ボランティア

21、石流れ木の葉沈む日々に

     ー三菱樹脂・高野不当解雇事件全面解決ー

    (1963年09月30日〜1976年03月01日  13年)


三菱樹脂・高野
1、入社時の身上書を理由に解雇
  三菱樹脂高野不当解雇事件は、入社の際の身上書に、「学生運動をしていた事を隠した」「君の考えは会社にとって好ましくない」として、試用期間終了直前に本採用拒否・解雇を言い渡された事件です。

2、裁判の経過

 1)1963(S38)年09月30日、東京地裁へ地位保全の仮処分申立
    1964(S39)年04月27日、仮処分決定出される
高野さん全面勝利の決定であったが、会社は組合の粘り強い自主交渉にも拘わらず、職場復帰をさせなかった。

 2)1965(S40)年06月25日、東京地裁へ本裁判提訴
     1967(S42)年07月17日 東京地裁で高野勝訴の判決出される。
この東京地裁への提訴は、敗訴決定を受けた会社側ではなく、勝訴決定を受けた原告高野側であり、敗訴決定を受けた三菱樹脂が本裁判提訴も行なわず、職場復帰もさせないところに大きな特徴があります。

 3)1967(S42)年07月17日、敗訴した会社側が即日東京高裁へ控訴
    1968(S43)年06月12日、「控訴棄却」で高野側の勝訴判決。
  第一審被告が第二審では原告となるという、複雑で陳腐な裁判であったが、地裁判決より前進した内容で、高裁判決も高野側が勝訴する。

 4) 1968(S43)年6月25日、会社は最高裁判所へ上告
     1973(S48)年12月12日、最高裁大法廷で判決。

   「主文ー原判決を破棄する。本件を東京高等裁判所へ差し戻す」 というものであった。

3、解雇撤回・職場復帰を勝ち取る

  以上のように、三菱樹脂高野裁判は高裁まで3連勝したが、15人で構成される最高裁大法廷において、東京高裁へ差し戻し再審理をするという、高野側敗訴の不当決定が下された。この高野不当解雇事件は、首都東京は勿論全国的な支援の輪が広がり、全国に知られる大闘争として、世間の注目を集めました。その運動は、裁判係争中から都心を揺るがすような規模で行なわれ、特にメインバンクである三菱銀行への包囲抗議・要請行動は大規模で頻繁に行なわれました。
 こうした運動を背景として、1975(S50)年11月27日、東京高裁に於いて和解勧告が提案され、双方が受け入れて和解交渉が行なわれる事となりました。そして、1976(S51)年3月1日付けで、解雇を撤回し高野さんの職場復帰が実現しました。こうして、三菱樹脂高野不当解雇事件は、最高裁大法廷で「東京高裁へ差し戻し再審理」という敗訴判決にも拘わらず、大規模な運動を背景とする自主交渉による合意を、裁判所和解とし、13年に及ぶ闘いに終止符を打ったのです。

4、首都圏を揺るがした争議が解決

  この争議は、1976年3月に三菱樹脂が解雇を撤回し、高野さんの職場復帰を認めて解決しました。私達、人権裁判が1973年に始まりましたから、3年後に勝利解決したことになります。この闘いは、首都東京は勿論、全国的に支援の輪が広がり、大闘争となりました。私たちは裁判提訴直後であり、多摩川を隔てた隣での闘いに大きな関心を持って見守るのは当然です。しかも、三菱樹脂のメインバンクは三菱銀行であり、大手町のNKK本社ビルとは道路1本隔てた正面が三菱銀行本店の建物です。終盤、三菱銀行本店への包囲要請・抗議行動は毎週大規模に行われました。三菱銀行本店へ勤務する友人の話では、包囲行動が行われる日は、課長以下管理職が招集され、階段の上下を警備で固め、一日中仕事にならなかったとの報告を受けていました。何も抗議行動に集まった人達が銀行へ突入する筈もなく、銀行の動揺振りから判断し、この争議の終結は近いと感じたものです。神奈川争議団とは直接関係ない争議でしたが、最終盤包囲行動に何回か参加し、闘いに勝利する何たるかを学び、記憶に印象深く残る闘いでした。


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