ボランティア

20、苦節27年川崎重工近藤正博配転拒否不当解雇撤回闘争

     ー最高裁決定が確定しても解雇撤回を勝ちとるー

    (1978年10月09日〜2005年09月21日  27年)


1、はじめに

  神戸製鋼の争議報告で話が神戸に飛べば、どうしても欠かせない争議が存在する。22歳で不当に解雇され、最高裁で不当決定が確定しても挫けることなく27年間闘い抜き、2005(H17)年9月21日に自主交渉による和解によって解雇を撤回させ勝利解決した、川崎重工近藤正博君の不屈の闘いを抜かすわけにはいかない。彼とは、私が神鋼争議で神戸へ何回か学習会に呼ばれたり、幾つかの争議支援で行ったのを含めれば、都合15〜16回は神戸へ足を運んでいる。その都度何回も顔を合わせ、又彼が神奈川へ来た時には支援活動をして協力してきた知己の間柄である。

 年齢は私より15歳下である関係から、ここでは敢えて親愛の情を込めて君づけで呼ばせて頂きたい。27年間闘い抜いたと言えば、一般的には心身共に頑強でさぞかし屈強な人物を想定される方が多いかも知れない。しかし、あんに反して彼は色白で優男、女形にしても立派に通用する好男子である。その彼が何ものにも挫けない芯の強さ、何処にそんな力が秘められていたのか、勿論夫人や家族の理解と支えがなければならず、職場や周囲の多くの仲間の支援に守られ援助がなければ挫け、一人では闘えませんが、そうした中での彼の健闘振りを簡単に紹介しておきたい。

2、配転拒否を理由に不当解雇

  近藤君は、兵庫県神戸市に本社を置く造船・重機では大手である川崎重工株式会社(以下「川重」という)神戸工場へ勤務していました。1789(S53)年5月16日、近藤君に対して岐阜工場への遠隔地配転が命ぜられました。当時彼は若干22歳であり、その半月前に職場で知り合った尚子さんと婚約したばかりでした。結婚を真近に控え、母親の介護の必要性を理由に配転を断りました。会社は連日執拗に配転を迫り、尚子さんの自宅にまで押しかけるという卑劣な手段まで使いました。「君はもう岐阜の人間だ」と、仕事もタイムカードも取り上げてしまいました。尋常であれば、新たな人生の門出で喜びに満ち溢れている筈の結婚を、会社は「そんなもん君、平凡だよ配転こそ神聖なんだ」とうそぶく始末。更に「君は職場の秩序を乱し、会社に盾ついたんだから、よって解雇する」と、10月26日の結婚式直前、配転拒否を理由に8月17日、近藤君を不当に解雇したのです。

3、近藤君解雇の背景

  翌年の1979(S54)年3〜4月、川重は「第一次造船不況」を口実に、4,500人の人員削減を打ち出し、「希望退職」とは名ばかりの退職強要を行い、多くの労働者が泣くなく職場から去らざるを得なかったのです。そして、ムリヤリ長年精励勤務し親しんだ職場を奪われ追われていった人は、会社の当初の目標を大幅に上まわる数に達しました。この人減らし「合理化」の嵐が吹き荒れる半年前、22歳で結婚式を直前に控え、将来を夢見ていたごく普通の青年、近藤正博君が狙われ、”見せしめ”として解雇されたのです。企業エゴを達成する為には手段を選ばず、「会社にたてついたら、あーなるよ」という、半年後に計画していた退職強要の布石として、他の労働者への”踏み絵”として犠牲にされたのです。

4、近藤君の法廷での闘いが始まる

  1978(S53)年10月9日に神戸地裁へ、地位保全仮処分申請を行なうと同時に、同日「近藤君を守る会」                        (支援する会)が結成される。

 1980(S55)年6月27日、神戸地裁で近藤君地位保全の勝訴決定が出る。
          会社は一週間後に、大阪高裁へ控訴(特別抗告)する。

 1983(S58)年4月26日、大阪高裁で近藤君敗訴不当判決。(仮処分の)同年7月25日、神戸地裁へ本訴審を提訴。

 1989(H1)年6月1日、神戸地裁で敗訴不当判決。同月・大阪高裁へ控訴。

 1991(H3)年8月9日、大阪高裁で「控訴棄却」の敗訴不当判決。   8月20日、最高裁へ上告。

 1992(H4)年10月20日、最高裁「上告棄却」の敗訴不当決定。

  ※ 2005(H17)年9月21日、自主交渉による和解解決

5、最高裁敗訴決定後広がる支援の輪

 司法の場での判断が出されても、労働者の連帯と支援の火は消えるどころか、益々広く大きく燃えあがり、支援は大きく 広がって行きました。「近藤君を守る須磨ニュータウンの会」や「近藤君を守る明石地域の会」等、地域ごとの支援組織があちこちで結成されると共に、最終的には「川重・近藤君の不当解雇撤回支援共闘」という、労働組合や民主団体、そして各地に結成された支援団体が組織として加盟し、個人も参加する巨大な支援組織が結成されました。そして、地域から川重を世論で批判し包囲する強力な態勢が確立しました。

同時に、近藤君をジュネーブへ派遣し国連人権委員会への働きかけを行い、国際世論にも訴えてきました。近藤君自身も兵庫県下は勿論全国に飛び、団体署名や個人署名を集めに各県を廻る全国行脚に取り組みました。行った先では、地元の争議団や労働組合が宿泊の手配から要請オルグ等の準備や受け入れ態勢を整えてくれます。そして、地理に明るい案内人と車を手配してくれ、労働組合や民主団体を案内し、各団体の組織数以上の個人・団体署名や支援を要請し、カンパを訴えて廻ります。通常一人争議では財政が困窮していますから、片道切符で出かけます。そして出先の県で、要請オルグをしながらカンパを訴え、宿泊費や帰りの交通費を募金を募って確保しなければ帰れませんから必死です。しかも、遠方では交通費が掛かりますから有効に活用する為、隣県の何県かを廻り、一週間はオルグ活動に専念して帰宅する事になります。

  こうした本人の奮闘と支援者の協力によって、裁判所宛の個人署名2万6千筆、川重社長宛の要請署名6万7千筆、メインバンクである第一勧業銀行宛の団体署名1900団体、そして地労委宛の団体署名8千団体など、全国から署名が寄せられてきました。同時に、川重本社前での包囲総行動には、400人、500人、700人という規模で支援者が駆けつけ、何回も抗議要請行動を行い、回を重ねる毎に輪は大きく広がり、固く閉ざした川重の門を開けさせ、交渉へと進んで行く事になります。

6、仮処分での勝利が重い足かせに

  近藤争議は神戸地裁での地位保全仮処分で一度勝訴しています。これが後に、大きな障害となり、逆に足かせとなったことです。地位保全の仮処分で勝訴したため、解雇時点から高裁で逆転敗訴決定するまでの4年半の間は、賃金は保障され支払われていました。その間の合計額は605万664円となります。ところが、1992(H4)年10月20日の最高裁での敗訴決定は、併せて近藤君へ仮払いした金額に年5分の法定利息を付け、川重へ返還する内容で確定してしまったのです。これを受けて会社は、近藤君に対して支払い済みの賃金と利息金約一千万円の返還を迫ってきました。争議を長年続けて来て、借金生活を余儀なくされ支払える筈は有りません。会社はこれを盾に、解決の話し合いに応ずるどころか、以後これが大きな障害となって横たわり、解決への進路を阻む事になります。

7、職場の仲間が差別是正の争議を起こし援護

  1994(H6)年6月14日、職場の仲間17人が、労働組合運動を理由とした昇格・賃金差別の是正を求めて兵庫県地方労働委員会(以下「地労委」という)へ救済を求めて申立を行ないました。職場の仲間は、自らの賃金昇格差別を認定させ是正させることもさることながら、近藤君の解雇を撤回させ、職場復帰を勝取る事を最大の目的として、後から援護の闘いに立ち上がったのです。川重本社への包囲抗議行動は飛躍的に規模を増し、本社包囲総行動は500人〜700人と大きく膨れ上がり、以後、年に数回大規模に取組まれる事になります。又、全国行動や個人・団体署名も取組まれ、地労委への要請や社長への要請で高く積み上げられるほど、支援の輪は広がって行きました。

  2003(H15)年12月9日、地労委は川重の不当労働行為を認定し、労働者救済の勝利命令を出しました。会社は、中労委への不服申立を行なわず、地裁への行政訴訟を起こすこともなく、地労委命令を受け入れました。そして、自主交渉による話し合いを粘り強く行い、2005(H17)年9月21日、和解による争議の全面一括解決に至ったのでした。

8、苦節27年の闘いが実を結び解決

  2005(H17)年9月21日、青春と生活をかけた長い闘いに終止符を打ち、和解による解決をみました。

   その内容は

 1) 憲法に定める基本的人権、労働諸法令を尊重して公平な人事施策を実行する。

 2) 近藤さんへの仮払金の返還請求権を放棄する。

 3) 解決金を支払う

事を「和解協定書」をもって確認したのです。
最高裁での不当決定が確定し、司法の場では決着した事件でしたが、当事者間の自主交渉によって、和解解決に至ったのです。

9、「貴重な27年間で感謝でいっぱいです」

  22歳という若さで、しかも結婚を真近に控えて解雇され、青春の一番良い時期を企業の独善によって、厳しい争議に明け暮れする生活を強いられ、人生の大半を企業の横暴によって翻弄される事を余儀なくされた近藤君。解決後に出版された総括集「明日をつくるたたかい」のなかで、「なにもかもが初めての経験でしたが、すべてが貴重な27年間でした。」そして、「川重はひどい会社です。しかし労働者は、心のあたたかい人ばかりです。すべての支援してくれた人に感謝。これからの人生、27年の教訓を活かしていきたいと思っています」と結んでいます。

  会社は、支援組織の運動によって、世論に包囲され、解決しなければならないところまで追い込まれた訳ですが、仮払金の返還を放棄し、解決金を支払って和解しました。これは、決して会社の温情でも理解ある態度からでは有りません。あくまでも仮払金の返還を請求すれば、”死人にムチ打つ会社”として後生に語り継がれ歴史に大きな汚点を残し、一生世論から追求されることを恐れ、それを避けたいが為に取らざるを得なかった措置にすぎません。

  和解して争議が解決をしても、会社の酷い仕打ちは一生涯彼の頭からは消えないし、許せない気持ちは変わらないと思います。いくら人生を悟ったかに見える人間でも、人ちしての尊厳を傷つけられ、生活や家庭を土足で踏みにじられた恨みは、容易く許せるものでないことは私にも良く理解できます。反面、共に闘い支援してくれた仲間や労働者に対する信頼と感謝の気持ちは熱く胸に響いて消える事なく彼の心に残るでしょう。幸い彼は解決時に49歳でしたからこれからの人生を家族と有意義に過ごしてもらいたいと念ずるのみです。若くして解雇され、苦難の道を歩まざるを得なかった近藤君が、50歳から新しい自らの道を歩む進路が開かれたことは、個人的な感情ながら救われた思いがします。

10、労働者の連帯と労働争議の果たす役割

  神奈川県と兵庫県との共通点は、大企業の生産拠点として、大工場が集中していることです。神奈川は更に首都東京の隣県として、又沖縄に次ぐ基地県としての要衝であり、当然資本の労務管理も一段と厳しさを増します。東京に集中する本社機能が麻痺する事よりも、工場が麻痺し生産活動がストップする事を一番恐れる資本の労務政策は、強烈さを極める事になるのは当然であります。しかし、作用に対する反作用で、抑圧する力が強ければそれに比例して労働者の反発力も強くなるのが弁証法の法則です。神奈川では、解雇事件や昇格・賃金差別事件が多く発生し、名誉な事ではありませんが、労働争議の先進県とも言える地理的な特徴を持った所であると言えます。従って、数多い争議から経験や教訓を学び取り、そこから総括し運動論として一定の理論化をし蓄積されています。

  兵庫県は、大企業の生産工場が集中する点では神奈川と似ていますが、地理的にはやはり首都から離れたローカル県であると言えます。私は元NKK(現JFE)に勤務していた関係で、鉄鋼という同じ産別の神戸製鋼争議団とは緊密に連携し、支援をしてきました。集会や支援活動にも参加し、神戸へは十数回足を運んでいます。前記したように、神戸製鋼争議団は、出向拒否裁判2件と昇格・賃金差別事件と合わせ、3つの争議を抱え闘っていました。2001(H13)年6月26日、賃金差別事件の兵庫地方労働委員会(現県労委)の命令が出される直前、自主交渉によって3事件の一括全面解決が図られました。このように闘わなければ、憲法に明記され保障された基本的人権も守られず活かされません。一つひとつ闘い勝ち取り憲法の条文をを補完していく、争議で闘い勝利するとは、労働者の生活と権利を守るだけにあらず、社会進歩に寄与する重要な意味を持つと確信するものです。川重近藤解雇事件の勝利解決は、そうした意義ある闘いの一つであったと言えます。

11、まとめ

  このように、私が神戸へ行った時には近藤君とも顔を合わせました。学習会には、川重争議団の仲間も参加して私の話を聞き、海員会館へ宿泊して交流会にも残り、議論に加わる人もいました。2002(H14)年12月9日、「全国造船産業16事業所共同宣伝行動」と銘打った川重争議団の全国行動で、兵庫県から近藤君を含めて数人が神奈川へ来ました。前夜は横浜の中華街で神奈川の支援者との顔合わせ、お酒も軽く酌み交わして交流会を行い、翌日の行動計画の打合せと準備を整えました。

  当日9日は、近藤君ともう一人の2名が、NKK鶴見造船所(現JFE)の門前でチラシをまき宣伝を行ないました。私と鶴見造船の仲間が支援し一緒に宣伝行動に加わりました。当日神奈川は朝から生憎の大雪で、早朝から出勤の途切れる9時まで、チラシをまき一緒に宣伝を行ないました。手が凍える寒い雪の中の宣伝行動でした。宣伝が終った後、工場前にある定食屋で温かいみそ汁で朝食を食べ、凍えた身体を暖め、激励して駅まで見送りました。

  それから2年9ヶ月後の2005(H17)年9月21日、最高裁不当決定判決から13年間、粘り強い闘いで司法の場では決着済みの近藤正博解雇事件は、川重との当事者間の解決交渉によって和解が成立しました。勝利解決の朗報は、その日のうちに神戸の友人から私へ届けられました。




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