ボランティア

23、神奈川の巌窟王健在なりしか

   ー気工社中村松雄氏の中小労働運動と裏面史ー

       (1959年〜1985年    26 年)


                  === ま え が き ===

 物事は先ず足元を固める事から始めねばならない。建物も土台をしっかり固めず、上物だけ立派な豪邸を建てたとしても砂上の楼閣となり、地震や風雪には耐え難くすぐに崩壊してしまう。私が自らが所属し、人生の大半を過ごした職場を安全で明るく働ける雰囲気づくり、職場闘争を基礎として、職場に自由と民主主義を確立して皆が自由に物言える環境を整備する。そして労働者の要求を取り上げ実現し労働条件を向上する、そうした活動を実践し、一定の成果を勝ち取ってきた経過は既に述べてきた通りである。同時に、企業や産業は違っても、経営者の横暴で不当解雇された労働者の職場復帰の闘いの支援、思想信条や労働組合運動を理由とした憲法違反の不当差別を撤廃する争議に深く関わり、労働者の連帯で協力してきた経緯の一部も述べてきた。こうした正義の闘いの中で自らを省みず、我が事として献身的に支援し闘う優れた労働者の存在をも多数見聞してきた。そうした仲間と連帯し共に闘ってきた歴史を有している。

  私が若かりし頃、文学青年として過ごした経緯も既に記載してきた通り、白樺派の武者小路実篤作品は相当数読んでいる。氏は公家の出身で学習院と東京帝国大学で学んでいるが、進歩的で空想的社会主義、理想的な調和社会「新しき村」を建設、実験し作品にもして発表している。
 以下文中に現れるように、中村氏は資本主義体制の中に在って、マルクス経済学を具現しようとするユニークな経営者と出会い、労使一体となって新しい企業の経営形態を模索するという、希有で貴重な体験をしてきている。言葉だけの労使対等ではなく、実際に労働運動のなかで体験してきた希少な存在であり、それが氏の運動の基本に据わっているところに、揺るぎない先進的な運動論が伺える。

 1973年4月、憲法違反の思想信条による差別を撤廃する、日本鋼管人権裁判が日本で最初に提訴され、私も35人の原告の一人として加わり、神奈川争議団共闘会議へ加盟した時、副議長として最初に鋼管から派遣され活動している。中村氏が78年に神奈川争議団副議長に就任しているので、同時期に神奈川を拠点に、全国を飛び廻り共に闘ってきている。併せて、鋼管資本・日本鋳造が気工社を買収した関係で、「鋼管関連争議団共闘」関連4争議団を二人が中心になって組織し、同じ相手である鋼管資本を社会的に包囲する行動を組み共闘してきた、36年来の古き戦友でもある。

 そうした中で多くの優れた仲間に遭遇しているがその中でも、一貫して京浜工業地帯で働き、労働運動一筋に生き、その為経営資本に睨まれ一人で何回も解雇や苦汁を飲まされ、家族を犠牲にしても、めげずに闘い続けた闘士、神奈川の労働運動・労働争議史を記すについては、この人の存在を抜にしては語れないであろう神奈川の巌窟王、中村松雄氏の存在を紹介しておかなければならない。HPに掲載するに当たり、著作権の関係で本人の了解を得、長文の投稿を頂いたので、私なりに編集しその一部を掲載したい。ただ予めお断りしておきたいのは、一争議の報告ではなく一人の人間の”生きざま”の歴史であり、企業形態の違いなども可能な限り明らかにしておく関係から、従来の争議報告の記載とは大分ニュアンスが異なるので、その旨ご承知おき頂き解読を願いたい。


                     ☆       ☆       ☆



           目    次

     T: は じ め に

     U: 体で覚えた我が労働運動の遍歴
            日機装解雇事件争議・・・ 陳  述  書

     V: 気工社のたたかい
            新たな人生の再出発を目指して

          1)気工社求人広告
          2)気工社労使の歩みと歴史
         3)羽田工場閉鎖、藤沢移転闘争

     W: 倒産と並ぶ歴史的転換・茂木社長の辞任

          1)社長交替と組合の取組み
         2)社長交替とその背景についての個人的評価

     X: 気工社での業務と配転解雇の経過

     Y: 鉄鋼独占日本鋼管・日本鋳造との倒産闘争

     Z: 神奈中対策と団交対策に於ける個人的信頼関係

     [: ――わたしと労働組合――中村夫人

     \: 団地自治会結成の経過

     ]: JMIU気工社支部の沿革

     11: 気工社40年目の懇親会

      12: 中村松雄氏の労働運動・他略歴


T:はじめに

中村ー1
 私の出生は、四国・宇和島の片田舎、半農・半漁の小さな村である。9人兄弟の3番目、物心付いてからは、自由奔放に育てられ生きてきた思いがする。兄弟のうち、上級の高校へは、長兄が漁業協同組合で事務員の仕事で働き、その稼ぎの恩恵で初めて進学することが出来た。高校時代は、学生寮や町の小学校の校長の住宅に転がり込み校長と二人での同居・町の下宿屋等々、その場の成り行きで風の吹くまま気の向くままに、青春を謳歌し3年間の高校生活を満喫してきた。
 その工業高校で、出会った吹田先生(東工大・後に茨城大工学部長)の紹介で、当時は朝鮮動乱の景気が消滅し雇用問題は最悪の状況であったが、神奈川県横浜市・東神奈川の東海金属に入社する事が出来た。1955年・総評の春闘がスタートした年であった。 その年の暮れ、職場で鉛の盗難事件があり、新入社員であったことからであろう、県警に出頭させられ事情聴取を受けた。青年の潔癖感からであったであろうか、東工大出の課長と推薦者の吹田先生は同級生であったこと、入社受験は当初一人であったが3人が新に加わり4人が同時入社した。先生の立場を考え勤務は一心不乱に糞まじめに働いてきたが、警察に呼び出される時、課長は一言の声もかけなかった。そこに人としての課長の対応に激怒し即座に辞表をたたきつけ、会社を飛び出したてしまったのである。

 職場の友人の紹介で、大田区・六郷の自動車修理工場に住み込みで働くこととなった。その家には、高校1年生の息子がいた。高校時代の参考書を与え、少々の学習指導を手伝った思いがある。そんな関わりから、食事は食卓へ同席し家族並みに済ましたのであったが。そこでの社長の話に職人の解雇が出された。直ちに職人に報告、結果は、2人して退職することとなった。突発的な事態に、職人の家に同居することとなる。
 その後は早く独立し安定した生活を求め、職安を通じて3箇所ほど旋盤工場の職場を変えた。1956年、大田区・六郷の不二家電機に旋盤の臨時工で入社。同時期に入社した同じ旋盤工のFさんが、何でか理由も分からず解雇になった。同時に病気入院するにいたり、十数人の旋盤職場で課長を含めて見舞金を募り届けた。そこで、初めてFさんが共産党員であったことから臨時工を解雇となったことを知った。彼を通じて、地域うたごえサークルに参加していた。会社は見舞金騒ぎをきっかけに、私を旋盤職場から、購買課・事務職への配転を命令してきた。この頃は未だ、会社のこうした策動に何の疑問も違和感も持たなかったのであった。若い女性が多い職場で、昼休みには六郷土手へ行って歌を唄う機会があった。そこで、みんなを集めることを模索し、事務職であったことから、集まりの会場を中村の名前で会社に申請し確保した。結果は、臨時契約1年を期限として解雇となった。それでも未だこうした行為が、会社の意図的な攻撃であるとの疑問や認識を持つ感覚は更々なく、至って純朴な青年であった。しかし、食いつなぎのため、またまた職安から紹介され新たな旋盤職場へ移る事となつた。


U:体で覚えた我が労働運動の遍歴

   日機装解雇事件争議

 うたごえサークルの仲間の紹介で1957(S32)年、、日機装の鋳造鋳型の下請け会社の息子が社長の親父に依頼し、渋谷の日機装に仕上げ工として入社することになった。この7月に共産党・居住細胞に入党・職場組織に移籍した。そこには、東大・全学連運動に関わった者3人・東京都の民主青年同盟書記長がいた。ここで初めて組織として本格的な労働組合との関わりが始まることになる。1959年企業内組合を結成し、書記長の任に納まった。しかし、会社の攻撃で、民青書記長が懲戒解雇となり、東大3人グループは早々に離反し組合は消滅した。解雇者・民青書記長と中村二人で裁判闘争を闘い取り組んできた。
 1961(S36)年、2年余の闘いの中で、再度全国金属日機装支部・組合を結成し委員長となるも、結成前日に大阪配転を受け、2ヶ月の闘争の結果、委員長を辞任・大阪へ6ヶ月の長期出張で妥協した。翌年、帰京と同時に、1962(S37)年10月、九州営業所配転を拒否して懲戒解雇、裁判闘争となったのである。
 1963(S38)年・日機装裁判和解解決。
日機装裁判で法廷に提出した陳述書は、65年日機装労組で13名の指名解雇事件で、元委員長としての陳述書である(気工社連合会書記長のころ)。  以下、闘いの経過を簡単に述べたておきたいが、日機装事件では会社との対応を陳述書でつぶさに正確に記述してきた。随所に会社役員や顧問弁護士などから呼び出されて、酒場に誘われたり見聞した個人的対応からの事実記述で、相手から呼び出された対応を、事実に基づいて記述している内容である。それは、組合幹部を解雇したり”取り込んだり”の企業が行う”アメとムチ”の常套手段の攻撃で、日機装事件では会社との対応を陳述書でつぶさに記述した。それは、会社幹部から呼び出されて対応した事実の記載である。しかし、これらの事実は、こちらから相手に対してアクションをかけた事は一度も無いことは、賢明な皆さんには理解して頂けると思う。資本や企業に取り込まれてしまえば、現在の私の存在は無いでしょう。労働者の立場を堅持し、まともな労働運動を長期に持続すると言うことは、それ程厳しく難しいことでもあるわけです。

               陳  述  書
 
                                 中 村 松 雄
1、日機装における経歴

  1957(S32)年10月        組立仕上工として入社
  1959(S34)年03月       特殊ポンプ労組を結成して書記長となる<
     〃      05月       S執行委員(民青東京都書記長)解雇により二人で身分保全のた
                      め法廷で争うことになる。
                         (一審勝訴・会社は控訴・裁判継続)
            10月       組立工よりサービス要員として配置転換を受ける工場部門は
                      東村山に移転、以降本社機械部・計装部の
                       サービス係として出張要員となる。
   1961(S36)年08月25日   大阪営業所への配転命令が出される
      〃      08月26日   全金日機装支部を結成、委員長となる
     〃       10月28日   同委員長を辞任、大阪営業所へ6ヶ月間長期出張
                       を命ぜられ
   1962(S37)年03月31日   渋谷・本社計装部サービ課に配転
      〃       05月       計装部業務課に配転
      〃       09月28日     九州営業所に配転命令が出される
      〃      10月12日    配転拒否と業務命令違反で懲戒解雇をされ、
                              直ちに貴地裁へ裁判提訴する
    1963(S38)年10月       右争いは和解をもって解決する

2、特殊ポンプ労組の経過

 1958(S33)年12月頃からS(民青東京都書記長)・S(東大・全学連)・T(東大・全学連)・中村などで組合結成の準備会を作り、1959(S34)年3月21日、特殊ポンプ労組を結成致しました。委員長にS、副委員長にK、書記長に私がなりました。執行委員は、S、H、K、T、H、K、Mを選び待遇改善のため直ちに団体交渉を申し入れました。会社は、社長が米国出張を理由として組合を認めようとしませんでした。社長帰社と共に会社は、組合破壊を目的として社長命として終業後に全組合員を招集する指示をしてきました。
 私たち組合は、就業時間外のため執行委員だけが参加して団交を計画しましたが、一部職場では、職制の圧力によって参加するようになったため全員参加を決め会場に臨みました。会社は、会場にテープレコーダーを用意して私たちの発言に圧力を加えてきました。予定の集合時間には殆ど集まりましたが、現場の組合員は殆ど集まっていなかったため、製造課長であった伊藤氏がS君に対して「みんなを呼んでこい」と言いました。それに対してS君は「来るか来ないかは各人の自由であり、そのうち来るでしょう」と答えました。集会は、そのまま続けられました。
 翌日5月23日、酒井部長、伊藤・管野課長にS君は呼び出され、前記答弁を業務命令違反として懲戒解雇になりました。組合は、直ちに解雇反対の行動を組もうと致しましたが、会社は職制を通して役員・組合員を問わず個別攻撃を執拗にやってきました。営業部にいたK副委員長は耐えられず自己退職することになりました。このようなことがあってから組合は消滅し、S君と私二人で解雇撤回のため裁判で争うことになりました。

3、全金日機装支部結成の経過と大阪配転

  私は、特殊ポンプ労組の経験から、工場(東村山)を中心として再び労働組合の結成を計画し、1960(S35)年末から具体的準備を始めました。S・Mと私の三人が中心となり、1961(S36)年正月、第一回の準備会を持ち系統的に学習・組織活動を進めていきました。1961(S36)年6月、大沢部長から大阪営業所へ転勤しないかと話があり、理由として、独身であること、出身地が四国のため実家に近くなり身軽だから行けと言うことであった。私は、前記の様に組合結成を準備中であるためと8月に結婚を予定しているため単に「行きたくないので断わります」と答えたところ、理由がはっきりしないと困ると言うことでしたので、8月に結婚することを告げ、さらに共稼ぎ(保母)をするため大阪では困ると拒否の理由を出すと、大沢部長は、姉が大阪で保育園をやっているため保母の勤口を探してみると言ってきましたが、この配置転換の話は、以降全然なしのつぶてで立ち消えになりました。
 8月13日から19日まで私は、結婚のため会社を休みました。結婚のための休暇は、式に2日取っただけで、後は組合結成大会の準備を行い、8月19日、東村山小学校で大衆的に枠を広げて準備大会を行い、その中で、8月26日、結成大会を決定致しました。

 8月25日に至り、会社は、出勤すると突然に大阪営業所への配転辞令を渡してきました。私は、配転辞令を組合結成準備会に計って討議の結果、会社の計画的な組合攻撃であるとして大会に報告することになりました。大会後直ちに会社へ組合結成の通告をすると共に団交を申し入れました。配転辞令は大会決定により返すと共に撤回するよう申し入れました。以降、賃金その他の問題について数次にわたって団体交渉を行いましたが、会社は、配転問題は中村個人のことで組合の問題ではないと団交を拒否してきました。
 職制を通じて「赤」に踊らされるなと組合員への攻撃を始めました。組合は、9月16日、会社の団交拒否に抗議し、配転撤回を要求して闘争宣言を発表しました。9月19日、遂に24時間ストライキで抗議に立ち上がりました。会社は、堀田(前大阪大講師)・竹内(東大・前執行委員)・佐藤(東大・前委員長)山本(東大・前東京電力)など各課長を通して執行委員の切り崩しを始めてきました。その結果、K・M・両君が役員辞任を執行委員会に出してきました。ストライキ当日は、及川などを中心に第二組合結成を準備して、所沢へ集まりました。私たちは、このことを事前に知ったため、組合員を配置し会社のもくろみを暴露すると共にこの計画を粉砕致しました。

 10月24日、S氏(組合員)を通して社長が個別に会いたいと言ってきました。そこで、個人的には会う必要がない、執行委員会なら会ってもよいと伝えました。最終的には、三役で会うことになり、組合側は、Y副委員長と私、会社側は、社長・茂木課長その他S氏で、渋谷の近くのレストランで会いました。社長は、配転を認めて行ってくれと言って来ました。さらに会社は弁護士の判断を聞きながらやっている。後は、懲戒委員会にかけて解雇する方針だと言って来ました。この日は、双方の主張だけで終わりましたが、会社側から弁護士に会って欲しいと言うことで、三役で相談の結果、話をしてみることにしました。この弁護士は、田平宏氏で、当時、日機装と取引のあった日本バルカーの顧問弁護士をしている人でした。

 10月25日、田平弁護士の家の近くの市川市の料亭で、会社側は、田平・社長・茂木課長と組合側は、中村・S・Yの三役で会談することになりました。田平氏は、妥協案が三つ有るとして
@委員長が配転を認めること、法律的に考えると君たちのやっていることは違法だ
A委員長配転を中止するとしても中村は委員長を辞任すること
B中村君が会社を辞めることなどの意見を出してきました。

  私たちは、配転を絶対に認めることは出来ない、解決の道は、白紙撤回しかないと主張致しました。最終的には全金本部のオルグを加えて再度話をすることになりました。10月28日、恵比寿の「一力」という料亭で、組合側は、本部オルグのN氏・K氏・と三役、会社側は、田平・社長・大沢・酒井部長などで会うことになりました。

  田平氏とN・K氏の三人で別室で相談の結果、妥協案を出してきました。
@ 会社は配転を取り消す。但し中村は6ヶ月間大阪へ長期出張をする。
A 中村は委員長を辞任し向う一年間は役員をやらない
と言うことでした。

 私たちは相談の結果オルグの意見を含めこの妥協案を受理することとし、配転問題を解決することにしました。覚書を作った後田平・茂木氏は、第二組合を作ろうとした吉田・及川など組合未加入者を是非加入させて欲しいと申し入れてきました。私たちは、拒む理由がないことを明らかにすると田平氏は、一席作り全金の説明をしてからわだかまりのないようにしたいと言って来ました。
 11月3日、田平氏が中心となって前記の料亭「一力」で非組合員に説明会を開くことになりました。会社側は、茂木人事課長・田平氏・非組合員から平木・吉田・譲原・小林・笛田が参加、組合側、S・Y・M・S、K西部地協副議長・Y本部オルグが参加、私は会議が始まると中座しました。私は、この事実経過を見ても会社が常に計画的に労働組合の破壊に手を尽くしていることが明らかだと思います。そして、非組合員を会社が組織して組合加入を進めるなど、後日生じた第二組合の目論見の一つの表れであります。私は11月4日から、翌1962(S37)年3月31日迄、大阪営業所に長期出張をいたしました。この配転問題のあと田平氏は日機装の重役として労務を中心に指導してきております。

4、九州配転命令と懲戒解雇

  私が帰京して一ヶ月後、春闘の中で会社は、計画的に民労という第二組合を作りました。1962(S37)年6月20日、全金は解散大会をもって解消しましたが、民労は、直ちに中村・S・M・Y・N・Sの名前を挙げて、組合加入を拒否する声明を各職場に張り出しました。8月頃、業務上の問題を引っかけて越権行為であると計装部長管野氏に呼び出され始末書を書かされました。その理由は、下請け会社の薬品タンクの完成検査に私が立会い上司に報告書を上げたが、営業担当から直接検査報告書を要求され、提出したことをもって越権行為としたもので、私は会社と労働組合の両側面からの圧力の中で反論したいことは多々ありましたが、やむを得ず始末書を書くことにしました。
(注:証拠のデッチアゲを絵にしたものと言えよう。ルールに従えば、検査は出荷直前の作業でありその結果により直ちに集荷することである。担当者は、検査結果を上司に報告する。上司はその結果を営業に報告し集荷される。もしも営業への報告が無ければ営業は計装部に報告書を要請することがルールの基本である。ところが営業は直接担当者・中村に検査報告書を求めてきた。そして、報告書を出したとたん越権行為となったことからみて営業が直接担当者に要請したことは、デッチアゲの証拠つくりともいえよう。事前に計装部から営業に報告があったかどうかは不明である)
 この事があってから、田平氏に呼び出されて越権行為を楯にとって、日機装はキミのいるところではない。辞めてはどうかと脅かされましたが私は無視してきました。9月28日、突然、管野部長から呼び出されて、九州営業所への配転辞令が渡されました。そして、キミは、越権行為もあるし計装部に置いておくわけにはいかない、もし配転に応じなければ辞めて貰うしかない。君は、日機装などに居るよりもっと大きな会社へ行って労働運動を専門にやった方が良いのではないか等と言われました。

 その後は、田平氏に呼ばれました。田平法律事務所に数回、新橋の朝鮮料理店へ一回、キャバレー(ウルワシ)一回、亀戸の料亭へなど数次にわたって酒を飲みながら圧力を加えられました。田平氏は、重役としてではなく法律家として君に忠告する、公平に見て君に勝ち目はない、おとなしく身を引いた方が君のためになる。会社は懲戒解雇をするといっているが、将来もあることだし私がうまく取りはからってやる。退職金を普通より増額してやる。悪いようにはしないから任せてくれ等と言ってきました。最後には、致し方ないから争うしかないと切り口上で別れました。10月10日、遂に業務命令違反で懲戒解雇になったわけです。
 私は、直ちに貴裁判所へ提訴し、1963(S38)年10月頃まで、書面準備を続けて参りました。尚、S君の事件は、会社側から高裁へ控訴し同時に争うことになりましたが、私たちの弁護士の意見・助言により2つの事件を同時和解解決することになったものです。
1967(昭和42)年12月10日の事でした。

 私は1961(36)年8月結婚し、3ヶ月も経たない新婚早々、大坂への長期出張という会社からの血も涙もない酷い仕打ちを受けました。書棚を探していると当時の妻の日記が出てきました。妻には内緒で半世紀前の日記を披露してみることにしました。当時妻には大変な苦労を掛けていた事を、後に身をもって知らされた事になります。

   1961・10・29(日)

 夜中の12時10分前・・・。久しぶりにデパートへ買い物にいき、秋・冬の毛糸ものなどを抱え込んで帰宅。美しく晴れた秋の日も暮れた。彼は、午後東村山工場へ出かけたきりまだ帰らない。考えただけでも涙がこみあげてしまう。
彼は、首にならなかった。闘争は終わり、彼の大阪転勤は取り消しになった。組合は勝ったのだ。しかし、そのかわり彼は、11月から3月まで、大阪への長期出張を命ぜられたのだ。クビになった方がよかった。どんなに遅く帰っても、どんなにお給料が安くとも、彼がそばにいて、いっしょに生活できる毎日が、私にとっての一番の幸せだったのに・・・・。
しかし、彼のクビは、同時に一緒に活動している人々のクビも引き起こすことだという。
彼に、何と諭されても、りくつを言われても、私は泣くよりしかたなかった。
クリスマスも、お正月も ああしよう こうしようとささやかながらプランを今から立てておったのにみんなおじゃん。 5ヶ月も 私は一人きりになる。
やっと闘争が終わったと思えば、今度は 離ればなれだ。考えただけで泣けてしまう。彼には悪いけど、私はどうしたって明るい気持ちにはなれない。ああ、何て嫌なことだろう。こんなに涙ばかり出て来て私は耐えていけるだろうか。

   1961・11・10(金)

 夜中の10時。昨日の夜、9時45分発の急行で彼は、とうとう大阪へ発っていった。ささやかな最後のふたりきりの晩さんをして・・・・。
組合の人たちが、にぎやかに見送ってくれた。私はそれを後ろで一人みつめていた。どうしていっしょに にこにこしていることが出来よう。組合のために、ただ組合の活動を発展させたいというそのためだけに、彼は、大阪5ヶ月出張をひきうけたのだ。彼の気持ちも、彼のやっていることも私には充分理解できる。しかし、長い冬のあいだ別れ別れになるのは私たちだ。にぎやかに見送っている人々には関係のないことだ。
結婚以来3ヶ月、ろくにゆっくり話し合うことも出来ない毎日だった。でも私は不満を抱いたりはしなかった。今度は、出張だ。あんまりにもひどい。
あかるく笑いあい、語り合っている彼の声、友人の声を背後に聞きながら、私は、泣いていた。汽車が動きだし、窓から手を振っている彼の顔をにらむようにしてみつめて・・・見えなくなると同時にあともみずにかけだした。誰とも口をききたくない。同情のことばなどかけられたくない。ひとりになりたいと。


V: 気工社のたたかい

 日機装解雇事件裁判闘争中に、大田区に在る(株)気工社に入社し、本格的に労働運動に埋没するに至るのであるが。しかし、そこでも若さと未熟さ経験不足からか、またしても配転・解雇の攻撃にさらされ14年争議を余儀なくされる事となった。闘いを通して培ってきた仲間たちに支えられ、14年ぶりに職場復帰を成し遂げ、会社倒産闘争勝利解決を経て、22年ぶりに支部委員長となった。高齢者雇用を掲げて60歳定年・65歳までの再雇用制度の協定化をなし、64歳まで、職場・現場に足がかりをつなげてきたが、無様にも65歳の最後の1年を棒に振り、またしても会社の策動の下で全うすることが出来なかった。その経過を以下記載しておきたい。


   新たな人生の再出発を目指して

 私は、人生の新たな再出発を求め、就職先を探していると、読売新聞の求人欄で募集記事を見つけその日に受験し採用となった。入社して2〜3ヶ月後の新聞で、斬新な求人広告が目にとまった。進歩的な経営方針が他の企業と全く違い、能力有る人材を求め努力して力を発揮すれば成果が認められる、新進気鋭な経営者の意気込みが伝わり、希望の持てる魅力を持った企業の特異な求人案内広告なので、以下そのまま転載し紹介しておきたい。

    (気工社の創立時の労使関係の原点とも言えるものとして記述しておきたい)

1)気工社求人広告

   朝日新聞・1963(S38)年2月4日

       進歩 を考える
       創造 を追求する
       革新 を実行する

   ― 積極的な「人」を待望しその個性と意欲を尊重する ―
 
             株式会社気工社   本社  品川区大井町
                           工場  羽田・藤沢
                         出張所  大阪・札幌・名古屋・大分

         社員募集・職種

      1:技術部門・設計・生産計画・工程管理・積算
      2:営業部門・特に各種企業で販売業務の経験のある方
      3:一般管理部門・総務・株式・人事・組織マン・経理・会計・財務マン
      4:研究開発室・機械工学の実証的研究に意欲と夢を持つ学究
      5:経営企画室・旧高専・大学卒以上の社会科学的分析綜合・応用に秀でた学究
        (中村は、この広告の2ヶ月前に入社・解雇になるまで10年間、設計見積を担当した。
          求人の技術部門の積算に該当したのかも知れない。)

         朝日新聞 38・3・14

        新体制 気工社・・フロンテイア・マン募集

  気工社は先頃 朝日新聞紙上に創設以来最大という4段抜きの広告を載せた。

    (広告文の解説)
企業広告とも求人広告ともつかぬ風変わりなものだったが直接の狙いは人員募集。
従業員220人の小型企業・ところが応募者は、一流企業の中堅技術者を含めて合計1056人。
なかには国立大学の博士課程を修めた女性もいた。
その採用試験問題が又型破り。昨今はやりの「○X式の知識のダイジェストは期待しません」とある。 第1問を見ると @過去の経歴の基本的姿勢 A同社への具体的な寄与 Bそれを裏付ける資質・経験・技能の3点を中心に“あなたのことを”3・4時間使ってお書き願いたいと言う主旨。
39才の茂木社長によると採用方法も「優秀な人がいれば無制限・いなければゼロ」と徹底している。

      気工社のご案内(社員募集・大学への案内・昭和38年頃)

                私の求める人間像

                   代表取締役社長  茂 木 健 二(39才の頃)

 主観や恣意をまじえずに「現実」をあるがままに観、事物の本質に鋭く肉薄して正確に「認識」する「冷たい頭」、現実を「変革」し社会の進歩をめざしてやまない「熱い心」。
 この二つを併せ持つことを自分の生きる基本姿勢として堅持する人間を私は他の何にもまして希求します。
この様な姿勢を持つ人間は、必ず、到達すべき目標を常に明確に持ちます。合目的的合理的な手段方法を絶えず考究します。又、自分のやっていること自分の客観的存在がどんなに小さなつつましやかなものであっても、着実に実践を積み重ねてゆきます。
克己、忍耐、勇気、沈着といったいわゆる修身的徳目や強い責任感、自主独立と協調、高度な判断力、的確な業務処理力といった倫理的徳目も、この様な姿勢を堅持する人の身につけられて初めて人間の美徳として社会的価値を発揮するのでしょう。
様々の異なる個性を持ちながらこの様な基本的姿勢で生きる人間群像がこの企業に集まり、夫々の任務を分担しながら一緒に考え一緒に行動し、自分達の力でこの企業を守り発展させ、同時に企業そのものとしても歴史の進歩に役立つ存在になろうと指向し続ける姿、それが私が求め続けるこの企業の希望像でもあります。

2)気工社労使の歩みと歴史

株式会社気工社の創立は1954年で、河川における砂利採取を自動化した自走式砂利選別掘削機械(可搬式砂利採取機)の製作販売会社として東京・大田区でスタートした。そこは労働運動の発祥の地として知られる東京南部で、金属産業の工場群、中小企業の密集する地域であり、荏原製作所、石井鉄工、日本起重機、渡辺製鋼、日本教具など全国金属の組合が群立して“全金銀座““赤旗横町”とも呼ばれた、京浜工業地帯の労働運動が華々しく闘われた所である。1960年前後の高度成長期、とりわけ建設業界の発展を背景にして気工社の経営規模は急成長を遂げ、1961年には資本金4億円で東京市場2部上場会社へと発展、最盛期には400人を超える中堅企業となった。創立者の一人茂木健二社長は、会社創立と共に中小企業家同友会の組織者、更には政府の砂利砕石など骨材資源審議会を設立する中心的役割を果たし審議委員の一人でもあった。その友人である経済評論家坂本藤良氏は「マルクス経済学を信奉する異色の経営者」と評している。

 労働組合は、1957年に企業内組合として結成し、60年安保闘争の大衆運動の高揚期の中で全国金属に加盟、反安保ストを経営者側に申し入れ2回の全面ストを成功させてきた。61年には、中小未組織労働者の組織化を掲げ、そして階級的労働運動をめざして全国金属糀谷地域支部を結成し、専従委員長を派遣する中核的役割を担ってきた。同時に、実働7時間制・時間外割り増率40%を中小企業で先駆けて労使合意を実現してきた先進的な実績を有している。

気工社藤沢工場の稼働は、1963年である。社会経済環境のもっとも激しく変動したこの時期、経営は、後発メーカーに加えて過小資本のハンデイのもとで、激甚な企業競争を背景として、65年羽田工場、68年東京本社を藤沢へ移転統合して集約するなど、さまざまな合理化施策を含めて、経営構造の急速な質的変化をなし継承してきた。
 そのもとで、労使は激しい闘争を重ねながらも、相互に独立した立場を明確にして、企業内における労働条件の決定は、すべてにわたって労使対等の立場において決定することを労使の原則として確立してきた。

    糀谷地域支部

 1961年結成された全金糀谷地域支部は、63年には1000人を越える地域支部として、地域的運動の取組において一定にその役割を果たしていた。当初大田区では、国電を挟んで、糀谷地域支部・下丸子地域支部があったが、後に大田地域支部に統合した。戦後の労働運動発祥の地と知られる大田区・糀谷では、300人500人の金属中堅企業支部が戦後の労働運動の中核となってきた歴史的経過からしても、結成したばかりの中小零細の集合体とも言える地域支部に対する地域の評価は、残念ながら、「雑魚ども」がと揶揄的に表現されたほど、全金糀谷での市民権は過少に評価されてきた。64年当時の糀谷ブロックの全国金属の支部は、渡辺、大空、鎌田鋳造、石井、日本起重機、東信鋼管、三興製鋼、磯村、教具、大谷、荏原、中外、村田など13支部があった。糀谷地域支部は、15分会であった。そうした中で、気工社分会は100をこえる分会の中核として、専従委員長を派遣してきた。

3)羽田工場閉鎖、藤沢移転闘争

 1965年当時、池田内閣の高度経済成長政策の破綻のもとで企業倒産は、毎月戦後最悪の記録を続けて、糀谷に於いても日特の倒産を初め富士川、東信鋼管、中須製作、白石金属、東洋事務機、東電機、気工社の同業の里吉、山本輸送機などの倒産が相次でいた。それぞれのたたかいの教訓は、個別の報告に任せるが、一つだけ印象深く思い出すのは、東電機と東洋事務機の倒産争議の支援、激励、そして社会的アピ−ルをめざした元旦デモである。伊藤健一区議(南葛労働運動の先駆者)も先頭にたった、支部の仲間たちはよく闘ったと思う。地域支部ならではの職場を越えた労働者の連帯した闘いであったとも言えよう。

 気工社の羽田から藤沢への移転闘争は、こうした構造的不況を背景にして、かつまた2年にわたる経常赤字の克服と資金導入の課題が経営の存続を巡る大きな争点を浮きぼりにして始まった。ちなみに、64年の年末一時金は、金額は決められたが、資金調達が出来ず、組合を介して労働金庫からの借り入れで、年末ギリギリに一時金を手にする事態にあった。これまで、独占に組みせず、どこからも財政的支配を受けず、独立的企業をめざした東証二部上場企業は、資本市場の中で資本金2億から4億に増資することで、銀行からの融資ではなく株式上場により資本を調達してきたのである。しかし、企業の生産規模の拡大と零細な砂利、砕石業界での取引は、2年3年に及ぶ割賦販売などにより資金量の増大は、その資金調達と肥大化した生産体制の新たな矛盾とともに累積する赤字体質の改善は至近の課題ともなっていた。
 しかし気工社の経営指標は、うなぎのぼりの売上高を確保し、62年度、11、8億。63年は15、2億。69年では、27、3億と急成長を遂げている。従がって、これまで一切のヒモつきがなかったが、銀行資本への依存は、きわめて重要な課題として追及されていた。具体的には、これまでのメイン銀行であった三和銀行が手を引き危機的状況にあったが、太陽銀行の導入で新たな体制整備が模索・検討され1963年竣工された藤沢新鋭工場への羽田工場移転は64年に計画された。

 当初組合は、経営の合理化遂行のための戦術程度として軽く受け流し経営実態の把握や中小企業の経営戦略の課題は軽視されてきたと言える。同時に、移転計画は、経営の側から中小企業の存亡をかけた課題として、1年前から労働組合に真正面に提起されてきたが、組合は、労働者犠牲の合理化反対のスロ−ガンを掲げるに止どまっていた。そのなかで、砕石業界の骨材生産プラントの構造、規模の変化、拡大のもとに、経営は新たに砕石機械の自社生産を藤沢工場で具体化し、その要員3名のベテランを羽田から配置転換することを組合に事前提案してきた。
組合は、すでに提起されていた羽田工場移転のためのなしくずし配転と位置付け、配転反対闘争を取り組んできた。この闘争をとおして、工場移転の闘いは、連続するたたたかいとなった。組合は、藤沢と羽田で、受入側と移転側の意見の統一が極めて困難を極めた。例えば、藤沢分会では、会社の数字を上げた計画を聞く必要はない。労働者が犠牲を被る合理化に反対するかどうかだとの論議が大勢となっていた。
 これはまた、羽田の中でも大きく二分する争点となった。そして組合の方針は、「合理化は、労働者にとって何一つ利益をもたらすものではなく、徹底的な搾取と収奪と抑圧の政策であり、大量の首きり中小企業の倒産など労働者を犠牲にして不況を切り抜ける政策である。従って組合は合理化攻撃とたたかい、抵抗しながら全産業別労働組合の問題として、全階級的立場でたたかう」とした。 具体的要求は「@配置転換は、組合と協議して決めること。A藤沢への移動不可能な者には事業所を羽田に残すこと」などとした。

 論争点の一つは、個別企業の気工社の経済的な実態をどう見るか
二つには、独占の支配のもとで中小企業である気工社の役割、存在の位置付けの問題
三つには、対等、平等の労使関係を前提にした歴史的経過からして個別企業の合理化、移転で労使の協議を通して意見の統一を計ることであった。
65年、50人を越える退職者をだし、資本の施策、合理化に押し切られたとの感を残して藤沢移転闘争への確信は未消化のものとなった。その3年後の68年、東京本社の藤沢統合の闘争は、羽田移転闘争に学びながらも、札幌、仙台、名古屋、大阪、福岡営業所など点在する組合員を含めた、組織的条件のもとで、スト権が否決される事態となった。


W:倒産と並ぶ歴史的転換・茂木社長の辞任

 64年羽田工場の藤沢移転当時、従業員は400人を超え、組合員は350人を擁する組織であった。加えて経営党組織は、経営グループ・管理職・藤沢・羽田・本社にそれぞれ細胞(支部)を有する状況にあった。そして労働運動を中心的課題として取り組みながらも、社会的諸活動においても次のように組合員を派遣してきた。
     1963年 白石 博・・横浜金沢区市会議員候補(共産党)
       66年 藤沢原水協事務局組合(伊藤 昌雄)
       68年 石島 一郎・・藤沢市会議員候補(共産党)
            川崎  攻・・民主青年同盟湘南地区常任委員
        71年 大山 正雄・・藤沢市会議員(共産党・3期・県議候補)
        73年 上野  貞・・共産党地区専従

労働運動の上では
       61年 河合 弘幸・・全金糀谷地域支部初代専従委員長
       89年 小林 麻須男・JMIU神奈川地本初代委員長(支部副委員長)
       90年 中村 松雄・・全労連・湘南労連初代議長(支部委員長)
その他・・・全金神奈川地本執行委員、地区労幹事を派遣してきた。

中村ー3

 これらの基盤は、経営内における労使の対等平等を軸に、徹底した経営内における民主主義の推進をめざす運動のもとで確立されてきた。強いて言うならば、経営陣からも、理念として経営内における民主主義の構築が強調されるもとで労働運動が展開されてきた。さらに経営の側からは、労働組合・労働者に対するいささかの差別、攻撃がない中で、むしろ組合活動は自由奔放に展開されてきたともいえる。しかしながら、茂木社長辞任にあたり、労働組合は「社長交代と1・5ヶ月の一時金回答は金融資本の圧力、労務政策の変更として、組合の命運をかけて闘う」として闘争宣言を掲げ経済闘争に没入した。

  1960年代のはじめ頃には、中小企業における統一戦線の課題が論議される状況にあったが、労働組合の幹部の多くは、気工社で初めて労働組合を経験する状況にあったと同時に、全国金属、総評労働運動に大きく影響を受け、労使の対等平等を指向する自覚的中小企業家といえども資本家一般として対決する運動論が主流をなしていた。
  組合は、組合員への合理化を基本的に認める条件闘争を批判するあまり、全体の状況を無視して、絶対反対の基本姿勢以外、「具体的要求でのたたかいを認めない」という、余りにも機械的方針をとっていた。組合は、羽田、藤沢分会の組織統一のため、執行委員の信任投票を実施した。その結果は、連合会書記長、羽田分会副委員長の中村が一人不信任となり解任された。藤沢移転闘争の課題は、経営施策のもとで引き続く労使間の争点となっていた。とりわけ、金融資本からの役員の導入は、これまでの経営体制のきわめて大きな変動となった。その最たるものは、茂木社長の辞任である。組合は、銀行からの役員導入をもって金融資本の支配だと位置付け、労働組合の命運をかけて闘うと旧来の闘争体制をもって運動を展開した。

  茂木社長辞任に際しては、結果的に社長辞任を労働組合の運動がより助長させ、なりふり構わぬ反共労務政策・攻撃を許し、経営グループ、管理職グループの解体、更にはすくなからずの転向者が労働組合乗っ取りの尖兵をなすと言う修復しがたい汚点を残して来た。茂木社長は、全社員を集めた辞任の挨拶で「わたしの命よりも大切な気工社を将来とも残す為に、辞任することを決断した」と思いをこめた挨拶をした。
 樋口専務をはじめ役員は、直前まで辞任を知らず、辞任挨拶に何を言い出すかとかたずをのんだと語っている。のちに明らかになったが、経営戦略は、既存の経営体制を確立しながら、役員導入によって、銀行とのパイプを強化し安定的財政基盤を体制の上かも構築するものであった。しかしながら、労使の対立は熾烈を極め、茂木社長の辞任の後でも、銀行派遣役員会長を名指しで「無責任横暴にも−−気工社をやめたいと言ったくせに、社長が涙ながらに懇願したので辞意を撤回したと傲然と言い放った。絶対にそんなわがままは許さないぞ」とビラで糾弾した。そして、69年 年明けの数ケ月の後、銀行は役員を引き上げて気工社との係わりを断ち切ることとなった。
 組合は東京本社分会は後に、全体の状況を無視して、絶対反対の基本姿勢以外、「具体的要求でのたたかいを認めない」ということは、余りに機械的で硬直した方針であつあった。との総括をなしている。

1) 社長交替と組合の取組み

  5月中旬、重役の話を耳にし、資金繰りの面で追い込まれていることを知り、昨年来の労使の関係、東京・本社から藤沢への統合と銀行との経過から、重大な事態が生じていると判断し、個人的に茂木社長に電話で連絡を取った。
茂木社長は、要旨次のことを話してくれた。
 1:どこからニュースをキャッチしたか。
 2:もう手遅れとなり手の施しようがない。
 3:詳細については、近いうちに報告する。
 4:今は、これだけしか話すことが出来ない。君と電話で話すことも差し控えねばならない。
 5:君たちだけでも経過を総括すればわかるはず。
 6:組合の責任者をやめさす勇気があるか、そんなことは出来ないだろう。
この話を受け、ことの重大さを痛感、早急に党として体制を確立する必要性があると判断し、指導部へ直ちに次のように提言した。
 1: 経営は今、経済的に追い込まれ、9月までもつかどうか解らない状況にある。社長の更迭か倒産または系列化が生じる。
 2: 68年 中央委員会の指導方針に照らしてみると、春闘は大きな間違いを犯していると考える。尚かつ、一時金闘争を取り組むにあたっては、この1年間の総括をし、体制確立が急がれる。

既にご承知のことと思いますが、6月17日、突然に社長交替という事態が生じ、経営内では、大衆的にも大きな不安の渦中にあります。

 6月17日以来、支部内での討議を続けて来ましたが、社長交替についての評価、経営分析の不十分さのため、ことの重大性がつかみきれず、労働運動の面においても旧態依然としており支部として何ら具体的な指導方針を持たないまま今日に至っている。私は、当経営は経営者支部を持つ特殊な組織形態を持ち、事の本質を充分に分析、方針を立て得る状況にあり、かつ支部としてあらゆる可能性を追求して正しい方針を早急に確立することが何としても必要であり、かつ急務であると考え、敢えて個人の立場で組織的な指導を仰ぐ次第です。

1)組合の指導について

 社長交替についての情勢分析について、支部指導部と組合グループとの若干の討議が行われたが、添付・夏季闘争のニュースのごとく組合は、一時金要求を中心として、ストライキを含む戦術行使を行い、その傾向は日を追ってエスカレートする状況にある。基本姿勢は、長期柔軟に要求貫徹の方針であるが、その特徴として次の2点を例としてあげられる。

 1:闘争宣言の主旨

   社長交替と1.5ヶ月の一時金回答は、金融資本の圧力の現れであり、対労働組合対策・
労務政策の変更である。又それは、今後の合理化の前兆である。
   従って、一時金1.5ヶ月の低額回答を打破し、生活と権利を守る立場から組合そのもの
の命運をかけて今までにない統一と団結を築き闘おう。

 2:社長交替の評価の上に立って闘いの方針(6月26日)

   a:会社は「再建」するというが、コワレタものを再建するという意味の「再建」とは意味
がちがう。さらに、今期の売上げ、生産体制は徐々に向上しているので、今の「再建」
という表現は不適当である。
   b:会社も倒産の危機という言葉を使っていないし、多くの例が示すように組合が正当な要
求で闘うなかで倒産したと言う例はない。
   c:金融筋も何億もの融資をしているので容易に手を引かない。
   d:資金繰りが苦しいと言うことで我慢することは出来ない。
   e:1.5ヶ月を呑むことは、労働者に犠牲を強いる合理化・労務政策の押しつけであり
        組合の存立を危うくする。
   f:我々は、闘う以外に処する態度はない。
     以上の闘争方針を大衆的に組み連日の戦術行使に入っている。
     若干の危惧をもっている者もいるが、殆ど無批判に行動が組まれているのが現状である。 <尚、7月10日、大衆的に労働組合として、会社が1.5ヶ月をテコでも動かせないとしているため戦術方針がなくなり、前茂木社長に事実を聞きに行にいった。(三役)副委員長は一般であるが、茂木前社長は殆ど正確に現状を報告した。
組合は、茂木社長に事実を聞き、我々の情勢分析は誤っていなかったとして金融資本と対決するためより団結を固め長期の構えが必要であると、ますますエスカレートした戦術行使を決定した>

2)社長交替とその背景についての個人的評価

 茂木社長は、昨年5月本社の藤沢移転を当経営の命運をかけて断行し、この1年間の正否が経営の存続を決めるとした。そして銀行融資を計り、重役の導入を図った。さらに昨年6月基本組織への運動上の批判を中央を通じ行い、拠点経営としてのあり方を提起し、全社で経営を守り発展させることを計った。
支部は、この総括討議の中で一定の変化を見たが、組合指導の観点は尚
  1:経営分析をすると闘えなくなる。
  2:支部は大衆要求を抑えることは出来ない。大衆路線を堅持して徹底した闘いが必要である。
  3:労使間の闘いは、力関係で決まる。
   を基調として闘って来た。

  春闘は、3月要求以来5月中旬まで、24Hストライキを中心として長期闘争を組んだ。(賃金UP額・平均7500円)この春闘時、銀行から鈴木相談役が来て、つぶさに経営の状況、支部、労働組合の分析を行い、春闘解決と共に会社からいなくなった。この鈴木相談役に対する茂木社長の評価が失敗したのではないかと想像する。
経営の実態は、昨年9月〜12月にかけては、受注は3分の1に減り全社の努力にもかかわらず経済的危機は増大した。4月頃の運転資金は、約1.5億不足と言われている。この資金繰りをめぐって、銀行から茂木社長に詰め腹をきらされたと判断する。反面、社内で社長交替が行われたことは、茂木社長の判断で拠点としての経営を何とか継続発展させるための苦肉の策として、急遽計画されたものと思われる。

 山口新社長に対する評価は、反動と見ているが、この経営の歴史と共に歩んできたことで、支部の指導いかんでは一定の評価をしてもよいと判断をしている。尚かつ、支部の指導方針である態度は、中小企業家を含めた人民全体の利益を守り米日独占と闘う立場に立つとき、その傾向を充分に分析し、適切な態度をとるならば拠点としての経営を守り育てる保障が可能であると判断している。従って今 我々は、その政治的・統治能力を試される壁に突き当たっているといえる。殊に、藤沢北部地区でこの5年間、共産党の会社としての異名を内外に印象づけ、かつまたいすゞ自動車という独占大企業のもと、社民の支配する労働運動のなかで当経営の存在の正否は、ことのほか重要な意味を持ち、何としても経営を守らなければならない意義は重いと考えられる。

  以上の判断と内部的な経過のなかで、支部の意思統一はもとより、こと一支部の判断だけでは処理仕切れない状況に私たちは立たされていると考えられる。なおかつ、労働組合は、経営の決算繕いに必死の活動を完全に断ち切り追い上げる戦術行使を決定し、大衆的に発表している段階で、一刻の猶予もゆるされない時期と考える。

 茂木社長辞任に際し、結果的に社長辞任を労働組合の運動により助長し、茂木社長辞任と同時に極東事情研究所に下級職制を派遣しインフォマルを組織され、なりふり構わぬ反共労務政策・攻撃を許して来た。その背景の一つに65年羽田工場の藤沢工場への移転と同時に、上級機関の指導で、経営グループ・管理職グループと労働組合グループの組織的分離が行われ、茂木社長辞任の経営にとって極めて重大な事態に対して経営内のグループの戦略的・戦術的統一の場を作ることが出来ず、労働組合グループの運動にのみ矮小化されたことに修復しがたい運動上の汚点を残して来たと言える。


X:気工社での業務と配転解雇の経過

 労働運動を進めて行くうえで、職場労働者の利益を守る取り組みと運動は重要な課題であり、今迄それ等については表記してきている。しかし、要求を実現するには労働者の信頼を得、職場の支持が強く求められるのである。労働者の原点である仕事に付いても疎かにせず、キチッと任務を果たすと共に、仕事上でも上司や同僚からの信頼を得る事が肝要であり欠かせない。従ってこの項では私が携わっていた業務の内容について、若干記述し触れておきたい。
 加えて裁判は、1977年(昭和52年) 横浜地裁で仮処分敗訴決定。裁判官は江田五月・元参議院議長・法務大臣・現民主党最高顧問。かつての社会党書記長江田三郎氏の逝去で急遽政界に転出・東大出身のトロッキストで裁判官最後の判決であった。85年横浜地裁で本訴闘争中に会社倒産闘争となり、法廷闘争を抜きに職場闘争を軸に倒産闘争解決条件の一つとして職場復帰を成し遂げた。

1) 見積りの業務内容と配転拒否解雇

  見積の業務内容は、大きく @ 様々な仕様のプラントの引合及び受注に対するその都度の個別見積作業 A プラント見積を行うための見積基準表の作成とに分かれる。

(1) 会社の受注生産の過程は次のとおりである。
   @ 顧客が営業に対し自己の購入計画を示す A 営業が顧客の計画を整理しプラント引合表を作る B 設計課が右プラントの引合表に基づき概要図を作成する C 見積係が右概要図と引合表を照合して製造原価を積算し見積書を作成する D 営業が見積書の製造原価に一定の売価係数を乗じて販売価額を算出し同価額を顧客に提示する E 契約成立 F 設計課が契約仕様に基づき計画図・製作図を作成する G 製作図に従い生産管理課で重量計算・生産計画を決め帳票を作成する H 帳票を各製造部門・計画部門・外注・調達・倉庫・工事等に配布する I 各部門毎に製造・発注・調達・などをなし最後に組立据付をする。上に示したのは受注・生産の流れであり、見積業務のうち個別見積作業は上記の流れのCにあたり、砂利砕石プラントを構成する各部分に使用する材料の重量を夫々算出して右重量に見合う価額を積算・外注製品、購入部品などでプラントを構成する各機械の価額を積算し製造原価を割り出すのである。
  但し、購入品の単体機械は、別途メーカーの定価を営業で充当する。

(2) 見積基準表は個別見積作業を正確かつ能率的に行うために作成されるものであり、設計基準や過去の実績をもとに基準化を行い整理したものである。会社では中村がが入社した1962(S37)年12月以前にその基礎が出来ていたが、中村が入社後も実際に行った見積の実績資料を集収して整理し見積基準を設定してきた。65年見積係が独立し中村が見積基準案を課長を通し経営委員会に問題提起した。以降、67年・69年・71年と改訂を重ねてきた。
  この改訂作業は、機械装置の変化に伴う設計変更、材料価額の変動等 市場の動向を反映させた正確で使用に耐えうる新しい数値を把握するため恒常的に行う必要がある。加えて、市場価額の変動の場合は、都度問題提起し経営委員会で決定される。

(3)1965年から見積係が独立した。見積積算の経緯は次の通りである。見積係の上司は、課長であるが、個別見積の積算は、中村が積算、課長は印を押すだけであった。その背景は、設計課長などは、設計上の実務には長けていても、見積基準がこれまでのプラント・設備の実績の集積によるデーターには全く関与していないところにあり、プラント構成の単体購入品や材料の市場価額の動向などには関知していなかったのである。従って、都度の見積書や2年毎の価額改訂の経営委員会提案の資料などは中村の資料をそのまま横流ししてきたのである。
  いわんや、後の配転先の総務部・経理部・生産部の上司は、事務系統のプロであるが、設計技術には全くの素人であったのであり、中村の見積書にはメクラ印を押すだけであった。それは、65年見積係が独立して以降、72年解雇になるまで7年間、全ての責任は中村に負わされてきたのである。

(4) 1969年、社長辞任の直後、設計部は、部長の解任・退職、次長の大阪配転、課長の解任・退職・・(いずれも共産党員であった。?)一般従業員では中村一人、設計部・見積係・3名の係員から一人だけはずされ、部屋と上司が変わるだけと同時に見積係主任からの格下げとなって総務部・見積係に配転となった。半年後には経理部・原価計算課・見積係、71年、生産部・見積係・部長直属となった。2年間に同じ見積担当者として3回のたらいまわし配転が強行されてきた。
   最後の生産部では、インホーマル組織のメンバー1名はそれまでの仕事と兼務で、今一人は設計・見積などとは全く関係の無い倉庫担当者を見積係の継承者として配置したが、うまくいかず、見積を営業に移管することなり、中村は、北海道・仙台・東京・名古屋・福岡の各営業所へ見積もりの教育に出張させられた。営業が積算した見積は、中村に集中され点検が科せられた。そして、1972年1月年明けと共に、営業部サービス課への異職種配転となり、それを拒否して解雇となったのである。

 しかし、気工社の経営指標は、うなぎのぼりの売上高を確保し、62年度、11、8億。63年は15、2億。69年では、27、3億と急成長を遂げていた。プラントの受注生産は、指標の6〜7割りを占め、かつ、大型プラントでは一基2〜3億円となって、その受注に関る焦点としての見積担当は重要な経営施策の一つの柱であった。
 69年・茂木社長辞任と同時に労務政策は急転直下変更された。先の設計部の部課長の解任に象徴されるように主要な幹部はことごとく排除された。共産党員として公然化していた中村を、経営の主要な部署である見積の実務責任者から排除する策動が先の総務・経理・生産部の配転であったが、2年をかけても見積実務の関わりから排除できず、具体的改善策が無いまま、72年経営の政治的判断から、営業部サービス課への配転が強行されたと言えよう。
 従って、サービス課への配転の策謀は、当時組合役員ではなかったが、これまでの職場活動の実績からその影響力を恐れ、工場からの排除が真のネライであったことは明らかである。

2)1985年 職場復帰と異職種配転

倒産闘争を掻い潜って、職場復帰をなしたが、これまでの見積の仕事とは全く異なる倉庫課出荷係りであった。長期化した倒産闘争の集約を目指して、個人的判断で会社提示の異職種配転を受け入れることとした。出荷係りとは、生産されるプラントの機械装置・大型になると直径4・2mの装置があり、クレーン操作が重要な作業であった。従って、運搬車は、大型トレーラーを中心に配置されていた。小物で言えば、顧客からの部品注文に従い、箱詰め梱包・板台の裸の梱包などがある。

@ まず気がついたのは、クレーン操作をする作業員が生産現場を含めて、誰も免許を持っていない事であった。移動式クレーンの運転手は2名いた。課長に上申して、天井クレーンの免許取得を計画した。講習を受ける寸前に製造課長が同時に加わることになった。免許は、操作実務と法令の試験であった。民間の教習所で訓練をし、千葉の国家試験場で、運転操作実務と法令試験は2人とも一発で合格した。後に続く受講者があったが、合格したものは一人もいなかった。

A 大型機械の運送は、トレーラーが主体であったが、道路交通法からみて、3m以内ならばトラック運送が可能であることを課長に上申し、業者との交渉の結果、トラック運送が可能であることが判明した。同時に、トラックは近辺の業者でなく、首都圏へ地方からの運搬車が、返り荷物を探していることが解りそれに便乗する計画となった。

B トレーラーをトラックに変えること、返りトラックを活用することで大幅な経費節減となったのである。そして、クレーンの免許取得である。倉庫にはズブノ素人が、しょっぱなから社内の注目を集めたことは、会社の異職種配転への反撃になったことは間違いない。

C 課長は、中村の話をまともに聞くようになった。
 それまで、たな卸しは倉庫を中心に軽く一杯が行われていた。そこで、提案は、倉庫を中心に、盆・暮れのたな卸し作業は、全社の中心的作業でありコミュニケーションを含めていま少し人を集めること。その費用は、盆・暮れの外注・取引業者からの酒を使いたい。つまみは、部課長から寄付を募るであった。課長は黙認することとなった。倉庫に古い冷蔵庫を設置し満杯とし、部課長からは、中村が1000円寄付を集めて回った。中には多く出す人もいた。製造現場は、全員、部課長は金を出しているので気軽に参加してきた。倉庫を中心に人集めに成功した。加えて、倉庫は風呂場の出入り口にあった。風呂上りの現場労働者に倉庫のテーブルで、ビールを一杯ずつ振舞った。これまた大変な人気であった。当時はまだ車社会ではなくバス通勤のころであった。

D こんなしがらみを作り上げ、工場・事務所を自由に闊歩することが出来た。あわせて、支部委員長になったことも一つの要因かも知れない。そして、49歳で職場復帰して、64歳2度目のリストラ解雇となった。実に倉庫には15年いたことになる。気工社での通算顔出しは、倉庫:15年+解雇:14年+見積:10年=39年となった。


Y:鉄鋼独占日本鋼管・日本鋳造との倒産闘争

1970年、日本鋼管・日本鋳造の系列支配となって、これまで培われてきた労使関係は無惨に破壊され、以降十数年に及び反共労務政策をむき出しにした過酷な労働者支配・攻撃が加えられてきた。その攻撃の手口は、インフォマル組織による組合分断、賃金差別・仕事差別・降格・配転・活動家懲戒解雇・希望退職・職制への指名解雇などありとあらゆる試練にたたされてきた。そして、1983年には、工場閉鎖・全員解雇の攻撃であった。
 1983年、日本鋼管の系列子会社取りつぶしの和議は、53億円の負債のうち、一般債権者は負債の60%を切り捨て、40%を保障するものとなったが、親会社と銀行は和議成立後、会社資産の7000坪の土地を処分して100%の債権回収をもくろみ、工場閉鎖・全員解雇の攻撃を加えてきた。2年にわたる闘争は、金属連絡会・湘南地域共闘の支援のもとで企業継続と職場を確保し、そこに階級的労働運動をめざす労働組合の存続という画期的な闘争勝利を果たした。

@ 労使協定の骨子
・ 740坪の会社所有の土地・工場設備を確保し、60人で事業を継続する。
・ 会社所有の土地は、労働債権の保障で、組合に無断で第3者への譲渡および担保権の設定はしない。
・ 運転資金2億円を引き渡す。
・ 中村解雇を解決し、従業員として採用する。

A 倒産闘争の教訓
 一つには、多くの労働争議・権利闘争の教訓から独占を社会的に包囲し、背景資本の責任において倒産を食い止める。br>  二つには、社会的包囲の闘いを重視しながらも会社資産7000坪の土地を活用して企業基盤の確保を図る。
支援共闘会議の論議の統一は困難を極めたが、支部は第2の戦略で闘いを展開した。

B 独占の収奪に対決した政策的成果
多くの倒産闘争は工場継続・労働債権確保を掲げるが、気工社闘争は会社資産を企業継続に活用する戦略戦術は、茂木元社長(経営者としてかつ労働運動を理解する人)を中心に税理士・弁護士・労働運動家・政党役員(共産党)などあらゆる頭脳集団の協力を経て闘争戦略が組み上げられた。それは、日本鋼管売却価額より坪10万余も高く、かつ25億円の売却益税をゼロにし企業再建の経営基盤は、無借金で、自前の土地・工場設備・当面する運転資金を確保する戦略・戦術がくみ上げられた。加えて、生産活動を支える企業再建への人的確保も重要な側面の一つであった。まさに、親会社が引き上げても当面する企業再建の基盤の確保を日本鋼管に認めさせたところに気工社闘争の重要な教訓があった。

 土地処分においては、労働組合が不動産業者を指定し、茂木氏を組合の顧問として決め業者との折衝を一任、親会社との土地取引の推移を労働組合がすべてにわたり把握する状況を作り出し、土地取引と団体交渉を結合させて、企業存続の基盤をなす資本(協定内容)を労働組合の闘いによって親会社日本鋼管に認めさせることが出来たのである。これが気工社闘争の特徴点であり、企業存続の環をなすものであった。
 茂木氏は「そこに闘う組合があったればこそ、倒産に瀕した或いは経営危機に直面した、そしてそこから企業が消滅する形ではなく、再生へ、企業存続へと事実として前進、日常不断に明日を切り開くべく健闘している。もしそういう組合がなかったならば、事態は全く別のものになったであろう」と評している。


       ★★ 「企業再建労使協議会」設置に当たって  ★★

           組合の基本的考え方とすべての従業員への訴え

                       1986年 2月 10日

                          全金湘南地域支部気工社分会 執行委員会

1)気工社は、44年、日本鋼管の系列支配、そして16年を経過して和議倒産と数次にわたって激変してきました。労働組合は、倒産からの企業再生をめざして「再建特別委員会」(仮称)を設置し、企業体質を改善し、再建を軌道に載せるための諸問題を具体的に検討し、一刻も早く企業再生を推進すべきだと提案してきました。1月28日、会社は,文書をもって組合提案に対する基本的見解を提示してきました。
 その前文で「組合提案に敬意を表する」「会社としても組合の考え方に基づく提案に原則的に賛同する」との表明は、当面する労使関係での経営者の極めて重要な意思決定として評価するものです。しかしながら、この提示された見解の中には,残念ながら企業再生のための労使の協力共同、全社一体となっての体質改善に逆行するような不適切なものがあることを指摘しないわけにはいきません。
 一例を挙げれば「目的」の項での「単なる揚げ足取り、不平・不満のはけ口であってはならない、さらには、建設的提言でなければならない」などの制約的,規制的見解は、10数年に及んできた日鋳派遣経営者の労務感覚、経営者としての無為、無策、無自覚の経営感覚の域を一歩も脱していない発想といわざるを得ません。
 和議倒産以来、2年余にわたる企業運営の実態は、人心の面から見ても、組織的にも企業再生には程遠く、徹底的な体質改善が必要な事態にあることは周知のはずです。従って、日鋳役員が退き新役員会が出発しても企業の内部には,仕事のやり方,ルール、機構をはじめ大小種種さまざまな疑問や不安、不満,不平,批判,意見が職場にうっ積しているのが実態であります。
 企業再生への原点は、こうした諸問題をむしろ積極的に発掘し、とりあげ、正確に整理しその総てをオープンにして正しく解決していき、職務,職位,組合、非組合員を問わず経営者をはじめ全社員の意思の統一と知恵と力の結集を図ることだと考えます。であるからこそ「再建委員会」ないし「協議会」の一刻も早い設置が必要なのであり、従って組合は、とにかく先ず「企業再建労使協議会」をスタートさせるべきだと考えます。
 「協議会」が、労使双方にとって初の試みであり、まさに模索の新たな活動でありますが、労働組合の立場、経営者の役割を相互に自覚し,尊重することをを前提とし、協力・共同の立場で、実践的に「協議会のあり方」「企業再建をめぐる気工社固有の労使の係わり方」を確立して行くべきだと考えます。

1)労働組合は、企業再生問題を労働運動の重要な課題として位置付け、労働運動の先進的教訓や学者、労働運動家など識者の理論に学びその都度、組合の見解、提言を重ねてきました。

      78年  経営責任で、再建計画を具体化せよ。
      80年  経営分析と再建への改善すべき問題点。
      82年  第2次再建提案。
      83年  再建闘争の経過と到達点。
      84年  会社の再建計画に対する組合の見解・要求。
      85年  再建特別委員会(仮称))設置の提案。

 こうした取組みの到達点の上に組合は、親会社日鋳の和議倒産、工場閉鎖、全員解雇の攻撃に抗して、労働力の確保、生産手段の保有を掲げ、企業再建を要求して闘いを進めてきました。 今日、企業再生を論議する事態のもとで、労働組合の掲げた要求が、再建にとって不可欠の課題であったといえます。かつ又、労働組合の具体的問題提起と闘争がなかったならば、和議倒産以来の「気工社再建」を標榜しながら「日鋳の再建」のため「気工社を整理」しようとしてきた経過を見るとき、今日の気工社の存在はあり得なかったであろうことは明らかであると考えます。

1)土地処分をめぐって、労働組合の要求をもとにした今回の闘争は、気工社の経営者を通じ、実質的に親会社日鋳を相手に、気工社を守る闘争として展開されました。その結果は、企業再建のスタートに不可欠な土地,建物,生産設備,資金を確保し、更に日鋳からの一定の今後の援助を保障させることができました。
    この闘いで、経営者の一部が組合要求を正しく受け止め気工社存続への積極的取組みをなし、労働組合の要求(基本的に今回の要求は,経済要求や権利要求ではなく、本来,経営者がとるべき重要な政策を労働組合の要求として提起したものです)に真剣な対応を示してきたことは、10数年に及ぶ対立的労務政策から見て極めて重要な変化として評価するものです。従ってこの成果は、労働組合の社会的道義にかなった強い闘争とともに,一部経営者の努力が加重されて成し得た貴重な成果であるとともに,この闘いの重要な教訓であります。 従って、三年に及ぶ激しい闘いを通じ生み出してきたこれらの成果をゼロにしてしまうことの無いよう協力,共同して企業再生への取組みを推進することは、この闘いの経過から見て必然の路線であると確信をしているものです。
 新社長は、経営方針の基調の一つとして、10余年の労使関係を改め,新たな協調を目指す意向を全社員の前に表明しました。あわせて、50余名を基盤として企業再生を図るとし、そのためにトップからの自己変革をするとの極めて積極的姿勢を示していることからも再建について、労使が協議,協力する場を設置することが緊急の課題であると考えるものです。

1)日本鋳造の経営方針に基づき,土地処分による投入資本の回収の実質的完了、それに基づく派遣役員の総引き揚げによって,気工社は、事実上支配者のいない独立企業体となったといえます。そして、急遽新しい役員会が成立したが、労働組合は,新役員に対し過去の経営側の一員としての責任についてはそれを追求することなく、むしろ会社の新局面における経営者としての任務を自覚し、心機一転、企業の軌道修正,再生へ向けて全智、全能を傾注することを期待し,要求することがこの瀕死の状況にある劣弱中小企業体のたてなおし,再生にとって、労働組合が取るべき唯一の正しい態度であり路線だと考えます。

1)企業のたてなおし,再生は,組合はもとより総ての社員の最大の共通課題であり、その成否は、まさに経営者をはじめすべての従業員の活力と英知を結集するかどうかにかかっていると思います。しかしながら、倒産闘争の中で明るみになった事実は、わずか50余名の小企業であるに拘わらず、内部に経営陣と労働組合,部課長,組合未加入者と3極にも4極にも分断され、更には各人各人がバラバラであり、企業の総意を結集することが困難となっていることです。
 こうした内部状況と社会的にも経済的にも極めて劣悪な企業環境下にあって、労働組合と経営者が、再生への具体的取組みとして「協議会」設置で合意した今、組合は、改めて管理職を含めた全従業員に対し、長い過去によって生じた各種の相互断絶、カベを取り払い50余名の人間が役員ともども一丸となって活躍する企業造りに直接参加されるよう訴えるものです。そして,複雑な経過はあったにせよ組合未加入の仲間の皆さんの総てが、組合に加入され企業再生のために組織的参加をされるよう心から訴えるものです。
 あわせて、実務の中核としての部課長の皆さんが、蓄積してきた業務上の経験を存分に活し知恵を絞り,この企業の思いきった体質改善と自前で食って行ける企業への一大変身の実が挙がるよう身を挺して取り組んで戴くよう強く訴えるものです。
                                          以上
       (中村が起案し執行委員会で協議のうえ全社員に手渡した訴えである)
 
           

Z:神奈中対策と団交対策に於ける個人的信頼関係

 茂木社長と中村との関わりは64年の羽田移転闘争での労使の関係から始まる。移転闘争を巡って都委員会労対部の援助で非公然に経営者組織と職場組織の合議をへて茂木社長との密接な係わりが始まった。移転闘争集約後、羽田・藤沢の執行委員の信認投票で中村一人解任された。当時、党大田地区委員であったことから地区委員会は、地区委員会専従を要請してきた。それを受け入れることにした。礼を尽くして、茂木社長に退職・専従となることを伝えた。茂木社長は、気工社のあり方・中小労働運動・労使のあり方を強調し、残留を要請してきた。その結果、専従を断念し藤沢への移転を決意した。69年社長退任時の上申書は移転闘争での教訓の発展的模索である。加えて、72年配転解雇闘争時、元社長の義弟の会社での設計見積のアルバイト、茂木夫人の病院で妻の働き場として保育所を立ち上げる等々実質的援助・支援を受けてきた。
 更には裁判闘争においては元社長の立場から陳述書・証言を頂いた。
茂木証言の最後に弁護士:証人が在職中ですけれども、会社は原告の組合活動等々の点についてどのように原告を見ていましたか、つまり、会社の統一した見解とか言うことじゃなくて、あれは、ああ言う人間だと言う、それぞれ思っている総体をおっしゃっていただければいいんですけれども。会社のトップが。
茂木: と言うのは 賃金の算定と言うことなんでしょうか。
弁護士: じゃあなくて 組合の活動の点です。
茂: 組合活動と言うふうな点について言えば、会社の従業員と言うこととは、本来労働組合の活動と言うことは異質のことであり、全く会社のあずかり知らないことですけれども、現実に彼の活動は、入社2・3年後から非常に目立ちましたし、会社の労使関係の担当部門としても、それから 会社のトップ層全体、取締役であるかないかと言うことを抜きにしまして、中村君に関しては、こと労働組合に関しては、終始一貫極めて組織的に 情熱的に 労働組合運動に精魂を傾けている。その限りでは、理論的にも実践的にも極めて強靱な労働組合活動家であったと会社は考えています。且つそれは、多分彼が内外に明らかにしていた共産党員であることに、それと深く結びついていることではありますが、会社としての判断は、気工社の中では共産党員として最も旗を高く掲げている人間、いい・悪いは別としまして・・・。それから労働組合活動と言う事について終始変わらない情熱をつぎ込んでいる中心的な人物というふうに会社は終始一貫して考えておりました。
同時に元営業部長からの陳述書・証言を戴いた。

中村ー2
  従って、社長退任後も気工社では最も近しく、継続してきた唯一の係りを持ち、83年和議倒産闘争では、早くから経営者の立場としての見解を求めて個別に相談をしてきた。茂木元社長が飲み屋で、日本鋳造が会社資産の土地売却の動きを収集し、それを基に本格的に倒産闘争の模索を始め、茂木元社長を加えた闘争体制構築での支部組織・労働組合を結集するとり組みがある。労働組合役員の意思統一は、実に6月から始まり12月までの6ヶ月を要した。勿論、団体交渉は継続しながら、都度の情勢分析・戦術行使を含めての論議となったのである。
 不統一の根源は、茂木社長を誰も詳しく知らなかったこと、加えて一般的組織論で他組織との係わりを否定、さらには経営者・資本との係わりを拒否する一般論に止まり、局面においての支部・労働組合としての指導責任の自覚がなおざりにされてきたと言えよう。
今一つは、集団的社会構造の中で真に信頼する仲間を捜し出す能動的視点が何にもまして求められるのではないだろうか。そこにこそ事物の展開は人間的信頼関係の基礎の上に、集団として始動する原点があると言えよう。
 加えて、倒産闘争での解雇者中村の役割を補強する
@ 会社資産7000坪の土地処分の話は、茂木元社長から中村に伝えられた。そこで組合・支部の運動上の意思統一・茂木元社長を組合の顧問として大衆的に認知する論議が、実に6ヶ月を要したのである。
A 土地処分が神奈川中央バスに内定した大詰めの段階で、不動産会社の顧問弁護士・湘南合同法律事務所の弁護士から相模合同法律事務所(中村解雇闘争の弁護士)を通して、解雇者中村に不動産会社を気工社に紹介をして欲しいとの要請となり、結果はその不動産会社との取引となった。
B 倒産闘争終盤の支援共闘交渉団の3人の一人に会社は解雇者中村を指名要求してきた。支援共闘の討議の結果会社の要求を受け入れた。
C 倒産闘争妥結の極限に至る協定書・財務処理を巡って、会社は、再度組合トップ交渉3人の一人として中村を指名し支援共闘は受け入れた。


[:           ――わたしと労働組合――

          結婚式場から組合作りの相談会へ (JMIU中央機関紙部長が付けたタイトル)

                                            中 村 夫人

 私たち(中村夫人と夫の松雄さん・気工社分会執行委員。このほど14年越しの解雇撤回闘争に勝利し、職場復帰した・・編集部注)は、60年の安保条約改定反対闘争の時期に手をたずさえて過ごし、その翌年結婚しました。型破りの彼は、結婚式のその日を組合作りの相談会に決めており、私も式場からその場へ直行させられました。
 一週間ほどして彼の待望する全金労組ができたようですが、彼はその後、半年の間、大阪へ出張に出され私たちは新婚2ヶ月で別居を余儀なくされました。半年後、勇んで帰京した彼を待っていたのは、九州転勤でした。会社のしうちに怒って転勤を拒否、とうとう解雇されました。そして裁判闘争が始まりました。
闘いを続けながら気工社に勤めるようになり、裁判だ、組合だ、仕事だと、ますます忙しく飛び回る毎日となりました。でも、別居よりはましでした。
 二人目の子供が生まれて半年もたたない正月明け、2年間に4回も配転させられたうえ、またまた配転―解雇。3、4年で必ず勝つ、という自信満々の彼に乗せられズルズルと14年の解雇撤回闘争につきあわされてしまいました。
 結婚当初、口を開こうとしなかった老父を、数年かけて味方に引き込んだ柔軟さの半面、不合理に対しては頑として妥協しない彼。子供たちを含めて、そのしわよせを強いられて来たように思います。労働組合などほど遠い存在の私立保育園で、仕事と子育てに追われてきた日々。彼を通して見る労働組合は、私にとって苦しみのたねと映りました。
彼の職場復帰を祝う集会(7月13日)は、みなさんがお金を出しあって下さいました。
 集まられたみなさんの一言一言に、私は、不屈に闘う労働者の楽天性、労働組合の力強さをうらやましく感じました。たくさんの仲間に囲まれ、喜色満面の彼を見て「幸せな男」としみじみ思いました。
本当にみなさん、ありがとうございました。
 彼は職場に戻ることができましたが、それでも、争議は後を絶ちません。解雇や差別を許さない労働組合が欲しいと思います。


\:団地自治会結成の経過

  今迄労働運動を中心として記載してきたが、私の遍歴にも列挙してある通り、団地住民の要求をくみ上げ組織し、自治会を結成して要求を実現するという、市民運動にも関わり活動してきている。時代は少し前後するが、ここではその一端を述べておきたい。

 1968年、茅ヶ崎市の団地に入居。羽田工場移転後、会社から請われて独身寮管理人となり、そこからの移転である 。当時は、組合役員を解任されていたころであったが、諸活動で毎日夜遅く帰宅した。駅から団地までのバスは21時過ぎには無くなり、若造であり、タクシーには乗れず40分ほど駅から歩いて帰宅した。駅から歩く人が束になっており、見も知らない人ながら雑談が広がった。そこには沢山の生活上の要求がこもごも語られた。
 そこで、気工社の仲間の力を借り手伝ってもらい、第一次入居の1167戸の団地内の要求組織を手がけた。まずは、全戸に諸要求を集めるアンケートを配布、一週間後に個別訪問し回収・200余の要求が集まった。その結果と共に相談会を提起したビラを、またまた全戸配布した。その結果10数人の人が集まったのが自治会結成の出発点であった。
  2500戸の団地は、3月から始まり、第一次:1167戸、二次:544戸、三次644戸(12月)となり、自治会結成は、第三次の入居を待って、12月・2500戸の総意をもって結成された。

   当初の主な要求運動

@ 駅からの終バスの延長要求。当初はバス会社交渉で埒が明かず、陸運局交渉でもままならず、白バスを借り受け、半年ほど交通対策部を中心に自治会役員など午前1時の終電まで自主運行をなし、陸運局を動かして21時の終バスを午前0:35分の最終バス運行を実現した。
  首都圏の通勤範囲に入る湘南で住民の切実な要求を満たした事例の一つとして挙げられる。

A 子ども達の故郷と未来を!と自治会結成初仕事として始めた夏祭りである。近隣の住民の協力を経て、子どもみこしパレード・打ち上げ花火(近在の住宅増加により2010年ころ中止)・盆踊り・露天商・中学・高校生などのバンドの競演などなど団地の一大イベントとして近隣の住民をも集めて継続発展している。

B 団地から2キロほど離れたチタニューム会社の煤煙公害阻止運動・・。煤煙防止装置を新設させ団地はもとより工場周辺の近隣住民からも喜ばれた。

C 団地内の貫通道路阻止運動・道路公団・市役所を動かし安全確保の実現。

D 自治会役員は、公募で選挙を通して民主主義的運営を実施したが、数年後には投票の結果に一般候補者の気持ちがなじまず、定員での選挙に留まってきた。

 などなど、45年を経た現在においても諸活動の基本は、住民に密着した要求運動路線として、着実に継承されていると言えよう。


]:JMIU気工社支部の沿革

  階級的ナショナルセンターをめざす全労連は、1989年結成された。労働戦線における右翼的再編が1980年の「社公合意」(日米安保と自衛隊の容認、共産党排除の政権構想合意)を総評が推進し、労働運動全体が右翼的ナショナルセンターの支配下に置かれかねない状況の下で、階級的労働運動をめざす自覚的労働組合によって全労連は結成された。
「資本からの独立」「政党からの独立」「共通する要求での行動の統一」との労働組合の原点を掲げた全労連の5年間の闘いは、まさに労働戦線統一の母体として、労働者の切実な要求の実現、国民的諸要求実現の闘いの中核として労働者・国民の注目と期待を集めているところである。

 JMIU気工社支部は、自動車、電機など大企業の生産点が集中する湘南地域で、早くから中小労働運動、自覚的・階級的労働運動をめざして闘ってきた数少ない金属労働組合である。 (株)気工社藤沢工場の稼働は、1963年である。会社創立は1954年で、河川における砂利採取を自動化した自走式砂利選別掘削機械(可搬式砂利採取機)の製作販売会社として東京・大田区でスタートした。そこは労働運動の発祥の地として知られる東京南部で、金属産業の工場群、中小企業の密集する地域であり、荏原製作所、石井鉄工、日本起重機、渡辺製鋼、日本教具など全国金属の組合が群立して“全金銀座““赤旗横町”とも呼ばれたところである。
 1960年前後の高度成長期、とりわけ建設業界の発展を背景にして気工社の経営規模は急成長を遂げ、1961年には資本金4億円で東京市場二部上場会社と発展、最盛期には400人を超える中堅企業となった。創立者の一人茂木健二社長(故人)は、会社創立と共に中小企業家同友会の組織者、更には政府の砂利砕石など骨材資源審議会を設立する中心的役割を果たし審議委員の一人でもあった。その友人である経済評論家坂本藤良氏は「マルクス経済学を信奉する異色の経営者」と評している。

 労働組合は、1957年に企業内組合として結成し、60年安保闘争の大衆運動の高揚期の中で全国金属に加盟、反安保ストを経営者に申し入れ2回の全面ストを成功させてきた。61年には、中小未組織労働者の組織化を掲げ、そして階級的労働運動をめざして全国金属糀谷地域支部を結成し、専従委員長を派遣する中核的役割を担ってきた。同時に、実働7時間制・時間外割り増し40%を中小企業で先駆けて労使合意を実現してきた。
 社会経済環境のもっとも激しく変化したこの時期、経営は、後発メーカーに加えて過小資本のハンデイのもとで、激甚な企業競争を背景として、65年羽田工場、68年東京本社を藤沢へ移転統合をするなど、さまざまな合理化施策を含めて、経営構造の急速な質的変化をなしてきた。そのもとで、労使は激しい闘争を重ねながらも、相互に独立した立場を明確にして、企業内における労働条件の決定は、すべてにわたって労使対等の立場において決定することを労使の原則として確立してきた。
1970年、日本鋼管・日本鋳造の系列支配となって、これまで培われてきた労使関係は無惨に破壊され、以降十数年に及び反共労務政策をむき出しにした労働者支配・攻撃が加えられてきた。その攻撃の手口は、インフォーマル組織による組合分断、賃金差別・仕事差別・降格・配転・活動家懲戒解雇・希望退職・職制への指名解雇などありとあらゆる試練にたたされてきた。そして、1983年には、工場閉鎖・全員解雇の攻撃であった。

  労働運動は、全労連結成へ向けての歴史的な運動への転換と高揚の時期であった。金属連絡会、湘南地域共闘にも支えられ、労働組合の闘いによって30年余の歴史を引き継いできた職場と闘う労働組合、闘う砦を継続し、労働組合の主導によって倒産からの企業再建を可能ならしめてきた。これまでの労働運動において、少なからず問題点、弱点を持ちながらも、30年余の厳しく激しい闘いの試練をへた労働組合は、1989年、JMIU神奈川地方本部結成と共に初代委員長に小林支部副委員長を、90年の湘南地域労連結成には中村支部委員長を議長として派遣するなど、階級的労働運動の発展強化をめざしてその一翼を担ってきた。


11:気工社40年目の懇親会 (2010・02・14:藤沢銀座アスター)


 新年おめでとうございます
2010年 元旦
激動した歴史的情勢を、オバマは「指導者を自ら選
び夢を実現しようとする自由な人々の民主主義の信
念が、鳩山首相や私自身の選出を可能にした」と表
現した。
顧みると、55年に社会に出て目にしたのは、総評の
春闘であった。
そして、60年安保闘争・70年代の革新自治体のう
ねり、80年の社・公合意と総評の変化・90年代の
全労連・連合への労働戦線転化を体現してきた。
そこには、50年余の歴史をかいくぐってきた組織労
働者の役割との課題は色あせる想いを覚える。
そして好んで使った「統一戦線」が死語ともなったこ
とも寂しい。
ともあれ「夢を実現しようとする自由な人々の民主主
義」とは何かを今年はじっくり紐解き模索をしてみたい。
今年もよろしくお願い致します。
             中 村  松 雄


K人事課長
謹賀新年
   なつかしい人からの賀状ありがとう。
   お元気でいる様子 何よりです。
   思想的なことは抜きにして「羽田・大森」
   を酒のサカナに語りたいですね。
        K(公認会計士)


O総務部長
(中村解雇時の総務部長)
 恭賀新春
 世界の平和と皆様のご多幸を祈ります.。
 今年もどうぞよろしくお願いいたします。
 思わぬ人からの賀状に接し喜んでいます。
 どうぞ元気にご活躍を。
      O(社会保険労務士)


O部長へ
前略
日時を経ていますが、返信ありがとうございました。
部長に賀状をしたためながら、Kさんを思い出し
ご挨拶をしました。
返信には、「懐かしい人からの賀状ありがとう。思
想的なことは抜きにして「羽田・大森」を酒のサカ
ナに語りあいたい」とありました。
賀状の伝統の重みを噛みしめながら、これを機会
にKさんとの雑談会を考えました。
そこでの合意は、可能ならば、部長もご一緒にと
言う事です。
かってな発想でご都合がおありかと思いますが、
ご参加の是否ご検討ください。
              中 村 松 雄


40年目の懇親会・・なかむら

今日の会のきっかけは、40年目の年賀状に始まります。
そもそもの起点は、2年前、茂木社長の葬儀の折、私は葬儀・受付の責任者で皆さんとの懇談が出来ませんでしたがK委員長を通してO部長が中村を呼んでいるとの連絡で懇親の場に顔を出したところO部長が私に握手を求め、申し訳なかったとの言葉が年賀の始まりでした。そしてK課長が、年賀の返信で「羽田・大森を酒のサカナに」と書いたのが今日の会を生み出したと言えましょう。
Mさんは、体調不良で参加できませんでしたが、まるで、羽田・大森・藤沢の総務部OB会となりましたが、気工社という、ちっぽけな中小企業で(総務部長O・東大:K人事課長・横浜国大:O総務課主任・共産党市会議員・東北大:K総務課員・気工社支部委員長・JMIU地本初代委員長・金沢大)それぞれの方が求められたのか、それとも押しかけたのか計り知れませんが、O部長を始めこんな人材を総務部に集めていたことは七不思議の一つではないでしょうか。
ともあれ初の面談の試みを皆さんと一緒に楽しみたいと思います。
よろしくお願いします。


(会の進め方)・・40年ぶりのことですので

1) 乾杯の音頭は、Kさん。
2) 冒頭発言・O部長にお願いします。
3) 後は呑みながら、Oさん・Kさん・Kさん・Oさん・中村と続けて近況をふくめて
   思いのままの雑談としてください。
4) それでは、Kさん乾杯の音頭をお願いします。


     中村発言

 2年前、茂木社長の葬儀で、O部長がわざわざ私を呼び握手を求めてきました。
私とO部長の係わりは、読売新聞の募集広告で羽田での受験、その時O総務部次長が私の採用に係わったようですが、それ以降も個別の面識はありませんでした。
私が組合の羽田・大森・藤沢の連合会書記長であった僅か7ヶ月での団体交渉で、ことある度にO部長は書記長の見解をと要求してきた事が強く印象に残っていました。
握手をきっかけに40年ぶりに部長に初めて賀状をしたためました。
同時に、ふっと思い浮かべたのがK課長で、これまた40年ぶりに初めて賀状を送りました。
Kさんの返信に「羽田・大森を酒のサカナに」とのことでした。だとしたらO部長と3人でとの話となりました。さらにKさんは、Mさんの名前を挙げ、Mさんなら藤沢でのOさんを、そしてO部長では仲人でのKさんと言うことになりました。
  聞いておきたいこと
 私は、羽田・藤沢統合で、組合役員の信任投票でただ一人否決され、羽田副委員長・連合会書記長を僅か7ヶ月で解任されました。ところが、藤沢移転と共に大和独身寮の管理人の話が持ち込まれました。当時の本社総務は、O部長・K課長であったはずです。
札付きの組合役員解任者をあえて居住者を束ねる管理人に選定したのかその背景をお聞したい。 私の仕事は設計見積でありました。2人の係員と共にそれなりに仕事に責任を持ったこと。
例えば、選挙で休暇中に営業の要請で、選挙事務所で見積りをしたことが再三あった。中小企業労働者の生き様・課題だと自負してきた。
会社は、私から見積もりの仕事を取り上げるため2年もかかった。設計部見積から総務部・経理部・生産部と見積もりの仕事を持って、たらい回し配転が行われ最後は工場からの追い出しで営業部への配転、それをことわって懲戒解雇となった。
加えて、北海道から九州と全国営業所への見積移管の教育は、楽しかった。会社は、見積係を外すために営業マンへの教育と言うが、現場での労働者の反応は、それぞれの営業所では教育が終わった後は飲み屋で歓待をしてくれた。現場の労働者魂を肌で感じたものです。


   懇談後のO総務部長へのはがき

前略 40年にして初めての会で、とまどいがありましたが旧交を再現する和やかな会とすることが出来たと思います。改めて お礼申し上げます。
 部長のお話で、心の襞に重々しく残る言葉を反芻しながら便りをしたためることにしました。
それは、「最長17年勤続・55歳で勤めを辞めた」と言うことです。(後に社会保険労務士)見積ではありませんが、55歳から17年を引くと38歳となります。
そして、60年前、歴史的2・1ゼネストの中枢におられた。25・6歳のころであったはず。
全農林の官僚の階段を剥奪され、38歳まで、子育てを始め、仕事の上でも社会的役割においても人の骨格を形成する最も凝縮される時期に大変な試練をかいくぐってこられた事を類推します。
 今話題の「沈まぬ太陽」を昨年の正月に全5冊を読みました。私の体験からも部長の経過から見ても現場の実体は小説以上に複雑で厳しいものではなかったかと思うんです。
私は、解雇闘争の14年間、経済的社会的背景もあって、生産現場に若者が集中した時期で、労働組合を中心に、夏は花火・年末はカレンダーの行商で糧を繋げることが出来ました。
 何を言わんとするのか。
それは、茂木社長の葬儀の折、部長に呼ばれて顔を出し、堅い握手をして戴いた。その意味が理解できませんでした。会でのお話から苦渋をかいくぐってきた長老の想いを改めて実感し、握手の重みを噛みしめています。
これを機会に、今後ともよろしくお願いします。
                              中 村 松 雄



12:中村松雄氏の労働運動・他略歴

 初めての労働組合は、(株)日機装で1959年企業内組合結成書記長、61年全金日機装支部結成委員長、62年10月・九州営業所配転拒否で懲戒解雇・裁判闘争。62年12月24日、気工社入社(解雇撤回裁判闘争中に入社・当時の高度経済成長期の社会的背景の側面があったのであろうか?、63年・日機装裁判和解解決)
 65年・気工社連合会(羽田・大森・藤沢分会)書記長の頃である。65年11月。日機装労組(東村山)の13名の指名解雇で裁判闘争となり、元委員長としての陳述書である。事件は勝利判決で職場復帰をふくめて全面勝利を勝ちとった。

   その遍歴を時系列で並べる

1959年・・・日機装労組結成・・書記長・・組合消滅
  61年・・・全国金属日機装支部結成・・委員長・・2ヶ月後に辞任・
         大阪6ヶ月出張・帰省と同時に九州配転・拒否で解雇
  64年・・・全国金属糀谷地域支部気工社羽田分会・・副委員長
  65年・・・同気工社分会連合会(羽田・大森本社・藤沢)・・書記長・
       ・羽田工場の藤沢移転闘争集結後、役員の信任投票で書記長解任
  68年・・・2500世帯・10,000人団地自治会組織・事務局長
  72年・・・同年解雇・撤回争議専念の為に辞任
  72年・・・営業部サービス課への配転拒否で解雇
  78年・・・神奈川争議団共闘会議 副議長
  79年・・・裁判闘争中に気工社支部執行委員(17年ぶり)
  85年・・・倒産闘争の終盤に14年ぶりに職場復帰・
    (倒産闘争トップ交渉の3人の一人として会社が解雇中の中村を指名)
  87年・・・JMIU気工社支部委員長 (22年ぶりの三役)
  90年・・・全労連・湘南労連初代議長 (支部委員長)
  94年・・・JMIU神奈川地本副委員長(支部委員長)
  00年・・・JMIU神奈川地本顧問 (02年退任)
  01年・・・気工社支部顧問 (03年退任)
  03年・・・JMIUかながわ地域支部組合員(78歳の現在に至る)



       ☆☆☆   巌窟王生涯現役・益々健在なり   ☆☆☆


  72年5月沖縄復帰直後の7月、私が解雇になる直前に、瀬長亀次郎氏の手記である。
 同年解雇された時から、私が手帳に書き連ねてきた座右の銘(指針)を列記する。

      瀬長 亀次郎(元沖縄人民党委員長・日本共産党副委員長)

    「みんなが 意見をのべあって決める。民主主義のルールである。
    問答無用 きりすてろのやり方は、民主主義の破壊である。
     それは 弾圧となって現れる。
    弾圧する者は 抵抗の前に力を失い いつかはほろびる。
    それは 歴史の鉄則である」

                   ☆     ☆     ☆

〔 巌窟王 〕:物語の主人公は、陰謀に因る冤罪で獄中苦節14年、中村氏は最後の会社を解雇され、職場復帰の裁判闘争で同じく14年、見事勝利解決し職場復帰を果たした。それ以前の会社でも入社以来一貫して労働組合結成の中心メンバーとして関わり、企業から嫌悪され遠隔地配転や解雇等の攻撃と正面から立ち向かい、一生闘いの連続であった。正に巌窟王の面目躍如たる生涯であり、現在も尚労働者・庶民の立場で活躍している。
 中村氏は、自分の人生を中小労働運動・労働争議に注ぎ込み闘い抜いてきた。従って失礼ながら厚生年金は、老後の生活を満たすには不足する額であろうと勝手に推察する。喜寿を迎えた現在も、工事現場の交通整理にバイクで遠方まで出向き働いている。氏が力を尽くし支援してきた神奈川争議団は、2000年11月、当然頼りになる味方と信じていた陣営である筈の、政党や県内の労働団体・民主団体などからの争議団共闘批判が組織された。それを機に争議団共闘からの離脱・新たな争議団の加盟は妨害され、参加争議団はなくなり、2012年残る2団体が解決し、神奈川争議団共闘会議の歴史は実質的に休眠状態に至った。このような経過で、支援する争議団が無くなった現在、雨の日は警備の仕事は休みとなり、私が支援している横浜市を相手の「情報公開裁判」の傍聴に東京高裁まで出向き、辛口の助言をし支援を惜しまない。生涯現役、その心意気に私達も励まされている。





             追  伸

2週間前に急に体調を崩して入院、2014年8月8日、家族に見守られ眠るように静かに永眠されました。神奈川の巌窟王として闘い抜き、老いて尚気力は若くこれからという時、偉大な人物を失いました。享年78歳で闘いの人生に幕を閉じました。合掌!





トップへ(vulunteer)





inserted by FC2 system