ボランティア

職場に自由と民主主義の旗を掲げて


11、職場の自由と民主主義を確立する攻勢的な闘い

   (1973年4月9日〜1988年3月23日  15年)


1、日本で最初に人権裁判提訴に起ち上がる

人権裁判
 日本鋼管人権裁判は、1973(昭和48)年4月9日、日本鋼管(以下「NKK」という)が行ってきた憲法違反の人権侵害と思想信条による差別を撤廃させるため、民主的な労働組合運動活動家が、自らが勤務する会社を相手に職場から裁判提訴に決起した、画期的な闘いである。この日、思想信条によって苛酷な昇格・賃金差別を受けてきた35名の労働者と、首都圏を中心に65名の弁護団が代理人に名を連ね、日本で最初に思想信条による差別の撤廃を求め、日本鋼管人権裁判(以下「人権裁判」という)を横浜地裁川崎支部へ提訴し、弁護団代表と35名の原告全員が揃って裁判所へ出向き、訴状を提出して闘いの幕は開きました。

 差別争議は、NKK労働者が最初に差別撤廃闘争の先陣をきり、これを機に その後73年12月に小田急で、74年6月全税関横浜支部が、76年10月には東京電力やNKK鶴造が闘いに立ち上がり、神奈川を中心に差別撤廃の闘いが連続して起こりました。そして、中部電力や電機・自動車・重工等あらゆる産業に連鎖し、全国に波及していくといった歴史的経過を辿りました。

 人権裁判は、憲法違反の人権侵害と思想差別をなくし、”職場に自由と民主主義”を正面に掲げた闘いでしたが、具体的には思想信条による昇格差別・賃金差別を是正し、社内で仕事に必要な教育や研修からの排除と資格を取得させない、果ては社宅入居差別や私生活への監視や干渉等々、人権侵害やありとあらゆる差別を撤廃させることにありました。私達の戦いは、資本が行なうアメリカ式労務政策・思想差別を打破し、職場に自由と民主主義を確立し、自由にもの言える明るく働き易い職場をつくっていくことにありまた。そしてこの闘いを通じて職場は勿論、全国津々浦々に憲法の風を吹かせ、自由と民主主義を定着・発展させる闘いであり、多くの原告が自らの問題としてだけでなく、そうした大志を抱いて起ち上がり、その実現を目指し理想に燃えて奮闘する闘いでした。

2、百年戦争も辞さず

 横浜地裁川崎支部の旧庁舎は、木造平屋建てでだだっ広く、夏は冷房もなく汗だくで法廷での闘争が始まりました。当初は「次回期日は4ケ月後」という訴訟指揮で、年3回しか公判日が入らず、総論立証から35名の個別立証を終えるには、100年戦争も辞さず、先の見えない時期もありましたが、それでも必ず勝利する気概で奮闘しました。

   裁判長忌避を行い闘う

 強圧的で企業よりの訴訟指揮を改めさせるため、裁判長忌避を行う戦術も取りました。この時代は、労働者や労働組合、弁護団や革新勢力に全体として闘いを攻勢的に進める活力と勢いがあり、川崎支部だけでなく、横浜地裁や小田原支部で闘う争議団・弁護団とも連携し、被告会社に有利な訴訟指揮を執る悪質な裁判長を忌避する共同作戦も組みました。裁判長の忌避を申し立てても、審理するのは同じ仲間の裁判官ですから、忌避が認められる事はありませんし、審理が1年近くストップし停滞しましたが、結局その裁判長は他へ飛ばされ、神奈川から追放の形で事実上の忌避作戦は成功し、後任の裁判長は「ものわかりのよい」姿勢の裁判官に代わるといった闘いの積み重ねで、法廷闘争が進行するという経過を辿りました。 法廷での闘いは勿論、法廷外で世論に訴え社会的に包囲する闘いと併せ、毎月1回一日を確保させ、一期日一原告を終わらせる(原告・会社側あら捜し証人2人の主・反対尋問を一日で終わらせる)ところまで前進させ、法廷での進行を迅速化させるに至りました。

3、反撃の機運は熟していた

 ケネディーライシャワー路線によって、いったんは後退を余儀なくされた労働者も、孫子の兵法とも言える6中総の方針が提起されると、元々勤勉な活動家は勉強して身に付け職場の中でも資本の攻撃に反撃する力を付けてきました。同時に、企業の塀の外では、選挙で革新勢力が躍進する明るいムードが漂ってきました。そして、大企業の排出する公害や勝手な工場移転など産業の空洞化政策に対して、市民の目も厳しく、行政もその声を無視できない状態も存在しました。こうした状況下で、労働者は励まされ更に革新の前進という相乗効果の歯車が噛み合い、労働者にとってうまく回転する方向へ進んでいた時期といえます。こうした中で、厳しい闘いではあるが、頑張れば展望が見出せ、自由と民主主義を獲得し定着させる運動と闘いは、全国へ広がる情勢に合致していた提起と言えます。

4、闘いの経過と勝利の要因

  弁護団と団結し会社を圧倒する法廷闘争
法廷では、原告団と弁護団が団結した闘いを展開、強力な弁護団の献身的な活動に支えられ、法廷闘争を有利に進めて被告会社を追いつめました。法廷内での腕章着用闘争や反動的な裁判長を忌避して法廷が一年間空転するなどの事態をおそれず、司法反動化との真正面からの原則的な闘いをすすめました。原告が証言台に立つ前に、担当弁護士と原告の職場の仲間数人が堀の内の安旅館へ泊まり込み、集団で討議し尋問に当たる周到な準備を行いました。 また「差別」裁判としては全国で初めて、現場検証を実施させ、バスで原告の職場を一日かけてまわり、裁判長をして「百聞は一見にしかずですね」と言わしめた。原告に同行の被告会社労務は「原告にすっかり点数を稼がれた」となげくなど、職場での活動家の説明は室長(課長)に優る有能ぶりを証明する結果となりました。こうした実体を見た職場の労働者は、原告に対し改めて信頼を増す副次的な効果も与えました。

   職場を基礎にした果敢な闘い

 職場の闘いも重視して取組みました。NKKが活動家にたいして加えている差別が”見せしめ差別″であり、人権裁判が活動家対会社の争いではなく、すべての労働者の闘いの集約であるとの理解を求める宣伝をおこないまた。そして現実に、労働者の切実な要求を実現していく闘いの先頭に立ちました。具体的には、NKKがおしすすめている全社で8000名の人減らし「合理化」に反対する闘いはもちろん、労働災害かくしの摘発、サービス残業や出向、配転・退職強要をゆるさないための″職場の110番運動″など、労働者の生活と権利をまもる闘いの先頭に立って奮闘しました。
1987年12月4日、職場から二次提訴団115名が決起し、支援団体をふくめ250名を集めて結団式をおこない、陳述書もそろえていつでも提訴できる体制をかためて解決をせまったことが、会社に和解の決断をさせる大きな力となりました。

   会社を追い詰めた社会的包囲の闘い

 法廷闘争と職場闘争を基本に闘いを強めるとともに、地域や闘う労働組合、民主団体の仲間と連帯し、NKKの横暴を社会的に糾弾する闘いを重視し、大きく急速に発展させてきたことが会社に全面解決を決断させる大きな要因になりました。NKKでは、人権裁判提訴の一ヶ月前の3月15日、同じ京浜製鉄所において「周辺業務」の外注化の受け皿としてNKK100%出資の新会社を設立し、(解雇移籍し同じ仕事をしても賃金は三分の二にする)を強行したが、これに反対して松島千恵子さんが女性差別による解雇撤回の裁判闘争をおこなっていました。同じ資本を相手に、同じ場所で闘われていたにもかかわらず、人権裁判と結合させ有機的に闘うという方向での認識がこの時点では不足していました。

   労働戦線の統一と神奈川争議団運動の相乗効果

  この闘いは、後に「神奈川争議団」の項で詳しく触れる事になるが、その背景に労働戦線統一の激しいつばぜり合いの時期に闘かわれ、好むと好まざるとに関わらず、否が応でもその影響を受ける事になるが、依拠する陣営や勢力、つまり「軸足」を決めて対応せねばならない時期でした。人権裁判原告団が所属する京浜労組は連合路線で、前記したように労使一体で「妨害はしないが、精神的な支援」という態度で、全く頼りになません。こうした背景のなかで、人権裁判争議団は、統一労組連絡会議(現神奈川労連)や闘う労働者・民主勢力に依拠し連帯して運動を発展させるという「原則的な闘い」をすすめてきました。金属反「合」闘争委員会からの神奈川への共同行動のよびかけは、差別の闘いを通してとりくまれてきました。全金傘下の争議組合・争議団が中小組合であり、また金属連絡会に結集する組合として、自らの争議をつうじて自覚的・階級的労働組合のありかたをもっとも切実にもとめて、右翼再編の策動に対決していた。したがって東京における金属反「合」の共同行動への参加は、自らの争議解決をめざす要求とともに、右翼労戦に対決の行動としての意義をもっていました。こうして全国規模の闘いの現場となった神奈川で、神奈川争議団はもとよリ神奈川労組連絡会議をはじめとする県内の自覚的・階級的労働組合は、金属反「合理化」闘争委員会との共同・連帯をつよめることになったのです。

  金属反「合理化」闘争委員会との共同・連帯の端緒は、全金気工社 と日本鋼管関連争議団によって組織されました。当時県内には、日本鋼管関連争議として思想信条差別と闘う日本鋼管人権裁判原告団、女性差別蟹雇の松島闘争、潮流間差別として地労委で闘う鶴見造船「差別をなくす会」、そして系列下の全金気工社の中村解雇闘争の四争議がありました。これら四争議団は、日本鋼管という共通資本にたいする共同闘争を積みかさねてきました。

  9年後の1982年7月、松島裁判が不当判決を受けて総括し、態勢の立て直しを図る時期であり、四争議団のなかで女性差別解雇の松島闘争を重点課題として位置づけ、「松島支援共闘会議」の結成に大きな力を払うことになります。そして2年が経過していたが、1984年6月、川崎産業文化会館大ホール満杯の1600名を集め、6・20大集会を成功させ、同時に「松島支援共闘会議」を発足させました。そして、主要な役員には、金属反「合理化」闘争委員会の委員長を迎え、神奈川の主要な組合や闘う組織の、闘争経験豊かな幹部を揃え、勝利に向けて大きく踏み出すことになります。そして松島争議は、1986年2月に東京高裁で勝利的和解を勝ちとることができました。

  その年、松島闘争の勝利和解の調印を経て継承発展させ結成された「日本鋼管差別争議支援共闘会議」(日本鋼管人権裁判原告団・鶴見造船「差別をなくす会)は、議長には東京から金属反「合」闘争委員会の石川委員長が就任し、事務局長には、神奈川から三瀬勝司氏がすわり、争議経験豊かで実践的で強力な支援共闘が結成される運びとなりました。争議団共闘会議との協力・共同の関係は、個別争議団の闘いをとおして、いっそう緊密なものとなりました。「軸足」論からみれば、独占大企業の生産現揚が集中する神奈川県で、資本の攻撃と右翼的労働組合運動と対決して闘ってきた神奈川争議団共闘会議が、統一労組連絡会議をはじめ金属反「合理化」闘争委員会との協力・共同関係をいっそう強めたことは必然的であったといえます。特に、全国的に注目を集めた日本鋼管京浜製鉄・同鶴見造船・池貝鉄工・日産厚木の争議が神奈川に集中し、画期的な全面勝利解決をおさめたことは、神奈川争議団共闘会議の運動路線のうえからも特別の意義あるものでした。

5、構築し発展させた運動の主なものを集約すると

@ 大集会 1600人を集め川崎産業文化会館大ホールを満杯にする集会を2回。
A 本社への抗議要請行動。
B 共同行動・独自行動(その規模は最低100名程度から最大規模で700名)を数多く取組んできた。
C 主要取引銀行である富士銀行本・支店への恒常的・集中的な要請宣伝行動。
    役員宅要請行動
  定期要請行動・・・・・大晦日例年
  重要局面・・・・・・・一斉巡回
D 全国総行動二回 雪の札幌から九州まで。
E 鋼管独自の総行動(2回)で東京本社への抗議行動。
  鉄の闘う仲間(産業別)の結集と(造船)とのドツキング。
  通産省・鉄鋼連盟・アメリカ大使館などへの要請。鋼管関連国会議員要請。
F 鋼管の人減らし「合理化」反対・産業「空洞化」に反対する「川崎市民会議」の結成と運動。
G 裁判所への要請行・・・・・署名・傍聴動員。
H 社長宅へのジャンポハガキ作戦
 など可能なかぎりの知恵と力を出し、数多くの運動を構築しました。

 原告の奥さん達を集めた社長宅要請行動では、活動家の婦人を中心に女性だけで社長に面会し、夫の給与明細書を示して「これでは生活できない。早く解決してください」とせまり、女性ならではの力を発揮し、「思想差別はいかんね。早期に解決したい」との社長の言明を引きだし、争議解決へむけて大きなレールを敷くことにつながりました。
差別争議では初めての全国総行動をおこない、全国一四カ所各県に散らばるNKKの事業所と支店および富士銀行支店へ2回、要請宣伝行動を行い成功させました。
 こうして、支援共闘会議結成から二年で全面的な解決をおさめ、一五年にわたる人権裁判争議の勝利的和解にこぎつけることができた。鋼管の差別争議全面解決にむけての社会的糾弾の運動面でいえば、差別撤廃という新しい労働争議としては高い運動の到達点をつくりだすことができたと言えます。

6、1988年3月23日和解成立

    和解協定の主な内容

@ 会社は解決金を支払う。

A 在籍原告等の賃金と社員資格を調整する。

   というものであり、原告以外の活動家に対しても、原告に準じて若干の調整が行われた。

    追記

  日本鋼管人権裁判の総括は、何故か組織的には行われていない。その理由は終結後十数年経った集会で、担当弁護士の口から人権裁判に起ち上がる経過が報告され明らかになるので有るが。私が人権裁判の闘い全体を分析し総括した文書は、1990年12月1日に刊行された「闘いは奔流となって」という、数人で共同執筆し出版した本のトップレポートで「日本鋼管人権裁判一五年の闘い」として、始めて個人論文として発表掲載されている。既にその2年以上前に或る組織へ提出したが、お蔵入りとなり眠っていたことになる。私が独自に総括した内容であり、当初は運動や闘い・組織的に不十分な点や批判も含まれていた。しかし、外へ向けて発表するとなると、闘争相手である会社労務や他企業の労務屋の目にも触れる事になり、後続する差別争議に悪影響を与えることを危惧した。従って、そのような内容は削除して整理し、3分の2程度に短縮し纏めたものである。この連載が今後どう展開していくか、その時点で検討を加え対応を試みたいと考えている。


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