ボランティア

15、稲垣をかえせ(稲垣労働災害のたたかい)

(1967年9月20日〜1972年6月30日  5年)


1、 「恋の東芝・浅野のギャング・金と命の交換(鋼管)会社」

 これは鶴見駅を始発とする臨海工業地帯を走る、鶴見線沿線を詠った言葉である。
日本鋼管(NKK)は製鉄業であるため、高炉(溶鉱炉)を抱えており、一度火入れをすると高炉は休止することが出来ないので、24時間連続操業が避けられない業種としての宿命を抱えている。それを2交替で賄うため、一勤務12時間という長時間労働を強いられ、毎日4時間の残業と深夜勤務があるため、残業や深夜手当ての割り増しが付き、高熱重筋・長時間労働を強いられ、生計を維持していた事実を認識せねばならない。

 「金と命の交換」とは、高給取りを意味せず、それほど労働災害が多く、事故による生命の危険と隣り合わせ、自分の命を削るのと引換えに3K職場で働いている事を表現しているのであり、若い女工さんの多い他産業と比較して多少収入が多いのは当然である。稲垣労災は、そうした鉄鋼産業の利益優先・生産第一主義の犠牲者として、労災死したのである。NKKは、1970(S45)年4月1日より、4組3交替制、新勤務制度に移行した。1日二交替12時間長時間勤務から、一日を3組に分けて働く三交替勤務制度を取り入れたが、「労働時間短縮」という名目で人員を増やさず、労働強化と低賃金と引換えに変更にしかすぎないのである。

2、嘗ては独立採算性で

 NKKには、同じ企業で経営されているが、私が勤務するNKK発祥の地である川崎製鉄所と鶴見製鉄所、そして後に新鋭工場の水江製鉄所が建設され、それぞれ独立して運営されていた。稲垣労災は鶴見製鉄所(以下「鶴鉄」という)で起こった問題である。従って、私は事故発生当初は別事業所で深く関わる場所には存在せず、途中から関与した事になる。勿論同じNKKとう企業の関わりは強く、事故の翌年1968(S43)年4月1日には三所が統合されて京浜製鉄所となり、仕事上も人事の交流も徐々に進み、当然情報の伝達も行われるようになる。特に私は、故人の夫人が所属している京浜協同劇団に友人が居たことや、「ゆうづつの家」という共同住宅に、数人の友人がいた関係で稲垣裁判を知り、以後支援の活動に自然に参加していくといった経過を辿ることとなる。

3、I鉄は造船材の製造

 鶴鉄は、南極観測船”ふじ”や”しらせ”等の艦船を建設したNKK鶴見造船所の材料を、主に生産する厚板工場であった。又、かつては、鶴のマークで知られる屋根を葺くトタン板を圧延製造しており、従業員は4千人程度であった。”鉄は熱いうちに鍛えろ”の言葉通り、高温に加熱した鋼片を圧延ロールに通して薄く延ばし鋼鈑にしていく。こうした文字通り高熱重筋の生産現場と、これらの各段階の設備や機械の点検修理を行う機械保全部門とが存在する。稲垣は、汗と埃と油にまみれる3K職場であったが、圧延作業を行う機械類点検保守・修理を受け持っており、故人は1956(S31)年以来10年間、同じ業務を担当してきた熟練労働者であった。

4、利潤追求・生産第一主義・ 安全無視の会社

  企業は一時も機械を止めず生産を最優先する。厚板工場は毎週土曜日を定期修理日にあて、この日稲垣は、修理した加熱炉の戻りラムの水圧テストに立会い事故に遭ったのである。稲垣たちが点検するのは、鋼片加熱炉に鋼片を押し込むプッシャーと呼ばれる水圧装置である。プッシャーは、直径40センチの二本の主シリンダーに高圧の水を送りこみ、シリンダーの中のピストンの役目を果たすラムを動かし鋼片を押し出す。その時の力は、二本のラムを合わせると100トンにもなる強力なもので、一回の作動で5メートルずつ鋼片を炉の中に押し込むことができる。そしてラムが伸びきると、主シリンダーのまんなかにある直径10センチの戻りラムによって元の位置に引き戻される仕組みになっている。この戻リラムは、何度もひび割れが入り、そのたびに電気溶接で穴うめをして使用していた。中を通る水が高圧なためひび割れは致命的なものとなる。点検の結果、稲垣は、10日前に溶接修理したばかりの付近から水が洩れているのを発見したのである。本来老朽化したラムは、新しいものと取替えなければならず、溶接修理では危険だといわれていた。しかし、亀裂部分は7月15日に溶接修理をおこなうと修理会議で決められていた。

5、突然40キロの水圧が

 この日稲垣は、その戻りラムの溶接修理をした下請会社の仕事に立会い世話をしていた。午後2時40分ごろ、修理が終ったので、水を通して試運転を開始した。稲垣は、修理箇所から水漏れがないかどうかを確認して工長に報告する役目だったので、その下請会社の責任者ととに、主シリンダーの上に乗り、しゃがんで修理箇所をじっと見守っていた。外は7月の太陽がギラギラ照りつけていたが、煤煙に汚れた古い工場の中は昼間でもうす暗いため、わずかな水洩れはよほど近づかないと判別できない。徐々に水圧があげられ、主ラムが4回、約50センチほど前進した。それに連結された戻リラムが25センチ移動した。そして、5回目の前進がはじまったとき、突然、戻りラムの溶接部分が破裂、水圧四十キロの水がドッと噴き出したのである。

6、4トンの圧力で吹き飛ばされた稲垣とヘルメット

  40キロといえば、わずか1センチ四方(一平方センチ)に40キロもの荷重がかかる圧力である。そばで見守っていた稲垣は、この水圧をまともに胸に受け、3メートルも吹きとばされ、高さ3メートルの炉床と地面との間に設置されている鉄の階段に叩きつけられたのである。戻リラムの破裂口は、長さが30センチ余におよび、稲垣が胸に受けた水の圧力は4トンにも達していた。ヘルメット(安全帽)は、彼の体が宙に浮いたはずみに吹き飛んで、彼の後頭部は鋼鉄の階段の角に激突し、意識不明となった。稲垣の向かい側や両隣りで同じようにしゃがみこんで点検していた同僚も、その瞬間の出来事をつぶさに見届けることさえできなかったほど、激しい一瞬の出来事だった。吹き飛んだヘルメットには、会社が強制的につけさせた「思慮ある者にケガはない」というワッペンだけがあざやかに光っていた。1967(S42)年7月15日(土)午後2時40分頃に起きた事故であった。

7、金と命の交換会社

 京浜東北線鶴見駅の構内で真下に見おろす、直角に入るホームから工場地帯に向う線路がある。海に面しているので俗に臨港線とよばれる鶴見線である。浅野、安善、武蔵白石と、NKK創設の会社幹部の名前を駅名にしたこの鶴見線は、一日を三回に区切った時間帯に交替勤務に就く労働者を運ぶ企業のための国鉄線である。この線に沿って、NKKの鶴鉄、川鉄、(現在は京浜製鉄所→JFE)、同じく鶴見造船所があり、旭ガラス、東芝企業群、富士電機、東京電力、東京ガス、シエル石油、昭和電工・・・と鶴見の中柩をなす大企業がひしめきあっていたのでる。
 「恋の芝浦(東芝)浅野(旧NKK鶴見造船)のギャング、カネといのちの交換(鋼管)会社・・・給料安いは昭和の肥料、ちよくちよくさわぐは蓄音器、仲をとりもつ富士電機」と昔から労働者の間で唄われてきたように、NKKは激しい合理化と労働災害で知られていた。とくに、1960(S35)年、日米安保条約が改定され、池田自民党内閣が「高度経済成長政策」を打ち出してからは、鉄鋼資本の増産ぶりにはめざましいものがあった。1963年、鶴鉄の製鋼工場には、平炉にかわって転炉が導入された。このため、三分の一の要員で2倍以上の生産量をあげるようになった。「IE工程管理」調査がおこなわれ、労働者の1分1秒の動作がストップウォッチや8ミリ撮影機で測定し、それを見て無駄な動作や作業をチェックし省かれた。そして、大幅な人員削減がおこなわれ、生産は月産5万トンから8万トンへと引き上げられた。

                            8、人間の生理を無視した生産計画

 会社は「転炉は生きものだから」といって人間の生理を転炉のテンポに合わせるようにした。転炉は大量の酸素を必要とする。したがって、製鋼工場では酸素工場の酸素がなくなった時が食事休憩時間になる。このため一直者は6時半に出勤し、2時間後の8時半にはもう昼めしにされたり、夜勤の場合、平炉時代には交替要員がいたので2、3時間の仮眠ができたがそれも出来なくされてしまった。
 アメリカのベトナム侵略戦争がエスカレートされるにつれ、鉄の需要は増え続け、NKKも他社に負けじと、巨大な福山製鉄所(広島)の建設にとりかかった。「社運をかけた」この計画を達成するため、社長は「血の小便をしてもがんばっ欲しい」と、年頭のあいさつで全社員にハッパをかける。1967(S42)年、鶴鉄のすべての設備、機械は、その公称能力をはるかに超えてフル稼動させられた。日産600トンの第二高炉は1000トンヘ。日産1000トンの第一高炉は1600トンの銑鉄を生産するに至った。

  稲垣の厚板工場では、月産5万トンの圧廷機で9万トンの厚板を生産した。そしてその目標は10万トンに引きあげられた。それまで厚板工場では、一週間のうち1日(24時間)は週休日として機械を停止し、その間に修理がおこなわれていた。しかし、生産をあげるため、早出、残業がふやされ機械の停止時間は今までの四分の一に短縮された。従って、修理時間は24時間からわずか6時間にされた。その結果、修理したくてもやりきれない項目がふえ、機械を休ませないため一時しのぎの応急処置で済ませてしまう状態になった。

9、ケチケチ合理化でぎりぎりまで使う機械
 
 会社は、「一割倹約運動」をはじめた。ボルト、鉛筆などの消耗品にいたるまで節約させた。稲垣の所属する機械保全の係長は、部下を集めてつぎのように説明した。「アメリカから昭和27年ごろ導入された保全制度というのは、機械が壊れてから修理するのではなく、こわれる前に修理する予防保全のことです。しかし、今必要なのは、それをさらにすすめた『生産保全』です。これは、その機械がこわれると生産がストップしてしまう重要設備と、壊れても生産をストップさせるには至らない補助的設備の二つに分類し、予防保全にくらべて安上がりの保全をやろうとするものです。重要設備にとって一番よい点検は、機械がこわれる直前に修理することです。つまり、こわれる時期と修理する時期が近くなればなるほどよいわけです。たとえば、クレーンのワイヤーが傷んできたとする。みなさんが10日に切れると判断したら、9日に取り替えるように手配することです。もし判断が誤まっていて8日に切れてしたとしても、五日にとりかえるよりは九日の方がより正しい判断なのです。それは切れる日に一番近いからです。一方、補助的設備は壊れてから修理してもよいのです。」

10、稲垣労災の真の要因

 このようにして、今まではワイヤーが切れる日より20日か一カ月前に取り替えていたものが、切れるギリギリまで使うようにさせられた。大増産のあおりで機械の故障と傷みが早くなったにもかかわらず、修理に必要な予算は増やさなかった。稲垣の事故はこういう状態の中で起きたのである。のちに裁判の中で、会社が「稲垣の居場所が悪かった。本人の不注意だ」と主張してきたことは、こうした激しい合理化の実態を覆い隠す何物でもなかったと言える。事故から約90時間、強靭ともいえる生命力で持ち堪えてきた稲垣の心臓は、ついに鼓動を止めた。1967(S42)年7月19日(水)午前8時6分であった。死因は「頭蓋骨骨折と脳内出血」であった。享年29歳の若さで逝ったのである。

11、人間の命がたった80万円?

 私が入社した頃、先輩からよく聞かされた話があります。昔は死亡災害が多く、会社の方もそれらの対応に慣れていて、労災で死亡者が出るとマニュアルがあり、それに習って事を運ぶ手順ができていた。古い話ですから電話など家庭にはない時代です。死亡災害が起こると、先ず第一陣の報告者が2人1組で出発します。自家用車や社用車などない時代ですから、近ければ自転車で、遠距離ならバス電車を利用して故人の通勤経路を辿って出かけます。この人達の連絡の任務は、先ず「お宅のご主人(お子さん)が会社で怪我をされました」という報告だけです。「死亡」したということは絶対に言ってはなりません。善意に解釈すれば、遺族に突然衝撃を与えない配慮からとも考えられます。

 それからちょうど1時間後に、第二陣の使者が出発します。これも二人で、「手当ての甲斐なく残念ながら死亡されました」という、遺族に対する最後通告の役割です。こうしたマニュアルが存在すること自体、頻繁に死亡・重大災害が発生していた事の証左です。そして、第二陣の派遣者は先発隊と合流し、遺族と相談し葬式の段取りや準備手伝いに手馴れた人物を派遣します。遺族は突然の訃報に動転し平静さを失っていますから、この機に会社の厚意や善意を見せて押付け、遺族に怒りや不満を与えないよう、上手に取り計らう狙いであります。当時、労災で死亡しても、会社が弔慰金を出すという責任や慣例はなかったのである。ただ、稲垣が死亡した1967年、NKKで初めて業務上死亡の特別弔慰金制度が新設されたが、その額はたった80万円であった。

12、ハインリッヒの法則

 そればかりでなく、金と命の交換と言われるように、これまで何百人という人が労働災害で死亡し、傷つき片輪にった人も多数存在します。しかし、こうした人びとに支払われたものは、ほんの雀の涙ほどの見舞金でしかなく、奴隷のような扱いです。そればかりでなく、職場で怪我をしても、私傷病扱いを強要したり、有給で休ませたりして労災隠しは絶えません。どんな小さな災害でも職場全体の問題にしていかないと、次に重大な災害に繋がり事故が発生する。

 既に、アメリカでハインリッヒの法則として確立された理論である。一つの重大な災害の下には、300件以上の重傷乃至は軽微な災害が起きており、災害には至らないがヒャリ・ハットする事例が無数に起きていることが統計的に裏付けられている。それらは皆、隠されたりモミ消されたりしてきているので、あたかも突然重大災害が起きたかに見えるが、実は既にその兆候は現れてるのを隠し見過ごしていたことになる。稲垣は、「どんな小さなケガでもみんなの問題にし、みんなの力で解決しよう」と呼びかけ、その先頭に立っていたのであった。

13、裁判闘争への決意

 初七日が過ぎたある日、稲垣の職場の仲間が数人でおとずれ、仏壇に線香をそなえ、事故の様子や職場のもようを、稲垣の写真を見ながら思い思いに語りあった。NKKは夫人をはじめ、遺族に対してなぜ事故が発生したのか、はつきりとした説明をしていない。遺族はなぜ事故がおきたのか、その原因と、誰が事故の責任をとるのかということをます第一に知りたかったのである。この日おとずれた仲間たちは、「合理化」が進むにつれて、ますますケガをしたり、死亡する事故がふえていることや、ケガをしても私傷扱いされ、十分な体養や治療も受けにくくなっている様子を詳しく説明した。そして、生前、稲垣は、こうした職場をなんとか安全な職場にしようと奮闘していた。今度の事故の原因も、危険な応急修理を繰り返した為に発生したので、稲垣になんの落ち度もなく、まったく会社の責任であることを詳しく説明した。

 夫人は、夫が生前話してくれた、会社でおこる労働災害の問題や言葉がよみがえってきた。そして、悲しんでいるより二度とこのような事故をくり返さないために、夫に代わって自分が何かしなくてはならない、と考えていたのだった。労働者一人が死亡しても、80万円で済むと思えば、何百万円もかけて設備の改善などしやしない。「そうだ、夫のやろうとしていたことを、私は、この子と一緒に、大勢の働く仲間たちと共にやっていこう」こうして、NKKを相手に、裁判で闘うことを決意したのである。夫人を中心に、たくさんの仲間が結集し、着々と準備が進められた。 そして、1967(S42)年9月20日、横浜地裁へ提訴したのである。

14、「裁判は長いから最後までご支援を」父の心情

 四十九日もすぎ、裁判の準備も軌道にのりだした頃、稲垣の父親は、準備をすすめている人たちへ、孫を抱きながら、つぎのように話した。「弘の嫁はじつに立派な嫁で、弘も幸せ者でした。この人が、裁判を起こそうと何をしようと私は反対はしません。自分で納得がいくように何でもやればいいと思います。私も弘の事故の責任が誰にあるのか、白黒をはっきりとつけてほしいと思います。ただ、裁判というものは、非常に長い時間がかかるので、その間に最初は大勢で取り組んでいても、そのうちに一人減り、二人へりして、最後にこの人だけになり、すべて金を使い果たして路頭にまようような事にならないか。それだけが心配なのです」お父さんは夫人が裁判闘争を起こすからぜひ支援してほしいと労働組合に申し入れたが、拒絶されたので、特に心配していたのだった。

15、稲垣労災訴訟をすすめる会

  1967(S42)年10月11日、鶴鉄の仲間と渡辺義寛さんをまじえて、裁判についての話し合いがもたれた。渡辺さんは、同じNKKの水江製鉄所で、ローラーに右腕を噛みこまれるという災害にあい、手術の失敗も重なって右腕を切断されてしまった。その上、首を支えている骨の一部を削り取るという、医学上の常識では考えられない生体実験のような手術をされた。このため、ほんのちょっとしたショックでも生命の危険をともなうので、一生コルセットをつけて首を固定しなければならない身体になってしまった人である。

 このため、会社と病院を相手に、NKKではじめて損害賠償請求の裁判をおこしてたたかっている。稲垣さんが裁判を起こすと伝え聞いて、不自由な体をおして、わざわざ訪ねてともに話し合いに加わってくれたのである。そして、この話し合いのなかで重要な内容が決められた。裁判闘争を強力にすすめ、ひろめていくため「稲垣労災訴訟をすすめる会」を結成することが決められた。そして一週間後の10月18日、会の6つの活動方針が決められている。

17、京浜労組への申し入れと組合の見解

  1971年2月、稲垣裁判と水江の渡辺裁判の代表者が、組合に協力してほしい旨の幾たび目かの申し入れをおこなった。組合は、要約して、次のように答えたのだった。

   京浜労働組合の見解

  両裁判の原告、および事務局からの要請文に対して、 鋼管京浜労紅として、二月一日、執行委員会を開催し、検討致しました。検討すうにあたり、二つの裁判については、旧鶴見労組、水江労組当時においても要請された経過がありますので、その事実経過についても知っている執行委員かおり、当時の事実経過と提出された資料にもとずいて、執行委員会の見解を述べます
※ 書面で回答をと要諾されましたが、答える形は答える側の判断であって、口答でも書面でも同じである。

<見 解>

@ 組合として、まず第一に考えなければならないのは災害をなくする事である。今後も起こさない方向として運動を進めなければならない。健康と命を守る闘いは、春闘や運動方 針書で具体的に提示されている。不幸にして亡くなられた稲垣さんや、ケガをされた渡辺 さんの裁判についていえる事は、目的が賠償請求でしかなく、二次的に公判の中では数々 の職場の危険個所や災害の問題を取り上げているが、現実には間接的であって、労働組合 としての災害撲滅の闘いは、労使間でおこなう安全対策委員会で改善させる方法や、組合 独自の改善闘争の方が良策であり、最も近道である。

A 企業に対する過失責任であるが、災書の一〇〇%が企業側にあると断定する事は困難である。災害の中には本人のうっかつ等もあり、その過失基準がむずかしい。両裁判につい ては、法の裁定で明らかになるであろうし、単純こどちらに過失があった等と組織として 定めるべきではない。

B 請求金額についても、責任度合や、個々の災害状態で違うし、ホフマン方式等の算出 方法等でも大きく差がでて来る。また慰謝料の請求額にしても、求めずらく、個人の条件 による差が大きすぎ、組合として取り上げて援助する場合、全体の事を考えるので、その ような金額のアンバランスが起る事は、組合の組織強化にならない。

C 弔慰金については、組合として毎春闘でアップさせて行く方向で取り組んで来ているし、 労災保障法の改善等は総評及び鉄連として闘つて行く。

※ カンパについては、不幸な方に組合が加入している共済会により一定の援助は行なって 来ているし、今後もそうして行きたい。もしカンパ活動をおこなうとしても、個々のカン パニアではなく、同じような形のカンパで統一して行なう考えをもっており、両裁判につ いても上記の考え方より行なう考えはない。
  以上のような見解で労働組合としては援助出来ない。
という木で鼻をくくったような内容で、組合員より会社を擁護する、これが連合の組合であってみれば、知る人は予想通りで驚くこともありません。

16、会社の責任を全面的に認めた横浜地裁判決

  組合の支援は得られなかったが、「稲垣労災訴訟をすすめる会」に結集した多くの人達の 献身的で粘り強い闘いがありました。この間に12万枚以上のニュースやビラの宣伝活動が、鶴鉄だけでなく京浜の工場門前や駅頭で行なわれました。「稲垣をかえせ」という、中間総括的に出版された本等、多面的な活動でひろく世論に訴え、支持を得る闘いを進めました。 そして、1972(S47)年6月6日、横浜地裁は、会社の責任を全面的に認めた判決を 出しました。その内容は、原告と子息に対する賠償を認めると共に、訴訟費用の被告会社負担と仮執行をも認めた、特質すべき全面勝利判決と言えるものです。

17、怒りの抗議に会社は控訴を取り下げる

  仮執行を認めた裁判判決を根拠に翌7日、夫人と弁護士、稲垣のお父さん、「すすめる会」の代表一名が参加し、賠償金をすぐ支払えとの交渉に出向いた。会社側からは弁護士と他に労務関係三名が応待した。この場で弁護士は「仮執行の宣言に対してこれを停止させるため、控訴の手続きをとった」と述べたのであった。これに対して稲垣のお父さん(67歳)はすっくと立ち上がり、「昨日の判決をみやげにこれから新潟に帰るところだが、いまの会社の言い分では、折角の判決もあいまいになってしまった。公にされた判決なのだからどうか会社もそんなことをしないで、5年もがんばってきた嫁のために、判決どおり回答してくれ」と訴えたのである。

  会社側は「この措置は法律上、弁護士としてやったまでで、会社の意向はまだ何も入っていないので・・・」と仮執行に対するおびえと体面の取り繕いを示したのであった。その後、6月10日「すすめる会」の総会で控訴に対する怒りの決議、会社に対して控訴とり下げの抗議電報、「稲垣裁判の判決と原告・被告主張対比資料」をつくり、各団体、労組関係への配布、14日にはビラ「会社はすぐ判決に服し、不当な控訴を取り下げよ」を京浜製鉄の各門前で配布、さらに会社に対して各民主団体、京浜製鉄委員会、市会、県会の議員団などから抗議電報がうたれた。このようななかで会社から6月20日、控訴期限ぎりぎりの日に「控訴のとり下げをした」との連絡が入り、30日には原告に「会いたい」と連絡してきたのであった。

18、裁判に勝っても稲垣は帰らない

  報告集会で夫人は、「いくらお金がでても死んだ夫は帰ってきません。事故をおこしてから補償してもらうのではなく、事故のない職場をつくることが大切です」。このように泣きながらのべると、涙をぬぐう女性、くちびるをかむ労働者で、100名をこす集会はしんとしたのであった。たくましい鉄鋼労働者であり、誠実な組合活動家であり、すぐれた文化(演劇)活動家であり、職場では先頭に立って働き、皆から好かれた稲垣弘の燃えるような生涯であった。この稲垣の遺志は、夫人や遺児、そして多くの職場の仲間たちに受け継がれている。そして仲聞たちの職場に労働災害をなくす闘いとしていまも続けられている。

 また稲垣が死亡した1967(S42)年にNKKでは初めて労災の業務上死亡の際の特別弔慰金制度が新設された。その弔慰金はわずか80万円であった。それが「稲垣労災訴訟」に勝利した1972(S47)年には春闘で特別弔慰金600万円ほか退職時本給の八ヵ月分を勝ち取っている。またこの年に「遺児年金制度」が新設され、1967年4月1日以降にさかのぼって適用されることになった。稲垣が亡くなったのが1967年4月15日であるから、明らかに稲垣労災を意識してこの制度がつくられたと言える。これによって遺児にも適用されることになった。このように、「稲垣労災」「渡辺労災」は労働者とその家族の労災補償を充実させる上で大きな役割を果たしたのである。






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