ボランティア

4、明るく働ける職場要求実現を目指す方向性

   1960年のこの年は、安保条約10年期限の改定に当たる年で、安保条約改定反対闘争が盛り上がり、「60年安保闘争」といわれる大闘争が闘われた年です。社会党・共産党・総評など134団体が参加し「安保改訂阻止国民会議」が結成され、全国700ヶ所で集会が開かれるなど、地方組織も確立され、文字通り国民的な大闘争に発展していきました。当時の首相は岸信介氏であり、国会のテレビ中継が始まった年でもあります。安保条約改定の国民的大闘争は、今で言えば3・11東日本大震災で東北3県が津波に襲われ、東電福島原発が爆発し制御不能に陥り、日本国民が注目するに匹敵する大事件であった筈であるが、未だ若干17〜18歳の時で、晩生であった私の関心は薄く、ただ眺めているだけで過ごしていたというのが実態でした。

 しかし、6月15日、起きるべきして事件が起きました。全学連主流派が衆議院南通用門から国会へ突入して警官隊と衝突、東大生であり過激派の樺美智子が圧死するという事件が起きました。これを機に自民党政府や警官隊に対する国民やマスコミの批判は高まりました。しかし、33万人のデモ隊が議事堂を包囲する中、国会では安保条約の継続を強行可決し、岸信介首相が責任をとって辞任する筋書きで国民の怒りを沈静化し、全国民を巻き込んで闘われた60年安保闘争は幕を閉じました。後に、樺美智子事件は、政府中枢の指示のもと警察と右翼の田中清玄らが周到に準備し仕組んだ策謀であった事が、詳細に明らかになりました。こうした事件が、視覚を通しテレビで放映されるにつけ、自然と関心は呼び覚まされ、ただ眺めているだけでは済まされない意識的変革が、心の内部で生じたのは自然の摂理と言えるであろう。

 職場では、当然な要求や皆の為にと発言したり、改善要求を出しても、中々取り上げてくれません。予算が無いとか時期が早いとか、何かと理由を付けて拒否します。反面、事故でも起きたり、儲けに関わることであれば、直ぐに大金を注ぎ込むのに、何故か下からの職場要求は中々実現しません。しかし、私が提案したり要求した案件は、5年か10年後には、組合か会社自身が取り上げ実現しています。この事実は、私の要求が正しく先見性があり過ぎて、会社やの上司や周囲の人達には、理解し難かったものと思えます。

 そうした会社生活や社会の動向にも目を向け関心を持ち、自然と政治にも目を向けるようになっていきます。当たり前な事が潰され、道理が通らない。同じような問題意識を持つ同僚が職場に存在していることが分かり、勉強しなければ世の中の仕組みは理解できないと、二人で「資本論」を購入して勉強を始めました。製鉄所で働いている関係から鉄に類した例になるが、鋭くても一本の針や釘では折れたり余り力にはならない、数多く寄せ集めれば槍にもなる。釘一本では敵わなくても、槍を持てば猛獣にも対抗出来るし勝てるかも知れない。私の頭の中で、数多くの人が集まり団結する、同じ方向で要求を出して迫れば大きな力となり、相手を譲歩させ要求は実現するし勝てる。こうした方向へ自分の考えが傾き醸成され、徐々に集約され確信になっていくのが自覚できました。


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