ボランティア

14、時を打ちつづけて(女性差別解雇事件松島裁判の記録)

   (1973年3月15日〜1986年2月7日  13年)


松島裁判
  企業のリストラには種々の形態があるが、不況になったり経営が困難になると、経営者は先ず社員を減らし人件費を削減する事しか考えない。有能な経営者であれば、この機に新製品を開発して設備投資をし、事業を拡大して難局を乗りきる努力をするが、日本の経営者は無能、一つ覚えで働く者を犠牲にする安易な首切りしか頭に浮かばない。せいぜいその人減らし「合理化」の、方法と形態が多少違う程度のものである。身近な職場で起こり、企業の利潤追求と、病弱者・弱い者いじめと女性差別は許せず、支援し共に闘った女性の闘いを紹介しておきたい。

   不当解雇の背景

  日本鋼管株式会社(現・JFEスチール・以下「NKK」という)は、1971年の暮れには不況、減産を理由に、川崎や鶴見の高炉、川崎の転炉などの設備休止をおこない、1700名におよぶ人減らしをはかったうえ、さらに1972年の2月には最高時550万トンの粗鋼を生産した京浜製鉄所を『360万トンに減産しても見合う人減らし』と称して6000人の大量人減らし「合理化」を組合に申し入れてきた。この年の正月、社内のPR誌『こうかん』や『けいひん』で日本経済の危機、会社の危機を強調しながらその情勢を最大限に利用して「発想の転換」で「身軽な製鉄所をつくろう」と呼びかけ抜本的な人減らし攻撃の態勢を構えたのである。対象は作業系の労働者で、一番やめてもらいたい中高年労働者にたいしては1973年3月末までと期限を切り、退職金に特別加算金を年齢別で50万円或いは80万円上乗せするからと迫ったり、9月には群馬県のスバル大田工場に225人の労働者を派遣したりして、退職を強要した。

     「周辺業務」労働者の首切り提案

  扇島建設に名を借りた6000人の人減らし「合理化」の嵐のなか、会社は1972年9月30日、「周辺業務」の労働者を解雇して新会社・グリーンサービスヘ移籍するという、かつてない首切りによる「合理化」を組合に申し入れた。会社がいう「周辺業務」とは、製鉄所内の清掃、文書集配、所内印刷、寮・社宅補修。清掃、緑化などであるが、これらの業務も鉄をつくるうえで欠くことのできない歯車の一つであることはいうまでもない。この「周辺業務」に従事する労働者を少数の健康体な人(男性のみ)と労災者を除いて解雇し、新会社グリーンサービスへ移すという提案であった。ここへ移されると40歳で税込み6万円強(当時の男子40歳の平均給与役10万円)という生活保護世帯並の低賃金となる。これでは生活できないといって、もし新会社をやめれば2回首を切られることになるのである。

  また会社提案では、社員が健康をそこねた場合、グリーンサービスで一年半の復帰訓練を受け、それでも健康が回復しない場合は、日本鋼管を解雇され、グリーンサービスの採用条件に合致した場合にはグリーンサービスヘ移籍するという提案が含まれており、職場のきびしい「合理化」や交替勤務で健康をそこねた場合の首切りをも制度化するものであった。周辺業務そのものは閉鎖も縮小もしていない、京浜製鉄所にとっては必要な業務である。周辺業務を一括してNKK100%出資の別会社「NKグリーンサービス」に外注委託化するというかたちをとれば、そこに従事する労働者が職場も仕事の内容も同じなのに給料が30%ダウンし、ボーナスは約半分になり、休日も減るという、会社にとってこれほど都合のいい話はないと言える。

    労使一体の労働組合の実態

  1972年10月6日、松島さえを先頭に、14〜5人の女性が組合本部に押しかけこの措置の撤回を求めた。労災で死亡した夫の身代わりで採用され、分析の洗い場で働いていたGさんは執行委員長に長い手紙を書いて持っていった。その効果があって身代わり採用の女子については公傷者(労災)同様NKK在籍で出向扱いとなった。10月23日の京浜労組中央委員会は「周辺業務の合理化にたいする対応方針」を中心議題として開催された。傍聴者が見守るなかで二時間緊張した討論が続いた。討論では発言者の全員が不安や怒りを訴え、反対ともとれる発言だった。ところがいざ採決になると中央委員のほとんどが頭を下げて手を低くあげて賛成の「意志表示」をしたのである。代議員の多数は役付ぎでもあり、職制やインフォーマルのしばりが強かったのであろう。

    労働者は憤激したのだが・・・

  この血も涙もない会社提案に労働者は憤激した。該当職場はもとより、多くの労働者の怒りを背景に組合も交渉をすすめた。会社は譲歩して新会社の給与水準を若干引き上げたが、それは家族手当、住宅手当、皆勤手当などを付けるということであり、新会社の賃金では生活保護世帯なみの生活しかできないことを間接的に認めたものであった。「周辺業務」の「合理化」は、労働協約46条5項「工場閉鎖、業務縮小」の解釈を拡大し、外注化にも解雇適用の道を広げたものであった。会社はこのような「合理化」を強行するにあたって前年(1971年)からの不況を理由の一つとしていたが、すでに1972年には景気は回復に向かっており、9月期の決算が、それまで史上空前といわれた1969年9月期の売上げを1・46倍も上まわるなかで「合理化」は強行されたのであった。この「周辺業務」の外注化による首切りというかつてない労働者にたいする犠牲転化が、「解雇は認めない」「企業内で転活用をはかる」「外注化に反対する」という組合方針があったにもかかわらず押し付けられたのであった。

    「女性」というだけで解雇とは

  このなかで、とりわけ問題なのは「周辺業務」に従事していた女性労働者が、夫が労災で死亡し身代わりに就職した人を除いて、全員解雇されたことである。周辺業務「合理化」は11月13日、会社と組合とで協定化された。周辺業務従事者たちは、いやいやながら 「退職願い」を書き、NKグリーンサービスヘの移籍手続きをとった。「女性」というだけでさらに不当に差別され、解雇されたことに抗議して、仲間の女性がやむなく移るなかで、ただ一人・松島智恵子さんは多くの仲間に支えられ、闘うことを前提に退職職金の受け取りを拒否した。1972年12月、会社は松島さんに対して解雇通告を送りつけてきた。

    裁判提訴とその後の闘争経過

  松島裁判は1973年3月15日、横浜地裁川崎支部へ提訴し、闘いに起ち上がった。 私は、身近な知人である松島さんの不当解雇に、当然のことながら会社に対して怒りを感じ黙って居るわけにはいかなかった。支援する会を結成し、周囲から支援したのは当然のことである。当初は、身近な人達数人が核になり、闘いの方針や裁判の証拠や作戦など、対策会議を開いて奮闘したが、多くの個人や婦人団体等も加わり、次第に大きな力を発揮する組織に発展していった。

    人権裁判と共に闘い前進

 松島裁判提訴から約一ケ月後、1973年4月9日、35名の原告が起ちあがった人権裁判は、横浜地裁川崎支部へ提訴して始まったので、同時併行して闘いは進められた。しかし、同じNKKという相手でありながら、当初は二つの争議が有機的統一的にかみ合い闘いを進めるという意識は弱かった。国際的には、1975年から国際婦人年という、男女差別を無くし女性の人権を守り、地位の向上に向けてのキャンペーンがはられ、これを活用すれば女性差別争議にとっては有利な側面では有った。しかし、日本の裁判官というのは、徳川260年の鎖国政策の尻尾を引きずり、国際感覚というものが全く欠落している。

 更には、伊達判決へのアメリカの属国的圧力に屈して、行政や資本、強いもの大きいもの上位の者に頭が上がらず、司法の独立・裁判官の独立性はなく、いつもヒラメで独自の判断ができない。自立できず世間知らずで幼稚な水準の人種という以外に表現のしようがない集団が裁判官である。1982年7月19日、午後1時、「原告の請求を棄却する」という、不当判決がだされた。その理由は、労働協約46条一項五号の「工場閉鎖・業務縮小のため必要を生じたとき」を適用し、「整理解雇」と認定したのである。しかし、実際にはNKK100%出資で、「NKグリーンサービス」という別会社をつくり、業務を拡充する方向であったのだが。

     人権裁判原告団の奮起を促す

  しかし、この不当判決は思わぬ波及効果を生んだといえる。不当判決を分析し総括するなかで、同時併行して闘われていた、人権裁判原告団は危機感を抱き、自らの闘いの勝敗に結びつく前哨戦という自覚を呼び覚まし、共通の闘いとして運動の前進を図る転換点となったのである。東京高裁への控訴は勿論、運動面での共同行動は強化され、松島支援共闘会議も結成され、運動は飛躍的に前進した。(「人権裁判」の項参照)

      女性ならではの独自行動も多彩に

  この「時を打ちつづけて」を、改めて読み直してみると、独自の優れた行動と闘いを行っていた事を知らされる。母親大会連絡会・新日本婦人の会・はたらく婦人の連絡会・労働組合婦人部によって「労基法改悪を許さず実効ある男女機会均等法の制定を求める神奈川連絡会」が結成され、NKK本社や東京高裁への要請行動をを取り組むなど、多彩な行動を行っている。1985年7月には、「国際婦人の10年」最終年にあたって、ケニヤのナイロビで開催された「国際世界婦人会議」に参加し、日本の女性差別解雇を世界に訴えるユニークな国際活動も行ってきている。この会議には、皆でカンパを集め、1985年7月6日に出発し、ケニヤのナイロビで開催された「国際婦人会議」に派遣し会議で発言してきている。その松島さんの帰朝報告を掲載しておきたい。


      国際世界婦人会議(ナイロビ)に参加して
                                 松島智恵子

  7月10日からケニヤの首都ナイロビで開催された「国連婦人の10年」世界婦人会議NGOフォーラムに統一労組懇チームの一員として参加しました。皆さんから多額のカンパと激励をいただき、日本鋼管の不当な女性差別解雇を世界の女性に訴える機会を与えてくださったことを心から感謝いたします。

NGOフォーラムには、開会式、ワークショップ、ナイロビ大学キャンパスでの訴えなどに参加しました。「日本鋼管の女性差別解雇は許せない」という英文のピラ1500枚を用意して行き、会場で全部配布しました。世界各国から沢山の人が参加しているので、大学教室を借りてワークショップを開催するのはなかなか大変でしたが、さいわい私たちは教室を借り日本の婦人運動と核廃絶について訴えるチャンスを得ることができました。こちらの心配をよそに、私たちのワークショップは皮膚の色のちがう女性たちで満席になり、訴えを聞いてくれました。

  そして「日本は経済大国なのにどうしてそんなに労働者が苦しまなくてはならないのか」「組合はないのか」「組合はどうして闘わないのか」と矢継ぎ早に質問され、私たちは必死になって説明したのですが、どうしても理解してくれません。私が仲間に小声で「私達だって労使協調の組合がやることは理解できないのに外国人にわからせようとしても無理よ」といったら大笑いになってしまいました。

  言葉は不自由でも、女性差別を撤廃するために闘っている女性同士、気持ちは通じます。ビラをていねいに読んでくれた法律学者だという女性とは、すっかり意気投合して仲良しになりました。ナイロビは軽井沢のようにすがすがしく、赤い花が咲きみだれる美しい街でした。体日にはサファリにも行かせてもらいました。生涯の記念になる旅でした。この貴重な体験をぜひ私の争議にも生かしたいと思います。

     高裁での和解勧告で全面解決

  1984年12月の口頭弁論で裁判長の和解勧告が出される。法廷でも運動でも追い詰めている証である。具体的には翌年3月29日の裁判長を入れた三者の打ち合わせから始まったが、その後10回の交渉で決着することになるが、この間交渉だけでなく、多彩な運動と行動が行われ、本社や社長宅要請と霞ヶ関の街頭宣伝等が継続して行われた。こうした中で交渉は、何度も暗礁に乗り上げる危機を乗り越え粘り強く交渉を続け、最終的には当事者間の自主交渉でまとめ、高裁和解の形式で、1986年2月7日全面解決にこぎつけた。


     松島裁判高裁和解内容

  和解の期日は、1986年2月7日、午後3時からであった。双方の和解合意ができたことを報告し、内容を説明すると、担当の加茂裁判官はちょっと呆気にとられた顔をした。しかし加茂裁判官は二・三の質問をし和解成立を確認した。

  和解条項は原文では九項目だが、以下のように要約できる。

1,被控訴人は1972年12月6日付けで行ったた控訴人の解雇をとり消し、1980年3月31日(定年時)まで嘱託として雇用契約が継続していたことを確認する。

2,控訴人の雇用継続期間中の賃金総額は1307万8880円であることを確認し、被控訴人は賃金総額より源泉徴収税と厚生年全保険料(個人負担分)を控除した1174万6060円を控訴人に支払い、被控訴人は税・保険料の入手続きを行う。

3,被控訴人は控訴人に和解金とし1360万円支払う。

4,被控訴人は税・保険料を控除した賃金と和解金の合計2524万6060円を川崎合同法律務所に送金する。

5,被控訴人は控訴人の厚生年金受給資格が入社時から定年時まで継続したものとして現行法上可能な範囲で遡及的に受給できるよう手続き面で控訴人に強力する。

  と、いう内容であった。

  和解解決時点で、松島さんは既に62歳になっており、NKKの定年協定60歳を過ぎ、職場復帰は果たせなかったが、厚生年金の遡及措置等、争議解決に於いて、かつて無いきめ細かな高い水準での解決を勝ち取ったと言える。


    (松島さん死去後、9年後に発行された「時を打ちつづけて」に寄せた一文)
     日本鋼管京浜製鉄所分析室・元人権裁判原告団   篠ア 節男

   「忘れられない手料理」

  「松島さんを知らない人はもぐり」と言われたほど古い人たちには有名で、女性活動家として鋼管では著名な人でした。ただ、枠にはめられるのを嫌い自由闘達な生き方を求めていたようです。その松島さんが決意をされたのは、私が管理部門の責任者をしている時のことで、いかにも松島さんらしく豪快な決意文を書かれたことをおぼえています。機関紙拡張行動でもいろいろな面で力を発揮してもらいました。松島さんの知入友人を訪ね、寒風の吹く中を自転卓をならべて機関紙の講読を訴えて廻ったこともありました。

 また統一行動の時には、炊き出しで自慢の料理の腕をふるってもらったことが度々ありました。センターでみんなが活動から帰ってくるまでの間に手際よくご飯を炊ぎ、おかずを準備してくれました。時節や時によって天ぶら、とん汁、鮭のあら等々で、腹をすかして戻ってきた若い活動家にたいへん喜ばれました。活動が終わったあとは炊き出しのおかずをつまみながら、多少アルコールもはいって支部全体の雰囲気がもりあがり、拡大の成果にもつながりました。口八丁手八丁の松島さんの面目躍如というところであった。

  松島さんは、私の会費制の結婚式では料理の腕をふるってもらいました。当時流行したが既に下火になりかかっていた頃のことで、会費制の結婚式にはあまり好感をもっていないようでした。理由は「会費制でみんなに祝ってもらい、立派な誓いの言葉を披露するが、満足に活動を続けている人は少ない」というのが理由のようでした。結婚後、種々の困難を克服できず、活動が停滞したり挫折していく人の姿をまのあたりにして、潔癖性な松島さんには堪らなく許せないことであったに違いありません。しかし、私の結婚式の実行委員をお願いすると快く引き受けてくれました。会費制でしかも手づくりの料理での結婚式でしたので、実行委員の皆さんには大変ご苦労をおかけしたわけです。特に松島さんには料理の腕をふるって頂だき、盛りつけもきれいで、参加者の皆さんに大変喜ばれました。

  その準備は入居予定の社宅で松島さんを中心に、六、七人の実行委員の方が結婚式の前日から泊り込み、準備をしてくれました。そして結婚式の当日朝出がけに松島さんが「今日は婿さんなんだから風呂に入っサッパリしてきたら」と、社宅の風呂を湧かしてくれました。活動疲れでヨレヨレの私を見かねて朝風呂をたて、会場準備に皆と先に出かけました。豪快で男まさりに見えたが、”よく気のつく女性”それが本当の松島さんではないかと思いました。

               ◇     ◇     ◇     ◇     ◇

 松島さんは、争議が勝利和解で解決し、一段落したところでヨーロッパ旅行を計画し準備していた。そして翌日出発という前夜に脳の血管に異常をきたし、そのま帰らぬ人となってしまいました。さぞ無念であったろうが、考えようによっては楽しみな計画を胸に抱えて逝き、あの世で時間に制限無く、今でもヨーロッパを自由に歩きまわって旅を楽しみ、時を刻んで居るであろう。それが松島さんの極楽大往生であったと信じたい。


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