マウンテン

マ ウ ン ティ ン
(mountain)

嶮しくて 高くそびえし 山並みは 人の心を 魅了する


   
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常念から前・奥穂高岳
常念から前・奥穂高岳

いよいよ槍沢の登り <いよいよ槍沢のきつい登りに>

梓川も大曲りを過ぎると槍沢と変わり、槍ヶ岳に向けてきつい登りとなる。 最近は地球温暖化で夏には槍沢の雪渓は消え、ガラガラの登山道を汗を流して登るようになるが、嘗ては雪渓を喘いで登った 。
ニッコウキスゲの群生 <ニッコウキスゲの群生>

高山植物の花の女王、何処へ行っても見られるが、黄色が周囲の緑をバックに映える。群生地は沢山あるが、これはトリミングしたほんの一部分である。
ぐ白馬岳から剣岳 <雲海の中にある剱岳の偉容>

白馬岳頂上から、雲海の中に頭を覗かせる剱岳。五月人形の兜のように、遠くから見ても他を圧倒する偉容を誇る、千年以上前に既に山伏が頂上を極め、錆びた剣と錫杖が見つかっている。


谷 川 岳 史


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ひとり気ままに 日 本 百 名 山

ア  プ  ロ  ー チ

日本百名山 ・1〜6

日本百名山 ・7〜11

日本百名山・12〜14

日本百名山・15〜21

日本百名山・22〜25

日本百名山・26〜29

日本百名山・30〜35

日本百名山・36〜41

日本百名山・42〜45

日本百名山・46〜51


(番外編)北ア・表銀座

(番外編)八ヶ岳・赤岳

(世界遺産)白神岳紀行

丹 沢  そ ぞ ろ 歩 き

最 近 の 登 山 歴








マウンテン
 ア プ ロ ー チ





 私が登山を始めたのは1964年の夏に一人で谷川岳へ登ってからであるから、今から48年前になる。その前にも友人に誘われたりで、幾つかの山には登っているが、自主的に計画を立てて登ったのではなく、他人任せで後に着いて行くといった程度のもので記録も全く残っていない。同じ職場のグループで、その時々に参加するメンバーも入れ替わる有志で行くこともあった。大山や奥多摩の乾徳山や御前山等、せいぜい日帰りか夜行日帰りで行ける程度の、身近でポピュラーな山であった。

  新宿駅夜行発で三泊四日の長期計画、夏沢峠から北八ヶ岳を縦走し蓼科山へ登ったのがその集大成であり、その後山行きの計画は持ちあがらなかった。先輩が家庭を持ったり、夫々が目を向ける視点が異なってきた事もあったが、技術革新という時代の趨勢で、最終的に職場閉鎖となり、山仲間が社内で分散する状況が生まれた。考えてみれば私が山に魅せられたのは、この時期の経験からであったのかも知れない。その後私も職場が変わったりで、数年の空白があるが、その間も山への思いは頭から消える事はなかった。会社には山岳部が存在していたし、一歩外へ目を向ければ種々の水準と目的を掲げた山岳会やクラブは世に沢山あった。当時大学には勿論高校にも山岳部やワンダーホーゲル部が存在し、一時期を画する登山ブームの時代であった。しかし私は、会社や他の山岳会に所属する事を性格上好まなかった。組織に拘束されるのを嫌い、自由に山と一人で向き合いたかったのである。孤独を好み根っからの自由人であったと言える。反面、私の登山は自己流であり、単独登山のリスクも認識していた。一人では岩壁に挑戦するクライミングや雪の冬山は寄り付けないものと自覚し、自分一人での登山技術に限界があることを認識し、夏山の縦走のみと自らを律していた。

  1964年の夏を境に、毎年夏になると頭の中は登山の事で占められ、休暇をやり繰りして山へ登っていた。準備の為の体力づくりにも余念はなかった。昼休みには毎日、3〜5kmは走って汗を流し、腕立て伏せや腹筋も鍛えていた。最初は丹沢山や奥秩父へ登り、徐々に高い山へ行って自信を付け、北アルプスへと進んでいった。しかし、北アルプスの山へ幾つか登っているうちに、峻険な岩山の魅力と良さを知ってきたが、人の多さに飽きて南アルプスに目が向くようになってきた。南アルプスの山の大きさ深さに魅せられて登ったが、まだ幾つかの山を残している。私達の青春期は、日本経済の高度成長を支えた年代で、時間的な余裕が無くなってきて、未練を残しながら7年間で徐々に山から遠ざかり、行けなくなってしまった。

  私が深田久弥の日本百名山を目指すキッカケは、それから30年ほど経った1998年の事である。5年前の1993年の暮、出勤途上の事、対向車がセンターラインをオーバーし私の車に正面衝突してくるという、大事故に遭ってしまった。そんな折、長女が自分の意志で選択し工業高校へ進学した。夫婦の役割分担で入学式への参加は私の役目、出席してみると機械科120名中女子は娘一人、流石に心配となりPTAを引き受ける事となった。そこで、その高工の教頭先生が百名山を目指している事を知った。PTAの会議や行事が終わり懇親会の席などで隣り合うと、自然と共通の関心事である山の話題になり話がはずむ。教頭といえば校長を補佐して重責を担い多忙な立場であるが、その中で時間をつくり、もう少しで百山完登間近であるという。その後他校の校長に栄転して行った。暫くして何かの行事の折、案内状を送ると快く出席され同席する機会を得た。その時、日本百名山登頂成就の”記念オリジナルテレカ”を作成され、同席した皆さんと共に私も頂いた。

  私が日本百名山を意識したのは、PTAでこの先生との出会いが大きなキッカケである。 同時に、交通事故の後遺症を抱えていたのでこれを克服することも考えた。30年前に途絶えたが「私には好きな山がある」、リハビリを兼ねて山行きを再開し、身体を鍛え直し、健全な心身を取り戻して立ち直ろう。こう決意を固め毎週一回、重い体にムチ打ち丹沢表尾根を縦走し、足腰を訓練して一年後には表舞台に復帰し、心身共に再起を図った。そして、好きな山行きではなく、百名山踏破という課題を自らに課し、登山に継続性を持たせる目標を定めたのである。これが日本百名山を目指した最大の動機と結論であり、56歳の時であった。若いとき、遮二無二登った資料を整理してみると29座登っていた。これは大きな財産であるが、改めて30山からの再出発であった。

   最後に、私の山行は殆どが独りで登ったものである。単独登山の危険性は、一般世論としても戒められている。独りで山へ登るには他に迷惑を掛けないよう、心身共に日常的な鍛錬と万全な装備や冷静な判断力等を養い、事故には細心の注意を払って臨む必要性は熟知しているつもりである。私の場合現実に、単独行が条件的に適していたのである。私は登山家ではないので100山を達成した折に、随筆風に記念誌を自費出版したいと考え、古い記録や資料をまとめて文章化してある。従ってここでは当面、青年期に登った29座を掲載し、その後については順次追記していきたい。

題名は”ひとり気ままに日本百名山”(仮題)にしようと考えている。

蒸気機関車

(掲載は登った順番、右側の数字は頂上を踏んだ年月日、戯れに末尾に習作を一句添えてみました)



     
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マウンテン
1、 浅  間  山 (2,542m)   1958・8・17



 私が生まれ育ったのは関東平野のはずれ、500mも行けば小高い山になる農村です。晴れた日には北に裾野の長い赤城山の全容が見え、その左に榛名富士が望め、西の方角には岩の尖った妙義山が在り、更にその左、家から西南西にコニーデの裾野をひいた美しい姿の浅間山が、居ながらにして眺めることができた。なかでも冬の晴れた日には、真っ白に雪を被った美しい浅間山の姿が、今でも印象深く脳裏に残っている。

 私が山らしい山に登ったのは、その浅間山が最初であった。夏休みに帰郷した際、同級生と三人で急に話がまとまり出掛ける事になった。私が通った中学校は、山の斜面を切り崩して建てられ、裏は山に連なる場所に在ったがそれまで登山の経験はなく、頼りはリーダーのO君だけであった。O君は同級生で学業は常にトップ、それも他を寄せ付けないブッチギリで秀才の誉れ高く、群馬県では当時最も東大進学率の高い県立高校へ入学していた。成績だけでなく他の面でも人望厚く、頼りになる友人であった。

 母におにぎりをつくってもらい、有り合せの果物や菓子などを文房具を入れて通った、布製のカバンに詰め肩に掛、遠足で使った水筒を持って出掛けた。軍隊の背嚢程度で未だザックは普及していない時代であった。当時の交通は、早朝に自転車で家を出発し、ローカル線の私鉄駅まで行って乗車、4駅で高崎駅へ着き信越線に乗換える。横川駅を過ぎると急勾配になるが、レールの中央に設置された溝に歯車を噛み合わせて走るアブト式に切り替え、急坂をゆっくりと登って行く。乗客ものんびりと車窓を眺めながら石炭が燃える臭いの漂う蒸気機関車に引かれた列車に身を委ねていた。

 中軽井沢駅(旧沓掛)で降り、駅前から草軽バスで登山口である峰の茶屋へ向かった。登り始めたが登山者は私達三人だけ、2500mを超す高山に初めて登る不安も多少あったが、心細さの原因にはもう一つあった。生憎その日は朝から天候不順、濃霧で視界は悪く霧雨が風に流れて身体に吹き付けて来た。装備も軽装で、初めての経験でもあり寒く多少の心細さを覚えたが、O君を信頼して着いて行くしかない。しかし、その霧雨も時間の経過と共に晴れて薄日が差しはじめ、山上へ着く頃には天候は回復してきた。頂上に着くと好奇心で火口の縁まで行き、恐る恐る噴火口を覗いたが、上部の縁に一部まばらに木が生えているのが見えた。すり鉢のような底からはゴロゴロと地鳴と振動が伝わり、硫黄の匂いと水蒸気の噴出しているのが見え、流石に薄気味悪くなり、すぐに火口から離れた。そして大きな溶岩の風除けになる場所を見つけ、持参したおにぎりで昼食を採った。その時も未だ頂上には私達三人だけで他に登山者の姿は見えなかった。初めての登山で余裕が無かったのか、それとも雲に隠れていたのか、周りの景色や展望は全く記憶に残って無いのである。

 下山路は反対側の前掛け山から剣が峰を巻くコースを下った。その頃には、天候はすっかり晴れ上がり、途中から小学生くらいの子供を含め佐久側から続々と登山者が登って来た。行き交う人ごとに「こんにちわ」と挨拶を掛け合う。山での登山者同士の親密感と心地良さを初めて経験した。しし、次から次へと余りの多さにだんだん声を掛け合うのも疲れ、三人が交代で分担し挨拶を返す事にした。同時に先に頂上へ登り軽快に下っている私達と、下から喘ぎながら登ってくる登山者に「これから頂上までご苦労さん」という、一種の優越感のような気分で下山していた。

 帰りの列車の中でO君が、「実は登りの時は身体が冷えたせいか腹痛で調子が悪かったんだ」と、なんとなく聞かされた。リーダーとして、私達に余計な心配をかけまいと黙って耐えていたのであろう。年齢にそぐわず深い配慮に「彼は凡人ではすむまい、中々の人物になるな!」と、青春期にその片鱗を覗いて感心したものである。16歳の夏の思い出である。

   後日、私達が登山してから一ヶ月半後の10月3日午前5時、浅間山の大噴火が起こり、翌年8月10日迄の10ケ月間続いた。火口の底からの地鳴りは、噴火の前兆であったのか。その後も噴火し、現在も登山禁止になっているが、半世紀前の良い時期に頂上を踏めたのは幸運であった。

浅間山
浅間山 おはちの底で 雷鳴が

         8/17
峰ノ茶屋(9:00)ー馬返し(9:20)ー東前掛山(10:50)ー浅間山頂
(11:20昼食12:10)ー 湯の平高原( )ー火山館(13:30休13:40)
-浅間山荘(14:50)-浅間橋( )-七尋石( )ー小諸駅(16:50)





2、 蓼 科 山(2,530m)  1961・10・1


 蓼科山へは職場の人達と六人で登った。最初から蓼科山へ登る計画はなく、北八ヶ岳を夏沢峠から縦走し、時間に余裕があったので最後に登ったのであり、予備日に取っておいた日に登った事になる。当時の職場は、緩やかな同好会程度のつながりであったが、気の合った若い有志で時々山へ出掛けた。その時々でメンバーは入れ替わるが、私は殆どの計画に参加した。日帰りかせいぜい夜行日帰り程度の、軽い山行きが多かった。

 この時は山岳誌の特集を読んだ仲間の提案で、そのコースを辿ろうという事になり、珍しく3泊4日と長期の登山計画となった。当時は登山者の殆どがそうであったが、新宿発最終の夜行急行で出発し、目的地の駅へは早朝に到着してバスに乗り換え登山口まで行くので、実際には4泊4日という事になる。前夜まで2泊3日を掛けて北八ヶ岳を縦走し、大河原ヒュッテへ泊まって帰宅する計画であった。大河原峠は広い草原で明るく開けた展望の良い場所で、その中にぽつんと大河原ヒュッテが建っていた。すぐ前の手が届きそうな所に蓼科山が聳えている。

  当初の予定には無かったが予備日で時間に余裕があり天候も良く、急遽蓼科山へ登ってみようという事になり、朝もゆっくりと出掛けたのであった。荷物を小屋へ預け、持ち物は水や雨具など最小限にして出発した。身軽であり、最後の日とあって皆心も足取りも軽快であった。唐松と熊笹の中の稜線を上り、前掛山を巻く針葉樹林帯にはいり、なだらかな山容を過ぎるとこの山の肩に当る将軍平に着く。この先は、大きな岩が重なってゴロゴロした急登をグングン登って高度をかせぎ、やがてこれまた溶岩と岩ばかりのだだっ広い頂上へ到着した。

 下から眺めれば美しい姿の山であるが、登ってみるとその優しさに反し、岩のゴツゴツした歩きにくい経路であり、思いもかけぬ岩稜の山であった。それだけに岩ばかりの頂上は遮る物とて無く、三六〇度の展望が開けていた。八ヶ岳は勿論、霧ケ峰・美ヶ原をはじめ、南アルプス・北アルプス・中央アルプス、遠く富士の霊峰を仰ぎ、浅間から秩父や日光・上越の山と展望は素晴らしい。登った道を下り、大河原峠へ戻り帰路についた。

大河原ヒュッテ
美しく 見えた山容 コブだらけ


      9/27
大河原ヒュッテ(8:00)ー将軍平(8:45休9:00)ー蓼科山
(9:25休10:00)ー将軍平(10:25)ー大河原峠(11:00)





3、 谷  川  岳 (1,977m)   1964・7・29


 谷川岳は、ロッククライミングのメッカとして、岩登りをする登山家にとっては東京から距離的にも近く、本格的なクライミングの山として人気を博していた。特に一ノ倉沢は魔の岩壁として恐れられ、それだけにより難度を追究する若い登山家の魅力をひき、ここで鍛え新しいルートを開拓して名声をあげ、後に日本を代表する登山家に成長した人も数多く生まれている。それだけに遭難者も多くマスコミを賑わせていた。谷川岳行の前年に私は職場が変わり、一緒に行く仲間もなくなり、以後の登山はすべて単独行となるのであるが、自分で計画し一人で登った最初の山が谷川岳である。

単独登山であり、岩登りの経験も無く基本も知らないので、当然尾根歩きの縦走登山であるが、尾根上から”魔の谷”とか”墓標の山”と言われていた一ノ倉沢を覗いて見ようと出掛けた。上野を23時55分の夜行で出発し、早朝5時05分に土合に着いたが、なんと下車したのは私一人であった。駅から歩き始めて5分で土合山の家を通過、遭難碑の前で手を合わせ、犠牲者を慰霊して通り過ぎると多少の心細さもあり緊張したが、5時35分には西黒尾根に取り付いた。すぐに急斜面の登りでいきなり一汗かかされ、15分で送電線の鉄塔台地に着く。昔のガイドブックには、「鉄塔近辺は蜂が多いので注意」等と、親切に書いてあったが六時前には通過し、蜂が活動する前だったのか一匹しか遭遇しなかった。

これからは広葉樹林の中のよく踏み込まれた視界の効かない道をひたすら登るのであるが、この日は快調に登っていった。ピークを二つほどこえ送電塔から一時間ほどで、周囲は低い灌木帯となり視界は開け展望もよくなる。森林帯が尽きると前方に西黒沢の源頭や天神尾根など、谷川岳の一部がはっきりと見えはじめる。少し行くと二つの岩のピークが出てくる。ラクダの背と言われる岩尾根の突起であるが、最初の試練でクサリに助けられ、多少のスリルを感じて通過する。まだ尾根の半分の地点で、最後の岩のコブを越えると急に下りとなり、西黒尾根の交差点に当る場所に憬雪小屋が建てられていた。

 いよいよこれからは西黒尾根の岩と土のザレてジグザグに刻まれた急登でバイトをせまられる。道の脇には高山植物が顔を見せはじめ、ハクサンイチゲ、ニッコウキスゲ、シラネアオイなどが、美しく風にそよいで迎えてくれた。最後の登りは氷河の跡と呼ばれる一枚岩のコース、クサリに頼って踏ん張り、ザンゲ岩と呼ばれる大岩の横を過ぎて肩の広場に出た。谷川岳は双耳峰であるが、トマの耳(別称・薬師岳)には9時ちょうどに到着し小休止を採る。オキの耳(別称・谷川富士)まで10分、此処でも15分の休憩を採り谷底を覗いたが、一の倉沢が白く切れ落ちており吸い込まれるようで背筋がゾクゾクした。谷底から吹き上げる風は冷たく火照った身体に心地良かった。一の倉岳へは40分で着き、昼食には未だ早いので茂倉岳まで脚を延ばし、10時43分に到着して一時間の昼食休憩を採る。

 学校は夏休みであり、通常であれば登山の真っ盛りである筈なのに何故か登山者は私一人だけ、天候にも恵まれ快適な尾根歩きを満喫していた。武能岳から蓬峠の手前で、大学のワンダーフォーゲル部のパーティーに追いついた。大きなザックを背負い、新入生の訓練を兼ねた山行きだろうか、次は北アルプスあたりを計画しているのかも知れないな、等とかってに想像しながら20名程のグループの後に付いた。単独行は調子が良いと歩行は速い。アッという間に追い越してまた単独行になった。蓬峠から土樽駅までは歩きやすい下りのコース、ガイドブックでは歩程3時間となっているが、快調に跳ばして1時間半で土樽駅に到着し、車中の人となり帰京した。

 谷川岳の遭難犠牲者は、2005年現在で781名(2016/10/2で808名)を数えるが、過半数が一ノ倉沢であり、その中の一名が知人である。私の会社には当時、日本で最も先鋭的な登山クラブと言われた「山岳同志会」に所属する今野和義君が居た。年齢は私と同年であるが、彼は毎週金曜日の夜行で谷川岳へ行き、土・日と岩場でトレーニング、月曜から出勤して仕事という生活を送っていた。 一万人以上が在籍する製鉄所である為、今野君の名前は承知していたが、お互い直接顔を合わせて話した事は無く、彼と同じ職場の友人からその動向を聞くと共に、山岳誌を読み注目していた。彼は小西政継氏らと行動を共にし、偉業を成し遂げたが地味な性格で、小西氏の陰にあって目立たない存在であったが縁の下の力持ちで実力派。小西氏を陰で支え、ヨーロッパアルプス三大北壁の冬季登攀やヒマラヤ遠征隊にも加わり、登山家としても大きな実績を持つ人物であった。。厳冬期のグランドジョラス北壁冬季第三登に6人パーテーで成功したが、その時の凍傷によって、小西氏や同行した4人の仲間が27本の指を失ったが、彼も足の指数本を失った。入院し手術したのは小杉駅前に在る東横病院(現聖マリアンナ医大別院)であった。

 それでも山への情熱を燃やし続け、新たにグランドジョラス北壁厳冬期ソロ(単独)登頂に挑戦。事前のトレーニングで行った、慣れていた筈の谷川岳一ノ倉沢衝立岩の正面岩壁を単独登攀中に墜落死してしまった。”未完の最強クライマー”と期待されていたが、グランドジョラス厳冬期に単独登頂に挑み成功の記録を刻む直前に早逝、さぞ無念であったろう。彼をモデルにした山岳小説、「青春登山大学」(高野亮)が発刊さたが、死後スポットを当てられたのがせめてもの救いであり、彼の存在を世に残している。

谷川岳頂上
魔の山に 魅されて挑む クライマー


       7/29
土合(5:03ー5:05)ー山の家(5:10)ー西黒沢出合(5:30)ー西黒尾根取付(5:35)
ー鉄塔(5:55) ーガレ沢上(6:50)ー谷川岳・トマの耳(9:00ー9:20)ーオキの耳
(9:30ー9:45)ー一の倉岳(10:25ー10:30ー茂倉岳(10:43昼食11:45)ー武能岳
(13:00)ー蓬峠(13:20)ー土樽駅(15:55)








4、 丹  沢  山 (1,673m)   1964・08・09
1976・10・10〜11



 丹沢山へは何回も登っている。百名山の中では神奈川で唯一の山であり、私の住まいから近く手軽に行けるとあって、体力維持やトレーニングを兼ねて登った回数も多く、思い出の多い山である。最初は独身寮の友達に誘われ、表尾根を縦走している。

蓑毛からヤビツ峠を経て、三ノ塔へ登って行者岳の鎖場を通過し、塔ノ岳(1491m)の頂上を踏んで大倉尾根を下り大倉バス停へという、丹沢では最もポピュラーなコースであった。その日は一日中雨の中の歩行で、景色や植物などは一切目に入らず、ただ黙々と目的地へ向かって歩くだけであった。他の登山者とは一人も会わない。この時両足指の爪を剥がすという痛い失敗をしている。それまで何度か山やハイキングに行っているが、当時流行っていたバスケットシューズを着用して登っていた。底は平だが足首まで保護され、ちょっとした山へ登るには運動靴よりはるかに登山向きであった。その時は同行する友人が新しい登山靴を購入したので、お下がりを私に提供するという事で、試着して少し窮屈であったがその靴を履いて出掛けた代償は大きかった。

 登りは良かったのであるが、例のバカ尾根と呼ばれる大倉尾根の下りで参ってしまった。爪を切って行かなかったのも災いした。2時間以上の降りでつま先が靴に当たり、体重がかかるので痛いの苦しいの、途中から靴が親指に当たらないよう横向きに歩いたりしてみたがそれでも痛い、その時ばかりは登りのなんと懐かしかった事か。帰って靴下を脱いで見たら、両足親指の爪の下は内出血で真っ赤になっており、完全に両方とも親指と次の指の爪は剥がれ抜け替わると同時に他の指の爪も変形してしまった。

勿論その苦い体験を教訓に、次からは自分の足に合った登山靴や用具を調達した。 その翌年の夏、独りで丹沢主脈の縦走を試みた。下り最終の小田急線に乗り渋沢駅に深夜0時53分に到着したが、勿論バスはなく55分歩いて大倉のバス停に2時前に着いた。そんな時間に登山者は勿論私以外には誰一人として居ない。身支度を整え2時10分に懐中電灯の明かりを頼りに大倉尾根を登り、途中夜明けでだんだんと明るくなり五時ちょうどに塔ノ岳頂上に到着、寝不足の目に朝日が眩しかった。

塔ノ岳で朝食を採り少し休んで丹沢山(1567m)へと向かった。深夜の歩行で疲れていたのか、コースタイムより少しオーバーして丹沢山へ着いた。山頂は割合平坦な地形で、ここにはみやま山荘が建っている。水を補給し一時間余芝生の上で仮眠を採った。休憩したせいか体力は回復し、不動峰を通過し蛭ヶ岳へはコースタイムを二〇分短縮し到着している。丹沢山塊で最高峰の蛭ヶ岳(1673m)では、20分程小休止し出発した。この頃の私は「日本百名山」は全く意識になく、主脈縦走が目的で檜洞丸は視野に入らなかった。ここからは丹沢山塊の東側になるが、丹沢山を境に山の様相も変り、緩やかな女性的な山容になる。大倉尾根とは異なり、下りも緩やかで膝への負担も軽くなる。地蔵岳を通り姫次には11時に着き、ここで昼食休憩を1時間採り出発した。途中一度道を間違えて踏み跡に迷い込み、沢にぶつかり行き止まりになってしまった。沢登りの詰めで、ここから登山道に出る所とすぐに気が付き、引き返すと元の登山道に戻った。緩やかな下りなので走るように飛ばし、3時半には鳥屋のバス停へ到着した。

深夜から歩き出し、一日で丹沢の主脈を縦走したのであるが、その後が違う意味で大変な苦しみを味わう事となる。歩いている時は気が紛れてそれ程気にならなかったが、鳥屋からバスに乗り橋本駅から電車に乗り換え座っているのが大変な苦痛であった。実は私はその前から大痔主であり、冷えたり少し無理をするとすぐに発症する。バスと電車の中では冷や汗が出るほど痛み苦しんで、途中駅から電話予約し、帰宅後すぐ罹りつけの病院へ飛び込んだ。

 それから12年後、馬場登山口から丹沢山を経て蛭ヶ岳山荘で一泊、見晴らしのきかない檜洞丸の頂上を踏んでいる。このコースは裏丹沢であり、10月という事もあってか丹沢山まで登山者とは誰一人会わず静かなたたずまい、前日の雨が登山道を洗い靴跡一つない道を踏みしめ、アケビを取って頬張りながらのんびりと歩く。途中目の前を藪の中から猪がドドッと登山道を横切って行ったのには一瞬驚かされた。また緩やかな笹の斜面に野生の鹿が警戒心強く百mも離れているのに、耳をピクピクさせ警戒してこちらを伺っているのに出合った。この時は檜洞丸から向かいの大室(群)山から加入道山へ登る計画であったが、台風で登山道が荒れており、”入山注意”の標識で呼びかけられており、時間的な余裕は有ったが単独行を心し安全を優先し断念した。犬越路から東海自然遊歩道を歩いて箒沢へ下り帰宅した。箒沢バス停近くには樹齢二千年と言われ、国の天然記念物である箒杉の巨木が在る。これで、丹沢山・蛭ヶ岳・檜洞丸と三頂上を踏んだので、丹沢へは登ったことになるのであるが、この時もまだ、百名山への認識識は脳裏の片隅にもなかった。

 丹沢山は1700〜1500万年前にフィリピンプレートによって、海底から隆起した”海底隆起山”である。ヒマラヤが地球の歪で押し上げられ隆起した山である事は知られているが、丹沢はフィリピンプレートによって地殻が海底から押し上げられ、隆起した山であり貝殻の化石などが出現する事からもその生成と存在は明らかである。

塔ノ岳 富士の霊峰 正面に 長い裾野で 勇姿を魅せる

表尾根・丹沢山
       1964/08/09
渋沢(0:55)ー大倉バス停(1:50ー2:10)ー一本松(3:00)ー塔の岳(5:00朝食5:50)
ー丹沢山ー(7:05仮眠8:15)ー不動の峰(8:50)ー蛭ヶ岳(9:25ー9:45)ー地蔵岳
(10:25ー10:40)ー姫次(11:00昼食12:00)ー焼山分岐(13:00)ー鳥屋(15:25)
       1976/10/10
馬場(7:00)ー御殿森(7:55朝食8:25)ー高畑山(8:55)ー木間ノ頭
(11:00昼食12:00)ー丹沢山(13:10休憩14:20)ー不動ノ峰(15:00)
ー棚沢ノ頭ー鬼ケ岩ー蛭ヶ岳(15:50)泊
          10/11
蛭ヶ岳(5:45)ー臼ケ岳(6:37休6:47)ー金山谷ノ頭(7:40)ー檜洞丸(8:23休9:05)
ー犬越路(10:35休10:50)ー用木沢出合(11:55)ー西丹沢自然教室(12:20)ー
西丹沢バス停(12:50)
 




5、 甲 武 信 岳 (2,475m)   1965・07・31


二 瀬〜栃 本〜柳 小 屋〜甲 武 信 岳〜富 士 見 台〜国 師 岳〜北 千 丈〜大 弛 小 屋〜朝 日 山〜賽の河原〜金峰山・五丈石〜鎖 場〜水 晶 峠〜仙 峨 の 滝



 この登山計画は47年前、栃本から覗き岩を通り十文字小舎で一泊、甲武信岳へ登り国師岳を経て金峰山頂を踏み、御室小屋で泊まり昇仙峡へ下る、3泊4日の計画であった。当時の記録を見ると、国土地理院五万分の一地図で、三峰・金峰山・御岳昇仙峡と三枚の地図を準備している。

 三峰口には10時22分に到着し10時53分のバスに乗り、栃本の手前の二瀬で11時32分にバスを下りている。当時も栃本までバスは通じていたと思うが、たまたまその時間帯に栃本行きの便が無かったのかは定かでない。私の記録では、栃本まで丁度2時間を要して歩いている。当初の予定では、栃本からは古くから使われている往還道を歩き、覗き岩を経て十文字小舎泊りとなっていたが、何故か入川林道に入り柳小屋に変更し向っている。二瀬から2時間のロスが影響していたのかも知れない。

 入川林道は展望の無い樹林帯の中の緩やかな起伏の道を、4時間ほどただ黙々と歩く。是といって特別目印になる場所も無く、コースタイムの記録も残っていない。栃本からも反対側からも誰一人会わない。登山でこのルートを歩く人は少なく、釣り人か山仕事の利用が主なようである。二瀬から栃本、そして林道歩きでアプローチが余りにも長く、何の変哲もない歩行なので余りピッチは上がらない。こうした時の一人歩きは、話し相手は無く、気を紛らすものもとてない単調さは辛いものである。時間的にはあと30分程で柳小屋に着く事は分かっていたが、時間も18時半と薄暗くなり、なんとなく気力がうすれ、小屋の少し手前でビバークする事にした。そこは登山道を横切るように小川が流れており、水量は豊富だが簡単に一跨ぎできる程度の幅であり、入川に注いでいる。疲れていたのか寝袋に入りぐっすりと眠った。

 翌朝は早く目覚め、朝食は途中で採る事にし支度を整え、4時30分に出発した。緩やかな下りを30分ほど行くと沢の瀬音が聞こえてきて、右手に柳小屋があった。昨日あと30分我慢すればビバークせず小屋に泊まれたものをと思いながら、近づいてみたが人の気配は無かった。当時この小屋はさほど古い感じをうけなかったが、97年に新築されたという。少し進むと視界が開けるが、そこはちょうど甲武信岳の東側であり真裏に当たる。真ノ沢林道は、甲武信岳への斜面を直登する形になり、稜線に出るまで急な勾配の道を登るが、かなりのアルバイトを強いられたが登山道はさほど荒れていず、グングンと高度を稼いだ。是といって特別に名の付いた場所も無く、朝食や休憩の時間を含めて甲武信岳の山頂まで7時間20分かけ、11時50分に到着した。 甲武信岳は甲斐・武州・信州の県界に当たり、その名が付けられている。

 深田久弥が「奥秩父のヘソ」と呼んだように、奥秩父の中心であり主脈のほぼ中央にあり、展望も見事で八ヶ岳や富士山に南アルプスと、これから登ろうとする国師岳や金峰山も見渡せる。頂上で昼食休憩にし、12時30分に国師岳を目指して出発、これからは当初立てた計画のコースである。山頂からはガレた急な下りとなるが、すぐに千曲川水源林道を右に分けて、白くザレた緩い斜面を登るとミズシで、一旦下って登り返すと富士見である。ここで小休止し幾つかのピークを越えると、東梓に着いた。

 下ると国師のタルであるが、その先は高度差350m程の「長い登り」となるので、小休止して国師岳まで一気に登る腹構えをつくる。すぐに平坦になったり登りを繰り返して、最後の急な斜面を登りきると、岩がゴロゴロした平坦な場所に出た。国師岳の頂上である。山頂で10分ほど休憩し呼吸を整えザックを置き、すぐ目の前にある奥秩父の最高峰という、北奥千丈岳をピストンする。往復10分であった。頂上から20分で今日の宿泊地、大弛小屋へは15時30分に到着した。シーズンの盛りであったが、当時はさほど混雑はしていなかった。料金は素泊り300円也であった。

大弛小屋宿泊
奥秩父 ヘソに聳えし 甲武信岳

        7/31
三峰口=二瀬(11:40)ー栃本(13:40ー13:50)ー柳小屋手前(18:30)ビバーグ
         8/1
発(4:30)ー柳小屋(5:00)ー甲武信岳(11:50昼食12:30)ーミズシ(13:00)
ー富士見台(13:47ー14:00) ー東梓(14:40ー15:00)ー国師岳(16:50ー17:00)
ー北千丈(17:05ー17:10)ー大弛小屋(17:30)






6、 金  峰  山 (2,599m)   1965・08・02


 現在は大弛峠まで林道が開通され、奥秩父最深部といわれていた国師岳やその他の山へもアプローチが簡単になり、安直に登れるようになったようであるが、二日間かけ苦労して頂上に立った時の大きな喜びが薄れて味わえなくなり、俗化の道を辿るのではないかと憂えるものである。

 山では朝の目覚めは早く、4時半には小屋を出発している。今日の予定は金峰山へ登り、昇仙峡へ下りる行程である。天候は好さそうである。小屋を一番に出発し、しかも早朝である。登山道の草や小枝に夜露が残り、下半身はずぶ濡れである。雨具のズボンを取り出して履こうと考えながらも横着し、晴れているのでその内乾燥してしまうであろうと、歩いているうち朝日峠に着いてしまった。

 47年前の記録では、金峰山は国土地理院の地図では2595mであったが、現在は2599mと4m高くなっている。測量技術が発達した現在の標高が正確なのであろう。他にもそうした山は幾つか存在するが。頂上には五丈石が有るが、5丈というと15mである。大きな岩の塊である。朝の出発が早かった為か金峰山に着くと私一人しか居ない。五丈石の基部まで行き何処か登る手掛かりはないものか探してみたが、岩登りの経験の無い私にはとても取り付く術は無く、早々に諦めて安全を優先させた。 この計画を立てる時、実は金峰山から瑞牆山へ登って増富に下り、奥秩父の主だった山を一挙に走破してしまおうと考えた事もあった。当時の私の頭には別に百名山は存在していなかったし、徐々に高い山へ登るのが楽しくて仕方の無い頃であった。しかし、瑞牆山へのコースを避ける理由が他にあったのである。何処の山だったか記憶は定かでないが、帰りの列車の中で中年の登山者と偶然同席になった。40歳代前半の山のベテランに見えた。

話の中で沢登りもやるし、多くの山に登っている事が判る。その登山者と話している時、「金峰山から瑞牆山へのコースは登山道が歩き難い」という話を聞き記憶していた。山であるからアップダウンの傾斜は当然であるが、そうではなく横に傾斜していて、片方の脚に負担が掛かる地形であるという。その話が強く頭に残り、計画の時点で大きく影響し、昇仙峡へのコースを選んだ経過がある。当時から百名山を意識していれば、当然瑞牆山へ登っていたであろうが、それから33年後、落穂拾いのかたちで瑞牆山へ登る事になるのであるが。

 この頃は登山を始めて未だ経験も浅く、若さと体力だけで山歩きをしていたきらいがあった。単独行であり他に気を使う事も無く、従って体調が良ければ急坂もグイグイ登るし、下りは走るように降ってしまう。まだ山の下りの怖さを知らなかった。三日目で疲労もたまっていたのであろう、片方の膝を痛めてしまった。トラック道を横切り、旧道を歩いて黒平から猫沢を通り金桜神社と降るが、さして急な下りではないがいつものような調子では歩けない。

途中で後から来た若い女性2人のパーティーに追い越されるが、残念な事にそれにも着いていけない。仕方なく脚を引きずるようにゆっくり歩き、仙峨の滝に着いた時はホッとした。滝を見てバス乗り場から甲府行きに乗った。料金は当時70円也であった。

五丈石
頂上に 大きなコブか 五丈石

                8/2
大弛小屋(4:30)ー朝日峠(4:55)ー朝日山(5:25ー5:40)ー賽の河原(6:15)
ー金峰山・五丈石(6:25ー6:35)ー鎖場(7:30)ー御室小屋(7:45食8:05)ー
水晶峠(8:20ー8:35)ーミノコ沢(8:50)ートラック道(9:17)ー金桜神社
(12:50)ー仙峨の滝(13:25ー13:30)ーバス乗場(13:55)=甲府駅



     
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マウンテン
7、 槍  ヶ  岳 (3,180m)   1965、08、29


上 高 地〜槍 沢〜槍 ヶ 岳〜槍ヶ岳山荘〜 中 岳〜南 岳〜大キレット鞍部〜北穂高岳〜涸 沢 岳〜穂高岳山荘〜奥穂高岳〜ジャンダルム〜天狗のコル〜間 の 岳〜西穂高岳〜独 標〜西穂高岳山荘〜上 高 地



 今迄に幾つかの山へ登ってきたが、殆ど単独登山であり自己流の山行きである。会社やその他の山岳会に所属することもなく、かと言って山の本を読み漁り登山の基礎知識を学ぶ努力もせず、全くの我流登山であった。当時は一枚でその山塊全体を把握出来る地図は無く、登ろうとする山のガイドブックと、国土地理院発行の五万分の一白地図を何枚もつなぎ合わせ、ガイドブックの解説から登山ルートを探すのが頼りであった。自己流ながら若く体力には自信があり、一人で歩く為調子の良い時は他のパーティーをスイスイと追い越し、ガイドブックのコースタイムの半分程で歩いてしまう事もあった。

 北アルプスに憧れを持ってはいたが多少の自信もついたので、槍ヶ岳から穂高連峰を一気に縦走する計画を実行した。前夜の最終列車で新宿駅を発ち、早朝松本駅から島々行き始発に乗り換え、バスを上高地の一つ手前で降りて大正池の畔を歩いて上高地を散策し、ウエストンのレリーフを確かめ河童橋を渡った。河童橋は上高地の一つのシンボルで、この橋を渡ると「いよいよ北アルプス」と心が引き締まるが、明神池から徳沢園や横尾までは梓川に沿った平坦な広い道で一般の観光客も気楽に散策できる。何でも見ておこうと好奇心旺盛で、左へ折れて明神池へ立ち寄る。木々に囲まれた神秘的な池であった。梓川のせせらぎを聞きながら、左手に見える明神岳や前穂高から北穂高岳と連なる、穂高連峰の切り立った白い岩肌を眺めながらルンルン気分で、しかしあの上は一体どうなっているのか、一抹の不安も心の隅をかすめたが快調に歩いた。

 横尾では梓川を渡って左に行けば涸沢であるが、当時はまだ太い丸太二本が架けて有るだけであり、その上を渡って行くようになっていた。現在は立派な吊橋が架けられている。一の俣までは四時間の行程であるが、一度も休まず11時30分、3時間足らずで歩いた。10分間の小休止をした。ここから大曲までは緩い登りであり、梓川も槍沢と名前が変わる。槍沢小屋へは12時35分に到着してしまった。当初の計画では最初の北アルプス登山であり、無理せず此処で宿泊の予定であったが余りにも早く着いてしまった。槍の穂先も視界の中にある。もう少し足を延ばす事にし、ここで5分の小休止をし出掛けた。すぐ水俣乗越への分岐点であるが、此処で大きく左に折れる大曲りである。槍沢もここから急な登りとなる。先程小休止をしたばかりであるが、ここで急勾配の登りに備えて12時50分、遅い昼食を採り40分の休憩をした。

 いよいよ槍沢の雪渓の登りである。この年は冷夏だったので雪が大量に残っていた。流石に雪渓の上はヒヤリとして冷気が肌に心地よい。好天だったので雪面も適度に柔らかく軽アイゼンも不要で、多少滑りながらも快調に登り、4時40分には槍ヶ岳山荘に到着した。夏の陽はまだ高い。目の前に見える槍の穂先が気になる。素泊まりの予約を済ませて荷物を預け、身軽になって鎖や鉄梯子を頼りに15分で頂上に着いた。

槍の頂上は20人位は乗れる広さであろうか、少し平らになっている。一大パノラマを楽しみ、すぐ下に見下ろせる尖った小槍を覗いたりし、折角の槍の頂上でゆっくり展望を味わいたかったが、25分ほど居いて下りにかかる。登り下り別になっている下りのコースで、15分程で山荘に着。昭和40年、当時山小屋は素泊まりで500円也の料金であった。その頃は何処も共通していたが、米を1合持参するとご飯だけは炊いてくれた。私はいつも単独で小屋泊まりでであったが、飯盒炊飯でおかずも自前で作り夕食を済ませた。

槍ヶ岳山荘
どこからも 識別できる 槍の穂は (山座同定)

     8/29
松本=島々駅ー上高地(8:10ー8:35)ー明神池(9:25)ー徳沢園(10:00)ー
横尾小屋(10:47)ー一の俣小屋(11:30ー11:40)ー槍沢小屋(12:35ー12:40)
ー昼食(12:50ー13:30)ー殺生小屋(15:55)ー槍ヶ岳山荘(16:40ー17:05)ー
槍ヶ岳頂上(17:20ー17:45)ー山荘(17:5)






8、 奥 穂 高 岳 (3,190m)    1965・08・30


 槍ヶ岳山荘(肩の小屋)を六時に出発、初めて北アルプスの岩稜の尾根を歩く不安と期待に胸膨らませて、山荘を後にする。天気は快晴である。少し下ると日本一高い峠の飛騨乗越を過ぎて正面の大喰岳に登る。大喰岳の広い頂上を過ぎると、中岳への上り下りになるが、当初の予想に反して雲上のプロムナードに不安は何処かへ消え、快適な山歩きが続きアッという間に40分で中岳に着いてしまった。右前方の笠ガ岳が大きく目に映る。中岳付近はゆるやかな感じで、この辺りはなかなか立派なお花畑である。左下には氷河公園が雪解け水を集めて、神秘的に光って見える。雲上の桃源郷で、天狗でなくとも飛び跳ねて遊びたい気分になる光景である。中岳を過ぎると稜線は大きくまわり、左側に天狗原へ下る稜線が分かれているが、私は南岳を目指して広いなだらかな稜線を進むとこれまたなだらかな山頂に着いた。7時25分であったがここで初めて10分の休憩を採る。

 前方はこのコースの難所である大キレットが急激に足下に落ち込み、その向こうに北穂高の大岩壁が天に聳えるように立ちはだかっている。その先には奥穂高、そして前穂高の尖った岩峰が一望に開ける。しばらくは緩い下りであるが、北穂の岩壁が近づくと狭い稜線上を急激に降りはじめる。鉄の梯子を下りるとキレットの最低鞍部であった。飛騨側から吹き上げる冷たい風が、火照った身体に心地良かった。その先はペンキの標識や鎖と針金を頼りにナイフエッジのような狭い稜線上を歩む。2〜3回ペンキの標識を見失い、踏み跡へ誘い込まれて進むとその先は断崖絶壁で行き止まり、元に引き返して正規のルートに戻り前進した。一箇所20m程の垂直の壁に鎖場が在り、登り下り二本が別に下がっている場所が有った。そこでは5〜6人の登りの先客があり、順番を待っていた。そこで初めて登山者に会った。槍から穂高の縦走といえば、北アルプスの表銀座に次ぐ有名でボピュラーなコースである。最盛期には行列ができて、鎖場などは30分から1時間待ちとガイドブックに記されており、その覚悟をしていたが、8月末で登山者が少なく、それまで殆ど縦走路で人に会っていない。鎖場では皆経験豊富な人達で、5分と待たず私の番で簡単に通過した。 飛騨泣きと言われる悪場の、きつい急登も岩角に掴まりペンキの目印と鎖や針金に頼り、さほど疲労を感ずることなく、背筋が凍るような恐怖感も覚えず難なく通過し、やがて道がゆるやかになり足元に草が現れてくると、北穂小屋に到着である。流石に登山者もおり、賑やかで華やいだ笑いや話し声が聞こえてきた10時ちょうどに到着し、40分ほど昼食休憩を採る。知らないということは怖い物知らずというか気楽である。キレットを過ぎ飛騨泣きを登る時、右手飛騨側は目の眩むような垂直に切れ落ちた断崖絶壁であることは、当然目にしていたし滝谷ということも承知していた。

しかし、クライマーにとっては落石と高難度で知られる魔の滝谷であるとは、当時私の頭に認識はなく、後に知ったことである。私が時々踏み跡に迷い込んだのも、滝谷を登攀したクライマーが稜線に出て、下山路に踏み残した跡であったのであろう。昼食を終わりすぐ上の北穂高岳の頂上を踏み、涸沢岳へと向う。 南峰と北峰の2つのピークを巻き、稜線に出て飛騨側滝谷の怖いような上部をトラバースし、涸沢のコルから涸沢槍の鎖場を攀じる。この辺りはもろい箇所が多いが、落石に注意して進むとゆるい尾根となり涸沢岳に着く。岩屑だらけの頂上で広く長い。11時45分である。今日の宿泊は穂高岳山荘、目の下には赤い屋根の建物が見えあと20分の行程である。45分ゆっくりと休憩をとり前穂の吊尾根を目の前に、周囲の岩峰を眺めて時間調整し、12時45分には穂高岳山荘に着く。なんとしても夕食の仕度には早すぎる時間である。素泊りの予約を済ませ(500円)荷物を預けて、明日もう一度登る奥穂高山頂をピストンする事にする。奥穂高岳は南アルプスの北岳に2m足りず、日本第三位である。北岳に負けじと頂上にはコンクリートで固めた高いケルンが積んであった。

 翌朝は5時に山荘を出発、前日に頂上を踏んでいるのでルートはしっかり覚えており、天候も好く30分で山頂に着く。頂上には既に20〜30人の登山者が、登っていた。北アルプス最高峰であり、何処から登っても岩稜の険しい峰を越えて来なければ簡単に踏めない頂上であり、文字どおり前衛峰に囲まれて鎮座する主峰の奥穂高岳である。この頂上に立ったという喜びと興奮でか、先着の登山者はどの声も一オクターブ高く、うわずって聞こえる。その後も登山者はボツボツと何人か登って来てだんだん数は増えていく。私は暫く様子を見ていたが、誰一人どのパーティーもその先へ進もうとする者はいない。この先は私一人の単独行となる。 実は槍から西穂への縦走計画を立てる段階で、ガイドブックも二冊買い地図や資料を色々調べたが、最も危険で困難なコースは奥穂から西穂の間であり、特にジャンダルムと天狗のコルを通過可能か、今迄の私の経験と技量で通用するか、一抹の不安があった。同時にベテランが何人かは先に行くのではないか、後に着いて行けばと僅かな期待を持っていたのであるが、それらしき人は誰一人現れない。

そんな関係で私の頭の中は、奥穂高の先に神経が集中しており、北穂の前の大キレットも飛騨泣きも、単に稜線が大きく切れ落ちた切戸程度の感覚で、大した難所という認識は持たずに難なく通過してきたのである。 私には一つの開き直りの精神が存在していた。行き詰まったらそこから引き返せばいい。名誉の撤退で自分の力の限界であり、素直に其れを認めればいい。無理をして遭難する悲劇は避けなければならないと。天狗のコルには避難小屋も有り、そこから岳沢ヒュッテへのエスケープルートも頭の中に入れてある。反面「穂高歩きのエキスがここに集まっている」最良のコース、このルートに引き下がれない魅力を感じていない筈はない。ただ今迄のコースと違うのは、ペンキの印は有るにしても危険な箇所に針金が張られている程度で、あとは自力で突破するしかない事である。

 ジャンダルムはドーム状で、潜水艦の艦橋の形に似て魅力的な形をしているが、岳沢側と岐阜側の谷へはほぼ垂直に切れ込んでいる。トラバースするルートも在るようであるが、折角なので頂上へ登る。稜線沿いにホールドもスタンスもしっかり確保でき、思ったより簡単に着いてしまった。頂上は以外に広く安心して休める場所であった。奥穂高から40分、ザックをおろし10分間の休憩をとる。下りは反対の西穂側へ降りるが、上部は手掛かりもあり難なく進めたのであるが、あと3m程で鞍部に着く所でハタと困ってしまった。基部はツルツルした岩で、スタンスもホールドも突起のような物は見当たらない。勿論左か右へトラバースすれば手掛かりは見えるのだが、どちらも切り立った谷である。下を見ると幸い細かい岩屑が堆積していて稜線も一定に広い事を確認し、ザックを先に落とし、意を決して両手両脚で岩を抱えるようにして3m程滑りおり、コルヘ軟着陸し事なきをえた。その後も慎重に進み50分で天狗のコルへ到着した。

 ここが思案のしどころであった。いきなり垂直の壁が立ちはだかっているではないか。遅い朝食を採りながら気を落ち着かせ、35分間ジックリと考えた。予め考えていた岳沢への避難路を下るか、目の前の垂直に近い壁を攀じ登るか二つに一つである。食事をしながら下から観察すると、手掛かりは十分に在る事が伺えた。他の人も今迄何百人いや何千人と登っているんだ、こう考えると気が楽になり、ここで逃げるわけにはいかない。三点支持を守って慎重に攀じ登っていくと、途中左手で掴んだ岩がグラリと動いた。一瞬身体が硬直したがよく見ると大きな岩であり、多少緩んでいても外れる心配は無い事を確認して登り続け、難所を突破した。私の記憶では、ジャンダルムの基部を滑り降りて軟着陸した事、天狗のコルからの岩場の途中で掴んだ大きな岩が動いた事、この2点しか頭に残っていない。間の岳を通り西穂高岳には9時30分に到着した。

 奥穂高からは一人の登山者とも出会わなかったが、西穂まで来ると俄然人の数は多くなる。私も安心感と難所を通過してきた充実感で、30分ほど休憩を採っている。独標を踏み西穂高山荘には、11時に到着してしまった。”しまった”というのは、計画ではここで宿泊の予定であったからである。11時ではなんとしても早い、玄文沢を下れば上高地まで二時間半、中尾峠経由でも私の脚では四時間は要しないであろう。山荘は素通りし、玄文沢を降りて上高地には12時40分に到着した。実は計画の段階では西穂山荘に泊まり、翌日は中尾峠に下りて焼岳に登り、文字通り槍から南の焼岳までを視野に入れ、穂高連峰を縦走する計画を立てていた。中尾峠から頂上までは一時間である。しかし、焼岳は1962年の噴火直後であり、火口からはまだ噴煙がたなびいており、登山禁止になっていたため、現地で判断することにしていた。勿論当時は百名山は頭に無かった時であるが、登れる状態であればこの次は”9、焼岳”という順番になっていたであろうが、樹木は焼けただれて燻っており、地肌は露出し禿げ山といった見すぼらしい姿であった。

奥穂高山荘
どっしりと 北の盟主は 奥穂高

    8/30
槍ヶ岳山荘(6:00)ー中岳(6:40)ー南岳(7:25ー7:35)ー大キレット鞍部(8:20)-
北穂高小屋(10:00ー10:40)ー涸沢岳(11:45ー12:30)ー穂高岳山荘(12:45ー13:00)
ー奥穂高岳(13:30ー14:00)ー山荘(14:25)
    8/31
穂高岳山荘(5:05)ー奥穂高岳(5:35)ージャンダルム(6:15ー6:25)ー天狗のコル
(7:15朝食7:50)ー間の岳(8:40)ー西穂高岳(9:30ー10:00)ー独標(10:35)ー
西穂高岳山荘(11:00)ー上高地(12:40)





9、 八  ヶ  岳 (2,899.2m)   1965・09・21


 北八ヶ岳は1961年秋に職場の仲間と縦走し、時間的に余裕が有ったので蓼科山へ登った事は前記した通りである。今度は反対側から八ヶ岳の魅力のひとつである山麓を散策しながら、北とは異なる鋭角的でアルペン風な南八ヶ岳へと脚を向けた。 例によって新宿発23時45分の最終列車に乗り、小淵沢駅には朝5時09分に着き5時49分の小海線に乗り換え、1時間26分要して7時15分に松原湖駅に降りたった。稲子温泉までバスもあるが、駅から松原湖を目指して歩いた。20分で湖に着いたがその先標高1500mの稲子湯温泉まで1時間45分のアプローチであった。温泉宿を通過した近くに鉱泉がトクトクと湧き出ており、水は無色透明ではあるが底に鉱泉のうす茶色の水垢が付着しており”飲めません”という注意書きがあった。試しに手ですくって口に含んでみたが硫黄の臭いが強く、とても飲めたものではなかった。単純二酸化炭素・硫黄冷鉱泉で、ペーハ値4.9の酸性であるから飲料水には全く向かない。稲子湯はこの泉質を沸かした鉱泉である。

稲子湯からはつづら折りの林道を歩き、やがて白駒林道へのコースを分けて、しばらく行くと水場にでる。ここから樹林帯の中の急な登りになるが、傾斜が緩くなったところでミドリ池が現れる。樹林に囲まれた池を一人で見るのも、神秘的で伝説めいた香りがただよう。湖面には前方に見える稲子岳の荒々しい岩壁を映して鏡のようである。ここにはしらびそ小屋があるが、登山客は見えなかった。すこし行くと中山峠と本沢温泉・夏沢峠への分岐にでる。夏沢峠をめざして針葉樹林の尾根を一つ越えると、稲子牧場から夏沢峠への道に出会う。硫黄岳の爆裂火口が目の前に口をあけている。本沢温泉でちょうど昼時、昼食休憩40分を採り、12時45分に峠へ向け出発した。

夏沢峠へは針葉樹林帯のジグザグの登りを行く。峠には山小屋が縦走路をはさんで、二軒並んで建っていた。この峠は昔から佐久と諏訪を結ぶ、生活道として重要な役割を果たしていたのであろう。小屋は峠の茶屋として、旅人や通行人にお茶を出し、ほっと一休みして下って行ったのであろう。そんな昔の面影を残す小屋であるが人影はなかった。硫黄岳へは樹林帯をぬけ、這い松帯の岩礫の道になって高度をあげてゆく。傾斜が緩くなり平坦な頂上に着く。いきなり荒廃した硫黄岳の山容に触れ、これから先のコースに一抹の不安を覚えた。恐る恐る火口壁をき込むと、ぞっくりと垂直に切れ落ちている。荒廃した頂上にもお花畑があり、植物の生命力の強さに一服の潤いを感じさせてくれる。山頂からは大きなケルンに導かれ、約10分ほどで硫黄岳石室のある大ダルミに着く。横岳に向うがアルペン的な岩山で、岩峰を巻くカニの横這いといわれる鎖場もあり、スリルが満喫できる。8月末に北アルプスの北穂高の大キレットの鎖場や、奥穂高からジャンダルムを越えて西穂高まで、独りで縦走した経験が大きな自信となり、岩峰に咲く高嶺の花も楽しんで見る余裕があった。

横岳は八ヶ岳随一の高山植物の宝庫であるという。慎重に難所を通過し横岳主峰奥の院にでる。奥の院からは、今迄の緊張感から開放され、しばらく小広い岩礫の尾根を降る。富士山も見え、これから登る赤岳が目の前に、天に突き上げるように整った豪快な姿で立ちはだかって見える。横岳から40分足らずで石室に着き、休まず頂上を目指し、20分で八ヶ岳の主峰赤岳頂上を15時57分に踏んだ。しばし、三六〇度の絶景を楽しむ。南アルプスや西に北アルプス、東には秩父の山並みが見渡せる。昔の神話に、赤岳が身の程知らずに富士山と丈比べをし、自分の方が高いと言い張ったそうであるが、その頂上からの富士山の眺めは素晴らしい。 赤岳頂上小屋で宿泊する。

 今日の行程は長い。キレットへ下り、権現岳を経て編笠山から小淵沢駅までの行程である。小屋を6時に出発し、もう一度赤岳頂上を踏み、キレットへと降る。標高差400m、高山帯から森林帯まで一気に下るが、単独行は速い、駆け降るようにして35分でキレットに着いてしまった。このコースは登山者には余り好まれないのか、誰一人会わない。ガイドブックには大キレットとあるので、北アルプスを想像し難所をどう通過するか不安もあったが、最低鞍部は開けた所であり、右手すぐ下にキレット小屋も見える。安心して5分間の小休止をし、権現岳に向う。

キレットからの縦走路は、しばらく樹林帯のなかの道を行くが、這い松の道になり旭岳に着くがそのまま通過、20分で権現岳の頂上を踏む。赤岳を振り返ると文字どおり赤く、荒々しく切れ込んだ壁に、朝から歩いてきた縦走路が細々と腸のようにくねって続いている。ここも休まず通過する。この先は、東ギボシ・西ギボシという岩のゴツゴツした歩きにくい岩稜があり、鎖場を通過して行く。針葉樹林を抜けると、大岩のゴロゴロした斜面を背景に、青少年修練宿舎が見えてくる。開けた明るい場所である。その後に編笠山への登山道が、一直線につづいている。

 編笠山の頂上も岩石のゴロゴロした開けた頂である。権現岳からの途中一度25分ほどの休憩を採っているが、8時50分に到着しており、赤岳から3時間足らずの行程であった。下りは最初岩のゴロゴロした急な道であるが、針葉樹林帯に入ると、編笠の緩い傾斜の下りとなり、眺めの良い坂道を走るように軽快に飛ばし、編笠から2時間半、小淵沢駅には11時20分に到着し、ちょうど来合わせた上り急行列車に飛び乗った。

より高く せずとも分かる 丈比べ 富士の秀峰 聳え立つなり
 
八ヶ岳頂上小屋

    1965/9/20
  松原湖駅(7:15朝食7:35)ー松原湖(7:55)ー稲子温泉(9:40ー9:50)
ーみどり池(11:00)ー沢温泉(12:05昼食12:45)ー夏沢峠(13:25)
ー硫黄岳(14:03ー14:20)ー横岳(15:00)ー赤岳石室(15:37)
ー赤岳頂上小屋(15:57)泊
        9/21
赤岳(6:00)-大キレット鞍部(6:35-6:40)-旭岳(7:15)-権現岳
(7:35)-小休(8:00-8:25)-編笠岳(8:50)-小淵沢駅(11:20)





10、 那  須  岳 (1917m)   1965・10・28


 上野発の東北線22時40分に乗車し、黒磯には早朝3時04分に到着した。10月末の黒磯の朝は寒い。始発バスが発車する7時15分迄は4時間以上の待ち時間がある。駅のベンチで仮眠し始発のバスに乗る。那須の道路は一直線で信号も少なく、早朝とあって35分で湯本に着いた。バスは更に大丸温泉まで運行しているが、那須高原を散策しながら登る当初の計画通り那須湯本で下車した。降りたのは私一人であった。

 神社を過ぎて賽の河原を行くと殺生石が在り、周辺から硫化水素を噴出していて硫黄の臭いがたちこめ、周囲は結晶で黄色い。そばに、芭蕉の句碑が刻まれていた。有毒ガスを長く吸うのも今後の体調に影響するので次に進み、おだん茶屋を過ぎたところで遅い朝食にする。那須高原を散策して、9時半前には大丸温泉に着いた。ここからは那須岳ロープウエイ山麓駅があり、これを利用すれば茶臼岳直下の山頂駅まで3分で簡単に行ける。山へ来て歩かなければ損なので、安易な途は避け鉱山事務所を通り峰の茶屋へ向った。稜線に出て右へ行くと、朝日岳から三本槍岳へと続く那須岳の主稜線である。稜線に出て15分ほど休憩し朝日岳へ向うが、那須岳は登山者を優しく迎え入れてくれる山で、緩やかなスロープの稜線は、1時間のコースを30分で朝日岳へと導いてくれる。山頂からは那須連峰はもとより、会津駒ケ岳や日光連山の展望が楽しめる。

 朝日岳への途中でちょっとした遊び心が芽生え、横道へ逸れた。那須岳は火山の噴火で形成された山である。火山灰や溶岩が凝固して露出しており、明るく開けた山容をしている。前方右手に溶岩が固まった切り立った岩場が目に入った。アルプスの岩場とは異なり、黒くゴツゴツしていて手掛かりも足場も確保しやすい。時間的にも予定より大分速く歩いているので心身の余裕も手伝い、稜線から下ってその岩場に取り付いた。20〜30mは快調にスイスイと登っていたが、「これで墜落したらどうなるだろう?」一瞬心の隅に不安がよぎった。単独登山であり他に登山者は一人も居ない。不思議なものでその瞬間急に全身が硬直し、岩場の途中で手足が止まってしまった。足場もシッカリしており危険な場所ではないが慎重に稜線まで登り、それ以後は安全な登山道を歩く事にした。

 朝日岳からは一旦肩に下り、右手に行ってピークを越すと木道が現れ清水平に出るが、ここは湿地帯の平坦な所である。這い松帯の切り開かれた道を行くと、緩やかな登りからやや急な勾配となり、三本槍岳頂上に達する。三本槍岳の由来は、太田原・白川・会津三藩の境界で槍が三本立っている訳ではない。那須岳で二番目に高い標高をもち、山頂からは会津の山から日光連山まで360度の展望が楽しめる。すぐ目の下には鏡沼の光った湖面が見下ろせる。 大峠へ下る尾根を5分ほど行くと沼への降り口があり、20分で湖畔に下りられる。大きくはないが、ネッシーでも棲んでいそうな神秘的な沼である。湖畔で小休止する。尾根に戻り三斗小屋への分岐点となる大峠に向って下る。

 大峠からコースタイムでは所要1時間半で三斗小屋温泉に着く予定である。今迄の経験則から私の脚ではそんなに要しない筈であるが、1時間半歩いてもそれらしき場所に着かない。そこで疑問を持ち記憶を辿ってみると、三斗小屋への分岐点となる標識を見たような記憶が蘇った。地図で確認するともっと下った所に、三斗小屋宿という紛らわしい名前の場所が有り、そこを目指して歩いている事に気づいた。三斗小屋までは同じで”宿”と”温泉”の違いでは、うっかり見落とすのも仕方なしと自己弁護し、元の道を引き返すとすぐに三斗小屋温泉への分岐点に戻り、少し入ると民宿のようなたたずまいの二軒の宿が有った。どちらにしようか迷ったが奥の宿へ投宿したが宿泊客は私一人、二階のだだっ広い畳敷きの部屋に通された。 温泉の湯量は豊富で、炭酸カルシューム鉄泉という泉質で無色透明無味無臭、なみなみと流れ出る湯量と檜の広い浴槽に、唯一人のびのびと全身を伸ばして”これ程の幸せはあるまい”と、山歩きで疲れた身体を癒した。翌日は宿の朝食を済ませ、8時前にゆっくりと宿を発った。隠居倉から朝日岳へ戻るコースを予定していたが峰の茶屋への巻き道がありそちらを選んだ。

このコースは起伏が少なく歩きやすく、峰の茶屋までハイキング気分で楽に歩ける近道でもある。峰の茶屋からは、昨日残しておいた茶臼岳への登りとなるが、石のガラガラした山肌の道を螺旋状に廻るように道筋がついている。茶臼岳の肩まではロープウェイで簡単に来られるが、此処まで来ると昨日までとは違い、何人かの観光客とも出会う。山頂近くは大きな岩のゴロゴロしたガレ場を歩くようになる。那須三山最高峰の頂上に着くと、直下の斜面から硫黄の臭いのする水蒸気を吹き上げているのが見える。下山路は一度歩いた所を下るのも芸が無いので、飯盛温泉跡を通る湯本へのコースを選び、時間調整しながらのんびり散策しながら歩き、那須高原の自然を満喫して湯本へ降りたった。

石の香や 夏草あかく 露あつし(芭蕉)

那須・朝日・三本槍岳
      10/28
那須湯本(7:50)ー殺生石(8:00)ーおだん茶屋(8:20)ー朝食(8:30ー9:00)
ー北温泉口(9:17)ー大丸温泉(9:27)ー鉱山事務所(9:50)ー峰の茶屋
(10:25ー10:400)ー朝日岳(11:10ー1:20)ー清水平(11:40)ー三本槍岳
(12:05昼食13:00)ー鏡沼分岐(13:05)ー鏡沼(13:25ー13:30)
ー分岐(14:00)ー大峠(14:42)ー三斗小屋温泉(16:00)泊
      10/29
三斗小屋(7:55)ー峰の茶屋(9:30)ー茶臼岳(10:00)ー飯盛温泉跡(11:05)
−昼食(11:30ー13:00)-那須湯本(13:55-14:00)-バス(14:35)黒磯駅(15:10)
 




11、 雲  取  山 (2,017m)   1966・06・05


 東京での最高峰、身近に二千メートルを超える山に登れるとあって、ポピュラーで人気のある山として知られる雲取山であるが、私が登ったのは以外に遅い。それには一つの理由がある。私の登山はいつも単独なので、安全を期して十分に準備を重ね、自信を付けてから大きな山に登るよう心掛けていた。当時の私の目は北アルプスに向いていた。我流であるため雪山やクライミングの技術は無く、冬は冬眠状態で春から始動、ハイキング程度から徐々に高い山へと進め、身体づくりをしていくのが例年の慣わしであった。今考えると勿体無い話で、毎年春になって一から身体作りをするという繰り返しで、継続性に欠けていた。雲取山登山は6月、夏の北アルプス登山に向けて、最後の身体づくりと訓練を兼ねてのものであった。 単独で2回登山しているが、最初は埼玉の三峰山からの縦走であった。熊谷駅から三峰口へ行き、三峰から大輪へバスで9時50分に到着している。バスから降り立ったのは登山者は私一人、参詣客も2〜3人であった。ロープウェイに乗れば山頂駅まで8分で着いてしまうが、私は登山に来たのであるから駅の左にある昔からの登山道を選び、1時間40分を要して三峰神社へ登った。神社の境内を一廻りし、鳥居をくぐって杉並木を進むと奥の院への分岐に着く。左の奥の院・妙法ヶ岳へは折れず、まっすぐ霧藻ヶ峰を目指した。

 炭焼き平を通過し途中で少し遅い昼食を採る。この尾根は平らな稜線でハイキング気分で楽な歩行であるが、少し急な勾配を登ると石地蔵が安置されている地蔵峠に至る。小峰の奥地蔵を越えて少し下り、急坂を登ると霧藻ヶ峰である。ここで15分ほど休憩する。ちょっと下ってお清平を通過し、尾根に沿って苔生す原生林帯の道を登る。六月初旬なので若葉が美しい季節である。コメツガ・シラビソの林が奥秩父の深閑とした様相を満喫させてくれる。道はこのコース中で最も苦しいと言われる前白岩山への登りである。山頂で10分の小休止を採る。 この頃より曇っていた空が泣き始め、ポツリポツリと降り出した。白岩山へのコースは尾根上の平坦な歩行であり途中白岩小屋を通過し、少しキツイ勾配を登ると頂上である。白岩山を過ぎて下るが、芋ノ木ドッケは避けて巻き道を選ぶ。この頃には雨は本降りとなり、強さを増してきていた。大ダワへは等高線に沿って平坦な道を15分で通過し、今宵の宿泊地である雲取ヒュッテへ16時半に駆け込み、ちょうど良い時間に到着し宿をとる。素泊り料450円也であった。

 昨夜の雨は止み、朝空は晴れていた。ヒュッテから雲取山頂までは原生林の中を縫って約200mの標高差、ジグザグな結構きつい登りを30分で到着、山頂は広々としている。50分の朝食休憩を採り、ゆっくり山頂からの展望を楽しむ。下りは石尾根を小雲取山に向う、開けた草原の尾根歩きは気持ちが良い。奥多摩小屋を過ぎるとブナ坂までは延焼を止める防火帯となり、尾根は広く開放的で富士山を中心に展望もよく、実に気持ちの良い山歩きである。ブナ坂から少し登ると七ツ石山であり、緩やかに下ると間もなく千本ツツジである。ここから尾根の南側を巻くようになり、高丸山・日陰名栗の峰を巻いて巳の戸の大クビレに下る。20分程登ると鷹ノ巣山である。此処で10時前ではあるが、展望を味わいながら早い昼食休憩をタップリ1時間とり、時間調整をする。六ツ石山へは1時間で降り、衣笠部落へは2時間のコースタイムを1時間20分で駆け降り、氷川駅(現奥多摩駅・昭和46年2月改称)まで30分、14時に到着した。

雲取山頂
東京で 唯一二千 雲取が
   

      6/4
三峰口=大輪(9:50ー10:00)ー三峰神社(11:40ー11:50)ー(12:35昼食13:15)
ー霧藻ヶ峰(13:45ー14:00)ー前白岩(14:55ー15:05)ー白岩山(15:40ー15:50)
ー雲取ヒュッテ(16:30)泊
       6/5
ヒュッテ(5:50)ー雲取山(6:20朝食7:10)ーブナ坂(7:45)ー七ツ石山
(8:05ー8:30)ー巳の戸の大クビレ(9:33) ー鷹の巣山(9:50昼食10:50)
ー六ツ石山(11:50ー12:10)ー絹笠(13:30)ー氷川駅(14:00)




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マウンティン


12、 薬  師  岳 (2,926m)   1966・07・30



折 立 平〜太 郎 平〜薬 師 岳〜太郎平小屋〜薬 師 沢〜雲ノ平散策〜祖 父 岳〜三俣山荘〜鷲 羽 岳〜岩苔乗越〜黒 岳〜野口五郎岳〜三 ッ 岳〜烏帽子小屋〜烏帽子岳〜濁 小 屋〜七 倉



  今回の山行きは、”雲上の楽園”雲ノ平を散策する事が最大の目的であるが、山に欲張りな私は薬師岳をピストンし、北アルプス裏銀座の一部を縦走する計画と合わせて臨んだ。 昭和40年4月1日発行の「北アルプス」ガイドブックには、(この本が出る頃には折立平までバスが通っているかもしれないが)と但し書きが付いていた。私が行ったのは昭和41年7月で、小見駅から折立平まで直通バスが走っていた。真川の上流折立平にバスが着いたのが7時40分、広々とした所でゆっくり朝食を採り8時30分に歩きはじめた。

いきなりクマザサの中の急なジグザグで、足元はじめじめし木の根も出ていて歩き難い道であった。樹林帯のなかで視界も利かず単調な歩きであるが、やがて三角点に出ると視界が開け、やっと薬師岳の姿を眺められる。 三角点を過ぎると樹林の向こうに草原が見えてくる。草原に抜け出ると明るく開けた道になり、あちこちに池塘が有りお花畑も広がっている。また森に入るがほどなく草原に出、花と池塘が広がっている。明るく開けた草原の一本道でハイキング気分で歩みは快適である。この辺りを太郎平と言うが、右手下には有峰湖が輝いており、左前方には薬師岳が厳と君臨している。裾野を広げて優しい女性的な形の整った山容をして登山者を魅了するかのように美しい。ますます草原は開け大草原の斜面となり、太郎平小屋に11時40分に到着した。小屋の周りはその名のとおり太郎平で、平原一帯が高山植物のお花畑である。

ここに立てば、明日行く予定の雲ノ平や黒部五郎岳そして笠ヶ岳などの山々などが見渡せる。宿は太郎平小屋と決めているが、今日のうちに薬師岳を往復しておくのが私の当初の計画である。 ゆっくり昼食を採って小屋に荷物を預け、雨具や水と食料などをナップザックに詰め、薬師岳へと向かう。ゆるい斜面を薬師峠へと下る。カラマツとニッコウキスゲが美しい高原のなかの道であり、ちんぐるまやハクサンフウロが咲き乱れるお花畑の散策気分である。

薬師峠からは石のゴツゴツした歩きにくい急な登りで、結構苦労するが登りつめた所が薬師平である。左に樹林帯の中を行くと、ほどなく小尾根に登ると広々とした所に出る。広い尾根上につけられたジグザグな道を登って行くと、頂上と東南稜を結ぶ尾根に出、その肩をからむように行くと薬師岳頂上である。14時10分小屋から1時間40分の行程であった。深田久弥は、「重量感のあるドッシリした山容は、北アルプス中随一、気品も備え」と表現している

山頂にはケルンがたくさん積んであり、小さな祠もあった。東の正面にどっしりと赤牛岳が、そのすぐ右に水晶岳が聳え裏銀座連峰が連なっている。北には立山、剱、右手には後立山連峰が並び、後ろを振り向くと南に笠ヶ岳と、遠く白山まで見渡せる大景観である。25分ほど展望を楽しみ、帰路は登った道を戻り1時間10分を要し、太郎平小屋には15時45分に帰着した。登山客は少なくゆったりした雰囲気で、明日に備えて十分な休息をとった。素泊料400円也であった。

薬師岳頂上
姿よし ドッシリ聳え 気品あり


    7/30
折立平(7:40朝食8:30)ー三角点(9:40ー10:00)ー太郎平小屋
(11:40昼食12:30)-薬師岳(14:10-14:35)-太郎平小屋(15:45)泊






13、 鷲  羽  岳 (2,924m)   1966・08・01


 太郎平小屋を5時15分に発ち、今日は雲ノ平散策が主な行程であり、特別キツイ上り下りはない地形である。アルプス一万尺(3000m)も最初の一日目で高度を稼がなければならないので、たいがい初日が最も体力を要するのが縦走登山の常である。二日目からは食料も軽くなり、雲上の散策が楽しめる。今日の行程は正にその典型的なコースである筈であった。薬師沢を越えカベッケガ原へ着いて30分の朝食休憩を採る。この時までは雲ってはいたが雨の心配も無く順調に進んで来た。だがだんだん雲行が怪しくなり、雲ノ平入り口のアラスカ庭園に着く頃には雨は本降りになっていた。

幸い風は弱く上かの強い降りであるが視界は全く利かない。計画では、中心部のギリシャ庭園を通りスイス庭園、そして祖父岳へ登り日本庭園を見て、三俣山荘へ下って宿泊の予定であった。しかしである、土砂降りの中で雲ノ平を散策していたが、一時間半ほどして気が付いてみると見覚えのある場所に立っていた。なんと其処は雲ノ平の入り口であり、アラスカ庭園の前だったのである。 今迄の登山は大体が天候にも恵まれ、道に迷った事は一度も無かった。一時間以上雲ノ平の中を徘徊していた事になる。視界の効かない山の怖しさを思い知らされた一時であった。それからは慎重になり、中心部のギリシャ庭園にある雲ノ平山荘に入って昼食を採り、ずぶ濡れになった下着など着替えし、雨の収まるのを待った。

登山者は私一人であった。実は私の今までの山行きでは、宿泊は別として小屋に寄って休憩や食事をしたことは殆んどなかった。是といった理由はないが、大自然の中で食事したり休憩するのが好きであったし、昔から寡黙な性格であり、小屋に入って他人に気を使うのが億劫で気恥ずかしさもあった。私にしては珍しく1時間20分という長い休憩の後小屋を発ち、最短のルートで祖父岳を巻き、三俣山荘へ向った。雲ノ平から三俣山荘へは急激にガクンと下ることになるが、その頃には雨も止んでいた。山荘には14時50分に到着、そこでも珍しい光景(?)を目にした。50歳に近い年配(?)の登山者が居た事である。今は当時と全く逆転していて中高年の登山者が圧倒的多数を占めているが、46年前の山は若者の世界であった。大学の山岳部やワンダーホーゲル部、高校や会社・社会人の山岳部は当然若者中心で、30代後半の人は私から見れば超ベテランに思え、それ以上年配の登山者は稀にしか見かけなかった時代であった。夕食を作りながら言葉を交わしたが、高校生の息子さんと二人で来たとの事である。三俣山荘素泊料550円であった。

 昨日の雨はすっかり晴れ上がり、天候は快晴である。5時20分に山荘を出発したが、これからは北アルプス裏銀座コースを辿る事になるが、シーズン中であるのに、山荘も混雑していなかったし、このコースへ向うのは私一人であった。山荘からは鷲羽岳までコースタイムで1時間30分、緩い傾斜の裾野を真っ直ぐに頂上目指して登る。二泊したので食料も減り、ザックのショルダーベルトが肩に食い込む事も無く軽い。ただ失敗したのは昨日の雨でズボンが濡れてしまい、そのまま朝履くのが冷たく気持ち悪いので、持参した短パンを履いて出かけた。3000mの稜線の風は素足には冷たい。途中濡れたズボンに履き替えようとも考えたが、そのうち暖かくなるだろうと我慢して歩きとおした。55分で鷲羽岳の頂上に着いた。

 頂上からの展望は素晴らしい。鷲羽岳の火口湖である鷲羽池が青く輝いて見える。その向こうに槍ヶ岳がすっくと聳えている。今迄は槍沢側からしか見ていないが、全くの反対側から眺めるのは初めてである。南には笠が岳が手じかに見え、その後に乗鞍岳や御嶽山が眺める。さらに右には黒部五郎岳のカール、平たい太郎平、薬師岳が並んでいる。ただ私の関心は槍ヶ岳の手前眼下に在る赤岳に向けられていた。槍の穂先からも見下ろした山であるが、鷲羽から改めて眺めると赤い岩山である。製鉄会社に勤めている職業柄、赤い岩は鉄分を多く含有しているからである。

 昨日は土砂降りの雨の中をさ迷い歩いた雲ノ平が、眼下に見下ろせる。今の登山は雲ノ平を散策することが主たる目的である。天候も心配ない。祖父岳を越えて稜線も繋がっている。雲ノ平を十分に散策堪能し、岩苔乗越へ戻り左にワリモ乗越へ出る。ワリモ岳の腹を巻く道はお花畑の中である。水晶小屋で昼食休憩をとる。

鷲羽岳
羨まし 父子で登る アルプスは

      7/31
太郎平小屋(5:15)ー薬師沢(5:45)ーカベッケガ原(7:00朝食7:30)
ー雲ノ平入口(9:00)ーギリシャ庭園・山荘(10:40昼食・着替12:00)
ースイス庭園ー祖父岳(13:10)ー日本庭園ー三俣山荘(14:50)泊
      8/1
三俣山荘(5:20)ー鷲羽岳(6:15ー6:25)ー祖父岳(7:35)ー
雲ノ平散策ー岩苔乗越(10:10)ー水晶小屋(11:15昼食12:10)
 




14、 黒  岳 (水 晶 岳) (2,978m) 1966・08・01


 水晶小屋で約1時間の昼食休憩を採り、荷物を置いて水晶岳に向う。水晶岳は北アルプスのほぼ中央に位置するが、裏銀座コースの稜線から分かれて往復することになる小屋の左手の道を登って行くとなだらかな高山植物のお花畑に出、この原を行くと水晶岳に向う。基部からは浮石の多い登りとなるが、水晶岳の左手をからんで行くと、左下が切り立ったスリルのある場所を通る。登りつめた頂上は南峰であり、三角点は北峰にある。小屋から25分で到着山頂は名前のとおり黒っぽい岩であり狭いが、登山者は私一人であり他に人影は無い。程散策してきた雲ノ平が眼下にひろがる。黒部川の源流から薬師沢出合にかけて、周りは深く切れ落ち、台地になっている。雲ノ平は正に”雲上の楽園”であり、別天地と言うに相応しいたたずまいである。

 黒部湖がはるかに見え、赤牛岳が行く手に大きく寝そべっているかに見える。20分で荷物の置いてある水晶小屋に戻り、野口五郎岳にむかう。真砂岳まではやせたガラガラ道を行くが、悪場の東沢乗越を通過し真砂岳を過ぎると道はよくなり、野口五郎岳に近づくと雲上の、のびのびした稜線の散歩気分で歩ける。谷を隔てた右手には、表銀座の大天井岳から燕岳までの長く平らな稜線が平行してつづく。水晶小屋から2時間余を要し頂上へ。野口五郎岳は花崗岩の白い砂と緑のハイマツに飾られていた。当時同名の新人歌手がデビューし、アイドルとして人気を博していた。同年代である。頂上で考えたのは、彼はこの山に登っているのだろうか?そんな事が一瞬脳裏をかすめた。余りテレビを観ない私であったが、後日司会者が私に代わって芸名の由来と、その山に登ったことが有るか質問していた。答えはノーであった。 三ツ岳は緩やかなアップダウンのピークを三つ越えてきたが、道中正面に烏帽子岳が文字通りきれいな烏帽子の形をして私を招いていた。明日は必ずあの山へ登ってから下山する事を心に決めた。烏帽子小屋に17時30分に着き宿泊する。素泊料500円也であった。

 翌朝も天候に恵まれていた。小屋に荷物を預け、烏帽子岳をピストンする。空身で単独行なので速い。登り35分下り25分、一人しか座れないような狭い三角錐の烏帽子の頂上で10分の休憩をいれて、ちょうど1時間で小屋に降りてきてしまった。急坂なブナ立尾根を濁小屋に降り、軌道敷を1時間半歩き、11時ちょうど七倉に到着した。約1時間近く待ち、バスで信濃大町に出る。不思議なのは、北アルプスの裏銀座と言われるコースを歩いたが、三俣山荘から七倉までの二日間、登山者とは2〜3人しか行き合わない、静かな山行きであった。

水晶岳頂上
雲上に 楽園浮かぶ 別世界 上から望む 極楽浄土
         

      8/1
三俣山荘(5:20)ー鷲羽岳(6:15ー6:25)ー祖父岳(7:35)ー雲ノ平散策・岩苔乗越
(10:10)ー水晶小屋(11:15昼食12:10)ー黒岳(12:35ー12:45)ー水晶小屋(13:05)
ー野口五郎岳<(15:10ー15:30)ー三ツ岳(16:40) ー烏帽子小屋(17:30)泊
      8/2
烏帽子小屋(5:50)ー烏帽子岳(6:15ー6:25)・烏帽子小屋(6:50ー7:00)
濁小屋(9:10ー9:25)ー七倉(11:00ー11:55)=信濃大町駅(12:50)=松本駅



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マウンテイン
15、 白  馬  岳 (2,933m)   1966・08・31


猿 倉〜白 馬 尻〜葱 平〜村営小屋〜白 馬 岳〜杓 子 岳〜白馬鑓岳〜天狗山荘〜天狗の頭〜不 帰 険〜唐 松 岳〜大 黒 岳〜白 岳〜五 竜 岳〜八峰キレット小屋〜鹿島槍ヶ岳〜冷池小屋〜爺 ヶ 岳〜種池小屋〜扇 沢



 信濃四ツ谷からバス30分で猿倉に着いた。8月末なのでバスの登山客は少ない。猿倉へ着いた時には重い曇り空であった。支度を整え出発したのは私だけであとは誰も来ない。猿倉には小屋が有るのでそこで食事休憩し、登山道の情報などきいているのかも知れない。白馬尻へ着いた頃には気にしていた空模様も回復して晴れ間が見えてきた。雪渓に入る手前で朝食を採り、登る準備をする。

 今回は白馬大雪渓を歩くという事で、職場の山岳部OBが雪渓用の軽アイゼンを貸してくれ、それを着けて初めて雪の上を歩く事になる。昔のアイゼンは鍛造したX状で、中心がかしめられ四本爪で登山靴にセッティングも簡単で靴にフィットするようになっており使用し易いものであった。最初は雪渓の勾配も緩く雪質も柔らかいので、アイゼンなど必要無いかに思えたが、後にその有りがたさが分かってくる。アイゼンを着けて軽快なリズムにのって調子よく登っていく。歩き始めは雪渓の幅も広く、前の踏み跡を辿ることになるが、暫く行くと左側に大きなクレパスを見つけた。氷河ならば氷の裂け目をクレパスと言うのであろうが、雪渓が1mほどの幅で切れ落ち、5〜6本そんな裂け目が並んでいる。

恐る恐る近づき覗いてみると、雪渓の厚さは5m位はあろうか、底は雪解け水が流れており自分が空洞の上を歩いている事をいやでも認識させられる。今迄山の窪みに残るかなり大きな雪渓の上で遊んだり、飲料水を確保したりした経験は有るが、流石は日本三大雪渓の一つと思い知らされる。この年は冷夏であったかどうか定かに記憶してはいないが、幸い天候は好いので、雪渓の全容は視界にあり迷う心配はない。雪渓のほぼ中間に当たる葱平の手前から、勾配もキツクなり雪質も硬くなって、アイゼンの本領発揮となる。1時間半で葱平に着く。ここは一面のお花畑でニッコウキスゲや高山植物が咲き乱れている。高山植物に疎い自分に苛立たしさを覚えるが、花や植物の名前に疎いので、知らないものは致し方ない。休憩はせず立ち止まってシャッターを押し、カメラに納めて前進する。

 小雪渓の登りは更に勾配がキツクなるが、鉄の爪に助けられ快調に進み雪渓も切れてお花畑に出る。何十種もの花が咲き乱れる自然の楽園である。白馬村営小屋には11時30分、山頂付近は緩やかな斜面で広々と開けた草原風な感じであった。12時ちょうどに山頂に着き、1時間の昼食休憩を採り、三六〇度の展望を楽しむ。西に名峰剱岳があり、立山、薬師、赤牛など、遠く槍、穂高、乗鞍の姿も見え、近くには杓子、白馬鑓、鹿島槍など後立山連峰の縦走路が望める。

 今度の計画は、3泊4日の行程であるから先は未だ長い、杓子岳へと向う。平坦な道は歩きやすく、心地よい風も頬をなぜて3000mの稜線歩きは気持ちが良い。登山道脇には多くの高山植物が花を咲かせていた。富山側は砂礫地でコマクサが可憐に咲いていた。杓子岳には50分、白馬鑓ヶ岳にも50分を要し、何れも頂上を踏んで天狗山荘には15時30分と、適度な時間に到着した。天狗山荘の斜め上には広い雪渓が残っており、暫く雪渓と戯れ飲料水と食事用の水を確保した。

この日も白馬尻から山荘まで誰一人登山者と会わなかった。天候にも恵まれ、開けた尾根上の歩行なので心細さや不安はなく、快適な単独行で山を独り占めしたような快感を味わう事ができた。 夕食の支度をしていると暫く遅れて、二人連れの若い女性が山荘に着いた。その日の宿泊客は私を含め三人だけであった。夕食後小屋の主人に話を聞くと、もう一週間ほどで小屋を閉め山を下りるという。当時は山は若者の世界であり、特に学生が多く夏休みが終わりに近づく8月下旬になると、潮が引くように登山者は激減するという。
私の山行きは、常に休日やシーズンを避けているので、静かな山旅ができたのである。二人の女性は翌日、鑓温泉を通り猿倉に下るとのことであった。私は、後立山連峰縦走の初日であり、あと3日歩くことになる。

   ”白馬小唄” (天狗山荘の壁に貼ってあったのを書き写してきました)

白馬岳
  1、男伊達かよあれあのように  2、鑓は星空杓子は月夜   3、お花畑のかんざしそえて
    虹を片手に雲を抱く         恋し白馬は雪明り       文を書こうか雪渓に
    見やれ白馬は            あすは逢いたや         誰にほれたと
    きりゝとしゃんと ョ          あの尾根越えて ョ      白馬に聞けば ョ
    空の青さを              山の娘の             姫と名のつく
    ナー ソレソレ             ナー ソレソレ           ナー ソレソレ
    わけて立つ                駒草に              あの川に

      8/31
猿倉(7:05ー7:15)ー白馬尻(8:05朝食8:30)ー荵平(11:00)ー村営小屋(11:30)ー白馬岳
(12:00昼食13:00)ー杓子岳(13:50)ー白馬鑓岳(14:40休15:00)ー天狗山荘(15:30)泊





16、 五  竜  岳 (2,814m)   1966・09・01


 天狗山荘を6時前に出発、コースタイムでみると今日の行程は10時間の強行軍であり、今回の最大の難所である不帰険を通過しなければならない。山荘から天狗の頭には15分で着いてしまう。これから標高差300mの天狗の大下りでザクの急斜面を降り、不帰険との最低鞍部に着き、これから一峰二峰三峰と不帰険に差し掛かり越えて行く事になる。実は不帰険の通過には一定の不安が無いわけではなかった。名前のとおり帰れない人となるかも知れない。しかし、奥穂高から西穂高の間、ジャンダルムや天狗のコルを一人で越えた経験が、今回の大きな自信になっている。確かに岩山で険しいが、ルートさえ踏み間違えなければ、要所にはペンキの印があり、危険な所には鎖や針金とアングルが設置して有り頼りになる。緊張して攀じ登っているうちに、難なく通過してしまった。

 唐松岳の頂上からは、八方池が光って見える。八方尾根がスキーのメッカであることは承知しているが、スキーをやらない私には、あそこがかの有名なスキー場かと上から眺める唐松岳から10分ほど下った稜線の黒部側に唐松岳頂上山荘が有るが通過し、大黒岳までは岩場・鎖場が続くが気をつけて下り、頂上は踏まず巻き道を通って通過、白岳との最低鞍部に着いた。白岳で10時半、朝が早かったので少し早い昼食にする。昼食休憩1時間で五竜岳に向う。五竜山荘めがけて下り、後立山連峰中最も大きな登りである、五竜岳への登りは頂上へ近づくにつれザラザラした感じが強くなる。五竜岳の頂上は稜線から西に少し離れ、三角点がある。

頂上からは西に剱岳の勇姿がどっしりと鎮座しているのには圧倒された。五竜岳に12時15分、あと3時間で今日の宿泊地八峰キレット小屋である。小屋への下りは急なジグザグで、岩峰には針金が取り付けられているが、下りきった鞍部はせまくやせているが、たいしたアップダウンはなく、キレット小屋にはちょうど2時間、14時15分に到着した。
八峰キレット小屋は狭い岩の稜線ギリギリに、張り付くように建てられており、小屋の軒下スレスに登山道が通っていて、こじんまりと建てられている。すぐ先はキレットでガクンと切れ落ちていた。既に先客が7〜8人いて、のんびりとダベリングしていた。

 その晩は中々寝付かれず、何回か起きて用足しに出た。トイレは別に建てられており一旦外に出て用をたさなければならないが、その日は何故か喉の渇きをおぼえ、その度に外に貯めてある水を、1口か2口掌ですくって飲んだ。小屋が建てられているのは崖の上で、勿論水場はない。水を確保出来るのは天水だけである。小屋の屋根に降った雨水をドラム缶に貯め、火を通して使用している。缶は3つ程有り満タンであったが、約600リットルのこの水だけが小屋の命綱である。

その夜は夜半から雨になり、かなりの勢いで降ったことは、トタン屋根を打つ雨足の音で分かった。これで小屋の水も当分心配ないだろうと思いながら、いつの間にか深い眠りについた。翌朝トイレに行き、例の貯水用のドラム缶を見てギョッとした。夜陰で暗く分からなかったとは言え、水面には大きな蛆虫が沢山浮いているではないか。動いてはいなかったが。

キレット小屋
蛆うかぶ 知らぬが仏 天水を 夜陰にまぎれ 美味しく飲みて

                9/1
天狗山荘(5:55)ー天狗の頭(6:10)ー不帰険(7:20)ー唐松岳(8:40)ー大黒岳
ー白岳(10;30昼食11:30)ー 五竜岳(12:15)ー八峰キレット小屋(14:15)泊






17、 鹿 島 槍 ヶ 岳 (2,890m) 1966・09・02


 朝食を済ませ天気の様子を見ていたが、 昨夜来の雨は一向に止みそうもなく、小屋のトタン屋根を打つ雨脚は勢いを増しているかに思える。それに、昨夜同宿した7〜8人の登山者にはなんの動きもなく、誰一人出発する気配はない。この雨では今日は小屋に停滞を決め込むつもりか、無理して雨の中を歩く事もなかろう。そんなのんきな小屋の中の雰囲気を感じた。 従って私の出発も天候の様子を伺いながら、荒れ模様の中の登山を覚悟し、いつもより1時間近く遅れた。小屋を出ると間もなく難所のキレットである。昨日早く着いたので、上まで来て偵察はしておいたが、今日は土砂降りの雨の中であり、条件は全く違う。針金に掴まりながら足元に気を付け下りるが、最後は鉄梯子でやっとキレットの最低鞍部に着く。狭くて暗く一人では心細くなるいやな所である。針金を利用してトラバースすると鹿島槍ケ岳への登りになる。キレットは無事通過したがその後がまた大変な苦行を強いられる事になる。鹿島槍へのハイマツと岩の急斜面を稜線に向って登っていくが、物凄い風雨が上昇気流で下から吹き上げてくる。

 当時はまだ雨に対する研究は未熟で、頭からスッポリ被るポンチョが主流であり、セパレーッの合羽はベテランや金持ちしか持てなかった時代であった。ポンチョは低山で上から降る雨には便利であるし、通風もよく蒸れない利点は有るが、下から吹き上げる風雨と下半身のカバーが出来ない弱点があった。樹林帯の中であれば風力も弱まるが、鹿島槍の斜面は背丈の低いハイマツ帯であり、下から吹き上げる暴風雨をもろに受ける事になる。ハイマツ帯であるから強風に飛ばされる危険はないが、ミニロープでポンチョの裾を結び必死で稜線目指して登った。
 不思議なものでこうした事態になると、暴風雨に意識が集中し急な登りも苦にならず、鹿島槍ケ岳の頂上へ着いた。稜線の反対側は別の世界が待っていた。一歩稜線を跨ぐと風も雨も弱く静かで、山の気象の一面を知らされた。

風を避けながら北峰から南峰を踏むが、雨とガスで全く視界はない。そこで反対側から登ってきた若い男女と行き交う。キレット小屋を出てから扇沢へ降りるまで登山者とは、この男女としか会わなかった。 冷池へは山頂を右に直角に曲がり、登山道をしっかり確かめて進む。雨は少し小降りになり、風も稜線の陰になり先程とはうって変わって静かにはなっていたが、ガスで視界は効かない。布引岳は気が付かないうちに通過してしまい、樹林帯にはいり岩稜帯から開放された安心感にしたる。冷池小屋には一時間足らずで到着、初めての小休止を採る。小屋を出て少し下り、ガレ場のわきを通り、爺ヶ岳へはガレた斜面の登りとなり、少し登ったところが冷乗越となるが、ハイ松の間をダラダラと登り頂上に着く。この頃には雨も止み、爺ヶ岳頂上で三脚を立て濃霧の中で記念写真を撮影する。

 ここで20分ほど休憩し、今後の方針を考える。当初の予定では、白馬岳から針ノ木岳まで後立山連峰を縦走し、針ノ木岳から黒部湖を真下に見下ろす計画であった。針ノ木の大雪渓を下っておきたかった。このまま進んで今晩は針ノ木小屋泊のつもりであるが、濃霧で視界は全く効かないし明日晴れる保障はない。日程的な余裕も食料も十分残ってはいるが、種池山荘から扇沢へ下ることに変更した。扇沢へは12時30分に下山したが、9月になってバスの時刻表も変わっており、本数も極端に少なく、1時間半待って信濃大町行きのバスに乗車する事が出来た。

鹿島槍バッチ
登山帽 並ぶバッチに 鹿島槍

       9/2
キレット小屋(6:45)ー鹿島槍ケ岳(8:00)ー冷池小屋(8:55ー9:10)ー爺ヶ岳
(10:10-10:30)ー種池小屋(10:40)ー扇沢(12:30-14:00)=信濃大町駅(14:35)






18、燧  ケ  岳 (2,346m)  1967・06・08、


 今回の計画は旅行と登山を兼ね、日光の神橋から東照宮や二荒山神社を見学し、イロハ坂をバスで登って華厳の滝を見、中禅寺湖を船で渡り竜頭の滝から戦場が原を横切るハイキングで湯滝を通り、湯ノ湖を廻って湯元キャンプ場のバンガローで一泊した。現在は取り壊されて存在はないが、当時は現在のキャンプ場の一角に古いバンガローが建ち並んでいた。バンガローへ泊まったのは私一人であった。(使用料 250円)
 翌日は湯元から金精峠へ歩いて登った。6月初めなので既に雪は融け金精有料道路は開通していたが、登山道はくねった車道を串刺しするように付けられ、時々道路を横切って登るようになっていた。峠の頂上からすぐ近くに見える金精山へは、荷物を置いてピストンし菅沼を目ざして下り、丸沼から丸沼温泉を通り、四郎峠を越えて大薙沢出合から大清水登山口へ抜けた。大清水から尾瀬沼へのコースは三平峠を越えて長蔵小屋へ到着した。日光湯元のバンガローを六時に出発し、距離にして約30qの道のりを平坦とは言え、初夏の直射日光をまともに浴び、休憩を入れても11時間20分かけ、17時20分に長蔵小屋へ到着した時には、大分疲労を感じた。暫くは食欲もなく、夕食の支度をする気力も失せていたが、そこは若さで30分も休んでいると疲労も回復してきた。長蔵小屋に宿泊、素泊料800円であった。

 前置きが長くなってしまったが、この時期に尾瀬へ来た目的の一つは水芭蕉の花を観る事である。雪融け時であるこの時期を逃してしまうと水芭蕉の花は見られず、大きく開いた葉だけになってしまうことを、ガイドブックで調べて知ったが、まさに最盛期、見頃であった。長蔵小屋を6時05分に出発すると、すぐ目の前は浅湖湿原でアヤメの大群落地であり、高山植物が咲き乱れていた。その中の木道を進むが、私は尾瀬沼湖畔の道から離れ、燧岳目ざして燧(長英)新道へ右に分かれて登って行く。何時ものように前にも後からも着いて来る人は居ない。燧岳へも単独行である。 暫くは原生林のなか平らな道で、展望は全くない。登りらしき所に差し掛かるとようやく展望が開けてくる。雪はまだ1m以上の厚さで残っていた。傾斜も急ではなく、雪質もやわらかくアイゼンを付けなくとも滑ることなく、登山靴の底で十分確保できた。

喉が渇くと時々きれいな雪を口に含み、喉を潤した。左下には尾瀬沼が見下ろせ、その前方に至仏山がずんぐりした丸い形で眺められる。雪の上の散歩を楽しみながら頂上を目指して歩いていると、時々ピシッという音が聞こえてきた。最初は野うさぎでも居るのかと思いながら、余り気にかけず歩いていたが、日差しが強くなるに従って間隔が短くなってきた。私の近くでも木の枝が跳ね上がり、ピシッと鋭い音がして一瞬ビックリすると共に、音の原因も判った。雪の重圧に押し潰されていた木の枝や細い若木の幹が、初夏の日差しで雪が融け、自らの弾力性で元の姿勢に戻り直立する時の音であった。 そうこうする内に頂上近くなり、急な下りになりなり雪質も硬く滑りやすくなった。燧ケ岳の頂上は双耳峰であり、爼ーと柴安ーに分かれているが、爼ーの三角点を踏んで下りる事にした。柴安ーの方が14m高いがそこまでは、お椀の底のように一旦急下降しふたたび急な登りになっており、アイスバーン状で軽アイゼンが必要である。

 下りはナデックボ沢を沼尻へのコースをとり降ったが、雪の急な傾斜で最初は一歩下りると2〜3mは滑る、途中からグリセードならぬ尻セードで滑り降り、頂上から45分で沼尻に着いてしまった。コースタイムを記録しようと、時計を見ると腕時計が無いではないか。一瞬ドキリとした。尻セードの途中で紛失したらしい。雪の中を戻って捜すのも徒労に終わることはハッキリしている。諦めて近くの人に時間を尋ね、要所では他人の時計を覗いて時間を確認し記録した。この時の経験を教訓にし、以後山へ行く時は予備の時計を持ち、必ず二つ持参することにしている。

老若が 手軽に行ける 仙郷へ 尾瀬の河原は 草花に満ち

尾瀬・水芭蕉
     6/6
大尻(12:25-13:00)ー菖蒲ヶ浦(13:25)ー竜頭の滝(13:35-13:40)ー小田代分岐
(15:05)ー小田代原(15:20-15:45)ー小田代分岐(16:00)ー泉門池(16:05)ー小滝
(16:20)ー湯滝(16:30)ー湯の湖(16:40)ー湯元キャンプ場(17:00)
     6/7
日光湯元(6:00)ー金精峠(7:20-8:00)ー金精山往復ー菅沼(8:30)ー丸沼(9:45)
ー丸沼温泉(10:00)ー(10:35昼食11:25)ー四郎峠(!!:50-12:00)ー大薙沢出合
(12:40)ー大清水小屋(13:55-14:15)ー三平峠(16:30)
ー長蔵小屋()17:20(泊)
     6/8
長蔵小屋(6:05)ー燧ケ岳新道口(6:35)ー燧ケ岳頂上(9:30ー9:50)ー沼尻
(10:35ー10:45)ー尾瀬ヶ原口(12:00)





19、 至  仏  山 (2,228m)  1967・06・08


  燧ヶ岳下山中に腕時計を紛失してしまったが、当時流行していたのは自動巻き時計で、以前の時計と比較すると厚く重みがあり、大きく少しゴツイ感じであった。同じゼンマイであるが以前のようにビーズでゼンマイを巻かなくとも、腕を振る振動をキャッチしてゼンマイが巻かれるため、自動巻きと名づけられたが、休日など腕から外しておくと振動が加わらず、止まってしまうという欠点があり、ビーズで巻くより時間の精度はラフであった。一時流行したが主流はやはりゼンマイを巻くものであったが、お金持ちが買えるスイス製の高価な物ならいざ知らす、当時私たちが購入できた1〜2万円程度の時計の精度は現在と比較にならない。一日に1分以内の狂い(進んだり遅れたり)なら上等な方で、3〜4分狂ってもそれ程気にしないし、調整してもらうには買った時計屋へ持って行かなければならず、面倒でついそのまま使って済ませていた、のんびりした良き時代であったとも言える。今のように百均のクオーツでも、殆ど狂わない時代とは違っていた。
 
 沼尻からは燧ケ岳の裾を尾瀬ヶ原へと向うが、木の根が露出した平坦な道を行くが、樹林の切れた所が尾瀬ヶ原の入り口、見晴十字路である。ここからが尾瀬ケ原で、中心を2本の木道が山の鼻迄続いており、両側に池塘やお花畑の散策路である。山の鼻へは13時20分に到着してしまった。今日の予定は山の鼻小屋泊のつもりであった。1時間かけてゆっくり昼食を採ったが、2時半前である。コースタイムでは至仏山頂まで2時間、私の脚では往復3時間は要しないであろう。天気も好いし、体力も気力も十分に余裕のある事を確認して、今日のうちに至仏山頂を往復することに決め、大きな荷物は小屋に預けて出掛けた。山の鼻キャンプ場から湿原を抜け、木道の登山道を登る。木道から窪んだ道に変わってこれが樹林帯の登りになり森林限界までしばらくつづく。一直線に登ってきた道が樹林帯を出る頃は、残雪がまだ1m程の厚さで残っていた。森林限界をすぎると尾根と言うよりは広い雪の稜線の坂道を登ってゆく。後を振るかえると、尾瀬ヶ原が眼下に広がり、池塘が光る尾瀬ヶ原の向こうに燧ケ岳の三つのピークが聳えている。

 頂上と見間違える高天ヶ原に間もなく着くが雪の原で、日本のエーデルワイスと呼ばれる高山植物の群生するお花畑はまだ雪の下で、残念ながらその美しい姿を見せてはくれなかった。頂上へは1時間30分で到着した。尾瀬ヶ原から見る至仏山は、燧ケ岳とは対照的になだらかで女性的な姿をしているが、奥利根の水源地帯となる反対側は以外や深く切れ落ちて男性的な様相に変わる。展望はよく北に平らな山頂の平ヶ岳と越後の山々が広がる。

 下りは残雪の上をバランスをとりながら滑り降りるが、時々調子に乗りすぎて稜線から逸れるのを注意しながら登山道近くへ軌道修正しながら下り、30分で山の鼻小屋へ着いてしまった。素泊り料800円で一番風呂に入れてもらい、汗を流してサッパリ出来たのはうれしかった。

 翌日は鳩待峠からバスで下山の予定であったが、平坦な道で余りにも早く着きすぎたので、鳩待通りへ折れ、横田代からアヤメ平を通り富士見平を経て富士見下へと下った。途中横田代やアヤメ平では、高山植物が無残に踏み荒らされ、他所から移植して再生の努力がされていたが、戻るのには数十年の歳月を要するであろうが、現在どうなっているか気になるところである。

尾瀬の西 鎮座まします 至仏山 円い山形 優しく見えし
至仏山

      6/8
沼尻(10:45)ー見晴十字路(12:00)ー山の鼻小屋(13:20食14:20)
ー至仏山(15:50ー16:00)ー山の鼻小屋(16:30)泊
      6/9
小屋(6:30)ー鳩待峠(7:30ー7:40)ー横田代(8:50)ーアヤメ平
(9:15ー9:20)ー富士見平(9:35)ー富士見下(10:50)




20、 霧 ヶ 峰 ・ 車 山(1,925m)1968・07・27


 この頃、私は”蕗の会”というサークルを主宰していた。首都圏に出てきた団塊の世代の青年を中心に組織し、多い時には50名くらいの青年男女が集まり、月一回の例会を開いて色々な行事を行い、主に交流と親睦を深める目的で活動を行っていた。中身は文化部とレジャー2部門に分かれ、行事を行った後感想文を書き文集を作るのが主な内容であった。

子供の国や平山城址公園そして真鶴岬等へピクニックに行き、そこでゲームやフォークダンスを楽しんで交流し親睦を深めるといった健全なサークルであった。フォークダンスやボーリング大会は若者に人気があった。私が川崎に住んでいた関係上、会場の設定や準備等の関係で川崎を中心に集まり活動していたが、横浜から東京まで職業もそれぞれ多様で、若い男女半々くらいの比率であった。当時は大新聞も紙面の一部を割き、週に一度会員募集の宣伝文を囲みで無料で掲載してくれ、他のサークルと併せ蕗の会の会員募集も数回紹介された関係で、会員も首都圏から広範囲に集まっていた。 夜行で三ツ峠へ登った時は帰りに雨に降られてしまったが、だんだんエスカレートして白樺湖へ1泊2日でキャンプし、霧が峰から車山へ登山する話へと発展していった。この行事には23名が参加し賑やかであった。1日目は白樺湖畔のバンガローへ到着し、荷物を置いて白樺湖畔で朝食を済ませ、いよいよ霧が峰から車山への登山と言う事で出発した。しばらくは湖を眺めながら舗装道路を歩き、それぞれに冗談を言い合ったり、気の合う者同士で語り合いながら、緩やかな登りの霧が峰への道を進んで行った。

この年1968年10月は、第19回オリンピックがメキシコで開催される年であった。白樺湖周辺は平坦な高地で、標高もメキシコと同程度である為か、高地に適応する練習ということでブームになり、マラソンの選手が盛んに走ってトレーニングしているのが目に付いた。霧が峰の外輪山を越すと中は一面のお花畑である。その素晴らしさに一瞬皆オーという感嘆の声をあげたが、特にニッコウキスゲが群生しその花が咲き誇っているのが目についた。車山への登りはお花畑の中の登山道を歩いて登った。それほどキツイ登りではなく、全員無事に頂上へ着いた。頂上では標識をバックに全員で記念撮影し、女性達が作ってくれたサンドイッチを食べて昼食を採っていると、ゆっくり休憩しながら展望を楽しんでいる間もなく、急に濃霧がでて視界を閉ざされてしまった。その時誰かが「天然のクーラーだ!」と思わず叫んだのが聞こえた。44年前の当時”霧が峰”という家庭用クーラーが売り出されていたか、その後発売されたかの前後関係は定かではないが、高山で急にガス(濃霧)が流れて肌に触れるあの爽快な気分は、正に天然のクーラーと言えるもので、言いえて妙であった。

 下りは全員がリフトで無事下山し、バンガローに戻り一旦休息を採り、予め分担していた通りチームワークよく、夕食の準備やキヤンプファイヤーの準備を手際よく進めた。
夕食を済ませ、キャンプファイヤーを囲んで唄ったり、フオークダンスを踊ったりして時間の経つのも忘れて皆楽しい一時を過ごした。翌日の午前中は自由時間とし、白樺湖でボート遊びをしたりバレーボールを楽しんだりして、皆数々の想い出と名残惜しさを胸に霧が峰高原を後に、バスで茅野駅へと帰途に着いた。

 例によって、この感想文は次の何回かの例会で文化部が中心になって編纂され、”ふきの旅”(白樺湖合宿の回想)という、立派な文集としてまとめられ完成した。当時はまだガリ版刷りで大変な労力を要して作製され、若き日の想い出の記念として現在でも大切に保存してある。

霧ヶ峰・車山
若人の 人気スポット 霧ヶ峰

     7/27
白樺湖バンガロー(10:00)ー車山北肩乗越(11:30)ー車山頂上
(12:00-12:30)ーリフト下(12:05)ーバンガロー(13:00)






21、 大 菩 薩 嶺 (2,057m)  1970・06・29


 私の山行きは欲張りである。折角行くのであるから出来るだけ多く歩けるコースを選ぶ、それが若く体力の有った頃の私の方針であったし現在も引き継がれ変わっていない。当時も余り歩かれていないようであったが、反対側の丹波へ下りるコースを採っている。私にはこの山へ登る二つの目的があった。一つは、夏に高い山へ登る体力づくりの訓練と足慣らしであり、長く歩くコースを選んでいる。もう一つは、前年の1969年11月5日に、凶器準備集合罪で53名全員逮捕という、赤軍派・大菩薩峠事件があった。山好きな私には到底想像出来ない、山岳地帯を舞台にしたショッキングな大事件であっただけに、その現場がどんな場所なのか自分の目で確かめておきたかったのである。

 新宿から夜行で塩山まで行くと早朝3時前には着いてしまう。駅で仮眠して始発のバスに間に合うように朝食を採り準備をする。バスの終点裂石には7時前に着き、降りると同時に歩き始める。裂石からは林道伝いに歩き、丸川峠分岐ミゾ沢を通り旧道入り口には15分ほどで着いた。ここからは林道を横切ったりして着けられた旧道に沿って登って行く。福ちゃん荘には9時前に着いたが休まず通過する。この日も他に登山者は無く私一人、文字通りの単独行であった。林道からは開放され、草原の斜面に付けられた登山道を登るが、この日は虫の大群にまとわりつかれ大変な難儀を強いられる事になる。何百匹か何千匹かは知らないが羽虫の群れが私の頭上を飛び交い、追い払っても効果は無く、時々顔にぶつかってきたり、うっかりすると口の中にまで飛び込んでくるので、タオルをマスク代わりにして虫を避けるのに大変であった。私が一人歩く頭上を何処までもまつわり着いて離れない。勿論殺虫剤など持ち合わせていないから、ただ手や帽子で追い払う以外術はないので何の効果も無い。天候は晴れて恵まれていたが、南西の緩やかな草原状の斜面は風も無く、太陽の光線に暖め蒸され、草いきれのするあの嫌なムッとする笹原の登山道をただ羽虫を避けながら前進する。高山の稜線ならば風もあり虫も飛ばされるだろうし、高くなるにつれて気温も下がるので虫も自然と遠ざかる筈であるが、蒸し暑く中々虫との戦いから逃れられない。羽虫にとっても一人で登ってきた私は、退屈しのぎに危害を加えない安全な良き遊び相手であったのかも知れない。

 同時にこのクマザサの斜面で、赤軍派のどんな「軍事訓練」が行われたのか、想像もつかない想像をしながら、変な事で山を汚してもらいたくないものだと思いながら、頂上を目指して登る。30分以上も虫の大群に付きまとわれ、悪戦苦闘を強いられたが大菩薩嶺の頂上近くになってどうにか、羽虫の追跡から放されホッとした。
大菩薩嶺は樹林帯の中にあり、残念ながら展望はきかない。20分ほど小休止をし、頂上を後にして大菩薩峠へと向う。峠までの道は稜線上の開けたコースで、富士山を右手に眺めながらの緩やかな天空遊歩の見晴らしが良い尾根道である。展望を楽しみながらゆっくり下りると25分で大菩薩峠に着く。中里介山不朽の名作の舞台となった峠であるが、ここでも10分の小休止で先へと進む。

 ここからは、私の記録ではコースタイムだけしか残されていない。フルコンバ小屋からノーメダワを通り、開けた伐採地にちょうど12時に着いたので、ここで昼食を採っている。下山するバス停までのタイムを計算して、時間調整のため1時間10分休憩し昼寝もしている。追分から藤ダワを通過し丹波のバス停に15時前に到着下山した。大菩薩峠からのコースや地形の記録は残っていないが、記憶の範囲では緩やかな下りの連続で危険な箇所はなかったと思える。丹波のバス停では、バスに乗るまで1時間40分の待ち時間があり、氷川駅へと向ったが途中バス旅行で来た事のある小河内ダム(奥多摩湖)をバスの窓から眺め、のんびりと帰路についた。

 この山行きには、国土地理院発行の五万分の一白地図で、丹波と昇仙峡の二枚を準備している。前記したように、昔のガイドブックには山の頂上尾根や概念図は記載されているが、コース全体を調べるには白地図を何枚か繋ぎ合わせて見るしか方法はなかった。国土地理院発行の地図も数十枚溜まって、後の参考にと大切に保管しておいたつもりであるが、何回か引越しするうちに紛失してしまったのか、現在どこを捜しても見当たらなくなってしまい残念である。この書を記すに当たって、改めて捜してみたが見つからず大変な苦労を強いられるはめになったが、貴重な資料を失ったのを残念に思う。

大菩薩峠
いにしより 甲武をつなぐ 峠なり

     6/29
裂石(6:55ー6:58)ー丸川峠分岐ミゾ沢(7:07)ー旧道入口(7:14)ー
上日川峠(8:10食8:40)ー福ちゃん荘(8:55)ー大菩薩嶺(9:37ー9:55)
ー大菩薩峠(10:20ー10:30)ーフルコンバ小屋ー10:55ー11:05)ー
ノーメダワ(11:47ー代採地(12:00食・昼寝13:10)ー追分(13:27)
ー藤ダワ(14:07)ー丹波バス停(14:45)=氷川駅




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マウンティン
22、 甲 斐 駒 ケ 岳 (2,966m)  1970・08・08


 北アルプスの全山を登り尽くしたわけではないが、なんとなく昨年あたりから南アルプスに目が向くようになっていた。北アルプスの山頂や稜線を歩きながら望める山容に、未だ登りたい山が沢山あり未練は残っていたが、余りにも開けてしまったところがなんとなく魅力が薄れてしまった原因なのかも知れない。それに比較してまだ未開拓なところが残り、山深い南アルプスに心惹かれるたも自然の推移であったのであろう。南アルプスも山に変わりはないのであるが、私には未知の山である為、登るまで期待と不安の入り混じった心境で、想像の山として何度も夢に出てきた事を記憶している。冬から春にかけて登りたくても、私の技術では雪山は無理で有る事を自覚しているので、それだけ早く南アルプスに行きたい登りたいという意識から、その山容が夢にまで出てきたのであろう。南アルプスといっても最初はやはり、自然と手近かな山を選んで登ることになる。北アルプスに通った帰り、中央線の車窓から聳えて見える甲斐駒ケ岳に登る事にした。勿論これからも従来どおり独り登山となる。

 甲斐駒ケ岳は信仰の山として名高い、山梨県側からは駒ケ岳神社があり登山口となる黒戸尾根から登るのが、正規でありポピュラーなコースであろう。私は次の山行きの事も考え伊那谷側から戸台川を遡る、逆コースを選んで登ることにした。伊那北駅からバスで高遠湖・美和湖を通り、戸台川に沿って行くと約1時間で戸台に着く。身支度を整えすぐに出発する。小さな峠を越えて河原へ下りる。道は赤河原まで戸台川の左岸に付いているが、水流で洗われて削られた平坦な岩だたみのような川床を暫く歩く。水量が少ないので、河川敷と言うよりは川床と言ったほうが適切な表現である。右岸は、上流に歩くと左側になるが、鋸岳からの裾が削られ垂直の岩壁になり、オーバーハングしている所もある。水量が多いと安全な脇道を通るようであるが、幸い左側の垂直に切れ込んだ峰を眺めながら河原歩きを楽しんで進む。

 初めての南アルプスとあって少し厚着をしたのか、1時間ほど歩いて暑くなり着替えをし、小休止する。尚も河原を辿り林の中を通り、戸台川左岸沿いの道を進むとこれから目指す甲斐駒が正面に近づいて、河原は二つに分かれる。合流点の上で丸木橋を渡ると、赤河原丹渓山荘へはすぐに到着する。甲斐駒への登山道はここで二分するが、北沢峠へは行かず左の赤河原へと方向をとり、七丈の滝から七丈の滝尾根へと向う。山荘のすぐ下から河原に沿って道がついているが、林を抜けて深くえぐられた川を渡ると高巻きの道になる。この道は信仰のための古くから開けた登山路であるが、今でもあちこちに石碑や仏像が置かれ往時を偲ばせてくれる。石仏や石碑の並んでいるところから川原に下りると、本谷と七丈滝沢との広い出合で、左正面に七丈の滝が望める。本谷の河原を行き、ガレ場を巻いて再び流れを渡る。ここが裏側からの一合目である。10時30分、朝食を早く済ませたので30分間の昼食休憩とする。今日の宿泊は六合石室であり、これから先は尾根歩きとなり2日分の水を補給しておく。これからは七丈の滝尾根に取り付くが、いきなりガレ場の登りは急勾配で悩まされる。三合目からはだいたい尾根をからんで道が付けられているが、展望の効かない登りである。岩には鎖が取り付けられており、スリルを味わいながら登ると主稜線に出る。稜線に出るとこれから登る駒ケ岳の頂上や仙丈岳も右手に眺める事ができる。六合目の小屋も目の前に見えるが、尾根を進み右側山腹へ5分ほど入った所にある。今日の宿泊予定であるが、午後1時45分に到着してしまった。早く着きすぎたがこれ以上前進するわけにもいかないし、夕食の準備には未だ早い。

 石室は文字どおり屋根は有るが無人小屋であり、下は土間と言うか土の上に寝るようになっており、板の床は無いが20人位は泊まれる広さである。単なる避難小屋というよりは、私のようにこれから駒ケ岳を目指す者や鋸岳への中継点にもなり、かなり利用度は高い位置に存在する。ここまでは誰一人会わず、私が最初に着いたので少しでも快適に一夜を過ごそうと、小屋の中のゴミを掃除し土間を平にならし、最初に着いた特権で一番良さそうな場所に敷物を敷き、自分の寝場所を確保した。天気も好く、小屋の前でのんびりと夕食の支度をしながら時間をつぶしていると、やはり単独行の青年がやって来た。山行きの時はいつも持参するウイスキーをチョビリチョビリ飲みながら夕食を採り、片付け終わる頃には陽も落ち夕暮れになった。この時間では登山者も来ないであろう、後から来た青年は私とは反対側の壁際に寝場所をつくっている。シュラフに入ると昼の疲れで、すぐに寝付いた。

翌朝は早く目覚め、朝食は途中か頂上で採ろうと6時前には石室を出発した。天気は良好である。山頂までは2時間のコースであるが、1時間チョッとでまばゆい白砂の頂上に到着した。頂には立派な祠が建っていた。南には左手に鳳凰三山が正面には北岳をはじめとする白根三山が並んで聳え、右手には手の届きそうな位置に仙丈岳が見える。朝食を採りながら三六〇度の展望を楽しみ、眼下に朝日に白く輝いている花崗岩の摩利支天峰を眺め、食事が終わってから下りて見ることにする。頂上に荷物を置き、花崗岩のザラザラした急な斜面に気をつけながら降り、少し上るとそこは魔利支天であり、銅で造った大きな剣などが何本か建っていた。朝食と魔利支天の往復を含め、約2時間ほど頂上に居て黒戸尾根を下る事にする。クサリ場を越え白い花崗岩の岩間を下り急な斜面を降ると、石で造られた大鳥居のある八合目につく。ハイマツとダケカンバのなかのジグザグの道を下ると七丈小屋である。それからもクサリ場やハシゴを幾つか越え下ると五合目の小屋である。ここで15分の休憩をとる。この先一箇所嫌な場所、両側が削り取られ、刀の刃の部分を歩くような刃渡りを通過しなければならない。どちら側でも一歩脚を踏み外したら千尋の谷底である。慎重にならざるをえない。

 これから先は樹林帯やクマザサの中の安全な道である。どの山も信仰の対象として、その名残を今に残している。それが石仏であったり祠であったり、また駒ケ岳神社であったりしてして、神社がその山の登山口になっている山も多く存在する。私がこれ迄登った山の中では、甲斐駒ケ岳は信仰色の強い山に感じた。日本にはまだまだ私の知らない山も沢山あるであろうが。駒ケ岳にはいたる所に石仏や地蔵様が祀られている。地蔵様は大きさも様々であるし、硬い岩石を削り取り、安定して長持ちし、かつ登山道から目立つ所に安置されていた。甲斐駒ケ岳は子宝に恵まれる信仰の山であると、何かの文献で目にした事を記憶している。子宝に恵まれるよう祈る気持ちで、石で造った重い石仏や地蔵様を、背負子に担いで何日もかけて担ぎ上げたり硬い岩そのものを削ったものもある。金持ちは人夫を雇って建てたかも知れない。ご利益がより大きいようにと、苦労して大きな石像をより高い所へ持ち上げ安置したいと考えるのは、人の世の常であるような気がする。体力の無い人は、小さい地蔵を低い所までしか担ぎ上げられず、それでも精一杯祈る心を込めて願いを託したのであろう。信仰にはそんな一面も有ったのではないか、そんな事を考えながら歩いていると、いつの間にか笹の平を過ぎて駒ケ岳神社に着いていた。

甲斐駒ヶ岳
子宝に 恵まれようと 地蔵あげ 夫婦円満 願い叶うを
       8/8
戸台(7:10)ー着替(8:20ー8:40)ー赤河原丹渓山荘(9:30)ー七丈の滝出合(10:20)
ー一合目(10:30昼食11:00)ー三合目(11:35)ー四合目(12:30)ー五合目(13:00)
ー稜線(13:40)ー六合石室(13:45)泊
       8/9
石室(5:50)ー駒ケ岳(6:55朝食8:40)ー八合目鳥居(9:13)ー七丈小屋(9:35)
ー五合目小屋(10:15ー10:30)ー笹野平(11:40ー13:00)ー駒ケ岳神社(14:05)







 この頃よりガイドブックも改善され、地図一枚で済むようになった。それ迄は国土地理院発行の五万分の一白地図を何枚も繋ぎ合わせて準備しなければならなかったが、南アルプス北・南部に分かれた地図とガイドブックが発売され、南アルプス全山の概念図が一目で判るようになった。当時南アルプスに登っていた写真家の白旗史郎氏が監修したもので、以後他のガイドブックも山域全体の地図が作製されるようになり、山域の全容が把握出来非常に便利になった。



23、 鳳  凰  山 (2,841m)  1970・08・14


  南アルプスの盟主北岳は、奥穂高岳同様に周囲を前衛峰に守られるように囲まれ、簡単に近づくことは出来ず、鳳凰山を越えないとその頂上を踏めず、大変な苦労が必要であった。私が登る頃には、南アルプススーパー林道が開通し、既に広河原までマイクロバスが入っていたが、私は先人の歩いたクラシックコースを辿る事にした。甲府から4時30分の始発バスで1時間、夜叉神荘に着く。バスの窓から眺める風景は何処かで見たような気がした。そうだ水墨画の世界である。未だ太陽の光は届かない、朝靄に隠されて切立った岩山が黒く浮かび上がっていた。この光景は油絵や水彩、そして絵の具では絶対に表現できないであろう。正に床の間の掛け軸に見られる水墨画でしか表現できない世界を見た気がした。それも長くは続かず、太陽の光が射すと印象は全く変わってしまう一瞬の光景であり不思議な瞬間で幸運であった。

 夜叉神荘で水を補給し、夜叉神峠へ向って出発する。バスはほぼ満席だったが、ここで降りたのは私一人で、あとの登山客はこの先夜叉神トンネルを通って広河原まで行くのであろう。夜叉神荘の前からジグザグに林の中の道を行き、植林された斜面を登ると峠に着く。一面カヤトと熊笹におおわれた明るい峠である。遥か深く下に野呂川が望め、そこから盛り上がっている北岳が、息をのむように大きく聳えている。夜叉神峠で30分の朝食休憩をとる。峠からはゆるやかな樹林の尾根に入っていくが、道は少々悪くなる。深い樹林のなかを大崖頭山の山肌をからんで登ってゆくと、ポッカリ開けた杖立峠である。目の前に北岳がますますその大きな姿を見せてくれる。
 これから先はあきあきするほど登りが続くが、明瞭な山道が苺平に導いてくれる。林の中のちょっとした原っぱである。ここからますます深い樹林帯の中の道を、辻山の北側の腹を巻いて行くと、間もなく林にかこまれた南御室小屋の前にとびだすが10時ちょうどであり、そのまま通過する。登山路は小屋の裏手からすぐ急な樹林の中の道をしばらく行くが、あとはまた樹林の中のゆるやかな登りとなる。しばらくして林が針葉樹林に変わるともうすぐ森林限界である。上り詰めた所が砂払岳であった。ここからは鳳凰特有のゴロゴロした尾根道となるが、遮る物とて無く快適な尾根上のプロムナードを楽しめるコースである。左手前方には野呂川の深い谷をへだてて白峰三山がやけに大きくグッと迫ってくる。花崗岩の崩れたザクザクの砂地の中を一登りすれば薬師岳の頂上である。山頂はハイマツと白砂に岩を配した、だだっ広い庭園のような感じである。北にはこれから目指す観音岳も目の前に見える。ここで周囲の展望を楽しみながら1時間の昼食休憩とする。

   鳳凰三山の最高峰観音岳へは、アップダウンの少ない白い花崗岩のザレ道を展望を楽しみながら進むと間もなく頂上へ到着する。山頂は狭いがここも大展望が楽しめる。小休止し、次の地蔵岳へと向う。歩きにくい白いザレを降り、鳳凰小屋への分岐を通過、小さな地蔵尊が何体もある賽の河原へ到着する。地蔵岳と名命された山の頂上に共通するのは、石がゴロゴロ散らばった賽の河原であるが、この山頂には大きなオベリスクが凜と立っている。 今日も途中登山者には出会わなかったが、頂上にも私意外誰もいない。遊び心を出して、この尖った石柱の上に立ってみようと試みた。岩山やクライミングの心得の無い私に、果たしてこの直立した岩の上まで登れるかどうか、不安もあったが折角の機会でもあり試してもみたかったのである。最上部の直立した部分は一つの岩の塊であり手掛かりは少なくツルツルの岩の固まりに見える。それでもチムニーを捜して岩の裂け目に身体を入れ、尺取虫のように身体をずらしながら登るがそれも狭くなり、行き止まってしまう。その上に手掛かりを捜したが見つからない。一人でもあり、これ以上の危険を冒すことは出来ないと諦め、もう少しでオベリスクの頂に立てる所まで行ったが諦め下りてしまった。

 当初の計画では一日目は、ここから鳳凰小屋に下り宿泊して日程は終わる筈であった。しかし、時計はまだ午後2時である。小屋まで30分で降りられるが、何としてもこれで宿泊するのは早すぎる。明日またここまで1時間かけて登り、広河原に行くことになるのでそれも勿体ない。
かといってこのまま広河原まで脚を延ばすとなると、コースタイムで4時間は要する。私の脚で3時間はかかるであろう。思案したが天候のくずれる心配もなく、体力にも余裕はあった。14時15分地蔵岳を出発し、アカヌケ沢の頭を通り薬師岳よりも標高の高い高嶺を通過し、早川尾根から分かれて広河原に下る白鳳峠に着いた。峠からは急な斜面の下りであるが、駆け降りるようにして17時15分、地蔵岳からちょうど3時間、休憩を一度もとらず広河原小屋へ到着した。
小屋に着いてホッとするが強行軍であったため、さすがに疲れを覚えた。嘗ては北岳へ登るには必ず通過しなければならない前衛峰である鳳凰三山を、一日で駆け抜けた満足感を味あうことが出来た。一日の疲れと明日登る北岳への期待を胸に、広河原小屋でぐっすりと安眠した。

地蔵岳オベリスク
オベリスク 登って試(み)たが 途中まで


       8/14
夜叉神荘(5:40)ー夜叉神峠(6:30朝食7:00)・杖立峠(8:00)ー大崖の頭・苺平
(9:10-9:35)ー南御室小屋(10:00)ー砂払岳(11:00)・薬師岳(11:15昼食12:15)
ー観音岳(12:35-12:400)ー地蔵岳(13:50-14:15)ー垢抜沢の頭ー高嶺(14:53)
ー白鳳峠(15:28)ー広河原小屋(17:15)泊






24、 北    岳 (3,192m)   1970・08・15


夜叉神峠〜鳳凰三山〜鳳凰峠〜広河原小屋〜北 岳〜中白根〜間の岳〜西農 鳥岳〜農鳥岳〜大門沢〜奈良田


 北岳は日本第二位の標高を誇る山であり、南アルプスで最も人気の高い山でもある。当時は北岳の登山基地である広河原まで、夜叉神峠からの野呂川林道が開通し、芦安からマイクロバスで楽に入れるようになっていた。従って広河原小屋も泊り客は多かった。

 北岳へは草すべりを登るコースと大樺沢をトラバースして八本歯に行き、戻る形で北岳に到る道とが有るが、今回は最初なので草すべりを登るコースを選んだ。小屋では朝食を採らず6時10分に出発し歩き始めた。鬱蒼とした原生林の中の急登となる。途中朝食をとろうとしたが、つい歩き続けて白峰御池小屋まで来てしまい、池の畔で朝食にする。ここからは、これから登る草すべりの急坂が、山腹をのび上がっている。その左手間近かに北岳のバットレスがかぶさるようにそそり立って見える。

 御池小屋から小太郎尾根の稜線までが草すべりで、ダケカンバやハイマツがミックスした草原の中、砂と岩屑の急な斜面であり、名前からして大変な登りである印象をもつ。この頃は私も北アルプスや幾つかの高い山にも登り、合わせて登山書を購入して勉強をしてきたので、山での疲れない歩き方も身に着けていた。前脚に重心を移し後ろの足をゆっくり上げて前に出し重心を移していく、速く歩く時には小股にしてこの歩き方で歩調を速くする。いわゆる”静荷重静移動歩行法”と言われる山の歩き方である。身に着けると、後脚で蹴るような今迄の登り方と比べると、ウソのように楽であり、急な山道でも長時間休まず持続して歩けるようになった。きつく単調な草すべりの急坂を一人で登っていると、後ろからドタドタと以前の私のような歩き方で、蹴って登ってくる青年が三人早足で私を追い越して行った。あの歩き方では私ならば五分ともたないで休憩だろうな。そんな事を考えながら登っていくと、案にたがわず5分も行かないうちに、私よりも若い先程の青年が休んでいた。「やはりな」と思いながら今度は私が先に行くことになり、あの歩き方では長くは持続しないし、体力を消耗するだろうと思いながら登っていくと、またドタドタと追い抜いて行きすぐ上で休んでいた。そこで私も遊び心をだし、一人心の中で彼らと競争することにした。稜線までの草すべり、私と彼らとどちらが先に着くか、うさぎと亀の競争ではないが、多分マイペースでゆっくり登る私の方が先着するだろうと確信を持って登って行くと、抜きつ抜かれつは3〜4回で後は彼らの足音も声も聞こえなくなってしまった。

単調で苦しい急斜面の登りも戯れ心で気を紛らして小太郎尾根に出る。稜線に出ると今までと比べて緩やかな登りをしばらく歩き、御池小屋から2時間10分で肩の小屋へ到着した。結局北岳肩の小屋へは亀の私が先に着いたことになる。北岳の頂上はもうすぐ目の前であるが、この頃から空模様が怪しくなりはじめ、11時前であるが早めの昼食とする。正解であった。食事を終わる頃から空が泣き出し、ポツリポツリと降り始めた。北岳の頂上では雨の中見晴らしも無く、日本第二位の高さを誇る山頂で名残惜しく10分程居て先を急いだ。雨は徐々に強くなっていたが、この先には稜線小屋もあり先に進むかどうかは、小屋に着いてから判断しようと、見晴らしの効かない雨の中を稜線小屋へ向って歩いた。途中お花畑も見る余裕はなかった。稜線小屋には12時40分に到着した。

 北岳へは8年後の1978年8月12日、やはり独りで登っている。その時は、芦安から広河原までマイクロバスで入り、大樺沢をトラバースし八本歯から北岳へ戻り、北岳稜線小屋へ宿泊している。素泊料1300円也であった。

北岳山荘
二番目と 白根の主は 鎮座する 周囲かためる 山々控え


         8/15
広河原小屋(6:10)ー白峰御池小屋(8:15ー8:40)ー北岳肩の小屋
(10:50ー11:30)ー 北岳(12:00ー12:10)ー北岳稜線小屋(12:40)
     





25、 間  ノ  岳 (3,189m)   1970・08・15


 稜線小屋へ着いた時には、雨は本降りになっていた。しかし、風は弱く雨は山の上にもかかわらず上から降っており、横殴りの降り方ではなかった。当初の計画ではここで宿泊の予定であったが、昨日広河原まで下りてしまったので予定より早い。時間もまだ12時40分と、ここでストップして泊まるには余りにも早すぎた。もう少し先まで脚を延ばしてみよう、行ける所まで行ってダメなら引き返せばいい。楽天性というよりも、どうにかなるさという安易な気持ちがあったのであるが、ここで一つ重要な情報を見落としていた事に気が付くのは後のことであった。

 小屋へは寄らずに通過し、ゆるい岩礫の尾根道を行くとわずかで中白峰の頂に着く。このコースは高山植物の咲き乱れる中の道であるが、つばの無い登山帽のためポンチョのフードで視界が遮られ、そのうえに強い降雨であり花を目にして楽しむ余裕はなかった。中白峰の展望は勿論無く、頂上を踏んで通過し先を急ぐだけであった。この頃から風も徐々に強くなってきたが未だ雨中の歩行には余裕があり先へ進んだ。間ノ岳まではいったん岩礫の中を下り、山腹の踏み跡をたどる道でたいしたことはなく到着した。この山は日本4位と標高は高く図体は大きいが、これといった特徴はなく、北岳の隣に在って引き立て役的存在である。頂上は石の積み重なったダダッ広い頂であり、農鳥小屋への稜線も石のゴロゴロした広い斜面で、濃霧の時は大井川側へ迷い込みやすく、遭難者も出ているので要注意とガイドブックに書かれていた。現在自分の置かれているいる立場が、豪雨の中全く見通しの効かない同じ状態で有る事を自覚し、注意書きどおり白ペンキの目印を見つけながら、尾根の左端を野呂川側に沿って注意深く進んだ。間ノ岳の下りは石のガラガラ道で、風を遮る物は何も無いのっぺりした山肌である。この頃には風も強くなり、横殴りの暴風雨になっていた。

 北アルプスのキレットから鹿島槍への登りは、下から吹き上げる暴風雨に悩まされたが、あの時は登山道の両側はハイマツであり、飛ばされても掴まる物も有り軟着陸出来るし、稜線ではなく山の斜面であるという安心感があった。しかし、今は全く条件が違い尾根上であり強風を遮る物は何もない、左の野呂川側は濃霧で全く見えないが、深い谷が切れ込んでいるようである。当時の雨対策はまだ頭からスッポリ被るポンチョである。裾はヒラヒラで横殴りの風雨には無防備である。ザックだけは濡らすまいと裾を掴んでいると、強風をはらんで身体が浮き上がり飛ばされる。3回ほど暴風雨で2〜3m飛ばされ、流石に身の危険を感じた。そこで少し安全な場所を選んで、常備している細いロープを取り出し、ポンチョの上から身体に巻きつけ風をはらまないよう対策を施し、なにしろ一刻も早く農鳥小屋へ辿り着こうと懸命であった。5分くらい下ったところで、ほんの一瞬濃霧が切れ小屋の赤い屋根が下に見えた。すぐに赤い屋根は隠れてしまったが、ホッと安心し小屋を目指して駆け降りた。小屋の主人に聞くと、ちょうど台風が能登半島をかすめて通過したところであるという。「風速25mくらいになると小石がとんでくるよ」と、今日くらいの風はたいしたことは無い、といった表情であった。農鳥小屋へは15時ちょうどに到着し宿泊した。

 翌日は雨は止んでいたが風は未だ強く、西農鳥への登山道は濃い霧が流れ、その中に登山者の姿が見え隠れしていた。今日の行程は農鳥岳を経て大門沢を降り、奈良田まで下りて帰宅の予定である。日程に余裕はあるので朝食を済ませ、いつもよりゆっくり出発した。奈良田発電所には13時に下山、ちょうど奈良田温泉の民宿の車が客待ちをしていた。予備日が一日余ったので温泉に浸かり一晩のんびりすることにし、迎えの宿に車で送ってもらい投宿することにした。その宿の一番客で最初の風呂に入れてもらい、三日間の汗を流しサッパリして寝そべってのんびり過ごした。夏祭りの時期で、「近くの広場で盆踊りがあり人が集まるのでいってみたら」と勧められたが、夕食を済ませてもまだ陽は落ちない。そのうち疲れが出たのか眠くなり布団にもぐるとるウトウトと眠ってしまった。この日を境にして、山を下りると温泉に浸かって汗を流すか、予備日が余れば温泉(鉱泉)宿に一泊して疲れを癒して帰宅するという、登山の味を覚えた最初であった。一人身の自由さである。

 間ノ岳へは、8年後の1978年8月13日、同じ北岳からのコースで登り、その時は大門沢小屋に宿泊している。素泊料1300円也であった。

大門沢小屋
ずんぐりと 図体でかく 控えめに 主の北岳 目立たす役に
    

      8/15
北岳稜線小屋(12:40)ー中白峰(13:20)ー間の岳(14:20)ー農鳥小屋(15:00)泊
      8/16
農鳥小屋(6:45)ー西農鳥岳(7:20)ー農鳥岳(8:05ー8:15)ー大門沢下降点(8:45)
ー大門沢小屋(10:30ー10:50)ー奈良田発電所(13:00)ー奈良田温泉(13:30)泊
    


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マウンティン
26、 仙  丈  岳 (3,033m)   1970・08・31


伊那市駅〜丹渓山荘〜北沢峠〜大滝の頭〜千丈小屋〜千丈岳〜伊那新倉岳〜横川岳〜野呂川越〜三峰岳〜熊の平小屋〜安倍新倉岳〜新蛇抜山〜北荒川岳〜北俣岳〜コーモリ岳〜北俣岳〜塩見岳〜三伏峠小屋



 何時もは新宿発の夜行で出発し、翌朝山の麓へ着いて登り始めるのが私の山行きのパターンでった。この時は珍しく家を朝出発し、中央本線の辰野駅で飯田線に乗り換え伊那北駅で降り、そこからバスで戸台口へ行き丹渓山荘まで川底を歩く。そこまでは3週間前に甲斐駒ケ岳へ登ったコースと全く同じ2度目で、つい先日の事であり、何の疑問も持たず安心しきっていた。しかしである、伊那北駅へ降り立って思いもよらぬ現実に遭遇しビックリしてしまった。3週間前に乗った戸台行きのバス停へスタスタと進んだ。しかし、3週間前には確かに存在したバス停の標識が、影も形も見えないではないか。そんなことはない、確かに此処にあった筈だと辺りを見まわすが、他にも在った筈のバス停の標識も無い。一瞬下車駅を間違えたのかと疑問を持ち、駅員さんに確認して事情はすぐに飲み込めたが、こんな事があるのかと暫く納得できなかった。

駅員さんの話では、確かに今迄伊那北駅から戸台口行きバスは出ていたが、それが一週間前に廃止になり、一駅先の伊那市駅から発車する事になったとの事である。まだ伊那市駅まで行けば最終バスには間に合うかもしれませんよ。と親切に教えてくれた。伊那北から伊那市駅までは一駅で田舎の駅としては近く2分で着くが、ガイドブックにもバス停が変わる事は書いてなかったし、もう一度開いて確かめてみてまた驚いた。ガイドブックの発行日を見るとなんと昭和38年5月となっており、7年前に発行されたものであり、最新の情報が付け加えられている由もなかった。以後は当然のことで、山へ行く時は新しい情報を収集して出かける事を心掛けることにしている。何はともあれ、伊那市駅からは戸台口行きの最終バスに間に合い、17時30分には戸台に到着し戸台山荘に宿をとった。宿泊客は私一人であり、広い畳の部屋でのびのびと休んだ。

 当初の予定では丹渓山荘まで入って泊まり、翌日は仙丈岳の頂上を踏んで両俣小屋まで脚を延ばすつもりであった。今考えれば無謀といえる計画であるが、当時は若く単独である為脚の速さには自信があったのであろう。しかし、予期せぬハプニングで戸台からの出発になったので仙丈小屋泊まりに計画を変更した。3週間前に歩いた戸台川に沿っての歩きは2度目なので気楽に歩け、2時間で丹渓山荘に着く。ここで登山届けに記入しポストに投函して出発した。北沢峠までは八丁坂を越え1時間半で着いてしまい、早めの昼食を採る。ここからは長く単調な見晴らしの効かない道であるが、稜線にでると森林の尾根道の直登で苦しい登りとなる。この頃から空模様も怪しくなり、ポツリポツリと泣きだし次第に雨足が強くなってきた。しかし、樹林帯の中なので風の影響はなく、強い降りではあるが横殴りではなく雨は上から降っており恐怖心はない。雨の中を歩きながら本で読んだことを考えていた。

ポンチョは上からの雨には蒸れないし快適であるが、森林限界を超えた稜線上で下から吹き上げる暴風雨には弱い。当時セパレーツの合羽が出始めていたが、上等な物はゴム引きで外からの雨の浸入には強いが、皮膚呼吸で発散する水分で中はずぶ濡れと同じになるが、体温を奪われない分高い山では安全である。そんな事を考えながら単調な道を登っていくと、上から物凄い勢いで駆け降りてくる青年がいた。何事かと声を掛けると、「仙丈小屋の者だがこれから大雨になるという、お客も居ないの山を下りる」と言って、また駆け下りて行った。そういえば仙丈小屋は村営であった。夏だけのバイト生か村役場の職員であれば公務員の小屋番である。たまには家に帰って風呂に入り家庭料理でくつろぎたくもなるであろう。こちらは小屋にさえたどり着けば、小屋番はいなくても安心である。山小屋はもともと地元の専門家が長い年月の実績と体験を基に選定した地形に建てられ、水にも落石にも雪崩にも安全な場所に建てられていると信じている。

私は、どこの山でも小屋にさえたどり着けば、台風が来ようが風雨が凌げれば安心であると考えていたので先を急いだ。午後1時40分に小屋に着いたが、小屋の番人は先ほど山を下り誰もいない。仙丈小屋は新築されていた。古い小屋はそのまま下に放置されていたが、そのすぐ上に新しく建てられていた。夕食の準備には早いので、寝袋にはいり横になっていると疲れが出たのか、いつの間にかうとうとと眠りについていた。物音で目覚めると30歳代の男性が一人入ってきた。午後4時頃であった。外を見ると相変わらず雨は降っていたが雨足は少し弱まっている。夕食の支度をし持参したアルコールをたしなみながら食事をしていると、外も薄暗くなってきた。もう登山客は来ないだろう、今夜は二人でゆっくり手脚を延ばして寝られる。

 翌朝は雨はすっかり上がっていたが、湿度が高く靄がかかっていた。私の方が少し早く小屋を出発し20分で仙丈岳の頂上を踏んでいた。頂上は山容から想像するよりも遥かに狭い。いくつかの石碑や遭難防止の方向指示盤が取り付けられてある。靄で展望はきかない。5分ほど遅れて同宿の男性が登って来た。頂上に着くなり「アッ!見えますよ」と声を掛けてきた。ブロッケン現象である。伊那谷を越えて木曽の駒ケ岳辺りであろうか、こちらの姿がハッキリと投影されている。手を上げると向うも手を上げて応えてくれる。この現象は仙丈岳でよく見られるようであるが、太陽光線と水蒸気(雲)と投影する山との微妙な条件の一致がなければ見られない。今迄に何回か出会った事のある神秘的な現象である。しばしブロッケン現象を楽しんで先へ進む。男性はこれから北岳へ向かうという、お互いの無事を祈って私は塩見岳へ向う仙塩尾根へと左右に分かれた。

頂上が 木曽駒に映え ブロッケン
仙丈岳カール

       8/31
戸台山荘(6:10)−丹渓山荘(8:10−8:25)−北沢峠(10:00昼食10:35)−大滝の頭
(12:10)ー藪沢小屋(12:30−12:45)− 馬の背ヒュッテ(13:00)−仙丈小屋(13:40)泊
       9/1
仙丈小屋(6:00)-仙丈岳(6:20-6:30)-伊那荒倉岳(8:05-8:30)・横川岳(9:35)-野呂川越
(9:50ー10:10)ー(11:30昼食12:30)ー 三峰岳(13:15ー13:30)ー熊の平小屋(14:10)泊





27、 塩  見  岳 (3,047m)   1970・09・02


 当初の予定では一日目に丹渓山荘まで入って宿泊する予定であったが、伊那北駅でのアクシデントで時間のロスをし、戸台で泊まる事になってしまった。二日目は仙丈岳を越えて両俣小屋まで脚を延ばして宿泊の予定であったが、結果はあの土砂降りの雨に遭ったら仙丈小屋泊まりになっていたかも知れない。仙塩尾根は変哲のない上り下りで塩見岳までは二日間を要する長い行程である。樹林を抜けた所では左前方に北岳や間ノ岳の姿が、後を振り返れば朝越えてきた仙丈岳やその斜め横に甲斐駒ケ岳が望める。単調なアップダウンとはいえ、伊那荒倉岳や横川岳等幾つかのピークを越え、野呂川越の鞍部に着き小休止する。この先は三峰岳を目指すが倒木帯を跨いだり潜ったり避けたりしながら、見晴らしの効かない樹林帯の尾根道、風も通らない急坂を黙々と登り詰め、ようやく三峰岳の狭い頂上に到着する。 見晴らしの効かない単調な尾根を歩いているとたいがい飽きるものである。歩きながら物事を考えるというのは、余り深い思考には向かない。尾根を歩いていると所々に峠と名のつく場所が存在する。尾根の鞍部が多いが場所によっては高い所もある。”野麦峠”とか”女工哀史”として何度も映画化された名作があるが、単調な歩行の時はそうした小説や映画の場面を想像し、気を紛らして歩いている。

冬の雪の降る寒い日、身体の弱った女工さんが木の杖を突き、仲間に支えられてやっと峠の茶店に辿り着き、茶屋の女将さんに熱いお茶を入れてもらって人心地つく、そんな場面を瞼に思い浮かべながら歩いている時は、楽で身体に余裕のあるときでもある。急坂を喘ぎながら登る時は考える余裕すらなく、早く頂上へ辿りつきたい一心である。三峰岳のガラガラの下りを過ぎ、樹林帯の中に入ると40分で熊ノ平小屋に到着する。長い仙塩尾根の5分の3程を歩いた事になる。最近では別に不思議に思わなくなっているが、仙丈岳で男性と分かれてから小屋に着くまで、その他は誰一人会わなかった。この尾根はこれといって高く有名な山が在るでもなく、塩見岳まで2日を要する、ただ長くて静かな山行きを味わえる事だけが取得と言えるコースで、登山者には好かれようがない。この道も”バカ尾根”というらしい。

 熊の平小屋では、反対の塩見岳から来た若い女性2人連れのパーティーと同宿となった。小屋の主人は年配で夕食後昔話を聞きながら4人で団らんを過ごした。印象に残っているのは主人がこの小屋で関東大震災を経験したという話である。関東大震災は大正12年9月1日であるから、ちょうど47年前の今日である。察するところ熊ノ平小屋の主人の年齢は65歳くらいであろうか、若い時から山で鍛えた為かかくしゃくとしていた。主人の話によると方角からして白峰三山、特に北岳の向こうの空が夜赤く染まって何事が起こったのかと心配したそうであるが、ラジオもテレビも無く電話も繋がっていない時代である。後日登山者からの情報で大震災で東京が”火の海”になったことを知ったそうである。

 翌日は長丁場である。5時50分に小屋を出発し、安倍荒倉岳と新蛇抜山から北荒川岳を越え、北俣岳と何れも2700mに少し足りないピークを四つ越して仙塩尾根を進む。左手には白峰三山の農鳥岳と広河内岳が、振り返ると間ノ岳と北岳が谷を一つ隔てて間近かに望める。昨夜熊の平小屋で同宿した2人の女性は反対の方向へ向い、三峰岳から間ノ岳へ渡って北岳へ登り、仙丈岳を登頂して駒ケ岳へ行き山を下りるという。しかも、入山したのは寸又峡からであり、光岳から南アルプスの南部の主脈を縦走して三伏峠へ泊り、塩見岳を経て熊ノ平小屋で遭遇したのである。何処から来たのか聞くと北海道からという。羽田まで飛行機に乗り、東京から新幹線(当時はまだ新幹線は東海道しかなかった)で静岡で降りて在来線に乗り換え、寸又峡への交通路を辿ったという。時間の節約のために飛行機と新幹線を利用したというが、文明の利器と重い荷物を担いで一歩一歩てくてくと山を歩く対象の面白さに、思わず「北海道にも山は在るでしょう?」と問いかけてしまった。「北海道の山は全部登りました、北海道の山は低いしやはり三千mのアルプスに登りたくて来ました」ということで2週間、約半月の予定で南アルプス全山縦走を計画したとのことであった。

 昨夜の話を思い出しながら独りで歩いていると速い。予定よりもだいぶ早く北俣岳へ着いてしまった。塩見岳はすぐ目の前である。従走路から外れて蝙蝠岳がすぐ近くに聳えている。姿の美しい山容をしている。この機会を逃したら登る機会はないだろうと考え荷物をボテし、何も持たずに空身でピストンすることにした。せいぜい1時間もあれば往復できるだろうと、それ程近く見えたのでたかをくくって出発したのであるが、途中で失敗したことに気付いた。山は近そうに見えても時間がかかる場合と、もう着いてしまったのかと逆なこともある。蝙蝠岳は正面から近く見えたが、ガイドブックのコースタイムは片道1時間40分である。吊尾根になっており一旦下って又登りになるが、いくら空身でも時間はそれ程短縮はできない。ちょうど一時間で頂上へ着いたが、水と食料を少し持参すべきであったと後悔したものである。蝙蝠岳で20分休憩し展望を楽しみ、帰りも同じ一時間で荷物をボテした北俣岳に戻った。この時の教訓は後に活かし、どんなに近くに見えてもピストンする場合は、必ず水と少量の食料はナップザックに小分けして持つようにした。

 北俣岳から塩見岳までは30分で登れるが、昔のガイドブックには途中地下から湧き出している水場があったが、今は枯れてしまっているいるとの記述があった。注意深く探しながら歩き、確かにそれらしい場所に出くわしたが水はなかった。塩見岳へはコースタイムどおり30分で到着した。頂上からは晴れていれば日本海が見えるので、塩見岳と名づけたとあるが、残念ながら海までは見えなかった。今日の行程は三伏峠小屋泊まりなので下るだけ、ゆっくりと昼食休憩を採り15時には小屋へ着いた。 三伏小屋では忘れられない記憶が残っている。素泊りの手続きをして先ず夕食の支度をと飯盒で米を炊く準備をして固形燃料に点火して出かけた。飯が炊ける間に水を汲んで来ようと水場までの時間を尋ねると往復30分位だという。ちょうど良い時間だと思い、飯盒をかけたまま水汲みに出かけたのであるが、行けども行けども水場には着かない。

道を間違えたのかと不安に思うが、反対側から水を汲んで帰ってくる人と出会うので間違いはない。結局片道30分かかり往復一時間で水を確保したわけであるが、何としても飯盒の米が真っ黒に焦げ、炭になっているのではないかと、そちらの方が心配であった。走って戻ると親切な人がいて、固形燃料の蓋をして火を消しておいてくれ、帰り着くと蒸れてちょうどよく炊き上がっていた。感謝感謝であった。

三伏・塩見岳
道脇に 可憐に咲きし 一輪が 疲れし身体 癒してくれる

      9/2
熊の平小屋(5:50)ー安倍荒倉岳(6:15)ー新蛇抜山(6:50)ー北荒川岳
(7:50ー8:00)ー北俣岳(9:00) ーコーモリ岳(10:00ー10:20)
ー北俣岳(11:20)ー塩見岳(11:50昼食12:30)ー三伏峠小屋(15:00)泊







28、 赤  石  岳 (3,120m)   1976・08・30


 私の年代は戦前の生まれであるが、戦後第一次ベビーブームである団塊の世代の直前であり、高度経済成長時代をそのまま体験した年代である。従って1964年から始めた登山であるが70年夏に仙丈岳から仙塩尾根を越えて塩見岳まで縦走したのを最後に、ピタッと山行きが止っている。高度成長という時代の煽りを受けて、色々な面で多忙をきたし、精神的にも時間的にも登山の余裕がなくなってしまった年代に該当していたのであろう。その間、山への思いと関心が薄れた訳ではなく、益々その思いは募っていたのであるが、一度中断してしまうと思い切ってその場から抜けだし、再開する決断もつきにくかった。 六年後に多少余裕が出来たのか、珍しく身近に山仲間ができたのをキッカケに登山を再開する事になったのであるが、28歳から34歳になり家庭も持って環境は変わっていた。それまで南アルプス北部は、塩見岳までは全部登っていたのであるが、友人も南部へ行きたいということで直に話はまとまり、赤石岳へ行く事が決まった。

 8月の末だったのでバスの便が悪かったのか、伊那大島駅からマイクロバスをチャーターして樺沢小屋まで入っている。行き先が同じ12人が居て、9千円を1人750円で均等割りしている。50分で小屋へ着き朝食を済ませて8時に出発している。尾根の取り付きからはかなりキツイ急登の連続である。2人とも今迄別々の単独行であり、複数で山へ登る経験はない。従ってどちらもマイペースの傾向が強く、登り方も正反対の特徴を持っていた。私は余り力を使わず前足に重心をかけて体重を移動するオーソドックスな歩き方であるが、彼は馬力で蹴上がる体力を要する疲れやすい歩き方である。急な登りではその差は歴然としてくる。

体力を消耗しない歩行の私が先になりだんだん離れていく。45分で休憩を採り3回の休憩で大河原分岐へ到着し、三伏峠小屋へは15時20分に着いている。夕食を済ませ明日に備えて、19時30分に就寝した。翌日は初めて南アルプスの南部に足を踏み入れることになる。4時に起床し、朝食を済ませて荷物をまとめ、5時に小屋を出発した。昨日と違って下りが多い。今日は相手が先行するが、元々馬力で歩く方なので下りになると速い。自分のペースで走るように進んで行く。私は着いていくのが精一杯であった。実は私は4年前の72年の正月、バイクで交通事故に遭い、左膝の皿と関節を傷める重症を負っている。無理をすると痛み出すのであるが、やはり古傷が痛み出したのである。登りはさほどではないが下りは膝に衝撃が響き、痛みはひどく左足を庇いながらの歩行である。しかし、心配を掛けたくないのでそんな言い訳は言えない。事情を知らない相手は全くこちらの事など意に介さず飛ばしていく。下りになると離され登りになると楽に追いつくのであるが、そんなパターンを繰り返しながら前進して行く。

 私の膝痛が足を引っ張ったのか、ガイドブックのコースタイムとほぼ同じ時間を要し、烏帽子岳・小河内岳・大日影山・板屋岳と順調に進んで行く。高山裏には10時45分に到着し昼食休憩とした。此処では12時まで、1時間15分の休憩を採っている。一人であれば昼食休憩は長くてもせいぜい30分で出発するところであるが、二人という安心感がはたらいたのと、前に立ちはだかる登りに備えてのんびりと寝そべって休んだ。これからは今日の最大の山場である、標高差500m以上の荒川前岳への登りが控えている。がれ場の急斜面をジグザグに登り、途中一回の休憩で3000mの稜線に到達した。中岳からは悪沢岳が吊尾根を越えて手近に見える。悪沢岳は高さでは南アルプスでは第三位であるが名前のごとく荒れた感じで、見た目には余り好感を持てる山ではない。しかも縦走路からは外れてピストンしなければならない。当時はまだ百名山は私の意識になかったので、登らず通過してしまった。中岳から宿泊地である荒川小屋へはジグザグの急な下りを下降し、16時30分に到着した。荒川小屋からは、明日登る赤石岳が象アザラシが寝そべったように、夕日に赤く染まって目の前に大き立ちはだかって見える。明日登るかと思うと興奮で中々眠りにつけなかった。

 三日目になると食料も少なくなり、ザックも軽くなって楽な山登りとなる。だだっ広い大聖寺平を進み、小赤石への急登も休憩なしで登りきる。本峰の赤石岳には7時50分に到着したが、この頃になると見晴らしは効かず急に雨が降り出した。急いで避難小屋に駆け込んだ。私達の計画ではこの先聖岳へ登り、茶臼岳へも登って畑薙ダムへ下りて帰る、あと二日の行程の計画であった。非難小屋へは他のパーティーも駆け込み、10人くらいが雨を避けてそれぞれ今後の予定を相談していた。雨は止みそうもなく益々強くなっていく。幸い少し戻ると小赤石岳との鞍部から、椹島へ下る逃げ道がある。どのパーティーも先へ進む人達はなく、椹島へ下りる道を選んで下りはじめた。私たちも無理せず途中で残念ではあるが、聖岳は来年登る事にして椹島へ下りる道を選んだ。

赤石岳頂上
赤く染め 象アザラシに 登るかと 胸高鳴りて 前夜眠れず
     8/28
樺沢小屋(7:10朝食8:00)ー塩川土場(9:00)・尾根取付点(9:45ー10:00)
ー(10:45小休11:15)ー(12:30小休13:00)ー(13:45昼食14:30)ー
大河原分岐(14:40)ー三伏峠小屋(15:20)泊
     8/29
小屋(5:00)ー烏帽子岳(6:00ー6:05)ー小河内岳(7:30ー7:45)ー8:50休9:15
ー(10:10休10:20)ー高山裏(10:45昼食12:00)ー13:20小休13:35ー荒川前岳
(14:50ー15:10)ー中岳(15:15ー15:20)ー荒川小屋(16:30)泊
     8/30
小屋(5:20)ー大聖寺平(5:50)ー小赤石ピーク(7:10ー7:20)ー赤石岳
(7:50ー8:00)ー避難小屋(8:05ー9:00)ー富士見平(10:30ー10:40)
ー赤石小屋(11:00)ー椹島(13:40)





29、 聖    岳 (3,013m)   1977・08・15


  昨年は赤石岳で雨の為、残念ながらその先への登山を中断しなければならなかった。今回は昨年と同じ二人で再度南に挑戦する事にしたが、出来るだけコースをダブらないように計画を立てた。その為に直接赤石岳へ登り南下するコースを選び、その為に本格的な渡渉で時間を稼ぐために地下足袋を準備して出掛けた。ガイドブックでは、伊那大島から大河原までしか行かないバスが、幸いシーズン中とあって奥の湯折まで入っていた。客が少なかったのかバスもブンブン飛ばし、所要2時間以上のところを1時間15分で湯折へ着いたので、アプローチと合わせて当初の計画よりも4時間は得した事になり、先の日程に余裕が持てる事となった。

湯折から小渋湯を通り渋川への渡渉地点に向うが朝食を済ませ、沢というよりは川に入る。いきなり深い所である。普通ザックの底が川面に着くようであるとバランスを崩して流され危険であると予備知識は得ていたが、入るなりその深さなので慌てた。相棒は棒切れを持って深さを測りながら対岸へ向って進んで行く。ペンキやケルンの標識に従って反対側の岸へ渡ったり戻ったりして上流へ進んでいくが、川幅もだんだん狭くなり渡渉しやすくなる。途中で後から来た中年の男性に追いつかれた。なんとその人はズボンが濡れていない。私達は地下足袋を履いて冷たい水の中を歩いて沢を横切るのであるが、その男性は地下足袋に草鞋を履いて、手頃な大きさと距離の石を見つけて、ピョンと石から石へ飛び移るのである。最初はあっ気にととられ感心して見とれてしまった。渡渉とは川や沢の水の中を渡るものとの先入観は何処かへ吹っ飛んでしまった。しかし、石は川の流れや飛沫で濡れている。滑ったりバランスを崩して堕ちなければいいがと心配して見ていると、一度もバランスを崩したり危なげなくヒョイヒョイと石伝いに飛び越えて進んで、どんどん引き離されてしまった。草鞋というのは滑り止めにもなるし便利な物と感心しながら、相当なベテランか地元の人なのだろうかと思案をめぐらせているうちに、姿が見えなくなってしまった。

 30s近いキスリングザックを背負った私達にはとても出来る芸当ではなく、20回程の渡渉を繰り返しながら11時に広河原小屋へ到着した。最初の計画では初日は此処で宿泊する予定であったが、朝のバスの貯金の四時間が大きな役割を果たした。1時間ほど昼食休憩を採り今日のうちに一気に赤石山脈の稜線まで登り、昨年宿泊した荒川小屋まで足を延ばすことにした。2人とも体調も良く気力も充実していた。広河原小屋から舟窪までは急坂の単調な登りで4時間のコースであるが途中一回の小休止をして3時間で着いてしまった。舟窪で小休止し大聖寺平を通過し17時前には宿泊地の荒川小屋へ到着した。昨年同様、目の前に赤石岳が芋虫のように夕日に赤く染まって横たわっていた。

 翌日は大聖寺平を通過し昨年登った赤石岳を通過して百間平を通り百間洞であるが、荒川小屋を5時40分に発ち10時55分と、午前中にには百間洞小屋に着きここで宿泊している。通常であれば聖平小屋までは行くはずであるが、午前中に着いて停滞と言うのは天候が悪化した記録もなく、どちらかが体調を崩した気配もなく、どうも解せないが、昨日のバスの貯金で時間調整であったのかも知れない。今日はいよいよ聖岳への登山である。百間洞からは3000mに近い稜線をルンルン気分で歩いていると石に躓いて転倒してしまった。胸から上がはみ出しており、下は目の眩む断崖で一瞬ヒヤリとする。袖を肘まくりをしていたので岩角で傷つき、少し広い安全な場所で確認するとかすり傷程度で済み大事にはいたらなかった。油断は禁物、それからは気を緩めず慎重に歩く。兎岳からは左に直角に折れるが、聖・兎コルから聖岳の取り付きは急な登りである。途中食事をして25分休憩する。

その後は楽な登りとなり日本最南端の3000m峰である聖岳の頂上に立つ。奥聖岳へはピストンせずに通過している。聖岳からは急な下り坂であるが下り切った所は崩壊しているが、水場になっている。その先は大お花畑である。聖平小屋には13時15分に着き宿泊の手続きをして暫くくつろぐ。この小屋は広く既に先客が沢山いた。すぐ前の沢の段差を利用した水場は広く水量も多かった。 この小屋では不思議な経験をしている。混雑しているという程ではなかったが、登山客は皆、枕を土間側の同じ方向に並べて寝ている。夜中に同行の友人を含めた両側4〜5人の人に揺り起こされた。こちらは昼間の疲れで熟睡しており起こされても寝ぼけまなこで何を言われているのか分らない。分らないまま又眠ってしまった。朝起きてから落ち着いて考え、友人にも聞いてみると、こういうことらしい。

本人は知る由もないのであるが、私は眠ると鼾が大きく大変うるさいらしい。らしいというのは、本人は全く承知していない。その夜も先に眠り豪快な鼾を掻いて寝ていたらしく、周囲の人達は私の鼾がうるさくて眠れない。そこで周りの人が相談して、鼾を止めるように私を揺り起こしたらしいのである。そう言われても私も困ってしまう。眠ってしまえば無意識でまた鼾を掻くに違いない。周囲の人も眠れたのかそれとも諦めたのか、その後朝目覚めるまで何事もなかった。今日はいよいよ帰りの日である。昨日水場の平らな石の上で滑って転び、右足大腿部横を強く打撲し、内出血して紫色に瘤状に大きく腫れ上がっている。そこだけが心配であるが痛みはそれ程感じない。聖平には雷鳥が多い。稜線から少し外れた上河内岳へは往復15分でピストンした。この頃は風雨が強くなっていた。

 四日目ともなると食料は残り少なくザックは軽いので、山歩きも楽である。ガイドブックの半分くらいのコースタイムで歩いてしまう。茶臼岳も畑薙ダムへの分岐からピストンし、茶臼岳小屋で休憩し食事を採っている。横窪沢からウソッコ沢出会いまでは、吊橋を何回も渡り返し、最後に畑薙湖の上に架かる畑薙大吊橋を渡って第一堰堤に着いた。

 (この頃,南アルプスで山小屋での素泊りは、シュラフ持参で一泊1千也であった)


三千の 日本南端 花の園

       8/13
大河原=湯折(7:30)ー小渋湯(8:10)ー8:30朝食8:50ー9:50小休10:00ー広河原小屋(11:00昼食12:00)
ー13:30小休13:45ー舟窪(15:10小休15:30)ー大聖寺平(16:25)ー荒川小屋(16:55)泊
       8/14
小屋(5:40)ー大聖寺平(6:12)ー7:10小休7:30ー赤石岳(8:10ー8:40)
ー百間平(9:45中食10:20)ー百間洞山の家(10:55)泊
聖岳小屋
       8/15
百間洞山の家(5:40)ー分岐(6:40)ー中盛丸山(7:00-7:10)ー小兎岳
(7:50)ー兎岳(8:40ー8:50)ー聖兎のコル(9:25)ー10:10食10:35
ー聖岳(1:20ー11:50)ー聖平小屋(13:15)泊
      8/16
小屋(5:30)ー上河内岳ピストン(7:15-7:30)ー茶臼下(8:20)ー茶臼岳
(8:35)ー茶臼下(8:50)ー茶臼岳小屋(9:00食9:30)樺段水飲場(9:50)
ー横窪沢(10:30ー10:40)ー横窪峠(10:50)ーウソッコ沢出合(11:30)-
畑薙大吊橋(12:40)ー第一堰堤(13:25)ー井川ダム=静岡駅





この辺で  ”一本立てる”

<昔山小屋への荷揚げ(ボッカ=歩荷)は、体力のある”強力”は100kg(27貫)近い荷物を担ぎ揚げたと言われている。途中休む時は荷棒(にんぼう)を、背負子の下に置いて荷重を預け一服した謂われからきている。白馬岳山頂にある風景指示盤は50貫目=187kg(幾つかに分けて)を富士山の強力小宮が担ぎ上げたと(新田次郎の小説)・・・  区切りよくこの辺で「中休み」一服したいと思います>


(この後は公私ともに多忙となり、登山は20年以上の中断余儀なく、定年後再開後は百名山達成を
めざし、精力的に挑戦してきたが現時点で完登に至っていない。しかし、登った山については全て
成文化し、掲載の準備は整って居るがここで「一本立て」中間総括。以後は特徴的な山を2〜3座
紹介、皆さんの反応を伺い、HPへ継続して連載するか否かを再考し判断したいと考えています)



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マウンテン
30、 富 士 山(3,776)   1998・09・06



 富士山は遠くから眺めて美しい姿の山であり、夏山縦走登山を中心に歩いていた私にとっては、今迄自分で登る山の対象としては考えたことのないない存在であった。東海道新幹線の車窓から、また他の山へ登っても視界が届く限り、富士山の姿だけは見失うことはないほど、その高さと勇姿は私の脳裏に焼き付けられている。従って富士山は眺める山であり、登る山ではないという先入観が強かったので、今迄登ったことはなかったのである。

 日本百名山を意識し全山登頂を目指して、最初に登ったのは富士山である。最も効率的登山方法を検討したが、日帰りではどうしても無理なことは分かった。車で前日に五合目まで入り、翌日早朝登り始めることにした。車の中で寝ていると三時半項、急に駐車場が騒がしくなったので目を覚ました。富士スバルライン料金所の開門が午前三時、開門前から待っていたグループが一斉に到着し、登り始める準備を始めたからである。私も朝食を済ませ、4時40分に五合目を出発した。富士山は、子供やお年寄りでも簡単に登れる山として宣伝されている。今は亡き父が60数才のとき、農協の団体で登り、「富士山では水も買わなければ飲めない」と、ビックリしていたのが印象に残っている。団体とはいえ、60歳を過ぎて畑仕事用の地下足袋を履いて登ったという話を聞き、よくガンバッタと感心したものである。八合目で泊まり、ご来光を仰いで頂上へ登り、須走りを下りて来たとのことであった。

 3776mと日本一高い山には、やはりそれだけのものが有る事が分かった。八合目あたりから細かいアラレがパラつきだしたが、9時35分には頂上へ着いたが、約5時間近くを要している。空気も薄くなり、最後の登りは傾斜もきつく、溶岩を階段状に削った場所を登るが呼吸も乱れた。時計回りにお鉢をまわり、剣が峰の頂上で昼食を採っていると雪も本降りになったかにみえた。慌てて合羽を着込んだ。気温はマイナス五度で、翌日の新聞には「富士に”ちらちら“ 冬の精」という見出しで報道されていた。平年より6日早い初雪に出合い、記念すべき富士登山になった。

下りは、同じ登山道を降りるのは変化に欠けるのと混雑を避け、須走りを選んだ。先年崩壊して事故の起きた須走りルートは閉鎖され、新しく着けられた道であるが雷光型に傾斜を緩くして、トラクターで着けた細かな火山灰の道である。それでも重力で自然に身体が加速して降りて行くのを、脚でブレーキをかけながら慎重に下った。自分ではそのつもりであったが、ターンするところや普通なら何でもない所で滑って転んだりバランスを崩して転倒してしまう。火山灰なので柔らかく怪我の心配はないが、独りなのでどうしても団体のパーティーより速くなってしまう。中高年の十数人のパーティーを追い越したそのすぐ前で転倒したり、若い四~五人の男女の前で転んでしまい冷や汗をかいた。
バランス感覚が低下しているのであろう、若い時はこんなではなかったのにと思い首を傾げながら、身体の自由は意思通りに動いてくれない、不思議に思うと同時に情けなさを感じたものである。後日、色々と山の本を読んで知った事であるが、年齢と共に最も衰えるのが平衡神経、つまりバランス感覚であることが解った。20歳を100とすれば、60代では20~30%に落ちるらしい。しかも、私の場合は20年間というもの、全く運動も汗を流すこともせずに過ごして来た経過もあるし、5年前に交通事故で頚髄を一部損傷している事を考え併せれば、富士山で下りでの事態も領けるというものである。 その他にも幾つかの失敗もあったが、幸いにして大事に至るようなものではなかった。登山を再開して初めての山行きとなった富士山は、二〇年間のブランクの大きいことが分かり、今後の教訓として受け止めなければならない多くの事を、いやというほど思い知らされた登山になった。

                     富 士 山 (詩吟)

富士山
仙客来り遊ぶ雲外の嶺

神竜棲み老ゆ洞中の淵

雪はがん素の如く煙は柄の如し

白扇倒に懸る東海の天

(石川 丈山作)
                
     9/7
新五合目(4:40)ー六合目(5:10)ー七合目(5:55休6:10)ー八合目
(7:40休8:10)ー九合目(9:10)ー頂上(9:35)ーお鉢めぐり(9:35ー10:30)ー
(10:30昼食11:00)ー八合目(11:40ー11:50)ー須走り新五合目(13:30)
 




31、赤 城 山(黒檜山)(1827.6m)1998・09・11



 赤城山は、子供の頃から見慣れて親み育った山であり、国定忠治が立てこもった山としても語り伝えられている。上毛カルタに「すそ野は長し赤城山」とも謳われているとおり、晴れた日には長いすそ野を延ばした全容が私の家からも北方に望めたのであるが登った事はない。若い頃は、上野から高崎線に乗って帰郷する時は、右の車窓に赤城山の姿が見えてくるともうすぐ田舎の駅へ着くと安心したものである。高崎の二つ手前の駅で降りると兄弟の誰かが車で迎えに来てくれていた。

   赤城山登山は車で行く日帰り計画を組み、5時10分に家を出発し練馬から関越道へ乗り前橋I.Cで下りて、赤城大沼の黒檜山北登山口には8時20に到着した。道路脇に駐車スペースも有り私の車が最初であったが、登山口では年配のご夫婦らしき二人が既に登山口を確認していた。車に積んだ荷物で身支度しすぐに登り始めた。樹林の中の登山道は、大きな石を乗り越えていく急な登りで歩きやすく、高度をグイグイ稼いで登っていくと、途中で同年輩の単独行の男性が休憩している所へ追いついた。「速いですね」と声を掛けてきたので、私も立ったまま小休止して話すと、茨城から来た人であり、もう定年になり山へ登って楽しんでいるという。私もあと四年で定年を迎えるが、その後は自由に百名山を目指して山歩きが出来ると思うとわくわくしてくる。

 途中一箇所だけ樹間の開けた所があり、振り向くと大沼が下に見渡せた。コースタイムでは1時間50分とあるが、1時間でビューポイントに着いた。ここは、頂上のすぐ手前で登山道から少し外れた平に開けた場所であり、赤城山の展望台といった場所であるが、残念ながら今登ってきた大沼側は樹の陰で全く見えず東側だけ開けている。北東の方向に男体山と日光白根山が望め、後を振り向くと遠く南東に筑波山がぼんやりと望める程度であった。9時半過ぎであったが、朝食を早く食べて出かけてきたので早目の昼食を採ることにした。

登山コースへ戻り左へ行くとすぐ黒檜山の頂上であるが、此処は登山道の脇にあり休憩する場所もなく通過して尾根を進むと、他の登山口からの道との分岐の道標に出、右への進路を行くと低木の藪の急な下りの尾根となる。丸太で組んだ階段を降りるが、なんとなく登りなれた丹沢を思い出す。下りきって少し登ると駒ケ岳の頂上であるが、此処も樹林の中で見通しは効かない。ここも小休止して通過すると鉄の階段が3ケ所あり、間もなく舗装された車道に出る。途中、大沼の中の島に赤城神社が在り、折角なので橋を渡ってお参りをして車に戻った。ピッタリ3時間の行程であったが、未だ正午前である。

 このまま帰宅するのはもったいないので、すぐ隣に有る地蔵岳へ登ることにした。地蔵岳には、頂上直下までケーブルが敷設されており、頂上は名前の通り石のゴロゴロしただだっ広い山である。裏側の下りは傾斜は緩く、木の階段も設置されており、小学生の林間学校の訓練用の山として使われているようであった。

関越道

見慣れてた 赤城の山に 半世紀 見下すかなた 我が青春を
                    
    9/11

  黒檜山北登山口(8:35)ービューポイント(9:35昼食10:00)ー黒檜山ー
(10:05)ー駒ケ岳(10:35-10:40)ー鉄の階段(10:50)ー車道(11:10)
赤城神社(11:15-11:25)ー登山口(111:35)







32、男 体 山(2484.4m) 1998・09・19



 時刻表を調べているとJRも便利になったもので、新宿発で直接日光行きの列車が出ていることが分った。9月末までシーズン中の土日・休日運転で全席指定、座席に座れば乗り換えなしで目的地の日光まで運んでくれるのが何よりの魅力である。時間的にも節約できタイムイズマネー、便利さと引き換えである。小田急線沿線に住んでいる私にとっては、新宿発というのは魅力的で便利である。新宿発6時24分でJR日光駅に9時9分着、2時間45分で到着してしまう。バスの連絡も良くすぐに中禅寺温泉行きのバスに乗り、イロハ坂を登って10時ちょうどには中禅寺温泉に着いた。

 男体山奥宮登拝口に当る二荒山神社中宮祠までは徒歩15分、門を入るとすぐに社務所の受付があり、ここで登拝料500円を支払う。その代わりにお札やお守りをくれるので記念になる。その他にも初穂料500円也を支払うと「登拝之証」を発行してくれた。 登拝門をくぐる前に昼食を済ませて出発した。最初はうっそうとした薄暗い樹林の緩やかな登りであるが、門をくぐってすぐに猿軍団の歓迎をうけた。二〇数頭ほどの群れが木の枝を伝って目の前を横切って行った。三合目で砂防工事のため一旦登山道からアスファルトの林道へ出て歩く事になる。この林道で若いカップルを追い抜くが、男性はこの山に登るには大きすぎると思われるザックを背負っていた。しばらく歩くと四合目の標識があり、鳥居をくぐると登山道へ戻り背の低い樹林帯の山歩きとなる。暫く行くと後ろから靴音が迫りすぐ後ろまで追いついてくる。少し広い所で道を譲り後から見ると、若い男女二人づつの四人のパーティーである。速い歩行でありとても着いて行けないどころか、どんどん引き離されてしまう。特に女性二人の歩き方は、身体の柔軟性を生かして脚をバネのように使いスイスイと急な山道を楽々と登って行く。一度丹沢で同じようにしなやかな歩き方で、後からスイスイ追い越して登って行く私と同年輩の女性がいたのを思い出した。年配の男の硬直した身体では、とても真似のできないしなやかでリズミカル、流れるような歩き方であった。

五合目からは急なガレ場の連続であるが、一箇所登山道から外れて開けた展望のよい場所があり、休憩にはうってつけで、先客が休んでいた。中禅寺湖が眼下に望めるというよりも、この尾根そのものが中禅寺湖へ入り込んでいる感じである。ちょうど正面の対岸の大日崎・松ヶ崎は亀が首を出した形にそっくりである。 七合目から八合目までが最も急なガレ場で、何箇所か右に左にとトラバスする場所がある。トラバスの途中で急に持病の目眩に襲われた。一瞬ヤバイと思い渡りきった安全な場所を見つけて薬を飲み、暫く休憩を採ると落ち着いた。なおも進んで九合目に達すると、両側は低い樹林帯で傾斜も緩くなり、広く歩きやすい道となる。頂上直下は赤い火山礫が堆積しており足場が滑って登り難い場所である。男体山の頂上は割りと広く、西の端には奥宮があり、中央には非難小屋が建っていた。銅の大太刀が岩に突き刺さった形で埋め込まれている。太刀の刃は何故か赤城山に向けられているという。北側は火口の面影を残し、ザックリと切れ落ちて硫黄の臭いを漂わせていた。反対の志津小屋側から登ってきた7〜8人の中高年の女性パーティーの記念写真のシャッターを押してやった。序でに心配であった「志津小屋の水場はどうでしたか?」と質問すると「きれいな水が湧いていましたよ。来る時飲んできて何でもないから平気ですよ」という返事で一安心した。何よりも手を伸ばせば届くようなすぐ北に、明日登ろうとする女峰山の美しい姿が目に入ってしばし見とれてしまった。一旦登ってしまえば、ほぼ平らな尾根の縦走であり、尾根から張り出している小尾根のひだが、苺の”女峰”の形とそっくりであり、命名のいわれが理解できた気がする。

 今晩の宿である志津小屋へ向けて下山する事にする。暫くは平坦な下りであったが、火山特有の急降下の連続である。火山灰であるため、土が木の根に支えられているので、所々根の下側はガクッと崩れている。何処か平坦な場所があっても良いもの、それにすそ野になるに従って傾斜が緩くなるものと、山の一般常識で考えながら歩いていたら、いきなり平坦な笹原の地形になったかと思うと、目の前に志津小屋が建っているではないか。先ず気になっていた水場を調べると、小屋のすぐ手前の火山灰の砂地にきれいな地下水が湧き出ており、トタン屋根で片側が覆われていた。

 小屋は開放されており私が一番乗りであった。しっかりした造りで梯子で二階へも昇れる構造になっている。一階は土間が十字になっており、床は四隅に仕切られている。先着優先で入り口左手の気に入ったスペースを確保した。未だ明るいので外で夕食を作っていると、二番手は40歳くらいの男性であった。その人は私とは反対側の入り口の右側を確保した。軽く一杯アルコールを飲みながら夕食を採っていると、三番目は若い男女であったが、荷物の大きさですぐに思い出した。午前中に林道で追い越してきた若いカップルであった。この二人は、右奥のスペースに荷物をおいた。夕食を済ませて食器を片付けていると、青年が飛び込んできた。既に外は暗くなっていた。30代前半と思える青年は、一箇所空いている左の奥、つまり土間を挟んで私の奥であり構造的には一番近い距離に場所を確保、手際よくその場で夕食の支度を始めた。声を掛けると百名山を目指しており、関西に勤めていた関係で西の山は全部登りきって現在70数山、これからは東の山に登り、明日は少し離れてはいるが、4時に出て日光白根山に登る予定という。若さとは言えその気迫には驚いた。私はのんびりと女峰山に登っていていいのか?

 志津小屋の宿泊者は四組五人、18時30分には明日に備えて寝てしまう。深夜に途中一回目覚め、外に出て空を見上げると満天の星空がキラキラと輝き、きれいであった。

男体山

登拝門 潜ると直ぐに 猿の群 歓迎されて 頂上めざす
                    

      9/19

中禅寺温泉(10:00-10:05)ー二荒山神社中宮祠(10:20昼食10:50)
ー登拝門(10:50)ー三合目(11:30)ー四合目(12:00)ー
(12:30休憩12:50)ー(13:30目眩休憩13:50)ー九合目
(14:20)ー頂上(14:30-15:00)ー志津小屋(16:30)






33、日 光 白 根 山(2577.6m)  1998・09・20 



 四時起きで奥白根山へ登るという青年の支度の気配で目覚める。私も気が変わり折角だから一つ稼いでおこうと、女峰山への登山を諦め奥白根山へと変更した。とは言っても早朝の山中であり、バスや車は使えない。何しろ自分の足だけが頼りである。志津小屋から白根山登山口の湯元までは、4時間は有に要するであろう。幸い平地に近いし、裏男体林道は光徳分岐まで緩い下りであろうが、戦場ケ原を越えて、飛ばしに飛ばしても湯元まで3時間はかかるであろう。朝食を済ませ5時ジャストに志津小屋を出発した。林道は雨の為に水流でアスファルトが剥がされて、とても志津小屋の下に当る志津乗越まで車は入れない道路状況であり、せいぜい飯場跡くらいまでしか入ることは出来ない。それでも日曜日とあって車で来る人も多く、結構行き交う。

 戦場ケ原の木道では、男体山の写真を思い思いの角度から撮影しようと、また日出を狙って数人のカメラマンが、シャッターチャンスを狙って待機しているのと出くわす。沢では釣り人二人と会う。出発してから一回も休まず、湯元キャンプ村へは8時、3時間ちょうどで到着した。キャンプ村は1967年に尾瀬へ行く途中に一度来ているが、当時と比べると全く様変わりしていた。私が一人で泊まったバンガローは取り壊され、影も形も存在していない。草の原となっているキャンプ場には幾張かのテントが散在し、家族連れのハイカーが朝食の支度などしてのんびりしていた。ここで水を補給し休憩を採った。

登山口は上の牧場脇の広いバラス道を登っていくと左にある。この山も火山灰なので、いきなり崩壊した急登で木の根に掴まりながら登っていく。上り始めてすぐに太い麻のロープが設置され、いきなりそれに頼らなければならないとは珍しい。しかし、それだけ高度はグイグイ稼げる。天狗平の尾根に出るとそれからは緩い登りで、前白根山までは楽に登れる。右手には尾瀬へ行く途中に金精峠からピストンした金精山がある。目の前には五色沼が静かな佇まいで水をたたえている。その向うに目的の白根山が威厳を備えた風格で聳え、大きく威圧されるようである。前白根からは左に白根隠山が聳えおり、日光や中禅寺湖方面からは白根山の威容は全く目にする事はできない。文字どおり奥白根山の姿を隠す位置にある厄介な山であるが、そこに自然の面白さがある。私も前白根山に登って初めて奥白根山の姿を目にした事になる。前白根山の頂上は、日陰となる樹木も岩陰もない。強い日射しでは太陽光線と岩砂の照り返しで熱くて堪らない。せいぜい小さな潅木の木陰に入ると少しは涼しいが、それも先客に占領されていた。どうにか小さな潅木の枝の下で昼食を採って休んだ。出るとすぐに他の人がその場に入ってくる。そんな山頂である。

 奥白根山へは、一旦五色沼の端へ下る。避難小屋があるが、その鞍部から本格的な登りとなる。白樺の木が散在する程度で、ジグザグに着けられた急な登り道を忍耐強く登っていかなければならない。もうすぐそこに頂上が見えそうであるが中々辿りつかない。2577.5mは日光火山群の主峰であり、関東以北の最高峰である。そう易々とは頂上を踏ませてくれない。ガイドブックのタイムと同じ一時間を要し、やっと頂上へたどり着いた。頂上は割りと広く、大勢の登山者がいるのにビックリしたが、群馬県側からゴンドラだ途中まで運んくれ、簡単に登れる事が分った。

 下りは元来た道を下山するのであるが、途中汗を拭おうとして半タオルがない事に気がついた。ニッカの右後ポケットに入れておいたのであるが、前白根山から五色沼に下る途中木の根に掴まらないと降りられない場所があった。多分木の根に引っかかって抜けたのであろうと、帰り探すと予想どおり半タオルはそこに有った。下りは一度通った道なので楽々と下山し16時20分にはバス停に到着した。この日は早朝から、歩いた時間だけで11時間の歩程になっている。汗を多量にかいたのか、いくら水分を補給しても缶ビールを飲んでも、喉の渇きが治まらない日であった。


日光白根山
                     日光の 奧の院なり 白根山 姿は見せず 嶮しき威厳
     9/20
志津小屋(5:00)ー湯殿沢橋(5:10)ー飯場跡(6:00着替6:05)ー三本松
・光徳分岐(6:35)ー本田代入口(6:40)ー本田代橋(7:00)ー湯滝(7:25)
ー湯の湖分岐橋(7:30)ー湯元キャンプ村(8:00−8:20)ー湯場見平(9:00)
ー天狗平(10:10)ー前白根山(11:00昼食11:45)ー五色沼避難小屋(12:10)
ー奥白根山(13:10-13:25)ー避難小屋(14:00)ー前白根山(14:35)ー天狗平
(15:00)ー湯元バス停(16:20)





34、両 神 山(1723.6m)  1998・11・08



 朝早発ちすれば日帰りできる山が未だ有った。秩父の山である。小鹿野町役場からは両神村営バスに乗り換えて山の奥へ入っていく。マイクロバスにはその日5人が乗車したが、登山客は私を含めて3人であった。終点の日向大谷口で下車しすぐに登り始めた。20分で日向大谷に着き、ここで登山者名簿に記入する。

 最初は樹林の中のゆるい登りで、ハイキング程度で歩き易く、こんな楽で優しい山はあったろうかと最初は安心させられる。小沢を幾つか渡るので水にも不自由はしない。加えて弘法の井戸という、地下水が湧き出している水場まである。ここで休んで昼食にしようとしたが、少し脚を延ばすと清滝小屋があるので、水場では少し口に含んで先へ進んだ。清滝小屋には、水道も引かれた炊事場も設置され立派なトイレも建てられていたが、ただこの小屋は素泊りのみ出来るとなっていた。小屋の裏には名前の通り清滝が落ちている。水道の引かれたところに腰をおろす場所も在り、ここで30分の昼食休憩をとった。ただ困ったのは、人間の生活圏であるため、トイレもあって大きな蝿が飛び交っているのがなんとも不快に感じられた。昼食休憩していると、私よりも幾つか年配のご夫婦が登ってきた。このご夫婦とは村営バスに一緒に乗り、山支度をして終点で一緒に降りた人であり、前にも言葉を交わした顔見知りであった。ご主人の方が今では珍しくキスリングザックを背負っていたので、つい懐かしくなり「昔のキスリングですね今は珍しいですね」と声を掛けたのであるが、夫人の方が「新しいのを買うように言っているんですが、執着があるらしくて・・・」昔とはザックの形も機能も大分変わっている。全ての用具や装備が改良・改善されているので、山歩きもそれだけ楽になっていきている。

 私も荷物をまとめて出かけるところだったので、小屋の横手に付けられた産泰尾根への道を私を先頭に話しながら歩き出した。尾根への登りはジグザグに着けられた道で、余りキツイ登りではないが、暫く一緒に歩いていたがやはりペースが合わない。夫人から主人へ「先に行ってもらったら」という言葉をキッカケに、「それではお先に」と言って自分の歩調で歩き出した。間もなく産泰の稜線に出て尾根を登る事になるが、今迄より傾斜もキツクなり鎖場を四ケ所通過し木梯子を越えていくと、両神神社の本社に出る。その奥にもう一つ同じ位の大きさの神社があるが、系統の違う神社が同じ所に二つ並んで建てられているというのも珍しい。両神山の謂れか?頂上へは右手の道を行くが、登山道をまたいで新しい休憩舎が建てられている。登山道は真ん中を通っているが両側にベンチが造られている。少し進むと鎖場であり頂上へは真近い。頂上へ行くには断崖絶壁をトラバースしなければならない。それも岩の足がかりではなく、人工的に丸太を渡した場所を蟹の横這いではないが、鎖に掴まって通過すると山頂への岩場に取り付ける。

 頂上の剣が峰には祠が建てられているが、狭い場所である。本来山慣れた常識人であれば、記念写真でも撮って次の人に譲って降りるのが普通である。しかし、この時は先に来た特権とばかりに、狭い頂上を若者二人が占拠して我が物顔でガスボンベで昼食を作っているのである。山のルールを知らない非常識さに呆れるばかりであった。他の人も迷惑するし本人達も落ち着かないであろう、少し下に降りて広い場所へ移動して休憩すれば落ち着いて食事はいくらでも出来るのに。蟹の横這いを戻り、鎖場を下りて先ほどの休憩舎に来ると又腹立たしい場面に遭遇した。登山道をまたいで建てられているので大勢が固まって休んでいると、他の登山者は通れなくなってしまう。20人くらいの若者が道を塞いでいるのである。それにしても、私が登ってきたコースは外に二人のご夫婦だけであった。ところが11月なのに多くの登山者がいる。日向大谷からのコースは表参道で正式な登山道であるが、きつい道らしい。日本百名山に名を連ね、有名になるとピークハンターと呼ばれる人が増え、出来るだけ楽に頂上を踏めるコースを選ぶらしい。これから私が下りようとする白井差口からピストンする人が圧倒的に多く、それだけにマナーをわきまえない登山者も居るようである。神社を左に折れず、まっすぐ白井差口目指して下山した。こちらは傾斜も緩く、水場もあって楽なコースであった。

バス停に最初に着いて並び時刻表を見ると、次の便まで一時間近く待たなければならない。バスが来るまでには間があるだろうと思っていると、意外やすぐにバスが来たでないか。先頭に並んでいたので最初に乗り込み好きな場所に座っていると、間もなくバスは発車した。私の時計とは全く時刻が合っていない。満席になればピストン輸送するものかと善意に考えていた。駅に着くと又皆急いでいるが私の時計では時間に余裕があるのであるが、皆につられて急いで行くと発車間際の電車に間に合い飛び乗った。電車に乗って駅のアナウンスを聞き、落ち着いて自分の時計を見ると大分遅れている事に気がついた。電池切れで私の時計が遅れている事にやっと気がついたのである。 以後、山へ行くときは電池のチェックを忘れないようにしている。


両神山
性格か 正規のルート 外さずに いにしの山の 味わい辿る
                    
     11/18
日向大谷口(9:10)ー日向大谷(9:30)ー会所(10:00)ー八海山道標
(10:35)ー弘法の井戸(11:05)ー清滝小屋(111:15昼食1:45)ー
産泰尾根(12:05)ー両神神社本社(12:30-12:35)ー両神山頂
(12:55-13:00)ー両神神社(13:20-13:40)ー一位ガタワ(14:00)ー
御手洗場(14:10)ー昇龍ノ滝(14:35)ー白井差(14:50)ー白井差口(15:20)





35、瑞 牆 山(2230m) 1998・11・13



 両神山の翌週、瑞牆山へ行く計画を組んだが、日帰りでは朝四時半には家を出発しなければならず、バスは増富温泉迄でその先の林道歩きに時間を費やされ過ぎ事が難問である。帰りは増富温泉の最終時間に合うか、検討を加えたがどうにも無理である。そこで車を使うことにした。深夜に出かけて山の下で仮眠を採り、朝から登って帰宅すれば時間的には十分余裕がある。瑞牆山は金峰山とは目と鼻の先である。1965年に奥秩父連山を縦走した折、瑞牆山も視野に入れていたのであるが、金峰山の項で記した通り外していた。

 深夜に人っ子一人居ない林道を走り、増富温泉を過ぎて瑞牆山荘裏の駐車場へ4時30分に到着した。車の中で二時間の仮眠をとりゆっくりと支度をして出かける事にした。支度をしているとワゴン車のタクシーで五〜六人の登山者が着いた。瑞牆山は左手に、正面には金峰山がすぐ近くに見える。富士見平で左に折れ天鳥川目指して進む。樹林の中の道であるがきつい所はなく、鼻唄まじりで進むとすぐに水量の多い天鳥川である。川を渡るとすぐ傾斜のキツイ登りとなる。この日は体調が良く急勾配も鼻唄混じりにスイスイと登った。次第に急登となるが、傾斜がある程度以上になると却って身体には楽である。岩角や木の根を掴んで腕の力を使うと、四足となり二本脚で登るよりは大変楽になるのである。道は山の裏側にまわる形となり、2つの岩峰の間に入り、右手へ回り込んでルンゼ状を攀じ登れば瑞牆山の山頂に飛び出す。360度の展望で、八ヶ岳・南アルプス・富士山・金峰山などがよく見える。昨夜瑞牆山荘へ泊った人や後着の登山者がボツボツ登ってき始めたので下山する事にする。

下りも快調であった。急な岩場は手足を使い安全を確保して降りる。この山は昔から信仰の山であり、実際に修験者が修行した洞穴跡も残っているらしい。天鳥川の水量といい、上流や岩陰には修験者の掘ったり刻んだりした跡が残っているような気がする。川を渡って富士見平まで、又ルンルン気分で「北国の春」を自然と口ずさんで歩いてしまい、午前中には車の所へ下りてしまった。瑞牆山を下正面の角度から見上げると、端午の節句に飾る兜の形に似ている事に気がつく。やはり、威厳を持った山である。

瑞牆山
  遠くから 望む瑞牆 勇壮な 男児の祝い 兜の威厳
                   
   11/13
瑞牆山荘(7:40)ー富士見平(8:25)ー天鳥川(8:48-8:55)ー瑞牆山頂上
(9:50-10:10)ー天鳥川(10:50)ー富士見平(11:10-11:15)ー山荘(11:40)




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マウンテン
36、天 城 山(1405.6m) 1998・11・22



 11月末になり、百名山で雪の無い山といえば数は限られてくる。そこで目を付けたのが伊豆である。 天城山へは東海道新幹線を利用し、日帰りで行って来る計画を立てた。その点私の住んでいる所は交通の便に恵まれている。新横浜駅に近く、乗ればこだまで三島まで43分、8時10分に到着し伊豆箱根鉄道で修善寺駅へは35分、9時前に着いてしまった。シーズンオフとはいえ日曜日とあって人出は多く、天城方面行きのバスは満席であった。小さなザックを背負った行楽客が多いので、天城山へ登る人もさぞかし多いかと思いきや、トンネル手前の天城峠バス停で降りたのは3〜4人と以外に少なかった。

 停留所のすぐ脇が登山口になっており、川端康成の伊豆の踊り子の舞台でもある旧トンネルまで10 分で到着し、ここで少し昔を偲んでトンネルの中を歩いたり写真を撮って10分程過ごした。ここまでが少し山らしい登りであったが、後は樹林の中の平坦な道の歩行である。枯葉のクッションを踏んで歩く快適さに、思わず走り出してしまいそうな気分でつい速足になってしまう。自然に鼻唄が出るような気分で快調に歩いていると、沢も無いのにいきなり水音が聞こえてきた。山の中腹の少し開けた平坦な所に湧き水を利用してつくられたわさび田が在り、一人の男性がわさびの手入れをしているのが見えたが通り過ぎた。

足に負担の掛からない柔らかい登山道を走るように進んでいくと、左に入る脇道があり鉄筋で組んだ見晴台が在った。それまでは全く見晴らしの効かない樹林帯の単調な歩行であったが、やっと青空と他の山並みを見ることが出来た。そして登山道を挟んですぐ右前方には青い空を映した八丁池が見えるではないか。八丁池へは時計回りに廻りこむように付けられた道を下ると、10分程で池畔の草地にベンチを備え、休憩できる平坦な場所に着いた。それまで2〜3人しか人に会っていなかったが、八丁池には沢山の行楽客が身軽な支度で来ていた。別の楽なルートから登ってきた人達で、若い女性が多く草むらにシートを敷いて座り、それぞれに食事をしたりのんびりした雰囲気が漂っていた。ちょうど昼時なので、20分程で昼食を済ませ早々に出発した。こちらはまだ序の口、これからが本番である。前と同様枯葉が積もりクッションのよい、樹林帯の中の遊歩道をハイキング気分で快調に飛ばした。白田山は巻き道で気が付かないうちに通過してしまい峠になり、すぐまた戸塚峠である。

 行く手の先で若い二人の女性が地面に地図を広げて何か調べていたが、その脇を追い越し少し先の中年女性もかわして進んだ。今迄とは違って岩肌の見える少し急な登りとなる。小岳への上りであるが、天城山ではここだけが20分ほど登山らしい登り坂であった。身体に余裕があったので少しピッチを上げて登っていると、後ろに靴音がして私について来る気配を感じて振り向くと、先程地図を広げていた若い女性の一人であった。小岳の頂上で一服していると間もなくその女性が到着し、すぐ後から二人の女性も登ってきた。話してみるとこの女性と中年女性は母娘であり、もう一人の若い女性は娘さんの高校の友人であるという。昨夜は修善寺で宿泊して朝出発し、同じコースを先に登って来た事が分った。天城山の最高峰である万三郎岳への登りはたいしたこともなく、小岳から20分で着いてしまった。 頂上には温度計が吊り下げてあり、見ると摂氏0度であった。曇日ではあったが、暖かいと言われる伊豆でも、標高1400mになるとやはり寒い事が分かった。三人の女性パーティーもすぐに着き、それ以後はバスの出発時間との調整も考慮に入れ、万次郎岳を経て天城高原ゴルフ場バス停まで、のんびりと一緒に歩いた。

 16時15分にはバス停に着いたが、バスの時刻表は17時16分で丁度一時間待たなければならない。普通であれば出発時間より早く到着して待っている筈の、バスの中での時間待と都合よく考えていたのだが、その日は定刻になってもバスは一向に来ない。十数人の待ち客はだんだんと焦り苛立ってきた。携帯電話を持っている人がバス停の電話番号でバス会社へ確認すると、定刻に出発しているが渋滞に巻き込まれ遅れているのではないかという返事であった。11月末の17時は、日は暮れ外は冷え込んで寒い。4〜5人で来ているパーティーは待ちきれずにタクシーを呼んで帰るグループも出てきた。結局一時間半遅れてバスはやっと到着したが、結構冷え込む寒空で2時間半も待たされた事になる。やっと伊東駅行きのバスに乗り帰路についたのであるが、やはり日曜日の道路事情でそのバスも渋滞で遅れた。19時に伊東駅へ到着したが、三人の母娘グループとはそこで別れ、帰途についた。

 三ヶ月後の翌年2月、伊豆大島へ旅行に行く機会に恵まれた。熱海港から高速船で約一時間、行き帰りとも好天で、伊豆半島の山々を海上から眺めることが出来た。歩いていると樹林の下で全く姿形の見えない山であるが、海から見る天城山はやはり伊豆半島の中では際立って雄大な山である事が確認できた。

万三郎岳
歩いては 見えぬ名峰 天城山 巡航船で 雄姿現わす
 
     11/22
天城峠停(9:50)ー旧トンネル(10:00-10:10)ー向峠(10:45)ー大見分岐
(11:15)ー見晴台(11:45)ー八丁池(11:55-12:15)ー白田峠(12:45)
ー戸塚峠(13:00)ー小岳(13:30-13:40)ー万三郎岳(14:00-14:15)
ー石楠立鞍部(14:40)ー万二郎岳(15:10-15:30)ー天城高原ゴルフ場(16:15)






37、筑 波 山(876m) 1998・11・29



 この年は冷夏で雨が降り続いた年であり、梅雨が明けるとすぐに秋といった感じであった。筑波山へは9月15日、敬老の日に予定していたが台風5号が上陸予定の為、11月に変更した。上野駅から常磐線に乗ると、座席はほぼ満席であるが周囲の乗客はスポーツウエアを着たり小型のザックを持って、皆軽装であった。電車が土浦駅へ止まると殆どの乗客が降り、同じバス停へと向って列をなして歩き出し、ピストン輸送のバスに乗り込んで行く。私は確認もせずにその列の流れに引き込まれてしまい、バスに乗り込んでしまった。下車して初めて間違いに気が付いた。迂闊にも筑波大学のグランドで行なわれる、筑波マラソンの会場へ来てしまったのである。土浦駅で筑波神社行きのバス停を事前に調べておかず、人の流れに飲み込まれ何の疑問も持たなかった不覚を悔いたが、後の祭りである。すぐにタクシーを拾い筑波神社へ取って返したが、タクシー代は予想外の大きな出費となったが、9時50分には無事神社前に到着した。

 神社の境内を進みさらにケーブル駅への石段を上がると、石の鳥居がある。右手にある登山口から登り始めるが、見事な杉の巨木がその歴史を物語っている。檜やスジタイなどの鬱蒼とした森の中の登山道を登って行く。傾斜は意外ときついが、後から来た軽装の女性が軽い足取りでスイスイと追い越して行く。少し開けた所に中の茶屋がある。すぐ左にケーブルカーの索道があり上下線が交差する中間点で上下線が交差する複線になっている。タイミングよく交差する場面を目撃することが出来た。さらに樹林の中を進むと道は左手に曲がっているが、ケーブルカーのトンネルの上を歩き暫く行くと、右手に地下水が湧き出ている場所は、男女(みな)川の水源であるという。更に登るとミズナラやブナの樹相となり、最後の登りを過ぎると御幸ガ原へ着く。御幸ケ原は、少し平坦な草原というイメージとはかけ離れた、頂上広場といったところで茶店が並んでいる。筑波山は双耳峰で、美幸ガ原を鞍部として西に男体山があり東が最高峰の女体山である。初めに男体山へ行き昼食を採る。こちらは岩の塊で割合広く混雑していない。昼食を済ませ時間に余裕があるので、自然研究路を一時間かけて観察することにした。ガイドブックでは時計回りが良いというので、散策路に従い進んだが、道を間違えたのか”御海の水”という洞窟から水が湧き出している所で行き止まりになってしまい、仕方なく引き返した。反対側の女体山へ行ったがこちらは狭く混雑していて、写真も頂上の標識だけ撮って下山する事にした。

 降りる所の頭上にガマが口を開けた形をしたガマ石が有り、口の部分に小石が満杯に積もっていた。私も一つ投げてはみたものの、高い所なのでとても開いた口に入るものではない。そこからは岩道の下りであるが、ところどころに奇岩・珍岩・怪石が連続して配置されており、歩いていて飽きさせない。順番は覚えていないが、大仏石・北斗岩・裏面大黒岩・母の胎内くぐり、出船入船・弁慶七戻りと言われる狭い岩の通路など、自然が造り出したそれとそっくりに見える岩の造形がこの山の魅力のもう一つであり、写真に納めながら下った。つつじヶ丘高原はそれまでとは一変して緩やかな傾斜のお花畑で、つい一休みしたくなる雰囲気で小休止する。駐車場も眼下に見え、つつじヶ丘駐車場ロープウエイ駅からは、ロープウエイがすぐ上を通過していく。私は、山の中の自然林の緩やかな歩きやすい道を下り筑波神社へと戻った。

 ところがバス停の時刻表を見ると、次の発車まで一時間待たなければならない。周りを見ても食事をしながら一杯呑んで時間をつぶすような場所もない。バスの発着する筑波駅までは徒歩50分である。思い切って歩く事にした。途中方角を間違えそうになり、ちょうど通りかかった中学生に尋ねると、礼儀正しく道順を教えてくれた。歩いて発見したのは、村の辻や所々に、筑波山に関る石碑や祠があちこちに奉られており、筑波山が地元の人達にとって、如何に信仰深く崇められて来た山であるかが伺い知れるというものであった。

筑波山ガマ
古くより 山岳信仰 娯楽にも 平野に聳え 願い多かり
 
     11/29
筑波神社(9:50)ー中の茶屋(10:30)ー美幸ガ原(11:05ー11:10)ー男体山
(11:25昼食11:50)ー自然研究路(12:20)ー女体山(12:35)ー弁慶茶屋
(13:10)ーつつじがおか高原(13:25ー13:40)ー駐車場上(13:45)
ー白蛇弁天分岐(14:10)ー神社前バス停(14:25)ー筑波駅(15:・20)







38,石 鎚 山(1982m) 1999・04・30


石 鎚 山〜剣 山〜 大 山 (伯 耆)〜伊 吹 山



 ゴールデンウイークを利用して、四国の石槌山と剣山へ登り、伯耆大山へ行った帰りに伊吹山と、四つの山を一気に登る欲張った計画を立てた。事前に交通網だけはツーリストで手配し4月29日の寝台特急あさかぜで横浜駅を出発した。列車を乗り継ぎ翌朝7時34分に伊予西条駅に着き、連絡よく石鎚山行きのバスに乗り込む。バスはほぼ満席で、ほとんどザックを背負った登山者で占められていた。百名山を目指して来た人が多く、私の何列か後にたまたま相席になった中年の男女が意気投合し、北海道から全国の山に登った経験を、あそこはどーだ、こーだったとバス全体に聞こえる大きな声で話しているのが、如何にも自慢話に聞こえて耳障りであった。バスは時間通り石鎚ロープウェイ前に到着した。百名山をやるからには、何人かは下の登山口から歩いて登る人もいるかと思ったが、全員がロープウェイ駅に向ったのには唖然とした。

 登山口はロープウェイ下谷駅を通り越し、すぐ先右側に有ったが私一人であった。石段を山側に上ると最初は緩い登りの樹林の中の登山道を歩いていくが、途中人の住んでいない廃家になった集落が在り、そこを通過していく。これと言って変哲のない樹林の中の道を一人で登って行くが、勾配もだんだん急になってくる。四日分の荷物を背負ってしかも初日であり、ザックの重みが肩に食込んでいつになく疲れを感じた。ひょっこり道に飛び出すが、山頂駅からすぐに繋がる玉屋旅館の前へ通じている広い道である。登山口から2時間のコースであった。ロープウエイを利用すればたった8分で来られる。石槌神社成就社は、きれいに整備された大きな神社で、四国ではもちろん加賀白山以西では最高峰である石鎚山は、日本七大霊山として信仰の厚い証であろう。石鎚神社の拝殿・表篭所が建ち、周囲に幾つかの旅館が建てられている。ちょうど昼時なので昼食を採る事にした。先にロープウェイで上がった人達は既に上へ登っているのであろうか、私以外には誰も居ない。昼食を採って社務所横に電話ボックスがあったので、テレカを使い家へ安否の連絡をした。

 石鎚山への登山口は木で建てた立派な山門があり、今はここが正式な登山口になっている。最初は緩やかな広い下り坂を歩くが暫く行くと鞍部になり、八丁坂小屋が開放されている。此処で道が枝分かれしている要衝の地であり、幾つかの登山口から上るとここへ集中するのであろう。それを過ぎると、原生林の中の急なジグザグなきつい登りとなり、間伐材を利用した丸太の階段を上る。暫く進むと試しの鎖場との分岐であるが、登山道から右に入るようになっていたのに、うっかり通り過ぎてしまった。前社ケ森一軒茶屋は開放され、テーブルが置かれて休むことは出来るが、まだ店番はいない。四月の末では未だ登山者が少なく営業していないのかもしれない。中で休んでいると茶店の裏側から登山者が出て来るので不思議に思い確かめてみると、試しの鎖を上がって来た人であった。この小屋は茶店で宿泊は出来ないようである。泊れれば今日は此処で休みたい気分であった。この日登山口から歩いた為か、かなりバテていたのか、今迄の山行きでは初めての事であるが、右胸に異常を感じた。ザックが重く高いこともあるが、歩く時に左右に大きく揺れる時は身体が疲れている証拠である。試しの鎖場に挑戦する気力も薄れていたくらいである。宿泊したい気分であったが、休憩すると疲れも多少薄れて気力も湧き、もう少し行ける所まで行こうといういう気になる。先へ進むと実はきついのはここまでであった。少し下って夜明かし峠があり、この後一の鎖を登るがいつもより身体が硬直している。鎖場を登った所からは石鎚山の最高峰である天狗岳が目の前に望める。更に進むと左に土小屋へ下る分岐があるが今日は弥山まで登る当初の計画である。階段を登ると少し開けた地形になり、正面に鳥居が有り、その奥に長い鎖場が見える。65mある二の鎖で、手前迄行き確認し明日攀じ登る事にする。

 手前の石階段両側に小屋が有り、まだ小屋番が入って営業して居ないようであるが、左側の小屋が一部屋開放されており、8畳ほどの広さであつた。中には先客がいて中年の男性が夕食の支度をしていた。14時40分と未だ時間的には早いのであるが、頂上へは明日登る事にし無理せず今日はここで泊る事にする。私も食事の支度に取り掛かり、二人で炊事をしていると見知らぬ人が現われ、小屋の経営者であった。今晩から小屋を開けて営業を開始するという。明日が5月1日なので、明日から本格的な営業を始めるとの事であった。今迄閉ざされていた本館である階段の反対側の建屋へ移された。素泊り料3000円也を支払い、初日なので客は例の男性と2人だけ、広い二階の部屋で手足を伸ばしゆっくりと休んだ。

 翌日は早く起きて朝食前に頂上を往復するつもりで居た。本来の計画では既に昨日頂上へ行き、 二の鎖小屋へ宿泊する予定であったので、計画より大分遅れている。5時20分に水と軽食をサブザックに詰めて出発した。小屋のすぐ上に鳥居がありその奥が二の鎖である。丹沢の鎖場は別にして、北アルプスやその他の山の鎖場を経験してきたが、石鎚の鎖は他の所と形状も違い、太くてガッチリしており固定されているわけではないが自由に動かない。それだけ信頼し安心できるのであるが身体が固くなり、思うように登れない。30分を要して二・三の鎖を攀じ登り弥山の頂上に立つ。頂上には山頂小屋があり、石鎚神社頂上社が置かれている。しかし、最高峰は左に折れた先に在る天狗岳である。弥山から天狗岳へ移る所が一旦少し下がるのであるが悪場で進み難い。細い鋼索が掛けてあり、それに掴まると移りやすく、右側に傾斜した稜線を伝って大砲岩と呼ばれる天狗岳の最高部に着く。360度の展望であるが、すぐ目前の瓶ケ森や笹ヶ峰の整った山容が印象的であった。頂上からの下りは鎖場を避け、巻き道である鉄板造りの桟道を下った。時計回りに降りてくると二の鎖前の鳥居に出くわす。小屋に戻り朝食の準備をしてして食べ、7時10分に小屋を発つ。昨日休憩した前社ケ森の茶店で下着を替え、成就社には8時45分に到着した。楽な下りは勿論ロープウェイを利用しておりるが、駅に着くと出たばかりで、1時間に2本なので25分待ち8分であっという間に下谷駅へ着いてしまった。

 ところがである。9時38分に下へ降りたのであるが、次のバスの出発までに2時間待たなければならない事がわかった。バス停の前に一軒だけある食堂へ入って時間をつぶす事にした。食事を注文したが時間がたっぷりあり過ぎる。その日は山へ登る予定はなく、次に上る剣山の下まで着けば良いので、アルコールは自由でビールを3〜4本飲んで時間をつぶした。その日、1999(H11)年51日は、四国の人達にとっては二度目のお祝いの日であった。最初は1988年4月に瀬戸の大橋が開通し、本州と四国が直接結ばれた日から二度目、今度は尾道と今治が橋で結ばれ”しまなみ海道”として開通した記念日であった。食堂のテレビは朝からそのニュース一色で持ちきりであり、開通式や橋の知事の渡り初めの光景が何回も何回も映し出されるのを、ビールを飲みながら本四架橋を祝うテレビを見、店の主人と話しながら長い2時間がやっと過ぎた。1日四本しかない、伊予西条駅行きの二本目のバス、11時47分発のバスが来て乗り込んだ。乗客は、私を含めて2〜3人であった。

石鎚山鎖
石鎚の 太き鎖に 攀じ登り 弥山拝んで 天狗の峰に
 
       4/30
伊予西条駅(7:41)バスー石鎚ロープ前(8:35ー8:45)ー(10:00小休10:10)
ー玉屋旅館(成就社)(11:50昼食12:20)ー八丁坂(12:35)ー前社ケ森
(13:35ー13:50)ー夜明峠(14:10)ー二の鎖小屋(14:10)素泊
     5/1
二の鎖小屋(5:20)ー三の鎖ー弥山山頂(5:50)ー天狗岳(6:03ー6:08)ー弥山(6:20)
ー二の鎖小屋(6:40朝食7:10)ー前社ケ森(7:50)ー成就社(8:45)ー下谷駅(9:38)






39、 剣 山 (1955m) 1999・05・02



 伊予西条駅から予讃線・土讃線・徳島線と乗り換え、剣山登山駅と宣伝している貞光駅に着く。この線は無人駅で、車掌さんが降りて学生の定期を確認したり切符を集めてから発車する、のんびりした路線である。駅前からの最終バスに間にあったが、真夏のシーズン1ケ月以外は、途中の剣橋止まりで、剣山登山口である見の越までは行かない。剣橋でバスを降りて宿を探していると、すぐ近くにホテルが有り客はいっぱいであるが、他に電話をして民宿を探し紹介してくれた。偶然同じ時刻に定年になったご夫婦が車で来て宿を探していたので三人で行く事になった。田舎の人は親切であり感謝である。紹介先の民宿は、宿泊と明日の朝食は準備できるが、時間が遅く夕食はダメと言う事で、そのホテルの食堂で三人で夕食を済ませて行く事になった。食事を済ませ、ご夫婦の車に便乗させてもらい、民宿へ行く事になった。道路の左側に在るという事であるが、剣山へ向って奥へ行く一本道なので迷ったり見落とす事はないが、田舎の道は遠く中々見つからない。”民宿ドライブイン剣山”は川の畔に有り、老夫婦二人で経営していた。先客はなく私達三人だけの宿泊であった。 夕食は済ませてきたので、風呂に入って軽く一杯飲むことくらいしかない。風呂場は地階にあり湯はたっぷりでくつろげた。話好きな老婦人が私がビールを飲んでいるところへ話しに来て、昔はもう一段下に風呂場があり、裏の沢の流れを見ながら風呂に入れたのが自慢な造りであったという。ところが、大水が出た事があり、その時に洪水が風呂場に達して壊れてしまい、一段上の今の風呂場にしたとの事である。山里はなれた民宿であり、シーズンオフでは観光客も少なく人恋しいのか、いつまでも話していたいようであったが、明日山へ登るので早く休ませて貰った。民宿の朝食はみそ汁の具沢山で、昔懐かしい芋茎が入っていた。見の越までは前の晩に何回も電話でタクシーを呼んだが結局繋がらず、昨日同宿のご夫婦に便乗させてもらった。見の越の駐車場は混雑していたが、未だ早かったので駐車することができた。

 剣山へは、正面の大剣神社へ通じる石段を登り右に進むと登山道へ入る。すぐに樹林帯となるが、リフトの下は安全確保の為にトンネルになっていた。私がトンネルを出て上を見ると車に便乗させて頂いたご夫婦がリフトに乗って通過した。向うも気が付き手を上げてあいさつした。左へジグザグに登っていくと祠が見え、西島神社の下へ着く。さらに左へ急登すると大岩があり、鳴門秘帖に出てくる間者牢の跡があるとのことであるが、板で造られた小さな小屋が建っていた。リフトの西島駅はゴールデンウィークの為か賑わっていた。その前を通過して登って行くと、リフトで登ったご夫婦に追いつく。「速いですね」と挨拶してくれたが、私は左側に分れて刀掛けの松の道を進む。刀掛けの松は、太い枝が横に水平に五m以上も伸び、如何にも何かを掛けておくのに適した枝振りの松である。家族連れも多く、ちょうど松の脇で赤ちゃんのオムツを替えている光景に遭遇した。ハイキング程度の軽いコースである。稜線のモミ林を登ると山頂小屋の下に出る。山頂は平坦で広いが登山者が多く、頂上で記念撮影するのも順番待ちで大変である。四囲の展望は、徳島の山はなだらかで優しい山が多い印象であった。眼下には、これまたクマザサで覆われて美しく形の整った次郎笈が望める。10分ほどいて次郎笈目指して下りについたが、途中で気が変わり次郎笈との鞍部に西島へ下る分岐があり、右に折れて下山する事にした。剣山西面を巻いて緩やかに下る道であるが、前方上部に祠が見え、その下に水が湧いており、手ですくって喉を潤す。更に緩やかな下りを進むと、西島駅の横を通過し、朝登った道を戻り神社へと降り立つが、一つだけ心配があった。

 貞光までの帰りの脚をどう確保するかに頭を痛めていた。次郎笈に行かず途中から下りたのもそれが気になっていたからであった。山を下りて駐車場から次々に出てくる帰りの車を捕まえてヒッチハイクを試み頼んだのであるが、みな断られてしまい乗せてくれる人は誰一人いない。諦めて、昼時なので神社の下にある食堂でビールを注文してゆっくり昼食をとった。食事を終って出てくると、食堂の脇にタクシーが止まっているではないか。しめた!と思い聞いてみると、貞光駅から登山者を乗せて来た。お客さんは今剣山へ登っているので、あと2時間くらいしたら戻ってくるのではないか。私の一存ではいかないが、戻ったらお客さんと相談して相乗りで駅まで行ったらどうですか、ということでタクシーの中で相客になる人が山から下りてくるのを運転手さんと話しながら待っていた。2時間程待って快く相乗りを承知してくれたので、ちょうど14時に出発し、一時間を要して貞光駅に到着した。

剣山頂上
奥深き 平家伝説 語られし 剣の山に いにしを想う
 
      5/2
民宿(8:30)ー車ー見の越(9:00)ー西島駅(9:40)ー刀掛松(10:00)ー
剣山(10:30ー10:40)ー水場(11:00)ー西島駅(11:20)ー見の越(11:50)




40、 大 山(伯耆) (1729m) 19999・05・03



 登山の時間は3時間足らずであったが、余分な時間を費やしてしまった。次は大山であり、少なくともその日のうちに米子まで着いていなければならない。貞光駅で30分待つと特急剣七号が土讃線へ行き、阿波池田で乗り換えると、L特急南風六号が岡山まで直通で行く。岡山からはこれもL特急やくも23号が米子駅へ20時38分に到着した。さて宿であるが夜の九時である。周囲を見回すと簡単に泊まれるビジネスホテルらしきものは沢山見えるのであるが、ゴールデンウイークの真っ最中である。部屋が空いているかどうか分からない。そこで警察で聞くのが一番安全で正確と考え、駅前に在った幹部派出所へ行き聞いてみた。「先ほども聞きに来た人がいたが、いっぱいで泊る所はないそうです」との返事である。私の先入観もあり、警察官の言葉もあるので、ホテルに当たって確かめもせず信じ込んでしまった。駅前ロータリーの中に、四方全面ガラス張りのバスの待合所が有ることを確認していたのでそこで泊る事にした。「但し荷物には気をつけてくれ」という警察官のじょげんもあり、駅のコインロッカーへザックと大事な物は入れ、待合所で休息をとった。朝コインロッカーへ取りに行ってびっくりしてしまった。時間制かと思いきや昨夜12時前に入れたので、何分かの差で日変わりし2日分のコインを入れないとロッカーは空かなかった。

 始発のバスで登山口である大山寺へ向かう。途中から大山の姿が見え始めるのであるが、バスが進むにつれ、見る方角によって山の姿がだんだんとそして全く変わって見えるのである。伯耆富士の異名を持つ中国山地最高峰のトロイデ火山で、西方から見ると富士山そっくりであるが、大山寺へ降りて真近に見ると、なんと岸壁状のアルペン的山容にはびっくりした。バスを降りて大山寺の町並みは旅館街であり、大山の門前街である。みやげ物店の並ぶ通りを抜けて行くと右に折れ、橋を渡ると登山道への道である。登山届けは、旅館街入り口の右側に在る交番で提出してきた。大山はなにしろ人の多い山である。山の多い地域では人が分散するが、大山は中国山地最高峰で人気の山であり、他にそれらしき山もなく登る人が集中するからであろう。当初の計画では本谷小屋から大堰堤に行くつもりであったが、人の流れにつられて川で水を補給しようとつい夏の通常コースへ引っ張られる形で進んでしまいノーマルコースへの道を登る事になった。

 最初は緩やかな登りであったが、だんだん傾斜はきつくなる。あたりは潅木になり、明るく開けて見晴らしもよくなる。六合目の避難小屋は登山道から左に折れたすぐ先に建てられていた。小さい建物に休憩している人が大勢いるので、横目で見ながら通過する。登山道は丸太の階段で整備されているが八合目を過ぎるまではかなりの急登が続き喘ぎながらの登りとなる。それにしても人が多い。登山道も前がつかえて行列に近い。キツイ登りを必死に足元を確かめながら登っていくと、下ってくる人に上からポンと肩を叩かれた。今回の山行きで初めて知り合いになった人であった。キツイ登りであったが、九合目から上は頂上大地となり、緩やかな傾斜の木道歩きとなり、とたんに楽な歩行となる。ところが這い松の中に敷き詰められた木道歩きなので遮る物がなく烈風と砂塵が舞ってくる。日本海から砂丘の砂を吹き上げる冷たい風に体温を奪われないよう防寒着を一枚着る。頂上までは木道をたどり、やがて大山頂上避難小屋が右に見えてくる。その脇に石が山になっていた。大山は今でも崩壊が激しいので、登山者は下から石を一つ持って登る習慣があるらしい。弥山から三角点までは五分であるが、その先は崩壊が激しくロープが張ってあり立ち入り禁止となっている。すぐ先に見える一段と高い剣が峰から南壁が見える。剣が峰へも行ってみたいが、禁止されているので弥山に戻り昼食とする。頂上からは眼下に広島の砂丘も見える。

 頂上大地は避難小屋の下で木道が左へ別れ、帰路は一周するように迂回コースに指定されている。下方に当る左手奥の鞍部には小さな地蔵池もあり、その周りは素晴らしいお花畑に囲まれた楽しいコースになっている。私は周ってみる魅力も感じたが、元来た木道を戻ってしまった。八合目からも登った道の折り返しであるが、まだ登ってくる人はあとを絶たない。旅館街に下りて、甘いものが食べたいので菓子パンを買い、缶ビールも買い込んで、広いバス停の芝生に座って一人で飲んでいた。バスの発車までには時間が有りすぎる。暫くすると七合目あたりですれ違った肩ポンの男性ともう一人の男性がバス停に現われた。私よりも早い筈であるが、途中の食堂へ寄って食事をしていたそうである。この二人とは、石鎚山・剣山・大山と、三つの山を同じ日に登って会っていたらしい。私の方は全く気が付かなかったのであるが、二人の方は山の中かバスに同乗している時に見ていたのか、私の事を知っていた。同じコースを偶然にも三人で歩いていた事になる。一人は新潟から来たという人で、背も高く山の貴公子然とした、薄いマントをたなびかせて颯爽と山を歩くといったスマートな登山者であった。もう一人は、私の出身地である群馬県から来て三山を歩き、二人とも今日で帰途につくという。序に、昨夜の宿はと聞いてみたところ、「簡単にビジネスホテルに泊れましたよ。」ということであった。やはり直接ホテルへ当って確かめてみるものであった。米子へのバスは二系統あり、私は先に朝乗ってきた路線の切符を買ってしまったので、大山寺バス停で別れ米子駅へ戻ることになった。

伯耆大山
富士山と 見紛うほどの 山なれど 角度変われば アルプス銀座

    5/3
米子駅(6:45)ーバスー大山寺(8:10ー8:15)ー夏道五合目
(9:20ー9:35)ー八合目(10:30)ー弥山(11:00)ー三角点
(11:05)ー弥山(11:10ー11:20)ー大山寺(12・55)







41、伊 吹 山(1377m)    1999・05・04



 この山はどうしても早く登っておかなければ気の済まない山である。何故なら新幹線で通るたびに気になり見過ごせないからである。関ケ原の合戦で、西軍の総大将石田三成が逃げ込んだ山でもある。大山(伯耆)に登って米子駅から新幹線の岡山駅へ出て、米原駅から在来線の伊吹山登山口である近江長岡駅へ着いたのは20時35分であった。伊吹山方面へ行く終バスもなく、駅の周辺には旅館らしいものはく静かな田舎の駅である。狭い待合室には板張りのベンチがコの字型にあり、最後の手段は駅員に頼んで朝まで仮眠を頼もうと覚悟を決めていた。待合室には地元の女子高生が三人居て、お喋りをしていた。タクシーも一台あり、運転手さんも待合室で客待ちをしている。そこで女子高生に「この近くに旅館か民宿はないか」聞いてみると、「私知っているよ」と言う事で、幸いにも伊吹山のすぐ下で民宿の名前も思い出してくれた。早速駅の公衆電話で確認すると、遅いので夕食はダメであるが、宿泊と朝食付なら泊ってよいと言うので、即座に予約をし早速運転手さんに民宿へ送ってもらった。客は私一人であったが、風呂は満々と溢れる浴槽に浸かってサッパリし、ビールとつまみを頼んでおいたのでそれを飲んで床に就いた。

 翌朝目を覚ますと残念ながら雨であった。朝食を食べていると始発バスがエンジン音を響かせて通過して行った。民宿はバス道路に面していたのである。朝食を済ませ、雨に備えて完全装備をして民宿を後にした。民宿から登山口までは五分ほどの近くであり、すぐ左手に三之宮神社が在りその横を通ると登山道になる。その上はスキー場になっており道はなだらかな斜面のスキー場の真ん中を横切るように付けられている。草原であるから雨風を遮る物は何もなく容赦なく身体に吹き付けてくる。私が登って行くと始発のバスで登りはじめた人達であろう、先発の三人のパーティーが引き返してくるのに出会う。草原の端の方には、スキー客相手の民宿やレストランが建ち並んでいるが人影は全くなく静まりかえっている。風雨が横から吹き付ける中、尚も登って行くと三合目のスキー場の最上部である。此処はリフトの終着駅で、スキー客を運ぶゴンドラが折り返す鉄塔があり、客が昇降するために板が張ってあり、その下に入ると多少は雨風も凌げる場所がある。この周り迄はレジャー基地で、キャンプ場やホテルも建っているが、この先は人手の加わらない自然の山となり、ここからが登山となる。リフトの板の下で雨を凌ぎながら、一服してこれからの進退を考える事にした。その間にも四人のパーティーが上から引き返し下りて来るのが見えた。

 風雨は強い。しかし、これまではスキー場であり平坦な草つき、遮る物がないから横殴りの強風雨に多少の恐怖心を感じていた。しかし、もう少し進んで樹林帯に入れば、風は弱まり何の事はない。行ける所まで行ってみようと心を決めた。強い風雨の中を前進するのは結局私一人で、前後に人影は全くなく、いくら進んでも樹林帯には入らない。五合目に着くと山小屋があるが一部壊れていて中は見えるが人の気配はない。すぐ下に独立したトイレがあった。風雨は強くなる一方で標高が高くなるにつれて寒さを感じたので、体温を奪われないようトイレの屋根で雨を凌ぎながら長袖の下着を一枚着込んだ。体温の調節はこれで良しとしてなおも進むがいっこうに樹林帯にはならない。低木の斜面をジグザグに登山道が付けられ、雨水は登山道を流れたり横切ったりして溢れている。夏であればお花畑できれいな場所であろうが、こんな時には高い樹林がないのが恨めしく思われる。そんな事を考えながら歩いていると、後からだんだん近づいてくる人の気配を感じた。速いので先に行ってもらおうと避けていると、傘を差しビニールの簡単な雨合羽に長靴といういでたちで、私をスイスイ追い抜いていく人がいた。風雨の激しい山の中でたった二人、登山者の親しみを込めた無言の会釈を交わした。八合目からは少し岩場の急登であるがそこを登ると九合目からは、途端に平坦になり頂上大地になる。夏は一面のお花畑になり人の目を楽しませてくれるのであろうが。しかし、未だ雪が厚く残っておりロープで通路が示されている。頂上へ着くと吹き飛ばされる程風雨は益々強くなるが、安心をする。頂上には山小屋が五軒あり売店もあるが人の気配は全くない。一回りして見ると小さいが伊吹山寺がある。入り口の格子が開いているので覗いてみると、先ほど私を追い抜いていった青年の姿が見えた。寺(神社?)の関係者であり、下の神社との間を行き来する用事で山慣れていたのである。

 頂上を一回りしてみたが、強風と濃霧で何も見えない。下りは反対側へ行くと広い遊歩道があり、九合目の広い駐車場へ繋がっている。九合目まで車で来て、整備された道をハイヒールでも頂上へ登れることが分った。駐車場には、大きな売店兼レストランが在った。車で来たお客さんが数人居たが、帰りの相談をしている。広い駐車場には風雨が吹き荒れていた。今下ったら車ごと吹き飛ばされてしまうのではないかと心配で相談していたのである。店に入った連絡では伊吹山ドライブウエイは閉鎖となり、定期便のバスも運休でもう登って来ないという。私もバスでは下りられなくなってしまった。最悪の場合はまた登ってきた登山道を歩いて下りなければならないと覚悟を決めていた。若者二台の車は意を決して降りて行った。後は年配の男性と若い女性の親娘なのか関係を知る由もないが、その一台だけが残った。私は、連休に四山を登る支度で来ているのでザックは大きい。年配の男性はそこに目をつけて、私に車に乗ってくれないかと言うのである。重い荷物と私が乗れば重しとなり、風に飛ばされないないというのである。私も渡りに舟と重石代わりに乗ることにした。

 風は最初だけで、ドライブウエイを下る時には山の陰になり、風はさほど強く当らない。無事有料道路の下のゲートに着いた。ゲートを過ぎるとすぐに車を止め「此処で降りてくれ」という。私は序に近くの駅まで送ってくれるものとばかり思い込んで、安易に期待していたのであるが現実は厳しく、重石の役割はドライブウエイのゲート迄で既に終り、後は無用の長物になっていたのである。下に降りると山の上とは違って、風雨はうそのように弱く静まっていた。車を降りて周囲を見渡すと、すぐ近くにドライブインがあった。ちょうど昼時なので温かいラーメンでも食べようと立ち寄り、寒いので熱燗も注文する。客は私だけで誰もなく夫婦で営業していた。出てきたラーメンは期待に反して、これまたパサパサで芯がのこり美味しくなくがっかりしてしまった。お酒も程ほどにしてお暇することにしタクシーを呼んでもらつた。一番近くの駅はJR関が原駅であり、そこから米原へ戻り新幹線で新横浜へ戻った。

リフト終点
登らねば いつも気になる 伊吹山 新幹線で 姿見るたび


      5/4
伊吹登山口(7:30)ー三之宮神社(7:35)ー一合目(8:10)ー三合目
(9:00ー9:10)ー五合目(9:30ー9:40)ー八合目(10:40)ー伊吹山頂
(11:00ー11:10)ー九合目(11:30ー12:00)ー有料道路ゲート(12:30)





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マウンテン
42、四 阿 山(2333m) 1999・05・29


私の出身中学は、小学校からの持ち上がりで、転校生が居ない限り9年間は同じ顔ぶれである。一学年130人前後で、43〜44名で三クラスに分れていた。そうした関係で絆が強く、二年に一度同窓会が行なわれている。地理的に群馬なので伊香保や草津・水上が殆どであった。幹事は、田舎の集落ごとの5地域が持ち回り地元に残った人が中心になり、定期的に実施されてきている。10回目の今回は、珍しく隣県の軽井沢のホテルが会場であった。私はこの機会を逃さずと車で行き、四阿山へ登ってから同窓会へ出席し、翌日は草津本白根山へ登って帰ろうと、前日の夕方出発して四阿山の登山口である鳥居峠へ深夜の11時近くに到着し、車中で宿泊した。

 林道を行くと程なく道標があり、更に進むと林道は終点で登山口へ至る。ここで的岩経由と花童子経由の道が分かれるが、どちらへ行っても一周するコース、計画通り右手の花童子への道を進む。それまでは平坦な道であったたが、ここからが本格的な登山となり、傾斜の緩い樹林帯で熊笹の繁る道を進む。なんと優しく登山者を迎え入れてくれる山なのろうと思いながら上って行くと、突然右手が開けて苦労もせず稜線へ飛び出す。右手には浅間山が見える。この尾根道は開けていて明るく傾斜もなだらかで、周辺一帯はツツジの群落である。花童子宮跡を通りこし、更に進むと東屋が二つあり、二つ目は的岩との分岐点になっている。ここを越えると小さなガレ場になっているが、少し急な斜面の登りである。さらに進むと根子岳への分岐となり、最後の登りで四阿山の頂上へ立つ。頂上からの展望は遮るものとてなく、三六〇度の大展望である。雲上に雪を被った北アルプスの連山が素晴らしい。写真に納めたくなり、シャッターを何回か押す。反対側は浅間山であるが、この方角から見る姿は決して美しいものではない。浅間山は独立峰ではなく黒斑山に続き四阿山へも繋がっている。頂上から見ると、この連山の先端が浅間山であり、芋虫が横たわっている頭の部分に当たるのでとても褒められた姿には見えないのである。富士山と同じく浅間山は、雪を冠った姿を遠くから眺める山である。

 山頂には祠が在り、何の神を祀ってあるか分らないが、中を覗いてみるとなにやら書き物が下がっていた。珍しいので手帳に書き写してきたものである。

 人も来ぬ奥 山百合の花
 神ややどらん 祈らんと思えど
   
 下りはあずま屋・的岩分岐点を右に折れ的岩へ向った。近くへ行ってよく観察すると的岩は、六角柱状の俵を積み上げたような奇観を呈し、一見人工的に積み上げた石垣の城壁のように岩が整然と積まれて並び、厚さも同じ岩の固まりのように見え、自然現象としては不思議な物で、国の天然記念物に指定されている。的岩から下りて樹林の中の平坦な下りが続き、赤ペンキやテープを見落とさないように進めば、先ほどの分岐点に合流する。この山は、花童子宮跡を登り、下りに的岩をめぐる時計の針と反対周り、つまり私が登ったコースの方が急な登りがなく、登山者には登り易く優しい山であることが分った。

 登山道のあちこちに石祠がほぼ等間隔に祀られていた。後で調べると、群馬と長野側に合わせて120存在し、登る人の道しるべにもなっている。この山は、上田の城主真田幸村が兵士を訓練した場所であると言われている。山中での訓練は平地と比べて厳しく、神出鬼没のゲリラ戦を想定し、精鋭部隊を生み出した場であり、戦場での活躍ぶりが納得できるというものである。

四阿山
四阿の 優しき山が 育てしは 上田の武勇 真田の勇士

     5/25
鳥居峠(6:20)ー林道終点・登山口(7:10)ー尾根開けた場所(7:30−7:50)
ー花童子の宮跡(8:00)ー あずま屋・的岩分岐ー四阿山(9:40軽食10:45)
ー的岩分岐(10:53)ー的岩(11:15)ー林道分岐(11:35)ー鳥居峠(12:15)






43、 草 津 本 白 根 山 (2171m) 1999・05・30



 同窓会が終わり、朝食を済ませ車で白根山へ向かった。昨夜は酒量も控えめにし夜も遅くまで付き合わず早くやすんだ。それでも草津白根山バスターミナルに着いたのは10時を過ぎていた。 本白峰山は、観光で見る湯ガマの反対側に在る小高い山に登り、裏側のスキー場のリフトの急な下りを降り、道路を隔てた反対側のスキー場のリフトの下を登って行く。スキー場を横切って登山道に入るが、木道が整備されていてうそのように楽な歩行である。五月末なので未だ所々の樹陰に雪が残っていた。突然視界が開け、旧噴火口の北側に出たのである。木道はさらに火口の中に続くが、荒々しい景色の乾いた火口の荒地に、可憐なコマクサが沢山咲いていた。盗掘で絶滅したのを、地元の保護団体の人達が何年かかけ、苦労して再生したらしい。

 分岐点へ来て頂上三角点が何処に在るか分らず、先ず火口展望台へ登った。そこが一番高そうに見えたからであるが、いってみると頂上ではなかった。火口の反対側にクマザサが繁って火口に切れ落ちた場所があり、そこが高そうに見えたのであるが、地図をよく見て確かめるとそこでもないようである。正確には、先ほどの分岐点へ戻り、左の万座温泉へ行く低木樹林の道を行き、登山道から少し左のクマザサの中に有った。硫化水素ガスが発生しており、三角点へは進入禁止になっていたが、素早く三角点を踏んで登山道へ戻った。そんな関係で、本当の頂上は分り難く、あちこち探しうろついたので30分程のロスをしてしまった。火口展望台へ戻り、反対側の鏡池を目指して下山する。登山道の右下に深緑に囲まれた鏡池が見える。この池も旧火口である。鏡池への下りは急な場所も有り、この山も時計の針とは反対に廻った方が楽なコースである。

スキー場までの道は楽な下りであるが、30人以上の中高年の団体に道を阻まれる事になる。最初はガマンをして後ろについて歩いたがどうにもテンポが合わない。道幅は狭く、雪渓をトラバースする場所もあり、道の端には草花の芽が沢山芽吹いて生えている。これを踏みつけることもできない。このグループを追い越すのに、機会と場所を見つけて3〜4回でどうにかトップに出た時には、もうすぐスキー場の近くであった。一旦車の置いてあるバスターミナルに戻り、こんな時にしか出来ないと思い、一般客が見物する湯釜のある頂上へ登って帰った。

草津白根山
本白峰 火口砂漠に コマクサの 可憐な花に 心なごみて

      5/30
草津白根山バスターミナル(10:20)ー本白根スキー場(10:40)ー本白根山
(11:50)ー(12:00小休12:10)ー鏡池(12:30)ー白根火山山頂駅(14:10)ー
バスターミナル(13:30)ー湯釜頂上(左側)(13:55)ーバスターミナル(14:10)






44、大 峰 山 (1915m)奥駆 1999・06・04〜06


洞川温泉〜山上ヶ岳〜小普賢岳(明王ヶ岳)〜大普賢岳〜弥勒岳〜国見岳〜七曜岳〜行者還岳〜弥山〜八経ヶ岳〜 仏生ヶ岳〜孔雀岳〜釈迦ヶ岳〜太古の辻〜前鬼 



女人結界門
  先ず最初に強い印象を受けたのは、今迄登ったどの山よりも宗教色の濃い山であることに驚かされた。山全体がそうであるが、特に洞川温泉から山上ヶ岳の間が最もその特色を鮮明に現していた。その他にも山の随所に、其々謂れのある樹木の根元、祠や石仏がいたる所に存在し、そこには木の塔婆が何十枚と祀られ、新しいものや朽ちて腐ったものを含めて、その数と歴史の重さ信仰の厚さ深さには圧倒されるものがあった。 準備の段階で地図やガイドブックを調べていて、登山口となる温泉の名前が洞川(どろかわ)温泉とあり、耳障りの余り良くない名前であり、何かの間違いではないかと調べ直したが変わらない。客寄せの為にもせめて”ぼらかわ”程度にしておかないとイメージダウンになるのではないかと心配したが、実際に行ってみて全く読み方の印象など問題ないことが判った。信者・行者・山伏と信心、00講ご一行様で、観光地の温泉とは客層が全く異なっていたのである。 山上ヶ岳は現在でも女人禁制の山である。山上ヶ岳への登山道は四本あるが、何れも木製の女人結界門があり、「女性がこの門より向こうへ登ることを禁止します」と書かれていた。別に番人が居る訳ではないが、洞川温泉からの大峰大橋口は手前に大きな茶店(大きな食堂であり食事も出来アルコール類も置いてある)があり、大勢の行者や山伏が休憩しており、女性は気後れしてそれ以上進めないであろう。橋を渡ると「従是女人結界」と、刻んだ古い大きな石柱が建てられていた。車で来たのであろうか、同じバスには乗り合わせていなかったが、私より先に着いたご夫婦の登山者は、婦人だけそこから引き返し、ご主人だけ山上ヶ岳へ登って行くのをにか見かけている。

        洞川温泉から山上ヶ岳へ
        
 さて、感想が先になってしまったが、今迄登った山とは違い印象が余にも強烈だったと言える。久し振りに寝台急行に乗り、朝京都駅に着き近鉄特急で橿原神宮前で乗り換え、近鉄下市口に降りたった。連絡良くすぐに洞川温泉行きのバスに乗り込んだ。六月初めであり金曜日とあって、乗客も少ないが登山者は私ともう一人青年が乗っていたが、手前の登山口である天川川合で降りた。弥山に登り八経ヶ岳をピストンして下るのであろう。私は土地柄を知る為にも、最もクラシックコースである終点の洞川温泉から入山する事にしていた。1時間10分で洞川温泉に着き、大峰大橋に向かったが途中大量の名水が湧き出ている所が有り、業者がトラックで20リットルポリタンクを大量に積んで水を採りに来ていた。日本名水百選に選ばれた標識が立っていた。大峰大橋を渡ると左側に登山記念に寄進した物であろうこれまた凄い、古い石や新しい物はステンレス製の高さ五メートルはあろうか、大きな記念塔が数十基林立していた。

 女人結界門をくぐると樹林帯の中の緩やかな登りとなり、15分程で最初の茶店に着た。面白い事に茶店の真ん中を登山道が通っている。休業中の張り紙がしてあり、丁度12時なので並んでいるテーブルと椅子を借用し昼食にする。食事していると先程橋の袂の茶店で休んでいた行者さん一行が通過して行った。講を組んで来ているのであろう、20名くらいの山伏姿の集団であった。それからもなだらかな上り坂が続く、所々に”お助け水”等名のついた湧き水が数ケ所あり喉を潤しながら登る。これは水も豊富に有り楽な山だ、このまま頂上まで行ければなどと、怠け心が心の隅にチョコッと現れる。洞辻茶屋の手前で小天井岳からの道と合流する。小天井岳の頂上が女人結界になっており、この道からも女人禁制であり来られない。洞辻茶屋の手前が少し平坦になっており、ここにも古い種々の石碑が建っていた。そのなかで一番人目につく場所に、真新しい石碑が一基建てられていた。近づいて確認すると、皇太子登山の記念碑であった。苔生した古い石碑であれば、歴史を感じその場の雰囲気にも溶け込んで違和感を感じないものである。山へ登る人間としては自然にマッチしない新しい物を、これ以上造らないでくれ、そんな気持で先へ進んだ。

すぐに洞辻茶屋であるが、この茶屋が又変わっている。小屋の中を登山道が通っていることは先程紹介したが、ここはまた更に一風変わった造りであり、茶店長屋という表現が相応しい。山の緩い斜面に沿って、一つ屋根の両側に茶店が十数軒も同居し、両側に並んでいる。登山者はその真ん中を通るようになっている。六月の初めであり、講を組んで登る人も少なく、開店している店は少なく勿論客は一人も居ない。シーズンには混雑するのであろうが、既に開店している店も有り、店番の人は手持ちぶたさ気に客待ちしていた。勿論みな男性である。そんな中を素通りするのは、気が退けて申し訳ない気がしたが休まないで通過した。途中の水場で喉は潤したし、食料も予備食を含めて十分持ち合わせている。茶店を通ってすぐに判った事であるが、ここは山上ヶ岳登山の要衝であり基地のような位置づけとなる。それまでは緩やかで楽な歩程で有ったが、この茶店で一休みするのでなく、ここで休んで英気を養い、気合を入れて次の難所を登り切る心構えをつくり、気分を入れ替える重要な場所である事が通過して直に分ったのである。だから茶店が集中し、軒を連ねている訳であり、シーズンには満杯になり待ち客も出るのではないかと思われるのであった。

 洞辻茶屋を過ぎるとすぐ険しい岩場の登りの連続となる。鎖場あり鉄梯子ありでそれまでと違って険しい岩の山道に一変するのである。しかし、何故か危険な所を避けて安全な板が渡してあったり、簡単に通過出来るようになっている。木製なので真新しいとは言えないが、皇太子が登山した時に補強された、安全策である事はすぐに理解できた。私は、錆びた鎖場や鉄梯子を攀じ登る方を選んで進んだ。鐘掛岩に着くとここにも新しい木製の展望台が設置されていた。20人は載れる広い物で、手すりも着いて安全な新しい造りである。疲れたので私もそこで休憩することにした。先客があり、一人の青年が手すりに頬杖を突いてボンヤリとしていた。地下足袋を履いているがザックも持たず手ぶらであり、なんとなく人待ち顔であった。そのうち下の方から大きなかけ声が聞こえてきた。「六根清浄!六根清浄!」と大勢の合唱である。険しい岩道を登ってきた私にはすぐに解った。身体も疲労してくる。言葉は知っていたが、ああやって気合を入れ励まし合って険しさを乗り越えて来るんだなと。その声がすぐ近くまで来ると、先程の青年に動きが見えた。この講の集団を待っていたのであった。実はこの鐘掛岩は、行者さんの行場の一つで、五メートル位の垂直の岩場になっている。青年が一人来て先程の青年から指示を受けている。「私の登るとおりについて来てくれ」と言って登り始め、その通りに後の青年も登っていく。足場手掛かりはしっかりしているのでアッという間に登りきってしまった。待っていた青年はガイド役であり、後ろから登った青年は新参の行者であり、修行がこの講の今回の一つの目的であったらしい。少し行くと西覗岩であるが、ここでも新参の行者が訓練を受けていた。太い麻のロープが手前の岩に固定してあったが、覗きの周囲には20名程の講の人達が陣取って近寄れず、残念ながら覗く事は出来なかった。

その先は思いの外平坦な道で、だらだらと行くと25分で大峰山寺宿坊に到着した。宿坊は五軒在ったが、皆お寺のような立派な構えの造りであり、山小屋しか知らない私にはチョッと気後れし、何処に宿泊しようかと迷ったが結局一番奥の宿坊に泊まることにした。もう一時間歩けば小笹ノ宿という登山者用の避難小屋があるが、宿坊がどういうものか一度は泊まって経験をしておきたかったのである。 翌朝は六時に宿坊を出発したが、既に同宿した人達は荷物を預けたまま、山頂の大峰山寺に出掛けていた。20名程と30名位の二グループ(講)が宿泊し、計50名程がこの宿坊に泊まったが、登山者は私一人であり、素泊まり自炊なのでその時間だけ出発が遅れた。宿坊から大峰山寺までは、苔生した石の階段で結ばれ五分ほどで着いてしまう。山上は他の宿に泊った行者さんたちで賑わっていた。私のように単に賽銭を上げて参拝するだけでなく、本堂にあがって護摩を焚いて(私達の一般的な感覚でいうと)一緒に読経する、その順番を待っているのであった。大きいとはいえ役行者が数百年前に山頂に建立した古いお寺である。畳敷きの本堂に座れるのは詰めてもせいぜい50〜60人であろうか。地理的には頂上は右手すぐ上で、広く平坦なお花畑になっている。ここへは観音峰登山口からの登山道が来ているが、これも小稲村までで女人結界、女性は阻まれている。

         山上ヶ岳から弥山へ

 今日の私の行程は長い。10分程お寺や山頂を散策したり観察し、これから大峰奥駈道に入る訳であるが、勿論これから先は私一人であり、行者さんの講は大峰山寺詣で終わり帰る事になる。これから先の山名も宗教色が濃く、全ての山は宗教に関係した命名になっている。山上ヶ岳を下ると地蔵岳であるが、巻き道になつている。10分ほど下った所に大木が倒れ道を塞いでいた。まだ新しい倒木なので登山者の踏み跡も少ない。良く捜すと山側に10m程登って巻いて通過した跡があり、なんなく通り越したのであるが、これからの奥駈道で多数の倒木に悩まされる前触れであるとは知る由もなかった。しかし、これから先はハイキングでもしているような錯覚で、緩やかなアップダウンの道をつい鼻唄を口ずさみがら歩いた。40分で小笹の宿に着くが、ここははキャンプ適地で避難小屋がある。中を覗いてみると広さは二畳位の土間に、五〜六人はゆっくり休める板の間になって居り、すぐ横が沢になっていて水も豊富に流れている。沢といっても山と山の間の切れ込んだ沢を思い浮かべがちであるが、ここは傾斜の緩い広場の窪地を水が流れているので、簡単に水が得られこれ程水場の便のよい場所は滅多にめぐり合うことは無いであろう。その沢というよりはせせらぎを越して阿弥陀が森へと道は続くが、緩やかな下りで樹林の中のハイキングが続く。原始林は地面に苔生して如何にも幽玄な雰囲気である。この頃から、私より先に歩いていく鈴の音か錫丈の音が聞こえるような気がしてきた。私が速ければ追いつくし、相手が速ければ距離が離れて音色も聞こえなくなるのであるが、いつも等間隔の感じである。先に行者が歩いているのか何か不思議な感じである。鼻唄交じりで歩いていると阿弥陀が森分岐にくる。ここは柏木から登ってくる道と合流する所であるが、ここにも女人結界の木製の門が有り、看板が立てられていた。

 少し下りの歩きとなるが、是からが小普賢岳(明王ヶ岳)・大普賢岳・弥勒岳・国見岳・七曜岳と、巻き道は余りなく峻険な尾根に沿った登山道を歩くことになる。岩場・鎖場・カニの横ばいとアルプス並みにかなり険しく、アルバイトを強いられることになるのである。大普賢岳は如何にも宗教色の濃い厳しい名前の山であるが、頂上は狭くちょっとした山のピークの感じで、低木に阻まれ余り見通しは効かない。七曜岳は少し傾斜した岩盤のような所で、こちらの方が迫力があった。この下りは岩に掴まり慎重に降りたが、基部の所がチョッとした難所である。上は垂直の断崖でその下に鎖場があり、足元は岩屑がガラガラ堆積した所で気持ちの悪い場所である。鎖に掴まれば危険なことはないが、足元がしっかりした岩場でないのと落石の危険を感じ足早に通過した。鎖場を通過してすぐ、反対側から登って来る登山者と行き交った。年齢は私と同年輩であろうか、勿論男性である。山上ヶ岳からの奥駈で四時間、この日初めて反対側から来た人に会ったことになる。ここを越えると又緩やかなアップダウンの、尾根上の快適なプロムナードである。所々に開けたタワが在り、まだ花の時期には早いが葉が大きく茂り、辺り一面に群生しているそんな場所が幾つか有った。見晴らしの良い所で、改めて今迄歩いてきた道程を振り返って見ると、岩峰のピークが起伏する山々が望める。樹木が繁っているので印象は違うが、岩が露出した岩山であったら、北アルプスの岩峰にも匹敵する激しい起伏の山を越えて来た、そんな感慨をもって振り返っていた。楽な歩行を続けていると、行者還小屋に着いた。小屋は閉まっており誰も居なかった。水場は登山道を二分ほど下りた所に、ポリバケツが置いてありそこにホースでポタポタという感じで、水が溜まっていた。小屋の前には余り大きくはないが、関西電力の送電線の鉄塔が建っていた。開けた場所なのでここで昼食を採った。

 一時間ほど尾根上のプロムナードコースを快適に進むと、一ノタワ避難小屋に着いた。実はかなり疲労していた。小屋をぐるりと見回すと、入り口のドアは壊れ窓も破損している。中を覗くと全部土間であり、その土も湿っている。宿泊には適しないと考え、時計を見ると未だ13時である。あと二時間、しかも聖宝八丁の急斜面が待っているが、気を取り直して弥山小屋まで頑張ることにした。20分程行くと、人の気配が俄然多くなった。行者還トンネル西口から登ってきた登山者である。簡単に登れる道が着いているらしい。問われるままに山上ヶ岳から縦走して来たことを話すと、途中の状態はどうだったか?タワに群生する植物の事とか色々聞かれたが、私は余り草花に詳しくないので、登山道も荒廃していないし、新しく崩壊した箇所もなく、草花の生育も良く特別荒らされた形跡もない事を話した。地元の山岳関係者らしいが、地元の関係者もまだ誰も歩いてないらしく、私の話を聞いて安心した様子であった。その間にも何人か弥山に向けて登っていく登山者がいた。聖宝宿跡には、立派な理源大師像が鎮座していた。ここまでは楽な行程であった。聖宝宿跡を過ぎると徐々に登りはキツクなるが、聖宝八丁の急斜面の後半はかなりのアルバイトを強いられたが、弥山の山頂付近は全体になだらかな地形であり、鳥居の手前にはここにも皇太子の登山記念碑が建てられていた。木の鳥居をくぐると弥山山頂である。鳥居の手前には立派な弥山小屋が建てられており、食事つきで泊まれる。周囲はテント場ありで、かなりの登山客で賑わっていた。天川川合や天の川温泉から登って来た人達であろう。私は素泊まり用の建屋に案内された。後からやはり素泊りで十数名の老若男女のパーティーが来た。話の内容から、同じ会社に勤める有志のグループであると判った。
 
         弥山から八経ヶ岳を経て前鬼へ

 翌朝ザワザワした声が聞こえたが、起きてみると同宿したグループは既に出発した後であった。出発といっても下山した訳ではない。荷物を置いて朝食前に最高峰の八経ヶ岳へピストンで登りに出掛けたのであった。私が朝食を済ませて出発する時にはもう戻ってきた。八経ヶ岳へは弥山を一旦下り、鞍部から八経ヶ岳への登りとなる。鹿の害から、保護の為に設けられた金網の扉を開閉し、幾つか入ったり出たりしながら通過し、25分で八経ヶ岳に着く。近畿の最高峰である八経ヶ岳であるから、山頂はさぞかし立派であろうとの先入観があったので、唯のピークと見間違い一瞬見落として通過しそうになってしまった。急に下りになったので是は変だと思い、引き返して八経ヶ岳と確認し、手を合わせて通過した。頂上を過ぎると緩やかな開けた下りを快調に歩くが、苔生した神秘的な雰囲気の山である。これから先、倒木に道を阻まれ難儀をするが、それまでも倒木の多い山であることは印象に強く残っている。そこでよく観察してみると、倒れた木の根は広く地表に張り巡らされているが、余り地面に深く食込んでいない。下は硬い岩盤になっている為根が地表を這う事になり、地下深く根を張れないため、風に弱く倒木が多いことが判った。40数年前、登山を始めた頃はどの山も倒木が多かった記憶が蘇った。木の下を潜ったり跨いだり、飛び乗って越えたり、どうしようもない所は巻いて通過したが、倒木を越すのも登山技術一つであり、避けて通れなかった。現在と違うのはキスリングザックが横長であり、木の下を潜るには割と適していたが、現在は形が縦長に変わり昔の感覚とは違ってきている。そんなことを思い出しながら、湯の又分岐・深山平と通過し舟のタワに到着した。平坦地でキャンプ適地であるが水が無いのが難点である。此処には遭難者の石碑が建てられていた。ここで時間を見ようとしたが、何処で落としたか腕時計が無いことに気がついた。何時も単独行なのでもう一つ予備の時計をザックに忍ばせてあるので、慌てることはなかったが。

 楊子ヶ宿跡や仏生ヶ岳・孔雀岳等、相変わらず宗教色の強い名の付いた山を登り巻いて進むが、左側は断崖の岩場を慎重に進み鎖場を登ると、少し平坦な草原に出た。三方は絶壁であり前には行けない。そこにベニヤ板にマジックででUターンの印があり、その先は確かに私の目指している山の方向を示している。何回も確認し確かにその方向に登山道は続いているのでターンして進んだ。暫く進むが、先程通過した鎖場が岩を挟んだ反対側に見える。どうも元来た道を戻っているような錯覚にとらわれて仕方ない。地形からして先程通った岩場の反対側であるあることはなんとなく分かる。こちらにも鎖場がある。しかし、ガイドブックにはこんな詳細な事までは書いてなかった。そうこうしているうちに、石のゴロゴロしている笹原の急な下りになった。まだ得心できない、このまま進んで間違いであればこの急な坂を又登り返さなければならない。大儀なことであるし時間のロスは大きい。そこで慌てずジックリ考えようと、たばこを出し一服して考えた。「不安な時は元に戻って確かめろ」の、山の原則に立ち返り、10分程来ているがUターンした元の場所に戻りもう一度確認してみた。それでも疑心暗鬼は拭い去れないが、進んで行くうちに目指す山の道標も出てきてようやく安心して進む。釈迦ヶ岳の登りはチョッとした難所である。象の鼻のような丸い岩が10m近く続くが、手掛かりになるような凹凸が無い。中間に一本長いステンレスのボルトが埋め込んであり、これが唯一の頼りであり助かる。これで難なく頂上かと思いきや、お釈迦様はもう一つの試練を与えた。2日間縦走してきた中で最もキツイ登りである。足元が岩であれば何の事はないが、急角度の傾斜のうえに、普通のざらざらした土である。登ろうとしても滑って元に戻ってしまう。草や笹も頭の上で手の届かない溝の中のような状態である。15分程苦闘したす末、人声が聞こえヒョッコリ釈迦ヶ岳の頂上に飛び出す。頂上にはお釈迦様の立派な銅像が建てられていた。紫色したトリカブトの花も咲いていた。

 反対側の下りは緩やかな斜面で草原状になっており、お釈迦様の試練を受けなくても簡単に登れる。頂上で一緒になった20名程の中高年の登山グループは、そこを登り、元の右の尾根に分かれて下りて行った。25分程下ると深山宿に着く、此処には権頂堂が祀られている。同じくらいの大きさの建屋で、山小屋が建っており、青年が一人テーブルに寝そべっていた。水場を尋ねると左手奥の岩場の基部にあるという。行ってみると岩から滴り落ちる水滴を、ポリタンクを切った底の部分で受け止め汲み易いように溜めてあったが、未だシーズン初めで底に青苔が付着していていた。25分で太古の辻に着くが、名前から想像して鬱蒼と木が繁り苔生した、太古のイメージを抱いていたが、予想に反して開けた場所であった。これから先は大峰山南奥駈道になる分岐点である。私は左に分かれて前鬼への道を降る。ここで約30名ほどの中高年の集団の前に出る。頂上で一緒になったパーティとは違う別のグループに追いついていたのである。何時も気が付く事であるが、先程のグループもそうであったがどのパーティーも女性の方が圧倒的に多い。女性の集団は脚と口と一緒に出て、賑やかでいい。下りは滑らないよう慎重に降るが、そのうち沢に沿っての道となり、トラバースしたりして降って行く。普通ならば独りであるから、集団との間隔は開いていくのが常であるが、その日は弥山からの縦走で疲れていたのか、バランスを崩して転倒したりで中々ピッチが上がらず、女性軍の華やかな話し声を後ろに聞きながら前鬼の小中坊宿泊所へ到着した。15時30分であった。階段を登って小仲坊に行き、素泊りの手続きをし説明を聞いた。登山者用に外に水道も有り、設備は整っていた。昨日ならば風呂にも入れたのにと気の毒そうに言われた。続いて30名の集団も着き、宿泊所の中は賑わっていた。華やかな賑わいの仲で、今晩はゆっくり眠れるかと一抹の不安を感じたが、その心配はすぐに去った。このグループは、昨夜宿泊し今日は釈迦ヶ岳に登山し、これから帰途につく帰り支度をしているのであった。それにしてもここから前鬼口まで二時間半、果たしてバスは有るのだろうか?そんな心配は無用であった。すぐ下まで林道が入っており、駐車場には何台か分乗してきた車が止めてあるのを先程確認していた。林道の途中には車止めゲートが有るが、そこは配慮して宿坊の人に開けてもらったのである。

 小仲坊は大峰山系のお寺である。若いご夫婦と子供さんが一人居たと記憶している。主人は高校の先生で、土日や休日に来て寺や宿泊所の管理をしているという。日曜日なのでこれから帰り、明日から学校の勤めであるという。お寺や住まいの戸締りをしっかりし、帰宅するという。宿泊所は街の公民館のような造りで、畳敷き50畳程の広い一部屋になっている。少し違うのは土間がコンクリートで塗られ、中心部分が切り込まれ広く造られている。畳の部分が直線よりも切り込まれていた方が、靴を脱いだりザックを卸したり人の出入りに余裕ができるよう、考えられた造りである。土間が広いのは、バーナーを使用しての自炊に便利な為であろう。宿泊所は登山者に解放されている。無人の時でも素泊まり四千円の料金を入れる箱が下げられている。いずれにしてもこの広い部屋に一人の宿泊となる。宿泊所の前には、これも木作りの洒落た電話ボックスが有り、公衆電話が設置されていた。そういえば家を出て丸三日になる。無事を知らせる連絡を入れなければならないと思いダイヤルすると、妻は生憎買い物で不在、娘が出たので無事を知らせた。50畳程の広い部屋のど真中に、押入れから布団を出して敷き床にもぐった。こんな経験は一生に一度しか出来ないだろうと、トランジスターラジオで明日の天気を聞いたりしていた。夜半から雨になり、明日は大雨になるとの予報である。ウトウト眠気がしてきたので、手足を伸ばし大の字になってぐっすりと眠った。夜半にやはり雨が降り出し目覚めたが、昼間の疲れで朝まで熟睡した。

 朝に弱い私であるが翌朝は少し早く目覚めた。朝食を済ませ朝の用を済ませたして、何時もより15分早く5時45分には前鬼を出発した。緩い下りであるが登山道はよく整備されており、雨の中ではあるが最初からルンルン気分で歩ける。木陰の大きな岩畳みの上は、青苔が生え雨に濡れて滑り易いので慎重に歩く。沢に沿っての道であるが、30分で吊橋に着き渡るとすぐに舗装された林道に出る。右に行けば宿坊のある前鬼であるが、すぐ奥に車止メゲートが見える。左に30分程下ると谷の向こうに不動七重滝が、スケール大きく水しぶきをあげて流れ落ちている。その他にも幾つかの滝が見えるが、だんだん川幅も広くなり、前鬼橋が見えて来るが湖畔に沿った林道を行くので中々着かない。バスの時間に合わせゆっくり歩いて8時20分、前鬼橋の袂に有る前鬼口バス停に到着し、次の目的地である、わさび谷方面行きのバスを待った。

修験者も お山の上で 護摩を焚き 奥駈するは われ一人なり
登拝記念版
釈迦岳像

    6/4
洞川温泉(10:50)ー大峰大橋(11:45)ー一ノ世茶屋(12:00-12:20)
ー一本松茶屋(12:45)ーお助け水(13:20)ー洞辻茶屋(13:45)ー西覗岩
(14:25)ー大峰山寺宿坊(14:50)
      6/5
宿坊(5:45)ー山上ヶ岳・本堂(5:50-6:10)ー小笹ノ宿(6:50)ー阿弥陀ケ森分岐
(7:25-7:45)ー小普賢岳(8:25)ー大普賢岳(8:40-8:45)ー稚児泊(9:40)ー
七曜岳(10:10)ー行者環小屋・水場(11:30昼食12:00)ー一の垰避難小屋
(13:00-13:10)ートンネル西口上(13:40)ー聖宝宿跡(14:35-14:45)ー
弥山小屋(15:40)ー弥山(15:50)ー弥山小屋(16:00)
   6/6
小屋(6:00)ー八経ヶ岳(6:25)ー湯の又分岐(6:40)ー深山平(7:55休8:15)ー舟ノ垰
(8:30)ー楊子ケ宿跡(8:50-9:00)ー仏生ケ岳(9:30)ー孔雀岳(10:40)ー釈迦ケ岳
(11:50昼食12:45)ー深山宿(13:10ー13:25)ー太古の辻(13:50-14:00)ー前鬼宿(15:30)





45、 大 台 ヶ 原 山 (1695m)  1999・06・07



 前鬼口バス停では土砂降りの中で40分程待ち、バスは時間通りに来て乗車したが乗ったのは私一人であった。わさび谷にもダイヤどおりに到着した。ここで降り、今度は反対の柏木方面から来る大台ヶ原行きのバスに乗り換えである。ここでも下りたのは私一人であった。バス停の時刻表を見ると10時38分発が一日に一本しかない。7分違いで既に行ってしまった後ではないか、そんなバカな!こんなダイヤの組み方があるものか、乗ってきたバスも乗客は私以一人で遅れてはいない。腕時計をもう一度見直すとなんと私の早とちり、時計の見間違いで9時45分であり、約一時間待つことになるがバスはちゃんと有ることはバス停の時刻表で確認できた。大台ヶ原まで行けば後はどうにでも成る。

 一安心したのであるが、実は大台ケ原行きバスが有ると確認できる迄の数分間、どれほど色々な事を思い巡らしたであろうか。 というのは場所が場所であるし、土砂降りの雨の中である。わさび谷という所は、山の中の三叉路であり、片方は長いトンネルの出入り口になっており、さっき通って来た道である。T字路の柱に当たる橋を渡っていくと、林道兼バイパスで大台ヶ原へ行く道路になっている。そこには谷の崖に張り付くように、いか焼きの屋台のような店があり、その隣は漁協組合の鑑札受付所なのか、三尺程度の入り口が有り崖にぶら下がるように、狭い空間が造られているが入り口が閉じてあるので定かではない。シーズンオフであり誰一人居ないし電話一本ないのである。その頃は携帯も持ち合われていなかったし、持っていても圏外で通じないであろう。タクシーを呼ぶことも出来ない。柏木まで行けば民宿も有り旅館もある事は前もって調べてある。最終的には柏木まで行って泊まり、明日出直すしかないかと真剣に考えたものである。

 雨の降りは弱まる気配はない。雨宿りする場所もなく、ザックだけは重いので、いか焼きの店のカウンターに置かせてもらい、私は雨具を着て雨の中でバスの来るのを待つしかなかった。待つ身の一時間は長く感じたがやっとバスが来て乗り込んだ。サイズはマイクロバスで、旅行客は2〜3人居たが登山客も3人いる事は確認できた。わさび谷の橋を渡って大台ヶ原までの林道は、当然の事ながら狭くクネクネと曲がった登り道である。雨は降り続いているが、上の見晴らしの効く所を通る時は、昨日登った大峰山が一瞬だが、角度によってその姿が霧の中に見えた。大台ヶ原山の頂上付近はは平坦な山である。駐車場に着いたが此処がまた広い。広い駐車場には悪天候の為か、ここで働いている通勤者の車数台しかない。駐車場に着く頃には、雨は益々激しさを増して降ってくる。店に入ったが特別買うものも無ければ、食べたいものも無い。すぐ隣にあずま屋があり、雨も凌げるしベンチも有る。ここで身支度をしているとバスに同乗して来た女性3人のパーティーも来て一緒になった。女性達も同じコースで大杉谷を下り、途中の小屋で泊まる予約もしてあるという。この雨ではどうしようか迷い、相談してきたのである。私はだいたいの決断はしていた。大峰山三日間の縦走で、疲れは残っていないが昨夜宿泊所で足の状態を調べたところ、右足小指の靴に当たる部分のタコになった一ミリくらいの厚さで丈夫な筈の部分が、そっくり剥がれ肉が見えていた。まめの水泡などではなく、厚い絆創膏で補強してあるが靴にすれて痛い。大台ヶ原で最大の見どころは、この雨が岩石を削り、急峻な渓谷と深い淵をつくり見事な滝を造形した、素晴らしい景観であることは承知している。色々な資料を調べてきたが、日本有数の多雨地帯であり、一日の降雨量が千ミリを越えた事も有るという。この大量の雨水が岩を削って大杉谷を形成したのであるが。今正にその時に匹敵するような大雨が降っているのではないかと思える降り方であり止みそうにない気配である。しかも、この谷はすべて下りであり、昨年谷に転落して遭難し犠牲者を出している事も、マスコミ報道で記憶していた。女性三人にはビジターセンターか店から、予約した小屋に電話が通じるかどうか、相談してみて判断したら良いのではないかとアドバイスし、私は山頂付近を散策し最高峰の日出ヶ岳頂上を踏んで帰ることにしていた。

 樹林の中の散策路を歩き、左に折れて日出ヶ岳頂上へ登る良く整備された、広く緩い坂道を行くとやがてガラガラの荒地に出る。日出ヶ岳直下であるが、頂上まで木道やコンクリートや板の階段が続いており、展望台へと導いてくれる。頂上は雨だけでなく、風も強い。幸いコンクリートで造られた展望台の下が、雨を凌ぎ強風を避けられる避難場所になっている。日出ヶ岳の頂上、一等三角点とは10m程離れた手の届く距離にあるが、濃霧で隠れシャッターチャンスがない。暫く待って霧の切れ目にやっと頂上の写真を撮り、駐車場に下りた。雨はまだ盛んに降り続いている。三人の女性の姿は見当たらなかった。小屋へ予約しているので下りて行ったのかも知れない。

 駐車場の規模からして、シーズン中の人出が多い事は予想に難くないが、熱く美味しいラーメンでも食べようと、これまた大きな食堂に入ったが客は私一人、ビールとラーメンを注文し時間をつぶそうと考えたが、出てきたラーメンが期待に反しパサパサで口に合わず、ビール一本ですぐに出て来てしまった。ビジターセンターで山の歴史や模型など見て廻り、時間をつぶした。バスは一日一便で、朝乗ってきたバスがそのまま駐車場の定位置に待機しており、運転手も車掌さんも同じ人である。16時30分の出発であるが、あれ程激しく降り続いた雨も小降りになりになってきていた。私の頭の中に一瞬「しくじったかな!?」という思いが走ったが、大杉谷下りを決行しないで賢明だったなと、自分を納得させ帰りのバスに乗り込んだ。乗客は私一人で柏木の中継点でトイレ休憩し、近鉄大和上市駅迄バスは私一人の貸し切りの状態で走った。

日出ヶ岳
雨おおく 大台ケ原 ひと気なく 日の出山頂 登りて帰る

       6/7
前鬼口バス停(9:05)ーわさび谷バス停(9:45-10:38)ー大台ケ原駐車場
(11:30-12:10)ー日の出ゲ岳(13:00-13:10)ー大台ケ原駐車場(13:55)




この辺で  ”一本立てる”


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マウンテン
46、 皇  海  山 (2,144m)2000・7・22


 若いときであれば正攻法で、わたらせ渓谷鉄道を遡上して終点の間藤まで行き、表から縦走して登っていたであろう。皇海山はそうした魅力ある山である。今は裏から簡単に登れる栗原川林道があり、頂上まで三時間で登れる。三日間かけるか比較するとどうしても短時間で楽に登れる簡単な方を選んでしまう。昨日は林道の入り口は少しややこしく、迷いそうになったがどうにか山奥に繋がる一本道になってホッとしたのはいいが、車のわだちで林道の中央が盛り上がり、車の下を擦らないように気を付けながらゆっくりと進む。途中からは土砂降りの雨の中、川のように雨水が流れる狭い林道を走って進むが、行けども行けども林道という感じで、20qを1時間かけてどうにか皇海橋の駐車場へ辿り着いた。駐車場は皆帰った後で車は私一台だけであった。駐車場には一段高い位置に新築したばかの檜の香りが漂う立派なトイレが建てられていた。同じ建屋の隣には二畳ほどの板敷きのスペースもあり、避難小屋としても使用できるよう、工夫して建てられていた。私は車の中で一人で休んだ。

日本百名山がブームになり、完登することを目標にすると、経過は無視され頂上だけを目指すピークハンターと言われる登山が流行り、本当の山登りの面白さ楽しさが失われていくようで寂しい気がしてならない。かく言う私も今回は楽な道を選んだことになる。朝出かける前にバイクで最初に着いた青年に、林道が昨日の雨で崩壊していないか状況を聞いたが、通行できない場所はなく安心して戻れることを確認した。

  皇海山へは、前の橋を渡って暗い樹林の中の緩やかな沢に沿って登って行く。暗い木陰の歩行で涼しく楽な登山であり、やがて水が少し流れている滝を登る。そこを越すと尾根に出るまで急斜面の登りであるがすぐに、不動沢コルの尾根上に出る。途端に反対側の斜面を吹き上げる上昇気流がヒューヒューと音を立てて吹き上げてくる。それも冷たい風である。長袖をのばして腕を覆ったがそれでも寒い。体温を奪われないよう合羽兼防寒着を着て暫く休憩を採る。これからは皇海山まで樹林の間の尾根伝いの急登であるが、樹や根に掴まれるので楽に登れる。山頂に近づくと笹が繁り、頂上直下には大きな青銅の剣があり、昔からの信仰の山である事を偲ばせる。此処まで来ると山頂はすぐである。山頂は広い平坦なな場所であるが、樹木に囲まれて展望は余りよくない。私が一番乗りであったが、休憩していると反対側の国境平から青年が登ってきた。テントを担ぎ重装備での登山である。少し休んだだけで、不動のコルヘ下って行った。

下りは、皇海橋から上り始めた登山者がボツボツと登りはじめ、途中で行き交うようになる。コルから鋸山まではすぐそこに見えるが、先ほどの青年が登って行く姿が見えたが私は遠慮して、コルから登山口へ下る事にした。 先ほどの滝の所へ来ると、二〇人ほどの中高年のパーティーとぶつかってしまった。水の流れる岩場は後ろ向きに下りるほどではないが、尻をずらせて降りないと滑って危険である。岩場は下り優先であるが、ルールを知らないのか守らない登山者が多い。私が下るのが分かってるのに全く意に介さず、数の力で下に並んでいる集団が次から次へと登ってくるのであるが、指揮する人も居ない素人集団である。このまま二〇人もの人が登り切るのを待っていては時間がかかるので、仕方なく降り始めると迷惑そうな態度でぶつぶつ文句を言い、岩場の下り優先のルールを誰一人知らない。杖に頼って登るだけでなく、登山のエチケットも少しは勉強してもらいたいものである。この滝を降りると左に曲がり、後は沢に沿って緩い下りの連続で楽なコースである。余裕を持って歩いていると鹿が遠くから用心深そうにこちらを伺っていた。角がないので雌であろうが、丹沢では人馴れした鹿を沢山見かけるが、皇海山で自然の鹿の歓迎を受けながら、皇海橋の駐車場へと向った。マイクロバスは先ほどの団体さんが乗ってきたものであろうが、シーズン中でもあり狭いスペースの駐車場はは満車であった。

皇海山

皇海山 正攻法で 縦走が 健脚向きの 最適コース



     7/22
登山口(5:50)ー二俣(6:20)ー滝岩場(7:15)ー不動のコル(7:23-7:40)ー
皇海山(8:20-8:45)ー不動のコル(9:15)ー二俣(10:10)ー登山口(10:25)






47、雨  飾  山(2,530m)  2002・08・27


 日本海に近い山なので、どうしても雪の降る前に登っておきたかった。北アルプスや南アルプスには登山しているが、身近な越後の山には一つも登っていなかった。今回は新潟の山を四つ一気に制覇しようと意気込んで出掛けたが、その為には移動に車がどうしても必要であった。戸隠キャンプ場入口駐車場のすぐ近くまで来ていながら、すぐ手前のT字路を左に曲がってしまったのが間違いで飯綱林道に迷い込み、深夜0時頃人っ子一人どころか、車一台会わない暗い林道を逆走してしまい、駐車場に着いたのは午前一時過ぎであった。その日高妻山に挑んだが残念ながら途中で引き返さざるをえなかった。

すぐに計画していた次の目標である雨飾山の登山口である小谷を目指して出発した。最短距離で行くには、妙高の主要な登山基地である笹ヶ峰を通り、小谷に抜ける林道笹ヶ峰・小谷線を車で抜け、鎌池林道を通り小谷温泉登山口へ到着した。林道笹ヶ峰・小谷線は、小谷温泉側の入り口には「通り抜け出来ません」との立看板があったが、笹ヶ峰口は、五キロ先で落石防止の工事中であり、入り口で交通整理をしていた警備員に聞いて、通過できる事を確認した。この林道は殆どが舗装されていない砂利道で、一部アスファルト舗装してある所もあるが荒れた道であった。しかし、この道を使用しなければ数倍の距離と時間を要して回り道しなければ、小谷に到達しない地形になっており一時間で通過できた。雨飾山の登山口は整備されており、トイレや小さな休憩所も付属している立派な登山門をくぐって登り始める。一旦下って湿原の中の木道を一〇分程行くと、山には珍しく石柱の指導標があり、山への取り付きになる。初めは急登のキツイ樹林帯の登りであるが、木の根が網状に地表に現れて足場になり、滑ることもなく歩きやすい道である。尾根に出ると緩やかな登りの楽な山歩きとなる。気持ちよく歩いていると、全く平坦な道になり、沢の水音が聞こえてくる。沢に向かって暫く降ると荒菅沢である。一時間二〇分歩いたので、ちょうど小休止することにした。水量の多い沢で、まず顔を濡らし口いっぱいに沢の水を飲み込んだ。夏の暑い登山では、沢の水がなんといっても美味しい。沢や湧き水に出会うと心も安らぐし、文字通り山のオアシスである。

 沢を渡ると尾根へ出るまでのキツイ斜面の登りが続くが体調も良い。身体の調子で急登も楽に登れる事もあれば、脚が重くて中々前に進まず辛くて遅いこともある。又、急傾斜の登りは岩や木の根に掴らないと通過できない所も在るが、手を使えるのは楽である。二本足で自分の体重とザックの重量を、重力に逆らって登る登山は苦しいが、手を使って腕力が加えられるので急登もさほど苦にはならない。 尾根に出れば登りも緩やかになるかと思いきや、この山の尾根は狭い岩の急傾斜であり、遮る物もなく上昇気流が谷から吹き上げて風が強い。先に登って頂上から降りてくる年配の登山者と行き交った。「上は台風なみの強い風ですよ、気をつけて下さい」と、言い残していく。その人の帽子は頭にはなく、飛ばされても失わないように、ゴム紐で留めてあるが一メートルも風になびいていた。五分くらい間隔をおいて今度は若い二人の男性が降りてきて同じ事を言う。「頂上は台風並みですよ」。確かに風は強いが吹き飛ばされる程ではない。二〇分程で笹平に着く。人の背丈程もある笹の間の道は、平坦でもあり風も遮られて弱まる。笹平の途中には反対側の登山口から登る雨飾山荘からの合流点があり、更に進むと頂上への最後の岩の急な登りとなり、五分程で頂上に着く。山頂は二つに分かれていて、右の方に石仏や石が祀ってあるが、遮る物は何も無く風当たりが強く落ち着いてはいられない。左のやや高い三角点標石の在る頂上の方へ行く。こちらは熊笹が風除けになり、休める場所もある。三〇分程休んでいる間に、風速も弱まりガスも薄れてきた。

雲の切れ間から、「日本海が見える!」という歓声が上がったが、一瞬の事なので私は見失った。それまで全く見えなかった高原状の笹平や、登山道のすぐ脇に在って気が付かなかった小池や右直下には、荒菅沢の源頭になる大きな岩のスラブも見下ろせた。そのうち周囲の金山や焼山位までは、雲の流れの切れ目に姿を見せるようになった。もう少し待てば明日登る、火打山や妙高山も見ることが出来たろうが、下山の途に付いた。 下山路は元登った道であるが、これから登る登山者と何人も行き交うが、荒菅沢の手前で中年の女性二人が会話しながら登ってきた。「私がいま一番食べたいのは冷たいアイスクリームよ」。五分程で上る時に渡ってきた荒菅沢に着いたが、ザックを下ろしてシェラカップを取り出し、思い切り沢の水を飲み込だ。「夏山で一番美味しいのは、私はやっぱりアイスクリームより沢の冷たい水だな」と、確信を持って下山した。登山口近くの湿原まで来ると、いまでは珍しい何万匹というイナゴの大群が飛んでいるのに出会った。

雨飾山

雨飾 海より吹きし 風強し


     8/27
雨飾山登門(6:20)ー荒菅沢(7:40休8:00)ー尾根取付(8:55)ー笹平(9:15)
ー雨飾山(9:40-10:10)ー笹平(10:20)ー荒菅沢(11:25-11:35)ー登山門(12:35)





48、火  打  山(2,462m)  2002・08・28


 雨飾山を登山し、一二時三五分には登山口に降り、林道笹ヶ峰・小谷線を戻って、前日の午後には笹ヶ峰に到着していた。もう少し早く到着していれば、高谷池ヒュッテ迄入っていれば翌日楽であるが、無理は出来ない。二八日は六時に出発すると、バスで乗り着けた二三人のパーティーと、新しい立派な登山門でちょうど一緒になってしまった。待って後ろに付けば良かったが、団体であり独りの私の方が速いことはハッキリしている。中間に挟まれる形になってしまった。木道なので中々前に出られなかったが機会をみて前に出してもらった。その時数えた正確な人数である。

 火打山への登りは、黒沢迄の約五〇分間樹林帯の中を殆ど木道で繋がっている。木道上の歩行は平坦な所を歩いているような錯覚に陥る。所々にゴム板の滑り止めが釘ではなく木ネジで留めてあり、大変な作業であったろう事は容易に判るが、その間隔が私の歩幅と合わない。短足な私には、二つを一足で歩くには届かないし、一つおきに飛ばそうとすると靴先がかかり、躓いてしまう。結局、ゴム板の間隔に従って小股で歩いているうちに黒沢に着いた。滑り止めのゴム板の効用は、下山する時に理解することとなる。 黒沢には、立派な橋が架かり渡ると道は徐々に険しくなってくる。一二曲りにさしかかる手前で、軽い目まいを感じた。交通事故の後遺症が現れたのである。昨日は快調に雨飾山を登ったのに。黒沢で小休止をしてすぐなのに、仕方なく薬を飲み二〇分程休んで体調の様子を見、ブナの木が茂っているのを見ながら、目まいの治まるのを待った。が黒沢で休んでいた若い男女が、通過していった。無理せずゆっくり登ることにし、一二曲りの急な登りを岩や木の根に掴まりながらバランスをとりながら登っていった。手が使えるのは楽である。二本足で体重とザックの重さを、地球の重力に逆らって登るより、腕力が加わると軽く登れる気がする。体調を見ながら慎重に歩いていると、傾斜も緩くなり又木道上の歩行となる。良く整備された山である。くの字にジグザグ敷かれた木道を歩いていくと突然開けた場所に着いた。富士見平である。時計を見ると、ガイドブックのコースタイムより少し遅い程度であった。これで体調も回復したかなと、一安心したのである。

ここから、黒沢岳を巻いて高谷池ヒュッテと黒沢池ヒュッテとの分岐点になる。今日の予定はは先に火打山へ登り、体調を見ながら判断し、高谷池か黒沢池ヒュッテに泊まるつもりである。高谷池ヒュッテへは、最初大きな石のゴロゴロした急な登りが少しあるが、後は殆ど平坦な道であり熊笹の開けた平原へ出ると、木道が敷かれ自然にヒュッテへと案内してくれる。高谷池ヒュッテのベンチを借り、一休みしていると小屋の入り口を開け、準備を始めた青年がいた。何処かで見た顔だと思ったら、ゆっくり歩いて登る私を殆ど空身でスタスタと途中で追い越して行った青年であった。視線が合うとお互い軽く会釈を交わした。多分昨夜は宿泊する人はなく、久し振りに下山して朝早く戻って来たのかも知れない。小屋には彼以外に人の気配は全く感じられなかった。

 火打山へは高谷池の湿原の北側に敷かれた木道に沿っていく。一五分程行くと天狗の庭に着く。この湿原には池塘があり、溶岩が固まった岩が配置されていて、天狗でなくても浮かれて遊びたい雰囲気である。ここまで来るとなだらかな形をした火打山とその後ろに焼山が目前に迫ってくる。火打山への稜線に出る道も、殆ど木道で整備されている。普段なら何でもなく登れる筈なのにその日はやけにキツイ。余程疲れなければ腰に手を当てる事はないのに、木道の階段を喘ぎながら登った。稜線に出るとダケカンバが点在する、緩い勾配の尾根を行くと少し開けた這松帯に着く。ライチョウ平である。雷鳥が生息しているとの事であるが、その姿は見られなかった。目の前の火打山の稜線の北側には、猛暑であったこの夏でも、少しではあるが埃で汚れた残雪が在るのが見えた。頂上にケルンが積んであり、石のゴロゴロしたわりに広い場所であるが、周囲は熊笹で囲まれているが、日陰になるものが何も無い。一一時ちょうどなので昼食にした。遮る物とて無く、三六〇度の展望はよい。西に荒れた山肌の焼山、その左に金山や天狗の鼻のように特徴のある天狗原山までは望めるが、その後ろになるが昨日登った雨飾山や日本海までは霧の流れで望む事は出来なかった。反対の西南の方向には、すぐそこに明日登ろうとする妙高山が、如何にも急峻な山容でドッシリと迫っている。南の眼下には、笹ヶ峰貯水池が見え、その後ろには優しい形の整った黒姫山が、そのはるかかなたの雲上には、北アルプスの連山が望める。中心の特徴ある尖ったのは、槍ヶ岳の穂先とハッキリ判る。

 帰りは元来た道を戻り、高谷池ヒュッテのベンチで一服し、まだ一時前なので黒沢池ヒュッテ迄行って泊まる事にした。黒沢池ヒュッテまでのコースは、富士見平を頂点として、黒沢岳と茶臼山を挟んでその裏側を結ぶほぼ正三角形の底辺に当たる。最初はちょっとキツイがすぐに木道になり、中間は平坦な山道である。中間にロープに頼らなければ通過できない崩壊した場所が在るが、又平坦な山道歩きとなり、暫くすると黒沢池全体が一望出来る場所に出る。シャッターチャンスと小型カメラを取り出し撮ろうとしたところで、また異変が起きた。目まいである。黒沢池とその後ろに聳える妙高山を入れて何枚か写真を撮り、ハシゴ場を下りて目の前に近づくヒュッテに到着した。二〜三人の先客が、前のベンチでのんびりと一服していた。私はどうも調子が変なので、早く宿泊の手続きを済ませて中で休もうと、受付で予約し支払いをしようとした時、小銭が零れ落ち、それを拾おうとした時本格的な異変が起こった。ひどい目まいに襲われ、受付のカウンターに掴まってどうにか身体を支え、倒れるのを防いだのである。受付の成年には気づかれない様に、暫く落ち着くのを待って椅子に腰を下ろし、ロングサイズの缶ビールを注文した。アルコールが好きな私はビールでも飲めば目眩は回復すると軽く考えたのだが、それも効果はなかった。食事の時間に二階から降りようとして、階段の上で目まいに襲われ座り込んでしまった。

山へ来て食事だけは欠かせないので暫く落ち着くのを待ち、一階の食堂へ降りテーブルに着いた。そこで意外な人に遭遇した。お互いに面識は無いのだが、話していくうちに同郷の人であり、同じ中学の四年ほど下の卒業生であった。奇遇と言える出会いであった。 翌日は妙高山へ向かい、大倉乗越を越え妙高山の基部まで行ったがやはり調子が悪く、あと一時間ちょっとの所で大事をとり、引き返すことにした。残念ではあるが身体は一つ、山は逃げはしない、次の機会に登る事にした。黒沢池ヒュッテに戻り、富士見平からは昨日登った道である。一二曲は岩や木の根に掴まり、バランスを崩さないように慎重に下った。黒沢を過ぎると木道となる。登りは平坦に見えたが、下りになると結構な勾配であることが判った。残雪や雨に濡れていれば当然滑る。ゴム板が打ち付けてあるのは滑り止めであり、疲れてくると歩幅も狭まるが、それに合わせた計算ずくの間隔であり、山に登るのは大人だっ歩幅は異なり、子供たちだって当然登る。木道は、登山道の整備でもあるが、外に踏み出さないよう植生の保護の役割も果たしている。

火打山

妙高の 奧に聳えし 火打山


    8/28
笹ヶ峰(6:00)ー黒沢(6:45)ー12曲り急登(7:15めまい休む7:35)ー富士見平(8:30)
ー高谷池ヒュッテ(9:15-9:30)天狗の庭(9:40)ーライチョウ平(10:25)ー火打山(11:00
-11:50)ー天狗の庭(12:40)ー高谷池ヒュッテ(12:55-13:05)ー黒沢池ヒュッテ(14:00)





49、美 ヶ 原 高 原(2,039m)  2006・07・09


 50年前、私達が若い頃の人気NO.1は、美ケ原高原と並んで白樺湖を中心とした霧ケ峰高原があり、二番目が新潟の戸隠高原であり、長野では志賀高原や妙高高原等がスポットであったろうか。日光の戦場河原や霧降高原等々、これらの高原は若い男女のピクニックやハイキングの人気の中心であり、近くでは陣場山高原が若者の人気の的であった。私は登山に熱中していたので、高原のピクニックには興味をもたず、美ヶ原へ行く機会はこれまでなかったのである。

 友人の実家が松本市内にあり空き家になっている関係で、ここ数年、年に一回合宿のような形で、そこを基地に二泊して長野県内をドライブして巡る計画が進んでいて、今回は美ケ原高原ということになった。梅雨時の晴れ間、しかも大型台風3号が来ており、朝鮮半島へ向い、梅雨前線を押し上げて関東甲信越まで圏内にかかる気圧配置であったが、幸い小雨がぱらつく程度で天候に恵まれた。

梅雨時とあって、シーズン前であり空いてはいたが、昔の若い世代とは時代が変わり、やはりここでも中高年の客が主流であった。何の準備もしないで出かけたが、駐車場の売店で慌てて水くらいは確保しておこうと自動販売機で一本購入して歩きはじめた。実際には途中小雨がパラつく程度で、雨具も何も必要ではなかったのであるが、やはり二〇〇〇mの高原であれば、防寒着等それなりの準備はして臨むべきであり、私の性格からしてはうかつであったと反省している。

美ヶ原高原

若人の 人気スポット 団塊の 心を癒す 美しき原


          7/9
自然保護センター(10:20)ー王ケ頭(10:45)ー塩クレ場(11:10)
ー美しの塔(11:20)ー山本小屋ふる里館





50、常  念  岳(2,857m)  2007・07・22


 ここ数年、百名山登山記録は進んでいない。原因はT・Kで、時間的な余裕が無くなったのと、気象に影響されて頂上を極められない事にある。昨年は、鳥海山へ登ったのであるが、初心者を含めた混成部隊で、雪渓を登るコースを選んだ為、雨に伴うガスと寒さに阻まれて一人が脚の軽い痙攣を起こし、頂上を目前にして撤退せざるを得なかった。今回の登山は友人が企画し、多少山馴れた人間が居れば安心という事で三連休を利用して登る計画で誘われたものであるが、大型台風4号の接近で悪くすると登山中に直撃を受ける危険を避けて一週間延期して実施したもので、積極的に自分から計画したものではなかった。それだけに山に関しては私なりに事前調査は行なったが、山へ入る迄のプロデュース役は他人任せで、登山口まで辿り付くのに幾つかのアクシデントがあり、2時間程の浪費をしたのであるが、時間的には最初から余裕を持った計画なので登山そのものに影響は無かった。梅雨の影響で登山口までの林道が崩落し、烏川林道入口のゲートが閉ざされそれを見落として通過してしまったのがそもそもの失敗のはじまりで、戻ってゲート前へ辿り付くのに堂々巡りし2時間近く浪費したことになる。 ゲートには案内人が居り、工事用車両と地元のタクシー以外は入る事はできない。それも途中のまゆみ池迄であるが、タクシーで20分、歩けば2時間以上は要する。即座にタクシーを呼んでもらう事にした。まゆみ池から登山口の本沢駐車場迄は、途中2ケ所ほど林道が崩落して工事中であり、とても車は入れない状態であった。 三股からは蝶ケ岳目指して登るが、緩やかな登りであり、登山道も整備されており、優しく登山者を迎え入れてくれる山であった。ゆっくりと歩きまた休憩を何回も採りながら進み、16時には蝶ケ岳ヒュッテに辿り着き、缶ビールで乾杯をした。

 さて、余談と弁解が続いてしまい、本題である百名山の常念岳登山に移るが、蝶ケ岳からのコースを辿ったので、蝶ケ岳ヒュッテからの話題を記載する事としたい。夏の山の朝は早く4時には外は明るくなる。一人の友人は4時起きして身支度を整え、日の出の写真を撮ろうと待ち構えていたが、晴れてはいたが高山特有の濃霧に遮られて撮影には成功しなかったようである。支度を整え5時からの朝食を済ませ、小屋脇の蝶ケ岳周辺は平坦な広場で、登山者が「槍が見えた」と歓声を上げている。梓川の谷を挟んだ向うには、右に槍の穂先と東鎌尾根、左には穂高連峰と遠く御嶽山が望める。残念ながら穂高連峰の頂上はガスに隠れてその全容を現してくれなかったが、槍ヶ岳だけは尖った特徴のある穂先と全容を時々見せ、私もその勇姿を写真に納めた。皆で記念撮影をして少し遅い出発となる。今日の行程は平常ならば4〜5時間の歩程であり、初心者が多いとしても十分な時間的余裕を見込んでいた。

最初は高山特有の這い松の間の歩きやすく展望の良い稜線歩きが暫く続き、今日は楽勝、ただ常念岳の鞍部から頂上まで400mの標高差をどう乗り切るかが問題と考えながら、左に槍や穂高連峰を望み、正面に時々ガスが流れて姿を現す常念岳を望み、這松の間を縫う見晴らしの好い爽快な稜線散歩を楽しみながら全員軽快に進む。這松の陰から雷鳥が見えるかと期待したが、一度も姿を見せてくれなかった。ヒュッテ最後の遅い出発らしく、先発の姿は見えるが後ろからは誰も来ない。蝶槍はさほど標高差はないが、巻き道を進む。ここまでは爽快な稜線歩きであったが、蝶槍を過ぎると下りとなり樹林の中の急な下りを降りる。「折角登ったのにもったいないなー」と誰かが声をあげる。出発から1時間で鞍部に着く。小広い湿地帯で振り向くと蝶槍が以外に立派に見える。10分の休憩を採る。これから3つほどのピークを越えて常念岳へ登る最低鞍部へ行く事になる。次のピークも樹林の中の登山道であり越えた鞍部で小休止をしていると、この辺から反対の常念小屋を早立ちした登山者と行き交うようになる。2つ目のピークも樹林帯の中を歩くのであるが、お花畑が有ったり小さな池が有ったりで、登山者の目を楽しませ疲れを癒してくれる。このピークからは3つ目のピークである岩山とこれから登る常念岳が目の前に大きく立ちはだかって見える。特に初心者にとって常念岳は遠くから見ると一見、切立った岩の狭い縁を歩いて直登するように見えて恐怖感をそそるらしい。3つ目の岩山のピークで休憩を採り、軽い腹ごしらえとこれから登る常念岳への気構えを整える。常念岳には先発のグループが登って行く姿がだんだん小さくなって見える。

 最低鞍部から頂上までの標高差はちょうど400mであるが、初心者にとっては決して登り易い山ではない。松本から見る姿も三角錐に見え傾斜はキツイし、花崗岩が積み重なったゴツゴツした岩の上を歩く登山道は足元が不安定で、歩幅も岩の大小に合わせなければならず一定ではない。何よりも登山道を探すのは岩に付けられたペンキの印だけである。初心者を先頭に自分のペースでゆっくり進み私がしんがりを歩いた。登山道であるから最も安全で楽な所を歩くように付けられているが、岩山には巻き道が付けられている。とは言っても急な岩の斜面を通過しなければならない場所もある。疲れているから目先の印しか見つける余裕はない。つい次の目印を見失ってしまうのは仕方のない事である。3つ目の大きな岩山が立ちはだかった。巻き道の印を見落としてしまい、急な斜面の印に沿って登って行った。ところが頂上直下にペンキの○は有るがその先は無くなってしまい、大きな岩が立ちはだかり進退窮まってしまった。私が頂上へ登って見るとこの岩山を越すと直下に登山道が見える。下に巻き道が在ったので有るが引き返すと20分は要するであろうし、急な下りは危険が伴う。初心者でもこの岩峰を越えられるし、その方が安全であり時間的にも5分とかからない。大きな岩の積み重なったピークを越えてもらい登山道へと降りた。直下までペンキの印があったので、間違いではないが、ベテランコースか巻き道が出来る前のコースであったのかもしれない。降りたすぐ下が休憩に適しており昼時であったので昼食休憩にした。「冷や冷やしたがお陰で貴重な経験をした」と笑い話で済んだ。これを契機にして、私がトップを歩くことになり、ゆっくり先頭を歩いた。3つか4つ先の印を見つけておきルートをとった。雨やガスに巻かれたら迷いやすい山であり慎重を期さなければならないと感じたが、幸い曇ってはいたがガスってはいない。ゆっくり歩いてもすぐ離れてしまうが、待って後続の安全を確かめながら無事頂上へ着き、30分の休憩を採り記念写真を撮った。午後2時なのでガスで周囲の眺望はなかった。

 下りも同じように花崗岩が逆層に積み重なった歩きにくい急な斜面を、ペンキの目印に従って降りる事になる。山の西側半分は岩の積み重ねで、所々に這松の緑が見える程度である。どう形成されたのか自然の偉大さと奇怪さに驚嘆するばかりである。頂上から小屋まではガイドブックで30分のコースであるが、山の事故の大半は下りで起きている。途中霧が切れると、直下に赤い屋根の小屋が見えると安心感が増す。3倍の時間を掛け安全を期して16時に今日の宿泊地である常念小屋へ着いた。汗で濡れた登山着を着替えるとすぐ、17時からの夕食には生ビールで乾杯をした。小屋も幸い混雑して居らず、5人に2部屋の個室が与えられラッキーであった。昨晩は私の大いびきで眠れず迷惑した人を配慮し、いびきに強い友人と2対3人で分れゆっくり睡眠をとった。

 昨晩寝る前のテレビの天気予報は曇りで、午後から雨の確立は20〜30%であり、山を下りるまでは雨は安心と休んだのであるが、予想に反して朝から小屋の外は小雨であった。実は車で来たので三股の下に駐車してあり、当初は前常念岳を通り三股へ下るトライアングルのコースを計画していた。少し山馴れた人なら地図を見て、前常念岳から三股への下りが急であり、最大の難関である事はすぐに判るのであるが、現在の登山道の状態までは判らない。事前にガイドブックを購入したりインターネットで調べたが、古い登山記録ばかりであり最新の情報は詳しく記載されていない。現地でタクシーの運転手さんや登山指導員の注意や情報を集めると、道は荒れており梯子等も壊れたままで修復されて居らず、岩も苔が生えて滑りやすく危険であり、特に下りにこの道は使用しないよう厳重な注意を受けていたのである。その上朝から雨であり、安全で時間的にも短い一の沢コースを選んだんのは当然である。

 一の沢コースは、小屋の人や地元の人が手を入れ、良く整備された登山道である。危険な所にはロープが張ってあり、急な箇所には階段や梯子も着けられ楽で安全に通過できる。沢沿いに造られた登山道であるため支沢を何本も渡らなければならないが、細い丸太を並べた橋が掛けられている。迷う心配もなく、何よりも沢沿いである為いたるところで水が得られ、「水筒いらず」と言われるコースである。小屋を6時に出発し、滑らないよう足元に気をつけゆっくり安全を確保しながら、11時半に登山口である一の沢登山補導所へ全員無事に到着した。

常念岳
長野から 三角定規 クッキリと

     7/22
蝶ヶ岳ヒュッテ(7:10)ー蝶槍(7:55)ー鞍部(8:10休8:20)ーP1・2鞍部
(8:36休8:47)ーP2・3鞍部(9:32休9:45)ーP3(10:40休10:50)ー最低鞍部
(11:05)ー岩峰基部(12:15昼食12:45)ー常念岳頂上(14:00休14:30)ー常念小屋
     7/23
常念小屋(6:00)ー笠原沢(7:00休7:10)ー烏帽子沢出合(9:18)ー王滝ベンチ
(9:50休9:55)ー山ノ神(11:15)ー一の沢登山補導所(登山口)(11:30)

※(初心者が多い為ゆっくり時間をかけたので、コースタイムの参考にはならず)






51、安 達 太 良 山(1,700m)  2010・10・17


 ここ数年、百名山登山記録は進んでいない。原因はM(※)であるが、単なるマネイではなく、マザー、つまり妻の「一人で行くのは何か起きたとき危険なのでやめてくれ」という、強い意志が働いている。そんな時、友人の誘いで福島郡山行きの機会がおとずれた。今回の登山は友人が企画し、実施したもので、その計画にのったものである。

安達太良山

智恵子いう 本当の空 安達太良に


    10/17
ケーブル下駅(8:10)ーケーブル上駅(8:20)ー薬師岳(8:30休8:40)ー平(9:00)ー安達太良頂上
(10:00休10:15)ー鉄山(10:40)ー最低鞍部(11:0)ーケーブル上駅(11:55)ーケーブル下駅(12:05)
  ※(混雑・行列しているので、コースタイムの参考にならず)







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マウンテン
( この紀行文は、12年前北アルプス表銀座へ登った時のO氏のものです。O氏は登山を始めたば
かり、丹沢へ登り独自の訓練・努力をしたとはいえ、いきなり3000m級の山へ登った記録です。
初めて稜線から目にしたアルプスの雄大な景観に、新鮮な感動が直に肌に伝わってきます。 )




(番外編) 北アルプス表銀座 (2,763m) 2001・08・05〜08



”行つて来ました!雲上の銀座散歩” (Y.O 記)

   中房温泉〜燕岳〜大天井岳〜西岳〜二俣乗越〜東鎌尾根〜槍ヶ岳
  (U・E・S・O・O夫人  5名)


朝日に焼ける北アルプスに向かって

 8月4日の夜11時50分新宿発のアルプス4号は、翌朝 4時45分には、薄明るくなった穂高駅に着いた。僕たちの他にも登山客が何組か降りたが、そんなに多くはなかつた。僕たち5人は、すぐに駅前に並んでいるタクシーに乗り込み中房温泉の登山口に向かつた。快晴である。朝日に焼かれる北アルプスの山並みを正面に眺めながら車は走り出した。が、すぐに曲がりくねった急坂の林道に入り、クネクネと走りつづけた。途中タクシーが2台フルスピードで追い抜いていく。「あれじゃお客が酔つぱらっちやうよ、もう一度お客を運んで稼ぐ連中だ」と運転手が笑いながらいって「夜行できたお客さんを大切にしないと」と僕たちに話しかけた。以前は町営だったが今は燕山荘グループの管理となつている有明荘の前を通り過ぎると登山口はすぐで5時半には到着した。さあ!いよいよ雲上の銀座散歩への出発だ。

 万全の態勢を整えたのに・・・・・

 「燕岳から槍ケ岳をめざす3泊4日の大縦走に行かないか」とEさんに誘われて行く気になつたのは、たしか3月。解雇撤回闘争中の暴飲暴食がたたり、80キロにもなつた体重を減らすために、毎朝1時間から1時間30分の散歩を2年間続けて、今では66キロまで落とした実績がある僕は、歩くことへの自信はあったものの、きつい登りや絶壁の鎖場ガレ場などガイドプックの写真を見ながら4日間も歩き通さなくてはならい初めての山行きに「だいじょうぶかな〜」と大きな不安を覚えていた。みんなに迷惑をかけてはいけないと思い、丹沢表尾根に何回も登つて鍛えた。出発が近づいた7月28日には、リーダーのUさんとEさん達と一緒に丹沢塔ノ岳に登り、「これなら大丈夫」との大鼓判をもらつていた。出発前には、登山靴、雨具、ザックなどを買い縦走に耐える装備を全て揃えなおした。万全の体制で今日を迎えたはずなのに、登山口に着いた今、出発を前にして不安な気持ちが強く頭を持ち上げてきた。

  出発準備を整えて記念撮影をしていると、賑やかな6人組がやつてきた。見るとその中にどこかで見たことがある顔が混じっている。東電原告団千葉のH氏夫妻だと思い出すのに少し時間がかかつた。支援共間の幹部であつたSさんが「やあやあ」と声をかけた。5泊6日かけて槍ケ岳から更に黒部まで足を延ばすというH氏に「そりゃ強行軍だ、俺たちと一緒に槍止まりだヨ!」などと冗談を飛ばし、久しぶりの奇遇な出会いを楽しんだ。

きつい登りも丹沢よりはましだ

燕山荘
 6時10分に登山口を出発。最初からきつい登りが続くが丹沢表尾根からみるとまだましだ。第一ベンチで朝食休憩を取り第二、第三で小体止、富士見ベンチでは休まず合戦小屋に10時丁度に到着した。一切れ800円もする名物の「スイカ」も「うどん」も喰わず、持つてきた補助食を食べ記念写真を撮つて10時40分に小屋を後にする。いつの間にか霧に覆われてしまって、めざす燕岳、燕山荘を見上げても全く見えない。少し緩くなつた最後の登りをしばらく登る。このあたりから大天丼岳や常念岳が見えるとガイドブックに書いてあつたが、それも全く見えない、登山道の周りがやつと見えるだけ。「燕山荘が見えるぞ」Uさんが叫び指をさす彼方に、激しい霧の流れの切れ間に燕山荘がチラリと姿を現して、すぐ消えた、もうすぐだ。

「これにハマッタノヨ〜」・・・僕もハマりました

 「頂上はよく見えるデ〜」とすれ違うた関西訛りのおばさんの声を疑心暗鬼に聞き流し、登山道沿いに咲く花を楽しみながら燕山荘のある尾根にたどり着いた。なんと「ホントダ〜、こりゃすごい」「どうなってるのこりや」.穂高から槍ヶ岳、大天丼、常念岳、から立山、白馬、後立山連山まで岳。岳・岳が真つ白な積乱雲の浮かぶ空の中に、クッキリと雄大な姿を惜しみなく見せてくれるではないか。霧に包まれた登山道を上り詰めた一瞬に現れたその光景は、一瞬に暗転する歌舞伎の舞台、幕が上がった第二幕の舞台に眼を見張るように、濃霧の坂道を登り詰めた僕たちを迎えてくれた。「これにハマッタのョ」登山歴20数年というEさんが言つた。「あれが槍、奥穂と前穂も見えるゾ、常念、大天丼、立山、白馬・後立山・すげ〜ヤ。」UさんとSさんが指をさしながら楽しそうに僕らに教えてくれる。

「アア〜感激」忘れることは出来ません

宿泊を予約して、ひとまず荷物を部屋に置きレストランヘ行く。なんといつてもまずビール、冷たい生ビールを一気に飲み干し昼食を摂り、少し体んでから燕岳に登る。重いリュックをおろし、リラックスした僕たちは、奇岩に登り写真を撮つたりコマクサなどの花を鑑賞しながらのんびりと山頂をめざした。懸念していたはど疲れもなく無事に2763mの山頂に登ることが出来た、安堵の気持ちが北アルプスの雄大な景色を一層素晴らしいものにしてくれていた。夕方には沈む太陽で真っ赤に燃える槍ヶ岳、翌朝には朝日に染まる東側の雲海、西側の槍ケ岳などの美しい景観があの冷たい生ビールのうまさ、夕食後のイベントで聴いた小屋の主人赤沼建至氏が吹くホルンの音色とその話り口と共に「アア〜感激!」忘れることの出来ない思い出をつくってくれた。

雄大な景色とお花畑・・・のんびりと稜線歩き

 2日目4時に起床、かなり寒い、新調したゴアテックスのレインウエアーを羽織り、雲海の彼方から顔を出す太陽、朝日に燃える槍ヶ岳から顔を出す太陽、朝日に燃える槍ヶ岳をパチリ、パチリと撮りまくる。めざす槍ヶ岳をバックにJ子と一緒に記念撮影もした。朝食は4時半と5時半の二回に分かれていて、僕たちは5時半に摂る。6時半、燕山荘の玄関で記念写真を撮って出発。「コマクサ」「ウサギギク」「イワギキョウ」などが咲き乱れるお花畑を眺め、写真を撮り、「雷鳥」を探したりしながら、大天丼岳から西岳をめざしゆつくり、のんびりと緩やかな稜線歩き。途中、大天丼岳をトラバースする際、絶壁の鎖場にスリルを覚えながら大天丼ヒュッテに11時20分に着いて昼食にする。ここでもまた中ジョッキ1杯千円也りの生ビールを飲んだ。

喜作新道を西岳ヒュッテめざして

 12時に出発し喜作新道を赤岩岳に向う。めざす槍ケ岳がだんだん大きくなり、雪渓が残る沢からその穂先まで厳しいその鋭さに気後れさえ覚える。赤岩岳を回り込んでから、かなり歩いた。雷鳥の姿も見えず、動物にも出会うことはなかったが、突然Eさんが「猿だ!」と言って指を指した。そこは赤岩岳と西岳とのキレット部なのだろうか、正面にかなり深く鋭く切れ落ちた黄色の岩場があり、その崖の岩場で親猿と小猿が戯れていた。岩場の左側や登山道の左側にはハイ松が茂つていて、その茂みから何匹もの猿が僕たちのすぐそばに飛び出して、かけていつた。見ると道のそこかしこに青い松ぼっくりがかじられて落ちていた。猿が食べているらしい。山に入つてから初めて出会つた動物に心が和んだ。

西岳ヒュッテにおおいかぶさる槍ヶ岳

  僕たちは、あの山の向こうが「西岳ヒュッテだ」と何度か言いながらなかなか現れない「ヒュッテ」に向かつて歩き続けた。やつと西岳を廻り込みヒュッテ西岳の赤い屋根とベランダ(?)が眼に飛び込んできたときには、「やっと着いたか」とホッとする。3時丁度にヒュッテ西岳についた、8時間30分、歩数にして2万2千279歩だとSさんが教えてくれる。ヒュッテ西岳は眼前に荒々しい槍ヶ岳の峻峰が覆い被さるようにそびえている。その険しい槍ヶ岳の雄姿を誂めながら、みんなでビールを飲む。クツキリと見える頂上への登山道、その鎌の刃先のように尖つた尾根に僅かに白く見える細い道の再側は、45度以上に鋭く切れ落ちている。もし足を滑らせたら「一巻番の終わりか」などと一瞬頭の中で考える。「明日はあの頂上に立つのか」、夜行列車と雑魚寝の山小屋で寝不足気味の頭に不安と一種の感慨がよぎる。

雨の中憧れの槍をめざして

槍ヶ岳
 3日目、昨夜からそば降る雨が、激しくなったり小雨になったリイヤ〜ナ天気になった。ヒュッテ西岳は小さな山小屋で、水場がない。トイレも野外で不自由だ。僕たち5人は二段ベッドを大きくしたような寝室の二階に押し込まれ寝むった。寝返りも打てない。またしても寝不足で朝を迎えた。我々5人組は、雨をついて登頂するのかどうかを相談することもなく、当然のごとく出発の準備をした。他のパーティーもほとんどが完全装備で6時頃から出発していった。僕たちは6時半に小屋を出発した。小屋を出るとすぐ険しい下り、10mの梯子、ガレた岩場や鎖場、垂直に下ること約1時間、水俣乗越に着く。雨は止む気配はなく、いよいよ槍ヶ岳をめざす厳しい登りにとりかかる。あとからきた夫婦連れが追い抜いて先に登りはじめたが、ほぼ垂直に立ち上がっている、―枚板のような岩場の登りに、ここは道ではないと思ったのか、チョッと引き返し道を探したが結局そこを登った。僕たちもその難所を登り切った。

リーダーの決断・・・僕たちを救ってくれたのか

  そこは、東鎌尾根と呼ばれる所で、そのすこし先には、かなり長い鉄の梯子がかかっている登りとなっている。すでに何組かのパーティーが梯子に取りかかつていた。僕は小体止しながら、その雨にかすむ赤や青のレインコート姿を眺めながら、「足を滑らせれば一巻の終わり、滑りやすいから気をつけなければ」などと思いをめぐらせていた。そのとき、空を眺め続けていたリーダーのUさんが「あきらめよう」とつぶやき、激しくなる雨足を見定めて、下山することを決断した。あこがれの槍ヶ岳まであと約1時間半、目前にして断念せざるを得ないリーダーの無念を思いながらも、その勇気にいたく感心した。僕たちは、今きた水俣乗越へ引き返し、荒天時避難道を1時間.大曲に出て槍沢ロッジに着く。雨と汗に濡れた身体が寒さを覚える。ラーメンとビールで昼食を摂り、すぐに出発する。横尾を経て徳沢園まで2時間、今日は徳沢園に泊まることにした。リーダーの決断に「いたく感心した」のは他でもない、初めての山行き、夜行列車や山小屋の雑魚寝で疲労困憊気味の僕たち夫婦を救つてくれたのではないかと思うからだ。おかげで無事下山、ゆつくりできた。

必ず槍を征服して穂高にも登るぞ

 徳沢園は元牧場だつたとか、深い緑の中に立つ個性的な山小屋、というよりもリゾートホテルといえるほど立派だ。徳沢園の正門前は、濃い緑に囲まれた公園のような広場で、そこはキヤンプ場になっていて、無数のテントが張られている。隣には日大の診療所まで設置されていて、日本有数の出岳観光地として十分な設備を整えていると思つた。「氷壁の宿」と銘打つ徳沢園は、風呂とうまい食事、庭から見上げる前穂高。井上靖の小説「氷壁]が映画化されるときのベースキヤンプになっただけでなく、井上靖自身小説「氷壁」をこの前穂の勇姿を眺めながらを書き上げたのだろうか、また読んでみようと思う。そして「次回は必ず槍を征服し、穂高岳にも登ってみたいものだ」と密かに心に誓つた。

 4日目、4時起床、庭に出る。売店の前から空を見上げると曇つているものの、巨木の緑に挟まれるように、前穂高岳が流れる雲の間から姿を現した。4時半頃だろうかそ の勇姿にうつすらと朝日が差し黄金色に光つて見えるようになった。あわててカメラを取りに部屋に帰り、引き返したが、すでに雲に隠れて何も見えなくなっていた。

素晴らしい山行きをありがとう

 5人は、朝食を摂って喫茶店でコーヒーなどを飲みながらゆっくりした。8時過ぎに徳沢園を立ち梓川沿いに2時間、明神を経て河童橋を渡り、上高地温泉ホテルに着いた。ホテルでは山岳絵画展をやつていて、Eさんが是非見たいというので一緒に見た。この4日間、僕たちが実際に見てきたあの素晴らし山を、それぞれの画家が感動を込めたタッチで書き上げていて、僕たちの心に追ってきた。ホテルで昼食を取り、のんびり上高地を散策しながらバス発着所に向かい、新島々行きのバスに乗った。新島々から電車で松本駅にでて、特急あずさ号で3時間、人王子に帰つてきた。初めての大縦走、歩くことでの疲れはそんなに感じなかつたものの、夜行、山小屋泊るりでの寝不足により、かなり疲労がたまり疲れたが、素晴らしい山行きであった。徳沢園で決意した「こんどは必ずあの槍ヶ岳に登りたい」との思いは、帰宅後もますます強まる毎日を送つている。さようならアルプス、また必ず来るよ梓川へ!

燕岳頂上



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(番外編) 八ヶ岳・赤  岳 (2,899m)2004・07・03〜04

(E・K・S・H・Y  5名)



       八ヶ岳の主峰である赤岳への登山コースとして、最もポピュラーなのは美濃戸口から登るコースである。48年前に夏沢峠から赤岳へ登り、編笠岳を経て南八ヶ岳を縦走した事はあるが、それ以来八ヶ岳に脚を向けていない。パソコンで八ヶ岳を検索すると、その殆どが美濃戸口からのものであり、それほどまでに人気の集中する原因は何処にあるのか、一度この目で確かめてみたい気持ちもあった。会社を定年になり時間は沢山あるはずであるが、貧乏暇なしで雑用に追われ、中々多忙で山へ登る精神的な余裕が無い。今回は友人に誘われ車一台、五人で出かけることになり美濃戸山荘の下まで車で入った。少し早めの昼食を済ませ、11時50分に出発する。

 行者小屋までの行程は沢を何度か右に左に渡って進むが、樹林の中の石のゴツゴツ露出した緩い登り道で、見晴らしの効かない単調な登りが続く。やがて水の枯れた河原に出ると俄然見晴らしが良くなり、正面に赤岳が姿を現す。特徴的な形をした岩塊の大同心がすぐ目の前に見え、その角度から行者小屋までの距離が真近であることが分る。河原で赤岳をバックに5人揃って記念写真をとる。一旦樹林にはいり、ヘリポートを左に見て進むとすぐに行者小屋である。のんびりと二時間45分の時間を要して、午後2時35分に小屋に到着する。今日の行程はここまで行者小屋泊りである。
 行者小屋の建つ地形は、南八ヶ岳の懐に抱かれたような場所で、赤岳を正面に右には阿弥陀岳の如何にもいかつい姿があり、左手には仏様が鎮座したような特徴のある大同心がくっきりと見え、赤岳から伸びた両腕に大事に抱えられたような位置に在り見晴らしもよい。南八ヶ岳を信州側から真近に見ると、北アルプスの岩山を連想させ、甲斐側から見たなだらかさと優しさとは異質な感じを受ける。その景色をカメラに納め休憩をするが、ありがたいことに生ビールがおいてある。中ジョッキを一杯飲むが、これ以上ないと思われる快晴の登山日和の中を汗をかいて登ってきた喉には美味しく、一杯では収まらず缶ビールやワインを味わってくつろいだ。それでも夕食の時間までには間があるので、赤岳鉱泉へ入浴に行く事にする。片道30分で立派な建物の鉱泉宿に着いて一日の汗を流してサッパリとする。赤岳鉱泉は行者小屋から標高差にして120m下った所にある。空身で来たとはいえ帰りはまた一汗かいて帰らなければならない。40分を要して小屋に帰り、夕食を採って明日に備えて九時前には床に就いた。

 今日はいよいよ赤岳の頂上をめざす日である。文三郎道を登る事にするが、ルートを開拓した人の名前を付けたのであろう。文三郎道は小屋からも斜面に沿って付けられた道筋がはっきりと見えるが、見た目にも急勾配と確認できる。赤岳山頂までの直線距離は短く、標高差は560mあるので急登は覚悟していた。最初は樹林帯の緩やかな登りであったがすぐに勾配はキツクなり、石のガラガラ道となる。最初はトップをゆっくり歩いていたが、少し歩を速めた。急な登りのガラガラ道なので落石に気を付け、二番手との間隔を空けて保つ為であり時々立ち止まり、後の様子を確かめながら歩いた。森林限界に来ると鉄網を折り曲げて造った急な階段に変わった。山で階段といえば丸太を組んで止めた物が一般的であり、急で危険なところは鉄板を溶接した物を見かけるが、文三郎道のように岩が脆くボロボロの急斜面にルートを造るには、この方法がベターなのだろうと初めてお目にかかる階段に感心しながら登った。幾つか網の階段を登っていくと上のほうで「鹿だ!」という声がして、中岳との間の低木帯に皆が目を向けていたが、タイミングよくカメラに収めた人も居たようである。丹沢では人馴れした鹿を何頭も見かけるが、先程現われた鹿はカモシカであったらしいが、私はその姿を確認できなかった。そうこうするうちに中岳との稜線に着く。稜線の風は冷たく寒さを感じたので、一枚上着を出してまとい皆の到着するのを待つ。最後の詰めを控えてここで皆一息いれる。

 これから先は赤岳頂上への険しい詰めになり、急なざれ場を少し行くと鎖場となり、鎖・クサリと何カ所もの鎖場を通過して赤岳の頂上へ出る。頂上は狭く、先に到着した中高年20人のパーティーに占領されていた。次から次ぎへの記念撮影で中々空かない。次に4〜5人のパーティーの記念撮影のシャッターを押してやり、順番待ちのかたちでやっと我々五人の写真を撮ることができた。赤岳頂上小屋の方の岩場が広いのでそちらへ移り休憩する。天気は快晴、360度の展望である。南アルプス連山の右後方には富士山がシルエットで浮かんでいる。その右に中央アルプスの山々が見え、眼下には清里の街並みも望める。信州側を向くと雲の上に北アルプスの連山が浮かんでいる。槍の尖った穂先がそれと判る。 奥秩父の山々も北東に姿をみせている。 展望を楽しみすぐ下に見える展望荘へ向って降りる。途中の鎖場では下から登ってくる20人程のこれまた中高年パーティーの通過を待ち、大分時間を費やす。待っている間に真教寺尾根を登っている登山者を見つける。赤い服装が目立ち豆粒のように上へと向って少しずつ動いているのが見える。この尾根も赤岳への詰めはかなりの急傾斜であり、その角度からきついルートであることが見て取れる。展望荘の西側には狭い範囲ではあるが、こまくさが可憐な花を咲かせていた。

 地蔵尾根は、名称のように溶岩が風化した脆い岩の間に付けられたルートであった。地蔵という名のつく山は、どの山も頂上付近に石がゴロゴロと転がっており、のっぺりしたところが共通している。賽の河原に似たところから着けられた山名だからであろう。地蔵岳がないのに地蔵尾根と名が付いているので、予想したとおりに脆い岩と石がゴロゴロしており、勾配も急で鎖を頼らないと足を滑らせとて降りられない悪路である。こちらの階段は崖の通過に数箇所あるが、鉄板で造られパイプの手摺りが付けられていた。脆い岩肌の急斜面を降るとやっと樹林帯になり一安心するが、ジグザグに付けられた道は依然として足元は岩のかけらがザクザクした急斜面である。バランスを崩したり足を滑らせないよう慎重に降り、少し平坦になった所まで来ると行者小屋が木の間隠れに見えてきた。かすり傷程度の事故もなく全員無事、11時ちょうどに小屋へ戻った。

 注文して預けておいた昼食と、冷たい生ビールを一杯飲んで腹ごしらえをした。後は昨日登ってきた緩い下りの山道を美濃戸へ戻るだけである。12時に小屋を出発した。昨日登ってくる時は平坦な道と思って歩いていたが、下ってみると結構落差があり、高度を稼いでいたんだなと気づいて、無事に美濃戸へ到着した。二日間快晴に恵まれ、単独行では味わえないゆったりした山行きであった。

  
赤岳頂上

       7/3
  美濃戸山荘(11:50)ー行者小屋(14:35)
       7/4
行者小屋(6:05)--稜線(7:30)--赤岳山頂(8:05−9:00)
--赤岳展望荘(9:30-9:55)-- 地蔵尾根分岐(10:00)
--行者小屋(11:00 昼食 12:00)--美濃戸(14:20)



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マウンテン
(世界遺産) 白 神 岳 紀 行 (1,235m) 2004・07・18

谷川 岳史

この紀行文は、8年前白神岳へ登った際のものです。記念イベントの地元実行委員長宅
へ挨拶に立ち寄り、暖かいお持てなしを賜りました。その方のホームページへ投稿、現在
も掲載されています。この度、私がHPを立ち上げ、併行して掲載することに致しました。



  友人が、唐土久美子の後援会長と事務局長を務めている関係で、世界遺産登録の白神山地へ行く機会に恵まれた。特に、”白神岳へ登る”ということで、即刻参加することを決めた。”白神山地の詩”が持ち歌で、白神岳山麓に位置する岩崎村の「十二湖生誕300年記念イベント」の一環として、岩崎村協賛で取り組まれた”唐土久美子コンサートツアー”に参加したのである。俗に言う”追っかけ”というより、”白神山地”が目的の参加であった。横浜から30数名の参加で、マイクロバス1台とワゴン車2台に分乗し、16日夜行で出発した。

コンサートは、地元実行委員会の皆さんの大きな力で観客を集め、全体で130名の参加者を得て盛大に行なわれ成功した。ツァーは二手に分かれ、観光コースは十和田湖や奥入瀬渓流散策と太宰治の生家である斜陽館の見学、竜飛崎散策と盛りだくさんであるが、私は、白神岳登山コースに加わった。白神岳コースは何よりも天候が気になった。直前に新潟で大洪水の被害をもたらして停滞していた前線が、徐々に日本海を北上し青森に近づく気圧配置であった。

 登山組は、到着した日は先ず地元実行委員長宅へ挨拶に行き、不老不死温泉や十二湖散策等で過ごし、明日登る白神岳登山口へ行き下見し、女性は登山口下に在る白神山荘に分れ、男性軍は十二湖リフレッシュ村ログハウスで泊った。

翌朝は4時起きの出発、好きなアルコールも控え、交流会もそこそこに床に就いた。天井裏のベットに寝たので、夜中や朝方にトタン屋根を打つ強い雨の音を直に耳にして時々目覚めた。この雨では明日は無理かなと、夢うつつに考えて半分諦めていたが、朝起きると雨は止んでいた。朝食もそこそこにワゴン車2台で出かけ、途中登山口下の白神山荘に分宿した女性を迎え、登山口である白神平へ入った。

 登山口には広い駐車場があり、立派な村営の休憩所とトイレが整備されている。白神山荘に分宿した女性たちから、既に大型バスが入っている事を車中で聞いたが、私達が着くと既にバスから降りて、思い思いに登山の準備をしていた。50人近くは居るであろうか、この団体の後について道を阻まれては大変、なんとしても先に出発しなければならない。天候は雨模様であったが時々パラつく程度で、どうにか持ち堪えてくれるか、或いは午後から晴れるのではとの楽観と期待を持って、団体さんより先に出発した。本当の登山口は、5〜6分先で林道の切れる所に在り、代表が登山届けを書いて投函し、山道への出発となった。

山道の入り口に踏み込むとすぐ、自動センサーが設置されており、何人通過したかが分かる仕掛けになっている。山では初めての珍しい設備の経験である。二股分岐までは緩い登り坂で、道幅もあり安全な登山道であるが、身体が温まらないうちにいやにピッチが速く「最初から少し飛ばしすぎだな?」と思いながらしんがりを歩いた。

40分程で二股分岐に着き休憩、後から来た単独行の年配の男性は、休まず直進の沢コースへ入って行った。今回の登山は他人任せで詳しく下調べをしてないが、沢からの道筋は急勾配で長い直登箇所も在るコースらしい。
 10分ほど休憩し、私達は左へ折れる蟶山(まてやま)の尾根コースへと進んだ。ここでトップが交代し、どうにか登山らしくゆったりとしたペースに落ち着いた。

山の斜面を巻くような登山道であるが、勾配は緩く楽に歩けて危険な場所は無い。しかし、朝の7時近くになっているのに周りも足元も薄暗い。曇っているせいもあるが、ブナの原生林の中,茂る葉に空が遮られて夕暮れのようである。折角のブナ原生林の写真を撮ろうと思うが、デジカメではとても光量が足りそうもなく絵にはならないので諦めた。私は何時も、初めて登る山の登山道の険しさの度合いを、登り慣れた丹沢と比較しながら登る習慣が身についている。蓑毛からヤビツ峠までのコースと同じ程度かな、等と考えながら歩いていると何故か安心感がある。人声が聞こえてこのコース最後の水場に着いた。

先着のパーティーかと思ったが、大きなザックにどこか見覚えがあり、「昨日登った人達ですね」と声をかけると、「縦走する予定でしたが天候が悪いので無理せず降りてきました」という。昨日、私達も時間の余裕があり、大通りから少し横に逸れて登山口を下見に言った時、この山への登山には不釣合いと思える程、大きなザックを背負った若い男女数人のパーティーが登っていくのを見たのであるが、やはりその人達であった。本来であれば十二湖への縦走が当初の計画であったのであろうが、天候を見て無理せず降りてきたという。正解である。
山で水場がそばに有ると安心する。ここが最後の水場なので、それぞれが水を補給したり口に含んだりして10分の休憩をとった。

 この先から山道も急に傾斜がきつくなる。とはいっても山の斜面にジグザグに雷光形に付けられた登山道なので、山慣れた人には適度な登りであり、やっと登山らしくなってきたなと思える程の斜度である。ところでこの登山は、唐土久美子ファンクラブの企画であり、この機会に白神岳に登りたいというのが唯一の共通点で集まった人達である。観光コースとは別に小回りの利くワゴン車2台に分乗してきた12人で編成されていた。半数以上は常日頃顔を合わせている友人・知人であが、初対面の人も5名程いる。男性8名女性4名で、平均年齢は60歳を越えているであろう。正に中高年の即席登山パーティーである。従って山登りの経験も力量も全く違うし、知らない人達のグループである。

急にきつくなった登りで、一人のご婦人が遅れ出した。実は水場で「皆さんが降りて来るまでここで待っている」と言うのを説得し、全員で頂上まで行こうと周りで励ました経緯がある。若手男性2人をサポートに残し、二手に分かれて頂上を目指すことになった。午後4時のコンサートには間に合うよう、下山しなければならない時間的な制約がある。蟶山分岐までは急な山道が続いたが、尾根に出ると緩やかな稜線歩きとなり余裕はできたが、ブナの林に遮られて見晴らしは全く利かない。途中強い雨にみまわれた。ところがブナの葉が天井を覆い、直接下までは降ってこない。一旦木の葉に当った雨が飽和状態になり、雫となって落ちてくる。普通の山であればびしょ濡れになるところであろうが、木の葉の屋根に遮られて直接雨には当たらない。私の基準は、雨具を着るかそのまま歩き通すかは、濡れて体温を奪われ寒さを感じるようであれば常備している合羽を着る。体温を奪われることによって体力の消耗を防止しなければならない。雨でなくても風の強い稜線を歩く時も同様である。この時も強く降ったのは一時的で、ブナの葉が傘の役目を果たし、ポタポタと雫が落ちる程度でひどく濡れるほどでなく、そのうち小降りになっていつの間にか雨は止み、結局雨具の着用は不要であった。緩いアップダウンの見晴らしの利かない単調な尾根歩きだが、雨の日が続いた為か足元のぬかるみに悩まされながら、時々小休止を採り頂上を目指して進んだ。

 低木帯になり、視界も開けてきたところで道も険しい登りに変わる。高山植物に詳しいご婦人が居り、花を見つけると歩みを止めて周りの人に説明を始める。その度に前の人が立ち止まるので、しんがりを歩いている私は前がつかえ、足場の悪い場所に止って身体を保持しなければならなかった。前の人との間隔を開けて歩けばよいのであるが、登るテンポが遅いので、つい前の人のすぐ後につく形になってしまい、安定した場所を確保して止る余裕は無く、不自然な体勢で前が進むのを待つはめになってしまう。何度かそんな事を繰り返しているうちに、平坦な稜線に出ると十二湖への分岐であり、少し進むと登山道の右側斜面一帯はお花畑であった。それまでは濃霧で、前を進む人達の後姿と低木帯の周囲しか見通しは効かなかったが、この時は運良く一瞬ガスが流れてお花畑を一面に見渡すことができた。すぐ向かいの山は濃霧でその姿は見えない。更に進むと登山道の左側に小さな祠が在った。

頂上への道はまだ続き、一旦下って又登る笹原の吊り尾根になっている。残雪の時期に下見に来ている木戸氏は、当時と様相が変わっていたのか、「道が違う」と一瞬戸惑ったようであるが、一本道なので迷う事も無く笹原の中に付けられたぬかるんだ道を進むと、右手前方に山小屋のようなな建物が在った。近づくと立派なトイレであった。長谷川恒男氏(※)が設計アドバイスしたという避難小屋は、そのすぐ奥に建っていた。

 小屋には10:30に着いた。小屋から頂上にかけては小広い平坦地で先客が居た。朝食が早かったので、小屋の前に設置されて在るベンチで早い昼食休憩を採ることにした。雨は止んで天候回復の兆しは見えたが、まだ濃霧は晴れない。時々陽射しでパッと明るくなるが、また霧に陰ってしまう。白神山地は世界遺産であり、核心地域と緩衝地域とに分かれている。もちろん我々一般登山者が核心地域に入るには、入山申請をして許可を得なければ指定ルートには踏み込めない。せめて、頂上から白神山地の核心地域の様子を眺められればと期待したが、それも濃霧で不可能であった。

 避難小屋はヒバ(アスナロ)で造られ、高さは低い二階建て程度の建物であるが、中を覗いて見ると収容人数を多くする為三段になっており、立つと頭がぶつかる。天井裏の最上階だけが一仕切りになっており、一番広く使えて住み心地の良い設計である。後から着いた5〜6人のパーティーが垂直の梯子を登り、最初に三段目の貴賓席を確保した。小屋の中からガマ(ヒキガエル)であろうか、大きく野太い鳴き声が聞こえてきたが、狭い土間をいくら捜しても姿は見えない。床下にでも住み着いた小屋の主なのであろうか。

 昼食を済ませ、すぐ先の頂上で揃って記念写真を撮るが、霧に咽ぶ情緒ある写真になるであろうと勝手な想像をめぐらし、濃霧にまかれた中でシャッターを押した。頂上では余りゆっくりしていられない。後の日程に間に合わせなければならない都合がある。45分程の休憩で頂上を11時15分に発った。

「下りは私がトップで行きますよ!」と、木戸氏が先頭を歩き出した。コンサートに間に合わせるには、登山口へ午後3時には着かなければならない。登りに5時間を要している。インスタントパーティーの力量では、下り4時間は必要であろう。彼とて登山を始めたばかりで決して健脚とはいえないが、立場上の責任感から、コンサートの始まる時間に間に合わせる為自分がトップをきったのである。逸る気持ちが痛いほど伝わってくる。私は又殿を歩いた。

 先程通ったお花畑まで来ると朗報が待っていた。遅れたご婦人を援助して3人が登って来たのである。皆拍手で迎えた。そして疲れきっても頑張って登ってきたご婦人と、励ましながらサポートしてきた2人と固い握手を交わした。あと10分で山頂、全員が白神岳の頂上へ登ったことになる。祠の前に並び全員揃って記念写真を撮った。

 十二湖への縦走路分岐から急斜面の下りとなる。山での事故はその殆どが下りで起きている。登山道も濡れていて滑りやすい、スリップしてバランスを崩さないよう細心の注意を払いながら降りる。急な下りの途中で、20人くらいのパーティーと行き交い道を譲る。中高年のグループであるが、何処へ行っても女性の比率が男性を圧倒している。しかも皆元気で山に強い。女性の持つ特質なのかといつも感心する。私たちが登り始めた時、マイクロバスが駐車場に到着したが、あの集団であろうと想像した。それにしても、大型バスで先に着いていた人達はどうしたのかなと、一瞬頭に浮かんだ。

樹林帯に入ると緩やかな尾根道の下りがダラダラと続く、稜線が広いため登山道が窪み、雨が降ると水捌けが悪くそこへまた水が溜まり、登山者が歩くので更に凹んでどうしてもぬかるむ、登山道の宿命ともいえる悪循環である。登山道から一歩外れると山肌や木の幹にも苔が生している。水分を多く含んでいる証であるが、保水力が有り山全体がダムの役割を果たしているのであろう。登山道は世界遺産との緩衝地域とはいえ、その周囲にも太古さながらの原生林の一端が伺えるのである。

1時間20分で蟶山分岐に着く。これから水場までは30分ほど急な下り坂が続く。登りはそれほどキツイ傾斜には感じないが、下ってみるとこんな急な坂を登ってきたのかと思うことがよくある。この下りも同様であった。r> 地面が濡れているのでスリップに気をつけながら、危険と思われる箇所にはロープが張ってあるので掴まり、バランスを取りながらジグザグに付けられた急斜面を降りる。水場迄くればもう安心である。10分ほど休憩し緩やかな下りを登山口へと戻る。白神平には14時55分に到着する。木戸氏の目標は達成したことになる。

 しかし、すぐに車に乗って会場へ向うわけにはいかない。泥んこになった登山靴を洗わなければならない。私が水道で靴を洗っていると、大型バスの運転手さんが退屈そうに、ぶらぶらして近寄って来た。「お客さんはどうなりましたか?」と尋ねると、「雨がひどかったので途中から引き返してきまた。脚に自信のある人が5〜6人頂上へ向ったそうです」とのことであった。どうりで、山の中で大集団に会う事はなかった。
皆が泥靴を洗うのに時間を要したがすぐ車に乗ってロッジへ向かい、急いでシャワーで汗を流しコンサート会場へ急行した。コンサートの主催者挨拶は既に始まっていたが、司会者の気転で順番を変え、どうにか後援会長の挨拶には間に合う事ができた。司会者の気遣いとイライラは大変なものであったろう事は、容易に想像できる空間である。

ともあれ、地元実行委員会の皆さんの努力で、観客も多く成功裡に終って幸いであった。 三日間、残念ながら雨天と濃霧のため白神山地をはじめ、東北の山の姿を全く見る事は出来なかった。着いた朝は土砂降りの雨、午後は晴れて暑い日となったが、山は雲の中で姿を見せてくれなかった。岩木山や二ツ森・田代岳・真瀬岳は勿論、白神山地のすぐ目の前に在る山々も、濃霧に隠れて目にする事はできなかった。目下に広がる日本海も、山の上から望めなかった。300年前に崩壊し、その土砂で十二湖や現在の地形を形成した爪跡である、日本キャニオンのザックリ切れ落ちた岩肌だけは、十二湖リフレッシュ村への行き返りに何度か目にすることは出来たのだが。

 即席パーティーで山に慣れない人を援助し、協力し合って全員が白神岳登山を果たした。後日サポートした人に、千葉のご婦人から丁重な礼状が届いたとのことである。白神岳登山を振り返ると、そこには一編のドラマがあったのかもしれない。


白神岳頂上

無念かな 世界遺産の 頂上で 濃霧(ガス)に阻まれ 山容知れず

          7/18
       白神平(5:30)〜二股分岐(6:10休6:20)〜水場(7:10休7:20)
〜蟶山分岐(8:05休8:15)〜十二湖分岐(9:55休10:10)〜白神岳
(10:30昼食11:15)〜十二湖分岐(11:30)〜蟶山分岐(12:50)
〜水場(13:25休13:35)〜二股分岐(14:20)〜白神平(14:55)



       ※ 長谷川恒男(1947〜1991)

  山岳ガイドから日本有数の登山家として名声を博した。
第二次RCCエベレスト登山隊の一員選ばれ参加するが、その時の経験で組織に馴染めぬ事を悟り、集団から外れて単独行の道へ進む。一匹狼的な彼の生き方に共鳴するものがある。
その後ヨーロッパアルプス三大北壁の、厳冬期単独登攀に成功しその後も数々の単独登頂の記録を達成。彼のモチーフは”単独”であり、国際的にも登山家として注目をあびる。
彼の絶頂期、単独でグランドジョラス・ウォーカー側稜登頂には、テレビ局が撮影隊を編成してヘリコプターで取材、実況中継するほど注目された。
 パキスタン・ウルタルU峰南西壁{ウルタル・ヴァレー=デス・ヴァレー(死の谷)}、初登頂に挑むが雪崩に巻き込まれ遭難。若くしてこの世を去ってしまった。享年43歳。
登攀技術といい精神力と、その実力は日本で第一人者と評価し注目していた人物であり、登山家として数々の実績を残したがヒマラヤへの登頂には成功していない。だが、標高より何度の高い山への初登頂に挑んだ心境も、あながち理解できない訳ではない。




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マウンティン
丹 沢 そ ぞ ろ 歩 き


  丹沢は、我家から近く交通の便もよし、地理的に恵まれ日帰りで行って来られます。体力維持とトレーニングを兼ね、都合がつけば週一回は登るつもりでいます。中々予定通りに実行できませんが、現在189回になりました。主に蓑毛から表尾根コースを歩きましたが、最近は年齢を考慮して無理せず、蓑毛〜三ノ塔〜大倉バス停と距離を短縮し歩いています。遊び心で、下りは詩吟をハモり、川柳や短歌も詠んだりして楽しんでいます。習作ですが、何首か並べ、題して「丹沢漫歩」としました。


紅葉

     丹沢漫歩(1)

☆ 山肌が 秋の装い 目にまぶし

☆ 紅葉狩り 深山の一部 紅く染め
 
☆ 大山の 背中が掻ける 三ノ塔

☆ 大山は 詣でる山か 坂本路


☆ 寝たきりで 老後の始末 子や嫁に 世相を映し 登山で鍛え
裏大山

☆ 山の路 教えてくれし 友がいて かすかに想い 今いずこかな

  ☆ 強き女性(ひと) 子育て済みて 中高年 山の頂き 七割占めて

☆ 子孫生み 育てし母は 強きかな 原始女性は 太陽だから

☆ 蓑毛から 丹沢表 縦走し 苦行に耐えて 精神清め

☆ 修験者が 苦行の難所 行者岳 スリル求めて 鎖場に遊ぶ

☆ 山ガール 増えて山中 カラフルに タイツスカート 艶やかなりし

丹沢表尾根
☆ ファッションが 青年誘い 山頂は 時代を語り 若き賑わい

  
     丹沢漫歩(2)

☆ 単独で 登り続けし 未知の峰 回重ねれば 友が連なり

☆ 蓑毛から 回重ねても 表尾根 タイム縮まず 歳を知らされ

☆ 蓑毛から 歩いて測る 万歩計 三万五千 大倉(バカ)尾根下り

☆ 要りもせぬ 鈴をジャラジャラ 熊よけの われは初心者 恥をさらして
大倉から三ノ塔

☆ 登り道 バッタリ会いし 友人と 無事を誓いて 上下に別れ

☆ 初めには 友に連れられ 登りしが 何時しか惹かれ 山の魅力に

☆ 奇遇なり ヤビツ峠で 一休み 大山下る 友人夫婦

☆ 平日の 静かな峰も 様変わり 休日の秋 登山者むれて
 
☆ 山下りて 帰りのバスは 満員で 一台遅れ やっと乗り込む

☆ 登山前  教えて欲しい マナーから バーゲン並みに 割り込む癖を


しめ縄
     丹沢漫歩(3)

☆ 秋晴れの 台風一過 山日和 いつものコース ゆっくり歩き

☆ 座禅組み 煩悩わきし 凡人は 登る険しさ 雑念払い

☆ とぼとぼと 登る山道 静かなり 行者のわらじ 背後に憑きて

☆ 枯れ葉おち 灰色なりし 山肌は 丹沢(やま)はすっかり 荒涼となり

丹沢の鹿
☆ 十日ほど 経って見ぬまに 紅く染め 山肌一変 秋深くなり

☆ 鹿一頭 見えぬ丹沢 寂しくも 間引き猟察知(しり) 姿くらまし

☆ 二十日ぶり もみじの落ち葉 絨毯に 脚に優しい 丹沢登山

☆ 濃霧(きり)流れ 木々の小枝に 白き花 あたり一面 魔法の世界


     丹沢漫歩(4)

☆ 鹿の糞 避けておしゃべり 草むらに ご夫人二人 シートを敷きて
霧氷

☆ 我ひとり 登る山みち 静寂に ウグイス鳴きて 耳に優しく

☆ 駄作なり 丹沢のうた 目にとまり 遠くの知己が 激励くれる

☆ 遠くから 見慣れた山に 登る友 知りて親しみ 身近におもえ

☆ 青春の あまい想い出 よみがえり 山好きの友 峰の話しに

☆「忘れてた 遠い思い出 此処に来る メル友くれた 山の便りに」

☆ 夫婦して ゴルフ三昧 接待で われは苦行の 丹沢登山
(守屋次官夫妻を対象に)
 

富士山
     丹沢漫歩(5)

☆ 冬の空 天気晴朗 空は澄み 秀峰富士が 終日見えし

☆ 高いのに 聳え立つなり なお高く 富士の霊峰 日本一かな

☆ 高い尾根 日影は既に しも柱 溶けたぬかるみ 足を取られし

☆ 大倉(バカ)尾根を 下りて麓を ふと見れば 紅葉の盛り 夕闇せまる

☆ 登り降り どちらも堪え 山登り 吊り橋見れば ほっとひと息

 
雪景色
 
☆ 夏空に 熱波襲いて バテ気味に 冬は寒風 指先凍え

☆ 道の脇 十数頭の 鹿の群れ 悠々として 垰(たわ)にたわむれ
                  

       丹沢漫歩(6)

☆ 週一度 努めて登る 丹沢は 我が庭先と 親しみ覚え
 
☆ 習い初め 詩吟ハモりて 気晴らしに 老骨にムチ 大倉(バカ)尾根登り

丹沢の樹氷
☆ 初雪で 白銀の峰 掻き分けて 進む足跡 一筋の糸

☆ サクサクと アイゼン着けて 銀世界 新雪踏みて 気分爽快

☆  蔵王には 負けじと堪える 樹氷あり 寒風受けて ミニモンスター

☆ 雪融けで ぬかる泥道 脚取られ 白い世界が 恋しかりけり
 
☆ 踏み跡を 辿りて進む 深き雪 腰まではまり 身動き取れず
 
☆ 東富士 実弾演習 鈍くとも ズシリと響き はらわたに浸み

☆ 初心者は 炸裂音が 雷鳴と 間違え聞きて 雨具の準備

☆ シルエット いつ眺めても 水墨画 丹沢で見る 箱根の山は

風の吊り橋

大倉バス停花壇












南の海で生まれた丹沢


 丹沢山地は1700万年前頃、古伊豆・小笠原弧(大島〜八丈島〜小笠原へ連なる弧の前進)の南の海の珊瑚礁で囲まれた海底火山として生まれ、フィリピン海プレートに乗つて年数cmのスピードで北上し、500万年前頃、本州孤に衝突し、沈み込めずに付加したもので、100万年以降に、伊豆の衝突により急激に隆起したものと考えられています。丹沢が南の海で生まれた証拠として、海底火山からの厚い火山灰や、海底に流れた枕状溶岩等の他に、熱帯を示す珊瑚礁の化石が、丹沢各地で知られています。珊瑚礁に生患した化石には畷麟礁を作るサンゴや石灰藻、大型有孔虫、オウムガイなどが発見されています:グリーンタフの地層に挟まれて、小規模ながら、山北町・松田町・清川村・秋山村・河口湖町で、これらの化石を含む石灰岩が見つかっています。これらの化石は、かつて丹沢がオウムガイが生息する熱帯の海域であつたことを物語つています。
(平塚市博物館公式ホームページ)





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マウンテン
最近の登山歴
最近の登山歴


(当然、妻は私の年齢を考え単独登山は危険と強く抵抗する。再開した百名山の
完登は目指しているが進行速度は遅い。その代わり、同年代の友人数人が登山
に目覚め、案内役として一度行った山への再登なので、コースの概略のみ記し、
タイム等記録の記載は省く。丹沢へは、月2〜3回トレーニングで登っている)



鳥 海 山(2236m)

2006年07月15日(土)〜17日(月)

鳥海高原家族旅行村(泊)〜林道終点駐車場〜滝の小屋〜河原宿小屋〜伏拝岳(撤退)

〜川原宿小屋〜滝の小屋〜駐車場〜鳥海高原家族旅行村(泊)〜土門拳記念館等行楽

(12名・初心者との混成隊で雨の雪渓歩きで寒く、脚が痙攣する人が出た為9合目で名誉の撤退)


蝶ヶ岳(2664m)・常念岳(2857m)

2007年07月20日(金)〜23日(月)

ゲート入口〜まゆみ池〜本沢駐車場〜三股〜まめうち平〜徳沢・三股分岐〜蝶ヶ岳ヒュッテ(泊)

〜蝶槍〜p1・2・3〜最低鞍部〜常念岳〜常念小屋(泊)〜胸突八丁〜大滝ベンチ〜一ノ沢登山口

(K・K・S・S・M 5名)


南ア・北 岳(3193m)

2008年08月01日(金)〜03日(日)

芦安〜広河原山荘(泊)〜白根御池小屋〜大樺沢二俣〜八本歯のコル〜北岳山荘(泊)

〜北岳山頂〜北岳肩の小屋〜小太郎尾根分岐〜白根御池小屋〜広河原〜芦安・金山沢温泉

(U・E・S・S・M 5名)


雲 取 山(2017,1m)

2008年12月08日(月)〜09日(火)

鴨沢バス停〜堂所〜七ッ石山〜ブナ坂〜小雲取山〜雲取山頂〜雲取山荘(泊)〜雲取山頂〜ブナ坂 

〜七ッ石山〜千本ツツジ〜巳の戸の大クビレ〜鷹の巣山〜六ッ石山〜衣笠〜もえぎの湯〜奥多摩駅

(O・S・S・M・M 5名)


  奥 穂 高 岳(3190m)

2009年07月31日(金)夜行〜08月02日(日)

沢渡〜上高地〜明神〜徳沢〜横尾吊橋〜本谷橋〜涸沢ヒュッテ(泊)〜ザイティングラード

〜穂高岳山荘〜奥穂高岳〜山荘〜涸沢ヒュッテ(泊)〜本谷橋〜横尾吊橋〜徳沢〜上高地

(U・E・O・S・S・F・M・M 7名)


槍 ヶ 岳(3180m)

2010年07月30日(金)夜行〜08月02日(月)

沢渡〜上高地〜明神〜徳沢〜横尾吊橋〜槍沢ロッヂ(泊)〜乗越沢・大曲〜天狗原分岐〜

殺生小屋分岐〜槍ヶ岳山荘〜槍ヶ岳頂上〜山荘(泊)〜大曲〜ロッヂ〜横尾〜明神池〜上高地

(U・E・K・S・S・M・M 7名)


安達太良山(1700m)

2010年10月18日(月)

ケーブル上駅〜薬師岳〜平〜安達太良山〜鉄山〜最低鞍部〜薬師岳〜ケーブル上駅

(S・S・M・M 4名)


奥多摩・大岳山(1266,5m)・日の出山

2011年05月14日(土)

ケーブル〜御岳山駅〜長尾平〜天狗の腰掛杉〜芥場峠〜大岳山〜芥場峠〜綾広の滝

〜天狗の腰掛杉〜長尾平〜神代ケヤキ〜日の出山〜林道出合〜つるつる温泉

(O・K・S・S・S・T・M 7名)


   白 馬 岳(2932,2m)

2011年07月31日(日)夜行〜08月03日(水)

猿倉〜白馬尻〜葱平〜白馬村営頂上宿舎(泊)〜白馬岳〜小蓮華岳〜白馬大池〜栂池自然園(泊)

(U・E・O・S・S・M・M 7名)


常念岳(2857m)・蝶ヶ岳(2664m)

2012年08月19日(月)〜21日(水)

豊科駅〜一ノ沢登山口〜山ノ神〜大滝ベンチ〜胸突八丁〜常念小屋(泊)〜常念岳〜

最低鞍部〜蝶ヶ岳三角点〜蝶ヶ岳ヒュッテ〜三股分岐〜まめうち平〜力水〜三股〜豊科駅

(E・S・M・ 3名)



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