ボランティア

12、画期的な伊達判決を引き出した坂田茂氏が逝く

   (1959年3月30日〜1975年2月3日  16年)


   物事は、先ず足元を固め、報告していく事から始めねばなならい。2月20日の東京新聞訃報欄を見て、坂田茂氏が亡くなったことを知り、次は、氏が被告として関わった砂川事件を取り上げ、報告しておく必要性を強く感じた次第である。以下、砂川事件と、私が知る坂田茂氏像を記載しておきたい。

    砂川事件第一審判決

日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約第3条に基く行政協定に伴う刑事特別法違反事件

砂川闘争
    東京地裁昭和32(特わ)第367号、368号

      1959(昭和34)・3・30判決

       被告人 7名

        主   文

「本件各公訴事実につき、被告人らはいずれも無罪」

        理    由

  東京地方裁判所(裁判長判事・伊達秋雄)は、1959年3月30日、「日本政府がアメリカ軍の駐留を許容したのは、指揮権の有無、出動義務の有無に関わらず、日本国憲法第9条2項前段によって禁止される戦力の保持にあたり、違憲である。したがって、刑事特別法の罰則は日本国憲法第31条に違反する不合理なものである」と判定し、よって、被告人等に対する各公訴事実は起訴状に明示せられた訴因としては罪とならないものであるから、刑事訴訟法第336条により被告人等に対しいずれも無罪の言渡をすることとし、主文のとおり判決する。と、画期的な全員無罪の判決を下した。(裁判官 伊達秋雄・清水春三・松本一郎)(東京地判昭和34.3.30 下級裁判所刑事裁判例集1・3・776)ことで注目された(伊達判決)。これに対し、検察側は直ちに最高裁判所へ跳躍上告している。

  この7名の被告のうち3名は、私が勤務した日本鋼管(株)の社員であり、その中の1名は私が良く知る坂田茂氏(享年82歳)であった。坂田氏は、同じ会社でしたが職場が違い離れていたので、時々顔は合わせたが、親しく話し合う機会は少なかった。年齢は私より一回り上の大先輩で、友達とは言えない間柄であり、良く知る人物という表現が適切な関係と言える。

   砂川事件とは

  砂川事件は、1955年から1957年にかけて、東京都北多摩郡砂川町(現在の立川市内)のアメリカ軍の立川基地拡張に対する反対運動をめぐる一連の事件である。特に、1957年7月8日に特別調達庁東京調達局が強制測量をした際に、政府は、装甲車、武装警官を動員、基地内の民有地に立ち入り、測量を強行した。その際、基地拡張に反対するデモに参加した学生や労組員七人が境界のサクをこえて基地内に数m立ち入ったとして、デモ隊のうち7名が日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約第六条に基づく施設及び区域並びに日本国における合衆国軍隊の地位に関する協定の実施に伴う刑事特別法違反で起訴された事件である。

  この頃、日本鋼管の労働組合は、労働者や国民の権利と利益を守る立場にあり、基地拡張反対運動のデモに、組合動員として派遣され参加していた。デモといえば集団の示威行動であるから、前方に居た坂田氏ら七人は、後方から押され基地内に脚を踏み入れたようであったが基地内に入ったのは、わずか数歩くらいだったと聞いている。普通なら、軽犯罪法違反程度の事件である。だが、米軍基地ということで、安保条約に基づいて作られた、罰則の重い刑事特別法が適用され7人が起訴されたのである。

   アメリカからの猛烈な圧力

2008年4月29日、機密指定を解除されたアメリカの公文書の調査から、新たな事実が判明した。解禁文書は、米国立公文書館で入手したもので、米軍駐留違憲判決に対する米側の衝撃ぶりと、今日に続く、憲法法体系と相容れない安保法体系を無批判に受け入れる日本側の異常な対米従属ぶりが示されている。東京地裁の「米軍駐留は憲法違反」との判決を受けて当時の駐日大使ダグラス・マッカーサー2世が、同判決の破棄を狙って外務大臣藤山愛一郎に最高裁への跳躍上告を促す外交圧力をかけたり、最高裁長官・田中と密談したりするなどの介入を行なっていた。跳躍上告を促したのは、通常の控訴では訴訟が長引き、1960年に予定されていた安保改定に反対する社会党などの「非武装中立を唱える左翼勢力を益するだけ」という理由からだった。そのため、1959年中に(米軍合憲の)判決を出させるよう要求したのである。

  米国からの指令どおり、日本政府は、過去に一例しかなかった最高裁への「跳躍上告」を行った。「日本政府が迅速な行動をとり東京地裁判決を破棄すること」を求めた大使の要求に応えたものである。米大使と密談した当時の田中耕太郎最高裁長は、直接裁判長を務め、当時三千件もの案件を抱えていたにもかかわらず、砂川事件を最優先処理、「迅速な決定」へ異常な訴訟指揮をとった。そして期待されたとおり、一審判決を破棄、東京地裁へ差し戻した。

   最終判決

この事件は安保体制と憲法体制との矛盾を端的に示す政治的に極めて重要なものであることから大いに論議を呼び、特に最高裁判所の判決に対し強い批判が浴びせられたが、日本国憲法と条約との関係で、最高裁判所が違憲立法審査権の限界(統治行為論の採用)を示したものとして注目されている。
 田中の差し戻し判決に基づき1961年3月27日、東京地裁(裁判長・岸盛一)は再審で罰金2000円の有罪判決。1963年12月7日、最高裁は上告棄却を決定し有罪が確定した。

    坂田茂氏のその後

  安保条約と言う不平等条約、アメリカの属国である日本の政治の狭間で、氏の人生は翻弄されることになる。アメリカの圧力による日本政府の対応もさることながら、日本経済は発展途上であり、日本はアメリカの主導するIMF(国際通貨基金)より経済的援助を受け経済復興を図る時期であった。その金を借りて設備投資を行う会社は、二重三重にアメリカによって拘束されるという状況下にあった。普通なら間違えて他人の土地に入った程度の、たかが軽犯罪法で解雇されることはないが、アメリカの属国という不平等条約の下、刑事特別法によって起訴と同時に解雇となる。それでも組合動員で、組合の任務で参加した集会であり、給料は組合から保障され生活は一応維持されたが、それもアメリカの圧力の下での裁判所で不当判決が出されると、組合も会社に屈し、給料の支払いを停止するという態度に変わる。

    職場復帰から市会議員へそして職場で

  東京地裁で差し戻し裁判の判決が確定する1960年代半ばを過ぎ、数年が経過すると労働者・労働組合の巻き返しの力も徐々に回復してくる。日本大使もマッカサーから代わり、時間の経過がもたらす情勢の変化が現れてくる。元々罰金2000円の判決で軽犯罪法並みの処分に過ぎない。坂田氏は、解決交渉で和解し職場復帰を果たし、昔の仲間のもとへ戻り仕事に就く。前記したように、70年代になると職場労働者も力を付け、選挙では革新勢力が躍進して、世情も明るいムードへと開けて行く。坂田氏は、元々人当たりも良く、面倒見の良い人物で信頼もあり他から推薦され、川崎市中原区の選挙区から立候補し高位で当選、市会議員として活躍する。

  だが、2期目の選挙では、その活躍と人気が仇となる。地元の狭い地盤で人気が良いのは至極当然の事である。しかしその十数倍の広い選挙区で、全体的な情勢分析を誤れば選挙には勝てる筈はない。木を見て森を見ない周囲の選挙参謀の楽観論により、初歩的な情勢分析の誤りから選挙運動が疎かになり落選したのである。氏は再度議員に挑戦することなく職場へ戻り、仲間と打ち解けてコツコツと仕事をし、無事定年を迎えた。坂田氏は職場で働くことが好きであり、仲間と語り合い地道に明るい職場をつくる事が合っていたのであろう。(坂田氏のご冥福を祈り合掌)


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