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秦 野 名 水 巡 り
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弘法の清水
弘法の清水

秦 野 盆 地 湧 水 群 (日本名水百選)



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日本名水百選
丹 沢 名 水(秦野盆地湧水群)めぐり


日  本  名  水  百  選 


谷 川 岳 史




秦 野 南 東 部(今泉地区他)



         

弘 法 の 清 水 ( 臼井戸 )


 平安時代、夏のある日のこと、一人の僧が水を恵んでもらおうとある家を訪れましたが、その家には水がありませんでした。「ちょっと待って下さい」と外へ出た娘はなかなか戻ってきません。水を求めて遠くまで行ったのでした。僧は大変感謝し、持っていた杖を地面に突くと、そこから水が湧き出しました。後になってこの旅の僧が弘法大師と分かり、この井戸を弘法の清水と呼ぶようになりました。年間を通して水温は16℃前後、湧水は日量130トン前後で安定しています。なお秦野近在には、弘法山等弘法大師ゆかりの地が多数あることから、大師伝説と結びつき弘法の清水と言われるようになったようです。


弘法の清水ー2
弘法の清水ー1















【案内】 小田急線秦野駅北口より右へ徒歩約5分の湧水、水量豊富。・秦野市大秦町 1−31



今 泉 名 水 桜 公 園 ( 今泉湧水池 )・ 別称 「大岳院池 」


 秦野駅近く、この池は古代からの水汲み場所であって、池の底からは、石器時代、奈良・平安時代の土器破片等が大量に出土しています。現在の池は、昭和初期に造られたもので、それ以前は荒地に囲まれた湧水でした。池の底から日量約2,500トンの地下水が湧き出し、秦野盆地湧水群の中でもトップクラスの湧出量を誇っています。以前は釣り堀として利用されていましたが、秦野市制施行50周年(平成17年1月1日)を記念して、平成18年2月1日に今泉名水桜公園として整備され生まれ変わりました。園内には18種類50本の桜が植えられ、水辺と桜が四季折々の姿を織りなし、ほぼ1年を通して桜と散策が楽しめます。公園の基本設計は、安藤忠雄氏によるものです。


公園石碑
今泉名水池














【案内】 秦野駅南口より徒歩5分   ・秦野市今泉426−1



い ま い ず み ほ た る 公 園 ( 向原湧水 )


 向原湧水を利用し、秦野市今泉台特定土地区画整理事業に伴い、ホタルの生息できる親水公園を整備しました。園内数カ所から水が湧き出し、草むらの中を静かに流れています。向原湧水は、今泉ホタル公園内にあり、シーズンには、源氏・平家ホタルがみられます。


向原湧水標識
湧水池
ほたる標識






【案内】 白笹神社南小学校の間の路を入って行くと、広い道路に出反対側左にこんもりした緑地が見えます。入り口は道路側と上の道の角、室川沿いに緩やかな傾斜の路も有ります。



白 笹 稲 荷 神 社 湧 水


  関東三大稲荷の一つである白笹稲荷神社境内に有りますが、入り口の傍らに自然の湧き水を利用し、竹で作った手水舎があり、喉を潤すことも出来ます。白笹湧水は、小さな崖から水晶のような水玉がしたたり、谷あいには清らかな湧水が集まり、白笹稲荷神社遊水池となり、一貫田の湧水と合流して室川へ流れ出ています。芹沢湧水と合わせて日量500トンが室川へ流れ出て水道水としても利用されています。


白笹稲荷神社鳥居
湧水竹手洗水















【案内】 南公民館の先、秦野南小学校T字路を右折し、すぐ左の坂道を登ると100m先に白笹稲荷神社の大きな鳥居が見え、その脇に広い駐車場有り



一 貫 田 湧 水


  一貫田湧水は、白笹稲荷神社遊水池に隣接し、一貫田の湧水へ神社遊水池からの水と合流して室川へ流れ出ています。芹沢湧水と合わせて日量500トンが室川へ流れ出て水道水としても利用されています。


湧水池
一貫田湧水標識
稲荷神社湧水




一貫田湧水
一貫田・稲荷湧水
両湧水合流の流れ




【案内】 南公民館の先、秦野南小学校T字路を右折し、白笹稲荷神社に同じ、駐車場有り



芹 沢 湧 水


  すぐ南側には「白笹の泉」があり、また隣接して一貫田湧水・白笹稲荷神社遊水池が在る。白笹稲荷神社下の広場へ行くと、、少し奥の場所からぬかるんだ河床へ降りられる。飛び石伝いに一貫田湧水と室川との合流地点の中州まで行くと、芹沢湧水が滝になって豪快に流れ落ちているのが見られます。一貫田湧水と合わせ、日量約500トンの湧水が室川へ流入しており、現在でも秦野市の水道水源として利用されているとのことです。ただこの上は宅地造成され、何回か通いくまなく探しましたが、湧水らしき場所はついに見つかりませんでした。


芹沢湧水滝
室川の流れ















【案内】白笹稲荷神社湧水と同じ



ま い ま い の 泉 ( 南公民館内 )


  この泉は、南公民館前にあり、地下水監視用に掘削された井戸を利用した自噴水で、その見た目と上古に造られた井戸である『まいまいず井戸』にちなんで命名されました。地下水質の改善が進み、飲用に適する水質に達したため、地下水の監視用に掘られた井戸を利用して、地下20mから地下水を自噴させています。大勢の方が水汲みに来ていました。

まいまいの泉説明版
まいまいの泉
手押しポンプ放水車




【案内】小田急線秦野駅より徒歩で約20分、またはバス(秦15系統震生湖経由比奈窪行)で約10分、南公民館前下車  ・秦野市今泉598



ど う め い の 泉


  宅地開発により不明となった『どうめい湧水』にちなんで命名されました。地下水質の改善が進み、飲用に適する水質に達したため、地下水の監視用に掘られた井戸を利用して、地下30mから地下水を自噴させています。

どうめいの泉杭
どうめいの泉
北児童遊園地





【案内】小田急線秦野駅よりバス(秦15系統震生湖経由比奈窪行)で約10分、畑中下車、徒歩約10分 派出所近くの ”どうめい北児童遊園地 ”内にあります



小 藤 川 湧 水 ( ことうがわ )


  南公民館の西、現在は住宅地の中にありますが、街中に残された数少ない湧水として、地域による保全が進められています。 昭和の時代までは、田圃の中にこんこんと湧き出ていた、水量は今も変わらない。季節にはホタルが飛び交う民家に囲まれた狭いデルタ湿地帯です。

小藤川湧水看板
遊水地
遊水地杭表示



【案内】南公民館と学校の中間にある狭い道路を150m程進むと三叉路があり、右側10m先に



大 国 の 名 水


  出雲大杜相模分祠は、1888(明治21)年に関東地方の要所として大社の分霊を秦野に鎮祭したもので、当初は、渋沢峠付近にあったのを、1975(昭和50)年にこの地に遷座した神社である。この名水は、境内にある啓発看板によれば、1609(慶長 14)年以来 400 年、池や井戸から湧出した名水は、出雲の大神によって「変若水」(わかがえりの水)の信仰が高く、薬飲用、茶道用長寿の聖水として県内外より多くの人に利用されている。名前は、祭神大国主命からの命名でしょうか。出雲大社相模分祠の手水舎に湧き出ています。


大国名水説明板
大国名水手水舎
稲藁のOくぐり



【案内】宮町湧水・出雲大社相模分祠と同じ



宮  町  湧  水


  出雲大社相模分祠の境内入り口左側一帯、草木が繁茂しているが狭い範囲の湿地帯です。湧水が流れ出し、細長く浅い蛍水路には水草が生え鯉もゆったりと泳いでいました。水路の両側に狭い遊歩道があり、ホタル幼生保護の啓発看板が掲示されおり、初夏にはホタルが見られるようです。


龍蛇神の社
宮町湧水
ほたる水路湿地



【案内】 出雲大社相模分祠に同じ



弘 法 山 乳 の 水


  昔乳の出の悪かった母親が遠くからこの水を飲みに来たそうです。現在、弘法の乳の井戸水は飲めないとかで、ポンプの隣にある落下防止用格子を組み、釣瓶がある空井戸の方が実物だそうです。写真手前観光用のポンプ井戸水は上水道をタンクに貯め、昔の井戸の様にして汲み上げているそうです。


弘法山石碑
弘法山乳の水
乳の水説明板



【案内】 東京方面より国道246号線善波トンネルの先2つ目の交叉点(乗馬クラブ入口)を左折。山道を登り「めんようの里」駐車場。弘法山頂に有る。徒歩10分。
電車 : 小田急線鶴巻温泉駅下車。弘法山ハイキングコースで約1,5時間。秦野駅から浅間山、権現山経由で約1時間



寿 徳 寺 湧 水 ( 水道ポンプ場 )


  秦野駅東、小田急線沿いにある寿徳寺境内にあり、現在秦野市水道局の水源となっています。水道ポンプ場は、寿徳寺の敷地に金網の柵で囲まれ立ち入り禁止で施錠、周囲は大きな樹木が繁って、墓地からは木の間越しに取り水の配管が僅かに伺える程度です。周囲は湿地帯、その上は水田で湧水を引いて田植えがされていたので、下からは水道局の建屋しか見えません。唯一草の茂った田の畦道を行くとポンプの配管が見える所へ行けるが、ぬかるんでマムシが出そうで不気味でした。


寿徳寺湧水看板
汲み上げポンプ
記念碑



【案内】 弘法の清水を見たらそのまま上に歩くと3分で寿徳寺、境内の墓地脇に有ります



秦 野 駅 北 口 噴 水 広 場


汲み上げた地下水を飲用できる水場と噴水に。秦野市のシンボルとして小田急秦野駅前北口に。


秦野駅北口水池
湧水の噴水
北口広場全景




【案内】小田急秦野駅前北口



荒 井 湧 水 群


  小田急踏切より南公民館に至るバス道路傍に広がる畑地の中にある小祠を起点とする湧水群、現在も周辺は湿地帯の茅原となっている。盆地の扇端に位置する今泉の窪地から、染み出るように湧き出た地下水が寄り集まって、日量約1,000トンもの荒井用水として流れ出ています。
  との説明なので、車で数回行き探したが見つからず、電車で行き徒歩で探すことにした。たまたまグリーンのチョッキを着てパトロール中の地元自治会役員の方に会い、親切な人で猛暑の日中であったが現場が見える近くまで一緒に歩き案内して頂いた。車では見つからなかった理由は、開発途上で周囲は金網のフェンスとシートで囲まれ、外部からは見えず大型重機が入り工事が進行中。湧水の場所を一枚でもカメラに納めようとしたが、警備のガードマンが真面目で「関係者以外は立ち入り禁止」と、工事現場入り口から一歩も入れさせず、目前に見える湧水現場は残念ながら撮れず、望遠で水溜まりを納めて帰った。写真右のように、排水溝だけはコンクリートで既にガッチリ固められていた。


荒井湧水説明板
湧水の溜まり水
湧水排水工事




【案内】小田急踏切より南公民館に至るバス道路左側に広がる湧水群、現在は開発工事が進行中で、周囲は金網のフェンス・シートで囲まれて見えず、関係者以外は立ち入り禁止、湧水には近寄れない。



河 原 町 湧 水


  街中に残された数少ない湧水としては珍しく、水無川の反対側に存在し駅から遠いので探し当てにくい場所に残っていました。秦野盆地湧水群が、環境庁(省)の日本名水百選に指定される以前に宅地開発・造成の手が加わった為でしょうか、湧水処理の排水溝は残されていました。湧出口脇に設置された元自治会の啓発看板には、「うるおいと安らぎ、ふれあえるきれいな水辺を大切に守りましよう」と保全努力と湧水に対する強い想いが示され、地域による保全が取り組まれていた。低い場所を尋ね歩いて、偶然にこの湧水にたどりついた先には、地域の人々の想いをこの看板からくみ取ることができたが、この筆者の経験は、秦野湧水群が名水百選に選ばれた時代にあった市民の想いは、すでに時の流れの中で消え失せ、清い湧水そのものも、コンクリートに囲まれてしまっていた。時代の趨勢というものであろうか。 ( ※ 私も熱波の中汗だくで探し求めて歩いたが残念、地元で数人の方にも尋ねてみたが、直近まで行っていたのに探し当てられなかった。最後はインターネットで突きとめたが、自治会の啓発看板が無ければ、唯の街中の排水溝と見落としてしまう。)


元自治会啓発看板
橋の下からの湧水
現場全景




【案内】 秦野駅から水無川を渡り、県道72号線を左へ坂上り次の河原町交差点信号を左折、100m 程先に河原町バス停、前の小公園右道路を30m 程下り右側民家の狭間に鯉が泳ぐ堀割が湧水。
車は、246号線を伊勢原方面より新善波トンネルを越えすぐ、名古木交差点を左折し県道71号線を東名I.C方向へ、河原町交差点を右折しすぐ、県営団地群前に小公園、前の河原町バス停が目印。



名 無 し の 湧 水 群


  嘗ては今泉地区農家の庭先には、自然の湧水が多数見られたそうです。これらは地下水源の自噴水が殆どだとのことです。それだけ昔から、丹沢の伏流水が秦野盆地を潤してきたと言えます。今でも私有地に湧水があり、年二回は水質検査に訪れ飲んでも安全との事ですが、公営水道が発達した現在は、水道の安全性・利便性に頼り清水は利用してないとのことです。この秦野市がもつ名水の歴史と様々な出来事や、豊かで清らかな湧水に感心を持ち、いまの時代に消えつつある「うるおいや安らぎ感」を与えてくれるという緑と水の憩いの場を保全し、未来世代に受け渡す意義と必要性を強く感じた次第です。
 特に水無川へ浸透した地下水が、最も多く湧き出しているのが地形的に南東部である今泉地区に集中しています。山間部の湧水は、登山中に撮影しましたが、街中の湧水は車で数日間通い、街中で宅地造成により探しにくい所は、電車で行き徒歩で探索して、デジカメに納めました。しかし知らぬ土地であるため、事前に綿密に調査し地図落としして行きましたが、方向音痴の傾向があり車でグルグル廻り探しても見つからない湧水も幾つか有りました。併せて地理に不慣れな為に、白笹稲荷神社湧水・一貫田湧水・白笹の泉・芹沢湧水等、私有地も含め一ヶ所に集中した場合、市外の部外者である私には区別と関連が判然とし難く、思い込みや情報の混乱で間違えて掲載し紹介している部分が有るかも知れませんのでご了承ください。




白 笹 の 泉


  前記したように、今泉地区農家の庭先には、自然の湧水が多数見られ、これらは地下水源の自噴水が現在でも私有地にあり、その一典型が白笹の泉です。私有地の湧水を掲載するのは本意ではありませんが、名無し湧水の一例として紹介しておきます。所有者の案内看板には、「この湧水は、初午祭の前夜、子供の頃の記憶の中で、白笹稲荷神社の使者である白狐が金色に輝く稲穂を口にくわえ、夢枕に現れて『この地に筒を差し込めば、こんこんと湧く霊水が出る』とお告げがあり、筒を差し込んだところお告げのとおり湧き出したものです。」とありました。


所有者案内看板
白笹の泉
現場全景




【案内】白笹稲荷神社駐車場より、藪道を横切ると徒歩3分




金 目 川 に沿った名水・湧水




護 摩 屋 敷 の 水


  護摩屋敷とは、山伏がヌルデの木などを焚いて修行する事をさします。修行に訪れた僧達は、ここの水で身を清めたと伝えられるところからこの名前がついています。水くみ場が二基整備されていますが、人気があり大勢の人が水汲みに来ています。


湧水の発見と保存板
護摩屋敷の水
石碑



【案内】小田急線秦野駅よりバス(秦21系統ヤビツ峠行)で約45分、ヤビツ峠下車、県道70号線を宮ヶ瀬湖方面へ下り徒歩約25分、富士見小屋(現在は空き地)近く。秦野市寺山1692



春 嶽 湧 水 (はるたけ)


  蓑毛からヤビツ峠に向かう柏木林道が金目川と交差する場所にあり、丸木橋の手前の登山道の下をパイプが横断し、川に流れ出ています。水道水源として利用され、脇にコンクリート貯水タンクがあります。金目川の源流の水だそうで水質は硬度が低く、柔らかい軟水です。私は丹沢登山215回、夏はいつも此処で給水していくのが習慣で、丹沢では一番美味しい水と自認しています。車が入れないので徒歩のみ。


蓑毛ボーイスカウト像
春嶽湧水
はるたけ湧水新看板



【案内】小田急線秦野駅よりバス(秦20系統蓑毛行)で約25分、蓑毛下車。徒歩約30分
 246号厚木方面から名古木交差点右折約5Kmで蓑毛パス停横のボーイスカウト記念像の川沿いに右折、鱒釣り場の先を暫らく行くと蕎麦屋が有り車は行き止まり。駐車場なし。蓑毛バス亭から徒歩30分



無 番 荘 の 水 ( 仮称 )


  金目川の源流の水だそうです。無番荘の敷地内に有り、登山客にも飲めるよう登山道寄りに設置してあります。蓑毛バス停から徒歩10分、春嶽湧水の手前途中であり、私は毎回ここでうがいをし、軽く口に含んで身を清め、春嶽湧水で給水してから柏木林道を通り、ヤビツ峠へ抜けるのが習慣です。


無番荘の看板
無番荘の湧水(仮称)
無番荘飾り



【電車】小田急秦野駅から蓑毛行きバス終点。ボーイスカウト記念像の川沿いの道を登り、徒歩10分位。鱒釣り場、蕎麦屋を通り、暫く行くと私有地右側端に有り利用出来ます。



清 水 湧 水 跡


  大山道(坂本路)のすぐ脇に湧いていた泉で、この付近の地名の「清水」はこの湧水に由来している。現在は、県道70号線の道路下に埋もれて湧水は見えない。道路脇に嘗ての名残の石碑が建てられ、大山へ向かう坂本路の人々の喉を潤した往時の状況を伝えている。この清水は秦野市立東中学校の校歌の中で、

    「清水が丘は夢のわくところ
     いつも沸きたつ希望の泉 」

とあるとおり、豊富な水量を誇った湧水池が存在したと言われている。丹沢へは殆ど蓑毛から登るので、毎回バスの窓から気にしていた場所であった。


説明看板
湧水跡石碑
湧水跡全景



【案内】 秦野駅よりバス(秦20:蓑毛行)10分、「東中学校前」下車、降りた所  ・寺山495
 東京方面より車246号名古木信号右折、県道70号線で約10分 バス折り返し場、停車程度



神 の 沢 湧 水


 表丹沢の南斜面の下、西田原の谷戸奥に小さな集落が、田圃に囲まれて佇んでいる。そこでは今でも崖下から湧水がこんこんと湧き出し、この集落の貴重な水源として地域の人々に活用され、また南側の多くの田の水源としても利用されている。私としては秦野で最後に見つかった湧水だが、この表通りは何回か探しながら通っていた。葛葉の泉にはカメラが故障してただ帰るのは芸無しと場所の確認、実際にカメラを持って撮りに行ったり、竜神の泉の帰り等、数回探したが見つからない難所であったり、そもそも場所そのものを間違えて思い込んでいたりと混乱していた面が有った。今日はその倍返しで恵まれていた。お寺さんへ寄るとたまたま私の実家と同宗派、親しみをもって尋ねると、なんと住職が軽自動車で先導し親切に案内してくれ現場まで一発で到着した。此処では、立派な水利用施設が存在しており、野菜などの洗い場としても活用されている様子が、今でも残されているという事前に調べた予備知識、写真を撮っていると軽トラに野菜を積んだ中年の女性が着くと早速洗い始め、絵に描いたような幸運に恵まれた。「便利ですね、ここでザッと土を落として・・・」と声を掛けると、「いえ、家では洗いません。ここで洗っていけば、そのまま食卓に出して食べられます」、という言葉が返ってきた。


水神石碑
神の沢湧水
水利用のご夫人



【案内】 秦野駅よりバス藤棚行(秦23)又は秦野駅循環(秦26)(秦27)で
 国道246号名古木交差点を右折。藤棚三叉路を左折、田原ふるさと公園を通過、3つ目の信号を右折、山側に向かい民家が途切れる所からコンコンと湧き出していた。



田 原 ふ る さ と 公 園 湧 水


  田原ふるさと公園は秦野市の東地区にあり、鎌倉幕府三代将軍、源実朝公の首が葬られたと伝えられている「源実朝公御首塚」 をはじめ、周辺の金剛寺、大日堂、波多野城址、ヤビツ峠、自然観察の森など、中世の歴史を伝える史跡とめぐまれた自然の中にある公園です。
 木造二階建ての「ふるさと伝承館」には、農産物直売所、そば処「東雲」、そば道場、漬物加工施設が入っています。また、公園内にはそば粉を製粉するための水車小屋があり、のどかな農村風景がかもし出されています。東地区は丹沢の山麓地帯に位置し、少量多品種の農業生産が行われています。源実朝公首塚という史跡と、のどかな農村地帯の中に「田原ふるさと公園」はあります。この公園を通じて地域農業の活性化および農業者と都市住民との交流を図り、地域農業への理解を図ることを目的に開設されました。観光と地域振興を併せた憩いの場として、行政と地域一体で力の入れようが判ります。湧水調査の際何回か立ち寄っていますが、いつも家族連れで賑わっていました。


田原ふるさと看板
田原湧水
水車小屋




案内】小田急線秦野駅下車、藤棚行きバス(秦23)または秦野駅循環(秦26)(秦27)で中庭下車後、徒歩3分
国道246号名古木交差点を右折。秦野清川線70号をまっすぐ行き、藤棚の信号で左に曲がる。東小学校、東公民館を過ぎ、約500メートル後、路地へ左折(看板あり)所在地:秦野市東田原999番地



山 里 会 湧 水


  丹沢の南斜面、波多野氏の館が有ったといわれる場所に近い湧水を活用し、地域の住民が中心となって、協働して管理がされている「生き物の里」の湧水があります。此処は、メダカやドジョウをはじめ、多くの水棲昆虫などが生息し暮らしている場所で、一年中豊かに流れる湧水に守られています。
湧水場所を探すため、水は低きに流れるので上流へ向かって歩くと、底なし沼の注意看板が見つかり、湿地に丸太を敷いた僅かな踏み跡を辿るとせせらぎが現れ、それに沿って少し遡上すると湧水を発見。田原ふるさと公園は、秦野盆地の又その中の小盆地なので、散策してみると他の上部からも水が流れているので、何ヶ所か湧水が有るのではと考えられますが、一ヶ所しか探しませんでした。


山里会看板
山里湧水
田原全景



案内】西田原字堀之内   田原ふるさと公園を中心とした周辺地域



西 の 窪 (久 保) 湧 水


  大山へ向かう道(坂本路)の脇にあった清水湧水など、付近にはこのような湧水の他、山沿いの付近に沢山の湧水がみられている。この場所の北側、現在は駐車場になっている所に「首切り畑」と呼ばれる場所があり、その東隅に一基の供養塔があり卒塔婆が掲げられている。これは、ここで処刑された大山寺の行者の供養とも言われるが、この塔には「井戸神様供養」の文字も刻まれていることから水神様ともみられる。この湧水は、南側の谷を見下ろす供養塔と共に、下の町まで続いている水田を潤している水源であった事から、湧水口付近にある「水波之売神」の碑と共に、水田を見下ろす高台にこの碑を建て、湧水に感謝してきた人々の想いは興味深い。「風土記稿」によれば、ここは天水場(溜め池)1919(大正8)年、旱害対策の横井戸が村の有志によって掘られた記念碑があります。


水波売神石碑
西の窪湧水
石碑と全景




【案内】 県道70号線 藤棚三叉路脇に供養塔あり、コンビニ脇狭い道を下ると「水波之売神」の石碑と豊富な湧水が出ている。元の道を戻らず、そのまま道路に向かって登って行くと、道路反対側に古い石碑と祠が祭ってあり、嘗ての歴史が刻まれている。



落 合 簡 易 水 道 の 水 源


秦野市の東地区にある落合集落、氏神様である八幡神社の鳥居脇にある横井戸から湧き出した湧水を集め、この地域の家庭の雑用水として、今でも利用されている簡易水道の水源です。


八幡神社
八幡神社
湧水水源
旧横井戸跡



【案内】 246号合同庁舎を右折、八幡神社鳥居脇、湧水脇の林道へ停車1台ギリギリ



清 滝 橋 の 湧 水


  県道70号線を護摩屋敷の水を通過、宮ヶ瀬方面へ進むと幾つかの支沢の橋を渡る。10分程下ると清滝橋の標識が現れ、右側に大量の湧水が出ている。ガードレール内はコンクリートで固められ、足場はしっかりして水は安全に確保出来るよう配慮されているが、水量が多く濡れる心配あり。ヤビツ峠は越えるが、秦野の湧水である。


清滝橋標識
清滝湧水
清滝橋水場



【案内】50m先にガードレールが凹んで取り付けられており、1台の停車スペース




葛 葉 川 に 沿 っ た 名 水・湧 水




く ず 葉 の 泉


  昭和60年に秦野盆地湧水群が名水百選に選定されたことをきっかけに、地域の人によって整備され水量豊富な湧水です。取り水口は二ヶ所あり、水場の前に駐車スペース有り。ポリタンを持って水汲みに来る人に出会う。周辺は、くれはの広場として整備されている。粋な設計の木橋を渡ると菩提山登山口となる。


くず葉の泉看板
くず葉の泉
葛葉川橋



【案内】小田急線秦野駅よりバス(秦51系統菩提経由秦野駅行)で約15分、菩提原下車、徒歩30分
東名高速秦野中#I.Cより車で約40分、曽屋交差点から県道705号線を菩提方面へ、葛葉川沿いに山道に入り約2Km、途中「くず葉青少年野外センター」がある。・秦野市菩提2317−15



井 之 明 神 水 ( 曽屋神社湧水 )


  曽屋神社の境内に有る湧水。江戸時代、井大明神(曽屋神社)の湧水を市内の「大道」(だいどう)に流して生活用水にし、この地域が栄えたと言われている。明治時代になって、この地域にコレラが流行したことから、対策としてこの湧水を水源として、我が国3番目の陶管による近代的な上水道が造られ、継承発展して現在の曽屋水道が完備されている。現在も神社境内に井之明神水が湧き出しています。


曽屋神社鳥居
井之明神水
井之明神水表示板



【案内】秦野駅よりバス(秦51系統菩提経由渋沢行き)で約6分、宮前下車、徒歩1分
秦野駅より駅前道路途中信号菩提方面へ左折、246号線と交差する右角、曽屋神社境内。Pあり



く ず は の 広 場(葛葉川ふるさと渓谷)


『葛葉川ふるさと渓谷』の中央部に位置し、ナショナルトラスト1号で、敷地内には、くずはの家、ほたるの道等が設けられ、自然と触れあえる憩いの場になっています。6月初旬にはゲンジボタルが見られます。ほたるの里へ下りて行くと湿地帯で、所どころに湧水の水溜まりが見られ、水道水用地下水汲み上げの施設も有りました。


くずはの広場
ほたるの里
くずはの吊り橋




【案内】秦野駅よりバス(秦51系統菩提経由渋沢行き)で約7分、宮上下車、徒歩3分
 くずばの家(0463-84-7874)



メ ダ カ の 学 校 曽 屋 分 校


  秦野市近代水道発祥地である水道記念公園(旧曽屋配水場)明治23年に給水を開始した曽屋区水道の水源の一つを利用して、平成11年12月にせせらぎと池を造りました。当初放流したメダカが繁殖したため、謡の『メダカの学校』にちなんで命名されました。トンボやカワ二ナ、水草も自然繁殖し、人工のビオトープとなっています。私が行った時は、男児3人が湧水池でメダカを網ですくって遊んでいました。

メダカの学校看板
メダカの学校湧水
初期ポンプ



【案内】秦野駅よりバス(秦51系統菩提経由渋沢行)で約6分、宮前下車、目前徒歩1分、 水道公園内




戸  川 に 沿 っ た 名 水・湧 水




竜 神 の 泉


  標高520mの山腹に竜の形をした岩があり、清水が湧出していることから、水を司る【竜神】が宿ると伝えられている所で、昔から干ばつの年には村人が雨乞いを行い、雨の降るのを願ったのは、そこに竜神がいると信じていたからといわれている。昔から行者・猟師・炭焼きの人などが喉を潤し、ひと息ついた泉として知られています。滝も流れ落ちており絵になる風景です。


竜神の泉看板
竜神の泉
竜神の滝



【案内】小田急線渋沢駅よりバス(渋02系統大倉行)で15分、大倉下車し、県立秦野戸川公園「風の吊り橋」下の林道を遡上徒歩30分



行 者 の 水 ( 戸沢 )


 丹沢は昔から山伏の修験道、その中でも岩場で最大の難所である行者岳(1180m)、現在も鎖場で危険な岩場です。その行者岳からの伏流水が湧き出ているのが行者の水です。戸沢は沢が幾つか合流する山中の平坦な地形で、山小屋も幾つか存在し、キャンプ場あり登山基地です。水無川の上流で川に沿って歩きます。


水無の塔
行者の水
粋な造作水場



【案内】 東名高速秦野中井 I.C から40分くらい。246号から大倉方面を越し戸沢方面へ入り、竜神の泉を越し林道終点、作治小屋そば。舗装されていない林道で車の腹を擦る悪路を走らされる。
小田急「渋沢駅」から大倉行き終点「大倉」下車、徒歩30分で竜神の泉、更に奥へ60分歩く。
・秦野市戸川字行者1470−2



不 動 の 清 水


大倉尾根を登り塔ノ岳(1491m)へ。頂上より標識に従いユーシン方面へ下る。登山では高所で得られる貴重な湧水。分水嶺で塔ノ岳反対側斜面に湧き出ている僅かな清水で、戸川でなく玄倉川へ注いでいます。

湧水標識
不動の清水
山岳会碑



【案内】大倉バス停より大倉尾根を登り塔ノ岳へ、更にユーシン方向へ0.3km、往復30分、登山者以外はNG。




秦 野 西 部 ( 四十八瀬川に沿って )




浄 徳 院 の 浄 福 水


 浄徳院本堂は道路右側の坂の上に在り、浄徳院本堂の裏庭には茶室が建てられ「水琴窟」と名付けられた石庭が有る。浄福水は浄徳院の境内には無く、道路反対側の駐車場先の木立の間を下ると菖蒲園で、その中に浄福水は有る。看板下の水は僅かだが、右側の流れの方が水量は豊富で、パイプから流出する所を探せば写真として絵になる。昔の古井戸や竃の残骸などが園内に乱雑に残されていた。


菖蒲園東屋
浄福湧水
古井戸



【案内】東京方面より国道246号線菖蒲交叉点を右折.菖蒲会館前バス停を過ぎてすぐ、右に浄徳院本堂。十数メートル行くと左側に広い駐車場先に菖蒲園は有り
【電車】小田急「渋沢駅」北口から大井松田行「菖蒲」バス停下車徒歩10分。渋沢駅から徒歩30分。  秦野市菖蒲58



柳 川 地 区 湧 水 地


  秦野市の西のはずれに位置し、小盆地を形成する柳川の谷戸田地域は、山間の小盆地地形の中で、自然に恵まれた里地の原風景と環境を色濃く残しており、豊かな生態系がみられるなど野外生物の観察に適した場所である。その中央部では、豊富な湧水を水源とし利用した水田があります。周辺には多くの貴重な生き物か棲息しており、2002(平成14)年春に秦野市が「生き物の里」第1号として指定をした場所で、夏には沢山の蛍が舞うなど、市内に残された貴重な里山風景が残され保全活動も行われている。


生き物の里看板
柳川湧水
里山風景




【案内】 浄徳院・浄福水を越えて少し行くと信号有り、左折し窪地の中心部が柳川の谷戸田地区で看板あり。渋沢駅北口から平日のみバス4便の運行あり。  秦野市柳川



三 廻 部 の 名 水 ( 四十八瀬川湧水 )


  四十八瀬川の上流に有る湧水、四十八瀬川は、塔ノ岳・鍋割山の渓谷を水源とし、秦野盆地の西部を北から南へ流れる延長10.8km、流域面積16.5qの河川で、松田町寄で中津川と合流し、川音川と名前を変え、最後は酒匂川と合流します。名前の由来は、四十八もの瀬があるからとも、四十八回も流れを変えたからともいわれ、何度も洪水をおこし、その度に流れを変えた暴れ川だったようです。四十八瀬川には、ウグイ、カジカ、カジカガエル、ホトケドジョウ、アユが生息しています。


三廻部の名水
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名水守り神












【案内】三廻部の湧水は、浄徳院へ行く246号線菖蒲信号を右折、そのまま更に四十八瀬川沿道路を遡上し、みくるべ病院先松田へ抜ける三廻部林道中間点にあり、豊富な水量で湧出していました。




秦 野 南 西 部( 渋沢丘陵に沿って )




若 竹 の 泉


  渋沢丘陵からの湧水で、渋沢丘陵にに沿って流れる室川の源流に位置します。平成2年地元の有志達が、昔から使っていた横井戸を多くの人達に利用して頂こうと整備し公開したものです。周囲は自然が保全され、ゲンジ・ヘイケ・ヒメ・クロフドボタルが生息し、秦野市より平成元年「ふるさといきものの里」に認定されています。

目印寺標識
若竹の泉
説明板



【案内】 小田急線渋沢駅よりバス「若竹の泉」行き終点。 「寿湘ヶ丘老人ホーム」目標に、徒歩約40分



谷 津 湧 水


  この場所は、「谷津湧水一渋沢丘陵」の小さな谷あいの湧水で、昭和50年代中頃まで水道水源として利用されてい ました。この湧水を利用して水田が作られ、谷戸田を形成しています。周辺地域の地主が休耕田と山林を「ふれあいの里」として地域に提供したことから、1991〜92(平成2〜3)年度にわたって渋沢小学校が、ここで生活科や理科の研究の場として活用したことを契機として、その後は地域の環境学習の場として解放され、今でも活用されています。「生き物の里」の看板、奥を見ると<草の広場が見えたので、ぐるっとひとまわりすると、自然に草が繁った湿地帯。中央に池を横断する木の渡し橋があり湿地をよこぎれます。現在、約1.5haの場所に、湧水に恵まれた谷地が、地域の水棲生物に適した遊休地となっており、現在も水道資源になっています。凄い水量の自噴水です。 市指定第2号生き物の里。


ふれあいの里看板
谷津湧水
丸太組み木道



【案内】車で若竹の泉から反対方向の坂道を上り、又坂を下った所に5分ほどで右手に小さな神社があり、その先並びのコンクリート垣上に、”生き物里・ふれあいに里”の看板あり、徒歩15分ほど、私は3〜4回車で探して直下を行き来したが、湿地帯という先入観念が邪魔をし看板を見落とし通過していた。



赤 松 沢 湧 水 ( トラ沢湧水 )


  渋沢丘陵の小さな谷あいの湧水で、昭和50年代中頃まで水道水源として利用され、現在も水道資源となっています。という、秦野市観光課の「秦野名水まっぷ」の説明なので、近くまで何回も行ったり前を通っているのに所在が不明で,中々探し当てられせなかった。狭い階段を下りていくと、湿地帯になり湧水を集めて流すマンホールがあり、道路下を潜る暗渠があり反対側へ流す設計であった。赤松が生えている訳では無く、鉄分(Fe)を多く含んだ湿地帯らしく、暗渠に分離沈殿した鉄分が赤く付着していた。標識も目印も無く、事前に所在を確認したておいたのでどうにか探し当てることが出来た。


赤松沢湧水
湧水側マンホール
出口マンホール




【案内】渋沢中学、渋澤神社の前の道路を挟んだ湿地帯であり、狭い階段は有るが枯れ枝が落ちて塞がれ、蜘蛛の巣が張られ、見学者もなく知られて無い湧水場所であるらしい。



峠 湧 水 (峠の水生生物観察園))


渋沢丘陵の小さな谷間の集落に在る狭い遊水地、赤松沢湧水を探し廻って迷い、偶然見つけた湧水地です。秦野市の名水まっぷにも、他の地元団体・組織のHPにも、何処にも紹介されていませんでした。水量豊かな水源ですが、見学するだけで、飲むことはできません。2006(平成17)年7月「生き物の里」第3号指定。


水神石碑
水生生物園看板
生き物の里看板



【案内】谷津湧水を下り708道路交差点信号を右折、渋沢中学入り口を通過し少し行くと峠隧道を通過後すぐの信号を左へ下りる、直ぐ先に峠バス停、その左側の草の繁った谷が峠湧水。



震 生 湖


  1923(大正12)年9月1日の関東大震災のの際に、地震動によって渋沢丘陵が200mにわたって崩落して市木沢をせき止めたためにできた自然湖です。その川筋と窪地が湖となったもので、流入河川・流出河川ともに存在せず、地下水脈で周囲の水系とつながっている。秦野市と中井町にまたがる湖で、周囲(北側)には、震生湖公園が作られていて、湖の近辺には子供が遊べる広場などがあり、休日になるとハイキングや釣りをする人で賑わう。
 震生湖とは、地震調査に訪れた寺田寅彦理学博士が名付けたと言われ、湖畔にはその際に詠んだとされる句碑も建っている。「山さけて 成しける池や 水すまし」


震生湖表示板
震生湖風景
震生湖説明板




【案内】 白笹稲荷神社前の道路を登っていくと広い道路に出、震生湖入り口渋沢丘陵の中
秦野駅から路線バス(神奈川中央交通・秦15系統)「震生湖」下車




秦 野 盆 地 番 外 編




厳鳥湿性公園厳島神社・弁天様の湧水


  巌鳥神社は地元では「弁天様」と親しまれ、周辺では湧水を利用した湿地水田として耕作が行われていました。ただ近年離農や減反による耕作放棄で荒地化が日立つようになり、昭和40年神奈川県の自然環境保全地域に指定された。豊な湧水をたたえるかつての姿を復元・保全することを目的に平成13年度から2ヶ年計画で公園整備事業が進められ、平成1S年4月10日に開所式が執り行われました。園内は、巌島神社を中心に参道や湧水口睡備(湧出量・一日およそ2600トン)湿性地を巡る木道400m・休憩広場・芝生広場・東屋・トイレなどが整備されました。またこの公園では、様々な水生動植物を鑑賞できます。5月下旬から7月初旬にはほたる観賞も出来ます。また、毎年5月下旬には「竹灯篭の夕べ・3000本の竹灯の幽玄な光とゲンジボタルの神秘な光が厳鳥塵生公圃を美しく灯します。昼間には両日とも、竹灯竃づくり体験も・・・』が開催されます。

   <厳島神社>
 この神社は、文化4年(1807)年に建てられ天保l1(1840)年、安敢4年{1857年}及び昭和52(1987)年に改築された。江戸時代は「弁天様」と呼ばれたが、明治21869)年、厳鳥神社と改名された。祭神は市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)、倉稲魂命{うかのみたまのみこと}で、祭日は4月16日であったが、現在は蓑笠神社の祭日と同じ日に行っている。また、周囲は清水が豊富に湧き出ていて、蛍やシマドジョウなどの清く澄んだだ水にしかいない小動勧が、今でも生息する湿原である。(平成2年3月中井町教育委員会)


厳島神社鳥居
湿原板張遊歩道
湿原蓮池




【行き方】 小田急線秦野駅から二宮駅行きバス、東海道線二宮駅から秦野行きバス20分。 いずれも北窪入口下事徒歩3分。
車、東名秦野中井I.Cより二宮方向、ガソリンスタンド左折、直ぐ右折指示板5分
246号名古木交差点を左折、道順は同上15分  ・中井町井ノ口 1310



大 洞 橋 湧 水 ( 仮 称 )


  県道70号線を宮ヶ瀬方面へ下ると、清滝橋湧水がドッと流れ落ちている。ここまでは秦野市の湧水である。暫く下ると小さな境橋が在り、ここを区切りとして清川村となる。70号線を下って行くと少し林道が開けた場所に大洞橋が有り、ここに大量の湧水が湧き出し沈殿槽まで造られている。沢ではないかと良く調べたが、れっきとした湧水であった。


大洞橋標識
大洞橋湧水
県民手つくりの森




【案内】 県道70号線を宮ヶ瀬方面へ下り、清滝橋湧水から車で20〜30分



青 宇 治 橋 湧 水 ( 仮 称 )


 県道70号線を宮ヶ瀬方面へ更に下ると、青宇治滝橋という新しく掛け替えられた、他よりも広い橋に出合う。この橋は青藤沢に架けられた橋であり、その脇には高畑山の登山口が在り、丹沢山へと通じている。湧水は橋の手前50m程の左側に湧出している。登山前の給水には余りある量である。


青宇治橋標識
青宇治湧水
青宇治橋全景



【案内】 県道70号線を宮ヶ瀬方面へ下り、246号名古木交差点から23.8km地点。橋の近辺がスペースに余裕を採って造られてあり、喉を潤すのに停車1台は可




丹沢の名水(秦野盆地湧水群)めぐり掲載の基本理念


  水は水循環の過程で全ての命を支えています。 水循環の過程で地下を流動している地下水はその流域に生息する全ての生命のものです。 地下水は地下水流域の単位でその地域の生物を代表して“ヒト”が管理する責任があります。“ヒト”の社会では民主主義が最良のシステムとされているので、地下水の管理は地下水流域の規模に応じて”ヒト”が行っています。地下水はこのように共有物ですが、決して国や自治体の所有物ではありません。地下水はその流域に住む全ての生物のもので、その一員である“ヒト”も一つの命にたち返ってこれを有効に利用しています。利用にあたってはすべての命への配慮が必要です。秦野市民はこの湧水を地下水環境保全の道しるべとして心から大切にしています。秦野盆地では、水循環という仕組みの中で、湧水などの地下水環境を市民の協力を得て保全しながら、秦野地下水盆(地下水流域)の管理をし利用しています、おそらく秦野市は、日本で最も進んだ地下水行政が先進的に展開されている自治体といえるであろう。(日本地下水学会)。

  こうした観点から秦野市役所観光課へ行き、「秦野名水マップ」を頂きそれを基本としている。その他、地元保存会の、団体・組織等のHPを拝見し参考にしました。何よりも重視したのは自分の脚で現地を廻り、数日間迷いながら車で目的地を探し当て、自分の目で見て確めた内容を掲載しました。写真については約500枚以上撮影し、その中より適切なのを選択しして掲載してあります。写真の無いのは現地迄行ったが場所が確認できず通過してしまったり、未だ行って確認してないので、後日時間をつくり現地を探して補充する予定でいます。



秦野盆地湧水シンポジューム決議文


  秦野盆地湧水群(はだのぽんちゆうすいぐん)は、神奈川県西部、秦野盆地に見られる湧水群のことであります。1985年1月に環境庁(現環境省)により「全国名水百選」の1つに選ばれました。この秦野盆地は北側と西側は丹沢山地、南側は渋沢丘陵、東側は弘法山に囲まれた盆地です。 丹沢山地から流れ出る、水無川と金目川の扇状地になっています。秦野盆地の地下水は、箱根の芦ノ湖を上回るほどの水量を有し、扇端部に湧水が多く湧き出しています。尚、1989年1月に湧水の代表的な地点である「弘法の清水」が、塩素系有機化合物テトラクロロエチレンに汚染されていることが週刊誌の報道で判明したため、秦野市は同年10月に専門家で構成する地下水汚染対策審議会を設置しました。そして、翌年に地下水汚染対策の専従班を組織して、1991年から市内の事業所を対象に敷地内調査を開始しました。1994年1月、全国初の「地下水汚染防止及び浄化に関する条例」を制定しました。

 また、汚染物質の除去を地下水の自然循環にまかせたのでは、浄化までに莫大な時間がかかるため、地下水を人工的に吸い上げ、汚染物質を除去して再び地下に戻す「人工透析的装置」を開発して、2002年には水道水質基準を達成し、2004年1月1日に「秦野盆地湧水群」の名水復活宣言を行いました。秦野盆地湧水群は、金目川や葛葉川、四十八瀬川、水無川一帯に点在する21ヶ所の湧水場所があるというが、全体的に湧水の量は市街化の影響で減る傾向にありますが、下記の水汲み場は水量も多く申し分ないところですが、一部の水汲み場は眺めるだけの場所と湧水ではない場所もあります。尚、各水汲み場とも半プロらしき方が大量のポリタンクを持参して水汲みをしている時は何十分も待たされることになります、半プロ(プロかも?)は、土日を避け、平日に汲みにきてほしいものです。
なお、各水汲み場は名水百選に指定されるだけあって”おいしい水"です。

   (2005(H17)年4月 秦野市制50年記念事業)



秦野盆地湧水群の仕組み ( 秦野盆地の地下水 )


秦野盆地地下断層図
 秦野盆地は現在日本で最も管理がすすんだ地下水流域(地下盆)の一つである。秦野市は関東山地から続く丹沢山地の南麓に位置し、緑と清らかな水の自然環境に恵まれている。特に沢の多い丹沢山塊から流れ出る四十八瀬川。水無川・葛葉川の上流域で浸透した地下水や 盆地内に降った雨は上流部では地下へ浸透します。典型的な例は、戸川公園に架かる風の吊り橋を渡っていると目にする光景ですが、橋の下を境にして沢から流れて来た水が砂礫層に浸み込み無くなってしまいます。水無川と言われる所以ですがこのように川の水や雨水は地下に浸透し、盆地を作る扇状地の礫層を通って下流に運ばれ、扇状地末端にあたる今泉地区で多くの湧水が見られます。

  秦野盆地は南北5km、東西8kmの広がりを持っていて、丹沢層群と呼ばれる第三紀中新世(約1000万年前)の岩盤が盆地の基盤となって盆状構造を造っている。 その盆状構造を丹沢山地から搬出された砂礫や箱根火山から飛来した火山灰が埋積し、その上を富士山の粗い火山灰が覆っている。 丹沢層群は透水係数が低く殆ど水を透さず、いわゆる水瓶を形成し、盆地中央部におけるその深さは約150mと推定されていている。 この盆地を埋積している砂礫層の透水率は良く地下水が貯留されている。水瓶の水は主に丹沢山地から盆地内へ流入する河川水と盆地内に降る降水により涵養され、水瓶に溜まった地下水は盆地の地下をゆっくり流れて、盆地南部で湧水する構造になります。
 更に付け加えるならば、何故南部に湧水が多いかについても解明しておく必要がありあます。「震生湖」のある渋沢丘陵の下には渋沢断層が走っています。そして秦野盆地には秦野断層が確認されています。この秦野断層が「秦野盆地湧水群」が生まれた原因です。地表面にまで達した断層から丹沢の伏流水が湧き出しているのが「秦野盆地湧水群」の仕組みです。

 秦野駅から5分のところにある「弘法の清水」を初めとして、秦野盆地の湧水としてこの南東にある寿徳寺湧水は昭和34年に簡易水道として作られ、尾尻水源として今も利用されています。太岳院湧水(今泉湧水池)の池底からは縄文?平安時代の遺物が多量に発見されており、古代から水利用がなされていたようです。現在も池西側に湧水が見られます。このように、秦野盆地には数多くの湧水が知られており、秦野盆地湧水群として、全国名水百選の1つとして1985(昭和60)年1月に環境庁(現環境省)により選定されています。盆地内この扇状地に入り込む小さな谷戸沿いにも、荒井湧水・小藤川湧水などが湧きだしているほか、地下の地下水層まで穴を開け、地面の圧力で自噴した泉(自噴泉)が、数多く見られます。

自然界の水循環
秦野市は人口17万人に達し、今後さらに発展が見込まれている地域です。 発展を支える重要な要素の一つとなる水資源として秦野市はその70%を足もとの盆地の地下水に依存していて、地下水の利用と保全には地下水の人工涵養の取り組みによる地下水管理という、他地域に見られない努力が払われています。
  同時に地下水や水は決して国や一自治体の所有物では無く共有物です。秦野盆地湧水群から湧出した水は、水道水源として利用される他は、河川となり盆地の外に流れ、他地域を潤して大河となって海へと注ぎ、そして自然界の水循環に戻り雨をもたらしてくれます。



水の性質『硬度』とは?


  水に微量に含まれるマグネシウムとカルシウムの量を示します。硬度が高いと、味としては「しつこい」、硬度が低いと、「淡泊でコクがない」などと表現されます。又、硬水では石鹸の泡立ちが悪く、汚れが落ちにくい。
   
    ・ 軟水:0〜60r/g 未満
             ・ 中程度の軟水:60〜120mg/g 未満
       ・ 硬水:120〜180r/g 未満
        ・ 非常な硬水:180r/g 以上

     ※個別解説中の硬度は、有効数字2桁で表記しています。



スティフダイヤグラムとは?


   硬度94r/g ( Na゛+K゛ Ca  Mg  Cr  HCO3  SO4 )

ダイヤグラム
  地下水の性質の違いを調べるうえでの基準となる地下水に含まれる「主要溶存成分」を視覚的に表現したものです。六角形の面積が大きいほどミネラル等の成分が多く含まれています。このミネラル等が適度に含まれると水はコクのあるまろやかな味になりますが、あまり多くなると苦味や渋昧の原因になるとされています。各イオンの濃度は中央の線からの距離で示され、線から遠いほど濃度が高いことを示します。

(※以上は秦野市資料より引用)

  因みに、私も鉄鋼で分析を生業としていました。製鉄所にはガスや石炭を火力とし、自力で工場を動かせる発電所が備わっています。ボイラー水に含まれるイオンを分析しますが、1/10億という微量単位の精密な検査をしますが、不純物(ミネラルイオン)は”0”に近い純水(H2O)です。蒸留水を飲んでも味も素っ気も有りません。登山で何が一番美味しいかと聞かれれば、山の水で、しかも冷たいことが絶対的な必要条件です。



湧 水 と 酒


徳利・猪口
  現在では、地方の地酒ブームで、美味しいお酒が出回り、限定品で中々手に入りにくい人気商品も出回っている。昔から、酒の味は、水の良さと米の質で決まると言われている。しかし、水と言っても単に川に流れている水のことではない。造り酒屋の水は、地下から湧き出る湧水を酒造メーカーの酒蔵は独自に持っているのである。嘗て群馬へ旅行に行ったおりに酒蔵を見学した時、案内人の説明で初めてその事を知った。武尊山に降った雨が地下に浸透し、何十年も掛けて伏流水として湧き出た清水を使っており、この湧水は良質でしかも尽きることなく安定して出ていなければならない。湧水が枯れてしまえば酒造会社も潰れてしまい、水は酒蔵にとって命の綱であると言われている。それだけ酒蔵にとって湧水は宝であり命、水神様として手厚く崇め祀っている。湧水は地下水であるため、弘法の清水での指摘の如く、水温は一年中15〜16℃で安定している。そこで、日本百名水の一つである秦野盆地に酒蔵は如何かと調べてみると、やはり酒造会社が一つ有りました。



湧 水 と ワ サ ビ 栽 培


ワサビ
  湧水でもう一つ必要なのは、わさびの栽培である。私は以前、わさびは冷たい沢水を引いて栽培しているか、沢に自生しているものと思っていた。百名山踏破を目指し、冬行ける山として伊豆の天城山へ登ったことがある。途中一本のレールで物資運搬用のトロッコがあるので何に使うのかと不思議に思いながら歩いていた。沢もないし水気の無い山という印象を持っていたのだが、ところが少し平坦な場所へ来ると、いきなり水の音が聞こえて来た。そこは湧水が涌き出し平坦なワサビ田であった。いきなりの変化に戸惑ったか、一人の男性がワサビの手入れをしているのを見ながら先を急いだ。長野には大きなワサビ田が在り、観光資源としても活用されている。梓川が在るのでアルプスからの雪解け水で水量は豊富、それを引き込んでいると思っていたのであるが・・・。しかし、雪解けの沢の水では冷たくてワサビは生育せず、湧水で栽培しているとのこと。地下からの湧水は15〜16 ℃ で温かく温度は一定しているのでワサビの栽培には適しているという。あの広大なワサビ田の湧水は大量のものであろうと想像する。





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四国おへんろ

四 国 お 遍 路
(pilgrimage)

一人でも 同行二人 大師さま いつも寄り添い 守ってくれる

お遍路さん

白衣のお遍路さん

「南無大師遍照金剛」 弘法大師(空海)


谷川へのメッセージはここからどうぞ
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四国八十八ヶ所 お遍路紀行






四国車遍路(1)  2008・05・02〜07


5月2日(金)
      集合・出発 町田駅前 08:00
           宿泊   東横イン神戸三ノ宮

5月3日(土)祭日
四国88寺

 1番 霊山寺
 2番 極楽寺
 3番 金泉寺
 4番 大日寺
 5番 地蔵寺
 6番 安楽寺
 7番 十楽寺
 8番 熊谷寺
 9番 法輪寺
10番 切幡寺
            宿泊 しげる旅館

5月4日 (日)祭日
霊山寺

11番 藤井寺
12番 焼山寺
13番 大日寺
14番 常楽寺
15番 阿波国分寺
16番 観音寺
17番 井戸寺
18番 恩山寺
             宿泊 民宿 鮒の里

5月5日 (月)祭日

19番 立江寺
大師座像
20番 鶴林寺
21番 太龍寺
22番 平等寺
23番 薬王寺
24番 最御崎寺
25番 津照寺
              宿泊  ロッジ室戸岬

5月6日 (火)祭日

26番 金剛頂寺
27番 神峰寺
阿闍梨
28番 大日寺
29番 土佐国分寺
30番 善楽寺
31番 竹林寺
32番 禅師峰寺
               宿泊  民宿 坂本

5月7日 (水)
     帰宅日
                


四国車遍路(2)  2009・05・02〜09


5月2日(土)
    集合・出発  町田駅前   8:00
            宿泊  民宿淡路荘(和式、洋式トイレ)
大師堂

5月3日(日)

32番 禅師峰寺     ・西さん旧友待ち合わせの為前回とダブル

    桂浜散策 60分
33番 雪けい寺
34番 種間寺
            宿泊  ビジネスイン土佐

5月4日(月)

35番 清瀧寺
36番 青龍寺
38・金剛福寺
37番 岩本寺
38番 金剛福寺
            宿泊  民宿西田

5月5日(火)

39番 延光寺
40番 観自在寺
41番 龍光寺
42番 仏木寺
43番 明石寺
           宿泊  宇和パークホテル(和室2、シングル1)

5月6日(水)
納経帳・納札

44番 大宝寺
45番 岩屋寺
46番 浄瑠璃寺
47番 八坂寺
48番 西林寺
49番 浄土寺
50番 繁多寺
            宿泊  全日本トラック協会道後やすらぎ荘 (ツイン 3)

5月7日(木)

51番 石手寺
空海の托鉢像
52番 太山寺
53番 円明寺
54番 延命寺
55番 南光坊
56番 泰山寺
57番 栄福寺
58番 仙遊寺
            宿泊 仙遊寺宿坊(和室2、シングル 1 )

5月8日(金)

59番 伊予国分寺
60番 横峰寺
61番 香園寺
樹齢千年以上の楠
62番 宝寿寺
63番 吉祥寺
65番 前神寺
              宿泊  西条国際ホテル(シングルのみ)

5月9日(土)
   帰宅日



四国車遍路(3)  2010・04・30〜05・06


4月30日(金)
     集合・出発   町田駅前  8:00
雲辺寺
           宿泊  民宿 淡路荘
   
5月1日(土)
66番 雲辺寺
67番 大興寺
68番 神恵院
69番 観音寺
70番 本山寺
            宿泊  一富士旅館

5月2日(日)

71番 弥谷寺
72番 曼荼羅寺
善通寺五重塔
73番 出釈迦寺
74番 甲山寺

      金比羅宮参拝 60分

75番 善通寺
             宿泊 善通寺の宿坊


5月3日(月)

76番 金倉寺
77番 道隆寺
78番 郷照寺
79番 天皇寺
80番 讃岐国分寺
88番・大窪寺
81番 白峯寺
82番 番根香寺
             宿泊  へんろ宿巡彩庵

5月4日(火)

83番 一宮寺
84番 屋島寺
85番 八栗寺
86番 志度寺
87番 長尾寺
            宿泊  旅館八十窪


順・逆打ち
5月5日(水)

88番 大窪寺
1番 霊山寺
高野山奥の院
             宿泊  玉川旅館(4人部屋)、8000(ツイン)

5月6日(木)
   高野山奥の院・金剛峰寺
   町田帰着


  四国お遍路には、一定のルールがあり、88寺を巡れば結願(けちがん)となりますが、最後に巡礼を始めた最初のお寺(発願寺)へ再度詣でて輪が繋がり、本当の結願となります。更に瀬戸内海を渡り、真言宗の総本山である高野山奥の院へ参拝して報告し、完結となります。私達は3年連続、ゴールデンウイークに車へんろを行いましたが、上記はその記録です。お遍路については、種々の解説書や文献、又、HPを検索すれば沢山の資料が出てきますので、以上は、重複を避けるため、敢えて巡拝の記録のみとしましたが、それでは余りにも味気なく、後のページで、実際に遭遇したエピソードを含め、お遍路について若干の記載を試みたいと思います。

金剛峯寺
総本山・高野山金剛峯寺


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四国おへんろ川柳・短歌


ー思い浮かぶまま、戯れに習作を並べてみました。四国お遍路総括詩集ですー


(5/12)

修行の大師象
    ☆  知っておく 後学のために お遍路へ

    ☆  因果負い 懺悔お遍路 白まとい

    ☆  行き詰まり 功徳求めて 初へんろ

   ☆   失恋の 痛みを癒す 花へんろ

   ☆   過ちを 懺悔懺悔の へんろ路

    ☆   空海の ミレニアム追う 足跡を

    ☆   それぞれの 思いを込めて 四国路へ


(5/13)
菅笠・金剛杖

   ☆   へんろ道 救い探しに 菅の笠 手甲脚絆に 金剛杖で

    ☆   傷癒す 白装束に 身を包み 大師あやかり 再起を期して

    ☆   苦しさに 絶えて打ち克ち 四国路へ 歩きお遍路 悟りの道が

    ☆   見えぬ目に 光求めて 花へんろ
        (「花へんろ」レコーディング成功を祈り)

   ☆   三日間 かけて一寺の 遠き路 歩きお遍路 我が身を変えに
尺八奉納

   ☆   尺八(たけ)奏で お遍路さんの 目を集め
     
   ☆   慰霊碑に 向って捧ぐ 鎮魂歌

    ☆  遍路して 大師の偉業 肝に知る


(5/14)

   ☆   さかのぼり 空海の道 今辿り どのお寺にも 大師堂あり

   ☆  後世に 残す足跡 空海の 教えの誇り 八十八寺

   ☆  亡くなりし 主人の霊を 深悼に 尺八(たけ)の音色に 瞼にじませ

    ☆  へんろ道 悩み軽くと 苦行する 人の心の 奥底知れず
悟り窟

   ☆  大師堂 座禅をくみて 瞑想に 若者一人 何を念じて

   ☆  山中の 古刹を巡る へんろ道 歩きお遍路 何をか求め

    ☆  室戸崎 苦行の末に 光射し 悟り開いた 空海の窟

 
(5/16)

   ☆   花へんろやむにやまれぬ事情あり性(さが)を払うか業(ごう)を捨てにか

   ☆  娘さん 八十過ぎた 両親を 連れてお遍路 大師の教え

   ☆  七人で 車お遍路 三十二(みそふたつ) 般若心経 唱えて巡る(1回目)
同行大師二人

   ☆  お隣に 立派なお寺 臨済の 在るもひっそり 人影もなく
  
   ☆  門前で 飴やお菓子の お接待 無事を知らせる はがきを添えて

   ☆  山上の ロープウェーで 行く古刹 修行の岩を 眼下に眺め


(5/19)

  ☆ 修行でか 無心で歩く へんろ路 己が登山に 重ねてみえし

  ☆ 「南無大師遍照金剛」白衣の背杖に弘法魂宿り

  ☆ 一人でも 同行二人 大師さま 知らず寄り添い 支えの杖に
 
  ☆ 修行時の 托鉢の像 空海が どこも出迎え 霊場巡り

  ☆ 証文か 遍路の印 どの寺も 納経帳に 墨書朱印を

仁王像
  ☆ 山門を 守る木像 仁王立ち 岩をも砕く 鋭きにらみ

   ☆ 山深き 寺の境内 石楠花が 苔むす岩に 心いやされ

   ☆ 山の上 険しき山道 苦行すは 大師の教え 奥儀求めて
 

      (マンネリ・蛇足を自認して)

  ☆ 寺の名に 謂れはあれど それぞれに 歴史の重み 語るを悟り

  ☆ 四国路の 八十八寺 お遍路を 無心で歩き 煩悩に克ち

坊ちゃん温泉
  ☆ それぞれが 悩みを背負い 旅へんろ 捨てた煩悩 拾う神あり

  ☆ 山頂の 古寺めざして 山道を 苦行のムチと 己に対峙

    ☆ 越えてきた 険し山道 結願寺 歩き遍路に 誇りの笑顔
 
  ☆ 空海の 功徳ありやと 伊予のみち 時間を割きて 道後の湯宿
 
  ☆ お接待 地元の人の 暖かさ お遍路さんの 息災祈り

  ☆ お接待 お遍路さんの 御利益に あやかる事の 理由(いみ)を含みて
衛門三郎・空海

  ☆ ツアー客 添乗員に お任せで 旗に従い 本堂仰ぐ

  ☆ 観光で ご利益うすい ツアー客 賽銭あげて 次へと急ぐ

   ☆ お寺さん 世継ぎ直系 二代まで 運命なのか 住職代わり
  
    ☆ 妻去られ 待てど戻らず お遍路に 長き十年 遍路暮しで
  
   ☆ 逆打ちで 衛門三郎 空海と 難儀の末に 遭遇(あい)て詫びいる 


       「お遍路に 春告鳥の 啼きそめぬ」 (旭洋・どこかの寺の石碑に)
 


<以下は、お遍路に同行した歌人二名の方から寄せられた、俳句・短歌・自由詩です>


    四国お遍路の感想短歌(A・E 作)

2008-05-14
夫婦杉

 「白衣(びやくえ)着て納経帳と金剛杖にぎりしめたる第一札所」

 「手を合わせ読経するも擬古地なくはじめての所作霊山寺」

 「極楽寺長命杉に手を触れて感触楽しむ第二札所」

 「遍路旅拙い尺八(たけ)の音残しつ巡る寺々空澄みやかに」


     気ままに自由に4行詩、過ぎていく日々を拾って覚書(A・E 作)

2008-08-03
                  
(1)白衣着て納経帳と金剛杖を握り締め

   第一札所の門前で一礼
仁王像

   手を合わせ読経するのも擬古地なく

   初めての所作 霊山寺


(2) 仁王尊の開いた手には

   生命線 感情線 運命線が くっきりと

   刻み続けた仏師の姿を想いつつ

   思わずひろげる我が手のひら


切幡寺
(3) 同行二人大師と共に巡るとは

   自分の影と歩むことなのか

   無言の階段を踏みしめる十番札所切幡寺

   ちり一ん ちりりん 鈴の音


(4) 樹齢数千年の杉の巨木に囲まれて

   二十一番札所太龍寺

   待仏堂の天井に

   龍が霊気を放つ

尺八

(5)記憶の彼方にかすんで

   時は霧のように言葉を覆い

   三十一番札所竹林寺

   読経の声 山々に木霊す 

 
                    四国お遍路 俳句・短歌 (K・M 作)

2008-05-15

石楠花
   桐花の明石海峡ゆうゆうと

   越えきたり人生(ひび)に感謝の下がり藤

   朝もやに溶け合う尺八(たけ)の鶴林寺(かくりんじ)

   傷つけてのぼる石段すみれ花

2008-05-20

   アスペルガー  息子と越えし  幾山河  おへんろ道に   咲く花愛し

   不器用に ただひたすらに 尺八(たけ)を吹く 室戸日の出は 我への励まし

岩屋寺
2009-05-11

   トンネルを 抜けて拡らける 土佐遍路

   種間(タネマ)寺や 子らの歓声 響きけり

   老木や 二輪三輪 駆け回り

   四万十の 鯉泳がせる 遍路みち

   足摺や 白波青波(セイハ) 風を呼び

三角寺
   岩屋(イワヤ)寺や 梯子登れば 蒼樹海

   山深き しやくなげ大師 迎えられ

   石段の 貴(たか)きにたじろぐ 三角(サンカク)寺

   緑燃ゆ 歳を重ねて ありがたき



  
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般 若 心 経

  お遍路に参りお寺へ着くと、先ず氏名を書いた納札(本来は常日頃から、信心深く書き溜めた写経)を箱に入れ 、本堂と大師堂で「般若心経」を唱えて礼拝します。88+1の2倍ですから178回、都合180回以上は唱える事になります。我家は先祖伝来真言宗を引き継いでいますが、信心が足りずなまけ者なので、未だ暗唱するに至っていません。正確には「摩訶般若波羅蜜多心経」と言い、仏教の憲法とも言うべきお釈迦様の教えの原点であり、あらゆる仏典が集約されたもので、非常に意義深く重く受け止められ、どの宗派でも共通して読経されている教典です。


         本堂前教文
お遍路講

<開教げ(かいきょうげ)>

   無上甚深の微妙の法は 百千万劫にも遭い遇うことかたし

   われいま見聞し 受持する事を得たり

   願わくば如来の真実 義を解したてまつらん



       摩訶般若波羅蜜多心経

観自在菩薩 行深般若波羅蜜多時 照見五蘊皆空
 
度一切苦厄 舎利子 色不異空 空不異色 色即是空
般若心経読経

空即是色 受想行識 亦復如是 舎利子 是諸法空相
 
不生不滅 不垢不浄 不増不減 是故空中
 
無色無受想行識 無眼耳鼻舌身意 無色声香味触法

無眼界 乃至無意識界 無無明 亦無無明尽

乃至無老死 亦無老死尽 無苦集滅道 無智亦無得
 
以無所得故 菩提薩依般若波羅蜜多故
 
心無礙 無礙故 無有恐怖 遠離一切 顛倒夢想
無我の経

究竟涅槃 三世諸仏 依般若波羅蜜多故
 
得阿耨多羅三藐三菩提 故知般若波羅蜜多
 
是大神呪 是大明呪 是無上呪 是無等等呪

能除一切苦 真実不虚 故説般若波羅蜜多呪

即説呪日 羯諦羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦
 
菩提薩婆訶 般若心経
 
先達読経



<本尊真言> 3回繰り返す(大師堂前は省略可)
   別 掲

<光明真言> 3回繰り返す
    おん あぼきゃ べいろしゃのう まかぼだらまに はんどま

   じんばら はらぼりたや うん

<高祖宝号> 3回繰り返す
   南無大師遍照金剛 南無大師遍照金剛 南無大師遍照金剛

<回向文>
    願わくばこの功徳をもってあまねく一切に及ぼし、我らと衆生と皆共に仏道を成せん




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”花 へ ん ろ   CD”

 このお遍路の実行は、歩き遍路で数年掛けて「区切り打ち」を重ね、88寺を回り結願(けちがん)を達成した友人の企画・誘いによるものです。歩いて一周するには、平均で約50日を要すると言われています。サラリーマン現役時代に成就した彼が”先達”となり、先導役をを果たしてくれたので、安心してお遍路を楽しむ事が出来ました。そうした苦労の成果が実を結びなんと、その友人がお遍路をテーマに作詞・作曲、C D を制作発表しました。題して”花へんろ”です。私も、作詞の推敲やCD普及に協力してきましたが、素人ゆえ残念ながら未だ紅白出場には届いていません。いずれ全国の皆さんに愛唱される名曲で、乞う期待です。


お遍路さん
ディスクジャケット


花へんろCD
花へんろ CD



花へんろ歌詞カバー
花へんろ歌詞 カバー


花へんろ韓国語訳詞
花へんろ 韓国語訳詞



花 へ ん ろ

作詞・曲:木戸 篤

光なくし もう十二年
支えの中で 生きて来ました
再びこの目が 見えるように
願いかけて 杖をたよりに 
花へんろ

道行く人の 暖かさ
お遍路宿の 暖かさ
険しい山道 超えて行く
光求め そよ風うれし
花へんろ

阿波のすだち 土佐のゆず
伊予のみかん 讃岐のレモン
ほのかに薫る 花々に
心やすらぐ 感謝感謝
花へんろ
感謝感謝 花へんろ





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お遍路よもやま話


 納 め 札

  2年前、横浜線で帰宅途中、新横浜駅から金剛杖を持ったご婦人が乗車し隣へ座りました。杖を見てすぐ判ったので、「四国へ行って来られたのですか?」と問いかけると、その人はすぐ話に乗ってきました。逆打ちで、6寺を歩いて巡りました。幸運にも一日で「やはりお大師様に会えました」と言って、他のお遍路さんから頂いたという”納め札”を見せてくれました。納め札は、何周廻り結願したか、巡拝の回を重ねるにつれて色が違います。
   (4回まで白、5回から緑、8回から赤、25回以上は銀、50回以上は金、100回以上は錦)

  色によってベテランを誇りとするお遍路さんも居れば、そうした札を頂く事を有り難く思い、御利益があると信じて集めるお遍路さんもいます。そのご婦人は、色の違う回数の多い納札を何枚か持ち、逆打ちで「お大師様に会えた」と、喜んでいました。今でも、弘法大師は順打ちで巡っているので、反対に廻り、衛門三郎のように逆打ちでお遍路すると、弘法大師に会える可能性が有り、御利益も多いと言い伝えられています。私が3回行き一巡して頂いたのは、錦の札(148回)一枚と、民宿で一緒になったアメリカ人2人の白札2枚だけでした。
  どのお寺にも、本堂と大師堂には納札を入れるスレンレスの箱が設置されていますが、本来は常日頃、心を込めて信心深く書き溜めた写経を、お遍路で納めて来るのが正式で、納札は略式です。

錦の納め札
148回巡拝 錦の納め札


納 経 帳

  お遍路へ行くと、最初のお寺さんの売店で、最低限必携の物を買い揃えます。その中でも納経帳は、札所で墨書・宝印を押してもらうのが参拝の証となるもので、買い求めなければならない必需品です。霊場のお寺へ着くと、しきたりにに沿って本堂・大師堂で、般若心経を納経して参詣し、正式にはその後納経所へ行き、墨書朱印を押してもらい、そのお寺に祀られているご本尊のお札を頂きます。しかし、バスツアーの団体さんが来ると、添乗員が纏めて納経所へ持参しますので、その後になったら大変長い時間待たされます。親切な所は1人2人は途中に入れて書いてくれますが、小さなお寺では家内手工業で、奥さんやお年寄りが一人で納経所の役割を果たしている所もあり、長時間待たされることもあるので私達は先ず、納経を済ませてから参拝という順序をとる事もありました。

  納経帳への墨書朱印は、300円を納めます。88寺ですと、約2万7千円を要しますが、各お寺さんの確実な収入源です。その他に、納経帳ではなく掛け軸を持ち墨書朱印を集めている人もいれば、白衣に書いてもらう人もいます。掛け軸は500円、白衣は700円か800円でした。結願し満願すれば、掛け軸は床の間に飾るのでしょうし、白衣は記念品にするのでしょうか。最初は、納経所に髪を乾かすドライヤーが備えて有るので不思議に思いましたが、白衣や掛け軸の墨が滲まないよう、乾燥させてから畳むためでした。

  讃岐(香川県)へ入ったら納経帳の管理をしっかりし、盗られないよう気をつけよと、注意を受けました。お遍路は、大多数の人が徳島から順打ちで巡ります。香川に入った頃には、納経帳は殆ど埋まり後数寺で結願に近くなります。そこを狙い、後は地理に詳しいので、車で納経所だけを巡り、結願の納経帳として売るのだそうです。特に、掛け軸は巻物で軸が長く目立つので、要注意とのことでした。88ヶ所全寺埋まった納経帳や特に掛け軸は、御利益が有ると、高価でも楽して買い取る需要家が存在する実証なのでしょう。私達は、何の被害もなく無事楽しくお遍路を完結しましたが、世知辛い世の中になったものです。



 白     衣

  お遍路へ行き揃える物は、先ず白衣は必需品でしょう。白衣を着ていればお遍路さんとすぐ判りますし、何よりも本人が、単なる物見遊山ではなく、それぞれの思いを込め、何かを得実現しようとする心構えが違い、身が引き締まります。下履きは、講を組み集団で巡る本格的な人達は、ご婦人も綿で出来た股引型の本格的な白装束でしたが、普通の遍路さんは歩きやすいスラックスで十分、色も地味な物を履いていました。出来れば白い化繊のスポーツウエアを履けば、よりお遍路さんらしく、格好は見栄え良くなりますが汚れは目立ちます。それはさておき、上着だけ着ればお遍路らしく周囲と溶けこみます。

 白衣にはチョッキ型と袖付きの物と二種類あります。春から秋にかけては、袖無しのチョッキ型が涼しく、見た目もスマートに見えます。私達は、五月の連休でしたので、袖無しのチョッキ型。晩秋から冬にかけては、袖がついていた方が保温性が良く、使い勝手や個人の好みで選択します。
  私達は三回とも、車で一週間でしたから白衣も汚れませんでしたが、歩き遍路で汗をかき長期間ですと汗臭く汚れも目立ちます。四国の民宿やビジネスホテルには、お遍路さん用に下着や汚れ物を洗う洗濯機が必ず備えてありました。
 白衣の背中には「南無大師遍照金剛」、脇には「同行二人」と書かれて居ます。帰宅後、洗濯してもらうのに墨が消えたり滲んでしまうのではないかと心配しましたが、水には溶けない染料が使われていました。杞憂でした。



金 剛 杖

  杖はお寺さんへ詣でる時は、持って居ないとサマになりません。ところが1m25cmの長い木製の棒ですから、車で移動する時は狭い車内では、纏めておかないと扱いに困る場合があります。お遍路には、山門の門前で礼拝をし、手洗場で手を洗い清めてからお参りする等々、一定のルールがあります。その都度、何処か近くへ立て掛けておきます。生理現象で用足しをする時も、汚れるのでトイレの外へ置いて入らなければなりません。

  本堂と大師堂で般若心経を唱え礼拝する場合も、杖を置いて礼拝します。杖を置く場所は寺によって、御影石に穴を空けた立派な物もあれば、傘立てのような金属製の物等多様です。問題は、沢山の人が集中した場合、間違えて先に持って行かれてしまい、自分の杖が無いと捜している光景を何回か見ました。男性用は大体濃紺系で女性は朱かオレンジ色ですから、男女が間違える事はないのですが、同性同士で取り違える事はままあるようです。間違いを防ぐために、何か他と違う特徴を持たせなければなりません。購入した時には鈴が一つ着いていますが、私は高工の文化祭へ出席し、生徒が実習で造った手頃な真鍮製の鈴を購入しておいた物が有ったのでそれを着け、杖の上部に名前を書いておいたので事なきをえました。

 重いザックを背負った歩き遍路の人には、金剛杖は必需品でしょう。昔からの遍路道は、今では余り使われず整備されてない狭い藪の山道を上り下りしなければならない所もあります。標高800mの山上に在るお寺や、平坦でも次の寺迄100km、歩いて三日間、適所に民宿や遍路宿が有れば良いが、野宿を余儀なくされる場合もあります。歩き遍路の杖は、石突きが5〜10cmも短くなりめくれあがっている人も居ます。几帳面な私は、最初はカッターナイフで切り落とし整形してスッキリして遣りたくなりました。ところが、当の本人は全く違う考えであることに気付きました。めくれあがった石突部は誇りなんですね。車遍路で楽に巡るのと違い、何百キロもの道程を重い荷物を担いで歩いた証のガサガサの金剛杖先は、実は彼らの勲章であり、皆に見せたい部分なのでした。

  金剛杖は、五輪部という金襴を巻いた部分は握ってはならず、橋の上では突かない事になっています。嘗て空海が修行僧の頃、雨露を凌いで橋の下で野宿をしていた。眠って休んでいる空海を、杖の音で起こしてはならない、ということです。また金剛杖は、四国お遍路を結願し、高野山奥の院へ報告詣での際、納めてくるのが慣わしのようですが、殆どの人が記念に持ち帰ります。私も、右上写真の金剛杖を大事に持って帰りました。



 お 遍 路 宿

  このお遍路は、3回とも先達の企画と計画に基づいて実施され、私達はただその計画書に着くいて廻ったというのが実態です。計画を練るには、解説書やガイドブックがあり、どのお寺の周辺にどんな宿泊施設が在り、住所や電話番号を掲載した案内があります。とろが、予約を取るのに電話やFAXをしても、一度で済んだ事はなかったと聞いています。しかも、毎回ゴールデンウイーク、旅行シーズンだけでなくお遍路も気候が良くなりたけなわな時期になります。人数も6〜7人ですから、宿泊施設の確保には大変な苦労をした事と感謝しています。お寺さんで、今晩の宿泊所を捜し、携帯をあちこちに掛け必死で交渉している光景に何度も出会いました。

 お遍路宿には、多様な宿泊施設が有りますが、最も便利なのは宿坊でしょう。お寺の境内か隣接した宿泊施設ですから、利便性の面から誰もが望む場所なので、予約時には既に満員御礼で予約出来ず、88ヶ所巡りで宿坊へは2ヶ所だけ宿泊出来ました。元々宿坊は、坊さんを目指す弟子や、修行僧が長期に滞在する施設であり、四国ではお遍路が定着発展し、営業として経営が維持できる形態として進化したものと考えられます。山上の古刹では、地理地形上の条件もあり、私の感じでは宿坊を備えた寺はそれほど多くはなかったと感じています。

 お遍路の一日の行程は、納経所が7時に開いて受け付け、午後5時には閉鎖しますから、お寺巡りは夕方5時で終りとなります。後は効率よく巡拝するため、宿坊か次のお寺に近い宿を求めるのは、歩き遍路の場合は尚更です。私達が多く泊まったのは、主にお遍路さんを相手に営業する民宿で、所謂お遍路宿です。規模が小さいですから、少し大きな団体が入れば満員で、寺に近く便の良い宿は中々取れません。お遍路宿は、家族経営で小規模ですから暖かな雰囲気で迎えてくれました。私達は車でしたから、多少お寺から離れても苦にはなりませんでしたが、車で10〜15分は、徒歩では1〜1.5時間を要します。街中のビジネスホテルや業界で経営する保養施設、一般のホテルや旅館へも宿泊しました

 歩き遍路にとって、辺鄙な場所で適切な所に宿が存在するのは、大変有り難い事だと思いました。100km先まで3日かけて次の札所まで行くのに、夕方着く所にお遍路宿が在れば幸いです。無ければ公園か橋の下ででも野宿しなければなりません。又、山の上のお寺から3〜4時間歩かないと下の寺迄付かないような所も在ります。その坂の途中に、民家も何も無いところに遍路宿が一軒だけ建っている、これは歩き遍路にとってはホッとしますし助かります。そうした所は、儲けが営業目的ではなく、お遍路さんを暖かく迎え親切にしてくれます。私達は、車で半分は旅行気分もありましたから、お酒も良く飲みました。昼食には運転手を除いて男性群は必ずビールを注文し、民宿へ着くと同時にお茶よりも先にビールを頼む。10本ほど飲んで追加注文するともう無いという、そして「夜も飲まれるのですか?」と聞かれる。夕食の分は遠く離れた酒屋さんから確保してもらうよう頼んだが、真面目なお遍路さんが多く、こんなに酒を飲む遍路客は珍しく、10本程度しか準備してない遍路宿もあることを知りました。

 四国には、一般的で大きなホテルや旅館が街中に有り、先達の経験でそうした立派なホテルの食堂に案内されて立ち寄り、一度だけ豪華な昼食を採った事もあるが、四国のホテルやサービス業界は、宿坊やお遍路宿と言われる民宿や小規模な旅館だけに止どまらず、ビジネスホテルや大きな旅館も、お遍路と何らかの関わりを持ち、営業が成り立つ構造になって居るのでしよう。最大の反省点は、お遍路宿では”お接待”を兼ねた営業方針もあり、遊び遊山を好まない宿もあり、節度を保った振る舞いが求められることを教訓にしたいと思います。



車 遍 路 あ れ こ れ

  四国八八ヶ所お遍路には、歩き遍路で平均的に実質約50日の日数を要すると言われている。一回で廻ることは、先ず体力的に無理、そして種々の条件から困難であろう。従って、或る部分を歩き、何回かに分けて巡る「区切り打ち」を重ねて一巡し結願する人が多いのでは無いかと思われるので、トータルで60日間以上はかかるのではなかろうか。

  私達は車で3回、高野山への報告詣でを含め21日間で結願し短期間で完結したのであるから、便利で楽なものであった。それもツアーではなく独自の計画なので、単に般若心経を唱えて礼拝し納経帳に墨書朱印を頂くだけでなく、お寺の規模に応じて境内を散策したり、寺の特徴を探索し見聞する余裕ある行程であった。ワゴン車一台で6〜7人、東名町田・横浜I.Cから高速へ乗る関係上、JR町田駅へ8時に集合し出発した。一回目は神戸三宮で宿泊したが、もっと先まで行けることが分かり、二回目からは初日、四国へ渡る手前淡路島の先端まで行き民宿泊りとした。2回目の時は、政権が代わり高速道休日千円のマニフェスト実施初日とあって、渋滞に巻き込まれ、町田から名古屋まで詰まって全く走れず、なんと10時間を要するという悲惨な目に遭遇した。それでも大阪を過ぎる頃にやっと渋滞から解放され、淡路島の予約した民宿には、10時過ぎに着き、夕食もそこそこに済ませ床に就く。

  東名は高速であり、素人でも運転は楽であるが、距離が長いので2時間を目途に2人で交代し運転して行く。ところが、行楽地での運転となると状況は変わってくる。高い山の上の古刹となると、車1台がやっと通れる狭い急坂の山道でヘヤピンカーブありすれ違いもある。行楽地の駐車場の共通点は、皆興奮気味でワサワサした雰囲気で落ち着きが無く、事故に繋がりやすい状況にある。その点、我が車は観光バス運転歴十数年のベテランプロ運転手が同行していたので、安心して車遍路が楽しめた次第である。

  ワゴン車に大人7人が乗って移動すると、車内の空間は狭い。同行の7人は、先達の仲立ちで集まり3対3と互いに初対面である。最初はお互いに遠慮もあるが、狭い車内では話題も弾み急速に懇親も深まる。徐々に薄くなった壁も取り払われ、知らず知らず節度を失い舌過も生じてくる。違和感が生ずるがそれでも2〜3日は平穏に何事もないように経過していく。長年交際し気心の知れた仲間同士であれば日常茶飯事で気にもならない言動が、環境が違い寄って立つ基盤が違うと、些細な事でも気に障る事がある。それが表面化し爆発するのが、3日目か4日目の夜である。いつもは中に入ってなだめ役の私であったが、3回目はお遍路宿での節度を逸した仲間の振る舞いに、ついに私が雷を落としてしまった。お遍路を計画通り無事完結するためであるが。



お 接 待

  事前に、一定の予備知識は勉強しておいたが、お寺の門前や門を入った所で飴やお菓子を袋に入れた物を頂いて、これが”お接待”かと気が付いた。四国ですから、みかんや夏みかんなども手渡され、「ありがとう御座います」とお礼を言って有り難く頂いた。最初は大体年輩のご婦人が数人で配っているのを見かけたが、何処のお寺でもということではなく、割合からすればお接待を受けた寺の方が少なかった気がしている。

 お接待は、お寺さんが行うのではなく、文字通り地元の人達の自発的な善意で、伝統的に受け継がれているのであろう。直接聞いて確かめたことではなく、ハッキリとは判らないが、檀家の人達の有志が遣っているのか、近所の人達のグループか、周囲の町内会で取り組んでいるのか、個人的な善意の発想で行って居るように見かけられる人もあり、何れにしても自主的・自発的に行われて居ることは確かであろう。何処のお寺であったかは覚えてないが、四国の某女子大の学生さんが、境内の木陰にテーブルを並べ椅子も置き、大々的な接待所を設置し、お遍路さんをもてなして居る所が有った。そこには、理事長か学長さんかは判らないが、上品な年輩のご夫人の顔も見えた。テーブルには、誰でもつまめるようにお菓子が置いてあり、椅子に腰を下ろすと冷たい飲み物を勧めてくれた。袋詰めのお遍路の資料なども頂き中味を開けてみると、官製のはがきが3枚入れてあった。絵はがきなら兎も角、感想や意見を書いて学校に送ってくれという意味なのか?、暫く思い巡らしていたがハタと気が付いた。歩き遍路の人は、一週間か10日、長い人はもっと長期に歩き続けているであろう。家族や身寄りは心配している、そして友人へ安否を知らせる連絡をしたらどうですか、切手を貼らずとも一筆書きポストインすれば済む。そういえば私も、毎回電話一本入れていないことを反省した。

 ある山の中のお寺さんを参詣し、駐車場へ戻ると地元の人らしき男性が4〜5人、狭い空き地へテントを張り用具を揃えて何か準備をしていた。尋ねてみると、明日から炊き出しのお接待をする準備をしているという。「一日違いで、美味しいお相伴に与れなくて残念でした」と冗談を言い車に乗って別れた。山の下から軽トラで運び上げ、ガス台も有ったので、何か腹にたまる暖かい汁物を振る舞うようであった。ものの本で読んだのであるが、嘗てはお遍路でお接待に与れば食べ物に不自由せず、生活できた時代もあったようである。

 お遍路の歴史は長いが、全ての時代順調に来たとは言えない事もあったであろう。山内一豊が土佐藩へ赴任し、地 元長曽我部の勢力と対立、扶持を召し上げられた浪人や全国から食い詰めた人達が接待を求めて溢れ、混乱を恐れた土佐は、藩内のお遍路そのものを禁止した時期が有ったようである。四国4県あるが、こうした歴史的経過を背景に、現在にも影響を及ぼし、歩き遍路道の標識や整備等、関係者は別として一般市民のお遍路に対する関心度には温度差が有ると言われている。



  お遍路で 竹八(たけ)を奏でて 鎮魂歌

  このお遍路で、尺八に触れておかなければ話は済まないであろう。先達として活躍した友人は、高田馬場まで尺八の稽古に通っている。このお遍路は最初、彼の尺八教室の仲間で話がまとまり、車の手配や地理的な関係で私に白羽の矢が当たり、誘われ参加したもので、そもそもの発端は尺八に起因しているのです。年に一度の尺八発表会には私も2〜3回鑑賞させてもらい、二部の懇親会ではアルコールも入り、和やかな雰囲気で感想など発言させて頂いたので、同行の皆さんとは全くの初対面ではありませんでした。

  尺八とお遍路とは相性がよく、尺八教室の参加者は、先達と歌人でもあるご夫人二人にもう一方名人が同行し四人が加わっています。三人は尺八同門の練習仲間であり、入門や経験・レパートリーも同程度とみえ、寺での参拝が終ると出発予定の時刻を見計らって、北国の春や民謡の発表課題曲等、三人でよく合奏していました。他のお遍路さんは、珍しそうに眺めたり尺八の音に耳を傾けていました。ある所では、お寺の雰囲気と溶け込んでいたのか、尺八を吹いてる姿を見るまでは、「お寺さんがスピーカーで流しているのかと思いました」と、声を掛けくる人もいて、参詣者の注目を集めていました。

  竹で作られた尺八の音色には、暖かさと奥深い哀愁の響きがあり、日本人の心に共鳴する調べを持っているのでしょうか。或るお寺では三人が合奏している近くで、暫くじっと聴き入り目に涙を浮かべている夫人がおりました。演奏が終ると三人の傍へ行き親しみを込めて話していました。そのご夫人は地元四国の人で、半年ほど前に主人を亡くし、悲しさ寂しさに中々立ち上がれず、半年経てどうにか自分を見つめることが出来るまでになりました。主人の霊を深く悼み、思い立ってお遍路に出掛けたとのことです。主人も尺八を吹いていたので懐かしく、皆さんの吹奏に聞き入り、生前を想い出しつい涙が滲んでしまったとのことです。有難う御座いました、と礼を残して別れましたが、軽自動車で白衣も着ず、一人でお遍路を始めたとの事でした。

  もう一人名人の方は、同じ流派の上席師範で教室の顧問格らしく、慰霊碑や五輪塔に向かい一人で鎮魂の意を込めてか吹奏している姿を見ました。三人が並んで撮った写真は沢山有るのに、師範を含めて四人揃って合奏している写真は、残念ながら上の一枚しか有りませんでした。皆さんが尺八を吹いている間私たち無芸派は、境内を散策し、デジカメで記念に残る珍しい物を撮ったりし、ゆったりと過していました。



 お 遍 路 閑 話

  お遍路が主目的であるが、折角四国へ行き途中名所旧跡を見ないで帰るのは、余りにも勿体ない話である。我が先達はそのような点にも配慮し、巡礼の寺から寺への間に有る見所を調べておき、所々にちりばめる行程を組んでいた。

 四国には、太平洋に面した南側の両端に角が二つ出ている。室戸岬と足摺岬であるが、遍路の途中見物した。室戸岬は台風上陸のメッカ、道路を隔てた先は岩ばかりの荒々しい光景で男性的であった。ただ、内側に空海が座禅を組んで修行中に海から光が射し悟りを開いたと言われる窟が在ったのが記憶に残っている。片や足摺岬は、断崖絶壁で嘗ては自殺の名所であったと言われるが、海面まで50mも有ろうか断崖絶壁の入り江を挟んで柵が張り巡らされ、灯台から反対側へと樹木に覆われて良く整備され、緑豊かな公園であり散策路で、室戸に比較し女性的な柔らかさを感じたものである。広場にはジョン・万次郎の銅像も建立されて居たように思う。自然と言えば、砂浜と岩を活かした日本庭園のように美しい桂浜、すぐ上の岬には台座の高い龍馬の銅像が遠く太平洋を眺め建っていた。

 内陸部では、四万十や吉野川の清流を眺めながら走り、大歩危・小歩危の渓谷では、昼食休憩を兼ねてたっぷり時間を採り、谷の底へ降りて遊歩道を散策し自然の造形美を満喫した。十数年前のやはり5月の連休に、一人で百名山めざし石鎚山と剣山へ登っているが、車で通ると見たことの有る景色でもあり、さりとて記憶は定かではなかった。

 夏目漱石が赴任して教鞭をとり、若かりし頃通った道後温泉は、少し先の山の上に宿泊したので、翌朝通りがかりに車を止め全員で記念写真に納めた。象頭山と言われる讃岐の金比羅さんは、遠く車窓から眺めるとなるほど象が寝そべった形に見え、鼻の部分に当たる急な階段は1368段あると言われるが難なく昇り、私は更に最奥の社へ行き引きしてきた。讃岐と言えば何と言っても腰のあるうどん。参道にはうどん屋が沢山並んでいるが、大混雑の中車を駐車させてくれた店に入り、目の前で打ちたてのうどんで舌鼓をうち、遍路道へ戻った。



  もう一冊の納経帳(写真集)

  四国霊場88ケ所を巡って結願し、お遍路を完結した証は、各お寺の墨書・朱印で埋まった納経帳に残されている。しかし、どんなお寺さんでどのような特徴があったか、その記憶は薄れ、多いが為に混乱してしまう。特に私達の年齢になると、脳細胞は減少の一途を辿り、脳の皺からも記憶はどんどん消え去っていく。折角四国路を廻ったのであるから、記念になる物を残しておきたい。二度と来られる機会があるかは定かでない。人間の脳に強く刺激を与えて記憶を刻み、又後にひも解いて記憶を蘇えらせる最大の方法は視覚に訴えることであり、”百聞は一見にしかず”である。

  そこでお遍路では、各お寺に着くと”四国霊場第00番”と刻まれたり書かれたりした場所で、必ず全員で記念写真を撮影することにし、その役割は、デジカメで私が引き受けた。札所の標識は、大きな石柱に刻まれた所も有れば、山門に厚く大きな板に書き目立つように掲げてある寺もあるが、逆に探しても見つけ難い場所もあった。最初は三脚を取り付けセルフタイマーでの撮影は面倒なので、通りがかったお遍路さんに依頼してシャッターを押して貰うことが多かった。しかし、いつもタイミングよく来てくれるとは限らない。慣れてくるとすぐにセットして写せるようになったが、階段を昇りきった石柱や山門をアングルにして撮る場合は、段違いに三脚が安定せず苦心した事もある。88寺全部、霊場番号を入れて撮影したのであるが、85番八栗寺だけは確かに撮影したのに、山門の上部だけで人物は写っておらず一枚だけ失敗、パーフェクトとはいかなかった。

記念写真だけでなく、本堂や大師堂に五重の搭などは勿論、その寺々の特徴となる建物や樹木に花等、気の付いた被写体には何でもカメラを向けシャッターを押した。勿論同行の人物にもレンズを向け、三回でざっと800枚、一度で270枚見当撮ったことになる。これをプリント選別して整理し、七人分のファイルを作る楽しみが与えられた。2L版光沢紙を沢山買い込み、取替え用のインクも揃えプリントを始めたのであるが・・・。同じメーカーのプリンターと光沢紙、インクも純正であるのに用紙の表面の薬品とインクが合わないのか、滲むどころかダラダラと流れたようになってしまい写真にはならない。仕方なくA4サイズの高品位専用紙を購入し半分に切り、A5サイズでプリントした。この用紙は吸い取り紙と同じ性質でインクの消費は多いが滲む心配は無用、三原色の安プリンターでは却って見栄えが良い。百均でビニール袋に用紙を詰めて整理するファイルを求め、写真の中身も厳選し資料なども添えて七人分を揃えた。

  私と先達とは時々会う機会があり、月に一度の尺八稽古日前には準備を整えて手渡し、尺八教室から参加した皆さんへは、ザックに詰めて持参してもらい、渡してもらった。一寺抜けたのは残念であったが、納経帳と併せお遍路の懐かしい記念品として、残るのではないかと思う。この写真集は、今回HPを作成するに当たって、視覚によって記憶を蘇えらせる資料として有効に活用した。同時に、時には引き出して眺め、過去の想い出に浸るのも悪くはないであろう。
 


後夜仏法僧鳥を聞く

                    空  海

閑林独坐す草堂の暁

三宝の声一鳥に聞く

一鳥声有り人心有り

声心雲水倶(とも)に了了

  詩吟を習い始めて4年になるが、空海の詠んだ漢詩も多い。発表会で今回は空海が詠んだ「後夜仏法僧鳥を聞く」という詩を吟じてみた。高野山へ移ってから詠んだ詩で、閑かな林の中の草葺きの庵でひとり座禅を組み、夜明けの勤行をしていると、明け方に仏宝・法宝・僧宝、と仏の声を呼ぶ鳥の声を聞いた。それは鳥の声だが、声の中に仏心がこもっていて、それを聞く人にも三宝(仏・法・僧)の声と聞く心が有り、声も心も雲水も皆共に悟りの心境に入ったという意味の詩である。これを吟じる本人が、空海の悟りの境地になれば、詩吟も本物になり、聞く人の心を打つのであろうが未だ未熟、間違えずに吟ずるだけで精一杯、とても自分の吟に陶酔する域には至らない水準で、未だまだ修行が足りない。

 詩吟で最も多く出てくる漢詩は、中国の詩人(歌人)李白の作詩である。「汪倫に贈る」という有名な詩があるが、李白は揚子江を船で上り下りし、気に入った所で逗留した流浪の詩人である。汪倫は地方の酒蔵の経営者、文化人であり李白を泊めて1ヶ月も逗留させていたのであろうか、暇なときは村人に文字や歌心を教えたり、渡り歩いて来た地方の話等をして聞かせて村人にも親しまれていたのであろう。夜になれば、一献傾けながら汪倫に詩の神髄を教授していたであろうと思われる。李白が世話になりお暇して、桃花潭という船着き場から船に乗って今まさに旅立つとき、汪倫や村人の一行が足を踏みならして歌を唄い見送ってくれた。

 こうした汪倫の情の深さは、桃花潭の水深千尺(300m)より深く、とても私は及ばないと感謝を込めて詠んでいる。汪倫は、地方の一名士に過ぎなかったが、李白のこの詩によって中国全土に知れわたる栄誉を得たともいえる。

  日本で例えれば、”奥の細道”を歩いて俳句を残した旅の俳人、松尾芭蕉がミニ李白に相当するのであろうか。因みに、芭蕉は1,000句、与謝野蕪村は3,000句、小林一茶は20,000句、時代は変わるが正岡子規は24,000句を生涯に作ったとの事である。




  小説・四国路

 私達のお遍路を企画して案内し、無事に又楽しく完結させてくれた先達、前にも述べたように現役中に四国路を歩き遍路で巡拝し、結願を果した友人です。その彼が歩き遍路の記録を解きほぐし小説化しました。その作品が、本年元旦からブログで配信される事になりました。”自伝小説 四国路”と検索すれば、「生き生きくらぶ:自伝小説 四国路」と現れ、すぐに読めます。
私がこれ以上あれこれ書いても、重複し蛇足となりますのでこの辺で閉めます。お後が宜しいようで・・・




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