ボランティア

18、NKK鶴見中高年差別争議ー熟年の誇りー

       (1993年8月3日 〜 2001年7月26日   8年)



T、はじめに

熟年の誇り
  この闘いは、同じNKK京浜の隣にある鶴見造船の仲間が、起ちあがった闘いであり、私が原告として闘った前記「役選介入事件」と、ほぼ同時併行して進んだ争議である。しかも、私は自らの争議の原告として闘いながら、鶴見中高年差別争議支援する会の事務局に指名要請されたので、二つの争議を同時に闘い抜き、我が事として、深い関わりを持つ内容の闘いであった。

  55歳で3万円の賃金カットは、NKK全体のに掛けられた攻撃であり、鉄鋼で働く私達にも同時に降り懸かる不利益でもあった。だが、その問題で闘うかそうでないかの差によって、違いが出てくるのが現実である。鶴造の皆さん(10%)は、闘いによって勝利解決し損失分は取り戻し救済されたが、闘わなかった鉄鋼部門の労働者(90%)に対しては会社は知らん顔、55歳3万円のカットは実施されている。

 8年間闘ったか否かの差であり、闘わなければ権利は守れない厳しい現実の証であり、全ての事柄に共通して適用されるのである。その典型として寝食を共に闘った仲間の闘いを紹介しておきたい。尚、私が関わった争議は、全て勝利解決しているが、共通しているのは多数の支援者が多彩な運動を展開しているが、その内容は、原告団・弁護団・支援する会事務局で集団的に討議し、作成し発表した声明文に集約されています。重複しないよう、当該争議の特徴的な部分を掲載してありますので、その旨ご了承ください。

U、闘いの背景と経過

1、なぜ裁判に起ち上がったのか
  いくら不満があっても、いったん労働組合と会社が協定してしまえば「やむをえない」、と諦めてしまうのが一般的です。ましてや大企業の中にあっては尚更です。NKK鶴見の中高年賃金差別争議は、その意味で全国的に画期的な闘いであったと言えます。55歳から月額3万円カットを中心とする賃金制度等の改悪は、鶴見事業所だけでなく、NKKの京浜製鉄や福山と製鉄部門を含め、全社的なものでした。このうち裁判に持ち込んだのは鶴見だけでした。組合員数では、約1200人(当時)で全社員の一割程度にすぎず、当初から厳しいものがありました。しかし、鶴見には闘いに立ち上がる土壌がありました。

  第一に、職場に「NKK鶴見・希望の会」という存在があったことです。希望の会というのは、「定年まで働こう」という一点で結集した職場の自主的な組織で、1986年に作られた会で、かつてない多くの労働者がこの会に結集しました。そして、希望の会は多くの成果をあげてきました。原告の母体となったのは希望の会です。職場要求を掘り起こし、ビラや職場集会での発言などを通じて職場に根を張ってきました。政党、思想信条にこだわらない幅広い人たちの結集体にふさわしく、ゆるやかでのびのびと活動してきました。私たちは他の企業の人たちや他の争議団の経験や教訓に学びながらも、それを機械的・教条的に受け入れるだけでなく、自分の頭で考え、創意ある活動をしていくことに力を注いできました。多くの要求を実現したことから、職場労働者の希望の会に寄せる期待は大きく、工場門前で行う活動資金カンパは、少ない時で1回9万円、多いときは13万円も寄せられていました。このように希望の会の活動は職場の労働者に支えられてきました。裁判に訴えることができたのもこうした活動が土台にあったといえるでしょう。

  第二に、あまりにも低い賃金をさらにカットしようとした会社への怒りです。勤続年数が30年近くになるベテランでも月額32万円という低賃金なのです。それを会社は「当社の高齢者の賃金は、世間や造船他社に比べて優位にある」とウソを言って、55歳からの賃金を3万円(約一割)カットしてきたのです。組合も会社に協力して、若干の手直しをしただけでわずか2ヵ月で妥結してしまいました。「30年も40年も働き続けた最高の熟練労働者が、55歳になったからといって、一割もの賃金をカットされるなんて、『ふざけるな、この野郎!』と言いたい。そう思っている人は職場で百や二百人じゃないと思う」許せない、がまんならないという怒りが、闘いの原点です。それが裁判に踏み切らせました。提訴当時、55歳からの賃金カットの対象者は3名にすぎず、あとの17名は55歳未満で、まだカットされていませんでした。それでも将来カットされることが確実なので原告団に加わったのでした。

2、闘いの経過

   争点は何だったのか

  1993年8月3日、鶴見と浅野ドックに働く労働者20名が横浜地裁に提訴し、この争議は始まりました。その日、NHKテレビは夜のニュースの時間で報道しました。新聞も翌日、朝日、毎日、東京、神奈川、赤旗などが報道しました。NHKテレビまでが報道したのは、大企業を相手に、「労使双方が結んだ協約は違法だ!」という闘いに挑んだことが、特筆すべき争点の裁判だったからでしょう。

  争点の第一は、これが不当な「年齢差別」であるということです。「造船不況」の下で、会社は現場配属の新規高卒者の採用を手控えたため職場の平均年齢は40代後半から50代となっていました。つまり、中高年者が主力となってNKKの造船現場を支えていたのです。昨日と全く同じ仕事をしていて55歳になったというだけで、何の代償措置もなく賃金を一割もカットするというのは不当です。これは、法の下の平等をうたった憲法第十四条および労基法第三条の均等待遇に違反するのです。そして国際法の国連人権規約やILO条約の第162号勧告では、労働者の年齢差別を禁止しており、これにも反するのです。

 争点の第二は、労働組合が不利益を受ける当事者である組合員の意見を聞こうとせず、非民主的な手続きで締結してしまった労働協約であり、これは無効だということです。つまり、組合のあり方を問う裁判でもあったわけです。本来、自由と民主主義を一番大事にしなければならない労働組合が、十分な討議もさせずに2ヵ月という短い期間に超スピードで妥結してしまったのです。若年層の低賃金をカバーするために高齢者から賃金を奪い取るというのですから、組合員同士で利害が対立する問題でした。従って、時間をかけよく話し合う必要があったのです。なぜ彼らはそれほどまでに急いだのか?この問題をめぐって希望の会は門前宣伝ビラや職場集会での発言などを通じ、制度の改悪をやめさせようと訴え続けました。その結果、職場では組合の思い通りにはいかなくなってきたのです。

  職場集会で否決する職場も出てきました。ある職場では賛成が少なかったため、当日休んだり出張している人に電話をかけて聞き取りをし、賛成票を水増しするという前代未聞のことまでやったのです。また、ある職場では拍手で採決をとると言って、賛否伯仲であったにもかかわらず、「賛成の方が多かった」として賛成にしてしまいました。組合が「不退転の決意で臨む」と言明したのは、組合員の不満を受けてがんばるという決意ではなく、会社の意に沿うような形で早期決着を図るためのことだったのです。大企業職場で、執行部提案が否決されるという事自体、嘗てなかった出来事であり、いかに妥結の仕方が強引かつ卑劣であったかを物語るものでした。

   V、 法廷での闘い

     横浜地裁での闘い

 横浜地裁に訴えたものの、情況は決して甘くはありませんでした。リストラ「合理化」の嵐の中で、高齢者がやめさせられたり、賃金ダウンの仕打ちを受けたりすることに対し、不満はあっても「やむをえない」とする風潮が世間にあったからです。また、高齢になれば労働能力が下がり賃金カットも仕方がないという一部の世論も障害となりました。ましてや、労使協調の組合とはいえ、組合が会社と協定を結んでしまったわけですから、組合員が裁判に訴えるというヶースは余りありませんでした。

 しかし、「中高年差別をはねかえす神奈川の会」ができ、そこがよびかけ人となって集会を開いてくれたのは、我われを勇気づけてくれました。神奈川でも太陽東洋酸素労働組合が私たちに続いて中高年差別の裁判を起こし、気運が盛り上がってきました。
 横浜地裁の法廷では、次のようなことを明らかにして会社側を追いつめました。

 @ 賃金カットをしなければならないほど会社の経営状況は悪くはなかった。
 A「他社に比べ、NKKの高齢者の賃金は優位にある」というのはウソである。
 社会水準との比較でも優位という会社主張のウソも具体的な数字を上げて反論した。
 B 高齢者の労働能力低下論の誤りを、最新の労働科学の成果をもとに指摘した。
 C 下山房雄、芹沢寿良、古屋孝夫の三氏には賃金論の学者・研究者として、55歳からの賃金カットという年齢差別  の誤りについて詳しい意見書を書いてもらい提出した。
  D 労組は組合員の中に大きな不満があったのにそれを強引に押さえつけて非民主的な手続きで会社と協定を結んでし  まった。
 E 組合役員を法廷に引き出し、手続きの不当性を暴き出した。
 F 高齢者からカットした分は若年層に充当するというが、中堅層も生涯賃金では損をするということを暴露した。ま た、若年層に回わすといっても若年層の採用をほとんどしていないので、会社がネコババしていることを突いた。
 G 会社側の主張はまずはじめに賃金カットありきであって、理屈は後から付けたものであった。原告は会社側の主張  がクルクル変わる矛盾を突き具体的に反論した。

  こうしたことを明らかにする中で、当初「門前払い」されるかもしれないという情況をはね返し、「相手を土俵の中に引きずり込み、互角の闘いにまで持ち込んだ」というところまで追い込んだのです。
 そして、横浜地裁に公正な判決を出すよう、全国から3、047団体、個人署名28、613名を集め提出しました。また、1999年12月に結審してから7ヵ月後の判決まで、雨の日も風の日も毎週欠かさず、35週にわたって横浜地裁への要請行動と石川町駅前での宣伝行動をくりひろげ、7年間に35回に及ぶ口頭弁論を行い、原告団が会社側を圧倒しました。しかし、横浜地裁の南敏文裁判長は2000年7月17日、「3万円の賃金カットは、労働者にとって苛酷とまでとはいえない」として大企業の言い分に屈した不当判決を出しました。原告と支援する会、弁護団は、この不当な判決に怒りを燃やし、即刻東京高裁に控訴しました。

    東京高裁での闘い

 会社は、東京高裁でも「労使自治」を盾に裁判所が関与する問題ではないと主張し、労働協約は有効である、早く結審してほしいと主張しました。それに対し、私たちは横浜地裁判決に徹底的な反論を加えるとともに、全員が陳述書を再提出しました。控訴人、岡崎は、賃金が安いため娘を嫁がせるとき親としてどれだけみじめな思いをしたかを切々と語り、労働実態、生活実態を陳述しました。控訴人を代表して証人に立った高間もベテランも進歩の途上にあることを実績をもとに証言し、横浜地裁の判決の不当性を追及しました。

  こうした訴えが裁判官の心を動かしたのでしょう。東京高裁は2回の□頭弁論のあと、和解の勧告をしました。そして2月22日以降7回の和解交渉がもたれ、2001年6月26日、異例ともいえる裁判所の和解勧告書が出され、それを双方が受諾するということで和解が成立しました。 裁判所の示した解決金は700万円ですが、これはカットされた賃金額に相当するものであり、そのことが和解勧告書の表現から分かるようになっており、一審の横浜地裁判決を事実上くつがえす内容のものでした。会社側と私たちとの自主交渉は続いていましたが、東京高裁での和解受諾後、交渉は急速に進展し、1ヵ月後の7月26日には全面解決の調印となりました。制度の撤回までには及びませんでしたが、実損分(カット分)に相当する金額を高裁で取り戻すことができましたし、会社との自主交渉で高裁での解決金とは別にその数倍に及ぶ解決金を手にすることができたのです。また、職場に残る原告たちの処遇についても、解決にふさわしい措置を行うなどの約束もさせたのでした。

  和解交渉が進展したのは、交渉だけに頼らず、併行して社会的包囲の運動の手を緩めず、全国行動を展開したこと、銀行などへの要請行動など、さまざまな行動を連続して行ったことが大きく影響し力になったと思われます。

     法廷での闘いまとめ

  私たちは、法廷での闘いを弁護士まかせにせず、現場の実態を知るのは自分たちであり、自らの闘いと位置づけて取り組みました。会社は法廷の中で「原告側の計算で間違いないか」と問われ、「ほぼその通りです」と認めざるをえませんでした。会社は当初、歳をとると労働能力が落ちると主張していましたが、原告側が学者の論文や労働現場の実体を明らかにする中で、会社はすぐそのことを言わなくなりました。また、55歳になると標準生計費が下がるので賃金を抑えてもいいという主張に対しても、原告側は政府の発行する資料をもとに反論し、会社の言い分のデタラメさを追及し会社側を圧倒しました。

  私たちは当初、法廷では会社を相手としてやっていましたが、実はこの賃金カットを認めてしまった組合側にも問題があるのだから組合幹部も法廷に引っ張り出す必要があることに途中で気がつきました。組合幹部の証言で、次のようなことが明らかになりました。賃金カットをされる人たちの意見を特別に聞くようなことはしなかったこと。高齢者からカットした分を若い人たちに配分するという会社側の言い分について、「若い人たち何人にいくら配分したのか」と質問され、「調査していない」と答えたのです。さらに「なぜ調べなかったのか」と問われ、「会社を信用しているから」と答え、会社との癒着ぶりを自ら露呈してしまいました。「要するにあなたは、組合員の利益より会社の利益を優先させたのですね」と問われ、「結果的にはそういうことになりますね」と白状してしまったのです。
  なかでも原告の岡崎悦明の、娘を嫁がせる時に20万円のお金しか渡すことができず、娘の顔を見られなかったという目頭陳述は傍聴者の涙をさそっただけでなく、高裁の裁判官の胸にも響いたものと思われます。

      W、神奈川争議団の伝統に学び会社を社会的に包囲する闘い

     支援する会の結成
 原告団は、この争議を本当に勝ち抜くためにはNKKという企業を社会的に包囲していく必要を感じました。それは、多くの他争議から学んだ教訓でありました。横浜地裁で勝っても負けても争議は長引くわけで、全面解決を果たすためには会社が「もう降参」とネを上げるまで社会的に包囲する運動が必要となります。それにはどうしても支援してくれる組織が必要です。横浜地裁での結審を間近にした1999年7月頃から具体的な準備に取りかかり、同年11月4日に「NKK中高年差別争議を支援する会」として結成しました。支援する会は、鶴見事業所のある鶴見地区と浅野ドックのあった神奈川地区から主な役員を出してもらうことにしました。争議の発生した地元を重視したいと思ったからです。その結果、全労連鶴見区労連から会長と事務局長を、また、神奈川地区労連から副会長と事務局次長をそれぞれ依頼しました。さらに、争議の焦点」を明確にするため、副会長に中高年差別をはねかえす神奈川の会からも出してもらいました。その他、争議団や労組、民主的な組織から、争議経験豊かな人材を代表として派遣してもらいました。

  支援する会の結成は、この争議の視野を広げる上でも大きな役割を果たしました。どちらかというと、「賃金制度をめぐる会社と従業員の争い」といった性格から今一歩脱皮し切れないきらいがありました。しかし、支援する会ができてから、「人間の尊厳を守る闘い」、「物造り日本を守る闘い」、「リストラ合理化から地域経済を守る闘い」へと、争議の性格は高まっていきました。支援する会は、一審の横浜地裁で結審となる前に結成されていたため、横浜地裁の不当な判決に対し、すぐ対処方針を決め、東京高裁での逆転勝利をめざす行動を果敢に行うことができました。争議団の経験がここでも生かされたといえます。

  その基本的な基準として、神奈川争議団が長年の闘いで経験し築き上げてきた、「要求を明らかにする」、「情勢分析を明確にする」、「闘う相手を明確にする」、さらに「自主的主体的運動を行う」、これらの闘いの法則を自分たちの争議に当てはめながら、後半の運動を構築していったのです。そして、支援する会の結成はこうして、会社や銀行にとっても無視できなくなり、申し入れや要請に対しても「動かざるを得ない」情況をつくり出したといえます。銀行側が「会社には正確に伝えておきましたよ」と言ったことと、会社側が「○○銀行にも行ったんですって?」と言うこととが合致していることをみても、効果のほどが分かります。支援する会は、原告の意向を尊重しながら方針を決めていき、おおらかに実践していくことができました。

    株主総会を重視し活用

  私たちは株主総会を重視してきました。それは、株主総会が一応一般社会に開かれた企業の公式な行事であること、株主であれば一定の発言が出来ること、会社の答弁や反応を引き出すことが出来ること、それを宣伝に使える事などからです。情報公開やアメリカ流の経営指標の重視、企業分析が重視される風潮の中で、社会的にも株主総会を重視する見方が強まってきました。そうした事から、私たちも株主総会を重視するようになったのです。そのため、原告個人または原告団、支援する会で会社の株券を購入し、株主総会への出席権を手にしました。株主総会では、会社の経営上の問題点を具体的な事実をあげて質問します。その場合、単に痛いところを突くだけでなく、企業が健全に立ち直るための提言という観点で発言することが大事です。なぜなら、そこに出席している人は、会社の役員、社員そして一般株主だからです。その人たちは会社の発展を期待している人たちを「敵」に回すことはありません。

  1996年から株主総会に出席し、争議の早期解決を迫りました。1998年には、希望の会顧問の小川善作さんが「20世紀中に起きた争議は20世紀中に解決すべきだ」と迫ったのは会社役員たちの耳に強く響いたようでした。「争議が残っているのはよくない。解決した方がいい」という抽象的な答弁を私たちは宣伝面でも活用しました。1999年には、「裁判のなりゆきを見守っている」という答弁にとどまりました。しかし、「争議を残したままでは企業は発展しない」という指摘に、一般株主からは「話を聞いていたら、この会社がますます不安になってきた。社長、しっかりせい」との声があがりました。2000年には、会社はついに「争議解決のために誠意をもって努力したい」との答弁を引き出したのです。

    全国行動と支援する会の果たした役割

こうした答弁を弾みにして私たちは事業所への申し入れや銀行への要請のとき最大限活用しました。「副社長がこう答弁してるんだからあと一押しで解決できる」と判断し、そして、運動も神奈川や近県だけでなく全国に広げていきました。2000年11月から12月にかけ、全労連本部や神奈川労連などの協力を得て全国主要12都市へ要請団を送り、NKK本社や全国の事業所や支社・支店、背景資本であるみずほフィナンシャル・グループ銀行の本店や全国の支店等への申し入れや要請行動を行いました。更に主要駅頭でのチラシや宣伝で市民へ訴え、団体署名のお願いなど、全国的規模で行いました。この行動には支援する会をはじめ、全労連、地方・地域労組、民主団体、争議団などなどの強力な支援があったからこそできたのです。事前の準備や根回し等、支援する会の果たした役割は大きなものでした。こうした全国行動は、原告一人ひとりに自信を持たせるとと共に、運動を広げ、NKKと銀行に対して大きな影響を与えました。そして、全国に支援の輪を広げ、全国から寄せられた団体署名、個人署名の延べ合計3万余も有効にはたらきました。

    家族会の果たした大きな役割

ドック
  2000年4月2日に結成されました。原告団の家族で構成された家族会は、夫・父の争議を理解し一日も早い勝利判決を願い、裁判傍聴・各種集会・行事や行動に参加して、原告団の活動を支えてきました。原告の家族として一番知りたいのはこの闘いの現状です。そこで原告団や支援する会の皆さんの活動や運動の内容を「家家族会ニュース」に載せて報告することにしました。

 それには@難しくならず分りやすく。A見やすく面白く。B活動や運動の状況。などをマンガチックに描く事で読んでもらえるように工夫し、また直接家族に届くように郵送したことで読んでもらえました。この闘いの意義や情勢も理解されて「生活の苦しさは自分達だけではない、原告の皆が苦しいのだ!こんなことは絶対に許せない。」と家族の中から原告団の活動を支える力が出て来たことです。裁判結審後、半年間毎週一回も欠かさずに続けた駅頭ビラ宣伝、地裁要請行動。月に一度の「女性デー」を設定し、家族会の女性を中心とした宣伝と地裁要請行動では怒りのこもつた切実な気持ちを裁判所に訴えました。

夏の陣馬山への交流キャンプでは、参加者が登山や行楽で楽しんでいる間に、交流会の準備に汗を流しながらの裏方の役割を担い、キャンプの成功にも寄与しました。家族会事務局長が、支援する会の事務局会議に常任メンバーとして会議に参加することで時々の情勢と方針が理解され「家族会ニュース」の内容にも反映しました。原告が出勤している間に、東京高裁への団体署名の準備、全国発送や送られてきた約3700団体の署名の整理・保存に取り組んで来ました。全国行動にも家族会から参加し、オルグ先の組織を励ますと共に中高年差別の闘いを他県に宣伝する役割も果たしました。このように、夫人や親族が家族会を結成して原告を支え、解決に力を発揮した争議は、多くの支援をしてきたが二例目にすぎず、当然のように見えても中々成功しないのが実態です。

      その他勝利解決の要因

  長い不況の中で企業統合の流れが出ていました。NKKも2002年10月の川崎製鉄(株)との統合、日立造船との新会社設立などを控えており、争議を解決し身ぎれいにしておかなければならない、会社として「お家の事情」と必要性があったと言えます。なお、同じNKK内の他の二争議、清水の配転拒否解雇争議と京浜の労組役選介入争議も同時に解決しました。三争議は、常に綿密な連絡や話し合いをしながら共闘してきました。そうした運動の積み重ねが、会社側に争議の解決を決断させたものと思います。

    解決にあたって

NKK中高年差別争議は、2001年6月26日、東京高等裁判所の和解勧告書を双方が受託して和解が成立し、その後の当事者間の交渉により、7月26日の調印をもって争議を解決することができました。

      ー解決内容ー

    職権和解と当事者間の交渉で勝ち取った成果は次のとおりです。

 @東京高裁において横浜地裁の不当判決(2000年7月17日)を実質的に退け、新制度発足以来の新賃金制度によって生じた実損分の回復を勝ち取ったこと。
 Aまた東京高裁の解決金とは別に、当事者間の自主交渉によって争議解決に見合う金額を解決金として会社に支払わせ、不当な賃金制度の押しつけに対する償いをさせたこと。
 Bその他、解決にあたって必要な是正措置を会社に約束させたこと。

     結びにかえて

  全国の皆さんに支えられて全面解決を果たすことができました。その私たちの争議がもし皆さんに。”お返し”できる影響があるとすれば次のようなことではないかと思います。
(1)大企業において、会社と労働組合とが癒着して労働者に不利益をもたらす労働協約を結んだとしても、断固として粘り強く闘えば労働者の権利は守れるということ。

(2)日経連を中心としたリストラ合理化、中高年労働者攻撃の下で、大企業においても年齢差別、賃金カットなどに一定の歯止めを掛ける事が出来るという展望を与えたこと。

(3)労使が合意した労働協約について、同じ組合の組合員がその協約を無効として訴えた争議で、実質的な勝利を収めた稀有なケースであること。非組合員(管理職)が、就業規則や賃金規定の一方的改悪の無効を訴えて勝利した例(みちのく銀行事件)や中小企業で見事そりを収めた例(中根製作所事件)などがありますが、大企業においてはおそらく全国初のケースといえるでしょう。私たちは今回の争議を通じて、年齢差別禁止法を日本でも法制化することが必要だと痛感しています。今回の争議はおかげさまで勝利的解決を収めることができましたが、これからもまだまだいろんな合理化攻撃が予想されます。私たちは身を引き締めてこれからに備えていくつもりです。

                                      
            全国の皆さん、ご支援ありがとうございました。(声明文)

                                      2001年8月6日

                              NKK鶴見・中高年賃金差別争議を支援する会
                               NKK鶴見・中高年賃金差別争議弁護団
                              NKK鶴見・中高年いじめと闘う原告団

  NKK中高年差別争議は、2001年6月26日、東京高等裁判所の和解勧告を双方が受諾して和解が成立し、その後の当事者問の交渉により7月26日、争議は全面解決しました。1993年8月3日、横浜地方裁判所に提訴以来8年に及ぶ永い闘いでありました。ここに、争議を物心両面でご支援いただきました全ての皆様に対し、深く感謝の意を表明するものです。

一、職権和解と当事者問の交渉で勝ち取った成果
  横浜地方裁判所の不当判決を実質的に退け、新制度発足以来の新賃金制度によって生じた実損分の回復を勝ち取ったこと。また、解決金を支払わせて、不当な賃金制度の押し付けに対する償いをさせたことであります。

二、この間の経緯を振り返って見ますと

 (1) 1993年8月3日、横浜地方裁判所に原告20名で提訴しました。
争点の第一は、日本鋼管(NKK)と日本鋼管電工労働組合とが、中高年層の賃金カットに合意して労働協約を締結し、1993年4月、会社は55歳からの賃金を一律・1割カット(約3万円)を強行したことが、中高年労働者に対する人間の尊厳を踏みにじった違法・不当な年齢差別で無効であること。
 争点の第二は、労働組合が不利益を受ける組合員の意見を全く聞こうとせず、非民主的な手続きで決定した労働協約はむこうであること。つまり、組合のあり方を問う裁判でもありました。

 (2)横浜地方裁判所では、7年間に35回に及ぶ口頭弁論で十分な審理を尽くし、原告側が最終的には主張立証において会社を圧倒したしたにもかかわらず、2000年7月17日、南敏文裁判長は「3万円のカットは、労働者にとって苛酷とまではいえない」という、労負者の痛みを無視して大企業の言い分に屈した不当な判決を出しました。
原告と支援する会は、この不当な判決に怒りを燃やし、即刻東京高等裁判所に控訴しました。

 (3) 東京高裁では、横浜地裁判決に対する詳細な反論、全員の怒りを込めた濠述書つ再提出、原告を代表する高間本人ペ尋問の成功などを通して、2001年2月5日和解が勧告され、以降7回にわたる交渉がもたれ、裁判所による和解勧告を双方受諾して合意に達しました。その後、当事者間の交渉により7月26日全面解決の和解協定書を締結しました。

三、この闘いの勝利の要因は

 (1)怒りを原点に粘り強く闘った原告の団結と、迫力ある陳述書の提出、また、弁護団と、学者・研究者の綿密な連携と尽力によって裁判官の心を動かし、強力な和解勧告を行わせたこと。

 (2)支援する会をはじめ、全労連、地方・地域労働組合、争議団などの強力な支援をもとに、本社・本店や全国の事業所、みずほフィナンシヤルーグループ支店への要請行動を行うなど、会社と背景資本を繰り返し攻めたこと。全国からの延ベー万余の個人・団体署名の力で「年齢差別はとんでもない」という世論を作り上げたこと。

 (3)日常的に原告団の母体である職場の「希望の会」を中心として、職場要求の掘り起こしによる問題堤起と会報の発行で、職場労働者の支持を得て闘いを進めたこと。
 (4)横浜地裁による不当判決の直後、最高裁判所が8月「みちのく銀行事件」、11月「中根製作所事件」で「本人の了解なしの賃金カットは不当である」との労働者勝利の判決を下したことにより、大きな励ましと勝利への確信をもてたこと、などです。

四、この闘いの及ぼした影響は

 (1)大企業と労働組合が癒着して労働者に不利益をもたらす労働協約を締結しても、断固として粘り強く闘えば労働者の権利は守られるということ。

 (2)日経連を中心とした、大企業の中高年に対する賃金カットの攻撃をはね返し、全国の中高年差別に苦しんでいる労働者に、大企業においても年齢差別に一定の歯止めをかけることができるという大きな展望を与えることができたこと、などです。

  ここに、これまでのご支援へのお礼と、今後も奮闘する決意を申し上げます。
ありがとうございました。


               「熟年の誇り」総括集へ寄せた私の一文

            先見性と展望を持ち団結して闘い取った勝利
                NKK権利闘争すすめる会・支援する会事務局次長    篠ア 節男

      ついに失業率最悪の5%の大台に。更に自動車や電機で一社数万人のリストラが計画実施されている。そのターゲケットは高度経済成長を支え、日本と企業を発展させた中高年層に向けられ、激しさを増している。労働者に痛みを押しつけ一方的に犠牲を強いることは、労働運動の分野を越え、今や政治的な中心課題として取り組む必要があると思うのだが。「NKK中高年いじめと闘う原告団」は9年前、世間の関心が希薄な時に”中高年差別は許さない!”と、闘いに立ちあがった。当時、現在の情勢を予見したかは別にして、その勇気と先見性には敬意を表します。

  勝利の要因は、「声明」に分析されてありますが、特に神奈川の反合権利闘争の歴史と教訓に学び発展させ、果敢に社会的包囲の運動を展開し、団結した力で困難な情勢を自ら切り拓いてきました。最後は高等戦術を駆使した交渉で高い水準の勝利解決を果たしました。同じNKKで働く労働者として、支援する会で闘いの一端を担え、安堵の念と共に、今後も働く仲間と連帯して闘いぬく所存です。


トップへ(vulunteer)





inserted by FC2 system