ボランティア

13、三六協定での”六さん”のたたかい

   (1967年7月7日〜1976年7月   9年)


1、はじめに

工場風景
  装置産業である製鉄業の工場は、小さな町がスッポリ入る広大な地域に生産工程に沿って工場が建てられ、嘗ては1万2千人の従業員が働き、更に構内に下請企業が散在しており、正に一町村の規模に匹敵するマンモス工業である。従って職場が違えば、同じ会社に数十年籍を置きながら、定年まで全く名前も顔も知らないまま過ごす人達が多い集団でもある。”六さん”こと、渡辺六視氏の闘いは、私がまだ文学青年で世事に疎かったころ始まり、9年という長い闘いの後半に知り最終盤に関わった事件である。

 しかし、前記人権裁判の提訴を機に、会社は差別の実態を裁判所に覆い隠すため、明らかに差別と判明する社宅入居等については、軌道修正を余儀なくされ方針の変更を迫られていた。希望者や結婚を控えた人には社宅への門戸を開かざるを得ない状況が生じていた。私が結婚し入居した借り上げ社宅は遠距離ではあったが、偶然にも六さんの自宅に近い所であった。従って、地域でも顔を合わせ、種々の行事や活動などでも、お互いの夫婦が一緒に参加して懇親会など行うという、親しい関係にもなったのである。六視氏は既に11年前、68歳で逝去され、告別式には夫婦で焼香に参列している。氏に関する資料の一部が見つかったので、追悼の念を込め”六さん”の闘いを報告しておきたい。

2、渡辺六視氏の不当処分反対闘争

 「渡辺六視君を守る会」の第一回総会、1967(S42)年10月10日における資料は、”六さん”こと渡辺六視氏の不当処分と提訴に至った経過について次のように述べている。
    渡辺六視君に不当処分がかけられた背景と今日までの経過
  鋼管川鉄の労働者、渡辺六視君が、去る7月4日から11日までの7日問、出勤停止の不当処分をうけたことは、すでに皆さんはご存知のことと思います。処分の理由は、今年の1月20日にたった一日残業をせず定時間で帰ったことを主な理由として、その他、日常誰でもが行なっている普通の行動を故意にこじつけて処分の体裁をつくろったまったく不当なものです。例えば、「作業中にパンを食べた」、「作業中に歌を唄った」、「門前でチラシを撒いた」、「指名者以外は運転してはならない、バッテリーカーを運転した」等々、まったくばかげたものです。六さんは、1月13日に上司に対し、1月16日から20日までよんどころない理由から、定時間で帰してもらいたい旨申し入れておきました。ところが職制は、「正当な理由にならない」として1月16日の1日だけしか認めませんでした。六さんは、上司に対し、私も出来るだけ残業が出来るよう努力するから、職制も定時で帰れるように努力してほしいと再三、再四頼み、1月17、18、19日の3日間は、残業に協力して来ました。 ところが1月20日は、日程的にどうしても定時で帰らないと問に合わないため、当日六さんは、今日定時で帰してほしい旨再度上司に申し入れたところ前述の理由(正当な理由にはならない)をもってこれを認めようとはしませんでした。1月20日六さんは、やむを得ず定時で帰ったのです。この事が、今回の六さんに対する処分の主な理由になっています。

3、攻撃の本質は労働者の権利侵害

 この処分理由のなかで、超過労働拒否のほか、ビラまきやバッテリーカーの運転、欠勤、労働歌を唄ったなど、種々の理由をあげている。このことは一つには、会社が役付に命じて活動家の行動を監視させ、克明にメモをとらせていたことを意味するし、残業パンが出る以上、仕事中パンを食べることは有り得ることで、まして歌をうたうなどは当時としては特別に奇異なことではなかった。またバッテリーカーは指名者以外の運転禁止であるのに動かしたというが、これはのちに第一回公判で指示が不確実であったことが明らかにされている。だからこれらの理由はいわば付け足しにすぎない。この処分の本質は、前項で述べた、倉崎氏や金木氏の欠勤届けを受理せず処分したことにみられるように、労働者の政治活動と権利に対する侵害である。問題の1967(S42)年1月20日、定時で帰ったことに対し、残業を拒否したとしているが、これとて10日ほど前から、一週間は定時で帰りたいという個人の事情に対し、1日だけしか認めないとして拒否、らちがあかない交渉の末のことであった。

4、労使一体で長時間労働の強要

  当時、労組と会社間の三六協定で、製管工場では恒常的な残業がおこなわれており、多い職場では毎日2時間で、二交替制であった。だから一日24時間中、昼勤10時間、夜勤10時間で、交替時の2時間にロールの組み替えや機械の整備をおこなえば極めて効率よく工場を運転することができ、いわば二交替制で人を増やさず、三交替制と同じ効果をあげることができるのであった。だから組合との三六協定で、労働者に月数十時間、多い人で100時間近い残業が強いられ、会社はこの半強制の残業で労働者の搾取率を高めることができたのである。このような二交替制の非人間的な勤務は当時の八幡製鉄などではみられないものであった。一方、労働者の側も低賃金に据えおかれるなかで、月の半分は夜勤となる勤務ではあっても、長時間残業で収入が増えることを歓迎する空気がかなりあったことも事実である。

  この問題をめぐっての組合の見解は会社側の主張を認め、処分を是認したものであった。組合機関紙「川鉄新聞」689号(1967年7月20日)は本部の執行委員会と支部職場委員会の間で検討し処理してきたとし、その所見のなかで「超過労働協定は、労働基準法三六条に基づいて会社と労働組合とが生産計画に対応して、四半期毎に協定するものであり」という書き出しで、公民権行使について便宣を与えなくてはならないという規定はまったく存在しない、と断定した上で、第五項で「以上の考察から渡辺がいう『定時帰りをするのは本人の自由だ』『これを規制するのは権利侵害だ』とする主張は全くこれを容れる余地はないというべきである」と述べ、ついで第五項で上司である佐藤作業長の言い分を全面的に認めた上で、「勝手に職場を離脱し、定時帰りを強行したことは、誠に遺憾であり、企業内秩序及び、職場規律の維持確立、更には労使問の協定尊重という観点からも、許されるべきではなく、情状としても特に重いといわざるを得ない」と結んでいる。

5、働く者の権利と職場の民主主義を守るために

  組合の見解は、渡辺氏を渡辺と呼び捨てにした上で、情状としても特に重いといわざるを得ない、と検察官の論告を思わせる調子で、会社側の所見かと見まがう内容であった。これについて次号の「川鉄新聞」第690号(1967年7月30日)に木原敏昭氏は投稿して、三六協定についての本部見解を反駁するとともに、嵐のような独占資本の「合理化」攻撃のなかで、労働者の権利を守ることの重要性を強調した。法律は、解釈するためにあるのではなく、権利を守るために活かすべきものであり、渡辺君の懲戒をめぐる組合の見解は、残念ながら解釈する立場に立ったものであり、労働者の権利を自から手放す道につながるものとして再考を訴える、とその投稿を木原氏はむすんでいる。

6、三六協定で残業は強制できない

  この渡辺氏の不当処分に対して、1967(S42)年7月7日、出勤停止の期間の賃金の支払いと、始末書提出の義務が存在しないことを求めて横浜地裁に提訴した。主任弁護士は増本一彦氏であった。また、この事件以後の判例は時間外労働協定があるからといって、残業を強制的に命ずることは許されないことを示した(明治乳業事件、東京地裁、1969(44)年5月13日判決)。時間外労働協定は、残業はさせても罰則規定ではないことが明らかになったので、法廷での公判進行にも有利に作用したのである。提訴以来9年間の裁判闘争の後、1976(S51)年7月和解に達し解決した。この和解文のなかで双方ともこの内容についての宣伝行為は行なわないとしているので、和解内容については省くが、提訴側が納得できるものであったことは言うまでもない。

 この渡辺氏の処分を撤回させるための裁判闘争では、「渡辺六視君を守る会」が中心となり、和解解決を勝ち取るまでの9年間、ねばりづよく闘ったがこの教訓は、前記した人権裁判の闘いに引きつがれていくのである。


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