきっかけに、私を旋盤職場から、購買課・事務職への配転を命令してきた。この頃は未だ、会社のこうした策動に何の疑問も違和感も持たなかったのであった。若い女性が多い職場で、昼休みには六郷土手へ行って歌を唄う機会があった。そこで、みんなを集めることを模索し、事務職であったことから、集まりの会場を中村の名前で会社に申請し確保した。結果は、臨時契約1年を期限として解雇となった。それでも未だこうした行為が、会社の意図的な攻撃であるとの疑問や認識を持つ感覚は更々なく、至って純朴な青年であった。しかし、食いつなぎのため、またまた職安から紹介され新たな旋盤職場へ移る事となつた。


U:体で覚えた我が労働運動の遍歴

   日機装解雇事件争議

 うたごえサークルの仲間の紹介で1957(S32)年、、日機装の鋳造鋳型の下請け会社の息子が社長の親父に依頼し、渋谷の日機装に仕上げ工として入社することになった。この7月に共産党・居住細胞に入党・職場組織に移籍した。そこには、東大・全学連運動に関わった者3人・東京都の民主青年同盟書記長がいた。ここで初めて組織として本格的な労働組合との関わりが始まることになる。1959年企業内組合を結成し、書記長の任に納まった。しかし、会社の攻撃で、民青書記長が懲戒解雇となり、東大3人グループは早々に離反し組合は消滅した。解雇者・民青書記長と中村二人で裁判闘争を闘い取り組んできた。
 1961(S36)年、2年余の闘いの中で、再度全国金属日機装支部・組合を結成し委員長となるも、結成前日に大阪配転を受け、2ヶ月の闘争の結果、委員長を辞任・大阪へ6ヶ月の長期出張で妥協した。翌年、帰京と同時に、1962(S37)年10月、九州営業所配転を拒否して懲戒解雇、裁判闘争となったのである。
 1963(S38)年・日機装裁判和解解決。
日機装裁判で法廷に提出した陳述書は、65年日機装労組で13名の指名解雇事件で、元委員長としての陳述書である(気工社連合会書記長のころ)。  以下、闘いの経過を簡単に述べたておきたいが、日機装事件では会社との対応を陳述書でつぶさに正確に記述してきた。随所に会社役員や顧問弁護士などから呼び出されて、酒場に誘われたり見聞した個人的対応からの事実記述で、相手から呼び出された対応を、事実に基づいて記述している内容である。それは、組合幹部を解雇したり”取り込んだり”の企業が行う”アメとムチ”の常套手段の攻撃で、日機装事件では会社との対応を陳述書でつぶさに記述した。それは、会社幹部から呼び出されて対応した事実の記載である。しかし、これらの事実は、こちらから相手に対してアクションをかけた事は一度も無いことは、賢明な皆さんには理解して頂けると思う。資本や企業に取り込まれてしまえば、現在の私の存在は無いでしょう。労働者の立場を堅持し、まともな労働運動を長期に持続すると言うことは、それ程厳しく難しいことでもあるわけです。

               陳  述  書
 
                                 中 村 松 雄
1、日機装における経歴

  1957(S32)年10月       組立仕上工として入社
  1959(S34)年03月       特殊ポンプ労組を結成して書記長となる<
     〃      05月      S執行委員(民青東京都書記長)解雇により二人で身分保全のた
                      め法廷で争うことになる。
                         (一審勝訴・会社は控訴・裁判継続)
            10月       組立工よりサービス要員として配置転換を受ける工場部門は
                      東村山に移転、以降本社機械部・計装部の
                      サービス係として出張要員となる。
  1961(S36)年08月25日   大阪営業所への配転命令が出される
      〃     08月26日    全金日機装支部を結成、委員長となる
       〃     10月28日    同委員長を辞任、大阪営業所へ6ヶ月間長期出張
                       を命ぜられ
   1962(S37)年03月31日   渋谷・本社計装部サービ課に配転
      〃       05月       計装部業務課に配転
      〃       09月28日   九州営業所に配転命令が出される
    〃         10月12日   配転拒否と業務命令違反で懲戒解雇をされ、
                          直ちに貴地裁へ裁判提訴する
    1963(S38)年10月       右争いは和解をもって解決する

2、特殊ポンプ労組の経過

 1958(S33)年12月頃からS(民青東京都書記長)・S(東大・全学連)・T(東大・全学連)・中村などで組合結成の準備会を作り、1959(S34)年3月21日、特殊ポンプ労組を結成致しました。委員長にS、副委員長にK、書記長に私がなりました。執行委員は、S、H、K、T、H、K、Mを選び待遇改善のため直ちに団体交渉を申し入れました。会社は、社長が米国出張を理由として組合を認めようとしませんでした。社長帰社と共に会社は、組合破壊を目的として社長命として終業後に全組合員を招集する指示をしてきました。
 私たち組合は、就業時間外のため執行委員だけが参加して団交を計画しましたが、一部職場では、職制の圧力によって参加するようになったため全員参加を決め会場に臨みました。会社は、会場にテープレコーダーを用意して私たちの発言に圧力を加えてきました。予定の集合時間には殆ど集まりましたが、現場の組合員は殆ど集まっていなかったため、製造課長であった伊藤氏がS君に対して「みんなを呼んでこい」と言いました。それに対してS君は「来るか来ないかは各人の自由であり、そのうち来るでしょう」と答えました。集会は、そのまま続けられました。
 翌日5月23日、酒井部長、伊藤・管野課長にS君は呼び出され、前記答弁を業務命令違反として懲戒解雇になりました。組合は、直ちに解雇反対の行動を組もうと致しましたが、会社は職制を通して役員・組合員を問わず個別攻撃を執拗にやってきました。営業部にいたK副委員長は耐えられず自己退職することになりました。このようなことがあってから組合は消滅し、S君と私二人で解雇撤回のため裁判で争うことになりました。

3、全金日機装支部結成の経過と大阪配転

  私は、特殊ポンプ労組の経験から、工場(東村山)を中心として再び労働組合の結成を計画し、1960(S35)年末から具体的準備を始めました。S・Mと私の三人が中心となり、1961(S36)年正月、第一回の準備会を持ち系統的に学習・組織活動を進めていきました。1961(S36)年6月、大沢部長から大阪営業所へ転勤しないかと話があり、理由として、独身であること、出身地が四国のため実家に近くなり身軽だから行けと言うことであった。私は、前記の様に組合結成を準備中であるためと8月に結婚を予定しているため単に「行きたくないので断わります」と答えたところ、理由がはっきりしないと困ると言うことでしたので、8月に結婚することを告げ、さらに共稼ぎ(保母)をするため大阪では困ると拒否の理由を出すと、大沢部長は、姉が大阪で保育園をやっているため保母の勤口を探してみると言ってきましたが、この配置転換の話は、以降全然なしのつぶてで立ち消えになりました。
 8月13日から19日まで私は、結婚のため会社を休みました。結婚のための休暇は、式に2日取っただけで、後は組合結成大会の準備を行い、8月19日、東村山小学校で大衆的に枠を広げて準備大会を行い、その中で、8月26日、結成大会を決定致しました。

 8月25日に至り、会社は、出勤すると突然に大阪営業所への配転辞令を渡してきました。私は、配転辞令を組合結成準備会に計って討議の結果、会社の計画的な組合攻撃であるとして大会に報告することになりました。大会後直ちに会社へ組合結成の通告をすると共に団交を申し入れました。配転辞令は大会決定により返すと共に撤回するよう申し入れました。以降、賃金その他の問題について数次にわたって団体交渉を行いましたが、会社は、配転問題は中村個人のことで組合の問題ではないと団交を拒否してきました。
 職制を通じて「赤」に踊らされるなと組合員への攻撃を始めました。組合は、9月16日、会社の団交拒否に抗議し、配転撤回を要求して闘争宣言を発表しました。9月19日、遂に24時間ストライキで抗議に立ち上がりました。会社は、堀田(前大阪大講師)・竹内(東大・前執行委員)・佐藤(東大・前委員長)山本(東大・前東京電力)など各課長を通して執行委員の切り崩しを始めてきました。その結果、K・M・両君が役員辞任を執行委員会に出してきました。ストライキ当日は、及川などを中心に第二組合結成を準備して、所沢へ集まりました。私たちは、このことを事前に知ったため、組合員を配置し会社のもくろみを暴露すると共にこの計画を粉砕致しました。

 10月24日、S氏(組合員)を通して社長が個別に会いたいと言ってきました。そこで、個人的には会う必要がない、執行委員会なら会ってもよいと伝えました。最終的には、三役で会うことになり、組合側は、Y副委員長と私、会社側は、社長・茂木課長その他S氏で、渋谷の近くのレストランで会いました。社長は、配転を認めて行ってくれと言って来ました。さらに会社は弁護士の判断を聞きながらやっている。後は、懲戒委員会にかけて解雇する方針だと言って来ました。この日は、双方の主張だけで終わりましたが、会社側から弁護士に会って欲しいと言うことで、三役で相談の結果、話をしてみることにしました。この弁護士は、田平宏氏で、当時、日機装と取引のあった日本バルカーの顧問弁護士をしている人でした。

 10月25日、田平弁護士の家の近くの市川市の料亭で、会社側は、田平・社長・茂木課長と組合側は、中村・S・Yの三役で会談することになりました。田平氏は、妥協案が三つ有るとして
@委員長が配転を認めること、法律的に考えると君たちのやっていることは違法だ
A委員長配転を中止するとしても中村は委員長を辞任すること
B中村君が会社を辞めることなどの意見を出してきました。

  私たちは、配転を絶対に認めることは出来ない、解決の道は、白紙撤回しかないと主張致しました。最終的には全金本部のオルグを加えて再度話をすることになりました。10月28日、恵比寿の「一力」という料亭で、組合側は、本部オルグのN氏・K氏・と三役、会社側は、田平・社長・大沢・酒井部長などで会うことになりました。

  田平氏とN・K氏の三人で別室で相談の結果、妥協案を出してきました。
@ 会社は配転を取り消す。但し中村は6ヶ月間大阪へ長期出張をする。
A 中村は委員長を辞任し向う一年間は役員をやらない
と言うことでした。

 私たちは相談の結果オルグの意見を含めこの妥協案を受理することとし、配転問題を解決することにしました。覚書を作った後田平・茂木氏は、第二組合を作ろうとした吉田・及川など組合未加入者を是非加入させて欲しいと申し入れてきました。私たちは、拒む理由がないことを明らかにすると田平氏は、一席作り全金の説明をしてからわだかまりのないようにしたいと言って来ました。
 11月3日、田平氏が中心となって前記の料亭「一力」で非組合員に説明会を開くことになりました。会社側は、茂木人事課長・田平氏・非組合員から平木・吉田・譲原・小林・笛田が参加、組合側、S・Y・M・S、K西部地協副議長・Y本部オルグが参加、私は会議が始まると中座しました。私は、この事実経過を見ても会社が常に計画的に労働組合の破壊に手を尽くしていることが明らかだと思います。そして、非組合員を会社が組織して組合加入を進めるなど、後日生じた第二組合の目論見の一つの表れであります。私は11月4日から、翌1962(S37)年3月31日迄、大阪営業所に長期出張をいたしました。この配転問題のあと田平氏は日機装の重役として労務を中心に指導してきております。

4、九州配転命令と懲戒解雇

  私が帰京して一ヶ月後、春闘の中で会社は、計画的に民労という第二組合を作りました。1962(S37)年6月20日、全金は解散大会をもって解消しましたが、民労は、直ちに中村・S・M・Y・N・Sの名前を挙げて、組合加入を拒否する声明を各職場に張り出しました。8月頃、業務上の問題を引っかけて越権行為であると計装部長管野氏に呼び出され始末書を書かされました。その理由は、下請け会社の薬品タンクの完成検査に私が立会い上司に報告書を上げたが、営業担当から直接検査報告書を要求され、提出したことをもって越権行為としたもので、私は会社と労働組合の両側面からの圧力の中で反論したいことは多々ありましたが、やむを得ず始末書を書くことにしました。
(注:証拠のデッチアゲを絵にしたものと言えよう。ルールに従えば、検査は出荷直前の作業でありその結果により直ちに集荷することである。担当者は、検査結果を上司に報告する。上司はその結果を営業に報告し集荷される。もしも営業への報告が無ければ営業は計装部に報告書を要請することがルールの基本である。ところが営業は直接担当者・中村に検査報告書を求めてきた。そして、報告書を出したとたん越権行為となったことからみて営業が直接担当者に要請したことは、デッチアゲの証拠つくりともいえよう。事前に計装部から営業に報告があったかどうかは不明である)
 この事があってから、田平氏に呼び出されて越権行為を楯にとって、日機装はキミのいるところではない。辞めてはどうかと脅かされましたが私は無視してきました。9月28日、突然、管野部長から呼び出されて、九州営業所への配転辞令が渡されました。そして、キミは、越権行為もあるし計装部に置いておくわけにはいかない、もし配転に応じなければ辞めて貰うしかない。君は、日機装などに居るよりもっと大きな会社へ行って労働運動を専門にやった方が良いのではないか等と言われました。

 その後は、田平氏に呼ばれました。田平法律事務所に数回、新橋の朝鮮料理店へ一回、キャバレー(ウルワシ)一回、亀戸の料亭へなど数次にわたって酒を飲みながら圧力を加えられました。田平氏は、重役としてではなく法律家として君に忠告する、公平に見て君に勝ち目はない、おとなしく身を引いた方が君のためになる。会社は懲戒解雇をするといっているが、将来もあることだし私がうまく取りはからってやる。退職金を普通より増額してやる。悪いようにはしないから任せてくれ等と言ってきました。最後には、致し方ないから争うしかないと切り口上で別れました。10月10日、遂に業務命令違反で懲戒解雇になったわけです。
 私は、直ちに貴裁判所へ提訴し、1963(S38)年10月頃まで、書面準備を続けて参りました。尚、S君の事件は、会社側から高裁へ控訴し同時に争うことになりましたが、私たちの弁護士の意見・助言により2つの事件を同時和解解決することになったものです。
1967(昭和42)年12月10日の事でした。

 私は1961(36)年8月結婚し、3ヶ月も経たない新婚早々、大坂への長期出張という会社からの血も涙もない酷い仕打ちを受けました。書棚を探していると当時の妻の日記が出てきました。妻には内緒で半世紀前の日記を披露してみることにしました。当時妻には大変な苦労を掛けていた事を、後に身をもって知らされた事になります。

   1961・10・29(日)

 夜中の12時10分前・・・。久しぶりにデパートへ買い物にいき、秋・冬の毛糸ものなどを抱え込んで帰宅。美しく晴れた秋の日も暮れた。彼は、午後東村山工場へ出かけたきりまだ帰らない。考えただけでも涙がこみあげてしまう。
彼は、首にならなかった。闘争は終わり、彼の大阪転勤は取り消しになった。組合は勝ったのだ。しかし、そのかわり彼は、11月から3月まで、大阪への長期出張を命ぜられたのだ。クビになった方がよかった。どんなに遅く帰っても、どんなにお給料が安くとも、彼がそばにいて、いっしょに生活できる毎日が、私にとっての一番の幸せだったのに・・・・。
しかし、彼のクビは、同時に一緒に活動している人々のクビも引き起こすことだという。
彼に、何と諭されても、りくつを言われても、私は泣くよりしかたなかった。
クリスマスも、お正月も ああしよう こうしようとささやかながらプランを今から立てておったのにみんなおじゃん。 5ヶ月も 私は一人きりになる。
やっと闘争が終わったと思えば、今度は 離ればなれだ。考えただけで泣けてしまう。彼には悪いけど、私はどうしたって明るい気持ちにはなれない。ああ、何て嫌なことだろう。こんなに涙ばかり出て来て私は耐えていけるだろうか。

   1961・11・10(金)

 夜中の10時。昨日の夜、9時45分発の急行で彼は、とうとう大阪へ発っていった。ささやかな最後のふたりきりの晩さんをして・・・・。
組合の人たちが、にぎやかに見送ってくれた。私はそれを後ろで一人みつめていた。どうしていっしょに にこにこしていることが出来よう。組合のために、ただ組合の活動を発展させたいというそのためだけに、彼は、大阪5ヶ月出張をひきうけたのだ。彼の気持ちも、彼のやっていることも私には充分理解できる。しかし、長い冬のあいだ別れ別れになるのは私たちだ。にぎやかに見送っている人々には関係のないことだ。
結婚以来3ヶ月、ろくにゆっくり話し合うことも出来ない毎日だった。でも私は不満を抱いたりはしなかった。今度は、出張だ。あんまりにもひどい。
あかるく笑いあい、語り合っている彼の声、友人の声を背後に聞きながら、私は、泣いていた。汽車が動きだし、窓から手を振っている彼の顔をにらむようにしてみつめて・・・見えなくなると同時にあともみずにかけだした。誰とも口をききたくない。同情のことばなどかけられたくない。ひとりになりたいと。


V: 気工社のたたかい

 日機装解雇事件裁判闘争中に、大田区に在る(株)気工社に入社し、本格的に労働運動に埋没するに至るのであるが。しかし、そこでも若さと未熟さ経験不足からか、またしても配転・解雇の攻撃にさらされ14年争議を余儀なくされる事となった。闘いを通して培ってきた仲間たちに支えられ、14年ぶりに職場復帰を成し遂げ、会社倒産闘争勝利解決を経て、22年ぶりに支部委員長となった。高齢者雇用を掲げて60歳定年・65歳までの再雇用制度の協定化をなし、64歳まで、職場・現場に足がかりをつなげてきたが、無様にも65歳の最後の1年を棒に振り、またしても会社の策動の下で全うすることが出来なかった。その経過を以下記載しておきたい。


   新たな人生の再出発を目指して

 私は、人生の新たな再出発を求め、就職先を探していると、読売新聞の求人欄で募集記事を見つけその日に受験し採用となった。入社して2〜3ヶ月後の新聞で、斬新な求人広告が目にとまった。進歩的な経営方針が他の企業と全く違い、能力有る人材を求め努力して力を発揮すれば成果が認められる、新進気鋭な経営者の意気込みが伝わり、希望の持てる魅力を持った企業の特異な求人案内広告なので、以下そのまま転載し紹介しておきたい。

    (気工社の創立時の労使関係の原点とも言えるものとして記述しておきたい)

1)気工社求人広告

   朝日新聞・1963(S38)年2月4日

       進歩 を考える
       創造 を追求する
       革新 を実行する

   ― 積極的な「人」を待望しその個性と意欲を尊重する ―
 
             株式会社気工社   本社  品川区大井町
                           工場  羽田・藤沢
                         出張所  大阪・札幌・名古屋・大分

         社員募集・職種

      1:技術部門・設計・生産計画・工程管理・積算
      2:営業部門・特に各種企業で販売業務の経験のある方
      3:一般管理部門・総務・株式・人事・組織マン・経理・会計・財務マン
        4:研究開発室・機械工学の実証的研究に意欲と夢を持つ学究
      5:経営企画室・旧高専・大学卒以上の社会科学的分析綜合・応用に秀でた学究
        (中村は、この広告の2ヶ月前に入社・解雇になるまで10年間、設計見積を担当した。
          求人の技術部門の積算に該当したのかも知れない。)

         朝日新聞 38・3・14

        新体制 気工社・・フロンテイア・マン募集

  気工社は先頃 朝日新聞紙上に創設以来最大という4段抜きの広告を載せた。

    (広告文の解説)
企業広告とも求人広告ともつかぬ風変わりなものだったが直接の狙いは人員募集。
従業員220人の小型企業・ところが応募者は、一流企業の中堅技術者を含めて合計1056人。
なかには国立大学の博士課程を修めた女性もいた。
その採用試験問題が又型破り。昨今はやりの「○X式の知識のダイジェストは期待しません」とある。 第1問を見ると @過去の経歴の基本的姿勢 A同社への具体的な寄与 Bそれを裏付ける資質・経験・技能の3点を中心に“あなたのことを”3・4時間使ってお書き願いたいと言う主旨。
39才の茂木社長によると採用方法も「優秀な人がいれば無制限・いなければゼロ」と徹底している。

      気工社のご案内(社員募集・大学への案内・昭和38年頃)

                私の求める人間像

                   代表取締役社長  茂 木 健 二(39才の頃)

 主観や恣意をまじえずに「現実」をあるがままに観、事物の本質に鋭く肉薄して正確に「認識」する「冷たい頭」、現実を「変革」し社会の進歩をめざしてやまない「熱い心」。
 この二つを併せ持つことを自分の生きる基本姿勢として堅持する人間を私は他の何にもまして希求します。
この様な姿勢を持つ人間は、必ず、到達すべき目標を常に明確に持ちます。合目的的合理的な手段方法を絶えず考究します。又、自分のやっていること自分の客観的存在がどんなに小さなつつましやかなものであっても、着実に実践を積み重ねてゆきます。
克己、忍耐、勇気、沈着といったいわゆる修身的徳目や強い責任感、自主独立と協調、高度な判断力、的確な業務処理力といった倫理的徳目も、この様な姿勢を堅持する人の身につけられて初めて人間の美徳として社会的価値を発揮するのでしょう。
様々の異なる個性を持ちながらこの様な基本的姿勢で生きる人間群像がこの企業に集まり、夫々の任務を分担しながら一緒に考え一緒に行動し、自分達の力でこの企業を守り発展させ、同時に企業そのものとしても歴史の進歩に役立つ存在になろうと指向し続ける姿、それが私が求め続けるこの企業の希望像でもあります。

2)気工社労使の歩みと歴史

株式会社気工社の創立は1954年で、河川における砂利採取を自動化した自走式砂利選別掘削機械(可搬式砂利採取機)の製作販売会社として東京・大田区でスタートした。そこは労働運動の発祥の地として知られる東京南部で、金属産業の工場群、中小企業の密集する地域であり、荏原製作所、石井鉄工、日本起重機、渡辺製鋼、日本教具など全国金属の組合が群立して“全金銀座““赤旗横町”とも呼ばれた、京浜工業地帯の労働運動が華々しく闘われた所である。1960年前後の高度成長期、とりわけ建設業界の発展を背景にして気工社の経営規模は急成長を遂げ、1961年には資本金4億円で東京市場2部上場会社へと発展、最盛期には400人を超える中堅企業となった。創立者の一人茂木健二社長は、会社創立と共に中小企業家同友会の組織者、更には政府の砂利砕石など骨材資源審議会を設立する中心的役割を果たし審議委員の一人でもあった。その友人である経済評論家坂本藤良氏は「マルクス経済学を信奉する異色の経営者」と評している。

 労働組合は、1957年に企業内組合として結成し、60年安保闘争の大衆運動の高揚期の中で全国金属に加盟、反安保ストを経営者側に申し入れ2回の全面ストを成功させてきた。61年には、中小未組織労働者の組織化を掲げ、そして階級的労働運動をめざして全国金属糀谷地域支部を結成し、専従委員長を派遣する中核的役割を担ってきた。同時に、実働7時間制・時間外割り増率40%を中小企業で先駆けて労使合意を実現してきた先進的な実績を有している。

気工社藤沢工場の稼働は、1963年である。社会経済環境のもっとも激しく変動したこの時期、経営は、後発メーカーに加えて過小資本のハンデイのもとで、激甚な企業競争を背景として、65年羽田工場、68年東京本社を藤沢へ移転統合して集約するなど、さまざまな合理化施策を含めて、経営構造の急速な質的変化をなし継承してきた。
 そのもとで、労使は激しい闘争を重ねながらも、相互に独立した立場を明確にして、企業内における労働条件の決定は、すべてにわたって労使対等の立場において決定することを労使の原則として確立してきた。

    糀谷地域支部

 1961年結成された全金糀谷地域支部は、63年には1000人を越える地域支部として、地域的運動の取組において一定にその役割を果たしていた。当初大田区では、国電を挟んで、糀谷地域支部・下丸子地域支部があったが、後に大田地域支部に統合した。戦後の労働運動発祥の地と知られる大田区・糀谷では、300人500人の金属中堅企業支部が戦後の労働運動の中核となってきた歴史的経過からしても、結成したばかりの中小零細の集合体とも言える地域支部に対する地域の評価は、残念ながら、「雑魚ども」がと揶揄的に表現されたほど、全金糀谷での市民権は過少に評価されてきた。64年当時の糀谷ブロックの全国金属の支部は、渡辺、大空、鎌田鋳造、石井、日本起重機、東信鋼管、三興製鋼、磯村、教具、大谷、荏原、中外、村田など13支部があった。糀谷地域支部は、15分会であった。そうした中で、気工社分会は100をこえる分会の中核として、専従委員長を派遣してきた。

3)羽田工場閉鎖、藤沢移転闘争

 1965年当時、池田内閣の高度経済成長政策の破綻のもとで企業倒産は、毎月戦後最悪の記録を続けて、糀谷に於いても日特の倒産を初め富士川、東信鋼管、中須製作、白石金属、東洋事務機、東電機、気工社の同業の里吉、山本輸送機などの倒産が相次でいた。それぞれのたたかいの教訓は、個別の報告に任せるが、一つだけ印象深く思い出すのは、東電機と東洋事務機の倒産争議の支援、激励、そして社会的アピ−ルをめざした元旦デモである。伊藤健一区議(南葛労働運動の先駆者)も先頭にたった、支部の仲間たちはよく闘ったと思う。地域支部ならではの職場を越えた労働者の連帯した闘いであったとも言えよう。

 気工社の羽田から藤沢への移転闘争は、こうした構造的不況を背景にして、かつまた2年にわたる経常赤字の克服と資金導入の課題が経営の存続を巡る大きな争点を浮きぼりにして始まった。ちなみに、64年の年末一時金は、金額は決められたが、資金調達が出来ず、組合を介して労働金庫からの借り入れで、年末ギリギリに一時金を手にする事態にあった。これまで、独占に組みせず、どこからも財政的支配を受けず、独立的企業をめざした東証二部上場企業は、資本市場の中で資本金2億から4億に増資することで、銀行からの融資ではなく株式上場により資本を調達してきたのである。しかし、企業の生産規模の拡大と零細な砂利、砕石業界での取引は、2年3年に及ぶ割賦販売などにより資金量の増大は、その資金調達と肥大化した生産体制の新たな矛盾とともに累積する赤字体質の改善は至近の課題ともなっていた。
 しかし気工社の経営指標は、うなぎのぼりの売上高を確保し、62年度、11、8億。63年は15、2億。69年では、27、3億と急成長を遂げている。従がって、これまで一切のヒモつきがなかったが、銀行資本への依存は、きわめて重要な課題として追及されていた。具体的には、これまでのメイン銀行であった三和銀行が手を引き危機的状況にあったが、太陽銀行の導入で新たな体制整備が模索・検討され1963年竣工された藤沢新鋭工場への羽田工場移転は64年に計画された。

 当初組合は、経営の合理化遂行のための戦術程度として軽く受け流し経営実態の把握や中小企業の経営戦略の課題は軽視されてきたと言える。同時に、移転計画は、経営の側から中小企業の存亡をかけた課題として、1年前から労働組合に真正面に提起されてきたが、組合は、労働者犠牲の合理化反対のスロ−ガンを掲げるに止どまっていた。そのなかで、砕石業界の骨材生産プラントの構造、規模の変化、拡大のもとに、経営は新たに砕石機械の自社生産を藤沢工場で具体化し、その要員3名のベテランを羽田から配置転換することを組合に事前提案してきた。
組合は、すでに提起されていた羽田工場移転のためのなしくずし配転と位置付け、配転反対闘争を取り組んできた。この闘争をとおして、工場移転の闘いは、連続するたたたかいとなった。組合は、藤沢と羽田で、受入側と移転側の意見の統一が極めて困難を極めた。例えば、藤沢分会では、会社の数字を上げた計画を聞く必要はない。労働者が犠牲を被る合理化に反対するかどうかだとの論議が大勢となっていた。
 これはまた、羽田の中でも大きく二分する争点となった。そして組合の方針は、「合理化は、労働者にとって何一つ利益をもたらすものではなく、徹底的な搾取と収奪と抑圧の政策であり、大量の首きり中小企業の倒産など労働者を犠牲にして不況を切り抜ける政策である。従って組合は合理化攻撃とたたかい、抵抗しながら全産業別労働組合の問題として、全階級的立場でたたかう」とした。 具体的要求は「@配置転換は、組合と協議して決めること。A藤沢への移動不可能な者には事業所を羽田に残すこと」などとした。

 論争点の一つは、個別企業の気工社の経済的な実態をどう見るか
二つには、独占の支配のもとで中小企業である気工社の役割、存在の位置付けの問題
三つには、対等、平等の労使関係を前提にした歴史的経過からして個別企業の合理化、移転で労使の協議を通して意見の統一を計ることであった。
65年、50人を越える退職者をだし、資本の施策、合理化に押し切られたとの感を残して藤沢移転闘争への確信は未消化のものとなった。その3年後の68年、東京本社の藤沢統合の闘争は、羽田移転闘争に学びながらも、札幌、仙台、名古屋、大阪、福岡営業所など点在する組合員を含めた、組織的条件のもとで、スト権が否決される事態となった。


W:倒産と並ぶ歴史的転換・茂木社長の辞任

 64年羽田工場の藤沢移転当時、従業員は400人を超え、組合員は350人を擁する組織であった。加えて経営党組織は、経営グループ・管理職・藤沢・羽田・本社にそれぞれ細胞(支部)を有する状況にあった。そして労働運動を中心的課題として取り組みながらも、社会的諸活動においても次のように組合員を派遣してきた。
     1963年 白石 博・・横浜金沢区市会議員候補(共産党)
       66年 藤沢原水協事務局組合(伊藤 昌雄)
       68年 石島 一郎・・藤沢市会議員候補(共産党)
            川崎  攻・・民主青年同盟湘南地区常任委員
        71年 大山 正雄・・藤沢市会議員(共産党・3期・県議候補)
        73年 上野  貞・・共産党地区専従

労働運動の上では
       61年 河合 弘幸・・全金糀谷地域支部初代専従委員長
       89年 小林 麻須男・JMIU神奈川地本初代委員長(支部副委員長)
       90年 中村 松雄・・全労連・湘南労連初代議長(支部委員長)
その他・・・全金神奈川地本執行委員、地区労幹事を派遣してきた。

中村ー3

 これらの基盤は、経営内における労使の対等平等を軸に、徹底した経営内における民主主義の推進をめざす運動のもとで確立されてきた。強いて言うならば、経営陣からも、理念として経営内における民主主義の構築が強調されるもとで労働運動が展開されてきた。さらに経営の側からは、労働組合・労働者に対するいささかの差別、攻撃がない中で、むしろ組合活動は自由奔放に展開されてきたともいえる。しかしながら、茂木社長辞任にあたり、労働組合は「社長交代と1・5ヶ月の一時金回答は金融資本の圧力、労務政策の変更として、組合の命運をかけて闘う」として闘争宣言を掲げ経済闘争に没入した。

  1960年代のはじめ頃には、中小企業における統一戦線の課題が論議される状況にあったが、労働組合の幹部の多くは、気工社で初めて労働組合を経験する状況にあったと同時に、全国金属、総評労働運動に大きく影響を受け、労使の対等平等を指向する自覚的中小企業家といえども資本家一般として対決する運動論が主流をなしていた。
  組合は、組合員への合理化を基本的に認める条件闘争を批判するあまり、全体の状況を無視して、絶対反対の基本姿勢以外、「具体的要求でのたたかいを認めない」という、余りにも機械的方針をとっていた。組合は、羽田、藤沢分会の組織統一のため、執行委員の信任投票を実施した。その結果は、連合会書記長、羽田分会副委員長の中村が一人不信任となり解任された。藤沢移転闘争の課題は、経営施策のもとで引き続く労使間の争点となっていた。とりわけ、金融資本からの役員の導入は、これまでの経営体制のきわめて大きな変動となった。その最たるものは、茂木社長の辞任である。組合は、銀行からの役員導入をもって金融資本の支配だと位置付け、労働組合の命運をかけて闘うと旧来の闘争体制をもって運動を展開した。

  茂木社長辞任に際しては、結果的に社長辞任を労働組合の運動がより助長させ、なりふり構わぬ反共労務政策・攻撃を許し、経営グループ、管理職グループの解体、更にはすくなからずの転向者が労働組合乗っ取りの尖兵をなすと言う修復しがたい汚点を残して来た。茂木社長は、全社員を集めた辞任の挨拶で「わたしの命よりも大切な気工社を将来とも残す為に、辞任することを決断した」と思いをこめた挨拶をした。
 樋口専務をはじめ役員は、直前まで辞任を知らず、辞任挨拶に何を言い出すかとかたずをのんだと語っている。のちに明らかになったが、経営戦略は、既存の経営体制を確立しながら、役員導入によって、銀行とのパイプを強化し安定的財政基盤を体制の上かも構築するものであった。しかしながら、労使の対立は熾烈を極め、茂木社長の辞任の後でも、銀行派遣役員会長を名指しで「無責任横暴にも−−気工社をやめたいと言ったくせに、社長が涙ながらに懇願したので辞意を撤回したと傲然と言い放った。絶対にそんなわがままは許さないぞ」とビラで糾弾した。そして、69年 年明けの数ケ月の後、銀行は役員を引き上げて気工社との係わりを断ち切ることとなった。
 組合は東京本社分会は後に、全体の状況を無視して、絶対反対の基本姿勢以外、「具体的要求でのたたかいを認めない」ということは、余りに機械的で硬直した方針であつあった。との総括をなしている。

1) 社長交替と組合の取組み

  5月中旬、重役の話を耳にし、資金繰りの面で追い込まれていることを知り、昨年来の労使の関係、東京・本社から藤沢への統合と銀行との経過から、重大な事態が生じていると判断し、個人的に茂木社長に電話で連絡を取った。
茂木社長は、要旨次のことを話してくれた。
 1:どこからニュースをキャッチしたか。
 2:もう手遅れとなり手の施しようがない。
 3:詳細については、近いうちに報告する。
 4:今は、これだけしか話すことが出来ない。君と電話で話すことも差し控えねばならない。
 5:君たちだけでも経過を総括すればわかるはず。
 6:組合の責任者をやめさす勇気があるか、そんなことは出来ないだろう。
この話を受け、ことの重大さを痛感、早急に党として体制を確立する必要性があると判断し、指導部へ直ちに次のように提言した。
 1: 経営は今、経済的に追い込まれ、9月までもつかどうか解らない状況にある。社長の更迭か倒産または系列化が生じる。
 2: 68年 中央委員会の指導方針に照らしてみると、春闘は大きな間違いを犯していると考える。尚かつ、一時金闘争を取り組むにあたっては、この1年間の総括をし、体制確立が急がれる。

既にご承知のことと思いますが、6月17日、突然に社長交替という事態が生じ、経営内では、大衆的にも大きな不安の渦中にあります。

 6月17日以来、支部内での討議を続けて来ましたが、社長交替についての評価、経営分析の不十分さのため、ことの重大性がつかみきれず、労働運動の面においても旧態依然としており支部として何ら具体的な指導方針を持たないまま今日に至っている。私は、当経営は経営者支部を持つ特殊な組織形態を持ち、事の本質を充分に分析、方針を立て得る状況にあり、かつ支部としてあらゆる可能性を追求して正しい方針を早急に確立することが何としても必要であり、かつ急務であると考え、敢えて個人の立場で組織的な指導を仰ぐ次第です。

1)組合の指導について

 社長交替についての情勢分析について、支部指導部と組合グループとの若干の討議が行われたが、添付・夏季闘争のニュースのごとく組合は、一時金要求を中心として、ストライキを含む戦術行使を行い、その傾向は日を追ってエスカレートする状況にある。基本姿勢は、長期柔軟に要求貫徹の方針であるが、その特徴として次の2点を例としてあげられる。

 1:闘争宣言の主旨

   社長交替と1.5ヶ月の一時金回答は、金融資本の圧力の現れであり、対労働組合対策・
労務政策の変更である。又それは、今後の合理化の前兆である。
   従って、一時金1.5ヶ月の低額回答を打破し、生活と権利を守る立場から組合そのもの
の命運をかけて今までにない統一と団結を築き闘おう。

 2:社長交替の評価の上に立って闘いの方針(6月26日)

   a:会社は「再建」するというが、コワレタものを再建するという意味の「再建」とは意味
がちがう。さらに、今期の売上げ、生産体制は徐々に向上しているので、今の「再建」
という表現は不適当である。
   b:会社も倒産の危機という言葉を使っていないし、多くの例が示すように組合が正当な要
求で闘うなかで倒産したと言う例はない。
   c:金融筋も何億もの融資をしているので容易に手を引かない。
   d:資金繰りが苦しいと言うことで我慢することは出来ない。
   e:1.5ヶ月を呑むことは、労働者に犠牲を強いる合理化・労務政策の押しつけであり
        組合の存立を危うくする。
   f:我々は、闘う以外に処する態度はない。
     以上の闘争方針を大衆的に組み連日の戦術行使に入っている。
     若干の危惧をもっている者もいるが、殆ど無批判に行動が組まれているのが現状である。 <尚、7月10日、大衆的に労働組合として、会社が1.5ヶ月をテコでも動かせないとしているため戦術方針がなくなり、前茂木社長に事実を聞きに行にいった。(三役)副委員長は一般であるが、茂木前社長は殆ど正確に現状を報告した。
組合は、茂木社長に事実を聞き、我々の情勢分析は誤っていなかったとして金融資本と対決するためより団結を固め長期の構えが必要であると、ますますエスカレートした戦術行使を決定した>

2)社長交替とその背景についての個人的評価

 茂木社長は、昨年5月本社の藤沢移転を当経営の命運をかけて断行し、この1年間の正否が経営の存続を決めるとした。そして銀行融資を計り、重役の導入を図った。さらに昨年6月基本組織への運動上の批判を中央を通じ行い、拠点経営としてのあり方を提起し、全社で経営を守り発展させることを計った。
支部は、この総括討議の中で一定の変化を見たが、組合指導の観点は尚
  1:経営分析をすると闘えなくなる。
  2:支部は大衆要求を抑えることは出来ない。大衆路線を堅持して徹底した闘いが必要である。
  3:労使間の闘いは、力関係で決まる。
   を基調として闘って来た。

  春闘は、3月要求以来5月中旬まで、24Hストライキを中心として長期闘争を組んだ。(賃金UP額・平均7500円)この春闘時、銀行から鈴木相談役が来て、つぶさに経営の状況、支部、労働組合の分析を行い、春闘解決と共に会社からいなくなった。この鈴木相談役に対する茂木社長の評価が失敗したのではないかと想像する。
経営の実態は、昨年9月〜12月にかけては、受注は3分の1に減り全社の努力にもかかわらず経済的危機は増大した。4月頃の運転資金は、約1.5億不足と言われている。この資金繰りをめぐって、銀行から茂木社長に詰め腹をきらされたと判断する。反面、社内で社長交替が行われたことは、茂木社長の判断で拠点としての経営を何とか継続発展させるための苦肉の策として、急遽計画されたものと思われる。

 山口新社長に対する評価は、反動と見ているが、この経営の歴史と共に歩んできたことで、支部の指導いかんでは一定の評価をしてもよいと判断をしている。尚かつ、支部の指導方針である態度は、中小企業家を含めた人民全体の利益を守り米日独占と闘う立場に立つとき、その傾向を充分に分析し、適切な態度をとるならば拠点としての経営を守り育てる保障が可能であると判断している。従って今 我々は、その政治的・統治能力を試される壁に突き当たっているといえる。殊に、藤沢北部地区でこの5年間、共産党の会社としての異名を内外に印象づけ、かつまたいすゞ自動車という独占大企業のもと、社民の支配する労働運動のなかで当経営の存在の正否は、ことのほか重要な意味を持ち、何としても経営を守らなければならない意義は重いと考えられる。

  以上の判断と内部的な経過のなかで、支部の意思統一はもとより、こと一支部の判断だけでは処理仕切れない状況に私たちは立たされていると考えられる。なおかつ、労働組合は、経営の決算繕いに必死の活動を完全に断ち切り追い上げる戦術行使を決定し、大衆的に発表している段階で、一刻の猶予もゆるされない時期と考える。

 茂木社長辞任に際し、結果的に社長辞任を労働組合の運動により助長し、茂木社長辞任と同時に極東事情研究所に下級職制を派遣しインフォマルを組織され、なりふり構わぬ反共労務政策・攻撃を許して来た。その背景の一つに65年羽田工場の藤沢工場への移転と同時に、上級機関の指導で、経営グループ・管理職グループと労働組合グループの組織的分離が行われ、茂木社長辞任の経営にとって極めて重大な事態に対して経営内のグループの戦略的・戦術的統一の場を作ることが出来ず、労働組合グループの運動にのみ矮小化されたことに修復しがたい運動上の汚点を残して来たと言える。


X:気工社での業務と配転解雇の経過

 労働運動を進めて行くうえで、職場労働者の利益を守る取り組みと運動は重要な課題であり、今迄それ等については表記してきている。しかし、要求を実現するには労働者の信頼を得、職場の支持が強く求められるのである。労働者の原点である仕事に付いても疎かにせず、キチッと任務を果たすと共に、仕事上でも上司や同僚からの信頼を得る事が肝要であり欠かせない。従ってこの項では私が携わっていた業務の内容について、若干記述し触れておきたい。
 加えて裁判は、1977年(昭和52年) 横浜地裁で仮処分敗訴決定。裁判官は江田五月・元参議院議長・法務大臣・現民主党最高顧問。かつての社会党書記長江田三郎氏の逝去で急遽政界に転出・東大出身のトロッキストで裁判官最後の判決であった。85年横浜地裁で本訴闘争中に会社倒産闘争となり、法廷闘争を抜きに職場闘争を軸に倒産闘争解決条件の一つとして職場復帰を成し遂げた。

1) 見積りの業務内容と配転拒否解雇

  見積の業務内容は、大きく @ 様々な仕様のプラントの引合及び受注に対するその都度の個別見積作業 A プラント見積を行うための見積基準表の作成とに分かれる。

(1) 会社の受注生産の過程は次のとおりである。
   @ 顧客が営業に対し自己の購入計画を示す A 営業が顧客の計画を整理しプラント引合表を作る B 設計課が右プラントの引合表に基づき概要図を作成する C 見積係が右概要図と引合表を照合して製造原価を積算し見積書を作成する D 営業が見積書の製造原価に一定の売価係数を乗じて販売価額を算出し同価額を顧客に提示する E 契約成立 F 設計課が契約仕様に基づき計画図・製作図を作成する G 製作図に従い生産管理課で重量計算・生産計画を決め帳票を作成する H 帳票を各製造部門・計画部門・外注・調達・倉庫・工事等に配布する I 各部門毎に製造・発注・調達・などをなし最後に組立据付をする。上に示したのは受注・生産の流れであり、見積業務のうち個別見積作業は上記の流れのCにあたり、砂利砕石プラントを構成する各部分に使用する材料の重量を夫々算出して右重量に見合う価額を積算・外注製品、購入部品などでプラントを構成する各機械の価額を積算し製造原価を割り出すのである。
  但し、購入品の単体機械は、別途メーカーの定価を営業で充当する。

(2) 見積基準表は個別見積作業を正確かつ能率的に行うために作成されるものであり、設計基準や過去の実績をもとに基準化を行い整理したものである。会社では中村がが入社した1962(S37)年12月以前にその基礎が出来ていたが、中村が入社後も実際に行った見積の実績資料を集収して整理し見積基準を設定してきた。65年見積係が独立し中村が見積基準案を課長を通し経営委員会に問題提起した。以降、67年・69年・71年と改訂を重ねてきた。
  この改訂作業は、機械装置の変化に伴う設計変更、材料価額の変動等 市場の動向を反映させた正確で使用に耐えうる新しい数値を把握するため恒常的に行う必要がある。加えて、市場価額の変動の場合は、都度問題提起し経営委員会で決定される。

(3)1965年から見積係が独立した。見積積算の経緯は次の通りである。見積係の上司は、課長であるが、個別見積の積算は、中村が積算、課長は印を押すだけであった。その背景は、設計課長などは、設計上の実務には長けていても、見積基準がこれまでのプラント・設備の実績の集積によるデーターには全く関与していないところにあり、プラント構成の単体購入品や材料の市場価額の動向などには関知していなかったのである。従って、都度の見積書や2年毎の価額改訂の経営委員会提案の資料などは中村の資料をそのまま横流ししてきたのである。
  いわんや、後の配転先の総務部・経理部・生産部の上司は、事務系統のプロであるが、設計技術には全くの素人であったのであり、中村の見積書にはメクラ印を押すだけであった。それは、65年見積係が独立して以降、72年解雇になるまで7年間、全ての責任は中村に負わされてきたのである。

(4) 1969年、社長辞任の直後、設計部は、部長の解任・退職、次長の大阪配転、課長の解任・退職・・(いずれも共産党員であった。?)一般従業員では中村一人、設計部・見積係・3名の係員から一人だけはずされ、部屋と上司が変わるだけと同時に見積係主任からの格下げとなって総務部・見積係に配転となった。半年後には経理部・原価計算課・見積係、71年、生産部・見積係・部長直属となった。2年間に同じ見積担当者として3回のたらいまわし配転が強行されてきた。
   最後の生産部では、インホーマル組織のメンバー1名はそれまでの仕事と兼務で、今一人は設計・見積などとは全く関係の無い倉庫担当者を見積係の継承者として配置したが、うまくいかず、見積を営業に移管することなり、中村は、北海道・仙台・東京・名古屋・福岡の各営業所へ見積もりの教育に出張させられた。営業が積算した見積は、中村に集中され点検が科せられた。そして、1972年1月年明けと共に、営業部サービス課への異職種配転となり、それを拒否して解雇となったのである。

 しかし、気工社の経営指標は、うなぎのぼりの売上高を確保し、62年度、11、8億。63年は15、2億。69年では、27、3億と急成長を遂げていた。プラントの受注生産は、指標の6〜7割りを占め、かつ、大型プラントでは一基2〜3億円となって、その受注に関る焦点としての見積担当は重要な経営施策の一つの柱であった。
 69年・茂木社長辞任と同時に労務政策は急転直下変更された。先の設計部の部課長の解任に象徴されるように主要な幹部はことごとく排除された。共産党員として公然化していた中村を、経営の主要な部署である見積の実務責任者から排除する策動が先の総務・経理・生産部の配転であったが、2年をかけても見積実務の関わりから排除できず、具体的改善策が無いまま、72年経営の政治的判断から、営業部サービス課への配転が強行されたと言えよう。
 従って、サービス課への配転の策謀は、当時組合役員ではなかったが、これまでの職場活動の実績からその影響力を恐れ、工場からの排除が真のネライであったことは明らかである。

2)1985年 職場復帰と異職種配転

倒産闘争を掻い潜って、職場復帰をなしたが、これまでの見積の仕事とは全く異なる倉庫課出荷係りであった。長期化した倒産闘争の集約を目指して、個人的判断で会社提示の異職種配転を受け入れることとした。出荷係りとは、生産されるプラントの機械装置・大型になると直径4・2mの装置があり、クレーン操作が重要な作業であった。従って、運搬車は、大型トレーラーを中心に配置されていた。小物で言えば、顧客からの部品注文に従い、箱詰め梱包・板台の裸の梱包などがある。

@ まず気がついたのは、クレーン操作をする作業員が生産現場を含めて、誰も免許を持っていない事であった。移動式クレーンの運転手は2名いた。課長に上申して、天井クレーンの免許取得を計画した。講習を受ける寸前に製造課長が同時に加わることになった。免許は、操作実務と法令の試験であった。民間の教習所で訓練をし、千葉の国家試験場で、運転操作実務と法令試験は2人とも一発で合格した。後に続く受講者があったが、合格したものは一人もいなかった。

A 大型機械の運送は、トレーラーが主体であったが、道路交通法からみて、3m以内ならばトラック運送が可能であることを課長に上申し、業者との交渉の結果、トラック運送が可能であることが判明した。同時に、トラックは近辺の業者でなく、首都圏へ地方からの運搬車が、返り荷物を探していることが解りそれに便乗する計画となった。

B トレーラーをトラックに変えること、返りトラックを活用することで大幅な経費節減となったのである。そして、クレーンの免許取得である。倉庫にはズブノ素人が、しょっぱなから社内の注目を集めたことは、会社の異職種配転への反撃になったことは間違いない。

C 課長は、中村の話をまともに聞くようになった。
 それまで、たな卸しは倉庫を中心に軽く一杯が行われていた。そこで、提案は、倉庫を中心に、盆・暮れのたな卸し作業は、全社の中心的作業でありコミュニケーションを含めていま少し人を集めること。その費用は、盆・暮れの外注・取引業者からの酒を使いたい。つまみは、部課長から寄付を募るであった。課長は黙認することとなった。倉庫に古い冷蔵庫を設置し満杯とし、部課長からは、中村が1000円寄付を集めて回った。中には多く出す人もいた。製造現場は、全員、部課長は金を出しているので気軽に参加してきた。倉庫を中心に人集めに成功した。加えて、倉庫は風呂場の出入り口にあった。風呂上りの現場労働者に倉庫のテーブルで、ビールを一杯ずつ振舞った。これまた大変な人気であった。当時はまだ車社会ではなくバス通勤のころであった。

D こんなしがらみを作り上げ、工場・事務所を自由に闊歩することが出来た。あわせて、支部委員長になったことも一つの要因かも知れない。そして、49歳で職場復帰して、64歳2度目のリストラ解雇となった。実に倉庫には15年いたことになる。気工社での通算顔出しは、倉庫:15年+解雇:14年+見積:10年=39年となった。


Y:鉄鋼独占日本鋼管・日本鋳造との倒産闘争

1970年、日本鋼管・日本鋳造の系列支配となって、これまで培われてきた労使関係は無惨に破壊され、以降十数年に及び反共労務政策をむき出しにした過酷な労働者支配・攻撃が加えられてきた。その攻撃の手口は、インフォマル組織による組合分断、賃金差別・仕事差別・降格・配転・活動家懲戒解雇・希望退職・職制への指名解雇などありとあらゆる試練にたたされてきた。そして、1983年には、工場閉鎖・全員解雇の攻撃であった。
 1983年、日本鋼管の系列子会社取りつぶしの和議は、53億円の負債のうち、一般債権者は負債の60%を切り捨て、40%を保障するものとなったが、親会社と銀行は和議成立後、会社資産の7000坪の土地を処分して100%の債権回収をもくろみ、工場閉鎖・全員解雇の攻撃を加えてきた。2年にわたる闘争は、金属連絡会・湘南地域共闘の支援のもとで企業継続と職場を確保し、そこに階級的労働運動をめざす労働組合の存続という画期的な闘争勝利を果たした。

@ 労使協定の骨子
・ 740坪の会社所有の土地・工場設備を確保し、60人で事業を継続する。
・ 会社所有の土地は、労働債権の保障で、組合に無断で第3者への譲渡および担保権の設定はしない。
・ 運転資金2億円を引き渡す。
・ 中村解雇を解決し、従業員として採用する。

A 倒産闘争の教訓
 一つには、多くの労働争議・権利闘争の教訓から独占を社会的に包囲し、背景資本の責任において倒産を食い止める。br>  二つには、社会的包囲の闘いを重視しながらも会社資産7000坪の土地を活用して企業基盤の確保を図る。
支援共闘会議の論議の統一は困難を極めたが、支部は第2の戦略で闘いを展開した。

B 独占の収奪に対決した政策的成果
多くの倒産闘争は工場継続・労働債権確保を掲げるが、気工社闘争は会社資産を企業継続に活用する戦略戦術は、茂木元社長(経営者としてかつ労働運動を理解する人)を中心に税理士・弁護士・労働運動家・政党役員(共産党)などあらゆる頭脳集団の協力を経て闘争戦略が組み上げられた。それは、日本鋼管売却価額より坪10万余も高く、かつ25億円の売却益税をゼロにし企業再建の経営基盤は、無借金で、自前の土地・工場設備・当面する運転資金を確保する戦略・戦術がくみ上げられた。加えて、生産活動を支える企業再建への人的確保も重要な側面の一つであった。まさに、親会社が引き上げても当面する企業再建の基盤の確保を日本鋼管に認めさせたところに気工社闘争の重要な教訓があった。

 土地処分においては、労働組合が不動産業者を指定し、茂木氏を組合の顧問として決め業者との折衝を一任、親会社との土地取引の推移を労働組合がすべてにわたり把握する状況を作り出し、土地取引と団体交渉を結合させて、企業存続の基盤をなす資本(協定内容)を労働組合の闘いによって親会社日本鋼管に認めさせることが出来たのである。これが気工社闘争の特徴点であり、企業存続の環をなすものであった。
 茂木氏は「そこに闘う組合があったればこそ、倒産に瀕した或いは経営危機に直面した、そしてそこから企業が消滅する形ではなく、再生へ、企業存続へと事実として前進、日常不断に明日を切り開くべく健闘している。もしそういう組合がなかったならば、事態は全く別のものになったであろう」と評している。


       ★★ 「企業再建労使協議会」設置に当たって  ★★

           組合の基本的考え方とすべての従業員への訴え

                       1986年 2月 10日

                          全金湘南地域支部気工社分会 執行委員会

1)気工社は、44年、日本鋼管の系列支配、そして16年を経過して和議倒産と数次にわたって激変してきました。労働組合は、倒産からの企業再生をめざして「再建特別委員会」(仮称)を設置し、企業体質を改善し、再建を軌道に載せるための諸問題を具体的に検討し、一刻も早く企業再生を推進すべきだと提案してきました。1月28日、会社は,文書をもって組合提案に対する基本的見解を提示してきました。
 その前文で「組合提案に敬意を表する」「会社としても組合の考え方に基づく提案に原則的に賛同する」との表明は、当面する労使関係での経営者の極めて重要な意思決定として評価するものです。しかしながら、この提示された見解の中には,残念ながら企業再生のための労使の協力共同、全社一体となっての体質改善に逆行するような不適切なものがあることを指摘しないわけにはいきません。
 一例を挙げれば「目的」の項での「単なる揚げ足取り、不平・不満のはけ口であってはならない、さらには、建設的提言でなければならない」などの制約的,規制的見解は、10数年に及んできた日鋳派遣経営者の労務感覚、経営者としての無為、無策、無自覚の経営感覚の域を一歩も脱していない発想といわざるを得ません。
 和議倒産以来、2年余にわたる企業運営の実態は、人心の面から見ても、組織的にも企業再生には程遠く、徹底的な体質改善が必要な事態にあることは周知のはずです。従って、日鋳役員が退き新役員会が出発しても企業の内部には,仕事のやり方,ルール、機構をはじめ大小種種さまざまな疑問や不安、不満,不平,批判,意見が職場にうっ積しているのが実態であります。
 企業再生への原点は、こうした諸問題をむしろ積極的に発掘し、とりあげ、正確に整理しその総てをオープンにして正しく解決していき、職務,職位,組合、非組合員を問わず経営者をはじめ全社員の意思の統一と知恵と力の結集を図ることだと考えます。であるからこそ「再建委員会」ないし「協議会」の一刻も早い設置が必要なのであり、従って組合は、とにかく先ず「企業再建労使協議会」をスタートさせるべきだと考えます。
 「協議会」が、労使双方にとって初の試みであり、まさに模索の新たな活動でありますが、労働組合の立場、経営者の役割を相互に自覚し,尊重することをを前提とし、協力・共同の立場で、実践的に「協議会のあり方」「企業再建をめぐる気工社固有の労使の係わり方」を確立して行くべきだと考えます。

1)労働組合は、企業再生問題を労働運動の重要な課題として位置付け、労働運動の先進的教訓や学者、労働運動家など識者の理論に学びその都度、組合の見解、提言を重ねてきました。

      78年  経営責任で、再建計画を具体化せよ。
      80年  経営分析と再建への改善すべき問題点。
      82年  第2次再建提案。
      83年  再建闘争の経過と到達点。
      84年  会社の再建計画に対する組合の見解・要求。
      85年  再建特別委員会(仮称))設置の提案。

 こうした取組みの到達点の上に組合は、親会社日鋳の和議倒産、工場閉鎖、全員解雇の攻撃に抗して、労働力の確保、生産手段の保有を掲げ、企業再建を要求して闘いを進めてきました。 今日、企業再生を論議する事態のもとで、労働組合の掲げた要求が、再建にとって不可欠の課題であったといえます。かつ又、労働組合の具体的問題提起と闘争がなかったならば、和議倒産以来の「気工社再建」を標榜しながら「日鋳の再建」のため「気工社を整理」しようとしてきた経過を見るとき、今日の気工社の存在はあり得なかったであろうことは明らかであると考えます。

1)土地処分をめぐって、労働組合の要求をもとにした今回の闘争は、気工社の経営者を通じ、実質的に親会社日鋳を相手に、気工社を守る闘争として展開されました。その結果は、企業再建のスタートに不可欠な土地,建物,生産設備,資金を確保し、更に日鋳からの一定の今後の援助を保障させることができました。
    この闘いで、経営者の一部が組合要求を正しく受け止め気工社存続への積極的取組みをなし、労働組合の要求(基本的に今回の要求は,経済要求や権利要求ではなく、本来,経営者がとるべき重要な政策を労働組合の要求として提起したものです)に真剣な対応を示してきたことは、10数年に及ぶ対立的労務政策から見て極めて重要な変化として評価するものです。従ってこの成果は、労働組合の社会的道義にかなった強い闘争とともに,一部経営者の努力が加重されて成し得た貴重な成果であるとともに,この闘いの重要な教訓であります。 従って、三年に及ぶ激しい闘いを通じ生み出してきたこれらの成果をゼロにしてしまうことの無いよう協力,共同して企業再生への取組みを推進することは、この闘いの経過から見て必然の路線であると確信をしているものです。
 新社長は、経営方針の基調の一つとして、10余年の労使関係を改め,新たな協調を目指す意向を全社員の前に表明しました。あわせて、50余名を基盤として企業再生を図るとし、そのためにトップからの自己変革をするとの極めて積極的姿勢を示していることからも再建について、労使が協議,協力する場を設置することが緊急の課題であると考えるものです。

1)日本鋳造の経営方針に基づき,土地処分による投入資本の回収の実質的完了、それに基づく派遣役員の総引き揚げによって,気工社は、事実上支配者のいない独立企業体となったといえます。そして、急遽新しい役員会が成立したが、労働組合は,新役員に対し過去の経営側の一員としての責任についてはそれを追求することなく、むしろ会社の新局面における経営者としての任務を自覚し、心機一転、企業の軌道修正,再生へ向けて全智、全能を傾注することを期待し,要求することがこの瀕死の状況にある劣弱中小企業体のたてなおし,再生にとって、労働組合が取るべき唯一の正しい態度であり路線だと考えます。

1)企業のたてなおし,再生は,組合はもとより総ての社員の最大の共通課題であり、その成否は、まさに経営者をはじめすべての従業員の活力と英知を結集するかどうかにかかっていると思います。しかしながら、倒産闘争の中で明るみになった事実は、わずか50余名の小企業であるに拘わらず、内部に経営陣と労働組合,部課長,組合未加入者と3極にも4極にも分断され、更には各人各人がバラバラであり、企業の総意を結集することが困難となっていることです。
 こうした内部状況と社会的にも経済的にも極めて劣悪な企業環境下にあって、労働組合と経営者が、再生への具体的取組みとして「協議会」設置で合意した今、組合は、改めて管理職を含めた全従業員に対し、長い過去によって生じた各種の相互断絶、カベを取り払い50余名の人間が役員ともども一丸となって活躍する企業造りに直接参加されるよう訴えるものです。そして,複雑な経過はあったにせよ組合未加入の仲間の皆さんの総てが、組合に加入され企業再生のために組織的参加をされるよう心から訴えるものです。
 あわせて、実務の中核としての部課長の皆さんが、蓄積してきた業務上の経験を存分に活し知恵を絞り,この企業の思いきった体質改善と自前で食って行ける企業への一大変身の実が挙がるよう身を挺して取り組んで戴くよう強く訴えるものです。
                                          以上
       (中村が起案し執行委員会で協議のうえ全社員に手渡した訴えである)
 
           

Z:神奈中対策と団交対策に於ける個人的信頼関係

 茂木社長と中村との関わりは64年の羽田移転闘争での労使の関係から始まる。移転闘争を巡って都委員会労対部の援助で非公然に経営者組織と職場組織の合議をへて茂木社長との密接な係わりが始まった。移転闘争集約後、羽田・藤沢の執行委員の信認投票で中村一人解任された。当時、党大田地区委員であったことから地区委員会は、地区委員会専従を要請してきた。それを受け入れることにした。礼を尽くして、茂木社長に退職・専従となることを伝えた。茂木社長は、気工社のあり方・中小労働運動・労使のあり方を強調し、残留を要請してきた。その結果、専従を断念し藤沢への移転を決意した。69年社長退任時の上申書は移転闘争での教訓の発展的模索である。加えて、72年配転解雇闘争時、元社長の義弟の会社での設計見積のアルバイト、茂木夫人の病院で妻の働き場として保育所を立ち上げる等々実質的援助・支援を受けてきた。
 更には裁判闘争においては元社長の立場から陳述書・証言を頂いた。
茂木証言の最後に弁護士:証人が在職中ですけれども、会社は原告の組合活動等々の点についてどのように原告を見ていましたか、つまり、会社の統一した見解とか言うことじゃなくて、あれは、ああ言う人間だと言う、それぞれ思っている総体をおっしゃっていただければいいんですけれども。会社のトップが。
茂木: と言うのは 賃金の算定と言うことなんでしょうか。
弁護士: じゃあなくて 組合の活動の点です。
茂: 組合活動と言うふうな点について言えば、会社の従業員と言うこととは、本来労働組合の活動と言うことは異質のことであり、全く会社のあずかり知らないことですけれども、現実に彼の活動は、入社2・3年後から非常に目立ちましたし、会社の労使関係の担当部門としても、それから 会社のトップ層全体、取締役であるかないかと言うことを抜きにしまして、中村君に関しては、こと労働組合に関しては、終始一貫極めて組織的に 情熱的に 労働組合運動に精魂を傾けている。その限りでは、理論的にも実践的にも極めて強靱な労働組合活動家であったと会社は考えています。且つそれは、多分彼が内外に明らかにしていた共産党員であることに、それと深く結びついていることではありますが、会社としての判断は、気工社の中では共産党員として最も旗を高く掲げている人間、いい・悪いは別としまして・・・。それから労働組合活動と言う事について終始変わらない情熱をつぎ込んでいる中心的な人物というふうに会社は終始一貫して考えておりました。
同時に元営業部長からの陳述書・証言を戴いた。

中村ー2
  従って、社長退任後も気工社では最も近しく、継続してきた唯一の係りを持ち、83年和議倒産闘争では、早くから経営者の立場としての見解を求めて個別に相談をしてきた。茂木元社長が飲み屋で、日本鋳造が会社資産の土地売却の動きを収集し、それを基に本格的に倒産闘争の模索を始め、茂木元社長を加えた闘争体制構築での支部組織・労働組合を結集するとり組みがある。労働組合役員の意思統一は、実に6月から始まり12月までの6ヶ月を要した。勿論、団体交渉は継続しながら、都度の情勢分析・戦術行使を含めての論議となったのである。
 不統一の根源は、茂木社長を誰も詳しく知らなかったこと、加えて一般的組織論で他組織との係わりを否定、さらには経営者・資本との係わりを拒否する一般論に止まり、局面においての支部・労働組合としての指導責任の自覚がなおざりにされてきたと言えよう。
今一つは、集団的社会構造の中で真に信頼する仲間を捜し出す能動的視点が何にもまして求められるのではないだろうか。そこにこそ事物の展開は人間的信頼関係の基礎の上に、集団として始動する原点があると言えよう。
 加えて、倒産闘争での解雇者中村の役割を補強する
@ 会社資産7000坪の土地処分の話は、茂木元社長から中村に伝えられた。そこで組合・支部の運動上の意思統一・茂木元社長を組合の顧問として大衆的に認知する論議が、実に6ヶ月を要したのである。
A 土地処分が神奈川中央バスに内定した大詰めの段階で、不動産会社の顧問弁護士・湘南合同法律事務所の弁護士から相模合同法律事務所(中村解雇闘争の弁護士)を通して、解雇者中村に不動産会社を気工社に紹介をして欲しいとの要請となり、結果はその不動産会社との取引となった。
B 倒産闘争終盤の支援共闘交渉団の3人の一人に会社は解雇者中村を指名要求してきた。支援共闘の討議の結果会社の要求を受け入れた。
C 倒産闘争妥結の極限に至る協定書・財務処理を巡って、会社は、再度組合トップ交渉3人の一人として中村を指名し支援共闘は受け入れた。


[:           ――わたしと労働組合――

          結婚式場から組合作りの相談会へ (JMIU中央機関紙部長が付けたタイトル)

                                            中 村 夫人

 私たち(中村夫人と夫の松雄さん・気工社分会執行委員。このほど14年越しの解雇撤回闘争に勝利し、職場復帰した・・編集部注)は、60年の安保条約改定反対闘争の時期に手をたずさえて過ごし、その翌年結婚しました。型破りの彼は、結婚式のその日を組合作りの相談会に決めており、私も式場からその場へ直行させられました。
 一週間ほどして彼の待望する全金労組ができたようですが、彼はその後、半年の間、大阪へ出張に出され私たちは新婚2ヶ月で別居を余儀なくされました。半年後、勇んで帰京した彼を待っていたのは、九州転勤でした。会社のしうちに怒って転勤を拒否、とうとう解雇されました。そして裁判闘争が始まりました。
闘いを続けながら気工社に勤めるようになり、裁判だ、組合だ、仕事だと、ますます忙しく飛び回る毎日となりました。でも、別居よりはましでした。
 二人目の子供が生まれて半年もたたない正月明け、2年間に4回も配転させられたうえ、またまた配転―解雇。3、4年で必ず勝つ、という自信満々の彼に乗せられズルズルと14年の解雇撤回闘争につきあわされてしまいました。
 結婚当初、口を開こうとしなかった老父を、数年かけて味方に引き込んだ柔軟さの半面、不合理に対しては頑として妥協しない彼。子供たちを含めて、そのしわよせを強いられて来たように思います。労働組合などほど遠い存在の私立保育園で、仕事と子育てに追われてきた日々。彼を通して見る労働組合は、私にとって苦しみのたねと映りました。
彼の職場復帰を祝う集会(7月13日)は、みなさんがお金を出しあって下さいました。
 集まられたみなさんの一言一言に、私は、不屈に闘う労働者の楽天性、労働組合の力強さをうらやましく感じました。たくさんの仲間に囲まれ、喜色満面の彼を見て「幸せな男」としみじみ思いました。
本当にみなさん、ありがとうございました。
 彼は職場に戻ることができましたが、それでも、争議は後を絶ちません。解雇や差別を許さない労働組合が欲しいと思います。


\:団地自治会結成の経過

  今迄労働運動を中心として記載してきたが、私の遍歴にも列挙してある通り、団地住民の要求をくみ上げ組織し、自治会を結成して要求を実現するという、市民運動にも関わり活動してきている。時代は少し前後するが、ここではその一端を述べておきたい。

 1968年、茅ヶ崎市の団地に入居。羽田工場移転後、会社から請われて独身寮管理人となり、そこからの移転である 。当時は、組合役員を解任されていたころであったが、諸活動で毎日夜遅く帰宅した。駅から団地までのバスは21時過ぎには無くなり、若造であり、タクシーには乗れず40分ほど駅から歩いて帰宅した。駅から歩く人が束になっており、見も知らない人ながら雑談が広がった。そこには沢山の生活上の要求がこもごも語られた。
 そこで、気工社の仲間の力を借り手伝ってもらい、第一次入居の1167戸の団地内の要求組織を手がけた。まずは、全戸に諸要求を集めるアンケートを配布、一週間後に個別訪問し回収・200余の要求が集まった。その結果と共に相談会を提起したビラを、またまた全戸配布した。その結果10数人の人が集まったのが自治会結成の出発点であった。
  2500戸の団地は、3月から始まり、第一次:1167戸、二次:544戸、三次644戸(12月)となり、自治会結成は、第三次の入居を待って、12月・2500戸の総意をもって結成された。

   当初の主な要求運動

@ 駅からの終バスの延長要求。当初はバス会社交渉で埒が明かず、陸運局交渉でもままならず、白バスを借り受け、半年ほど交通対策部を中心に自治会役員など午前1時の終電まで自主運行をなし、陸運局を動かして21時の終バスを午前0:35分の最終バス運行を実現した。
  首都圏の通勤範囲に入る湘南で住民の切実な要求を満たした事例の一つとして挙げられる。

A 子ども達の故郷と未来を!と自治会結成初仕事として始めた夏祭りである。近隣の住民の協力を経て、子どもみこしパレード・打ち上げ花火(近在の住宅増加により2010年ころ中止)・盆踊り・露天商・中学・高校生などのバンドの競演などなど団地の一大イベントとして近隣の住民をも集めて継続発展している。

B 団地から2キロほど離れたチタニューム会社の煤煙公害阻止運動・・。煤煙防止装置を新設させ団地はもとより工場周辺の近隣住民からも喜ばれた。

C 団地内の貫通道路阻止運動・道路公団・市役所を動かし安全確保の実現。

D 自治会役員は、公募で選挙を通して民主主義的運営を実施したが、数年後には投票の結果に一般候補者の気持ちがなじまず、定員での選挙に留まってきた。

 などなど、45年を経た現在においても諸活動の基本は、住民に密着した要求運動路線として、着実に継承されていると言えよう。


]:JMIU気工社支部の沿革

  階級的ナショナルセンターをめざす全労連は、1989年結成された。労働戦線における右翼的再編が1980年の「社公合意」(日米安保と自衛隊の容認、共産党排除の政権構想合意)を総評が推進し、労働運動全体が右翼的ナショナルセンターの支配下に置かれかねない状況の下で、階級的労働運動をめざす自覚的労働組合によって全労連は結成された。
「資本からの独立」「政党からの独立」「共通する要求での行動の統一」との労働組合の原点を掲げた全労連の5年間の闘いは、まさに労働戦線統一の母体として、労働者の切実な要求の実現、国民的諸要求実現の闘いの中核として労働者・国民の注目と期待を集めているところである。

 JMIU気工社支部は、自動車、電機など大企業の生産点が集中する湘南地域で、早くから中小労働運動、自覚的・階級的労働運動をめざして闘ってきた数少ない金属労働組合である。 (株)気工社藤沢工場の稼働は、1963年である。会社創立は1954年で、河川における砂利採取を自動化した自走式砂利選別掘削機械(可搬式砂利採取機)の製作販売会社として東京・大田区でスタートした。そこは労働運動の発祥の地として知られる東京南部で、金属産業の工場群、中小企業の密集する地域であり、荏原製作所、石井鉄工、日本起重機、渡辺製鋼、日本教具など全国金属の組合が群立して“全金銀座““赤旗横町”とも呼ばれたところである。
 1960年前後の高度成長期、とりわけ建設業界の発展を背景にして気工社の経営規模は急成長を遂げ、1961年には資本金4億円で東京市場二部上場会社と発展、最盛期には400人を超える中堅企業となった。創立者の一人茂木健二社長(故人)は、会社創立と共に中小企業家同友会の組織者、更には政府の砂利砕石など骨材資源審議会を設立する中心的役割を果たし審議委員の一人でもあった。その友人である経済評論家坂本藤良氏は「マルクス経済学を信奉する異色の経営者」と評している。

 労働組合は、1957年に企業内組合として結成し、60年安保闘争の大衆運動の高揚期の中で全国金属に加盟、反安保ストを経営者に申し入れ2回の全面ストを成功させてきた。61年には、中小未組織労働者の組織化を掲げ、そして階級的労働運動をめざして全国金属糀谷地域支部を結成し、専従委員長を派遣する中核的役割を担ってきた。同時に、実働7時間制・時間外割り増し40%を中小企業で先駆けて労使合意を実現してきた。
 社会経済環境のもっとも激しく変化したこの時期、経営は、後発メーカーに加えて過小資本のハンデイのもとで、激甚な企業競争を背景として、65年羽田工場、68年東京本社を藤沢へ移転統合をするなど、さまざまな合理化施策を含めて、経営構造の急速な質的変化をなしてきた。そのもとで、労使は激しい闘争を重ねながらも、相互に独立した立場を明確にして、企業内における労働条件の決定は、すべてにわたって労使対等の立場において決定することを労使の原則として確立してきた。
1970年、日本鋼管・日本鋳造の系列支配となって、これまで培われてきた労使関係は無惨に破壊され、以降十数年に及び反共労務政策をむき出しにした労働者支配・攻撃が加えられてきた。その攻撃の手口は、インフォーマル組織による組合分断、賃金差別・仕事差別・降格・配転・活動家懲戒解雇・希望退職・職制への指名解雇などありとあらゆる試練にたたされてきた。そして、1983年には、工場閉鎖・全員解雇の攻撃であった。

  労働運動は、全労連結成へ向けての歴史的な運動への転換と高揚の時期であった。金属連絡会、湘南地域共闘にも支えられ、労働組合の闘いによって30年余の歴史を引き継いできた職場と闘う労働組合、闘う砦を継続し、労働組合の主導によって倒産からの企業再建を可能ならしめてきた。これまでの労働運動において、少なからず問題点、弱点を持ちながらも、30年余の厳しく激しい闘いの試練をへた労働組合は、1989年、JMIU神奈川地方本部結成と共に初代委員長に小林支部副委員長を、90年の湘南地域労連結成には中村支部委員長を議長として派遣するなど、階級的労働運動の発展強化をめざしてその一翼を担ってきた。


11:気工社40年目の懇親会 (2010・02・14:藤沢銀座アスター)


 新年おめでとうございます
2010年 元旦
激動した歴史的情勢を、オバマは「指導者を自ら選
び夢を実現しようとする自由な人々の民主主義の信
念が、鳩山首相や私自身の選出を可能にした」と表
現した。
顧みると、55年に社会に出て目にしたのは、総評の
春闘であった。
そして、60年安保闘争・70年代の革新自治体のう
ねり、80年の社・公合意と総評の変化・90年代の
全労連・連合への労働戦線転化を体現してきた。
そこには、50年余の歴史をかいくぐってきた組織労
働者の役割との課題は色あせる想いを覚える。
そして好んで使った「統一戦線」が死語ともなったこ
とも寂しい。
ともあれ「夢を実現しようとする自由な人々の民主主
義」とは何かを今年はじっくり紐解き模索をしてみたい。
今年もよろしくお願い致します。
             中 村  松 雄


K人事課長
謹賀新年
   なつかしい人からの賀状ありがとう。
   お元気でいる様子 何よりです。
   思想的なことは抜きにして「羽田・大森」
   を酒のサカナに語りたいですね。
        K(公認会計士)


O総務部長
(中村解雇時の総務部長)
 恭賀新春
 世界の平和と皆様のご多幸を祈ります.。
 今年もどうぞよろしくお願いいたします。
 思わぬ人からの賀状に接し喜んでいます。
 どうぞ元気にご活躍を。
      O(社会保険労務士)


O部長へ
前略
日時を経ていますが、返信ありがとうございました。
部長に賀状をしたためながら、Kさんを思い出し
ご挨拶をしました。
返信には、「懐かしい人からの賀状ありがとう。思
想的なことは抜きにして「羽田・大森」を酒のサカ
ナに語りあいたい」とありました。
賀状の伝統の重みを噛みしめながら、これを機会
にKさんとの雑談会を考えました。
そこでの合意は、可能ならば、部長もご一緒にと
言う事です。
かってな発想でご都合がおありかと思いますが、
ご参加の是否ご検討ください。
              中 村 松 雄


40年目の懇親会・・なかむら

今日の会のきっかけは、40年目の年賀状に始まります。
そもそもの起点は、2年前、茂木社長の葬儀の折、私は葬儀・受付の責任者で皆さんとの懇談が出来ませんでしたがK委員長を通してO部長が中村を呼んでいるとの連絡で懇親の場に顔を出したところO部長が私に握手を求め、申し訳なかったとの言葉が年賀の始まりでした。そしてK課長が、年賀の返信で「羽田・大森を酒のサカナに」と書いたのが今日の会を生み出したと言えましょう。
Mさんは、体調不良で参加できませんでしたが、まるで、羽田・大森・藤沢の総務部OB会となりましたが、気工社という、ちっぽけな中小企業で(総務部長O・東大:K人事課長・横浜国大:O総務課主任・共産党市会議員・東北大:K総務課員・気工社支部委員長・JMIU地本初代委員長・金沢大)それぞれの方が求められたのか、それとも押しかけたのか計り知れませんが、O部長を始めこんな人材を総務部に集めていたことは七不思議の一つではないでしょうか。
ともあれ初の面談の試みを皆さんと一緒に楽しみたいと思います。
よろしくお願いします。


(会の進め方)・・40年ぶりのことですので

1) 乾杯の音頭は、Kさん。
2) 冒頭発言・O部長にお願いします。
3) 後は呑みながら、Oさん・Kさん・Kさん・Oさん・中村と続けて近況をふくめて
   思いのままの雑談としてください。
4) それでは、Kさん乾杯の音頭をお願いします。


     中村発言

 2年前、茂木社長の葬儀で、O部長がわざわざ私を呼び握手を求めてきました。
私とO部長の係わりは、読売新聞の募集広告で羽田での受験、その時O総務部次長が私の採用に係わったようですが、それ以降も個別の面識はありませんでした。
私が組合の羽田・大森・藤沢の連合会書記長であった僅か7ヶ月での団体交渉で、ことある度にO部長は書記長の見解をと要求してきた事が強く印象に残っていました。
握手をきっかけに40年ぶりに部長に初めて賀状をしたためました。
同時に、ふっと思い浮かべたのがK課長で、これまた40年ぶりに初めて賀状を送りました。
Kさんの返信に「羽田・大森を酒のサカナに」とのことでした。だとしたらO部長と3人でとの話となりました。さらにKさんは、Mさんの名前を挙げ、Mさんなら藤沢でのOさんを、そしてO部長では仲人でのKさんと言うことになりました。
  聞いておきたいこと
 私は、羽田・藤沢統合で、組合役員の信任投票でただ一人否決され、羽田副委員長・連合会書記長を僅か7ヶ月で解任されました。ところが、藤沢移転と共に大和独身寮の管理人の話が持ち込まれました。当時の本社総務は、O部長・K課長であったはずです。
札付きの組合役員解任者をあえて居住者を束ねる管理人に選定したのかその背景をお聞したい。 私の仕事は設計見積でありました。2人の係員と共にそれなりに仕事に責任を持ったこと。
例えば、選挙で休暇中に営業の要請で、選挙事務所で見積りをしたことが再三あった。中小企業労働者の生き様・課題だと自負してきた。
会社は、私から見積もりの仕事を取り上げるため2年もかかった。設計部見積から総務部・経理部・生産部と見積もりの仕事を持って、たらい回し配転が行われ最後は工場からの追い出しで営業部への配転、それをことわって懲戒解雇となった。
加えて、北海道から九州と全国営業所への見積移管の教育は、楽しかった。会社は、見積係を外すために営業マンへの教育と言うが、現場での労働者の反応は、それぞれの営業所では教育が終わった後は飲み屋で歓待をしてくれた。現場の労働者魂を肌で感じたものです。


   懇談後のO総務部長へのはがき

前略 40年にして初めての会で、とまどいがありましたが旧交を再現する和やかな会とすることが出来たと思います。改めて お礼申し上げます。
 部長のお話で、心の襞に重々しく残る言葉を反芻しながら便りをしたためることにしました。
それは、「最長17年勤続・55歳で勤めを辞めた」と言うことです。(後に社会保険労務士)見積ではありませんが、55歳から17年を引くと38歳となります。
そして、60年前、歴史的2・1ゼネストの中枢におられた。25・6歳のころであったはず。
全農林の官僚の階段を剥奪され、38歳まで、子育てを始め、仕事の上でも社会的役割においても人の骨格を形成する最も凝縮される時期に大変な試練をかいくぐってこられた事を類推します。
 今話題の「沈まぬ太陽」を昨年の正月に全5冊を読みました。私の体験からも部長の経過から見ても現場の実体は小説以上に複雑で厳しいものではなかったかと思うんです。
私は、解雇闘争の14年間、経済的社会的背景もあって、生産現場に若者が集中した時期で、労働組合を中心に、夏は花火・年末はカレンダーの行商で糧を繋げることが出来ました。
 何を言わんとするのか。
それは、茂木社長の葬儀の折、部長に呼ばれて顔を出し、堅い握手をして戴いた。その意味が理解できませんでした。会でのお話から苦渋をかいくぐってきた長老の想いを改めて実感し、握手の重みを噛みしめています。
これを機会に、今後ともよろしくお願いします。
                              中 村 松 雄



12:中村松雄氏の労働運動・他略歴

 初めての労働組合は、(株)日機装で1959年企業内組合結成書記長、61年全金日機装支部結成委員長、62年10月・九州営業所配転拒否で懲戒解雇・裁判闘争。62年12月24日、気工社入社(解雇撤回裁判闘争中に入社・当時の高度経済成長期の社会的背景の側面があったのであろうか?、63年・日機装裁判和解解決)
 65年・気工社連合会(羽田・大森・藤沢分会)書記長の頃である。65年11月。日機装労組(東村山)の13名の指名解雇で裁判闘争となり、元委員長としての陳述書である。事件は勝利判決で職場復帰をふくめて全面勝利を勝ちとった。

   その遍歴を時系列で並べる

1959年・・・日機装労組結成・・書記長・・組合消滅
  61年・・・全国金属日機装支部結成・・委員長・・2ヶ月後に辞任・
         大阪6ヶ月出張・帰省と同時に九州配転・拒否で解雇
  64年・・・全国金属糀谷地域支部気工社羽田分会・・副委員長
  65年・・・同気工社分会連合会(羽田・大森本社・藤沢)・・書記長・
       ・羽田工場の藤沢移転闘争集結後、役員の信任投票で書記長解任
  68年・・・2500世帯・10,000人団地自治会組織・事務局長
  72年・・・同年解雇・撤回争議専念の為に辞任
  72年・・・営業部サービス課への配転拒否で解雇
  78年・・・神奈川争議団共闘会議 副議長
  79年・・・裁判闘争中に気工社支部執行委員(17年ぶり)
  85年・・・倒産闘争の終盤に14年ぶりに職場復帰・
    (倒産闘争トップ交渉の3人の一人として会社が解雇中の中村を指名)
  87年・・・JMIU気工社支部委員長 (22年ぶりの三役)
  90年・・・全労連・湘南労連初代議長 (支部委員長)
  94年・・・JMIU神奈川地本副委員長(支部委員長)
  00年・・・JMIU神奈川地本顧問 (02年退任)
  01年・・・気工社支部顧問 (03年退任)
  03年・・・JMIUかながわ地域支部組合員(78歳の現在に至る)



       ☆☆☆   巌窟王生涯現役・益々健在なり   ☆☆☆


  72年5月沖縄復帰直後の7月、私が解雇になる直前に、瀬長亀次郎氏の手記である。
 同年解雇された時から、私が手帳に書き連ねてきた座右の銘(指針)を列記する。

      瀬長 亀次郎(元沖縄人民党委員長・日本共産党副委員長)

    「みんなが 意見をのべあって決める。民主主義のルールである。
    問答無用 きりすてろのやり方は、民主主義の破壊である。
     それは 弾圧となって現れる。
    弾圧する者は 抵抗の前に力を失い いつかはほろびる。
    それは 歴史の鉄則である」

                   ☆     ☆     ☆

〔 巌窟王 〕:物語の主人公は、陰謀に因る冤罪で獄中苦節14年、中村氏は最後の会社を解雇され、職場復帰の裁判闘争で同じく14年、見事勝利解決し職場復帰を果たした。それ以前の会社でも入社以来一貫して労働組合結成の中心メンバーとして関わり、企業から嫌悪され遠隔地配転や解雇等の攻撃と正面から立ち向かい、一生闘いの連続であった。正に巌窟王の面目躍如たる生涯であり、現在も尚労働者・庶民の立場で活躍している。
 中村氏は、自分の人生を中小労働運動・労働争議に注ぎ込み闘い抜いてきた。従って失礼ながら厚生年金は、老後の生活を満たすには不足する額であろうと勝手に推察する。喜寿を迎えた現在も、工事現場の交通整理にバイクで遠方まで出向き働いている。氏が力を尽くし支援してきた神奈川争議団は、2000年11月、当然頼りになる味方と信じていた陣営である筈の、政党や県内の労働団体・民主団体などからの争議団共闘批判が組織された。それを機に争議団共闘からの離脱・新たな争議団の加盟は妨害され、参加争議団はなくなり、2012年残る2団体が解決し、神奈川争議団共闘会議の歴史は実質的に休眠状態に至った。このような経過で、支援する争議団が無くなった現在、雨の日は警備の仕事は休みとなり、私が支援している横浜市を相手の「情報公開裁判」の傍聴に東京高裁まで出向き、辛口の助言をし支援を惜しまない。生涯現役、その心意気に私達も励まされている。


中村ー4


             追  伸

2週間前に急に体調を崩して入院、2014年8月8日、家族に見守られ眠るように静かに永眠されました。神奈川の巌窟王として闘い抜き、老いて尚気力は若くこれからという時、偉大な人物を失いました。享年78歳で生涯闘いの人生に幕を閉じました。合掌!





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ボランティア
24、闘 い 抜 い た 2 年


JMIU昭和メディカル神谷不当解雇撤回争議

    (2006年1月20日〜2008年2月13日   2年)


T、 は じ め に

表紙
  昭和メデイカル神谷不当解雇争議の発端は、株式会社昭和メデイカルサイエンス(以下、「会社」)で働く神谷浩人さんが、低賃金で職場にサービス残業が横行しているのを改善するために労働組合を勉強しようと、05年2月にインターネットで”労働組合”を検索中に町田地区労働組合協議会(以下、「町田地区労」)を知り問い合わせました。
 町田地区労は、当時、町田地区労の幹事をしていた佐瀬和雄JMIU神奈川地方本部執行委員(以下、「JMIU神奈川地本」)から、JMIU神奈川地本では、一人でも誰でも入れる労働組合、「かながわ地域支部」を造り活動をはじめた事を知り神谷さんを佐瀬さんへ紹介してくれました。

  神谷さんは、05年3月にJMIUかながわ地域支部に加盟し、JMIUの組合員テキスト「くらし・職場・政治と労働組合」や神奈川県商工労働部発行の「労働手帳」などで、佐瀬さんやかながわ地域支部の組合員と勉強をしながら職場に組合をつくろうとJMIUに加入し働きやすい職場と労働者の生活と権利を守る活動に取り組みました。05年8月31日から9月14日にかけて「職場のサービス残業」を無くすためにアンケート活動を行いました。さらに、05年12月13日に東京都八王子労働基準監督署町田支署(以下「町田支署」)へ「サービス残業による未払い賃金の支払い」を求めて申告をしました。

 会社は、この一連の取り組みに対して見せしめ的報復として、06年1月20日に「職歴一部不記載、無届け残業、就業規則違反」との理由で懲戒解雇した事件です。

              ◇   ◇   ◇   ◇   ◇

              【 昭和メディカルの会社概要 】

        名 称 : (株)昭和メディカルサイエンス
       本 社 : 東京都町田市鶴間541番地2
       創 立 : 昭和25(1950) 年 9 月 (財団法人 横浜微生物研究所)
       設 立 : 昭和54(1979) 年 4 月
      資本金 : 3,000万円
      代表者 : 代表取締役社長  氏 家   永
      社員数 : 600人
      事業内容: 臨床検査受託全般( 生化学・血液学・免疫血清学
               微生物学・一般検査・病理学・内分泌学・薬物
              公害関係・遺伝子・R I 検査 ) 健康診断事業

              ◇   ◇   ◇   ◇   ◇
                  

U、昭和メデイカル不当解雇争議の概要と特徴

1、 オーナー経営による前近代的な労務管理で、職場に24時間従業員を監視するカメラがと取り付けられていました。

2、低賃金で残業をしたけれど、20時間で足きりされサービス残業になってしまうので何とかしたいと思い、インターネットで「労働相談コーナー」ヘメ一ルをしたら、町田地区労から返事がきました。

 3、サービス残業を無くそうとアンケート配布が発覚し、05年9月28日から10月1目まで連日、上司の安藤部長と菅俣次長に呼び出され、「無記名アンケート配布は、服務規程違反」だと厳しい追及を受けました。

 4、面談の際に、菅俣次長は、氏家専務から[会社の全財産をかけても神谷をつぶせ]と云われていると発言。さらに今やっている仕事を誰かに引き継げ、来週には処分を決定すると脅しを掛けました。

 5、05年10月4日、JMlU神奈川地本は、会社へFAXにて処分をさせない事を主な内容とする、「神谷浩人組合員の組合加入と団体交渉の申し入れ」を行いました。

 6、会社は、FAXの回答で「昼夜を問わず匿名で:文書を会社の設備を利用して配布されており、就業規則上から調査をした、本件に関する処分は団体交渉の対象にならない」との態度が続き、05年1 1月8日の団体交渉まで、約 1ヶ月費やしました。

 7、2度の団交で、サービス残業の支払いを要求したが、支払う態度が見受けられないので労働基準監督署へ申告する事を会社へ伝えました。05年12月13日に東京都八王子労働基準監督署町田:支署へ「過去2年分の未払い残業代の申告」をしました。

 8、06年1月19日、労基署町田支署へ要請、担当官いわく「05年12月19日に会社の労務担当者を呼び事情聴取し1月31日に会社が、未払い残業代の支払いについて労基署町田支署へ報告を約束した]と報告を受けました.

 9、06年1月20日午前11時ごろ、突然、神谷組合員が、安藤部長と菅俣次長に呼び出され「就業規則違反、経歴詐称(職歴一部未記載)、無届け残業をした」との一方的理由で懲戒解雇を通告された。

10、1月30日、2月13日の2回、団体交渉で懲戒解雇撤回と未払い残業代の支払い要求をしたが、会社が応じようとしないので、不当労働行為で申立をすると通告しました。

11、06年3月2日、神奈川県労働委員会(以下「県労委」)へ不当労働行為で申立しました。

12、会社は、県労委では、経歴詐称を基本にした主張をしました。会社の顧問弁護士の熊弁護士は「これだけは知っておきたい、ダメ社員の辞めさせ方」という本を出し、中小経営者へ講演をしています。

13、困難な一人争議でしたが、当初からJMIUかながわ地域支部が支えてきました。

14、解雇後、勤務していた町田事業所門前宣伝が継続的に行われ会社を追い込んできました。此の宣伝には、支援対策会議の人達が支援してくれました。

15、昭和メディカルと取引のある神奈川の病院要請を行い、要請先の病院から会社へ「早く争議を解決するように」との働きかけも有りました。

16、07年5月30日、県労委から会社を不当労働行為と認定する、「労働者救済の完全勝利命令」が交付されました。

17、07年6月13日、会社は、命令を不服として中央労働委員会(以下「中労委」)へ再審査申立を行いました。中労委では、県労委の担当弁護士から経営法曹会議の中心的な弁護士へ差し替えられました。

18、会社の主張は、中労委では、就業規則違反に争点を切り替えてきました。

19、08年2月13日、中労委から県労委の命令を尊重する「和解勧告書」が提示され、労使が合意して解決しました。


V、闘 い の 目 標

  不当解雇を撤回させ、昭和メデイカルの職場にJMIUの組合をつくり、働きやすい職場と労働者の生活と権利を守る砦にし、職場の自由と民主主義を実現させる。

   そのために

   @ 見せしめ的な懲戒解雇を撤回させ、現職復帰を勝ち取る。
   A 不当労働行為をやめさせ、自由にものが言える民主的な職場をつくる。
   B サービス残業をなくし、労働者の生活と権利を守り、労働条件の向上をはかる。

      として、第三者機関の神奈川県労働委員会へ申立を行いました。


W、到 達 点

1、07年5月30日、神奈川県労働委員会から、会社を断罪する労働者救済の完全勝利命令が交付されました。

      県労委命令の主文の趣旨は

 (1)被申立人は、申立人全日本金属情報機器労働組合神奈川地方本部かながわ地域支部に所属する組合員神谷浩人に対する平成18年1月20日付け懲戒解雇がなかったものとして取り扱い、次の措置を講じなければならない。

@ 神谷浩人を原職に復帰させること。
A 神谷浩人に対し、上記解雇がなかったならば支給されたであろう賃金相当額に
    年率5分相当額を加算した額の金員を支払うこと。

 (2)申立人は、本命令受領後、速やかに申立人に陳謝文を手交する。

                     記

  当社が、全日本金属情報機器労働組合神奈川地方本部かながわ地域支部に所属する神谷浩人組合員に対し行った平成18年1月20日付け懲戒解雇は、労働組合法第7条第1号及び第3号に該当する不当労働行為であると神奈川県労働委員会において認定されました。今後、このような行為を繰り返さないようにいたします。

      加えて上記謝罪文を手交せよと、異例の命令が交付されました。

2、08年2月13日、中央労働委員会の和解案では、神奈川県労働委員会の命令を尊重した『和解勧告書』が提示され、労使双方が受諾し解決しました。

   その内容は、

@ 会社は、神奈川県労働委員会の不当労働行為の認定を受けたことについて、遺憾の意を表明する。
A 神谷浩人に行った平成18年1月20日付け懲戒解雇を撤回する。
B 神谷浩人は、平成18年1月20日付けで円満退社する。
C 会社は、解決金を支払う。

     という、中労委和解で解決しました。


X、闘 い の 経 過

                     1、職 場 か ら の 闘 い

門前宣伝
                              06年1月20日、午前11時ごろ、突然、神谷組合員が、安藤部長と菅俣次長に呼び出され「就業規則違反、経歴詐称(職歴一部未記載)、無届け残業をした」との一方的な理由で懲戒解雇が通告され、神谷組合員は、安藤部長と菅俣次長に両脇を抱えられ、力ずくで職場から放り出されました。

 1、神谷組合員から連絡を受け、JMIU神奈川地本は、早速、会社へ抗議文をFAXしました。

 2、JMIU中央と神奈川労連へ抗議文の依頼をしました。会社へ抗議のFAXが殺到し、会社がFAXの電源を切る事態も生じました。

 3、1月23日から3日間、町田事業所門前で抗議と支援要請のビラを配布し、就労闘争を行いました。

 4、以後も隔週で門前宣伝を行い、ハンドマイクで音を出し職場労働者へ事件の内容を解り易く伝え、支援を呼びかけると共に、職場要求を取り上げ労働者を励ましました。

  5、会社は、毎回門前に監視人を2〜3人立て、受け取ったビラの回収をすると同時に、門前に監視カメラを3台設置する等、宣伝の妨害を行ないました。

 6、会社は、団交申し入れに対して、私服警官を呼び、門前宣伝についても町田警察署へ連絡し、パトカーやバイク・自転車でのパトロールで警察官の介入がありました。これには、「民事不介入」で抗議し、機敏に対処し介入を許しませんでした。

  7、事業所門前宣伝の回数が増えるにつれ、ビラを2枚、3枚を欲しいと合図を送る人も出ました。さらに、JMIU神奈川地本に詰めていた神谷組合員を訪ねて来て職場情勢を報告してくれる方も現れました。

 8、氏家社長宅を4回訪問し、早期解決を求める要請を行なうと共に、団体署名を累計で、2,150部、手渡しました。

  9、門前宣伝を継続的に行い、支援者もマイクを握り会社へ抗議し、職場の方々へ支援を訴えました。


2、法廷闘争(県労委・中労委での取り組み)

              
         【 神奈川県労働委員会 】

@ 06年3月2日 不当労働行為で申立
   調査:3回、審問:4回、和解:3回、審問促進要請:5回、

A 昭和メデイカルでのアンケート配布活動が発覚し、部長や次長に連日呼び出しを受け、追求された内容を克明に記録、また、団体交渉に至った経過も記録し、その内容を証言しました。

B 熊弁護士事務所での交渉内容を記録し、その内容を証言

C 07年3月7日に結審し、3月30日、4月19日、5月10日の3回、命令促進要請行動を行い、累計で1,980団体の署名を提出しました。

D 弁護団と事前に綿密に打ち合わせを行い、審問に臨みました。

E 07年5月30日 和解交渉が決裂し、2ヶ月間という早い時期に職場復帰の労働者救済の完全勝利命令が交付されました。

             【 中央労働委員会 】

@ 07年6月13日、会社が県労委の命令を不服として再審査の申立を中労委へ行う。

A 労働者委員へ事前に、県労委での取り組みや会社の行った不当労働行為と団体交渉の内容や命令書の内容を詳しく説明しました。

B 途中交代した労働委員へも資料を提供し事前説明を十分に行いました。

C 県労委との二番煎じにならないように証人を交代しました。

D 補佐人にJMIU以外の、元NKK京浜のOBと元東芝争議団の方に加わって頂き、層を厚くしました。

E 弁護団と補佐人の打ち合わせを、審問前や和解調査の前に補佐人合同で綿密に行いました。

F 神奈川県労働委員会の命令を尊重した「和解勧告書」が提示され、労使双方が受諾し解決しました。


3、社会的包囲の闘い

                          昭和メデイカルは、厚生労働省の認可事業として人間の血液や尿など、最新鋭の検査機器で臨床検査を行い広く市民の健康と医療に深く関わり、特別に社会的責任(CSR)とコンプライアンス(法令遵守)を求められる企業です。対策会議は、こうした企業の特質を捉えて、会社を社会的に包囲する効果的な行動を組み立て、多彩な運動を展開しました。

 @ 厚生労働省や監督官庁への要請

  厚生労働省(2回)を初めとして、東京労働局(2回)や労基署町田支署(7回)へ、粘り強く赴いて監督官庁の指導・監督責任を追及すると共に、争議解決に向け指導力を発揮するよう強く要請しました。
 
 A 自治体への要請

  会社の登記上の所在地である横浜市(3回)や主事業所のある町田市(4回)への要請を行い、行政として出来る最大限可能な方法を知恵をしぼって考え、争議解決に力を発揮するよう要請を行ないました。
 
 B 会社が加盟する上部団体への要請

  会社が加盟する社団法人日本衛生検査所協会(以下、「日衛協」)本部へは2回要請に行きましたが、事務局は要請を受けるどころか要請書さえも受け取らず、門前払いという非常識な対応をしました。
対策会議はこれを受けて、日衛協の副会長事業所への要請を手分けして行ないました。

 C 背景資本への要請

  背景資本である三井住友銀行本店・主取引先の横浜駅前支店(4回)への要請を行いました。支店長は、社長へ直接要請の趣旨を伝えてくれました。

 D 病院への要請

  神奈川にある昭和メデイカルと取引のある病院へ直接要請し(9箇所)、更に、東京・千葉・埼 玉・栃木の病院へも要請文を郵送で送付しました。要請を受けた病院では、会社の役員を兼務する営業部長を呼んで事情を聞いたり、会社へ要請の有ったことを伝えます等、多くの病院が協力的に受け止めて対応し、こちらが励まされる行動となりました。

 E 事業所周辺への宣伝

  07年8月21日に町田事業所周辺の地域宣伝を行い、14団体25名の方々のご支援で2,000枚のビラ配布宣伝を成功させる事が出来ました。

 F 共同行動による相乗効果

  これらの行動は、JMIU神奈川地本傘下のノイズ・サンアイ・IBMや東芝争議団との共同行動として取り組み、相乗的に発展させる事ができました。多くの皆様に支えられ、多彩な運動・行動を展開し成功させてきました。


Y 、勝 利 の 要 因 と 教 訓

勝利報告集会
 JMIUかながわ地域支部を中心とした、支援対策会議が早期に結成できたこと、JMIU神奈川地本をはじめ、他の労働組合や民主団体、善意ある個人の方々が最後まで闘いを支援して頂いた事が力となり勝利の要因でした。これまで、職場での闘いや労働委員会での闘い、社会的包囲や共同行動での闘いを整理しまとめて来ましたが、そこから早期に勝利解決した教訓を探り総括してみたいと思います。

1、支援対策会議が果たした役割

  06年3月31日に町田地区労や町田生活と健康を守る会の方々の協力を得て「昭和メデイカル神谷不当解雇撤回支援対策会議」を結成し、JMIU神奈川地本以外の町田地区労や神奈川争議団共闘会議に加盟し、勝利した経験を活かして、元NKKOB、小田急OB、元臨港バス、東芝、日立、神厚労相模原協同病院労組の方々に事務局に入って頂き、解決するまで責任を持った組織として活動してきました。

@、情勢に見合った事務局会議での検討

 県労委命令が出されてから昭和メデイカルと取引の有る病院要請を強めました。県労委や中労委の推移を見ながら会社の出方などを分析し、情勢に照らして適時事務局会議を開催し、効果的な闘い方について相談しました。

A、争議経験豊富な支援者で事務局体制の強化

  昭和メデイカル争議は、当初JMIUかながわ地域支部が中心になり闘いを進めてきたが、争議支援には組合員だけでなく、争議団や争議団OBで闘争経験豊富な人達が多支援に駆けつけてくれました。門前宣伝等のチラシ配布にも大勢の人が参加してくれまたが、支援の人達にもマイクを握って演説してもらい、支援の広がりを会社に見せ付ける事ができまた。同時に、組合外部の支援者にも要請し、対策会議事務局に加わってもらい、事務局体制を補充し、強力な体制を整備しました。

B 対策会議の果した有効性

毎回の事務局会議には、新たに加わった事務局員も参加して開催、争議経験に基づく神谷争議の実情に即した貴重な意見が出され、方針や戦術が提起・論議され、行動が具体化されて運動は広がり実施されて行きました。そうした中で、相乗効果を生み新たな運動の前進をしました。

イ、事務局参加者からの呼びかけで、昭和メデイカル争議の経過や到達点が組合事務局員以外の人達へも宣伝・理解され、行動参加によって支援の輪が広がりました。

ロ、JMIUや町田地区労、経験豊富な争議団OBなど外部からの参加によって、会議で決めた方針は任務も分担され確実に実施され、対策会議の組織的強化に繋がりました。

ハ、支援の広がりの中で、原告に対する精神的支えの役割を果しました。

 C、組合員以外から補佐人の補充

 県労委の段階では、補佐人は組合関係者のみであり、他の支援参加者との間に一定の距離感が残り、広く支援の輪を広げる力べになっていました、しかし、中労委の段階では、組合員以外の事務局員を補佐人として申請し、和解交渉に加ってもらいました。大勢の組合員以外の支援者が参加する中で、支援者の代表が交渉に参加する姿を見て参加者に安心感を与える結果につながりました。
  支援対策会議に、組合員以外に争議を勝たせる一点で共通した要求を持つ方々に役員として参加してもらう形態は、従来の組合争議に新たな発展方向を示すものとなりました。

  D 早期解決が他の争議の励ましになった。

  昭和メディカル神谷不当解雇争議の早期解決は、JMlU神奈川地本傘下で闘っている争議組合や神奈川争議団共闘会議に加盟の各争議団への励ましとなりました。

2、弁護団との団結

 @ 三者の綿密な地労委対策

 弁護団と固く団結し、原告だけでなく組合関係者を交えた弁護団会議を適宜行い、会社の主張立証に対応した的確な主張・立証を綿密に行い、県労委での労働者側完全勝利命令を勝取る要因となりました。この初審での勝利命令の果す役割は重要でした。

 A 和解交渉に臨むにあたっても、事前に綿密な打合せ行い任務分担を決め、具体的に対応しました。

3、争議の早期解決を目指す方針の決定

 @、 対策会議は、争議は本人が主人公であり、解雇争議は職場復帰が基本である事を目標に追求すると共に、本人の意思を最大限尊重して原則的な闘いを進めました。

 A、対策会議は、現在の政洽情勢(労働法制改悪の動き等々)、労働界の状況、県内の複雑な事態や個人の健康状態等、情勢分析を重視して総合的な力関係を慎重に分析判断する事に努め、解決の方針を模索しました。

 B、 第三者機関である県労委の勝利命令を有効に活用し、社会的包囲の運動を強化して会社を追い詰め、中労委和解で2年1ヶ月という短期間に争議の勝利解決を果しました。

4、財政・生活対策の取り組み

  会社は、懲戒解雇という不当な攻撃で、無収入という生活上も経済的に不利な条件を突き、兵糧攻めで争議の長期化を画策しねらっていた。原告側は会社の悪質な意図に対して、財政・生活対策に取り組み長期戦も視野にいれて検討し、闘いの方針を決め打開を図ってきました。

  (1)闘争資金のカンバ・借り入れに取組む

   組合組織や善意の支援者に呼びかけてカンパ活動に取組むと共に、解決時には返済する借り入れ金を募り、団体・個人に依拠して闘争資金と本人の生活援助に充てる事ができました。

  (2)生活の保障にも取り組む

 また、「生活と健康を守る会」役員の協力を得て、争議申の生活を保障する為の生活保護の申請を行い、粘り強く行政との交渉を行なったが、厳しい受給条件に阻まれて受ける事はできませんでした。
   しかし、都営住宅家賃の減免措置等を勝取り、経済的・精神的支えを得て争議に集中出来る一定の条件整備に役立てる事ができました。

5、主 な 取 組

主な取組


Z、今 後 の 課 題

  争議は、会社を追いつめて解決しましたが、職場復帰はなりませんでした。中労委の「和解勧告」で、神奈川県労働委員会から不当労働行為の認定を受けたことについて、遺憾の意の表明と懲戒解雇を撤回させ解決金の支払いをさせ終結しました。

 これから神谷組合員の新たな人生の出発がはじまります。不当解雇争議に勝利解決したという貴重な経験と教訓を生かし、今後の生活に役立てることを期待してやみません。しかし、争議中に体調を崩した事もあり、焦らずに体調を整えてしっかりした仕事に就けるようにアドバイスをしていく必要があります。今後も、皆様の暖かいご支援を賜りますよう宜しくお願い致します。



[、 昭和メディカル神谷組合員不当解雇撤回争議勝利解決へのお礼

 08春闘勝利、平和と民主主義を守り組合員・市民の諸要求実現目指して日夜のご奮闘に敬意を表します。長い間ご支援頂きました昭和メデイカル神谷組合員不当解雇撤回争議が、二月十三日に中央労働委員会(以下「中労委」)で和解解決を致しました。
今回の中労委の和解案は、神奈川県労働委員会(以下「県労委」)の命令を尊重した『和解勧告書』が提示され、労使双方が受諾し解決に到ったものです。

  その内容は、

@ 会社は、神奈川県労働委員会の不当労働行為の認定を受けたことについて、遺憾の意を表明する。
A 神谷浩人に行った平成18年1月20日付け懲戒解雇を撤回する。
B 神谷浩人は、平成18年1月20日付けで円満退社する。
C 会社は、解決金を支払う。

 昭和メデイカル不当解雇争議は、05年8月31日から9月14日にかけて「職場でのサービス残業」を無くすためにアンケート活動をおこなったこと。
さらに、05年12月13日に東京都八王子労働基準監督署町田支署へ「サービス残業による未払い賃金の支払い」を求めて申告した事への見せしめ的報復として、06年1月20日に「職歴一部未記載、無届残業、始末書不提出」との理由で、「懲戒解雇」した事件です。

 神谷組合員と組合は、直ちに県労委へ申立を行ないましたが、07年5月30日に県労委は、昭和メデイカルサイエンス(以下「会社」)の神谷組合員不当解雇事件を、労働組合法第7条第1号及び第3号に該当する不当労働行為であると認定し、労働者完全勝利の救済命令を交付しました。会社は、県労委の命令を不服として、07年6月13日に中労委へ再審査申立を行ったものです。

  会社は、厚生労働省の認可事業として人間の血液や尿など、最新鋭の臨床検査を行い広く市民の健康と医療に関わり、社会的責任(CSR)とコンプライアンス(法令順守)が求められる企業です。
  組合と対策会議は、一日も早い争議解決をめざし、厚生労働省への要請を初めとして、職場へ支援呼びかけの門前宣伝行動、背景資本である三井住友銀行本店・横浜支店への要請を行いました。又、登記上の本社がある横浜市や主事業所のある町田市への要請、会社が加盟する社団法人日本衛生検査所協会への要請、神奈川にある昭和メデイカルと取引のある病院要請など、多くの皆様に支えられながら多彩な運動を展開してきました。

  二年一ヶ月に亘る闘いでしたが、神谷組合員は、職場に組合を造り労働者の生活と権利を守る活動に取り組み、不当に解雇されましたが、多くの皆様に励まされながら争議解決という貴重な体験を致しました。今後は、この経験を活かして未解決争議の支援や組合活動にいっそう励むものと思います。
物心両面にわたる皆様の暖かいご支援に心より厚く御礼申し上げます。
                  以 上

                                2008年2月吉日

   全日本金属情報機器労働組合神奈川地方本部 執行委員長 河原 健二

   全日本金属情報機器労働組合神奈川地方本部
                  かながわ地域支部 委員長 勝又 荘蔵

   昭和メデイカル神谷不当解雇撤回支援対策会議  議 長   庄司 幸三

         弁  護  団 ・ 三 竹 法 律 事 務 所      三竹 厚行

                       々           鈴木 英彦

                       々           石坂  想
 

民宿「青い空」


\: 【 解決へのメッセージ 】

解雇争議の解決によせて
      昭和メディカル神谷不当解雇撤回支援対策会議 議長 庄司 幸三

   組合員となって約3年、争議となってから2年を超える間、神谷組合員の生活を支
えるカンパに加え社前ビラ宣伝や各種要請への参加など、物心ともにご支援を頂き誠
に有難うございました。
 理不尽な懲戒解雇を断行した会社に反省を促し、中労委の和解斡旋で和解が成立
し、解決することが出来ましたことを皆様に心より厚く御礼を申し上げます。JMIUの組
織拡大推進の一翼を担う一人として、産別の壁を越えた職場で新たな組合員が仲間
になった喜びは今も記憶に残ります。
  しかし、残念な事に程なく事件が発生し争議に発展しました、未組織からの組織化
に力を入れていた事もあり、組合員の教育も大変重要であることを、再認識したことを
記憶しています。

  規制緩和のもと進められてきた結果、現在進行形でワーキングプアや格差社会が
問題となっています。無権利状態に置かれ、健康を損なうほど長時間労働を強いられ
る社会になっています。神谷争議は、労働者のあたりまえの権利を主張したことが、争
議に至った事例でありました。
  労働者があたりまえに暮せる賃金や、労働条件を主張できる職場環境が大切です。
神谷組合員のようにあたりまえの主張をして、生活の基盤を奪われる状況は健全であ
るはずがありません。労働者が権利や地位を守る闘いに立ち上がるとき、皆様ととも
にJMIUがいつも併走している組合でありたいと思います。神谷組合員も争議が解決
したとはいえ、今後の方向が決まるまで、暖かく見守って頂きたくお願いいたします。
最後に皆様のますますのご活躍をお祈りいたします。


昭和メディカルサイエンス争議の勝利解決にあたって
                           弁護士 三竹 厚行

  従業員数百人規模の会社に現れた、たった一人の組合員に対し、会社が処分を連
発して解雇したこの事件は、典型的な組合つぶし事例でした。実際には組合と神谷組
合員が追求した低賃金・サービス残業の実態暴露を恐れて会社が解雇したことを、労
働委員会の場で追求し、県労委勝利命令に続き中労委で組合主張を正当とする和解
に至りました。

 従業員を低労働条件で稼働させている点で昭和メディカルサイエンスは偽装請負や
名目的管理者問題と同様の問題を抱えています。
 今回の解決は、会社がまさに恐れたように、組合活動の展開によって職場が変わり
得ることを示しました。
 会社は、労働条件改善を提言する者を会社運営の妨害者として排除することは許さ
ないこと、それは会社の建設的発展を妨げることを学ぶべきです。
 今回の解決は労働委員会闘争や諸行動に結集された皆さんの団結力と、神谷さん
の奮闘に、心から敬意を表します。


不当解雇をはねかえした勝利、おめでとう!
             全日本金属情報機器労働組合(JMlU)
                    中央執行委員長 生熊 茂美

 神谷さん、不当解雇に屈せずにたたかいぬいての勝利解決、本当におめでとうご
ざいます。そして、ご苦労さまでした。また、たたかいを支援していただいたすべての
仲間のみなさんに、心からお礼を申し上げます。
 神谷さんは、昭和メディカルで労働組合づくりをすすめていたとき、会社から「組
合づくり」をつぶす目的で解雇されました。
典型的な不当労働行為による解雇です。それから2年余り、生活困難もふくめて犬
変な苦労があったでしょう。「会社の解雇は間違っている」、「こんな不当なことは認
められない」とがんばってきたのだと思います。

  労働争議は、始まったときの「許せない」という怒りが持続するかどうかが、勝利
への分かれ道になると思います。もちろん、周囲に支援してくれる仲聞かいなけれ
ば持続できるはずがありません。
 神谷さんも、労働者の連帯をつかんだと思います。これからも、この経験を力にし
てがんばりましょう。


神谷さん解決おめでとう!
             JMlUかながわ地域支部 委員長 勝又 荘蔵

 会社のサービス残業の蔓延と、働いている人達の無権利状態を、何とかしなけれ
ばの思いを胸に労働組合に加入をして、一から勉強を始めたことに敬意を表します。
会社け、神谷さんの、良心と勇気ある行動に牙をむき出して挑戦して来ました。
職場での、アンケート活動に端を発して、会社は、監槐カメラで神谷さんを突き止め
てから、執拗に就業中に呼び出して、労働組合への加入について、追求をし、嫌が
らせを始めました。

 団体交渉を通じて、粘り強く会社を追い込んできました。特にサービス残業につい
ては、労働基準監督署に申告をして、会社への立ち入り調査で他の労働者への支
払いや改善など、多くの成果をあげることが出来ました。
  これらの動きに危機感をもった会社は、懲戒解雇という手段をとりました。かなが
わ地城支部にとっても、結成以来、初めての懲戒解雇撤回の闘いになりました。
神奈川県労働委員会での労働者救済の完全勝利命令、そして、中央労働委員会で
果敢に頑張りました。中労委で見事に県労委の命令を尊重した「和解勧告書」が提
示され、会社へ遺憾の意を表明させました。
 神谷さんにとっては、貴重な経験になったと思います。今後の活躍に期待します。


決してあきらめない労働組合のネバリ強さに敬服
                   神奈川争議団共闘会議 議長 城閣 良幸

 神谷さんが神奈川争議団共闘会議に加盟したのは、2006年2月の第28回総会
の場てした。早速解雇撤回の「決議文」を採択しました。
 この後、3月に神奈川県労働委員会へ不当労働行為で申立、翌年5月30日に完
全勝利命令、今年2月13日に中労委での解決と争議団に加盟して2年の解決です。
解雇後すぐに開始した社前宣伝を通して、配布体制や宣伝方法などを強化しながら
も、やはり継続は力なりと感じました。

地域宣伝や業界団体、病院関係への要請など、的確に早い対応に、さすがJMIUと
感心しました。
  しかし、一人争議の大変さから、体調を崩しながらの闘いでした。このハンディを
労働組合や支援者が、ネバリ強くカバーして闘ったからこそ勝ち取った勝利と思いま
す。神谷さんは、まず健康を取り戻して一日も早く仲間と合流できるよう頑張って下
さい。


]:【 役員のメッセージ 】

早期の解決、けれども長くもあったこの2年!
      支援対策会議 副議長(JMIU神奈川地本書記長) 鵜養  孝

 おめでとうございます。本格的解雇争議で2年は「早期」です。 とはいえ当事者
や家族にとっては、糧道を断たれ、見るも聞くもすべて初めての「ひとり争議」。
さぞかしストレスかたまる長い時間だったでしょう。
 私は、この争議であらためて資本の傲慢さを痛感しました。サービス残業など、専
横の限りを尽くし、意に沿わなければ「全財産をかけても潰せ」と言ってはばからな
い。こんな職場がまだまだいっぱいあるのですね。

 こんな攻撃を早期に跳ね返す事ができた要因一私は、3つをあげます。第1は本
人の怒り。第2はいち早い行動と体制づくり。第3はねばり強い門前行動の継続。こ
れらで一矢報いることができたのではないでしょうか。
 ところで、これからあの頑迷な職場を変えるには何が必要なのでしょうか?
何故、今回は解雇争議になってしまったのか? してしまったのか?
私たちの課題は尽きません。


パワーの強さを感じた、あっという間の二年間でした!
        支援対策会議 副議長(町田地区労幹事) 浅野 正男

 昭和メディカル勝利解決報告集会が終わって、今思うとあっという間の二年間です
が、いろんなことが思い出され、いろんな場面でいろんな人達のいろんな考えや、い
ろんな意見が出され、最良の策を討議し採用し、それぞれがそれぞれの動ける範囲
で精一杯活動して早期の解決に持って行けたことについて、JMlUかながわ地域支
部を中心とした昭和メディカル支援対策会議の、どこまでもあきらめずに強く進んで
いくパワーに組合の強さを私自身が強く感じました。

 私自身の為にも、これを機会にJMlUかながわ地域支部の皆さんと交流を深めて
いき、少しでも自分の強さをプラスなるようにしたいと思っております。
そして元気な神谷さんと活動を共にできることを願っております。


主張を変たり弁護士を差し替えても
            不当労働行為は明確に断罪されました!
     支援対策会議 事務局長(かながわ地域支部副委員長)斎藤 正人

  会社は、神奈川県労委で経歴詐称と主張しましたが、県労委から不当労働行為
と認定され労働者完全勝利の『救済命令』が交付されました。
 会社は、この命令を不服として中労委へ再審査申立し、弁護士を差し替え主張も
就業規則に切り替えてきました。
しかし、中労委からは「県労委の命令」を尊重した『和解勧告書』が提示され会社も
受諾せざるを得ませんでした。
 会社は、厚生労働省の認可事業として人間の血液や尿など、最新鋭の医療機器で
臨床検査を行い広く市民の健康と医療に深く関わり社会的責任(CSR)とコンプライ
アンス(法令遵守)を求められる企業であり見せしめ的解雇は許されない行為です。

 社会的包囲の闘いで特筆すべきは、昭和メディカルとの取引先のある神奈川の病
院要請だったと思います。多くの病院から会社へ「懲戒解雇は不幸なことであり一日
も早く解決するように」との要請が相次ぎました。
 支援対策会議に、JMlU以外の争議の経験豊かな方々に入っていただき幅広く議
論し多彩な運動を継続的に展開できたことです。
 多くの団体や個人の皆様に支えられながらの勝利解決だったと思います。
心から厚く御礼申し上げます。


結成6年、地域支部にとって初めての本格的な争議
       支援対策会議 事務局次長
             (JMlUかながわ地域支部書記長) 鈴木 孝之

  職場復帰にはいたりませんでしたが、丸2年の闘いで解決出来たことに心から
感謝しています。特に「一人でも誰でも入れる労働組合」として6年目、本格的に争
議をたたかったことの意義は大きいと思います。未組織労働者の「組合づくり」は、
時には争議も避けられません。そんな時、JMlUと地域の「共闘」づくりが不可欠で
す。こうした点て、昭和メデ不カル争議は貴重な教訓をつくることが出来たと考えて
います。


新しい発展方向を示した神谷争議
    支援対策会議 事務局次長(元NKK京浜OB) 篠崎 節男

 この争議には、地理的条件から事件が起きた翌日から就労闘争に駆けつけ、当初か
ら関わりをもってきました。
 神谷争議が恵まれていたのは、解雇以前から争議経験豊富な組合役員が相談にの
り、適切に対応して神奈川県労委での完全勝利命令を勝取った事が重要でした。更に、
従来の組合争議の枠に止まらず、外部から広く人材を迎えて対策会議を結成し、県労
委命令を活用し運動の広がりをつくって闘い、会社を社会的に包囲し追い詰めました。
それが、中労委の職権和解で、2年1ヶ月という短期間での勝利解決に繋がりました。

  この争議は、組合組織が中心となり、他団体や善意の個人が結集し大きな支援の輪
となり、困難な一人解雇争議を支え勝利した実績は、従来の組合争議に新たな発展方
向を示したと言えます。本人は、厳しい闘いの中で貴重な体験をし、教訓を学んだと思
います。今後の人生に活かしていくことを願ってやみません。


争議の教訓を活かしてください!
        支援対策会議 事務局次長(フジイ支部書記長) 佐瀬 和雄

 神谷さんとの出会いは、町田地区労での労働相談から面談し、医療関係の臨床職
場でサービス残業、労働条件など職場をよくしたいとの相談でした。地域支部の斎藤
さんと二人で面談して、即、JMlUに加入。そして月2〜3回の教科書(JMlUの労働
組合テキスト)の学習と職場のことなど一杯飲みながら話し合ってきました。

 アンケート活動を行ったことで、会社は違法であると解雇し争議が始まり、団交・神
奈川県労働委具会への申立・社前宣伝・各要請行動をおこなうなかで、勝利命令をう
けましたが、さらに中央労働委員会へのたたかいの展開で和解成立で解決しました。
 この2年間は、生活面や精神的に厳しいなかのたたかいでしたが、神谷さん自身も
よく頑張ったと思います。
 争議の解決は仲間の大きな支援の輪と力によるもので心から御礼を申し上げます
とともに、この教訓をさらに活かしてほしいです。


神谷さん、争議解決おめでとうございます!
        支援対策会議 事務局員(小田急OB) 橋本 正次

  今、実態のない管理職、アルバイトを請負契約として残業手当を支払わないと事業
主を訴える労働者が出ています。また、予算がつかなくなったため文化財発掘が中止
になり、自治体からの委託を受けた研究所が雇い入れたばかりの労働者を解雇予告
なしに解雇した等、労働者の法律が無きがごとき風潮の中で、オーナー企業で労働者
の権利である残業手当の足きりを訴えて闘いを起こした事は、職場の中に大きな勇気
を与えたことと思います。

  和解で会社が、神谷さんの全面勝利の神奈川県労働委員会命令の不当労働行為
認定を認めさせた事は、神谷さん補佐人をはじめ多くの支援者の粘り強い闘いの結果
と思います。これらの素晴らしい財産を糧にして、これからも体調に留意して、頑張っ
ている仲間に力を貸してください。


平成20年は、神谷君の改革の年!
      支援対策会議 事務局員
               (かながわ地域支部副委員長) 鶴岡 和正

  昭和の時代が終わり平成も早20年となった。昭和20年といえば敗戦という大き
な痛手と多くの教訓を残し、人々が自由と民主主義を掲げ、果敢に命と生活を守るた
めに廃墟から立ち上がった年でもある。焼け跡から再出発し「三種の神器」と称され
た電化製品が家庭に出回り「1億総中流」と呼ばれる経済大国となった。

 しかし、その後は経済の豊かさの中に空洞化と格差の拡大という歪みを生み出して
いった。今ワーキングプァーやネットカフェ一に象徴されるように命と生活が脅かされ
る時代となっている。そんな中、昭和メディカルの神谷君は果敢に自分の生活を守る
為、また働く人の生活向上の為に組合結成に立ち向かったのであろう。昭和メディカ
ルとの闘いは終わったが新たな平成の幕開けに立ち上がって欲しい。
平成20年を国民改革の年にするために。


いまの時代背景を的確に捉えた闘いの勝利!
       支援対策会議 事務局員(かながわ地域支部執行委員)出口 勝利

 解決おめでとうございます。神谷さんの懲戒解雇撤回闘争は、これまで政府財界
が進めてきた労働法制改悪と一体となった厳しい闘いであったと思います。
人としての常識が雇用関係においては、まったく通用しないため、いくら社会常識を
訴えても聞く耳持たぬ、という経営手法には呆れてしまいます。

 それは、明らかに戦前を思わせるものでもあります。その意味において私たちは、
今の時代背景を的確に捉えることなく勝利は導けないと確信しています。
神谷さんは解雇と言う中で生活苦との闘いもあり、二重の苦しい闘いです。そして、
それが募れば募るほど時代認識を正しく捉えなければ自身も負けてしまいます。
 本人も、お母さんも、支援者も「働く人々の生活を護る」という共通の闘いに団結
できた事が勝利和解を勝ち取ることができた、一番の要因ではないでしょうか。
本当によかったと思います。


支援する仲間に恵まれ学ぶことの多かった勝利解決でした!
      支援対策会議 事務局員(神厚労・副委員長) 糸島スミ子

  相模労連に神谷さんが支援要請の挨拶に見えられ、2006年3月31日、町田市
民ホールで聞かれた「昭和メディカル神谷不当解雇撤回支援対策会議結成総会」に
27団体48名の参加者のひとりとして出席しました。

 この時から私の楽しい支援活動が始まった。支援する仲間に恵まれ天気にも恵ま
れて、私の変則勤務が幸いし、門前ビラ配布や平日の要請行動にも度々参加するこ
とが出来ました。懲戒解雇から県労委での勝利、中労委の和解解決まで2年1ヶ月。
仕事の合間の気分転換にもなり、本当の争議を闘って来た、魅力ある人に学ぶ事も
出来た勝利解決でした。ありがとうございました。


  おめでとう!
          支援対策会議事務局員
        (JMIU千代田化工支部書記長) 木戸 篤

  神谷さん、勝利解決おめでとう。初めての経験で、しかも一人争議なので天変だ
ったことと思います。よく頑張りましたね。
 力ずくで君を職場から放り出した会社に、「不当労働行為があった」と労働委員会
命令を認定させ、会社に「遺憾の意を表明する」と言わせたことで、気を晴らすこと
はできたと思います。職場復帰は叶わなかったけれども、たった一人の闘いとして
は明確な勝利だと思います。

 多くの支撰者に手弁当で支えてもらったことへの感謝を大事にして下さい。この2
年間闘い抜いて得た貴重な経験を今後も活かして下さい。新たな飛躍を願っていま
す。おめでとうございました。


闘って得た仲間
       支援対策会議 事務局員(元臨港バス争議) 鈴木 哲夫

 関係者の皆さん争議解決おめでとうございます。
浩人君おめでとう。最高の結果だと思う、自分のこと以上に嬉しかった。中労委で解
決しましたと聞いたときには、鳥肌が立ち武者震いしたことを思い出します。
 私か6年半闘って成し得なかったことを、2年1ヶ月程で一人争議を、この高いレべ
ルでの立派な解決をした。素晴らしいことです。
首を切られ放り出されて泣き寝入りする人達が多いなかで、神谷争議の闘いに参加
した仲間の力を忘れてはならないと思う。

 私は、高いレベルの解決ではなかったが、役員の皆さんと支援の仲間への感謝の
心を忘れたことはない。だから支援に行く、仲間に逢いに行く。
浩人君が、その心と気持ちをいつまでも持ち続けてほしいと思う。一人ではない仲間
がいるんだと気持ちを変えて気分を変えて、今後もニッコリ笑った顔を見せてほしい。
はんとうに嬉しい心からおめでとう。 頑張れ浩人!


そば屋の息子の連帯感で力強く支援!
         支援対策会議 事務局員(元東芝争議団) 五十嵐 努

  神谷さん、そしてお母さん、勝利解決おめでとうございます。神谷さんが争議を始
めてすぐに、争議の経過や神谷さんの家族の状況を聞いたところ「家は中華そば屋
をやってます」ということでした。私の実家も「中華そば屋」をやっていたので、「よし!
そば屋の息子の連帯感で全面的に支援するから」と約束し、その後、支援対策会議
の事務局メンバーになりました。

 この中で、自分白身の争議では体験できない貴重な体験も数多くさせてもらい、今
後の自分の職場活動にも活きる収穫を得ました。ありがとうございました。
 2年余りの短い期間で勝利解決できたのは、継続的に運動で会社を追い込んでき
た支援対策会議と支援の皆さんの力があったからだと思います。
ありがとうございました。


闘い抜いたヒロンドに乾杯!
          支援対策会議 事務局員
            (明るい日立の職場をつくる会事務局長) 関 知男

  ヒロンド、理不尽な経営者との闘いでの勝利、本当におめでとう。
神谷浩人、誰も「ヒロンド」と読むとは思えない名前のため、人の名前を覚えること
が苦手な私でも、一度聞いただけで印象に残りました。
 JMlUの一員として神奈川争議団で闘うヒロンド。明日の会で担当になってから、
何とか勝たせたいと、せっせと会社の門前宣伝などに駆けつけた私にとって、闘い
抜いたヒロンドのこの大きな成果は、本当に極上の贈り物です。

 労働者を犠牲にする経営者に立ち向かう勇気を待ったヒロンドにとって、経営者
との闘いは簡単ではないこと、でも、闘い方を工夫すれば充分に闘えることが、こ
の闘いでわかったのではないでしょうか。
  この闘いで学んだことは、ヒロンドのこれからの人生で必ず活かされると、私は
信じています。一緒に闘い抜いた仲間と、これからも共に歩んでいきましょう。


昭和メディカル不当解雇争議へのご支援ありがとうございました

                           神谷 浩人

 今年2月13日、中央労働委員会での第3回和解で「和解勧告書」が提示され労使
双方が受諾し解決致しました。
 2年1力月の闘いの中、臆病な私を支え続けていただいた皆様方への感謝の気持
ちは、うれしさ極まり感激のあまり言葉では言い表せないほどです。
途中で、体調を崩し、皆様にご迷惑をお掛け致しました。お詫び致します。

 昭和メディカルの門前宣伝では、猛暑だったり極寒のなか会社に対して、不当解、
を撤回させるため多くの支援者の声援が集まりました。また、厚生労働省や関係自
治体、背景資本への要請、さらに、関連医療機関への要請を粘り強く取り組むこと
ができ、早期解決になったと思います。

  争議解決を、年老いた母が一番喜んでくれました。これも、すべて皆さんの暖かい
ご支援のおかけと思っております。本当に有り難う御座いました。
  残念ながら、職場へは戻れませんでしたが、また、別の闘いを基に、これからも一
層心と体を磨きあげたいと思っています。
 最後までのご支援に心から感謝申し上げます。


神谷君

     支援対策会議結成総会で支援を訴える 神谷 浩人君




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