ボランティア

(特別編) 神奈川争議団共闘会議の歴史と果たした役割

    (1977年09月03日〜   年 月 日  現在36年)



   T、「神奈川争議団共闘会議」というバンドラの箱


結成総会議案書
 今迄幾つか私が直接関わった争議の概要を報告してきました。結果は全て、勝利解決という内容の終結でした。一読した皆さんはお気づきかと思いますが、裁判で勝利判決を取ったのは一事件だけです。不当判決を受け裁判で負けているのに何故、最終結果は勝利解決と言えるのか、疑問を持たれた事と思います。

 裁判所の判決で勝てずに何故勝利解決が出来たのか?不思議に思われて当然かと思います。何かカラクリがあるのではないか、勝ち負けの基準が違うのではではないかと、想像豊かな人は様ざまな思いを巡らせていることでしょう。神奈川には、「神奈川争議団共闘会議」という自主的な組織が有ります。賢明な皆さんは、この争議団という箱の中に何か有効な仕掛けが施されているのかも知れんと、察知されてた方がおられるかも。確かにこのボックスの中に特効薬に近いものが隠されているようです。

 結成以来36年の歴史の中で、争議団加盟154の団体・個人、のべ1500人の団員が勝利解決を図ってきています。毎年総会を行い、争議団活動の報告と総括をやり、立派な議案書が作成され発行されています。これだけ素晴らしい実績を持ちながら、神奈川争議団とは?となると、知る人ぞ知る程度で、さほど知名度はなく、争議団というと葬儀屋さんと間違えられる事が多く、簡単に説明して分かってもらうのは難しいのが実態です。

 ここでは、現存する幾つかの資料を基に、その謎を解き明かしていきたいと思います。開けてはならないパンドラの箱、病気や悪は飛び出し、今や世の中に蔓延しています。箱の中にはあと希望だけが残っていると言われています。希望には知恵も付いて残っているかも知れません。「神奈川争議団共闘会議」というパンドラの箱、勇気をもって開けてみたいと思います。

   U、結成までの経過

1、神奈川地方争議団共闘会議(神奈川県下争議団共闘会議)(1962〜1965年)

 日本独占資本の生産の心臓部にあたる神奈川、労働者の闘いは歴史が古く、頑強さでも伝統があり、60年代前半には以下の争議が発生、大和電気・ウルべ、・三協紙器・メトロ交通、滝の川交通、不二越精機等の争議の中にもそれが輝かしく生きていました。60年代前半には、一時期、神奈川地方争議団共闘会議(県下争議団共闘会議)が結成されましたが、大型争議が相次いで解決して中核争議団がなくなり、開店休業状態になりました。

 その後各地域争議組合・争議団の要求にもとづき、地域争議団共闘が結成されて行きましました。神奈川地方争議団共闘会議は、まだ労働争議が整備されていない初期の段階で、闘いの経験も蓄積もないな中で、暗中模索しながら闘われてきました。ただ、労働者は団結権と連帯、組合に組織され企業を超えて連帯と支援、一致した要求での団結した行動を身に着けています。争議解決とともに自然消滅したとはいえ、今日の神奈川争議団共闘会議の手本(基礎)になり、労働者が団結と連帯して闘うことの意義と必要性を、この時期残したと言えます。

 日本オイルシール(1967・4・20〜1977・9・5)組合役員配転解雇・復帰1
 日本鋼管I造(1962・6・15〜1977・10・15)臨時工解雇・職場復帰・解決金
  大和電気(1962・10〜1968年)和解
 ウルべ帽子店(1962・11〜1968年)和解
 三協紙器(1964〜1965・11)和解
 油研工業(1965・12〜1968年)和解
 横浜ゴム(1966・1・6〜1977・12・27)活動家排除・解雇・復帰7・解決
 滝の川交通(1965・12〜)
 NCR(1966〜1977・12・24)組合役員解雇・職場復帰・解決金
 不二越精機

2、神奈川争議団共闘会議連絡会議(1974年12月〜1977年9月2日)

   連絡会議結成以前の県内争議団の状態==地域争議団共闘の活動==
  60年代前半には、一時期、県下争議団共闘か結成されましたが、大型争議が相次いで解決する中で、中核がなくなり、開店休業状態になりました。その後各地域争議組合・争議団の要求にもとずき地域争議団共闘が結成されていきましました。

  川崎では71年に市内争議組合・争議団による共闘会議がつくられ、相互支援やカンパ活動、地裁川崎支部腕章闘争、工場、駅頭でののビラ入れ等で協力しあいました。横浜では70年に結成し、同様に傍聴支援やカンパ活動、行商等を行い、定期的な会議を開き、それぞれがかかえている問題点を出し合い、解決への努力がなされました。湘南では、横浜ゴム争議団や油研争議団をはじめ全国一般争議団が中心となり、同様の闘いが進められました。油研争議団は職場の仲間の争議と結合させ、職場復帰を果たしました。県央争議団は、当時厚木争議団共闘と称し、東缶争議団が中心となり運動が進められました。

    4つの地域争議団共闘会議結成と役員

@ 川崎争議団共闘会議  1971年3月20日
    議長     高山  尭(東亜石油労組)
    事務局長  佐藤 信吉(東芝争議団)
A 横浜争議団共闘会議 1972年6月10日        (1969年結成説・資料なし)
   議長     生井 一一 (全配管労横浜支部)     五十嵐富士弥(石播横浜)
   事務局長  池田  實(大日本塗料争議団)      中村 進亮(大日本塗料)
B 湘南争議団共闘会議 1974年
   議長     咄島 三郎(横浜ゴム争議団)
   事務局長  大山 金光(オイルシール分会)
C 県央争議団共闘会議(1976年) ← 厚木地区争議団支援共闘会議(1974年3月)
    議長    平田 一清(東缶争議団)

    神奈川争議団共闘会議連絡会議役員

    議長     高山 尭(東亜石油労組)   川崎争議団
    事務局長   池田  實(大日本塗料)   横浜争議団

     V,神奈川争議団共闘会議の結成

 神奈川争議団共闘会議は、幾多の曲折と試練を経て、1977年9月3〜5日、西丹沢「中川荘」において結成総会が開かれ、結成されました。36年の長い歴史を持つ組織であり、現在に至るまでの間154加盟争議を勝利解決に導き、多くの実績を誇る自主的な大衆組織です。その目的は、「資本の首切り「合理化」、権利侵害、生活破壊に反対して闘う。」「一日も早く勝利するために、統一と団結を固め、相互支援と交流を深める。」ことにあります。争議を一日も早く勝利解決するためには、各争議団だけの相互支援だけでなく、労働組合や「民主的諸勢力との連帯を深め、共闘を強化する。」事が必要であり、神奈川県内という狭い範囲にとらわれず、全国的視野に立ち、大きく広い観点で力を結集し、支援体制を構築することを目標にして結集しています。
 
3、結成総会の趣意書(宣言)

  ここでは、歴史の事実に基づいた資料を活用し、記載しておきたいと思います。結成総会議案書の最初に、趣意書(宣言)が載せられていますので、以下そのまま転記いたします。

       は じ め に (結成宣言)

 「神奈川は独占資本の生産工場が集中し、生産労働者が結集しており、資本主義の牙城であるといわれ、そこでの労働運動の動向は今後の革新勢力の発展に大きな影響を与える」と言われています。この重要な神奈川での争議組合・争議団の活動は60年代の三協紙器・ウルべ・大和電機等の首切り、企業閉鎖・組合つぶし反対の闘いで輝かしい教訓的な解決を勝ち取り、その教訓はいくつかの長期争議の「敵よりも一日長く」を合言葉に引き継がれてきました。

 1974年神奈川県下の四地区争議団が結集して「神奈川争議団共閣連絡会議」を結成し三年間にわたって活動を進めてきました。東京での総行動方式に学んで企業抗議・門前集会・駅ビラ・裁判所抗議・自治体要求とこの3年間は行動の期間でありました。そして「県下のたたかう争議組合・争議団が進行する情勢に対応する反合理化闘争と自らの争議勝利、そのために有効かつ質的なたたかい」が求められ「資本の『合理化』のねらいや、労働運動の・右寄り化と企業フアシズムを正面からとらえるならば、私たちも職場を主戦場に、地域、産業別に根をはった闘争強化を多くの仲間とともにつくりあげる時代、共同・統一闘争の時代にたっていることの認識を重視し、さらに首都圏の仲間との反合闘争・親会社、背景資本ヘのたたかいの前進に努力をし、相互の支援・交流の力を全県的なものに作り上げる」ために神奈川争議団共闘会議の結成のはこびとなったのです。低成長時代の中での労働運動の困難さ、その中での争議組合・争議団の勝利には更に大きな力が必要となっています。新しく結成される神奈川争議団共闘会議がその運動のカナメの役割を果すよう、全員の英知と情熱を結集してがんばろう。

W、情勢分析を綿密に徹底して行う

 政党であれば、国際情勢から分析するのが基本的姿勢で当然であるが、争議団も国内外の情勢を深く掘り下げて分析を行う。争議の勝利に向け、戦略戦術を立て検討する上での重要な要件で、必要不可欠であるからです。世界情勢、争議をめぐる動きで、どんな些細な情報や知識でも、知っておいて損はなく、やがて争議はILOや国際的視点での関連性をもち、ちょっよした情報が、解決に向けて有効なヒントとなる場合もありうる。以下は結成総会に提起された、国内情勢を分析する上での議案書の一部を掲載しておきたい。

1、私たちをめぐる動きー深まりゆく資本主義体制の危機と革新の前進

  いま、世界の資本主義体制は、止まりようのない不況とインフレの谷間に突き進んでおり、失業の増大がつづいています。こうした危機打開のため、第3回資本主義七大国首脳会議(5月、ロンドンサミット)は、景気対策国際収支、貿易問題、核エネルギー、南北問題について討議をしたが、抜本的な問題解決を見いだし得ないまま終っています。73年秋のオイルショック以降、国際的にも日本においてもエネルギー、資源問題と設備過剰が重なり、インフレ抑制策は不況を呼び、景気対策はインフレをふかめる矛盾をうみ、これまでのように経済活動をつづけることが不可能となっています。そのため、各国とも4〜5%の経済成長率のなかで低成長政策をとらざるをえず、高物価、賃金抑制策、失業の増大がうみだされ、重税、社会保障の削減など回復の能力のない矛盾と衰退をしめし、深めています。こうした資本主義支配体制の全面的な危機のなかから、労働者、労働組合の生活と権利を守り、国政の革新を求める力がおおきく前進ーーフランスの左翼連合の進出、スペインの全政党合法化と総選挙、イタリアの全政党一致の政策確立、ポルトガルの労働運動合法化−ーしているまぎれもないこの事実こそ歴史の主たる流れとして確信をもつことができます。

2、ゆきづまりつつある自民党政府と独占の対応

  こうした構造的ともいえる国家独占資本主義の深刻な危機は、日本においても例外ではなく、独占資本と政府自民党はその支配体制の維持と避けがたい改革の流れに必死の攻撃をくわえていることに情勢のきびしさがうまれ、本質があるといえます。まさしくいずれかの力の均衡が破れるならば、支配体制がうつりかわる全国的な情勢がひきつづくでしょうし、いっそうきびしい攻撃がつよまるといえます。昨年のロッキード疑獄事件につづき、いま、それにまさる日「韓」汚職、全大中事件は、米・日・「韓」の政治的、経済的な構造が腐敗の極にきていることを示しています。ここにも、国民のきびしい審判がくだされ、総選挙・参院選をつうじて政府・自民党をおおきく後退させ「保革伯仲」という政治情況をつくりだしました。そのため、支配体制もまた、野党の抱き込みと分断の攻撃をつよめ、政治戦線・労働戦線の右寄りを推し進めています。(長文が続くが、現状と違うので後略する)

3、依拠する勢力=軸足論議の芽生え

 国際・国内情勢と同時に、争議団をめぐる身近な情勢も分析し、判断して戦術を練らなければならない。県内のどの組合や勢力が頼りになり依拠したらよいか、誰に支援組織の役員を依頼したらよいか、県内の力関係や争議状況についても全体的に状況を把握しておかねばならない。以下は結成総会で提起された、県内情勢、県内争議の闘いの特徴と教訓と題して、全体で討議し深めるとともに、共通の認識として確認しておく内容である。

4、県内争議組合・争議団の闘いについて

  県内争議組合、争議団は、現在 ( )団体(   )人 であり、地域争議団共闘に未加盟の仲間や差別、労災、刑事弾圧、官公労働者の不当処分で闘う仲間を加えたならば、県内で権利闘争をおこしている数ははかり知れません。「姿なきピケットライン」三協紙器闘争、「労商の共同戦線」のウルベ闘争、「コブだらけの勝利」の油研解雇反対闘争など、60年代の教訓的、先駆的闘いは全国的に影響をあたえ、「統一こそに勝利がある」のスローガンで反合理化闘争をたたかった日炭高松の仲間の「統一戦線方式」を着実に実践し、神自交滝の川、メトロの仲間も地域の共同の団結の力て権力の弾圧をはねのけて勝利をしました。そして、横浜ゴム争議団、東亜石油争議団、川崎化成争議団など、いくつかの仲問がひきつづく困難な闘いを続けはするが、多くは解決をし、第一期県内争議団共闘はその役割りを一度は閉じ、あらたな闘いの準備のために、地域で闘いの火種を燃やし続けていました。多くの労働組合が、その方針を掲げはしていたが、「合理化」反対闘争、そして、中心ともいえる争議は、解雇者をかかえたいくつかの単産の指導と当事者の「闘えばいつかは勝利する」ド根性路線でがんばり、たたかわれていた。しかも、先輩争議団との交流があるのは良いほうで、法廷、地労委闘争の孤独な、長期闘争を家族や少ない仲間とともにすすめていた。生活苦から、労働組合、民主団体の専従に活動の主体がうつってしまった仲間もいた。

  1973年(昭和48年)9月、神奈川総評弁護団の労働委員会民主化九大要求の呼びかけがされた。おりしも、オイルショックによる狂乱物価、経済不況がふかまりつつあるなかで、大型倒産、大量首切りがおこり、職場ではたたかう組合や活動家に対する分断攻撃や不当差別が一層つよまっていた。倒産・解雇・差別でたたかう多くの仲間は、自からの職場とその周辺の労働組合、地区労、そして単産がらみの争議は、その単産の春闘夏期、秋期闘争のからまりのなかで大きくはないが闘いはとりくまれていた。しかし、職場や労働組合からの支援も受けられない争議団は、そのよりどころを地域争議団共闘に求め、集まりはじめていたのが現実でした。

 また、これらの仲間は、県内の民主的法律事務所・弁護士とむすんで労働委員会、裁判所に提訴し勝利をめざしていた。とりわけ、神奈川の労働委員会はその救済率の低さ、審理の長期化に泣かされ、ウルベ事件以来、倒産や配転解雇事件で労働者側の敗訴は当然視され、単に反動地労委というばかりではなく、期待をよせる機関でないという風潮であった。不当敗訴命令か、よくても和解、それもわずかな涙金で職場を去った仲間がおおくいた。労働委員会の体質的機構に、怒りよりもまず、何んとか変えなければという闘う単産、弁護団、争議団の要求が結び、再び、全県的な広がりをもった運動が労働委員民主化という自からの闘いと結合しておきあがりました。常盤車輛、江の電自校、全配管労、須坂港運、高野鉄工、後の昭和無線 ヤシカ、牛乳支部、中山水道の大型争議団が、それらの所属する単産とともに、地労委で提訴したたかっている仲間を包む争議団共闘の仲間、県下の弁護団と共闘がつよまり、運動のたかまりのなかでは、県職労、全税関をはじめ国公共闘の仲間も加わり民主化闘争は52団体が、それも、地域、上部団体の違いをこえて結集するに至りました。(まだ、長文が続くが後略)

X、結成総会  活  動  方  針

  こうした国際情勢から国内情勢・県内情勢を綿密に討議しても、その状況の中で神奈川争議団共闘会議として、また個別の争議団が何を行うか、活動の基本方針を提起し決定して闘う方向を打ち出さなければ意味がありません。決定した方針は意志統一を図り、決めた事は必ず実践しなければ絵に描いたモチで何の役にもたちません。以下は結成総会で提起された、活動方針である。

 私たち争議組合・争議団は、生産現場の集中する神奈川で資本の不当な首切り、企業閉鎖、差別の攻撃に対し不屈な闘いを展開してきた。日本経済の低成長の中では労働者に対する資本の攻撃も複雑巧妙かつ露骨になってきている。 私たちは、これらの情勢を正確につかんで自分達の活動の中に生かし、すべての争議組合・争議団が、一日も早い勝利を勝ちとるため、次の活動を行っていきます。

▲ 幹事会の充実と組織体制作り
  県内争議の実情を正確に把握し行動をつよめるために各地区争議団、主要争議団から幹事を選出し組織の充実をはかります。
  幹事以外の争議組合・争議団が自由に幹事会に出席するよう呼びかけます。幹事会は月一回以上開催します。

  ▲ 宣伝活動を重視し情報交換に努めます
  争議組合・争議団に対する資本家側のうごきを始め、裁判所・地労委・警察権力又は職場に現れる合理化の実態などの宣伝につとめる。
▲ 各争議組合・争議団・地区争議団の相互交流の強化
  地区争議団・個別争議組合・争議団相互の 支援、交流を強化し、それぞれの経験と教訓を学び合います。また、県争議団共闘への参加や加入を積極的に呼びかけます。
▲  傍聴動員の強化
  各争議組合・争議団が裁判所・労働委員会日程を報告しあい、傍聴動員の相互支援を強化します。
▲ 討論集会と交流会
   情勢の把握とたたかいを強めるために次のことを行います。
  @ 春闘討論集会
  A 問題別研究交流集会
  B 弁護団・労働委員会労働側委員との交流
  C ひとり争議激励集会

▲ 統一行動・共同行動の強化
   私たちは闘いを発展させるために次の行動にとりくみます。
  @ 地区総行動
  A 司法反動とのたたかい
  B 重点争議の解決のための行動
  C 警察権力介入排除のたたかい

▲ 文化レクリェーション活動
  各争議組合・争議団の要求にそって健康保持と団結強化、家族交流のためにレクレエーション活動を積極的に行います。
▲ 他団体との共闘について
  争議勝利と地域での労働運動の強化のためにはさまざまな統一行動と共闘が求められます。神奈川争議団共闘は加盟する争議組合・争議団の実情や自主性を尊重し合って運動の発展に協力します。
   要求で一致する団体との共闘・統一行動には積極的に参加しす。
▲ 自治体交渉を前進させるため
  今までの経験をひきつぎ革新自治体の有利な面を生かして定期交渉、問題別交渉を発展させます。

      Y、自主的・主体的な運動の構築へ

  神奈川争議団共闘会議は、結成の当初から自立した組織として団体間の関わりを重視してきた。その主要な背景は、争議団の特殊な組織的性格にあるといえる。神奈川の個別争議団は、組合の組織としての争議の場合は、主体的な闘いが初戦から取りくまれるが、地域的にも、産業構造のうえからも独占大企業の生産現場が集中しており、争議、事件の多くは、JC、同盟の職場や組合からの支援がないもの、また未組織の職場となっていた。これらの争議は、組織的活動の経験が少ないことに起因し特徴となっていた。したがって、共闘会議は、それぞれが属する産業別組織の運動を重視しながらも、組織の違いをこえ、また争議団の大小に関わりなく対等平等の立場で参加し、自立した共闘組織を構成している。しかしながら、組織的運営、運動のうえからは、経験を重ねてきた争議団、力量をもつ争議団が新しい事件、困難な争議をはげまし援助する役割を果たしながら共闘会議の統一と団結をはかってきた。

 また、神奈川では、横浜、川崎、湘南、県央と地域争議団共闘が結成され運動を発展させるなかで、地域争議団を全県的に統一して神奈川争議団共闘を結成してきた。そこでは、運動をつうじて、争議団運動の蓄積、闘いの教訓の継承、発展がもとめられたと同時に、資本の系統的・総合的な攻撃に対応する闘う組織としての自主的、自立した共闘組織が求められてきたのである。従って、全県を結集する組織の確立はきわめて重要であったと言える。争議団の性格ともいえるが、主要な争議団の解決によって、地域争議団共闘の機能が停滞することがあり、残された個別争議にとってはきわめて切実な課題となっており、運動を拡大強化するうえからも共闘組織は不可欠であった。

  1960年代に神奈川争議団が地域争議団共闘に解消され、70年代に再構築してきた歴史的教訓からも全県的に統一し自立した争議団共闘会議の発展強化は、闘う争議団に課せられた固有の任務であるといえよう。それはまた、直接的に支援をあおぐ労働組合あるいは団体との関係においても、自立した組織としての任務と役割、さらには責任を負うものといえる。こうした立場から今後の争議団運動をみるとき、争議団共闘会議がつねに自主的・主体的な立場から自らの争議の勝利解決と労働組合の階級的強化のために奮闘することが今後とも更につよく求められているといえよう。

(1)結成当時の東京争議団との関わりから

 東京争議団との関わりでは、当時相手会社の本社が東京にあること、「東京総行動」による本社抗議などが取りくまれ闘争勝利に積極的役割を果たしていたことから東京以外の争議組合・争議団が東京争議団に加盟することが多かっか。東京争議団も「東京で闘うには東京争議団に入って闘う」よう勧めていた。そのため東京争議団には東京以外の争議組合・争議団がかなり参加していた。当時の東京争議団の一部幹部は、争議を通して総評・地県評との共同の拡大をはかろうとしていた。そして東京争議団のこの方針をすすめるため、「東京争議団は『東京地方争議団共闘』が正式名称である。したがって東京以外の争議組合・争議団が東京争議団に入って活動することに問題はない」としていた。

  1978年の東京争議団共闘会議第17回議案書によれば、参加争議組合、争議団の数は98労組・団体でうち神奈川からの争議組合、争議団は8労組・団体である。またその他に茨城1、埼玉3、大阪1、群馬1など、神奈川以外の府県からも東京争議団に参加していた。1988年の東京争議団共闘会議第27回総会議案書によれば、参加争議組合、争議団の数は48労組・団体で、うち神奈川からの争議組合、争議団は5労組・団体であった。また大阪は0、京都、広島、静岡、埼玉が各1、千葉が2労組・団体参加している。当時の東京争議団の議案書には、東京を中心とした各単産ごとの報告とともに、各県ごとに争議の報告がのせられており、神奈川争議団の役員にたいし東京争議団の議案書に神奈川県内の争議報告を出すよう求めたりしていた。

 また、東京争議団は、総評の関東ブロックと共同も一部で進めていた。こうした一連の東京争議団の一部幹部の行動や発言は、争議団内で「首都圏構想」といわれていた。現実に、多摩川を越えて鶴見川迄は獲得し、相模川の向こうは制覇し、残るは鶴見川から相模川の間だけであると、まことしやかにささやかれていた。こうした東京争議団の方針のもとに、東京争議団と東京地評の専従オルダ、神奈川県評の専従オルグ、それに東京、神奈川の争議団共闘会議の役員で、神奈川争議団と県評の関係を改善するための話し合いも設定された。このように、神奈川争議団共闘会議結成に際しては、東京争議団共闘会議の干渉まがいの行動もあった。そこには、神奈川の労働運動の歴史的経過、首都東京の労働運動の置かれた立場と歴史が異なり、存在の違いからくる認識の差異、運動路線のちがいがそこにあった。

 神奈川での運動を重視し、神奈川の自覚的労働組合に依拠した運動を通して闘争勝利を目ざそうとする自主的・主体的運動をすすめる神奈川争議団指導部の見解と、東京争議団の東京地評、総評に依拠した運動を進めようとする東京争議団指導部の方針のちがいを、神奈川の労働運動の単純さ、幅の狭さとしてその是正をせまり、そのため運動の路線をめぐってこの問題は神奈川争議団共闘会議内部の意見対立にまで発展した。これは神奈川争議団共闘会議の方針や役員人事にも当然反映した。神奈川争議団共闘会議結成にあたって、東京争議団共闘会議の副議長が神奈川争議団共闘会議の議長になるかをめぐって神奈川の争議団内部に論議がおこった。後にこれは、東京争議団の副議長を辞任することで解決したのであるが。

(2)結成当時の県評と争議団との関わりから

 当時、神奈川県内では574労組・団体(443名余)が神奈川争議団共闘会議に参加しており、うち43団体(249名)が解雇され、撤回闘争で闘っていた。神奈川県評の右翼的な闘争指導による神奈川県評の指導を断る組合も出て、当時でもかならずしも神奈川県評がすべて関わっていたのではなく、1970年初頭から、むしろ神奈川県評に依存せず独自の闘いを組むところが増えつつあった。当時一般的な支援共闘会議の形態は、神奈川県評の役員が支援共闘会議の議長を、争議組合が所属する単産の役員が事務局長をやることが多かった。しかも、支援する条件として三権(争議権、交渉権、妥結権)を委譲しなければ支援しないと恫喝し、無理やり三権を握ってしまう。

  しかも、運動が高揚して会社が音を上げたところでおもむろに出てきて運動を止めさせ、当事者を退けて会社と結託して勝手に交渉し、低水準の解決で妥結してしまう。神奈川県評や右翼的単産幹部の指導する争議の解決の多くは、職場復帰はおろか、僅かばかりの解決金で路頭に迷わせ、資本との裏取引や無原則的妥協が多く争議組合当事者からその闘い方や解決条件をめぐって批判が絶えなかった。当事者が単産指導のやり方を不満として、組合印をもって一時行方不明になることもあり、職場復帰ができない事件なども発生した。このような腐敗した県評幹部の状況のなかで各争議団に、神奈川県評に依拠せず自覚的な労働組合に依拠して闘いを勧める自主的・主体的運動構築の傾向が強まり、支援共闘会議の形態も、実質的に県評を中心としない形態がとられるようになっていった。そうした状況での「神奈川争議団共闘会議」の結成は、他に影響されず、自覚的・主体的で自前の組織、努力次第で希望と展望を持てる独自の組織を手にして闘う要求と結びついていた。

(3) 軸足論をめぐる論争・労働戦線右傾化との闘い

 このように、神奈川争議団の基軸となる自主的・主体的な運動路線の方針は、「東京地方争議団共闘」路線からの脱却と県評依存からの独立という、多方面での選択肢を迫られるのは当然である。当時は、労働戦線の統一をめぐって、先鋭的な闘いが行われていた。神奈川県には、日本の独占といわれる大企業の九割が集中しているといわれていた。その神奈川で資本の労働組合運動への対応はきわめて高度な対応がとられている。階級的労働組合の御用化・右傾化は、一貫しており系統的・組織的で、警備公安警察、企業の労務担当との一体的な連携のもと、労働争議への警察の介入や暴力団の介入も多く行われていた。神奈川県評の右傾化はひどく、総評内単産での神奈川県の組織は、全国でもっとも右派に属する組合が多かった。従来から一般的にいわれていた「総評は闘う労働組合」とのイメージは、神奈川県では70年代初めからすでに崩れつつあったのは前記したとおりである。

(4) 闘いの基本と労組連運動

  神奈川争議団共闘会議は、第三回総会議案書(1979年)の闘いの総括と教訓の項で「争議団の原則   的な闘い」を提起・決定している。
   このとき、現在の神奈川争議団共闘会議の方針が基本的には確立されたといえる。

 @闘いの原点をつねに明らかにすること。
 A自主的・主体的な闘いをおこなうこと。
 B労働戦線の階級的統一、革新統一戦線の結成をめざす闘いに寄与すること。

 東京争議団の基本方向が、職場からの統一をかかげ、東京地評に重心をおいた運動を展開し、争議をつうじて労働戦線の階級的統一を追求したのにたいし、神奈川争議団はその「軸足」を自覚的階級的労働組合におき、労働戦線の階級的統一、革新統一戦線の結成をめざす闘いを追求していることである。この方向を神奈川争議団が追求するようになった背景には、当時の神奈川労組連絡会議の運動に特徴的にみられる神奈川の労働運動が影響をあたえていると考えられる。総評が解散を決定し「連合」へ吸収合併されたこんにちでは、統一労組懇の運動を否定する人は少なくなっているが、神奈川においてはこの原型ともいえる運動は横浜地区労が中心となり、1965年からおこなわれていた。組織体でなく運動体として、自覚的労組の共同行動を拡大強化し、運動を通じて右翼的潮流を圧倒していこうということから、目的意識的に「労組連絡会議運動」が展開されていました。

労組連絡会議運動は、神奈川県労組連絡会議(統一労組懇)へと引き継がれていった。これが、独占大企業の工場が集中する神奈川県の労働運動の歴史的経過である。こうした自覚的労組の共同行動が、神奈川争議団の運動方向に大きな影響を与えたといえる。神奈川争議団代表者会議では、役員会が提起した、共同行動の組織化にあたり統一労組懇運動の先がけでもあった神奈川労組連絡会議をはじめとする白覚的労働組合との共闘強化をめぐって感情的な論議になり、「労組連」の名がでただけで争議団共闘の会議で「ナンセス!」のヤジがとぶ状態もあった。小異を捨て大同について団結出来たのは、過去に味わった屈辱と悔しさが根底に流れ、人間としての尊厳を大事にし自由な意志での闘いを求める点で合致していたからでもあった。神奈川争議団共闘会議の第一回総会(1977年、結成総会)の議案書は、このように複雑な状況のなか、困難な条件を克服する討議を尽くし、統一の方向でつくられたのである。

 結成総会は、県内のほとんどすべてといってよい争議団が集まり、活気に満ち闘う決意にあふれていた。いままで孤立し必死にがんばってきた争議団は、自分の争議を多くの人にわかってもらおうと、交流会は夜遅くまで続けられ大変賑やかさであった。結成総会のさなか全国一般オイルシール分会の争議が、解決金一億円をとって解決したと報告され、闘う神奈川争議団共闘会議の門出に「華」をそえた。
 結成総会は、議長に全国一般全配管労の糸川氏、事務局長に大日本塗料争議団の池田氏を選出した。

Z、争議団共闘の統一行動から「神奈川総行動」へ

  神奈川争議団共闘会議は月一回の代表者会議を開催し、各争議団の報告と当面の重点を決定し、全県の争議団が一つの争議団に集中し、労働組合の支援も得ながら抗議行動などを本格的におこなうようになっていった。会議は解雇争議が大部分だったため午前中役員会、午後から夕方まで代表者会議と時間もたっぶり採っておこなわれた。
  各地域争議団共闘会議も、それぞれ会議をひらき地域での運動をつくっていった。「県内企業のリレー抗議」に代表される神奈川争議団共闘会議の統一行動は、労働組合の支援も加わり産別の枠をこえ地域共闘発展の基礎ともなった。またこの「リレー抗議」は、神奈川から独自に東京に攻めのぼる東京行動にも発展し、争議解決に大きな威力を発揮した。

[、兄弟姉妹組織と分担連携して

  神奈川には、差別連絡会議・地労委民主化対策会議・神奈川職場に自由と民主主義連絡会議(神奈川職自連)・連合職場連絡会等、いろんな分野の組織が設置されており、それぞれが独立し分担すると共に、そうした組織が有機的に結合し、情勢や必要に応じて連携し、協力・共同の関係を築き合同して総力戦で闘う場面もあります。労働争議には、地労委(現・県労委)の民主化闘争は欠かせません。司法の反動強化は許せず阻止しなければなりません。弁護士団体を含め五者で、憲法記念日に例年共同して集会なども開催してきました。

 私は、神奈川争議団共闘会議の副議長を務めた経歴を持ちますが、当時は自分の争議や加盟争議の一日も早い勝利解決を勝取る事に専念してきました。しかも、差別争議を闘う争議団は、NKK・東京電力・小田急・日産・日立・東芝等に見られるように、国を代表する大企業であり、所属する組合も連合傘下の産別に組織された組合員であって、対極にある全労連に所属する組合員でもありません。当然の事ながら、連合職場連絡会での活動もあります。神奈川争議団は、1977年9月に結成され、36年の長い歴史を持って活動している。その目的は、争議を「一日も早く勝利するために、統一と団結を固め、相互支援と交流を深める」ことを、主な目的としています。 神奈川県下の不当解雇事件や女性差別の撤廃、労働組合運動を理由とした解雇争議や昇格・賃金差別等の是正を求めて闘っている争議団が加盟しています。、相互支援と交流を深めながら協力・共同し、助け合い、争議の一日も早い勝利解決を目指して闘う組織であり、規約に基づいて運営されています。

 労働関係のあらゆる行政組織に相談や救済を求めても解決せず、地方労働委員会(現県労働委員会)や裁判所への訴訟をやむなく提起して闘わざるをえない、非常に厳しい状況に置かれた争議団が加盟し共闘しているのが特徴です。 不当解雇や労働問題で困っている人達の相談も受付け、蓄積された知恵や力を提供して相談も受けています。そうした意味では、労働問題で困り果て助けを求めても行き場の無い最後の”駆け込み寺”というのが、適切な位置づけとなるでしょうか。そして、新人争議として加盟し活動し、めまぐるしい渦の中で運動しているうちに年月が経過し、いつの間にか自分も渦に巻き込まれ、自ら新しい提案をし実践の先頭にたって運動しながら育っていく。

  孫子の兵法を学びながら、現場で実践し戦術家として自分が気が付かない間に自然に成長していく。そんな実戦の場が神奈川争議団であると言えます。争議が解決すれば、当然その争議団は去っていきます。しかし、そのノウハウは自然に後進に継承され引き継がれていきます。神奈川争議団の方針の下で共闘し、36年の歴史の中で、154の加盟争議組合・争議団、1500人が勝利解決を図るという、輝かしい実績を残しています。その経験と知恵が濃縮され集約されたものが、下記「神奈川争議団共闘会議の理念」です。争議が解決すれば、当然その争議団(組合)は神奈川争議団共闘会議から抜けていきます。しかし、残った争議団や新たに加盟する争議団は、先人の築いた精神とノウハウを継承し、闘いを前進するなかで更に内容を充実発展させていくという関係が継続していきます。

\、神奈川争議団共闘会議の理念

  闘争勝利の四つの基本と三つの必要条件および闘争勝利のための原則的な闘い

一、【 三 つ の 原 則 】    第3回総会(1979・9・7)

 1、闘いの原点を明らかにすること
 2、自主的主体的に闘う
 3、労働戦線の階級的統一、革新統一戦線の運動に寄与すること

二、【 四 つ の 基 本 】

1、職場からの闘い
2、産別・地域の仲間との団結と共闘の強化
 3、争議団の団結の強化
 4、法廷闘争の強化

三、三つの必要条件

 1、要求を具体的に明らかにする
 2.情勢分析を明確にする
 3.闘う相手を明確にする

]、 バンドラの箱、蓋は開けてあります

 昔から開けてはならない禁断の箱、「神奈川争議団共闘会議」という、バンドラの箱、蓋を開けてみました。希望や知恵が沢山残っていましたが、その全てを書く事は避けます。味方だけでなく、相手を利するかも知れませんし、司法改革で労働法制の改悪化が進み、現在の情勢に無条件に適用する情勢ではなくなって来ている点も出てきています。同時に、モザイクで不透明なものは、自ら努力しいろんな角度からアプローチして、真剣に取り組まない限り真髄を会得することは不可能です。

  この項は、いわば中間総括的な位置づけとして記載したもので、今後も私が深く関わった争議を何件か掲載していく予定です。そうした具体的な事件や争議の取組の中に、新たなエキスやヒントが含まれ吸収できるかも知れません。私は、そうした体験から改めて謙虚に学び、新たな分野で、更にボランティアへの道を模索し発展していくつもりでいます。同時に、最後に救いを求める労働者の”かけこみ寺 ”の門は、現在も開放してあります。



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