ボランティア
16、失われた右腕の痛み(渡辺労災裁判・粘りづよく闘い勝利)

    (1966年10月〜1973年12月25日  7年)




  1966(S41)年4月、NETテレビドラマ「判決」で放映されされた「失われた右腕の痛み」(脚本、深沢一夫)は、職場で働く労働者に大きな反響を呼んだが、この主人公の渡辺義寛さんと家族、「渡辺さんを守る会」の人達は、日本鋼管を相手どった7年間にわたる粘りづよいたたかいの末、ほば全面的な勝利をかちとったのであった。勝利の報告ビラを紹介する。

 労働者の皆さん、長い間のご支援ありがとう”渡辺労災裁判″は勝利しました!

要求額の85%を獲得

昨年(1973(S48)年12月25日、被告日本鋼管と東京医大は渡辺義寛さ(48歳)に対して、(1500万円(年金を含めると2900万円)の損害賠償を支払いました。一人の労働者が1000億円の資本金を持つ大企業を相手に七年にわて裁判闘争を続け、みごと勝利しました。冷延工場、オープン焼鈍で機械を掃除中右腕をまきこまれ、腕を切断し首の骨まで削りとられ一生働くことができない身体にされたのは38年10月のことでした。

 渡辺さんは生産第一で安全対策をおこたった日本鋼管と手術に失敗した東京医大を相手どり3300万円(年金も含む)の損害賠償を要求し、1966(S41)年10月から今日までの裁判を闘ってきました。裁判は46回の公判と3回の現場検証、そして22人の証人調べを行い、会社のでたらめな安全策を現場の労働者、学者等が追及してきました。会社側証人の労務課長、工場長、係長等はまともに答えることもできないみじめな証言ばかりでした。公判は47年12月結審し、裁判所の要請により和解を進め要求額の85%を勝取りましたが、渡辺さんがケガをした38年当時は会社の見舞金はゼロでした(現在は死亡、障害1、2級は800万円)。もし裁判で闘わなければわずかな退職金で会社をほうり出されていたでしょう。会社から謝罪文を出させることはできませんでしたが、要求額の85%の金額を和解とはいえ勝取ったことは他の労災裁判ではあまり例がなく、渡辺さんの大きな勝利といえます。

運動の輪を広げて闘う

 日本鋼管の組合うが支援をしないという極めて困難な中で、現場の労働者が中心となり「守る会」を作り、他の組合への支援要請、署名、カンパ、宣伝等の活動を進めて来ました。そうした中で鋼管労働者が会社の圧力に負けず支援を行い渡辺さんを励ましてきました。又、横浜市従労組、鉄鋼の或る組合(名前は公表できない)、全国金属傘下の各組合、港湾、電機、同盟系の組合、さらに総評弁護団、自由法曹団、学者 、文化人ら広範な人々が支援を行い、テレビ、新聞、総評の働く者の写真コンテストで最優秀賞に選ばれる等運動の輪が広がって来ました。物心両面にわたって暖いご支援をいただいた皆様に心から感謝を申し上げます。しかし、渡辺さんは組合員でありながら最後まで組合が取上げなっかたことはきわめて残念なことであり、今後、労働者が裁判で闘う場合は、「守る会」等を作らなくても、組合が支援を行うよう強く訴えるものです。

いぜん癒らない渡辺さんの身体

労働災害にあった渡辺さんは現在でも切断した腕が痛み、頭痛、めまいが多く、外出する時は薬 を飲まなければならない状態です。渡辺さんをこのような身体にした会社に対し断固抗議するものです。入院や裁判で貯金も使いはたし、奥さんは現在学校給食の調理員として働き家計をささえています。当時7歳と6歳だった二人の子供さんも現在は二人とも高校生になり、家族そろって困難にもめげず10年間闘い抜いてきました。

4連勝の労災裁判

日本鋼管を相手に裁判で闘った稲垣労災、神農労災、清水造船の千葉労災、そして今度は渡辺労災が勝利し、これで会社に対して4連勝しました。現在は新潟からの出稼ぎ労働者の富樫さん(左右の指7本を切断)が裁判で闘っています。このように、労働者の命を奪い、身体を傷つけた会社はことごとく敗北しましたが、今後は災害の発生しない職場づくりのために頑張り、命と健康を守る闘いを一層強化していかなければなりません。7年間の長いご支援ありがとうございました。
    1974年1月7日
                            渡辺さんを守る会





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