エッセイ

エ ッ セ イ
(essay)

人情一筋 東奔西走の 我が人生模様


 
トップ(toppage) マウンテン(mountain) エッセイ(essay) 境川日誌(diary.twi) 名 水 紀 行(pilgrimage) ボランティア(vulunteer)

仁王像
ー三つ子の魂百までも、年輪を重ねても気性は簡単に変わりようはありませんー

谷 川 岳 史


谷川へのメッセージはここからどうぞ
inserted by FC2 system


ほっこり 私 の 人 生 劇 場

激  動  篇 (10話)

知  略   篇 (11)

家 族 の 絆 篇 (14)

和平 ・ 現代篇 (13)

安 全 登 山 篇 (12)

喜 寿 全 う 篇 (10)

偶  感   篇 (10)

へルス・ケア 篇 (13)

我家に関る七不思議(7)

最 終 雑 感 篇 (15)

inserted by FC2 system





 < 克つ >

        がんばって打ちかつ。よく研究する。謙虚で聡明な知識
        願い卓越した 能力がある、成し遂げる力、勝つなどの意味
        強い意志を思わせる漢字である
        困難を乗り越え、運命を切り開いて最後までやり遂げる
        献身的・ 聡明・知的 ・ 勇気・ 努力・忍耐・超越した力



”激  動  篇”



私の人生劇場(1) (序   章)

(起)
 村田英雄の唄う「人生劇場」、若いころは私の18番(おはこ)の一曲で、カラオケの無い頃から宴会などで順番が来ればアカペラで唄っていました。十数年振りにカラオケで唄ってみましたが、伴奏があるので唄いやすくしぶい声でピッタリはまりました。友人の誘いで、或るサークルへ短期間顔を出していました。川柳・俳句・短歌・自由詩・狂歌・エッセイ等、何でもありの緩やかなサロン風の同好会 水準も違えば熱意も様々、時々カラオケボックスに集まり、その後食事をし交流していました。
(承)
 作品の発信と受信の媒体は、パソコンと携帯メールで参加者全員へ送信され、メールを開いて関心のある人は「よかったネ」とか、「同感しました」「頑張ってネ」とか感想や意見を自由に返信するといった程度で強制も義務もない集まりでした。そんな中で周囲から見たS像は、温和しくいつもニコニコしてじっと他人の話を聞いているだけの温和な人物、普段は自分の主張や身上話等は殆ど口にしない寡黙な人間でした。しかし、その印象は「獅子奮迅」「律儀」「男気」「仁侠らしさ」等々、修飾語が並び、短期間によく私の特質を読み取ったと感心、周囲の観察眼と洞察力に驚嘆させられました。そんな中、「Sさんは他人の話を聞くだけで、自分の事を喋った事が無い、今度はSさんが自分を曝け出して書く番よ!」。その場の行きがかり上、ノーと言う理由もなく、本人も何か書かざるをえない時期に来ていると、周囲の期待と空気を感じとっていた。自然の成り行きで抵抗なく自分の体験や考えを書く羽目になった次第である。
(転)
 眉間に深く刻まれた一本の縦皺は、正義と怒りに燃えて闘い続けてきた闘志と人生の生きざまの重みが滲み出ており、タイトルは言わずと知れた「私の人生劇場」と即決した。尾崎士郎の原作からくる人生劇場というイメージは、「任侠」と「義理と人情」そして気っぷの良さでしょうが、私は民間企業に勤務、無事定年を迎えた凡人でしかありません。武勇伝数えれば沢山有りますが、自慢話にならないよう避け、事実に基づいた体験を、控えめな逸話として書いていきます。従って任侠もののドラマを想定するのは期待外れになります。
(結)
 これから私が記すことは、日常の生活の中で、気が付かない平凡な”配慮”や”思いやり”或いは”勇気””気概”と置き換えて解釈し理解して頂ければストンと胸に落ちるのではないかと思います。出来るだけ一千字以内に納め、短文にまとめて書き進めたいと考えています。


(「起・承・転・結」の基本形、HPの画面では文面がビッシリ詰まり、読みにくさを避けるため区切りに一行間を空けました。一編約千字でまとめる努力をしましたがどうしても増量気味。一編一花添えましたが、散歩途中撮った草花で名前も不明な花が沢山あり雑草の類です。内容とは関係なく気休めに、空間を作る為ランダムに挿入してあります。
 尚、です。ます。調をを基本としていますが、内容によっては文意が弱くなるため、必ずしも統一されていません。混乱しているのではなく意識した表現法ですので、ご承知おきください。HP全体に共通する表現です。)
              



私の人生劇場(2) 〔地獄で仏のS弁護士〕


 K氏と私を中心に、乗客からインターネットでの苦情をデッチアゲられ、川崎鶴見臨港バスから不当解雇された事件、解雇撤回争議の支援をしてきました。資本の使う常套手段、苦情の実態さえ曖昧で悪質な狙いうち解雇事件。しかし、ここで重要なのは、文明の利器であるパソコン(I.T)を、日本で最初に労使間で"首切り”に悪用された事例であり、労働争議に使った初めてで悪質なケースである。ブラック企業のトップ会社として”川崎鶴見臨港バス”の悪名は、世界史に汚点として刻まれ、国際的に広まり永久に消え去る事はないであろう。「臨港バス」の社員と名乗れば、国内のみならず外国へ行っても「オー!臨港ブラックカンパニーネ!」と、即座に返答が来るほど、今や世界中に知れ渡ったブラック企業の筆頭株です。インターネットを悪用した犯罪の報復は、当然のことながらI.Tによって世界中に知れ渡るという自己矛盾、自らの悪質さをおのずから世間に宣伝するという、ブーメランリスクを受け、一生背負って生きる愚かで恥晒しな結果を生み出してしまいました。

 それまで真面目に働いてきた労働者、裁判など全く縁のない平凡な人間が、いきなり身に覚えの無い「客からの苦情」という理由で解雇され、知らぬとはいえ不覚にも経営者側(経営法曹団)に属する弁護士に弁護を依頼してしまい、当然の事ながら仮処分で不当決定(敗訴)を受けてしまいました。難しく厳しい争議である事は誰の目にも明らかでした。善意の人でも外からの支援はするが、事務局の内部に入って中心になり、原告と共に責任を持って解決する立場に身をおくのは、出来れば避けたいのは誰でも当然の心理です。本訴(地裁)の途中から支援する会を結成して深く関わりました。本訴一審でも不当判決(敗訴)を受け、担当の弁護士は辞任、高裁への控訴手続きは、原告と支援する会の私とで行わざるをえませんでした。

 神奈川では当時、常識では考えられない事態が起きており、労働弁護士(自由法曹団)は東京を含めて一切私達の裁判を受任しない決定をし、事もあろうに闘う労働者に激しい妨害と攻撃を加えるという絶対に遣ってはならない弁護士法に違反する暴挙を行い、弁護士捜しに苦慮していました。最悪の場合は自分達だけでもやろうと「訴訟は本人で出来る」という本を偶然に二人とも買って勉強していました。しかし、法廷は素人だけで遣るのは無理、しかも舞台は労働裁判には超反動化で固まった東京高裁です。必死で後任の弁護士捜しにあらゆる可能性を追求しました。そんな折り、K氏が軍隊を持たない国「コスタリカに学ぶ会」で知り合った弁護士に依頼し、3人の弁護士さんに弁護を受任して頂き窮地を救って頂きました。正に”地獄で仏”の感を受けました。

 「Sはあの争議で狂い死にする」等の悪意に満ちた声が味方であるべき内部からも聞こえて来ました。最終盤の決着は複雑で経験と頭脳・決断力を要する複雑な場面に遭遇しましたが、弁護士さんと相談し、多くの仲間の皆さんから支援を受け、難局を切り抜け勝利解決する事が出来ました。裁判官にも初めて善意の人物が存在する事を知り知恵を借りました。狂い死になどせずSは現在も益々健在、意気揚々と王道を歩み闘い続けています。





私の人生劇場(3) 〔筋を通す〕


 前回の続きになります。弁護士法・弁護士倫理等は捨象し、現象のみを記述致します。神奈川では、併行して電機メーカーの労働組合運動を理由とした、昇格・賃金差別争議、成果主義賃金制度導入に伴う裁判、医療ミス裁判等、幾つかの裁判が闘われていました。労働争議は動きが激しいので、一人で事務局を二つ兼ねる事は物理的に無理です。私は、他の争議には少し任務の軽い立場で名を連ね支援していましたが、四つの争議に関わっていると、会議や裁判傍聴をはじめとする諸行動で、連日連夜外に出歩く事になります。そうした生活は、数十年来続けてきた生活習慣で苦にはなりませんでしたが。

 しかし、他の争議に対しても弁護団が無理難題を押しつけ、「弁護士の言うことを聞かないなら弁護はしない」と、弁護士法や倫理を無視し、正に民主主義を無視した横暴で次々と辞任してしまい、私達同様、神奈川・東京に包囲網を張られ、弁護団捜しに大変苦労していました。そうした争議団から、私の所へ弁護士紹介の依頼が来ました。K氏より年配であり争議支援の経験も多く、神奈川では多少目立つ存在でしたので当然かも知れません。

 私は、「K氏の了解を得ましたか?」と先ず尋ねました。「未だ話してない」という事でした。「それは駄目です。現在の弁護士と最初に知り合ったのはK氏です。K氏を飛び越えて私から紹介する事は出来ません。K氏の了解を得て、手順を踏んで事を進めてください」とK氏を立てました。その後、数件の事件で3弁護士さんや関係者にお世話になり、争議解決を果たしました。

 頑固で融通の利かな性格かも知れませんが、人間としての常識、人としての道に反して、筋を通さないと気が済まない律儀さは簡単に変えられるものではありません。勿論半年も経てば、それぞれに人間的な繋がりは深まり人脈も出来ますから、何時までも拘っている訳ではなく、それ以後は自由に依頼し受任するといった自然な関係に発展しています。





私の人生劇場(4) 〔仏の顔も三度まで〕(1)


 前回は地獄で救われた話でしたが、今度は私が仏に変わります。未だ私が今よりスマートであった独身時代から長く続いた話です。会社が終わってから夕食を済ませて飛びまわり、若いですから夜遅くお腹が空く、帰宅前に夜食を食べようと思うのですがつい一杯飲みたくなり馴染みの赤提灯へ。カウンターに5〜6人座れば満員、鶴見の下町に在るうす汚れた暖簾の飲み屋で、ママは済州島出身、歯切れのいい元気な50代のおばさんでした。
 
ある時相談したい事があるというので聞いてみると、土地取得の詳しい経緯迄は立ち入って聞いてないが、稲城市の多摩川上流の河川敷を宅地造成した代替地をもらい、そこへ家を建て建築費も支払ってあるが、期限が過ぎても着工もしないし家が建たない、どうにかしてくれないかという事でした。休日に同行し、工務店と掛け合い当然な事ですが契約通りの家を建てさせました。

 暫くしてまた問題が起こりました。新開地なので市の本管から家まで相当な距離に経費を掛け、自費で水道管を引いたが、新しく中間に家が建ち無断で途中から水道を引かれてしまった、これをどうにかしてくれとの事でした。稲城市の水道局にも許可管理上の責任があるので同行し、市の過失を追及し、無断で水道を引いた相手にも応分の補償金を支払わせ一件落着しました。その他息子が韓国女性との偽装結婚で勝共連合へ誘い込まれる直前に救出したり、国籍は別に対等平等な立場で相談にのってきました。果てはキャンセルした大韓航空機の搭乗券の代金を返還してくれない等の簡単な問題は、その場で航空会社へ電話して即刻返却させる等々、一人で幾つもの問題を解決してきました。

 私が結婚して社宅へ入居してからも電話での依頼が来、半年か1年に一度は必ず問題を起こすトラブルメーカーとも言えますが、その他にも十指に余る問題に関わり、その都度解決してきました。(次回に続きます)





私の人生劇場(5) 〔仏の顔も三度まで〕(2)


  赤提灯の店は古い木造平屋建てアパート、その一角に在りました。元有名女優の所有物であり、時代の趨勢で取り壊し立退き問題が起きました。広い道路の交差点の角地、商売には最高に立地条件の良い場所地でした。これも私が相談を受け、不動産屋との交渉に当たりました。話し合いが行き詰まって物別れに終わり、急がず慌てず作戦上放置しておきました。

  私の思惑通り相手は焦り、1ヶ月後に電話が来て、京浜急行の或る駅で落ち合う日時を決め、交渉を再開しました。”虎穴に入って虎児を獲る”作戦です。駅近くで不動産屋が馴染みの寿司屋の座敷へ案内され、今迄食べた事もない上等な鮨とお酒が出てきました。これは、事実上私から仕掛けた想定内の事で、この場を避けては交渉の進展は図れない事は計算ずく。私は公務員ではなし、この位の供応は受けてもよしとご馳走になりました。その内不動産屋の本格的な買収工作が始まり、私の給料の2倍くらいの金額が提示されました。筋書きは予想していたのでこれは即刻拒否し「その分は相手の立ち退き料に上乗せしてくれ」という事で、相場以上の立ち退き料で話はまとまり、契約日は数日後の日曜日に不動産屋で。私は車通勤でしたので、当日は休日で空いている港北ニュータウンの広い道路を快調に飛ばして行く途中、覆面パトカーにキャッチされ、スピード違反でキップを切られてしまいました。不動産屋では、元請け建設会社も立ち会い、すし屋での合意プラスαも出させ、立ち退き料としては多額で過分な額を支払わせる事が出来ました。

  ところがです、多額のお金が入ると決まった途端にママの態度がガラリと変わりました。手のひらを返すように、良くもまーこれ程極端に豹変出来るものよと感心するしかありません。私は、弁護士法を知っている一民間人ですから、手数料や謝礼を請求した事など一度もありませんでしたが、相手は一銭も出したくなかったのでしょう。この辺が退き際と決めていると、又1年程してSOSの電話が家へ掛かってきました。立ち退き料を元手に土地を購入し家を建てたが、隣の物置の外階段がこちらの地上権を犯しているのでどうにかしてと。仕方なく出掛け隣家へ行って交渉、その日の内に簡単に階段を付け替えさせる約束をさせ、問題は解決しました。

  それから数年後、忘れた頃にまた会社へ電話が掛かって来ました。前の事が記憶にあり、私も交通事故の後遺症で体調不良、内容も聞かず曖昧に対応していました。何回目かの電話で業を煮やしたママは「この前は私が頑張ったから(お金が沢山)取れたんだからネ!」「そうですか?あなたが頑張って一人で出来るのでしたら私になど頼まず、今回もどーぞご自分でおやりになってください」、そう言って静かに受話器を置きました。





私の人生劇場(6)〔同じ失敗は三度繰り返さない〕


  私は仏にはなれない凡人である事は、前回記述しました。同じような経験が続けてあり、序でにもう一話述べておきましょう。前回の立ち退き問題の1〜2年後の事です。同じ様な事は、不思議と続くものです。私は子供2人の4人家族でしたから狭い2DKの社宅から、3LDKで6畳3間の団地へ移り、子供も一部屋与えられ喜びました。団地自治会の役員は1年交代で順番制、自治会長を2回務めましたが、最初に会長を務めた時の事でした。

  同じ階段で労働組合の資料をわざとらしく持って来て気を引き、私に近づいて来る築地の魚市場へ勤めている人が居ました。暫くして店を解雇されている事が分かりました。休日は市場も休みなので、平日に年休を採り2回ほど二人で魚河岸へ行き、店の主人と交渉しました。1ヶ月程交渉が続きましたが、人間不思議なもので、解雇されると犯罪でも犯したように、大の大人が一歩も外へ出られず、家に引きこもり無精髭を生やしてしょぼしょぼなのです。彼は2階なので同じ階段の下の部屋、深夜に疲れて帰っても毎日顔を出し、励ましてから帰宅しました。最終的には築地市場の総務課長(都職員)が交渉相手となり、本人に「市場は朝が早いので職場に戻る気はない」と意志を確認し、金銭和解で解決しました。勤続は3年程、大企業でも3年間は試用期間で退職金は雀の涙で無きに等しい額ですが、この事件は予告手当の4〜5倍の解決金を出させ、好条件で金銭和解しました。 ところがです、金が入ると決まった途端に、またもや手のひら返しで態度が豹変しました。

  弁護士法を周知しているので、私は今迄手数料やお礼など一銭も請求したことはありません。「よくもまー、こうも変われるるものかよ!」と感心するばかりでした。これで済めばまだ良かったのですが、相手に軍資金をしかも大金を与えたようなもので、毎夜同類の仲間を集め2〜3人で酒盛り、夏とあって窓を開けているので、反対側の建家に反響して5階の私の所だけでなく団地中に響き渡るバカ騒ぎ、それも、内容は聞くに堪えない私の悪口でした。「Sさん大丈夫ですか?」と、暴力的危害を心配する団地住民も居ました。しかし、馬鹿騒ぎも一ケ月程で長くは続きません。働かずに飲で遊んでいれば100万くらいの金はすぐ消失するのは当然です。勝ち取ってやったのはあぶく銭でした。

  それからも、他の人から交通事故の処理や遺産相続等、種々の相談が持ち込まれましたが、「弁護士さんを紹介してやる」と、以後金銭が絡む問題に一人で関わるのは避けてきました。





私の人生劇場(7)〔中堅ゼネコンと対峙〕


  時代は少し遡り、桜並木の坂道を少し上ると、美空ひばりの眠る日野公園墓地近くの社宅に住んでいる時の事でした。京急上大岡駅への途中横浜刑務所も在ります。私が最初に住んだ社宅、建物は民間のマンションをそっくり借り上げたもので、西向きで日光は朝と西日しか当たりません。ベランダは東、その東側は広い空き地で、そこへマンションが建設される事になりました。準大手ゼネコン前田建設工業の社宅という触れ込みでしたが、売り出しのマンションである事は確かでした。

  一段低い土地ですが、5階建てが建つと、こちらの建物は3〜4階までは午前中、東からの日光が全く当たらなくなります。冬の太陽は特に貴重です。私は5階でしたから全く影響は無く、自治会長でしたが知らん顔していれば、何事もなく済む事でした。律儀というかお節介で黙って見過ごしていられず、季節による太陽の位置と日照の関係等を調査し、自治会をまとめ、影響を受ける周囲の民家を廻って対策委員会を組織し、事務局長に納まりました。住宅難という情勢も考慮し、建設反対ではなく、日照権・電波障害・風害等、その他諸問題・要求を解決する「対策委員会」としました。

 前田建設の課長からは連日退社後「会いたい」と会社へ電話が掛かって来ましたが、「一人では会わない」と拒否、「一度でいいから門まで来て会ってくれ」という要求も拒否しました。会社の門で何か「大事な物」でも渡そうとしたのでしょうか?結局近くの町内会館を借り、関係者全員を対象とした説明会を開かせ、参加者には半紙に載せた駄菓子とお茶という質素なもので私の指示でした。その後も交渉を進め、前田建設は大幅に譲歩した設計変更を行い交渉はまとまりました。
建物は5階ではなく3階建てとし、社宅との間を空ける。社宅建物には西側にベランダを設置する。民家との境の土留めは前田建設がコンクリートで行う等、住民側の要求を全面的に受け入れたもでした。ところが、第一次オイルショックが深刻化し、景気はどん底に陥り建設計画は中断し立ち消えになったかにみえ、2〜3年間凍結されていました。前述の如く、この建物は民間のマンションを借り上げたもので、他の社宅に空きが出来、社員は移動し明け渡す事となり、私も引越しました。

 それから約一年後、社宅の前に住んでいた職場の人から「Sさんマンションが建ちましたよ」と突然言われ、一瞬何の事か理解できませんでした。「例の隣のマンションですよ」。それでやっと事の次第を思い出し、「何階建てですか?」と問い返すと、「5階ですよ」。既に他に移った私には関係ない事で、私が引っ越す時期と前後して動き出し、建設工事が始まったとの事です。





私の人生劇場(8) 〔建築法と換気扇の設置〕


私は、いつも反省の連続です。人間ですから失敗もありますが、反省はしても後悔はしません。その時点では、それだけの知恵と経験と能力しかなかったので、その時の自分の力の到達点であり、仕方無しと割り切るしかありません。そこから教訓は引き出すが後は振り向かず、常に前を向いて新しい課題に挑戦する、そんな人生ですから、一見猪突猛進に見えるのかも知れません。

 前回、新しい社宅へ越した経緯は記載しました。引っ越し先の社宅は、JR南部線の駅から徒歩5分通勤に便利で、新旧の建物20棟程が集中する集合社宅でした。移って知った事ですが、厚生年金制度が制定され、徴収はするが受給者は一人もなく、年金が貯まる一方の時代に、大企業の社宅や寮等の厚生施設に融資し、建設された事が分かりました。建物の基部に、「この建物は厚生年金で建てられています」という意味の、銅のプレートが取り付けられていました。ところが、古い建物は新建築法が制定される以前の基準で建てられたもので、キッチンに換気扇が付いていません。ガスレンジを使用する台所に、燃焼ガスを排出する換気扇が無いのでは、2DKの狭い部屋中に燃焼ガスが充満する事になり、健康を害します。前の社宅は、安物の換気扇が付いていたのですぐに分かりました。幸い私が入居した棟の部屋には古いがフード付き換気扇が取り付けて有り、実害はありませんでしたが、例の悪い癖で黙って見過ごせませんでした。

 建築法を少し勉強し、早速、法を盾に社宅を管理する厚生課へ改善方申し入れました。すぐに明確な回答はなく、私も忙しく飛びまわっていたので、その事ばかりに構っていられませんでしたが、1ヶ月ほどしてなにやら工事が始まりました。キッチンに当たる壁の外側から、直径20cm程の穴を開ける工事です。昔の建築物ですから、鉄筋コンクリートの壁の厚さは20cm位あり頑丈な造りで、一ヶ所切り抜くのに大変な時間と労力を要していました。最初に建築した3棟が対象でしたから、100戸程度、1ヶ月程の工期を要していました。刳り抜いた穴にコストの安い換気扇が取り付けられ、工事費だけでも相当な経費を要したのは確かです。

会社からは私に何の回答もありませんでしたが、私が申し入れてから工事を行うか、遣るにはどんな工法が適しているか、1ヶ月間検討していたのでしょう。会社は、改善工事を行うことが私への回答であり連絡だったのでしょう。突然換気扇が取り付けられた入居者は、理由が分からずビックリしたでしょうが、受益者の生活が改善されれば良しとし、そのまま黙っていました。知っているのは私と会社だけということになりますが。





私の人生劇場(9) 〔下水道工事川崎市との交渉〕


 私が社宅を出て、川崎市麻生区の団地に住んでいた時の話です。自治会役員は一年任期で交代、2回目の会長の任にあった時の事でした。団地のトイレは集中管理ですから、勿論水洗です。ところが周囲の戸建て住宅は、未だ下水道が完備される前で、旧来の汲み取り式トイレでした。時代の趨勢で、柿生駅近くに処理場を造り、その地域全体が水洗化される計画が進でいました。市からも町内会へ説明に来ましたが、生活が改善されることでありおおいに結構と、反対する理由は何一つありませんでした。

  ところが、団地の自治会としては厄介な問題を抱えることになりました。団地のまん前に市有地として広い空き地が以前から確保されていました。主施設は駅近くの広い場所に建設するが、二次的補助的な施設を、団地前の空き地に建設するという設計計画でした。完成してしまえば地下施設ですから、小さな管理棟が建てられるくらいで、地上は植樹され芝生が植えられて緑の空間が広がるので、団地にとってもなんら支障はありません。ところが、そこへ町会の自治会館を川崎市の補助金で建設し、管理を町会へ任せるという箱物で町会全体を抱き込むという利益誘導の常套手段を使って来ました。地理的にこの空き地は、団地に囲まれた地形で近隣住民には全く影響のない場所であり、ボットンから水洗トイレへと生活は改善され、町内会館というおまけ付です。

  団地はというと、完成してしまえばなんら支障はなく、環境も草ぼうぼうの空き地より管理の手は行き届きます。ところが、駅近くの主設備の工事中は、この空き地へ余った土砂が運び込まれ、保管場所として使用する事が判明しました。2km程先の柿生駅近くから、後で埋め返す邪魔な土砂が毎日ダンプで100台近く運び込まれ、長期間保存され埋め戻されるれるということでした。この影響は大きく、問題となりました。ダンプが頻繁に出入りすると、騒音や粉塵は勿論、幼い子供が事故に巻き込まれたりと危険です。粉塵対策としては、風が吹いても埃が舞わないよう、5m程の鋼矢鉄板で周囲を囲うという提案もされましたが、幼い子供が連れ込まれると見えない死角となり、防犯上却って危険を伴うなど、多くの問題点が含まれていることが指摘されました。

 この空き地の周囲には、持ち家や川崎の住宅供給公社の賃貸、そして県営と3つの系統の違う団地が併せて250戸程が隣り合い、空き地を囲む地形になっていました。町会は影響無しで知らん顔を決め込んでいますから、全く頼りになりあません。誰かが音頭を取らなければと、私が3団地に声をかけ、会場も確保して50人近くの人が参加・組織する場を設定しました。川崎市からも関係部署の担当者を呼び5人程が来ました。予め問題点を整理し、誰が何を発言するか分担を決めて臨みました。住民側の要求は、殆ど受け入れさせる結論に達しました。ところが、上麻生からの土砂の運搬は中止となり、地下に埋設される設備の工事だけが静かに行なわれました。





私の人生劇場(10)  〔神戸製鋼の争議支援〕


  神奈川は京浜工業地帯で首都に隣接し、兵庫はローカルであるが生産工場が集中した工業県、鉄鋼という同じ産業の関係で、神戸製鋼の仲間の争議支援で神戸へ何回も足を運びました。争議の立ち上げから、重要な局面では学習会の講師に呼ばれ、乾いた砂に水が滲みこむように私の話が理解され吸収されていくのがよく分かりました。神鋼争議は、兵庫県地方労働委員会へ労働組合運動を理由とした賃金差別撤廃を求め、12名の原告が不当労働行為救済の申立を行なった争議です。

  学習会だけでも5回、新幹線で午後に新神戸駅へ着き迎えの車で学習会場へ、2時間程の学習会を行い、夕食での交流会が終り、部屋へ集まっての懇親会は深夜2〜3時頃まで、質問攻めで中々解放してくれません。時には仲間同士の激論が高じて口論となり、仲裁役を務める場面もしばしばありました。東京で行動が有る時は、私の家に何人もの人が泊まり、翌日の行動には一緒に参加しました。時々、深夜帰宅すると「お父さんDさんからまたフンドシが届いているよ」と息子。古いFAXはロール巻感熱紙でしたから、B4サイズの資料が10枚も送信されると2m位繋がり床に這っています。疲れて帰宅しても全部目を通し、緊急を要する時には2時頃まで掛かりその日のうちにコメントを送信してから寝みました。

  神戸へは20回近く支援等に行きましたが、阪神淡路大震災の時は直前まで激震地の三ノ宮に居ましたが、2日の差で震災に遭わず難を逃れる事が出来ました。しかし、善意の支援も、全てが順調だった訳ではありません。当事者の原告団や支援者の一部は私に絶対的な信頼を寄せてくれましたが、神奈川の運動を兵庫に持ち込むのを快しとしない人達も多く存在しました。排他主義と言うよりも、兵庫労組の「最高幹部」達は、自分達では指導援助出来なかった争議を、他県の名もない一労働者が来て次々繰り出す戦術で、運動がどんどん広がり前進していくのが、面白くなかったのかも知れません。だからといって、下から運動が盛り上がり発展するので支援しない訳にはいきません。前進し解決すれば、自分たちの成果にも繋がります。先発の多くの争議団を追い越し、この種の争議では9年の短期間の闘いで、神鋼争議は全面一括勝利解決しました。残った他の争議は、地労委・裁判所任せで運動が弱く、未だに解決せずか、終わっても結果は芳しくなく、人間の度量が試された課題は、実践的に決着がついた事になります。

 私は新神戸駅前のホテルで行われた「勝利報告集会」へ招待され挨拶もさせて頂きました。また、労働争議では異例な事ですが、総括集「鉄の扉開いた男達」では、他県の私のコメントと写真を冒頭に掲載する配慮をしてくれました。原告団との交友関係は現在も続いています。一昨年6月には3人を丹沢へ案内し、今年の6月は鬼怒川にある神鋼の保養荘へ二泊し、日光東照宮やいろは坂を登り華厳の滝、奥日光の竜頭の滝等を見物し、昔話をゆっくり語り合い旧交を温めました。





トップへ(essaytop)


”知  略  篇”



 私の人生劇場(11)〔運動と芸術論〕  


 私には、川崎を本拠地とするアマチュア劇団に所属する友人が数人いました。自前の稽古場を持ち時々公演を打っています。職場の友人が退職し、専従で劇団の運営を担当する任に着くと言う事でした。私は或る集団の責任者をしており、彼も構成員であり、所属が替わるため、二人でお別れに一献傾けながら話し合う場を設定しました。話題は、「運動と芸術論」とでもいうべき、ユ二ークな議論をした事があります。

  劇団ですから、小道具・大道具を揃え、脚本があり舞台で役者が演技をする。演劇は形に見えます。彼は芝居に情熱を傾け、芸術談義に熱弁をふるってこれからの人生と希望を語る。嘗て「奴隷工場」という映画がありましたが、実際に有った事実を脚色し、総合芸術である映画として製作されました。対してモデルとなった舞台は、脚本無きドラマとして、自然発生的に展開された人間の生の闘いでした。

 運動は、ある課題や目標を設定し、その目標を達成するために取り組む。個人ではなく集団の取り組みであり相手のある事ですから、書いても中々筋書きは読めませんし、まして思う通りにドラマは進みません。課題に取り組むには、責任者(監督)が脚本の骨子を作ります。その案を予め選出されている指導部(スタッフ)に提案し討論します。それぞれの経験や立場や職場の条件の違いから、脚本の骨子に消極的な者や、積極的に骨組みに肉付けをしてよりよい脚本(方針)に仕上げ、目標を達成する意志の一致を図ります。その脚本を、構成員全体に提案し、やり遂げる為に力を発揮してもらうよう呼びかけます。此処でも建設的で新しい肉付けがされたり、異論を唱えたり消極的立場を執る人も出てきます。いずれにしても民主的に論議し、運動はスタートします。 実際に走り出すと、生きた人間社会ですから頭に描いた筋書きだけでなく、不測の事態が生じたり、くすぶっていた矛盾が激化しマイナス要因になったりと複雑に絡み合い、脚本どおりに取り組めない状況が生じたりします。運動は命令ではなく方針を納得し自覚的に人が動き、力を発揮してもらう以外脚本は進展しません。責任者とスタッフが悩む時です。反面、脚本にはなかった意外性、周囲の情勢が急に好転したり、全く想定外の人物がヒーローとして出現し、思わぬ力を発揮し救ってくれる場面もあります。指導者はすかさずそこに依拠し、彼を牽引車として全体を励まし目標に近づけ達成します。

 私は幸い、いつも課題ごとにヒーローが輩出し肋けられてきました。運動というのは、大勢の人が動き力を発揮してもらう指導力が必要であり、最終的には人間としての信頼と魅力が栗求されます。自分で描いた脚本に意外性が加わり、思惑どおりに目標をやり遂げた時の妙味、「うまくいった!」という達成感。脚本のないドラマを作り上げるに似た喜びです。スポーツであり、人が生きるどの世界にもドラマあり、そこが人間の面白さであり、私は”社会運動も芸術”でありドラマであるという独自の世界観を持っています。





私の人生劇場(12) 〔力の集中と配分〕 


  人間誰しも、人生で師と仰ぐ人や成長過程で大きな影響を受けた人が居ると思います。私が社会運動に身を投じてから、特に身近で三人の人から影響を受けました。運動ですから実践は大事な分野です。一人は実践家の手本のような人で、日常生活が実践そのものという人から会得しました。2人目は出身が同県ですが、研究所に在籍しており研究論文を専門誌へ投稿し何件も採用・掲載された優秀な人でしたが会社では窓際、定年後博士号を取得した努力家で、理論の大切さを学びました。残念ながら二人とも既に故人になってしまいました。3人目は、大きな事を言ったり簡単に安請け合いをすが約束は守らない、時間には必ず遅れるズボラ人間の典型で、こういう無責任でだらしない人間にはなりたくないという“反面教師“の存在です。

  ある時博士さんから「優秀な指導者は同時に幾つかの仕事や責任者が務められるような能力を持ちなさいよ」と、示唆を受けました。その人は、実際に日本ベトナム友好協会の要職や川崎公害の役員、マンションの理事長他、幾つかの要職を兼務し、そつなくこなしていました。“若い時の苦労は買ってでもしろ"の例えで、私も乞われれば逃げず、幾つかの責任者や役職を兼務して来ました。そこで会得したのは、"力の集中と配分"をうまく行う事でした。

  幾つかの役職を兼務していると、ピークが重ならぬよう調整し分散させます。予めピーク時が分かっている課題は、余裕がある時に資料や必要な物は事前に準備し、常に計画的にカを配分しピークの高さを抑え平均化する。ここ一番力を集中する時は、課題に全力投球する。同様に、その時犠牲にした課題が重要な時はそこへ力を集中し成功させる。孫子の兵法に”指揮官は兵を選ばない”という言葉があるが、重要なのはそれを一人で全部やるのでなく、若手や後進を信頼し任務を分担して育成し、適材適所に人材を配置していく事も視野に、組織と集団の力を活用する事です。自分も大所高所から全体を統括し、まとめる能力を養い、個人と集団の"力の集中と配分“をする事により、複数の課題を(二足のわらじ)矛盾しないよう、そつなくこなしていく努力をしてきました。

  しかし、外では力の配分をしてきましたが、実生活では自分の生活や趣味には全く時間を配分せず、家庭と自己の心身を犠牲にしてきました。私達の世代は日本の高度経済成長を支えて来た中心的な年代で、「マイホーム主義]を軽蔑する悪しき風潮が流れていた時代でした。大部分が「企業戦士」と言われる会社人間となり、定年になって趣味もなく途方にくれた人達。私は、社会運動に身を投じ、自分を省みず好きな文学や登山を封印し労働運動に没頭し、信頼できる友人や仲聞が沢山周囲に居て宝を得ました。あのまま登山を継続していれば、外国の山にも登っていたでしょう。そんな仮定の念が頭をよぎりますが、その時点での判断、過去は割り切り後悔せず、従来どおり前を向いて歩み続けて行きます。





私の人生劇場(13)  〔慢心を 妻に叩かれ 目が醒める〕


 私の基本的な考えは、”人間の評価は第三者が決めるもの”と、思っています。従って”俺が”という自画自賛は慎み、いつも”謙虚に”をモットーとし、肝に銘じて生きてきました。人間の真価は”死後に評価される”ものと考えていますが、我々凡人が世を去れば、虎のように皮も残せず名も残さずすぐに忘れ去られる、小さな存在でしかありません。他人を評価する場合も、大きな成果(実績)を挙げても謙虚な態度をとる人を尊敬します。未だ余力を持ち、次の仕事に挑戦しょうとするエネルギーと気迫に圧倒されるからです。逆に自慢して過去の栄光をひけらかし日々努力しない人は、あの程度の水準がこの人の限界であったのだと底が見え、軽く受け止めてしまいます。

 東京電力(株)を相手に1都6県で闘われた、「思想差別撤廃闘争」に関わり、60数名の原告を擁する、神奈川支援する会の事務局長を務めていた当時の話です。東京と群馬・山梨・長野では、首都と地方で労働運動の歴史や実情が違います。東京の隣県である神奈川と千葉でも、それぞれの歴史と特質を持っていますし、力関係も異なります。当然現状からくる意識も規定され、認識も異なりますから、団結するにはお互いがその違いを理解し、認め合い乗り越えなければ団結は出来ません。日本のリーダーカンパニーである東電(会長が元経団連会長の平岩外四氏)と激烈な闘いに取組んでいた当時の話になります。

 神奈川では、支援する会会員を2,700名以上を増やし、私は当時、まだ交通事故に遭う前でしたからお酒も強く、外で飲んで帰宅後も普通どおりの晩酌、普段は無口で一人静かに手酌酒ですが、その日は酒量が多かったのか饒舌になっていたようです。妻にいきなり一喝されました。「お父さん!最近『俺が!』『俺が』が鼻につきますよ!」。いつも謙虚なつもりでいた自分にいきなり、「おれが!」と指摘され、一瞬二の句が出ませんでした。あんな事くらいで?少し周囲から持ち上げられ、知らぬ間にいい気になっていたのかも知れません。「ごう慢さ我知らぬ間に忍びより」、それが鼻についた妻の一喝は愛のムチで私には応えました。

 でもご安心ください。私は常に外で仲間に疎んじられるような傲慢な態度をとった事など無いつもりでいますので、他人から非難される心配はありません。未だまだ、自分の能力を出し切り、燃焼し尽くしたと実感し納得出来る仕事はしていません。これからも謙虚に様々な課題にチャレンジし、成長していく意欲は失っていません。





私の人生劇場(14)〔硬軟兼ね備えた人物は少ない〕


 製鉄会社に勤め長年鉄と関わってきた関孫で、今回は”日本刀”を例に話を進めますが、危険な刃物の扱いではなく至って理論的な内容です。日本刀の斬れ味と強靭さ、これは硬い鉄を表面の刃の部分に使い、しなやかで柔軟性を持ち折れ難い鉄を芯に入れて造られているからです。鉄は硬ければ切れ味は良いが脆く、柔軟であれば折れにくいがなまくらで切れ味は良くありません。硬軟(柔)両方の特性を結合して造られたのが日本刀です。相撲でも、攻めには強いが守りにもろい、その逆の力士も居ますが、双方兼備しないと、強い関取にはなれませんし横綱にはなれません。人間や組織に当て嵌めて考察し、解明してみようという試みです。

 人間にも硬派(夕力派)と柔軟派(ハト派)が有りますが、一人で両方を兼ね備えた人物は少なく、"寄らは大樹の陰"で肌色を出さず、時流に迎合し保身のみで生きる人が圧倒的に多いのがこの世の中です。強い態度で有無を言わせず、相手を抑えつける強硬派が成功する場合も有りますが、概して反発をかい後に禍根を残し敵をつくって長続きしません。片や、柔軟派は物腰柔く、正論で納得を得る、相手も事の本質を理解し、摩擦も少なく事が納まりやすいが、身内からは弱腰と指摘されます。しかし、硬軟の使い分けは、一人の人間では至難の業と言えます。

 組織としてはどうでしょうか?行政や大企業へ要請や抗議に行き、舌鋒鋭く追及する硬派の方が効果的ですし、相手を追詰めて同行した人達にも共感と確信を与えます。ところが、相手がしたたかで、反撃してきた場合は、切れ味だけでは押し込めず、ノラリクラリと逃げて躱され煙に巻かれて追及できません。こうした場面では芯の部分理論的で粘り強相手を追い込む人材が必要となり出番となります。常日頃から勉強し論理的に自分を磨いておかないと錆びつき切れ味が鈍ってしまいます。政党や企業は組織として、相手や情勢に応じて硬軟派閥や人材ををうまく(ずるく)使い分け、目先を変えて相手や国民をごまかしたり騙したりして凌ぎます。私達が組織として対応する場合も、硬軟併せ持つこの原理を活用する必要があります。表には出ないが政策や方針は日常的に研究して着実に確立しておき、実務もしっかり処理しておく内部型は、刀の芯の役割であり重要な位置づけを持ちます。外に向かっては、切っ先鋭い理論家を前面に立て、外交上組織の顔としますが、内部で積み上げた理論的な研究成果を活用し、同時に具体的なまとめは実務家と表裏一体とならなければ矛盾が生じます。

 どんなに科学技術が発達しても、日本刀は鉄鋼の大量生産技術で造る事は不可能です。旧来の路輔炉(たたらろ)で砂鉄を溶かし玉鋼にして強靭な刀を造ります。正に"鉄は熱いうちに鍛えろ"の例えどおり硬軟異質な鉄の分子をハンマーの衝撃圧で結合させ一体化することが必要です。私ですか?性格的には穏やか、攻撃よりも守りに強く、正論で説き伏せるタイプですが、長年の体験と試練で鍛えられ、相手や時と場合に応じて硬軟使い分け出来るよう努力し鍛えて両刀使いの人材に成長しました。





私の人生劇場(15)〔私と般若心経〕


 どんなに意志の強い人でも、自分の信念や考えが受け入れられず、四面楚歌の状態になった場合、動揺や不安に陥ることが無いとは限りません。その時誰かに相談したり何かにすがりたい、こうした気持ちになる事があります。同調者や支持者が周囲に多ければ、こうした心理状態に陥ることはありません。それまで自分が信用していた仲間と対立し、孤立無援の状態に追い込まれ、そんな状況が長年月続いた場合、時には弱気になったり一定の動揺をする事があるものです。

  私は、社会科学を勉強し、国家の仕組みや社会の構造を理解し、人間社会も一定の法則に基づいて動いている事を学んできました。社会の歴史や進歩にも法則があり、世の中の出来事を常に科学的に分析し、事の本質を掴むよう努力しています。本質を掴むと、現象は様々な形態で現れるが、何が原点なのかその本質が容易に判断出来ます。経緯は省き、自由と民主主義を標榜する組織に所属していた頃、私は自分の信念を曲げず仲間から孤立し、長期間に亘って内部での理論闘争を続けた事があります。多数が必ずしも正しいとは限りませんから、信念を曲げて相手側に譲歩する事はできません。正に孤軍奮闘という表現が当てはまる、そうした状況が5年以上も続いていました。、いくら強靭な精神と信念を持ってしても、「自分の考えが本当に正しいのだろうか?」と、時には動揺することもあります。

  私は以前から、ノーベル文学賞を受賞した川端康成が自殺し、女流人気作家だった瀬戸内寂聴(晴美)が俗世を捨て得度した事にも関心を抱いていました。又、科学的社会主義の理論はたった260年、お釈迦様の教えは2400年、現在もなお信仰は続いている。釈迦の教えが集約された「般若心経」には、人間の心の奥底をえぐる深い教え、私の謎解きの奥義が秘められているのではないかと関心を持ち目を向けていました。色んな角度から視点を当て追求する本を買い勉強してみました。276文字の般若心経を写経したり唱えて暗誦したわけではありません。お釈迦様の教えが濃縮された仏教の憲法とも言うべき般若心経の教えは、特定の教えや教義にとらわれるのではなく、人間の心と生命の原点に立ち、大きく宇宙的な見方をする。さまざまな主義・主張の違いを超えて、心を大きく持ちなさいという思いに達しました。

  全体を掴む中で得たものは、「自分の思うとおりに生きなさい」「欲望には色々あるが、欲も必要、欲がなければ進歩もない」「だが欲張り過ぎるな」。私はそれまで、謹厳実直で聖人君子のような生き方が、悟りを開いた立派な人間だという固定観念を持っていました。人間は喜怒哀楽を素直に現し、自分の信ずる道を「自然体で生きる」、これが般若心経から得た私の結論でした。目からうろこが取れた爽快感、以後私は迷わず何事にも動ずる事無く、自分が考え信ずるまま、自然体で王道(正義)を歩むことにしています。





私の人生劇場(16)〔カミソリは真綿で包む〕


 ”真綿で首を絞める”という諺があり柔らかく聞こえるが、よく考えてみると非常に残酷な意味を持つ言葉で、長時間或いは長期間に亘って苦しむより、一瞬に断罪された方が余程楽である事に気が付く。真綿というのは、人生にとって多様な使い道や深い意味を持つ言葉である。 人間の社会ですから、同じ志を持つ仲間でも、百戦錬磨の猛者(もさ)が自分の威信をかけ、白熱した議論になる事が多々あります。一つの集団はお互いが切磋琢磨し、それぞれが成長しますから、長年月の間に力量は平準化され、お互いの癖や特徴を理解し認め合い安定した状態に落ち着き、摩擦は少なくなります。そうした中で突出した切れ者・理論家を"カミソリの誰それ"と異名を冠せることがあります。こうした鋭い人が味方に居ると、心強く安心です。しかし、個性の強い人間の集まりですと、時には対峙する場面も生じてきます。

 いくら切れ味の良いカミソリでも、強靭なナタや斧に立ち向かっても勝てません。強靭なナタや斧との比較は、いわゆる人間のスケールや器の違いと言う意味に解釈できます。1oと1mでは千倍のスケールの違いですから、どうあがいてもカミソリはナタには通用しません。人間の度量・レベルに大差があり、俗に"格が違う“或いは、”月とスッポン”の違い等とも表現されます。

 前回、般若心経の項で触れましたが、人間には自尊心があり相手より知的優位に立ちたい心理は本能的な欲望であり、欲は成長の原動力でもあります。対抗的になるのは、生育した経歴や立ち位置が異なる存在意識からで、違いを強調せず一致点を探し、今後どう団結し発展させるか建設的な方向に論点を向けるべきであろう。同時に、逆転の発想で考える事も必要です。どんなに鋭い刃物でも柔らかく伸びる繊維は切れません。銘刀正宗でもほぐれた真綿は斬れず、絡みついて身動き出来なくなります。対人関係でも、大所高所から物事を見て単に切りあうだけでなく、相手を懐深く受け入れ、温かく包み込む度量が必要です。太っ腹な人間になるには、自らが実践に基づいた確信を持たなければ、相手を受け入れる余裕は持てません。又、"カミソリの誰それ"との異名は人格ではなく特徴ですから、自らも傷つく危険な両刃の刃ともなり、必ずしも信頼とは結びつきません。大相撲でも、攻守に強く、常に冷静沈着、心・技・体と三拍子揃って真の強さであり、横綱になれます。

 個性が強い人間の集団は、時にぶつかり合う事があります。同じ個性でも、プラスとマイナスの性格は相性が良く、逆に同極同士は、兎角反発し合う傾向が強くあります。協力し合う者同士は、相手の個性と人格を認め合い一致点を探し、身も心も温める真綿のように柔軟で寛大、懐深く相手を受け入れて包みこむ。そんな人間に成長するよう、常日頃精進したいものです。
  (※ 器が違う・格・度量・レベル・ステージ・基盤・雲泥の差・月とスッポン etc.)





私の人生劇場(17)〔私と任侠っぽさ〕


  私を称して、「男気]があるとよく言われますが、裏返すと「やくざっぽい」と言う意味にもなります。私は、それを否定し切れませんしする気もありません。その場の状況から必要上、そういう態度で物事を収めた若かりし頃の武勇伝は幾つも有りますが、本論から外れますので内容に触れるのは避けます。関八州を治めた大前田英五郎や国定忠治は実在したやくざですが、上州には仁侠を生み出す土壌と背景があったのでしょう。私の祖先に、そうした道に係りがあったという記録も話しも聞いていません。

 私は一度、自分の家系を調べてみましたが、四代前は両養子で行き詰まり、忙しさと群馬という距離的な関係もあり、途中で諦めました。家は麦藁屋根の古い大きな建物で、煤で黒光りした大黒柱は子供では抱えきれない太さでしたが、1959(S34)年9月の伊勢湾台風の時に倒壊し、その後どう処分したのか、古文書も骨董らしき物も残っていません。唯一の手掛かりは母の昔話と墓地だけです。私の家は農家ですが、「かごや」という屋号がありました。昔の中仙道に面した旧家で、屋号のある家は数軒でした。上州は養蚕が盛んでしたから、農閑期養蚕用の平たい竹かごをや竹の農具を手広く作っていたようですし、家の裏には竹藪が在りました。一家の墓地が在り、古い沢山の石塔が残っています。しかし、昔の柔らかい石ですから風化して文字は判らず、途中から折れている物も有ります。その中に丸い石塔は坊さんを祀る形で3塔残っていますが、我が家は坊さんの家系ではありません。

  以下は、母の話を元にまとめてみました。先祖は面倒見の良い家柄であったようです。病気になった雲水(修行僧)や山伏、ヤクザの流れ者や食い倒れ等、困った人が口づてに聞いて頼り、転がり込んで来たようです。それらの人達を追い払わず納屋に住まわせ、食事を与えたり面倒を見る。元気になれば篭を編ませたり、農繁期には農作業を手伝わせ、元気になって一定の恩返しをして去って行く。そのような何処の何者とも分からない、ごろつきのような居候が居付いていたようです。中には、病気や怪我が治らずそのまま亡くなってしまい、手厚く葬ってやる。丸い石塔は身元も知れず亡くなった、雲水や山伏の供養塔ではないかという事でした。

  そうした影響を自然に受けたのか、跡継ぎである祖父が放蕩で博打に手を出し、田畑を殆ど巻き上げられ身代を潰したようです。先祖の家風や血統が私にも流れているのか、頼られると放っておけない性分、何よりも悪を許せない怒り、正義感には抑え切れない熱い血が流れているのかも知れません。自分の内心を分析するならば、「河内男節」の歌詞に、一に度胸・二に人情・後は腕ずく・・・とありますが、どんな大事にも動ずる事無く、腹をくくって物事に当たり対処している事だけは確かです。私の反骨精神と「男気」は、先祖のDNAや風土に加えて、自ら身を投じた環境の中で更に培養され、鍛えあげられたと言えるのでしようか。





私の人生劇場(18)〔燃えた時は筆の運びは早い〕


 私達が自らが働いている会社を相手に裁判で闘ってきた人権裁判が、主人公である原告の意見集約という民主的手続きを無視し、原告の意見を全く聞かず、唐突に解決の方針が打ち出された。手続きも踏まず、内容的にも誰がどう考えても賛成出来る中身ではなく、私は最後までこの解決方針に反対し内部で闘った。争議解決は急ぐことはない、焦った方が負けである。ところが急に何処か、目に見えぬ所からの方針(圧力)で決定が下された異常な感覚を覚えたのは、私だけであったようである。此の事実は某弁護士によって、裁判を始めた当初の指導から終結に至るまでの経緯が、「権威有る」或る指導部から発せられて居た事実が、後の集会で得意満面で報告され、証明されたのである。勿論、某弁護士が中央委員会の指令で、自分が中心になり主導してきた自慢話しとして報告したもので、彼特有の人間の浅はかさを曝したのであるが、話の内容は事実であった。

 解決の中身は、現状の制度内の調整をした程度のものであり、会社にとっては痛くも痒くもない目先を誤魔化す「解決」であった。これでは、後続する争議団の今後の闘いに悪い影響を及ぼすだけで、毒になっても薬にはならない。そうした大所高所から見た私の判断と見解であり、利己的な狭い了見からの態度では無かったのである。私の主張通り、3年後に会社は賃金制度を「改訂」し、相対的には以前の水準に引き下げてしまい、元の木阿弥という結果になった。これも私が指摘した通の内容であり、正しい主張であった事が証明されたのである。

  理論的な基礎がなく、裏からの陰の力にコントロールされていた彼等は、議論に行き詰まると正面からの討論を避け、裏から卑怯な手法を使うのはどの世界も共通していた。案の定「Sは金が欲しくて委員会の方針に反対している」と、デマ宣伝を流し始めたのである。今迄の経緯と慣習からすぐに私の耳に伝わってくるのは自明の理である。争議解決後は、闘いの総括集を纏めて発表し残すのが慣例であり当然であるが、彼らは自発的な闘いでなく、矛盾が顕在化しないよう発表する気力も能力もなかったのであろう。”怒りは力の源泉”と言われるが、力をそこへ向けることにした。

  私は組織の方針に反対した事で任務を干され、時間的に余裕がある時期であった。従って単なる”ごね得”で解決に反対したのでなく、相手側が反論の余地のない理論的な総括文を書いてやろうではないか。私は、煮えたぎる怒りを傾け、理論的に整理し纏める事に注ぐことにした。土・日の2日間で、基本的な文章を書き上げた。正確な数字や日時は後ほど資料で調べ補充すれば良い。400字詰め原稿用紙で100枚ほど、2日で仕上げたあのエネルキーは何処から出たのであろうか。しかし、その原稿は、2年ほどお蔵入りで日の目を見る事はなかった。ところが、私のレポートをベースにした論文を、内部の他の人物が2人、組織内誌に発表している。公に陽の目を見たのは、それから3年後、「闘いは奔流となって」として出版された、神奈川の反「合理化」権利闘争の歴史と今後の方針を纏めた本の、トップレポートとして掲載された。
  一刻も早く周囲の人に読ませ判断を仰ぎたい、そんな怒りがエネルギー源となり、筆の走りを早めたのであろう。怒りとは限らず人間の心が燃え、高揚した心が筆の滑りを早めたり、思わぬ力を発揮する要因になる事は確かである。






私の人生劇場(19)〔真の優しさとは?〕


  ”実るほど頭を垂れる稲穂かな”という諺がありますが、偉くなると威張りたがる人が多く、本当に偉い人は威張らず腰が低い、こうした聖人君子は希にしか見掛けられません。偉くなると自分より弱い人間に対しては、威張ったり弱い者いじめをする人が多いのが現実の社会です。いじめ問題は子供の世界だけでなく、大人の社会にも多く存在します。元々地位や名誉・金持ちの家に生まれ育った人間は、初めからスタートラインが違い、生まれながらにして有利な立場にあります。財・閨閥を後ろ盾にエスカレーター式に出世し、社会的な地位を高めていく。これらの人達は、子供の頃から金儲けや自分たちの地位を保全する「帝王学」を叩たき込まれています。こうした生育の違う環境で成長したエリートに、庶民の気持ちが解る筈はなく、決して弱者を助ける優しさは期待できません。

  それでは本当の優しさは何処に存在するのでしょうか。誰でも自分の子供が可愛いのは当然です。孫はもっと可愛いようです。それは血の繋がりが最大の要因でしょう。他人同士はどうでしょうか?貧しく弱い立場の人達は、助け合わなければ生きて行けません。昔はそうでした。現在は貧しく弱い者同士が必ずしも団結し協力し合うとは限らず、逆にそこから抜け出すために、弱い仲間を蹴落としても自分だけ這い上がろうとする人が多いのが現実なのかも知れません。優しくとも悲しいかな力や余裕がなければ、人を助ける優しさは示せません。こう考えてくると、誰を信じ依拠したらよいのか絶望的になってしまいます。

  しかし、希望はあります。金も肩書きもなければ権力もない平凡な人間が、正義の為に団結して強い立場の者達に立ち向かう。真の優しさとは、正義感だけでなく悪を許さない怒りの心もエネルギー源になります。蛮勇ではなく、善悪を判断する知識や能力、勇気が求められますし、常に自己を戒め合法的に闘い道を拓かなければなりません。鬼のように恐れられる人間が、ドラマを観て涙を流す。滑稽な場面ですが、強さと優しさと涙は矛盾せずに同居します。

  最初は弱く辛い思いを昧わった人が、冷酷な権力や悪い者に正義を通すため闘う中で鍛えられ強くなり、真の優しさが生まれてくるのではないかと思います。テレビの時代劇を観て、長屋住まいの浪人とダブル事があります。だが、一人の力で多数は救えません。弱者を救うのは本来國であり政治の責任です。国民の良識の一票が政治を変え、國を変え生活を守る原動力であり、一人ひとりの意識水準が高く変わる事が必要であると思います。





私の人生劇場(20)〔孫子の兵法と人生への応用〕


  孫子とは、「孫武」・「孫?」(そんぴん)の敬称で、中国戦国時代の「孫子の兵法」書を記した事で有名ですが、成立年代は不詳となっています。戦国時代でもないのに、今何故孫子の兵法かと、問われるかも知れませんが、現在でも経営戦略やあらゆる面での応用可能な豊富な内容が含まれ、私は主に労働争議支援と政治課題や他の要求実現闘いや運動に役立て、参考資料として活用する為に少し勉強しています。私は争議とは、武器を使わない闘争と心得ています。対峙する相手との知恵と力比べで、小さく弱い労働者・市民が、正義を旗印に巨大な力を持つ資本や行政に対抗して相手を追い詰め、交渉のテーブルに引き出し、如何に大きな譲歩を勝ち取るかの戦であるからです。それには、孫子の教えを現在の情勢に適用し、相手に勝つ為の戦略・戦術を編み出す参考書として有効に活用しています。

人間誰しも争い事は避けたいものです。闘いを始めるには切羽詰った理由があろうし、身に降る火の粉は払わなければなりません。闘うには、敵味方の優劣がどうなっているか情勢を分析し見極めないと、戦術は立てられません。「天の利」とは、争議を闘うに当っての全国的・全体的な情勢が有利か不利か、力関係の実情分析です。概ね私たち庶民にとって、政治情勢は不利であり、行政や大企業・金持ちや大組織に有利であり、「革新」は弱く分断され、闘う労働者・市民には常に致命的な程不利な状況下にあるのが現状です。マスコミは好意的に、争議や一市民の主張を取り上げて報道してくれません。あらゆる面で降り、ゼロからの出発と言っても過言ではありません。

 「天の利」全国的な情勢は、闘う労働者・市民にとって常に、最悪な情勢と言えます。それでは「地の利」、部分的・局面的な条件はどうか?こうした検討も加えねばなりません。有利な法律は存在するか。味方になって加勢してくれる労働組合や、革新と言われる種々の民主的と言われる諸団体・組織は頼りになるのか?労働情勢や弁護団の闘う姿勢や団結はしっかりしていて、信頼できるのか。少しでも理解を示す行政機関は存在するのか等、このように全国的な情勢よりもっと狭い範囲での力関係の情勢分析と地理的な条件や陣営の内部的な関係等で「地の利」があり、それがバネとなって全国的な闘いに発展する可能性があるのかどうか、という事も重要な要因になります。

  私が闘い支援してきた課題で、天の利・地の利で、有利であった事は一つもありません。逆に味方であるべき内部から、横槍や妨害も多々ありました。そうした悪い状況下で、どうして勝てたのか?外部の攻撃は当然ですが、内部からの横槍や妨害には闘う仲間は怒りを強め”窮鼠猫を噛む”の例えのように、その力は数倍の威力に発展する可能性を秘めています。私はこれを善意の"人の和”と称し、人間の団結力は侮りがたいと覚えました。 「孫子の兵法」は、”戦わずして勝つ”事を、最高の戦法と位置づけています。そして、 情報戦つまりスパイ活動を最も重視しています。アメリカがスパイ衛生を打ち上げ、CIAと旧ソ連のKGB、韓国のKCIA等、現在も各国が情報戦に力を入れている事実から、孫子の兵法は現在に生きています。企業間の産業スパイ合戦、しかりです。





私の人生劇場(21)〔三拍子揃えば怖いものなし〕


  "天は二物を与えず"と言いますが、まして三物は中々与えてくれません。"一芸に秀でる"という諺も有ります。人間には得手不得手が有り、生まれつき器用・不器用という人も居ます。大意を素早く把握するが大雑把な人と、深く掘り下げて究明しなければ済まないタイプとありますが、両方兼ね備えた人は希です。長所はより伸ばすと同時に、弱点は克服する努力が必要です。

  "口から先に生まれた“と言われ、いつも話題の中心になり人気者、こうした人をよく見かけます。この人に文章を書かせて見るとからっきし駄目、不得手だからと書こうともしない。喋っている内容をそのまま文字にすれば面白い文章になるのに。また、雑談ではお喋りの人が、司会や会議など正式な場になると、緊張して喉が引きつり言葉が出なくて期待外れ。同様に、偉い学者さんで優れた論文を発表したり小説を書いたりする人が、さぞかし立派な講演をするかと思いきや、期待はずれといった事も往々にしてあります。話すのと書くのとでは使う脳細胞が違うのかと考えさせられてしまいますが、文章は書く話も上手と、両方兼ね備えた人も世の中には沢山存在します。こうしてみると、得手不得手と言うよりは長年の努力や訓練とか場慣れも、大きな要因を占める事になります。また、人をまとめたり組織する事が得意な入が居ます。その人の周囲にはいつも人が集まり、いつの間にか自然に何事もまとまってしまうといった、奇特な人もいます。これは地味ですが、組織力というその人に備わった特質であり、他が持ち得ない優れた能力であると言えます。

  話し上手で人気者、人は集まるが文章は駄目、文章は書けるが喋ったり簡単な人付き合いさえ苦手、三拍子揃った人は中々見当りません。そこで纏めると、
 @ 政策や方針等、創造的な考えを打ち出し、説得力ある文章が書ける。(書ける)
 A 心を惹きつけ他人を納得させる話や大勢の前で話したり演説が出来る。(話せる)
 B 人をまとめる事が得意で苦にならず、ある目的を持った方向や方針で自然に組織化出来る。(人を組織する)
この三拍子が揃っていれば、会社であれどんな社会でも一流に通用する逸材と言えます。特に、従来の理論や経験にとらわれず、発想を転換し新しい政策の立案・具体化をし、政策的な優位性を保ち提起する能力、更には日常的な努力があれば、”鬼に金棒”といえます。又、人間はどんなに努力しても得手不得手が有りますから、有能な友人や人材を周囲に得て、自分にない能力を補完し助言を求め、総合したチーム力として三要素を確立する事も有効な方法です。

  以上は、実践的な体験から分析し纏めた私見ですが、組織人としてであって、鋭く豊かな感性が要求される芸術家や特種な技能や体力が要求されるスポーツや格闘技等は別、一芸に秀でた特異な才能一点で成功する場合もありますが、極一部にすぎません。又、現実には、氏素性・金持・学歴等、最初からスタートラインの違い等の要因もあり、一概に機械的に当て嵌める事は出来ません。正義感が強く潔癖で才能豊か、優秀であるがために、既成の組織や団体からは却って阻害され弾かれることも、現実問題として多々有り得ることです。





トップへ(essay)


”家 族 の 絆 篇”


私の人生劇場(22)〔弟と地獄のつきあい〕(1)


 「大阪の弟さんが事故に遭い重傷らしい」と妻から会社へ電話があり、詳しい内容も分からず、午後から年休を採り帰宅しました。長男は生後9ヶ月、妻は私の長期滞在を見越して郵便貯金通帳を渡してくれ、すぐに新幹線で新横浜駅から大阪へ出発した。当時はまだ、銀行のオンラインシステムはなく、全国的に使用できるのは郵貯だけでした。一度行った事のある弟の自宅、団地名を覚えていなかったのが仇で、岸和田の建売り住宅団地をタクシーの運転手さんとやっと探し当てたが家には子供だけ、待たせておいたタクシーでそのまま入院先の岸和田徳州会病院へ急いだ。

 昨夜10時半頃、一杯飲んで自転車で帰宅途中、ふらついて休耕田へ頭から転落、首に全体重が掛かり、頸髄を損傷したとの事でした。幸い通行人が見つけ救急車で運ばれたがかすり傷一つ無く、病院でも最初は酔っぱらいの悪ふざけと間違え、手当もしないで「帰れ!」と言われ追い返されたそうである。だが本人は全く動けず首から下の感覚もない状態で、やっと医師も頸髄損傷と気が付く有様。会社の人達も心配して来ているが、20時の面会時間が過ぎると帰っていきます。弟の妻は昨夜からの看病や見舞客の応対で疲れている。早速その晩から私が付き添い、朝交代して昼間は弟の妻が付き添うシフトを組んだ。その夜から私と弟の地獄の苦闘が始まる事になったのである。

 見舞客が帰り夜も更けて来ると、患者は不安が増します。本人は江戸時代のさらし首の感覚で、首から下は感覚は無いが何しろ苦痛は耐え難い。「兄貴俺の胸の上に象が載っている退けてくれ!」「太いロープで胸が締められている!」と、病院中に聞こえる大きな悲鳴を上げる。看護婦さんを呼んでも1度はモルヒネを打ちに来るが、その後はブザーを押そうが看護室へ行こうが、医師も看護婦も全く無視で来てはくれない。胸を開けて深呼吸をさせると、ほんの一瞬落ち着くだけです。四六時中どこか身体に触り揉んでいないと大声で叫ぶ。私も疲労と眠気でウトリとして一瞬でも手を離すと、大きな悲鳴で一晩中一睡も出来ません。2晩目の夜だったか、弟が余りの苦しさに、「兄貴!そこに果物ナイフがあるから首を刺して殺してくれ!楽にさせてくれ!頼む」と、もがき苦しんで喚くのに、医師と看護婦を呼んでも来てくれません。弟と2人、深夜の密室で、私は弟の首に手を掛け、寝間着の襟を掴んで持ち上げ、大きく深呼吸を4〜5回させました。そうすると5〜10分間は落ち着くのでした。そんなことを繰り返し、真夜中の病室で兄弟2人の壮絶な格闘が続きました。

 私も入院の経験は何回もありますが、病人も付き添いも、窓の外が白み掛ける迄、深夜の時間は心細く不安がつのり魔の時間、正に地獄の沙汰と言える苦闘が続きました。朝交代して家へ帰りウトウトすると、電話で起こされてたりで眠れず、私も3日3晩一睡も出来ず、心労と疲労からついに4日目の夕方ダウン、同じ病院へ入院する羽目になってしまいました。救急車で運ばれた時の血圧測定で、230だったそうです。





私の人生劇場(23)〔弟と地獄のつきあい〕(2)


 弟と深夜の地獄絵図は、第三者には即座に理解してもらう事は不可能です。いくらお金を積んで付添婦さんを頼んでも、一夜で逃げ出してしまうであろう、深夜の凄惨な情景が続きました。医師にも看護婦さんにも見放され、個室での深夜の修羅場は、現在の私の筆力では、短文でこれ以上の表現は無理であり、歯がゆさを禁じ得ません。身内であり兄弟だからこそ耐え抜いた、生き地獄を体験した思いです。重篤であっても、意識が無く苦しまなければ未だ楽で救われていたかも知れません。

 私も昼夜2日間一眠も出来ず、弟と共倒れになる危険を感じ、SOSを発しました。それには前例が有りました。父が軽い脳溢血で倒れた時、たいした看病もなく老夫婦だから良かろうと、夜も簡易ベットを借り病室で母を付き添わせ、一ヶ月後に今度は付き添っていた母が脳梗塞で倒れてしまいました。同じ失敗を2度繰り返してはならない。教訓から学ばねばと、秋田に年金生活の義理の姉が居り、身近で時間的余裕がある唯一の存在であることを考え、その義姉にSOSを発し依頼しました。快く引き受けてくれ、4日目に秋田から飛行機で大阪空港へ着くのを迎えに行きました。私は疲れ切っているのに電車に揺られて眠ろうとしても、うとりとも出来ず、自分の異常な状態を自覚せざるを得ませんでした。義姉を迎えた4日目の夕ついに私もダウン、脈は機関銃のようで心臓が爆発するのではと思われる状態で、救急車で運ばれ、同じ病院の内科に入院しその晩は点滴を打たれ4日振りにグッスリ眠りました。翌日は心配して群馬から兄・姉・弟が駆けつけました。私は、3日間で退院しましたが、その後も男の私が夜の付き添い、昼は義姉と弟の妻が交代で付き添うローテーションは変わりませんでした。

 そんな時、一度だけ隣の病室の奥さんが顔を見せた事があります。弟は20代後半、隣室のご主人は40代半ばでしたが、同時期に同じ頸髄損傷で入院していましたが、隣は静かで悲鳴一つ聞こえません。その奥さんがしみじみと「お宅は好いですね、苦しむと言う事は回復の可能性があるのですから、うちの主人はダメです、苦しまないし反応が無いのですから」。受け止め方によっては、弟の院内に響き渡る悲鳴が、迷惑との苦情や皮肉にも受け取れました。

 同病相憐れむで「お互いに希望を捨てないで頑張りましょう」と答えておきました。 弟は以後リハビリセンターで訓練し、歩行可能なまで機能回復する事が出来ました。後日の話で隣室のご主人は寝たきりの植物状態になってしまったようです。様子を伺い方々、付き添う私が大変と励ましに来てくれたのかも知れません。有り難い事でした。





私の人生劇場(24)〔弟と地獄のつきあい〕(3)


私は退院後も、夜一睡も出来ない付き添いを終え、午前中睡眠を採り午後から動き回らねばならない用件がありました。徳州会病院は今では全国規模の大病院ですが、岸和田病院は全国に進出する初期の段階で、建物は立派でも医師も看護婦も不足、患者サービスはお粗末で最低でした。担当医はアメリカ帰りの若い整形外科医で副院長、群馬からが出てきて兄弟姉揃って朝に弟の病状と今後の状況や治療など説明を求め、途中何回か催促してもその都度「オペ中」で、顔を見せたのはやっと午後4時頃。説明を求めても言葉を一言も発せず帰ってしまう態度に、こんな病院に大事な弟の医療を任せられるか不安を覚えました。兄達は群馬へ帰るギリギリの時間まで待ちくたびれ、一言の説明も得られず病院を後に帰途につきました。

  もう一つの心配は、個室の差額ベット代一日5000円です。この事故は労災でも交通事故でもなく、自転車で休耕田へ自爆したもので、医療費や他の一切の保障は何処からも出所は無く自己責任です。回復して働ける可能性はなく、長期入院は明白で、経済的に行き詰まる事は必然です。これも私が何とかしてやらなければと、大阪という知らない土地で必死に転院先を探しました。

私の取り組んできた社会運動の経験が役立ち、民主的医療機関で堺市に在る病院に辿り着きました。徳州会病院の転院許可条件は、寝台車の利用・専門医の同乗が必要との注文をつけてきました。私は、時々襲われる心臓の発作を薬で抑えながら、堺市の病院へ出向き交渉しました。受け入れ先の病院と医師は親切で誠実に対応してくれました。病院の寝台車を無料提供、医師も看護婦も同乗してくれ、個室差額ベット代も無料、世の中”捨てる神あれば拾う神あり”と感謝しました。

  それだけでは済みませんでした。病状も多少落ち着いて来た頃、弟の妻が「お義兄さん、主人はどうもサラ金を借りてるらしい」という話を持ちかけて来ました。聞くと3ヶ所ありました。病人に闘病以外の心配を掛けさせまいと、心臓発作の胸を押さえて電車に乗り、やっと店を探し当てると、ビルの片隅の暗く狭い一室、ドアを開けても人の姿はなく、声を掛けると奥からうさんくさいお兄さんが銜えタバコで「何しに来た?」と言わんばかりの態度で現れました。「弟の代わりに返済に来た」と言うと、ガラリと低姿勢に変わるのは3ヶ所とも同じでした。13万なにがし、当時の私の給料の1ヶ月分、これも妻が渡してくれた郵貯を引き出し処理しました。弟の妻は知らん顔、私も請求はしませんでした。堺市の病院へ転院させ、約半月間年休を使い一段落させて帰宅しました。残暑厳しい時期から、秋の深まりを感じる季節になって大阪を後にしました。





私の人生劇場(25)〔弟と地獄のつきあい〕(4)


 その後も堺市の病院へは毎月一度通いました。金曜日の退社後新横浜駅から新幹線に乗り、深夜に弟の岸和田の自宅へ着き、翌朝は堺の病院へ行って付き添い、夕方弟宅へ。翌日曜日は帰りの支度をして病院へ、夕方まで付き添い新幹線に乗り帰宅。大阪大学医学部出身の主治医と会い、阪大で頸髄手術の有無等を相談し、あらゆる可能性を追求しました。当時の医学水準では頸髄神経の手術は無理、脳を開いた手術の方が余程進んでいるとのことでした。翌月行く時には、手も腕も動かせず看護婦(師)さんを呼ぶブザーが押せないので、親指に輪を掛けて肩を少し動かせばナース室に繋がるセンサーを私が自分で工夫して作成し、取り付けて来ました。最初の夜は、寝ている内に外れてしまい、失敗だったようですが。

付き添いで気を使うのは、蓐瘡防止の為に常に体位を変えるのと、足首を90度に曲げておく、これは将来リハビリで歩けるか否かの決め手になります。何ヶ月目にか朝行くと病室は空、リハビリを始めたというので覗いてみました。幼稚園児が遊ぶような、木の穴に紐を通す手指の訓練でしたが、手が麻痺していますから中々通せません。弟は一生懸命ですから後から覗いている私に気が付きません。そんな姿を見るに忍びず、思わず涙が込みあげてその場に居たたまれず、そっとたち去りました。その後は医師の許可を得て、車椅子に乗せ院外の散歩に連れ出しました。大変ではあるが習慣化した平凡な日々が流れましたが、事故からピッタリ1年目、或る程度予測していた事態が起きました。

 妻から会社へ「S子さん(弟の妻の名)から電話が来て、離婚をしたい、家は既に売却し処分したそうです」。それから又毎週大阪へ通う事になりました。病院のカウンセリング室を借り、何回も話し合い慰留しましたが、最後にS子が吐いた、文書にも書けず聞くに堪えない言葉、それは肉体的な苦痛とは質の違った地獄絵図です。弟に再び地獄の苦しみを味あわせまいと決意し、事務手続きは大阪の弁護士事務所へ行き依頼し処理しました。男女2人の子供は、本人の意思を尊重して確認し「お父さんと一緒に行きたい」という小1の男児を引き取り、田舎の兄夫婦に託しました。その後も毎月大阪へ通いましたが、家を処分され、以後は夜行寝台「銀河」を利用し、横浜駅を深夜出発し朝大阪駅着、堺市の耳原病院へ直行し、夜はビジネスホテルへ泊まり、翌日病院へ行くというパターンに変わりました。

 その間も色々な用事がありました。後遺症の固定は1年半経過後、「障害1級」が認定されましたが病院にはそれ以上は居られません。ケースワーカーのお骨折りで、群馬の実家から車で約1時間、伊勢崎市に在るリハビリセンターを探し紹介して頂きました。退院と群馬への移動はワゴン車で、最後に兄弟三人で身の回りの荷物と本人を迎えに行き、お世話になった関係者や近所へのご挨拶、20ヶ月通った大阪行きに終止符を打ちました。





私の人生劇場(26)〔甲子園ボーイからプロボクサーへ〕


 人生悪い事ばかりは続きません。トンネルの向こうに小さな明かりが見えてきました。3年ほど伊勢崎の施設でリハビリ訓練した弟は、松葉杖を使えば、おぼつかない足取りではあるが、室内では自力で歩けるまでに回復しました。私と2人病室で深夜の地獄の格闘は、ある程度報われた事になります。施設を出て実家に近い市営住宅の一階に入居、兄夫婦に預けておいた甥もすぐに同居し、父子水入らずの生活が始まりました。甥はスポーツ万能と逞しく成長し、高崎商業高校へ進学し、野球部で活躍する事となりました。3年生の夏、群馬大会予選で優勝し、晴の甲子園出場を果たしました。私も良いチャンスに恵まれたと喜び、東京にいる甥を乗せ、前夜東名を飛ばし甲子園へ向かいました。試合は初戦に強豪沖縄水産と当たり、前日からチーム全体が食中毒事件で下痢と高熱を出し、点滴を打ちながら炎天下での試合とあって、残念ながら9−1の敗戦でした。唯一貴重な得点は甥が出塁し、生還してホームベースを踏んだ1点だけでした。

 甥は甲子園が終わるとすぐ、ボクシングジムへ通い出し、卒業と同時にライセンスをとり、プロボクサーへと転向、階級はフェザー級(57.15kg以下)でした。新人王戦が始まり、初戦は宇都宮で、家族で応援に行く予定でしたが法事と重なり誰も行けませんでした。野球選手から、いきなり10kgの無理な減量で唇は紫色、ふらふらの状態でリングに上がりましたが、幸い1R左フックでKO勝ち、幸先よい一勝を挙げました。2回戦目からは後楽園ホール、甲子園ボーイという経歴で新人でありながら人気は抜群、私も激励賞を包んで奥の選手控室へ行って励まし、毎回通う事になります。勝ち抜きのトーナメント戦、2回戦は判定勝ち、3・4回戦は左フック一発でKO勝ち、人気だけでなく戦績も4戦4勝(3KO)とハードパンチャーとして快進撃、5回戦目は引き分けでしたがト−ナメントなので優勢で勝進みました。6回戦目は準決勝ですが、強打者同士の組み合わせとなり事実上の決勝戦、1R甥の左フックがヒットし倒したが、2Rは逆にボデーにカウンターを食らってダウン、これで振り出しに戻り互角、3・4Rと激しい打ち合いで五分五分の好試合でした。しかし、3Rにスリップでマットにグローブが付いたのがたたり惜しくも判定負け、新人王戦は準決勝で終わりました。

 夢中で戦ってきた四角いジャングル、ライセンスもCからB級へと上がり、10回戦目くらいになると多少の余裕ができてきます。その試合は甥のストレートが相手の顔面へクリーンヒット、顔が歪むのが良く見えたそうです。そのままラッシュを掛けたたみ込めば完全に相手を倒しKO勝の試合でした。ところが、それからは何故かパンチが出なくなってしまい、どうにか判定勝、S家の家系は性格が優しすぎ、相手を倒す格闘技には向いていないようです。高崎という地方弱小ジムの悲しさ、自分より強い練習相手も存在せず、精神的なケアをしてくれる優れたトレーナーも居ず、ランキング1位にはなったが、ついに日本チャンピオンにはなれずに終わりました。

 後楽園ホールで行われた試合は十数回、全て観戦に行きました。引退試合は数年前に初めて高崎で行われ、弟はホテルを準備してくれましたが、私は大事な集会と重なって行けず、残念ながら最後を見届ける事は出来ませんでした。甥の世界チャンピオンベルトを巻いた晴れ姿、目にすることは果たせませんでしたが、いつかはという期待を胸に、良い夢を見させてもらいました。





私の人生劇場(27)  〔きょうだい会〕


私は次男で姉が2人と弟2人の6人兄弟姉の中間です。兄弟姉が一同に会するのは、私が帰郷した時に皆が顔見せに集まりますが、その他は祝い事や法事の時くらいです。最初のきっかけは、私が交通事故の快気祝いに兄弟姉夫婦を招待し、高輪で一泊し東京を案内した事から、この先何年続くか知れないが、年に一度兄弟会をやろうと言う事になりました。翌年は地元伊香保で行い、連れ合いの存命な者は同伴で参加します。ホテルでカラオケを借りきって行うと、田舎で集まるより開放的な雰囲気になり、兄弟でも知らなかった意外な面が出て楽しい集いになりました。翌年は群馬と埼玉の県境に手頃な施設が出来たと言う事で、寒桜や日航機の落ちた上野村の記念碑等も見、坂本九さんの刻名も確認してきました。上野村には兄の長女が嫁いでおり、姪にも会う事が出来ました。泊まった施設は、村おこしの為に造られた、木の暖かみを活かした洒落た木造2階建の建物でした。

 私の兄弟は皆酒好きで強く、夕食後も部屋に集まって宴会が始まります。だんだん抜けて、大阪にいた弟と二人だけになった時、弟が私に問いかけてきました。「兄貴よ、一度聞いて確かめておきたかったんだけど・・・」「何の事だ?」「俺が事故で入院した時、サラ金を借りていたんだけど、入院していたんでどうなったのかな?」。あれから既に20年以上も経過しての事、私もすっかり忘れていましたし、兄弟にも本人にも、妻以外には話していませんでした。「あーあれか、あれは病人に心配をかけまいと、俺が返して処理しておいたよ」「そうか、S子も何も言わないし全然知らなかったよ。それは・・・」と言う事で話は終わりました。

 実は弟が伊勢崎のリハビリセンターへ入所している間も、岸和田市役所から、本籍を調べて税金の督促状などが群馬の本家へ送られてきていました。私が行った時に見せられ、早速大阪の役所や担当者へ電話し、弟は事故で「障害者一級」であり、現住所は群馬、既に大阪に住んでは居ないし無収入、関係ない「弱者から税金を取り立ていじめるのか」と、事情を話すと同時に抗議もしました。それ以来督促状は届かなくなりました。

 きょうだい会の方は、3回目は義兄の喜寿(77歳)のお祝いを兼ね、群馬の宝川温泉で行う計画で準備万端実行寸前でしたが、肝心な本人が前日の夜脳溢血で倒れ中止になってしまいました。数年おいた秋、次は私が幹事役、湯河原で行う計画でしたが、春に兄が脳梗塞で倒れ、これも実行出来なくなってしまいました。歳を重ねると、主に健康上の理由で思うように事は運ばなくなるのは世の常なのでしょう。





私の人生劇場(28) 〔九死に一生〕(1)


 1993(H5)年12月9日(水)、その日は前夜から雨が降っており、朝には止んでいましたが路面は濡れていました。いつものように7時少し前に車で家を出て出勤、市が尾の246号線の交差点を通過、田園都市線のガードをくぐりまっすぐ進むと川和町への道路ですが、道幅が狭く渋滞します。私は、ガードを潜ってすぐの信号を左折し、港北ニュータウンの中の広い道路を走り新横浜駅前へ出、左折して鶴見方向へ行くのが車での通勤コースでした。ガードをくぐり、左折して2つ目の信号を通過したところで、いきなり目の前に対向車が現れ、ほんの一瞬の事で何が起こったのか分かりません。避ける余裕はなく衝突してしまいました。スリップして、センターラインを越えてきた対向車に正面衝突されてしまったのです。朝7時頃の事でした。

 衝突までのほんの1秒かその何分の1かの瞬間ですが、3つの事が頭をよぎりました。1つは、「死ぬ」という事でした。2つ目は、シートベルトを装着しているので助かるかもしれない。3つ目は、対向車の前輪がツルツルにすり減っているのが鮮明に見えました。苦しいが自分の身体がどうなっているのか全く分かりません。判る事を恐れましたが、朦朧とした意識の中で、未だ生きている認識は得ました。シートを倒し楽にして寝ていると、右側のマンションの5階の窓が開き、こちらを覗いているのが見えました。119番連絡してくれるだろうと期待し、その内救急車が来るのを待つより他仕方ありませんでした。

 そんな中でも弟の事が頭に浮かび、頸髄を損傷していないか足の親指を動かしてみました。左も右も動くのが感覚で分かりました。手指も動くのを確認して安心しました。生命はとり止めても、一生寝たきりの廃人状態になったのでは堪りません。潰れた車内に閉じ込められ、身動き出来ず運を天に任せた状態の中で、可能で自分がなすべき最大限の事を考え、生きて一定の快復が得られる手応えを覚えました。

 長い時間が過ぎてやっとサイレン音が聞こえ、潰れた車の中から救出され、救急車に乗せられ病院へ運ばれました。これで一応生命だけは助かったと安堵しました。病院ではカバンの中から手帳を探してもらい、自宅と会社へ連絡してもらいました。妻も駆けつけ、高校生の息子も夕方面会に来ましたが、首は固定され顔は真っ青、ボサボサの髪の毛には細かく砕けて飛び散ったガラスの破片が混ざり、幽霊のようで「お父さんは死ぬのではないか」と印象を受けたそうです。満身創痍の重傷でしたが、運転席に座ったら必ずシートベルトをしてからエンジンをかける習慣が一命を救い、入院約2ヶ月、療養3ヶ月余、併せて5ヶ月あまりの闘病・療養生活を余儀なくされる事になりました。





私の人生劇場(29)〔九死に一生・再起を期して〕(2)


 病院での検査結果は、右脚は咄嗟にブレーキを強く踏み込み突っ張ったので無傷でしたが、エンジンルームが運転席まで飛び出し、左膝の皿が割れその上部も裂けて血がしたたるように流れていました。衝突のショックで頭を振られフロントガラスで頭部を打撲していました。シートベルトを締めていたので、生命は助かったが、胸を強く締め付けられたので、3ヶ月程は胸が苦しく今でも肺活量は3分の2に減少しています。満身創痍の状態でしたが、幸い致命傷は無く命拾いしました。腕にピリピリ痺れを感じましたが、医師は「頭部を打撲し頸髄を損傷している」(中心性頸髄損傷)と診断を下し首を固定され、一週間は上体を起こす事は出来ませんでした。

 患者は入院していれば医師の保護下で一番安心です。病院までの交通の便が悪く自転車で30分、頻繁に顔を見せてくれた息子も徐々に足が遠のき家族に疲労の色が感じられたので、2ヶ月程で退院しリハビリに通う事にしました。退院後、最初は張り切って、それまで行けなかった周辺の名所旧跡を毎日巡り散歩に励みましたが、頸髄を損傷しているので、頭と身体がうまく噛み合わず、焦りから精神にも異常を期たし、昭和医大藤が丘病院の精神科へ通院し安定剤を飲みながら、散歩やリハビリに励み、5ヶ月半で職場復帰をすることができました。

 しかし、それから4年間というもの、会社との往復で精一杯、職場の行事と親族の慶弔等の交際だけ、土日休日は午前中一杯寝ている濡れ落ち葉、妻にも心配や苦労をかけ、「いっきに5歳は老けた、自覚しなさい」と度々指摘されました。そんな折り、仲間の一部からも「Sは再起不能」という悪意に満ちた陰口も聞こえて来ました。私の中に「なにくそ!」という負けん気がムラムラと湧き上がってきました。何事にも消極的になり、「このままでは人間としても駄目になってしまう」と、自分自身に嫌悪感を抱き始めている時期でした。頭の回転は7割に落ち、体力も7割に減退。0.7×0.7=0.49と事故前の半人前の状態で生活している事は、誰より私自身が一番良く承知している事でした。

 そうだ、私には好きな山がある、もう一度山へ登って身体を鍛え直そう。体力に自信が付けば精神は後からでも着いてくる。再起を期し、丹沢登山を決意したのは事故から4年後、55歳の時でした。最初は高尾山から始めて陣馬山まで脚を伸ばし、次に大山と徐々に負荷を増し、丹沢へと歩を進めていきました。幸い住まいも丹沢へ便利な小田急沿線へ移っていたので、一年間は誰にも言わず、密かに毎週のように登り続けました。しかし、丹沢の登山道は丸太の階段が多く歩幅が合わず、段差の大きい所は膝の上の筋肉がピクピク痙攣し、力が入らず脚は上がりません。仕方なく膝の下へ両手を添えて持ち上げる。何回目かにどうにか脚だけで登れるようになるが、時々左後頭部が空洞になるような感覚になると身体に全く力が入らなくなり、仕方なく途中で引き返す。そんな事を繰り返し、ややもすれば負けそうになる自分の心と身体にムチ打ち、毎週一回少なくとも月一回は登り続け、ついに丹沢表尾根を縦走出来るまでになりました。自分に挑戦し克っていなかったら、現在の私は存在していかったでしょう。





私の人生劇場(30)〔男装の少女?〕


 親バカで息抜きに娘の話を挿入しますが、殆ど妻から聞かされた記憶の整理です。長女は、小学生の頃に先生から"宝塚"というニックネームを付けられていました。身長が高くスラッとして男っぽい服装が好き、髪も短くしボーイッシュ、良い意味での"番長"で、いつも数人の仲間に囲まれ、悪い"女番"グループより勢力が強く、いじめなどもやらせず、いつも校内を闊歩していたようです。ある時、顔にちょっとした傷が有るので尋ねて見ると、男の子がからかって来たので「蹴りを入れてやった」という程気が強く活発な子でした。

   放課後友達とふざけ合っていると、そばを通りかかった大人かしら、「女の子をいじめるな」と叱られたり、ボール遊びをしていて田んぼにボールなどが落ちると、通りかかった大人が「おまえ男の子だろう、ボールを取ってきてやれ」と、周囲からも男子と間違えられた事が何回も有ったようです。中学生になると更に身長も伸び、短パンなど履くと、脚が長く格好良く見えました。ある時戯れに脚の長さを比べて見ると、身長は私より低いのに娘の方が長いのです。中学生になっても、男装はエスカレートし、男物のジャンバーや野球帽を斜めに被る等、益々男っぽさを増しました。高速道路のサービスエリアで、女子トイレに入っていくと、周囲の人がジロジロ見るという、本人はそれを結構楽しんでいたようです。

 高校は自分から選んで工業へ進みましたが紅一点、先生に聞くと「男子生徒と別に違和感はない」という事でした。中学時代バレー部の部長(キャプテン)の経験で、高校の男子バレー部のマネージャーを務め、男子に混ざり選手としても練習試合に何回か出場もしたが、"出ると負け“で弱いチーム、イライラがつのり皆に強く慰留されたが1年で辞めてしまいました。バイトは禁じていましたが、1年生の時「夏休みだけ」ということで容認、一度許すとブレーキは効きません。以後もガソリンスタンドや大衆酒場の店員等のバイトをやっていたようです。友達のバイト探しは必ず付き添いで行くといった風でしたが、自分のバイト探しは一人で行き、断られた事は一度もなく、即採用され自信を得たようです。ドラムを習ったり色々手を出したようですが、バイトも趣味も、何事も半年位しか続きません。飽きっぽい性格なのかと心配になり、一度尋ねた事がありました。「半年もやれば後は学ぶ事はないから続けても無駄」と言うので、浅く広くのタイプと理解し私も納得しました。

 バイトで貯めた金で中古の自動二輪を買い、ボデイボード(サーフィンの短いもの)を背負い、黒いヘルメットでビラー号に乗り、カブトムシがバイクに乗った格好(妻の形容)で、夏休みは129号線を平塚海岸まで毎日のように通ったようです。忙しく外を飛び回っていた私は、残念ながらその姿を一度も見た事はありませんでしたが。このように行動的な子でしたから、「デスクワークはダメ、入社しても3日ともたない学校に迷惑を掛けたくない」と、学校推薦の就職を断り、自分の希望する畑違いの道を選び進んで行きました。





私の人生劇場(31)[長女とPTA役員〕


 私の家庭は、卒業式は妻で入学式は私が出席と分担しました。理由は簡単で、年度替わりの4月には年休が入り入学式は私が出席出来るからですが、学校へ目を向けさせる妻の知恵が働いてのこです。娘は活発で自主的、自ら工業高校を選択し進学しました。私は入学式に出席、機械科3クラス120人中女子は娘一人である事を知りました。入学式の難題はPTA役員を決める事です。席は「あいうえお」順に座り、「し」は中間、それまで引き受ける父母は一人もなく私の番になり、娘が心配で役員を引き受けました。1年目は本部会計、2年目は副会長、3年目は会長の任を受けざるを得ませんでした。

 会長識は、1年間平穏に済めば気楽なものですが、私の任期中は事件が起きました。県立では珍しくラグビーの名門校、花園での全国大会連続出場、2連覇という輝かしい実績がありました。正月の部活の集まりにOBが来て酒を飲ませ、後輩へのしごき事件が起き、私が会長になって間もなく発覚し、5月にはマスコミでも報道されました。ラグビー部員3桁に近い父母会の追及は激しく、学校側は惨めなものでした。校長は心臓を患い何時倒れるか後の席でハラハラでした。処理は県教育委員会やマスコミ対策で大変でした。その後ラグビー部は、県予選でベスト8に残るのがやっとになってしまいました。その後校長は心臓のバイパス手術で入院、教頭先生と協カしてPTAを運営しました。

 一段落した夏、また事件が起きました。神奈川県下の先生を中心とした登山隊で、その高校の先生が隊長のヒマラヤ遠征隊の遭難事件です。キヤンブ地の上部で丸ビル(現在は改築)大の氷河の固まりが崩れて落下し加速度を増して氷河を滑り落ち、もの凄い風圧でテントごと吹き飛ばされた遭難事故でした。直接巻き込まれたのではなく前例のない予測不可能な事故として、世論も自己責任を問うより不可抗力として扱われ、同情的な論評で教われました。私は、退社後まっすぐ学校へ寄り、正確な情報収集や県教委への対応に追われている先生方を励ましてから帰宅しました。

 暫く間をおき犠牲者5人の合同葬が、関係者多数を集め、鎌倉女子大学で行われました。私は同窓会が群馬の水上で行われた翌日に当り、早朝ホテルを出発、上越新幹線「上毛高原駅」から鎌倉まで、どうにか式に間に合う慌ただしい日程で参列しました。





私の人生劇場(32)〔長男と琴欧州〕


 娘の事は書きましたが、長男の事も一話くらい挿入しておかないと不公平なので、話の流れから、この機会に一話だけ記しておきます。息子は、私が交通事故に遭った当時高校2年生、入院中は放課後良く見舞いに来てくれました。バス・電車を利用すると交通の便が悪く、自転車で約30分程かかる道のりです。娘は3歳下ですから中学生、友達との遊びに夢中だったのでしょう、ちゃっかりしていて、給料日とか小遣いの貰える時だけ顔を出しました。頻繁に来ていた息子も、入院1ヶ月半頃からパッタリ顔をみせなくなりました。妻に聞くと、疲れたらしいという事でした。妻にも疲労の色が伺えます。家族の疲労という意外なところから入院生活にも限界があることを感じ、54日間で退院することになりました。退院した後息子に尋ねてみました。「お父さんだって、俺が入院した時、忙しいのによく来てくれたじゃないか」。そうか、息子なりにその時のお返しのつもりで、顔を出してくれた事が分かりました。

 長男が入院したというのは、私の事故から4年程前、中1の時の事になります。田園都市線青葉台駅まで自転車で15分程度、駅の周辺は早く開発された街で、中心から少し離れた国道246号線沿いにドイトというホームセンターが在り、息子はそこへ遊びがてら買い物に行ったようです。国道を横切る信号は少し坂道を上ってから渡り、帰りはまた手前側の歩道を戻る形になります。途中にガードレールと塀があり、その中間にマンホールが在りました。2枚のコンクリートの蓋が古く両側にずれ、中間が5p程空いて居り、自転車のタイヤがスッポリ入る間隔ですが、枯れ葉が詰まり隙間は見えません。下り坂で加速度がつき、自転車の前輪がスッポリ嵌ってしまったので堪りません。ハンドルとブレーキレバーの間に右手人差し指が挟まったまま、身体は宙に舞い一回転して前へ投げ出され、指に全体重が掛かったので、根本からポッキリ折れ皮一枚でどうにか繋がっていました。すぐ脇に店は有りますが、生憎体育の日で休業、前方の建築現場に人影が見え、そこへ行って助けを求めたようです。工事現場ですから布などはなく、お兄さん達が荒縄で手首を縛って止血しようとしていた所へ、裏の牛乳屋の奥さんが異変に気づき、タオルで止血し救急車を呼び、病院へ運ばれたそうです。

 その日は生憎、私と妻は出掛けていました。少し前に妻方で結婚式があり、帰りに寄って着替え、荷物になるので着物を実家へ預けてきました。5日後に私の甥の結婚式を控え、車でその式服を取りに行った留守中の事でした。病院から電話連絡が来ても、両親不在で小学生の娘も心細い思いをした事でしょう。帰宅後娘から話を聞き、すぐに入院先へ駆けつけました。つぐないの気持ちもあり、私も出来るだけ退社後病院へ見舞いに寄るようにしたが、息子はその時の事を良く覚えていたようです。

 現在、三十路を過ぎましたが、独身貴族を謳歌し、未だ孫の顔を見せてくれません。身長185p大関琴欧州と似た優しい顔立で、妻はすっかり琴欧州ファンです。






私の人生劇場(33)〔義母の姉妹会〕


 妻の母は4人姉妹の末っ子、上三人の姉は嫁ぎ、残った義母が婿養子をとり家を継ぐ事になりました。義父は妻が勤め始めて間もなく交通事故で早逝し、女手一つで3人の子供を育てたしっかり者です。伯母3人も健在でしたが、個性が強くぶつかりあい確執が絶えず、独り身になった最近やっと思いやりの心が生まれ雪解けを迎えました。妻から姉妹会をやってやりたいので、私に協力してくれという依頼がありました。義母が一番若くて80歳代前半、4人の平均年齢は90歳を超すので、何時何か起こるか分かりません。妻と二人で90歳過ぎた伯母3人を世話するには一定の不安があり、私も慎重にならざるを得ませんでした。他の姪・甥でこうした計画を発案する人は居ません。義母や伯母達は喜ぶのは当然ですが、周囲全体が必ずしも賛成している雰囲気とは受け取れず、善意からとはいえやっかみもでたり、まして旅先で何か有ったら非難の的にもなりかねません。

 一生に一度の事、思い立ったが吉日、やれる時にやっておかないと出来ないし、悔いを残す事になる。「これが最初で最後だよ」と念をおし、協力する事にしました。湯河原のホテルを予約、2泊3日の計画で実行しました。最終的には一番上の伯母が体調をくずして行けなくなりましたが、厚木から私の車で出発しました。若い人と違い年輩者向きの場所へと、ちょうど2月で梅祭りを催していた、湯河原の梅園へ行き見頃の梅を観、早目にホテルヘチェックインしのんびり過ごしました。翌日は万葉公園へ行き、独歩の湯という足湯で過ごしました。足裏のつぽをを刺激する何種類もの足湯かおり、浅い浴槽を歩いたり、腰を下ろしてお喋りしながら過ごすには最適な場所でした。年輩ゆえ無理は出来ないので、ゆっくりと昼食を済ませホテルヘ戻り、三姉妹の積もる話をする時間をとりのんびり過ごしました。3日目は小田原城へ寄り無事厚木へ帰宅することが出来ました。姉妹3人揃ってゆったりした旅は初めて、大変喜んだのは当然の事です。

 これが文字通り最初で最後の姉妹会になりました。翌年には一番上の伯母が認知症で施設に入所、現在103歳になります。2番目の伯母はその翌年癌で亡くなりましたが、旅行当日も浴衣を取り替える程寝汗をぐっしょりかき、病気はかなり進行していたようです。ギリギリの線で何事もなく姉妹会は、成功裡に終わりました。

あの機会を逸したら、伯母違の一生に一度の姉妹会は不可能だったでしょう。妻は、親・伯母孝行が出来たと喜んでいます。





私の人生劇場(34)〔義母の認知症と妻への協力〕


 姉妹会で湯河原へ行った頃は、義母も未だ健在でしたが、その後急速に認知症の症状が進行してきました。身体は至って健康なのですが、脳細胞の破壊と減少は現在の医学では止められないのでしょうか。妻は、義母の認知症が顕在化する前から、弟夫婦の負担を軽くするため、毎月一度家に呼び2泊3日で世話をするのが定例化していました。「有難いよ。近所では娘がいても呼んでもらえるのは私だけ」「キミちゃんはいいネ一と皆に羨ましがられるよ」。これが義母の口癖でした。1日目は横浜の板東橋にある大衆劇場「三吉演芸場」へ行き、芝居を見せて時間を費やす。妻なりの計算があったようです。調理師として老人ホームの食堂で働きながら、ヘルパーの資格を取り、認知症についての知識や対応も知っています。田舎芝居ですから泥臭く笑わせたり、お涙ちょうだいの泣かせる見せ場もあります。下町の玉三郎よろしく、若い男性の女形の踊りは、女性以上に色気があり魅力的だそうです。脳に刺激を与えて認知症の進行を防止する目的で、3年間毎月連続して33回義母を連れて通いました。

 義母は4姉妹の一番歳下なのに、姉達より早く認知症になり、症状も進行しています。この病気はやっかいで、完全にボケてしまえばよいのですが、マダラボケは困ります。他人には結構まともな事を言い、取りつくろいます。嫁さんの立湯が一番大変です。近所隣に気遣いし、施設に通わせたり入所させたりを遠慮しがちになります。そうした負担を少しでも軽くする為、月一度預かっていた訳ですがそれもついに限界。夜中に目を覚まし、隣に寝ている実の娘に「おまえは誰だ?」「此処はどこだ?」「私は捨てられた実家に帰りたい」等と言って泣き出す。起きていても5分と落ち着いていられず、目が離せない状態になってしまいました。

 妻は、実娘としてヘルパーの知識も活かし、嫁さんに代わって矢面に立ちながら、ケアマネと相談しながら先手・先手と手を打ち、デイケアやショートステイを活用させ、適切な措置を講じて来ました。義母も喜んで通ったり入所、役者気分で周囲に溶け込み、専門家がケアする施設が適しているようです。また、面白い発見もしました。嫁・姑・小姑の関係、義母は認知症になって嫁さんを一番頼り、姉さんは小姑の妻を頼って連日のように相談の電話が掛かって来ます。

 エツ!私が何をやったかですか?「出来る時に、悔いの残らないようにやっておけばいいんじやないの」と、妻が一生懸命やる事を理解して見ているだけです。それが最大の協力と心得ていますが、如何でしょうか。





私の人生劇場(35)〔父の死と兄の脳内出血〕


 父は長命で5月に米寿の祝いを行いましたが、その年の10月に亡くなりました。一度軽い脳溢血で倒れ、半身に軽い麻痺が残りましたが杖を突けば軽い散歩は一人で出来る迄に回復しました。ところが、良くある事で散歩中に転び、腰を打ってから寝込むようになってしまいました。これといった持病もなくベットの上で過ごしていました。

 夜遅く、父危篤の電話が来たので、すぐに支度して車で出掛けました。私の実家は、関越自動車道藤岡JCから10分程の所で、深夜ですと車で2時間弱で行けます。家へ着くと父は至って元気でした。一度呼吸不全に陥ったが、診療所の医師の往診を得て持ち直したとの事でした。その夜は寝み翌朝も父は食事をしたり、家族と話したり笑ったりして至って元気でした。この分では当分大丈夫と、帰り支度を始めようとした時異変が起こりました。父の部屋には2〜3人家族が居り笑い声もしていましたが、急に慌ただしくなり呼ばれて行くと、突然舌が喉に詰まって呼吸不全に陥りました。すぐに診療所の医師を呼びましたが中々来てくれません。素人の私達ではどうする事も出来ず、医師が着いた時には手遅れでした。それからは、葬儀の準備に取りかからざるをえませんでした。

 ところが、昼頃から兄の様子がそわそわと落ち着き無く、浮わついた調子になりました。気が付いたのは私だけのようでしたが、父が亡くなり、動揺しているものと軽く解釈して見ていました。その間も弔問客や葬儀屋さんとの打ち合わせで等で忙しく追われて居ました。訪問客も去り家族だけになり寝る頃になると兄は完全にダウンの状態でした。すぐに救急車を呼び総合病院へ入院させました。父が目の前で亡くなり、ショックで脳の細い血管が切れ、徐々に脳内に滲み出し、病院へ運ばれた時には、脳の中心部半分に出血し、助かるかどうかは半々と宣告されました。翌朝群馬大学から専門医が来、家族も呼び出され即手術となりました。幸いその日は「友引」で葬式は出来ず、一日の「空白」が出来ました。施主が倒れ、次男の私が代理を務めなければなりません。

 兄は手術後、集中治療室へ移りましたが付き添いが必要でした。家族と私達は葬儀の準備でとても手が回りません。外の甥や姪も見舞いに来ました。私はそこに目を付けました。この甥や姪達は、葬儀には余り関係なく、病院の付き添い役を頼みました。父の死と兄が倒れ脳の手術、こんなアクシデントは滅多に重なるものではありません。予期せぬ事態を切り抜けるのは大変な事でしたが、葬儀は無事済ます事ができました。朝兄の様子を見に行き、2人の甥が彼女を連れ、2組が交代で病院の夜の付き添い、ついホッとして財布の紐が緩み、「ご苦労さん、これで朝飯でも食べて帰ってくれ」と小遣いを渡して帰しました。幸い手術は成功し、暫くは耕耘機や車を運転するまでに快復しました。





トップへ(essay)


”和 平 ・ 現 代 篇”




私の人生劇場(36) [私の郷土〕(1)


「犬も歩けば棒に当たる」という、いろはカルクは皆さん良くご存じでしょうが、群馬県(上野の国=上州)では私が子供の頃、地方紙の上毛新聞社主催で、県内から募集した「上毛カルタ」が作製・普及しており、正月は上毛カルタ遊びが盛んでした。このカルタは、私の郷土である群馬県の代表的な事柄が詠まれており、県土を知ってもらうのに有効で、以下「上毛カルタ」を活用して紹介してみたいと思います。

    つ、 鶴舞う形の群馬県   ら、 雷と空っ風義理人情
地図かテレビで天気予報を見て頂けると分かりますが、県の形が鶴が羽根を広げて舞っている姿に似ています。関東平野の北西部に位置し、海には接していず、赤城・榛名・妙義・浅間山、そして秩父等に三方を囲まれ、内陸的な気候で夏は日中暑く、夕方になると毎日のように雷雨があり、一日に3回見舞われた事も記億しています。私は、聞越・上信越自動車道、藤岡JCから車で10分の所で生まれ育ちました。

    あ、 浅間のいたずら鬼の押し出し
殆どの皆さんが一度は行った事のある観光地ですが、天明3(1783)年の大噴火、溶岩流に村ごとのみ込まれて多数の犠牲者を出しました。その溶岩が固まり、奇岩の造形芸術の名所として知られています。群馬には火山で形成された山が多く、有名な温泉が沢山有ります。

    い、 伊香保温泉日本の名湯   く、 草津よいとこ薬の出湯
     よ、 世のちり洗う四万温泉     み、 水上谷川スキーと登山
カルタには3つ詠まれて居ますが、水上等、大小99の温泉(東京新聞)が豊富に湧き、癒しと観光資源です。2年に1度の同窓会は殆ど県内の温泉地で行われます。

    か、 かかあ天下に空っ風   ら、(略)
群馬と言えば「かかあ天下」、女性の強い事で知られていますが、経済力というれっきとした背景が有ります。養蚕県であり、生糸と織物が盛んでした。

     き、 桐生は日本の機(はた)どころ   け、 県都前橋生糸の市(まち)
    に、 日本で最初の富岡製糸      ま、 繭と生糸は日本一
め、銘仙織出(おりだ)す伊勢崎市
"おかいこ様"は神経質で、女性中心の仕事、男性は補助的な役割です。繭は絹織物の生糸の原料、農家の現金収入の大きな部分を占め、働き者の群馬の女性が強かったのも当然です。富岡製糸工場跡は現在、世界遺産に申請し登録されるよう、運動が盛んです。谷川岳等を境に新潟や裏目本に雪を降らせた空っ風は、身を切るような冷たさで吹きすさびます。義理と人情に強い土地柄、人情に厚いが義理は欠かせない。新生活運動で略式化されたとは言え、義理堅い気風は依然と変わりません。そんな風土に生まれ育った影響を、私も強く受継いでいるようです。





私の人生劇場(37) [私の郷土〕(2)


上州は、自然に恵まれた豊かな地理的条件が、温かい人柄を育んでいます。板東太郎と言われる利根川水系は、ダムが多く造られ、都会の水瓶としての大きな役割を果たしています。クリーンエネルギーである、水力発電で 国民の生活を豊かにしてきました。

   せ、 仙境尾瀬沼花の原   た、 滝は吹き割り片品渓谷
   と、 利根は阪東一の川   み、 水上谷川スキーと登山
    や、 耶馬渓しのぐ吾妻峡  り、 理想の電化に電源群馬
平野部では雪は降りませんが、県境の山に積もった雪が水源となり、深い谷を刻み吾妻峡の渓谷美を造形し、目本のナイアガラと言われる吹き割りの滝を刻んでいます。尾瀬沼は若い人だけでなく、今や中高年を含めて人気のスポットです。魔の山谷川岳は、東京から近い本格的な岩登りのメッカ、隣の天神平はスキーで有名です。水源が豊富ですから、ダムで堰止めた人造湖が沢山在り東京の水瓶として、都民の生活を守っています。自然を活用したクリーンな水力発電で電気を供給しています。殆どの川が集まり板東太郎の利根川となり、関東平野の田畑を潤しています。

   ね、 ネギとこんにやく下仁田名産
気候や風土に恵まれ、関東平野の一部ですから、殆どの野菜・果物は生産出来ます。 養蚕が盛んであった為と何でも収穫出来る事から、これと言った特産品は無いようです。梨畑は沢山有り生産されていましたが、現在では青森・長野の特産であったりんごも、品種改良され生産されています。私の実家のすぐ裏に軽井沢へ抜ける国道254号線が通っていますが、20〜30分ほどで富岡・下仁田へ通じています。下仁田はこんにやくとネギが特産ですが、下仁田ネギは大く白い部分は短く、日光に当たった青い葉の部分が肉厚で柔らかく、栄養価が高くて甘味があり好んで食されます。

   れ、 歴史に名高い新田養貞    わ、 和算の大家関孝和
   ほ、 誇る文豪田山花袋        こ、 心の灯台内村鑑三
          ぬ、 沼田城下の塩原大助       へ、 平和の使徒(つかい)新島襄
  て、 天下の義人茂左衛門      ろ、 老農船津傳次平
鎌倉時代から江戸時代まで関東は管領で、幕府の直轄地でした。鎌倉末期、新田義貞は鎌倉幕府を滅ぼしましたが、足利尊氏に破れました。足利は栃木で新田郡とは県境を挟んで隣合わせていますが、お互い源氏の親戚筋ですが、政争に巻き込まれ争わなければならない時期もありました。新島襄はクリスチャンですが同志社大学の創始者、内村鑑三も無教会派のキリスト教伝道者で、日露戦争に非戦論を唱えた反骨の人です。関孝和は江戸前期の数学者。傳次平は農業技術を全国的に指導した「農業巡回教師j。塩原大助は愛馬"青"と別れ、江戸後期豪商として成功、上州人は短気でロベた、余り商売には向かないようです。幕府に直訴して傑になった茂左衛門、反骨の人でした。田山花袋は、自然主義文学の代表作家の一人。群馬からは余り有名な人物は輩出されていないようです。





 私の人生劇場(38)〔漱石.「草枕」〕


 夏目漱石はヒューマニストとして私の好きな作家で、作品の殆どは若い時に読んだつもりです。特に好きなのは、彼が作品を書き出し有名になると、母校の東大から博士号を授与したいとの働きかけを拒否した事です。今昔を問わず博士号の名誉は、実力は無いが金でも買いたい連中がうようよです。漱石が博士号をホイホイと受け取っていたら、東大という組織の傘下に組み込まれて権威を失墜し、几人になってしまっていたでしょう。博士号を拒絶したことで株は上がり人気にも連動したと考えます。彼にそうした計算があったかは別として、漱石には博士等という称号など必要なく、創作した作品で十分に国民的な評価を受けていたから、博士号など無用の長物であったのであろうと想像します。

 漱石の「草枕」という作品の書き出しは、「山道を登りながら、こう考えた。知に働けば角が立つ。情に棹差せば流される。意地を通せば窮屈だ。 とかくに人の世は住みにくい。」というものです。 この文章を読むと、自分の気持ちとピッタリ通ずるようで、妙な気持ちになります。当の漱石はもっと強烈な思いがあったればこそ、作品の冒頭に書いたのでしょう。

 ”知に働けば角が立つ” 私は知識があるという意味ではなく、少なくとも常識的な事は弁えている。社会科学を勉強したので、國の仕組みは知っているつもりです。一般的にも、なんでこんな初歩的な常識が分からないのかと腹が立つし、企業は、利潤を上げる事が目的ですが、その最大で基本的な方法は、労働者を搾取する事です。國の政治も、国民を収奪し大企業や金持ちを優遇し儲けさせる。政治家や官僚が汚職をし失政しても田舎芝居を打たれ目先を変えれば誤魔化され、又投票してしまう。何で解らないのかと、角の立つ事ばかりです。

 ”情に棹射せば流される” 情に脆い私は、ついほだされて舟に乗り込み棹を射していつも流されてしまいます。  ”意地を通せば窮屈だ” 見過ごしてしまえば通り過ぎてしまうのに、つい首を突っ込む。ある時点で妥協すれば気楽なのに、頭に馬鹿の着く真面目さで最後まで信念を貫き通す意地っ張り。自分でも呆れる融通の利かない窮屈な人間と自覚しながら歳とっても角は取れず、多少は政治的な判断で、矛先を収めるようにはなったが。肩書きも名誉もなく野にあって、実力で懸命に生きている人間に魅力と尊敬の念を感ずるものです。





私の人生劇場(39)〔年賀状と人間関係〕


 数年前新聞のコラムで、或る一流大企業の会長、それも財界の重要な役職等も歴任し引退した人の記事が載っていました。それにしても、偉い立場の人の悟りは、肩書きが邪魔をし、私達凡人より却って愚かで遅いものと「感心」し、それが非常に印象深く記憶に残っています。

 その人は、一流大企業の社長を務めた後会長となり、幾つかの関連下請け企業の社長や役員を形だけ兼務して高収入を得ていました。年賀状は毎年500〜600通届いていたといいます。 偉い肩書きの賀状の名前だけパラパラと見て満足し、後は奥さんに数えさせたり、お年玉くじの当たり番号なども全く感心を示さずにきたそうです。ただ彼は、自分は偉いんだと思い込み、自分個人に対する信用の証として、沢山の年賀状が届いていると、硬く信じてきたようです。長年月経てきた生活習慣、それが当然というマンネリも、彼が誤解を生む大きな要因になったのでしょう。年齢もあり後進に道を譲り、第二の人生をと引退しました。

 引退し退社後初めての正月を迎え、今年も例年通り年賀状が届くものと期待し待ち受けたそうです。新年を迎え、現役時代とは違い時間的余裕もでき、初めて郵便受けへ自分で取りに行くと、なんと何枚も来ていません。それでも今年は出足が遅いのであろうと多寡をくくり三ヶ日中には、松の内にはまとめて届くであろうと待つが、パラパラと何枚か届くだけで、結局その年は100枚足らずしか来なかったそうです。こんな筈はない、配達間違いではないかと、疑ってもみました。しかし、そこで彼はハッと気が付きました。今までペコペコおべっかを使ったり、年賀状をよこしたのは、大企業の社長や会長という肩書きに対するもので、たまたまその立場に在った自分自身への信頼ではなく、単なる偶像にすぎなかった己を、70歳を過ぎて遅ればせながら悟りました。そして100枚に満たない年賀状を、丁寧に一枚ずつ読み返し昔を想い出しました。賀状をくれたのは、以前自分が面倒を見た部下であるとか、困り果てた小さな下請けの社長に仕事上の便宜を図ったり、人間的な関わりを持った人達だけで、顔やその時の情景までが浮かんで来たそうです。

 私は、何の肩書きも持たず、野にあってドブ板の上を歩き、時には人助けもして来た人生ですが、彼の会長さんより多く、毎年130通くらいの年賀状を頂きます。一緒に汗と涙を流したり、苦しい時力を合わせて共に闘って来た仲間からのものです。お偉いさんも一人の人間に返れば、ただの凡人と変わらない事を70歳過ぎて悟れた彼は幸いでした。年賀状は、儀礼的な面もありますが、一年の安否の確認や一枚の紙片に貴重な情愛と情報や歴史が込められて居る事を知らされました。最近は更に、震災に遭われたり、いじめ自殺で不本意にもお子さんを亡くされた方等、「おめでとう」と言い難い、新年を心から喜べない人達の存在も知りました。こうした人達にも温かい春が訪れる事を願ってやみません。





私の人生劇場(40)〔ひょんな悟り〕


 ある年の瀬、面白い考えがヒョッコリと浮かんだ。無意識の時に頭をよぎった考えなので珍しい偶然である。 私は、年金生活の延長でサンデー毎日、以前は定年になったら少しはゆっくりしたいと思うことが時々あった。今は現役の時よりも忙しく、連日のようにボランティアで出歩き飛び回る情況が続いている。ところが、争議がなくなって、会議や支援・所用で出掛ける用事が少なくなり、時間に余裕ができるようになったのである。年末年始という時期的な条件も重なったのであろうが、珍しくこのところ暇で、特別さしせまって遣らなければならない予定も無く、今迄になく空白の時間が数日続いていた。

  朝遅く起きて散歩し、新聞を隅から隅まで読んでも時間が余り、他の雑誌にも目を向ける。山へは年齢的・体力的な限界があり毎日は行けないし、その必要もない。テレビは観ないので時間が余る。今迄にこのような時間を持て余す余裕はなかった。会議や支援で出かければ、附随してレポートを纏たり、それとなく次の行動や集会に備えての演説の構想も考え準備しておかなければならなかった。その時に指名されるか否かは別として、外へ出るときには常に、一定の準備は心掛けておく習慣がついている。

  遣る事が無いわけではない。「遣る事がない時に、何をやって実績をつくり存在感を示し残すか?」そんな課題が、ひょこっと頭に浮かんだのである。いつも問題意識を持ちながらも、忙しく動いて生きている人間に、天が与えてくれた一つの悟りで有り、空白の時間を敢えて与えてくれたのではなかろうかとフッと察っした。考えて見れば、遣らなければならない事は山ほど有る。争議の事や政党の不条理な遣り方等を、小説や文書にして残しておく。私に課せられた課題は、まだまだ沢山あると考えている。

  私の任務は、忙しく外を飛び回って居ればよいだけではない。持て余すような時間が出来たら、物を書いて残しておく時間としてつかう。その為に与えられた時間であると。悟りとは、与えられた空白の時間に、知恵を絞って課題に取組む自覚を強く印象づけられた瞬間であったと言える。一言で言えば、私にはボケッとしている暇は、一時も無いと言うことである。

( ※「悟る」とは、1ランク上の、全く新しい考えや心境になる。或いは、常々考えてはいるが、ある時点でそれが強く深く認識され改める事も、悟りと言えるのではないでかろうか。「悟り」と言う言葉には、宗教的・哲学的な意味合いが有り、色んな水準と段階があり、人によっても個人差があろう。後日のテーマとして取り上げ、深く掘り下げ勉強する機会を持ちたい。)




私の人生劇場(41) 〔一線を画してつき合う〕


  人間、親しくなり過ぎると喧嘩をしたり、親族であれば遺産相続や利害関係で、他人同士よりも醜い骨肉の争いを演じる場合が多い。肉親であればこそ、法的に財産分与の権利や緊密であり、親しいからこそ他人よりも内部事情を知りすぎて摩擦が起きやすい。こんな事例は、財界人や有名人でも資産が多いほど裁判沙汰になったり、身近なところで見聞きする事例は沢山あります。

  兄弟や夫婦・親子では、同じ屋根の下で暮らし、同じ釜の飯を食べて生活してきた肉親ですから、他人よりも親しいのは当然です。しかし、親しいから何を言っても甘えても良いという事にはなりません。親しければこそ一線を引き、距離をおいて礼儀を守ることが求められます。それは子は親に、親は子供の人格を認め尊重する事は欠かせない要件であるからです。この一線を越えたり踏み違えたりすると、肉親の間でも感情的なもつれやいざこざの原因になります。私は今迄、妻や子供に対して「おまえ」と言ったり呼んだ事は一度もありません。夫婦・親子の間ですから、言ったとしても親しみがこもっていいのかも知れません。しかし、「おまえ」という言葉は、どうしても目下の人を見下して使う言葉遣いと思い、やはり避けてきました。

  これは私が、妻や子供の人格を認め、対等の立場に立って接してきたからです。「おまえ」という言葉遣いだけでなく、精神的にも相手の心の領分にも踏み込みませんし、私の内部にも立ち入らせません。これは、小さい子供には辛い事であったに違いありません。子供の人格を認め対等にという事ですが、一線を引いて距離を置くことですから、幼い子供にとっては理解し難く、「冷たい父」と映っていたであろうし、それも承知でしたから仕方ありません。実際、娘は今話せば理解し判ってくれますが、子供の頃は「近寄りがたい冷たい父親」という印象で、不満と反抗心を持っていたようです。

  長く人とつき合う秘訣、ことわざ辞典や多くの文献にも同じような諺が幾つも載っています。人間ですからいくら仲が良くても、気分の悪い時もあるし虫の居所が悪い事もあります。そんな時勘に触れるような事を言われればムカッときます。常に一線を引いて踏み込まず、踏み込ませずと微妙な距離と間隔をおいて付き合うことが、友達や親族であっても長続きするコツです。私は幸い、15歳の時寮生活をして、この奥義を会得しました。





私の人生劇場(42) 〔ハイセイコーと従兄弟〕


 田舎のことであるが私の隣家は、祖父の代に新宅に出て姓も同じの姻戚関係である。 農家で馬好きで、2頭分の馬小屋が有り常に1頭か2頭は飼って居た。私より年上の3兄弟は仲が良く、馬の運動をさせたり世話をしていました。子供の時、「S坊馬に乗せてやるから乗ってみな」と言われ、鞍も着けない裸馬に乗せられそうになり、初めての経験なので怖くてとても乗る気にはなれませんでした。今考えると、あの時乗っておけばよかったと悔やまれます。乗馬クラブや娯楽施設で乗馬しようものなら15分で5000円とか高い料金で、乗馬というのはお金のかかる高尚で贅沢な趣味というより道楽なのである。

 馬は他の動物に比べて腸が長い。餌も藁を切った飼い葉や干し草等乾燥した食物を好むので、水も桶に入れて飲ませるが消化に時間がかかる。その為に腸の働きを良くするため、毎日の乗馬の運動や農作業は欠かせないのである。腸の働きが悪くなると、腸内にガスが溜まり腸が糞詰まりをおこして命取りになるからである。そんな時は、天井からロープで吊って寝かせないようにし、獣医がお尻から手を入れて糞を掻き出すが、長い腸なので届く距離は限られてくる。私が子供の頃、隣の家で馬小屋に光々と灯をともし、夜を徹して看病していたが、何れも馬の病状が回復して元気になったという話は聞かなかった。

 馬のもう一つの注意点は、真後ろへ行かないことである。馬は両脚を挙げて真後ろへ蹴り上げる習性をもっている。私の家では牛を飼っていたが、牛は斜め後ろを片脚で蹴るのが習性で、その位置へは立たないことである。両方とも何百キロの体重なので、蹴られ所が悪ければ、大怪我をするか生命にかかわる危険さえある。また、馬によっては噛みつく癖のある個体もあり、実際隣の兄弟は油断をしていて後ろから肩を噛まれた事もあった。馬にすれば悪意でやったことではなく、親しみを込めてじゃれたつもりで、この位では命を落とすことはないが、何しろ図体が大きので油断は禁物である。 馬に負担を掛けない乗馬も知っておかなければならない。長い背中の中心は安定しているようであるが馬の背骨に負担をかけるので禁物であり、前足の直後で馬の肩の直後に人間の体重がかかる鞍の位置がよい。乗っている人間は、馬が歩くたびにローリングして甚だ乗り心地は悪いのであるが、競馬の騎手のように尻を上げて立ってしまえば馬の負担は軽くプロである。

 さて、馬好きの隣家は高崎競馬の厩舎で、馬主であり三男はその馬の調教師として、早朝から深夜まで働き忙しい生活を送っていた。長男は東京に居たが、馬の目利きで、生産者と馬主の間に入って仲介をする、俗に言う”ばくろう”でした。三冠馬として有名であったハイセイコーが死んだ時、スポーツ紙に優勝した時の馬と馬主と並んだ写真が報道された。その記事を読んだ目ざとい知人が、「このSさんとは苗字が同じですが、親戚ではないですか?」と聞かれ、新聞を見ると正しくその人であった。前に母から、そのような仕事に携わり、成功して羽振りが良いことを耳にし、記憶していたが、ハイセイコーの仲立ちをした事をその時初めて知った。従兄弟と言っても年齢は私より大分年上であり、正確には母の従姉弟に当たる人でした。





私の人生劇場(43)〔懐が深い〕


 私は農家の生まれですから、子供の頃から農業の手伝いをさせられ、力仕事もしてきたので、力も強く相撲が好きでした。休み時間や昼休みなど校庭に円を書いて組み合ったものです。頭の良い友人は相撲を知っていて、小さい体でも下から潜り込んで来られると力だけでは負ける事も有りました。私も長身の相手には下から潜り込んで双差しになり攻めますが、身長の差があり過ぎると上体を反らされ力が吸収されてしまい、中々勝てません。こうした相手を”懐が深い”と言い、相撲言葉から来ていると思います。

 もう引退しましたが大相撲では、貴ノ浪がその典型で、2m近い長身で身体も柔軟、反面脇が甘く、自分から引き込んで双差しになられるが、負けにくい力士でした。しかし、大勝して優勝することも少なく(幕内2回)、大関止まりで横綱にはなれませんでした。相撲では、懐が深いと反面脇が甘くなりますし、相撲自体も攻めより受け身という消極さが目立ちます。これを人間の社会に当て嵌めて考察してみようという試みです。

あの人は”懐が深い人”という表現があります。人間として心が広く、包容力があり人を包み込んでしまう、心が広く大きい人間とでも表現しましょうか、人間社会では、良い意味に使われます。相手が攻撃してきても柔軟に対応し、反撃せず包み込み丸めて飲み込んでしまう、相当な度量と自信が無ければ出来ない至難の業です。三蔵法師と孫悟空の話ではないが、孫悟空は結局三蔵法師の掌で舞っていたにすぎない事を知らされます。最近は、自分の腹を痛めた我が子を平気で殺したり虐待する事件が多発していますが、自分の経験や体験した以外の事を子供がやると、どう対処してよいか分からずパニックになり、逆切れしてしまう親の事例があります。若い時適度に遊んで何事も経験しておいた方が良いなどとも言われます。

 脇が甘いという言葉は、現社会では良い意味には使われません。典型的なのは議員の金の管理や女性関係でのずぼらさです。隙だらけで敵陣営やマスコミにたたかれ、集中砲火を浴びて失敗し、つまらぬところで失脚します。真綿のように相手をやんわり包みこんでしまう、そんな懐の深い実力を備えた人間、中国では”大人”(たいじん)というようですが、そんな懐の深い人間を目指して努力していきたいものです。





私の人生劇場(44)〔自然体で生きる〕


  私は物持ちがよく、18歳からの手帳を全部保存しています。50冊を越えますから、小さい段ボール1箱になります。日記を付けていた時期もありましたが、その事自体が過重な負担となり長続きせず、手帳が日記の代わりの記録となり、大概の事はメモしてあります。その手帳の見開きには、年頭の目標が箇条書きで記載され、新年にあたって一年間に正すべき事や強めること、或いは具体的に実施すべき事柄等、新年の抱負と目標が数項目記載されています。この項には必ず「喧嘩をしない」という目標がありました。”喧嘩”と言っても、暴力のケンカではなく、口論若しくは怒りをもって大声で怒鳴り合いをするといった意味の喧嘩です。この目標はいつも項目のトップで、十数年間続きましたが、目標が達成されたためしは無く、短いときは一週間も経ないで頓挫する年もありました。

 私には”精神的に出来た人間”になりたいという願望というか目標がありました。その人間像は、怒りを抑えて忍耐強く我慢をし、ガンジーのように無抵抗主義で、自分を厳しく抑制し他人に対しては寛大な精神の持ち主で慈悲深く、所謂聖人君子のような人間像を脳裏に描いていました。そのような生き方の出来る人が理想的な人間と考え、自分がそれ程偉大な人間になれる事は無いと知りつつ、少しでも理想に近づく努力を惜しまず追求していたということです。従って、正月早々頓挫すると今年もダメ実現出来なかったかと、強い挫折感を覚えたものでした。

  しかし、この世の中、腹の立つことばかりです。政治家は立場を使って悪いことや誤魔化しをする。金持ちは金の力を使って、悪いことをして更に金儲けをする。高級官僚はその地位を悪用してただでゴルフ三昧、渡りで税金を食い物にして裕福に暮らしている。身の回りには抑えようのない怒りの材料が一杯です。こうした世の中の仕組みに気が付かず、悪い政治家や政党に追従する。こんな簡単なカラクリが解らないのかと、又周囲が腹立しく、とても聖人君子面していられる環境ではありません。

  以前にも触れましたが、般若心経で釈迦の教えを少し勉強してみました。この世の中欲も必要、欲がなければ進歩もない。正義を主張するのも必要であるが、悪に対して怒りを持つ事が大きなエネルギーとなり、怒ることも必要である。人間であるから、喜怒哀楽があり、それを無理に抑える事は摂理に反して不自然であり、ストレスの原因にもなります。楽しいときは笑い、悲しい事は心から悲しみ、正しい事は例え相手が誰であろうと意見を主張する。悪に対しては怒りも必要、己の誠を見つめ迷わず従う、つまり、自分の気持ちに素直になり、心の思うまま自然体で何者も恐れず生きていく心境に達しました。翌年から気が楽になり、新年にあたっての目標から「喧嘩しない」の項目はなくなりました。これも一つの悟りと言えましょう





私の人生劇場(45)〔山ガールスタイルが街で流行?〕


 私は月3回は丹沢へ登っているが、中高年の登山ブームから、最近は登山者の年齢層が若返ってきている。”山ガール”と言われ、若い女性がタイツにミニスカートといった、いままで想像もつかなかったファッションで山に登っている。しかも、けっこう単独登山者が多く見受けられる。勿論、若い女性が登山をすれば当然若い男性も山へ目が向くので、山はいまや、中高年から若い世代へと登山者の層が代わってきている。

 私が街を歩いたり電車に乗ると、この山ガールスタイルが、若い女性の街着のファッションへと移行しているように見受けられるのである。最近目に付くのは、冬でもミニスカートと黒いストッキング(タイツ)姿の若い女性が多く見かけられるのである。子供を連れた若い主婦までもが、薄い黒いタイツスタイルで乳母車を押している。昔では考えられない事であるが、これも時代の趨勢であろうか。

 こうしたファッションが流行すると言うのは、若い女性の体型の進歩が大いに影響しているであろう事は確かである。今の女性は身長も高くなり、畳から洋式の椅子生活への変化もあり、脚が細くて長く脚線美の女性が増えて多く見受けられるようになったからである。ストッキング姿だけでなく、細いGパンを履いても脚の細さと長さはアッピールできる女性が増えてきている。いくらファッション界や衣料品メーカーが流行させようとしても、顧客の実態に合わない発想では世間に受け入れられず普及しないし、流行する条件はない。

 その点、日本の女性が脚線美を自信ありげにアッピールする体型の人が増えてきたということが実証できるのではないかと思える。ただ、先日電車に乗って、脚が長くスマートな脚線美の女性が向かいの座席に座り、疲れていたのかだらしなく大きな口を開けて眠っている姿は、どう見てもいただけない格好ではあったが。もう一つの特徴はエスキモー型の靴を履く女性が目立つ。冬の流行なのであろうが、見た目は少しダサい感じを受けるが、これを見栄えよく履きこなすのはそれなりのセンスと体型が要求されるが、冬は暖かそうで実用的な面では申し分ないファッションであると言える。





私の人生劇場(46)〔マスコミ報道と国籍問題〕


 今年は山中教授が受賞したが、数年前、日本人のノーベル賞受賞者が数人出たことがありました。物理学賞を受賞した南部陽一郎氏は、確かに日本人ですが、1970年に米国籍を取得し帰化しています。そこで私は、日本人としてカウントして良いものか疑問を持ちました。文部科学省は「国名は受賞時の国籍でカウントし、南部氏については米国に計上する」との正式見解を発表しました。マスコミの報道を鵜呑みにするのではなく、自分の正しい見解を持つ事の重要さを改めて確認しました。これだけでは評論ですので、身近で易しい国籍問題2例を示して人生劇場の体裁を整えます。

 私の姪が一人、英国留学で知り合いイギリス人と結婚し、英国籍でロンドンに住んで居ます。姉弟二人でしたが、事情で子供の頃から別れ別れに育ちました。甥も結婚し、二卵性双生児で男女の双子ちゃんがいます。姉家族が仕事を兼ねて数年前に来日、箱根のホテルに泊まり、2家族で十数年振りに初めて会い懇親を深めたそうです。同年代の子供が2人ずつ、言葉は通じなくても4人のいとこ達はすぐにうち解け、仲良く遊んだそうです。

 もう一つの発見は、ゲーム機など子供のおもちゃは日本の方が10年進んでいるとの事でした。イギリスの子供達は日本に比して10年も遅れた古い玩具で遊んでいる事になりますが、イギリスに住んでいる限り、周囲の友達も同様です。どちらが幸せかは価値観の違いです。日本のゲーム機メーカーは、幼い子供までターゲットにし、倫理を無視し10年先走って大儲けしている事になります。

 もう一例は、近しい友人の次女が、女子大生時代に駅前留学NOVAの、イギリス人講師と結婚した例です。披は、NOVAの事件が起こる前に辞め、日本学校の外国語教師として働いていました。人種的にはドイツ人ですがイギリス国籍、英国北部のスコットランド出身です。陸続きのヨーロッパでは、そうした人種と国籍が違う人達が混在して住んでいるのが常態で、移民に開放的な歴史と伝統があります。日本は島国(英国も)で、原住民であるアイヌ民族と新住民の大和民族と単純、移民にも閉鎖的で日本国籍を得るには、厳しい条件が求められます。特に、北朝鮮の拉致被害者問題発覚以後、更に厳しさを増したようです。





私の人生劇場(47) 〔「放射線」から「紙つぶて」へ〕


 3・11 東日本大震災まで、東京新聞に「放射線」というコラム欄があったと記憶しています。現在は「紙つぶて」に変っているが、この変わり身の早さには驚くべきものがありました。大震災後、東電福島第一原発事故が発生した翌日ではなかったかと思うくらい、敏速であった。

 東電福島第一原発事故後、日本人の放射能アレルギーにはすさまじいものがありました。私自身脱原発主義で、事故後も原発推進勢力が多数存在する事が理解できないでいます。原発事故が、これほど日本人ならず世界的に大きな影響を与えることは、マスコミであれば当然予想できることであるし、一般読者よりも敏感であらねばなりません。放射能が読者にとって拒絶され、悪印象を与えることは明らかであるし、当然読者数にも影響し営業的にもリスクを負うことになるでしょう。

 さすれば、読者や国民がアレルギーをもって嫌う「放射線」を、長く続いた連載であろうが捨て去ることはやぶさかではないし賢明な策であったと言える。これは、私が考えても肯ける措置であったと否定はしない。しかし、変更する理由も説明も無かったように記憶しているが、一辺の説明くらいは後ではあってもすべきではなかったかと思う。

 ”ペンは剣よりも強し”という諺があるが、新聞が権力や強い者に対して批判し正義を通すための効果的な武器は、言葉の意味は少し弱く感じるが、放射線から「紙つぶて」に変えて適切であったと言わざるをえない。前から考えていたのか、多分検討の猶予もなく咄嗟に変更したのが実態では無いかと思えるが、国民の大多数が、生理的に放射線を拒絶する情勢が成熟してきたなかで、敢えて「放射線」に固執する事には意味を持たず、賢明なタイトルの変更であったと言えよう。現在、残念ながらマスコミの役割をキチッと果たし、反原発・消費税増税に明確な立場を表明し、健筆を振るっているのは、東京新聞以外には存在しないのであるから。これからも幾多の圧力が掛かろうが、背後には民衆という味方が附いていることに誇りを持ち、庶民の立場を堅持してほしいものである。





私の人生劇場(48)〔大空へ羽ばたく〕


 この連載は、昨年7月末から7ヶ月間掲載して来ました。”私の人生劇場”というタイトルですから、私の半生に於ける人間生活での人との関わりや心遣い、義理人情に光を当てて書いてきました。私が個人的に一人で取り組み、今まで誰にも話していなかった本邦初公開の逸話だけです。この他にも、支援する会や私が参加して集団で取り組んだ大きな争議や事件は沢山有りますが、ここでは触れていません。それらについては、既に総括集としてまとめて発行され、本文の原稿として書いたり、コメントとして総括集に掲載され発表されているので重複を避けました。

 今まで書いて来たのは、私の人生のほんの一部です。私にはまだまだやり残した事が沢山あると思っています。それは私の周囲で生起した問題で、後世に書き残しておきたい歴史の事実です。他の人が触れにくいか、或いは避けて通る組織問題等やその他があります。既に、小論文やレポートに纏めてあるが未発表のものもあります。しかし、私達が書き残した物が日の目を見ることは歴史的には希にしか有りません。後世の人や研究者は、私達名も知れぬ庶民の記した資料が世に出る事は滅多に有りませんし、中々こうした資料を掘り起こして分析し、検証することはやらないからです。せいぜい公文書や大きな組織でまとめた、表面的で内容のうすっぺらな資料が引用されるだけでしょう。

  しからばどうしたら読ませるものを残せるかが課題となります。論文やレポートは親しみにくく敬遠されますが、小説であれば取っ付きやすく、数倍の人に関心を持たれ読まれる可能性があります。これからは、今までまとめた資料を基に、肉付けし脚色して創作して行くことも視野に入れて考えていきます。最近、若いとき書いた短編が見つかり読み返してみました。文学青年を自負していた若い頃から、既に40年間遠ざかっていたブランクは有ります。しかし、40年はブランクだけではなく、人生経験を積んできた貴重な時間で有ったとも言えます。登山と同様、この経験を活かし新たな目標に向かって、じっくりと時間をかけて進んで行きたいと考えています。

  今までは、事実を出来るだけ控え目に書き綴って参りました。これからは、私が直接携わり、寝食を共にし一緒に闘い汗をかき涙を流し、身体を張って闘い抜いてきた争議の経験などをテーマに、体験した者でしか書けない臨場感に溢れたた作品を残していきたいものです。私に残された時間は既に短いかもしれませんが、これからの人生、男のロマン晩成なるかは不明ですが、挑戦者として大きく羽ばたきたいと考えています。読者に一石を投じるには、直接自分で発行する以外に有りません。それが社会の多数の読者に関心を持たれ花開いたとき、その日を目指し、遅咲きの花になるかも知れませんが、佐渡のトキのように大空へ羽ばたきたいと思います。





(一巻完)


トップへ(essay)


”安 全 登 山 篇”



私の人生劇場(49) [登 山 と ヒ ル〕


 マウンティンで、掲載済の随想中に色んな出来事や思いが記載されているので、特別エッセイのテーマとして、山に関してスポットを当てて来なかったのが実態です。しかし、考えてみるとマウンテンではその山の表面的な随想であり、重複を避けるために検討を加え幾つか深層に迫る点で触れられていない面があり、忘備録のつもりで思い出すまま記憶を掘り起こし記しておきたい。

 最近は丹沢のヒルが話題になっているが、他の山ではヒルに吸血されたという被害は余り耳にしない。丹沢でのヒル騒動は、一説には鹿や猪が食糧不足で山から民家や畑に下りてきて農作物を食い荒らし、体に付着したヒルを平地へ運んで来ているのではないかと言われている。丹沢にヒルが多いのは、丹沢山塊の最高峰に蛭ヶ岳という山名があり、それと因果関係があるか否かについて調べたことはなく定かではない。私の経験では、南アルプスの光岳へ一人で登山した時、柴又小屋という無人小屋へ泊ったことがある。光岳の麓であり山奥なので、イワナかヤマメを狙った渓流釣りの先客が3人ほど居り、その日何匹かのヒルに大量に吸血された話をしていたのを聞いたくらいである。

 ヒルの被害は、朝露などが残る朝方から午前中、それに小雨の時が多い。私が最初にヒルに吸血されたのは4〜5年前、朝小雨が降っている日であった。蓑毛でバスを降りた時は小雨が降っており、前のバスで着いた同年輩の先客2人は、登山中止の相談をしており、そのうちバスで戻り居なくなってしまった。私は天気図で晴れる確信を持っていたので予定どおり出発した。計画通りのコースを歩き、何事もなく下山し帰宅した。玄関で靴を脱ぎストッキングを脱ごうとすると、靴下の中に固い異物を感じた。膝まである長いストッキングに石が入る事はない、不思議に思いながら靴下を脱ぐと固く黒い物が出てきた。両手に力を入れてみると半分に折れたが、何かヌルヌルしていた。よく調べると血液の塊であった。スパッツのファスナーの隙間からストッキングの網目をすり抜けて侵入、一日中タップリ吸血したので外に出られず、自滅したのである。血液は空気に触れると固まるので、ストッキングの中で黒く凝固していたのであった。

 私は丹沢へは200回登っているが、ヒルに血を吸われたのはたつた3回であり、被害は少ない方である。いつもザックには食塩を持ち歩いているが、山で活用したことは一度もない。3回とも小雨の日であった。被害に遭わなくとも何回かヒルの姿は見ている。普段はナメクジのようにづんぐりと茶色であるが、色々に変身する。私が見たのは、沼などにいるヒルのように黒く10cmほどに長く伸びているものあり、1cmと小さいのに龍のおとし子のように角を出し敵を威嚇する気の強いのも見かけた。友人は帰宅して風呂に入ったら、臍の窪みにヒルが吸い付いていたなどという、笑えない話も聞いたことがある。ヒルに吸血されて死ぬことはないし、昔は肩こりやおできの治療でヒルに血を吸わせて活用したという話を母から聞いた事はあるが果たして成功したかどうかは疑問である。中々の知恵者で、吸血前には麻酔液を出し痛みや痒みの感覚を麻痺させからチクリ、吸血した血液が凝固しない液も分泌し、忍者のような生物である。私の場合は吸血量が多すぎ逃げ出せず、凝結液も不足し自滅したのであろうと考えられる。

塔ノ岳



私の人生劇場(50)    [油断大敵安全登山に心掛け]


  私は山が好きですが、山岳部に所属したことは無く、我流で勉強し登って来たので、当然山の技術には限界があるり、自分の実力以上の山行きは自制してきました。雪山と岩登りは経験がありませんから、クライミングも雪山も行かず縦走専門で、雪の少ない春・夏・秋の単独登山でした。最初の頃は、北アルプスに憧れ集中的に登ったが、未開で山深い南アルプスに目が向くようになりました。北岳から白根三山を縦走する計画を実行したが、クラシックコースである鳳凰三山を越えて広河原へ下りて泊まり、草すべりを登って北岳へのコースを採りました。稜線へ出て肩の小屋あたりから小雨になったが、たいした降りではないので北岳を通過し、次の稜線小屋(現北岳山荘)で様子をみて泊まるか前進するか判断するつもりでしたが、次の農鳥小屋まで行く事にしました。間の岳はなだらかでだだっ広く石がゴロゴロした山で、視界の利かないときは右へ迷い込み易く、風を避ける物は何も有りません。当時は、雨具もポンチョで風をはらんで飛ばされました。ロープで風を含まないようにザックと身体に巻き付け、次の農鳥小屋までは無事に着こうと必死でしたが、それでも強風で3回ほど2〜3m飛ばされました。そんな時、ほんの瞬間霧が切れ下に小屋の赤い屋根が見えました。一瞬ホッとしこれで助かったと農鳥小屋へ駆け込みました。小屋の主人に聞くと、台風が能登半島をかすめて通過したので、風速20〜25mはあったろうと言う。当時は未だ重いトランジスターラジオを持参していたのに、台風予報を聞き逃していました。(この項25、間ノ岳参照)

 危険な目にはもう一度遭っています。この時は5人で北アルプス表銀座と言われる燕岳から大天井を巻き、東鎌尾根を歩いて槍ヶ岳へのコースでした(喜作新道)。2日間は天候に恵まれ、2泊目は狭い尾根上にあるヒュッテ西岳へ泊まりました。小屋は狭く人いきれで蒸し暑く中々眠着けません。トイレに起きて常備の薬を倍量飲みましたが、それでも朝まで熟睡できず寝不足でした。翌朝は雨でしたが出発、一端下って乗越の鞍部から東鎌尾根の登りは、梯子や鎖場があり結構緊張します。そこを通過すると暫く平坦な道となります。雨は稜線にしては珍しく静か、横殴りでなく上から降っていました。山ではなく何処か田舎の砂利道を歩いている感覚でした。稜線を何秒か眠りながら歩いていたのです。一瞬異変が起こり、急斜面を落下している自分に気が付き、必死に草を掴んでブレーキを掛け止めようとするが、雨が潤滑油となり滑って中々止まりません。どうにか途中で停止し、稜線まで駆け上がりました。危険な場所や強風であれば慎重になりますが、平坦になったので山道を歩きながら一瞬眠ってしまい、稜線を踏み外し谷底へ滑落寸前、九死に一生を得た一瞬でした。私は15mくらいと思ったのですが、いや30mくらい、他の人は50m以上は落ちていたと冗談が言えたのも、大事に至らずに済んでいたからで、この時、何百mか谷底まで落ちていれば一巻の終わりだつたでしょう。

 何度か危険な体験をしましたが何れの場合も油断でした。南アルプスの赤石岳へ登った時も、天気は晴天、3000mの岩屑のガラガラした平坦な稜線を足元も見ずルンルン気分で歩いていました。生憎岩に躓き前に倒れました。両手で受け身は取ったのですが眼の下は崖、それも胸まではみ出していました。この時も一瞬背筋が寒くなりました。広い安全な場所でよく調べると、岩屑で切った傷が腕に何か所かありましたが、大過なく済みました。

特に最近注意力が散漫になったのか、なんでもないところで転んだりするヒヤリハットが多くなりました。つい先日は少し飲んで帰宅、玄関へ入った途端にバランスを崩し倒れて脛を打ってしまいました。それほど酔っている状態ではないのに。また三ノ塔から下りて林道を下っていた時、詩吟をハモりながら歩いていると、林道のコンクリートと土との境目の段差に左足が行きバランスを崩して前に転倒、顔の位置に尖った木の根でも有れば眼を刺して負傷でもすれば大変、ヒヤッとしました。このように近頃、なんでもない所でのミスが連続し大事には至らず事なきを得ているが、これも加齢が原因でバランス感覚が衰えているのかと、これからは細心の注意を払わなければと自覚を強めているところです。これまで、大きな事故も遭難もせずに生き延びてきました。丹沢へは既に200回、これからも山へは登り続けますが安全登山で。

三峰山



私の人生劇場(51)   [日本百名山とTMKの理論]


 7月、三浦雄一郎氏が80歳でヒマラヤへの登頂に成功した。私の趣味は何と言っても登山であろう。年齢とともに体力も衰え気力も薄れて来てはいるが、やはり山登は止められない。山も好きであるが、書く事も好きである。この二つを合わせ、文武両道で私が生きた証として、百名山を完登した暁には本を自費出版したいと考えている。私は登山家ではないので登山書ではなく、山を媒体とした随筆風にまとめる構想である。幸い几帳面な性格なので、半世紀前に登ったデータや資料も残っている。現在HPで青年期に登った29座を掲載しているが、どんな反響があるか世上の反応は如何かと、アンテナを高くして見守っていることも否めない。

 しかし、ある時点で登山が停滞、数が進まなくなって来ている。百山を達成するには何が必要であるかを私なりに分析してみることにした。若い時から山へ行き、私なりの中間総括をし、それを簡潔にまとめたのが「T・M・Kの理論」である。登山には法則があり、その法則に合致しないと結果は百名山の完登は難しいことが判明した。現在半分の50山は越えているのだが、100山の踏破には達していない現状である。

                ーT・M・Kの法則ー

          T ・・・ タイム・タイミング・地形・知識・体験・鍛錬・単独・(友)・冬期

          M ・・・ マネイ・マスター(技術)・マザー

          K ・・・ 気象・気力・健康・脚力・完備(装)・決断力・計画

 T・M・Kの理論とは前記した内容であるが、三拍子揃わないと山には登れない。若い時は仕事が現役であるため時間の確保が難しい。特に私はボランティア活動に集中していたので、とても山へ行っている時間的な余裕はなく、精神的にも体力的にも行けない状況であった。以後定年まで、30年間の空白期間が出来てしまったのである。あのまま登山を続けていれば百名山どころか、外国の峰も踏んでいたであろうが、今更それを言っても仕方ない、遭難していたかも知れないのだから。再開して時間もマネイも気力も順調に登り、進行していたのであるが、ある時点で意外な障害とブレーキが掛かる事を知らされた。

 私の登山はソロ(一人)がテーマであるが、妻の反対が強硬になってきたのである。65歳を越えて単独登山を心配するのは、妻としては当然である。同時に、私も定年退職して年金生活となり他に収入の道は無い。生活に必要な僅かばかりの年金では、これまた妻に気兼ねせざるをえない。残すは遠方の山だけである。若い現役の時は金(M)も時間(T)も無くやり繰りに苦労する。ある程度の年齢になれば(M)には余裕は出来るが(T)に制限がかかる。定年になれば時間(T)に余裕は出来るが、健康・気力(K)に衰えが生じる。気象やタイミングは、個人的な判断で平等に与えられている。時間(T)的な余裕だけはあるが、年齢と共に健康・気力と同時に、金もマザー(M)の発言力も強くなり、新たな難所の突破が課題となって来る。


ヤビツ峠



私の人生劇場(52)  [登山に於けるマナー]


 登山は体力を要し厳しいスポーツなので、街の生活とは違い山には一定のルールがある。例えば下りより登りがきついので、狭い登山道では登り優先となる。しかし、岩場や鎖場では逆に下り優先である。岩場ではホールドスタンスが下からは見つけやすいが、下りは見えず難しい。一つ間違えば遭難という、人命に関わる事態につながるりかねない。ただ登山は、登りは苦しいので、登りの人が一呼吸で待つケースがあり、その辺は状況に応じ臨機応変に対応する柔軟性も必要である。

 中央アルプスで韓国人ツアー登山者が4人も遭難死する事故が起きたが、他人に迷惑を掛けないのが登山であるが、遭難ほど多くの人に迷惑や心配を掛ける事態は有りません。ゆとりのない計画や、自分の経験や体力に合った登山計画を立てる必要があるでしょう。中央アルプスの遭難事故では、装備にも問題があったように思われる。健脚で小屋に辿り着いた人も、下着までびしょぬれで、小屋のストーブで震えていたという目撃者の話しもあるが、若く体力が有ったので事なきを得たが、高山で暴風雨に耐えられる雨具や装備も備わって居なかったのでは無いかと思われる。途中から小屋へ戻ったり、エスケープコースで下りて助かった人も居たりで、登山ツアーの危険な側面を見たように思う。

 大きな山は、大概が国立や国定公園に指定されている。登山道に木が出ていても棘の枝がはみ出していても勝手に切ったり処分できない。登山者は公園の中を歩き通らせてもらっているので、邪魔でも避けて通る、山と登山者とはそんな関係にあると考えている。登山道が在っても違う斜面を歩いたり、如何にもベテランぶりたくて近道をして自然を踏み荒らし植生を壊して歩く、そんな光景を間々見かけるが、ベテランこそマナーを守り手本を示すべきではないか。

ただ、ここで私が取り上げたいのは、それほど難しい話ではなく単なるマナーである。折角自然の中を歩き満喫し楽しい気分でいても、帰りのバス停で並んで待っているのに、後から来た団体が我先に乗り込んでしまう光景を見かけます。特に中年女性は巧妙で、スルスルとすり抜けて割り込み先に席を取る神業は、バーゲンセールで会得した芸当であろうが、大変不快な思いをし、一日の山行きが台無しになってしまう。厳格な私は無視出来ず、年配者に「ここのリーダーは誰だ!先ずマナーを教えてから山へ登りなさい」と注意してしまうが、これも後味の悪いものです。ここ数年はそれを避けるため、土・休日の混雑日は丹沢へは行かず平日に登ることにしている。


大倉尾根



私の人生劇場(53)   [靴のサイズと足型の怪]


 我が家の長男は身長185cm、琴欧州に似ていることは前に触れた事があります。身体が大きいと比例して足も大きくなければ自分を支えられません。中学生になると靴を買いに行くが、普通の靴屋では長男の足に合うというより、足が入るサイズの靴は有りません。普通の靴屋ではせいぜい27cm、やっと探しても28cmですが、どうにか足は入っても窮屈29Cmサイズでないと合わない。大きな靴屋が進出したチラシを見て遠方まで行ってもだいたい同じようなものでした。同じサイズでも種類によって多少の大小があるので、どうにか足が入る靴を探して購入してくる。しかし、サイズに合わせるのであって、デザインの選択肢はなく、長男の靴探しには苦労したそんな時代がありました。

 その当時から3Lサイズ専門店もボチボチ出来はじめ、遠く川崎迄買いに行ったものです。最近では需要に応じてそうした店も多くなり、サイズで心配することは全く無くなりました。ただ、同じデザインでもサイズが小さいと見た目にも恰好は良いのですが、大きくなるとダサク見えるのは致し方のないことです。

 就職して数年後、職場で富士登山へ行くという計画が持ち上がり、登山用具は私の物が揃っているので貸したのですが、靴は自分で購入してきました。登山を続けるつもりはないらしく、踝まで保護できる厚い一枚皮のしっかりした編上げの半長靴で、街でも履ける兼用のを揃えたものと思っていました。興味があったので私も足を入れてみたのですが甲がつかえて全く入りません。私より大きい足なのに大丈夫かな?と心配したのですが、無事富士山へ登って帰ってきました。半年程して編上げの半長靴で、前より上等なのを購入してきました。やはりな、山で厚い靴下を履いて靴を履いたり脱いだりするのに、窮屈で苦労したんだうな、勝手にそう思い込んでいました。
 
数年が経過し、息子は2足の靴に見向きもせず下駄箱に放置されています。私はというと、丹沢へ行ったり北アルプスへと、一度靴底を張り替えて補修はしたものの、踵は片減りし大分痛んできています。低い山なら使えるかと長男に声をかけると「使わないからいいよ」という事で私が活用する事になりました。「ただ大きさは合うが、お父さんの足は入らないんだけど、よくこの靴が履けたな?ちょっと履いてみてくれ」と試すと、なんとスルリと大きな足が入ってしまいました。足を並べてナゾが解けました。私は27cm、長男は29cm、足の形が違っていました。私の足は、昔から言うところの”甲高ばんびろ”長男の足は甲が平たくスマートですんなり履けたのでした。私の甲が高くつかえてどうしても入らなかったのですが、甲の部分を切り裂いて改造し、登山には向かないので散歩用に活用しています。

鹿の群



私の人生劇場(54) [ 登 山 靴 踵 の 不 思 議 ]



 登山靴の事ではもう一話、どうしても記載しておきたい。ナゾが解けるまで十数年かかってやっと原因を究明できた話である。現在使用している登山靴は、1992に購入した物なので21年前になる。履き下ろした新品の時から、登りでも偶にキュッという音がし、下りになると連続してキュッ・キュッと鳴るので変な靴だと思いながらも、特段緩んでいる個所もなく足に馴染んでいるので履き続けていた。

富士山へ登った時であるが、登山道が混んでいるので、新しく出来た須走を下ってきたが、雷光型に着けられた登山道でも結構傾斜はキツく、踵のエッジでブレーキを掛けて方向転換したり止まろうとすると転んでしまう。他の山でも雨の日、踵で制動しようとすると却って滑って転倒してしまううことが度々。おかしいと思いながらも、年齢のせいで平衡感覚が鈍って来ているのかと諦めていた。

 その頃は、30年近くブランクがあり、登山を再開した時だつたので、「健康登山学」や「中高年登山学」等の文献を買い、スポーツ生理学の勉強などもしており、そこで驚くべき統計を目にしたのである。体力は加齢とともに衰えてもそれほど極端に低下はせず、訓練すればある程度のところまで回復する。しかし、平衡感覚は50代60代になると、個人差はあるが25〜30%に減退し、訓練や努力では若い時の水準には回復しないとあったのである。「なるほど!私がこんなはずではない!」と思いながらよく転倒するのは、ここに原因があったのかと、納得するには適切で十分な統計学的数字だったのであるが・・・。

 登山靴も使いこなし足に馴染んでくると、靴底の踵外側が擦り減ってくる。ゴム用ボンドで接着し補強するが素人ではすぐ剥がれてしまう。油脂分や幕があるために密着しないと思い、溶剤で靴底を洗浄し、ゴム用ボンドでしっかり接着したつもり。丹沢表尾根を縦走し、林道へ降りてくると踵に違和感を覚えて振り返ると、なんとアルコールで拭いた方の踵がほぐれ、バラバラになっているではないか。帰宅しよく調べてみると、登山靴の踵は薄いゴムが何重にも圧着されており、溶剤で接着剤が剥がれバラケてしまっているではなか。そして踵の中は空洞で、ゴムの黒い微粒子(粉)が詰められていたのである。新品の時からキュッ・ キュッと鳴り、踵のエッジで制動を掛けても空洞では効き目なく、これでは転倒してしまうのも当然である。この踵のナゾが解けたのは、専門店で高価だった外国製の靴を買って後十数年後のことであった。

三ノ塔より富士山



 私の人生劇場(55) [ 四国お遍路と私の登山]


  私の友人は、四国八十八寺のお遍路を、何回かに分けた区切り打ちで数年かけて歩き通して結願した。人の心の奥底知れずで、私がそれを詮索する必要はないのであるが、何かそれなりに思うところがあって決意する動機があったのであろう。その一つに、自分の何かをを変えたい、現状から脱皮し飛躍したいという、心身の修行という意味あいがあったやに考えられる。歩き遍路で四国88寺を一周するのは、日数的にも体力的にも、何よりも発想は浮かんでも決意するまでの過程が大変だと思われる。お寺を巡るお遍路には、やはり宗教的な色彩は拭えないし、通常とは異なる大きな変化を求める何ものかが心にあったのではなかろうか。

 修業でか 無心で歩く へんろ道 己が登山と 重ねて見えし
この短歌は、私が車遍路で巡る中で、重いザックを担ぎ暑い日中金剛杖を突き、必死に歩いている歩き遍路で周っている人の姿を見て、率直に感じた感想を詠んだ句である。一寺を行くのに100km、1日30kmとしてもゆうに3日は要するであろう。またお寺は高い山の中腹や頂上に存在する。一般的にも平地よりも高い所に建っていた方が有り難味が大きい。しかし、歩き遍路さんにとっては、整備されてない藪の茂った山道、昔の遍路道を上り下りするのは大変な事である。それを苦にせず、自分の体をいじめ必死に何かを求め払い、苦しさに耐えお寺目指して登っていく姿。
  
 これは私の想像の範囲に過ぎないが、特に歩き遍路で巡る人は、それなりの事情や悩みを抱えており、決して物見遊山で来ているとは思えない。花遍路では見えぬ目が見えるよう願かけに来たのが主題である。或る民宿で若い女性一人のお遍路さんと同宿、失恋の心の痛みを癒しに来たのか、自分では制御できない「業」を和らげに来たのかも知れない。出家してお寺を継ぐのに、文字通り修行を兼ねて歩いている、若い坊さんらしき人も見かけた。懺悔や近親者の供養で寺廻りをしているのかも知れないし、多様な悩みや願いを胸に秘めて歩いている人も居ようが、人の心の奥底知れずである。

88寺結願寺・大窪寺の民宿で、3人の中年男性と同宿、食堂で隣のテーブルで意気投合し親しく話していた。やはり楽な車遍路と違い、歩いて結願した誇りが顔にも話にも感じられた。槍ヶ岳を開いたのは播髀辮lであるが、俗世を捨て出家して仏教の世界に入ってはみたが、自分が目指し期待した世界とはかけ離れた、清い世界ではなかった。俗世よりも泥臭いドロドロの世界である事に落胆し、人を寄せ付けない気高く神々しい山にこそ真の神が宿るのではないかと、命を懸けて未開の山の頂上を目指して登り開山したのである。私は、信仰ではないが厳しい登山で心身ともに鍛え身を清める、そうした単純な気持ちではあるが、若い時から登山は心身修養の場でもあり己を鍛えるものと思い山へ登ってきている。お遍路して、登山と共通点があることを見つけた次第である。

古い石仏



 私の人生劇場(56)   [登山は勉強であり精神修養である]


 詩吟に”山行同志に示す”、という漢詩が有る。この詩の意味は、登山とは学生の修養と同じで、学問を修め一歩いっぽ高めれば、視野が広がり高所大所から物事が見られ判断できるようになるといった意味の詩である。私も若いときから、登山が趣味であると同時に、山は心身修養の場であると思い、そうした意味合いも含め登ってきている。草葉佩川(はいせん)氏は、「山行同志に示す」と、大上段に構え上から教えてやるといった姿勢であるが、面白い角度に見える。その背景には、明治時代に登山と言えば、特異な事だったのであろうか。私も初心者と一緒に山へ行くが、教えてやるといった態度でなく、もっと謙虚に同行する気持ちで行くのが、登山が一般に普及した現在の登山者の平常心ではなかろうか。

座禅で無我の境になるのも禅の修業であろうが、凡人が黙って目を閉じ座っていれば、瞑想に耽るどころかますます煩悩や雑念が浮かんでくるのが通常である。とても悟りなど開けたものではない。四国のお遍路で、何処のお寺さんでか覚えてないが、大師堂の狭い外床に座り若い人が座禅を組んで瞑想に耽っているのを見かけた。真言宗の坊さんの卵で、88寺を巡り修行でお遍路していたのかも知れない。それより登山は、急坂を喘ぎながら登っていれば何も考える余裕はなく、逆に考えようとしても無理。その時は欲も得もなく無心になれる時間である。

 登山を続けていると、苦労して疲れて山へ登って何がいいのかねー、得る物は何もないし、海ならばサザエやハマグリ、うまくすればアワビなど獲物が沢山採れるのに、などとジョークを言われることがあります。しかし、登山は何か得する物を得ようとするのではなく、自分の体をいじめ苦しめて、精神的ななにかを得ようとするところに徳が存在するのではないかと思われる。海の幸は採っても食べられるが、高山には食べたり物質的に得する物はなく、趣味でありスポーツであると同時に、一種の精神修養的な幸を求め会得したい、そんな願望が山登りには含まれているのではないかと考えられる。

 縄文の初めから、信仰の始まりは自然崇拝、太陽であったり月であったり、水や火や風など生活に直接関係する自然が、信仰の対象ではなかったろうか。山岳信仰も現在と違い、人の寄り付けない人をよせ着けない高山、特に冬雪で白い山頂は神々しく神秘で神が宿っているのではないかと拝み信仰する。更にその心が高揚すれば、少しでもその神に近づきたい、山へ登り頂上へ行って確かめたい。身を削り生命を賭け、純粋な多くの行者や山伏が神を求め生命を無くしてきたかも知れない。剱岳には、既に千年も前に山伏が登り残した剣と錫杖が在った。槍ヶ岳は修行僧播隆上人が開き、男体山は782年(天応2年)3月、勝道上人が初登頂している。お釈迦様が雪山で苦行したという謂れから、勝道上人も残雪期の3月(現歴4〜5月)を選んで登り、「我もし山頂に至たざれば、また菩提に至らず」(悟りを開けず)。山上ヶ岳や奥駈は、役行者が開いた修験道で、現在でも唯一女人禁制の山であり、修験道として残されている。

風の吊り橋



 私の人生劇場(57)  [ 登 山 と 体 重 ]


 登山を再開して、運動生理学を若干勉強した事は先に記したとおりですが、体重と山 登りとは深い関係にあることが判りました。体重が増えた分だけ、担ぐ荷重が増え重くなるといった単純なものでなく、複雑に内臓器官と密接な関わりを持っているので、健康管理とともに体重管理にも十分に留意しなければなりません。

 体重が1kg増えると血管は、毛細管を含めて1km増えるとのことです。そこへ血液を循環するには、心臓に負担が加わることになります。日常生活においても、長くなった血管に血液を行き渡らせるには当然血圧が高くなります。それだけでなく、酸素を含んだ新鮮な血液を全体に循環させるには、肺機能と心臓の動きを早めて脈拍数も多くなります。登山は重力に逆らい上に登るわけですから、筋力だけでなく、更に心臓にも過大な負担を掛けることは明らかです。

 私は、身長170cmで若いころは65kgでしたが、禁煙を何回か繰り返す度に3kgずつ増え、現在77kgです。私の理想登山体重は、70kgが最適ではと考えているが、思うように減量できません。7kgの余分な体重は、脂肪と水分でしょうが、登山では、体重の7kgは荷物を担ぎ上げるだけでなく、7km伸びた血管へ血液を循環させるので心臓に大きな負担がかかり、二重苦を背負う事になります。しかし、分かっていても7kgの壁は厚く、体重は容易くは落とせません。

 こう考えると、体重が重いと衣類や生命を維持する食量も多く、贅肉もと登山には不利な条件になります。北アルプスの燕岳から大天井を巻き、西岳を通り東鎌尾根から槍ヶ岳へのルート(喜作新道)を切り開いた小林喜作さんという人が居ましたが、この人は小柄な人だったようです。しかし、普通の人の倍くらいの速さで山道を歩いたそうです。小柄な人の方が、登山に適しているのかもしれません。私は、食事を減らして減量するより、現状に合った体力づくりに励んだ方が近道で得策であるとも考えているのですが。

涸沢への雪渓



 私の人生劇場(58)  〔 私 と 丹 沢 〕


 丹沢は私の家から近く交通の便もよし、約1時間半で登山口まで行ける身近な山で、200回登っている。地図を見なくても大体の地形は頭に描かれており、自分の庭みたいなもので、安心して行ける山である。単独行を嫌う妻も、丹沢といえば何も言わずおにぎりを作り送り出してくれる。今でも体力維持とトレーニングを兼ね、月3回は登っている。毎週登っていれば、山を下りても足の疲れも感じず、翌日の筋肉痛の症状もなく、平常な生活が営める。しかし最近は、天候や体調と日程の都合等で中々毎週は行けず、よくて月2〜3回程である。

 登山というのも最初の印象が強く作用し、蓑毛から登るのが私の通常のコースであり、丹沢登山の95%は蓑毛口から登っている。何処の登山口を選択するかについては、やはり住まいの地理的な関係から、交通機関や所要時間等の便利さで左右される。最初に私と行った友人は、大倉からバカ尾根を登るコースを選ぶ。丹沢の銀座なので登山者も多く、登りはキツイが一番安心できるコースなのであろう。また他の友人は、同行の人達との関係からか、中川温泉の西丹沢から登るのが好みで相性があうようである。橋本に住んでいる写真家は、交通の関係か北の道志川方面から丹沢へ入るといったように、四方八方から入山し、同じ丹沢でも好みが違うようである。神戸から友人3名が来た時は、勿論私の好きなコースを案内したのだが。

 丹沢へ登り続けていると、色々な思い出が浮かぶ。最初に行った時は、一日中雨の中の歩行で景色は見えず、おまけに靴のサイズが合わず、バカ尾根の下りで足の爪四本が抜け替わるという痛い経験をしている。他の山へ行くと、歩きながらこの斜度は丹沢のどの個所と同程度と比較し、基準に登ると安心するので不思議である。丹沢は標高は低いが、登山口からの高度差は千mときつい、従って丹沢でトレーニングしていくと、他の高山でも耐えられる訓練や勉強の山でもある。大倉尾根の下りは2時間10分、余裕のある時は、種々な事を考えながら下りたものである。

 丹沢は、交通事故で心身共に落ち込んでいた時、数年後になにくそと表尾根を毎週登って心身を鍛え直し、一年間かけて社会復帰を果たした修行の場でもある。素人で素養はないが、身近であるため川柳や短歌の題材にして活用している。丹沢は沢が多く、水の宝庫でダムあり、周囲に湧水も沢山ある。歴史的な名所旧跡と見どころも有るが、それらについて調べてはみたが、他のHPで既に紹介されているので重複は避けたい。人間はいずれ生命は朽ちていくものである。退職金で家のローンを清算し、当時は0金利、僅かばかり残っても仕方ないので、丹沢の見える場所に墓地を購入し、石碑には丹沢の山並みを刻み、永眠の場も準備してある。残された人生、これから精いっぱい生きたいものである。

菩提風神



 私の人生劇場(59)    [危険物取扱者の知識が火災を防ぐ]


  一人で南アルプス北岳へ2回目に行った時の事である。この時は甲府から南アルプスと北岳の登山基地でもある広河原までバスで入った。早朝夜叉神トンネルを抜けると、一瞬別世界へ来たかと思う光景が目に映った。下は雲海か濃霧で、上に尖つた岩に松が生え、正に日本画の世界がそこに存在していた。これは油絵でも水彩画でもサマにならない、やはり水墨を使う日本画の世界だと確信した。しかし、それもわずか5分くらいの時間であった。朝霧に浮き出た神秘的な世界も、日の出とともに平凡な山の風景に戻ってしまった。

  広河原からは冷池迄は同じコース、天候にも恵まれ今回はバットレスの下の雪渓を横切り八本歯へのコースを選んだ。雪渓を越すと険しい登りで、長短20基もの木の梯子を昇るとやっと稜線、八本歯のコルへ出る。私の予想では、稜線へ出てからが大変、八つの尖った岩峰を越さないと白峰の主稜線へ出られないのかと思いきや、右に北岳左には稜線小屋が近くに見えこれからはら楽な歩行でる。時間的には余裕があるので、北岳の頂上へ戻って展望を楽しんでから、今日の宿泊地北岳稜線小屋(現北岳山荘)へ着いた。

  当時は素泊まりで、到着が早かったのか、先着順で小屋の奥の方へ寝場所を確保した。寝袋は持参していたが、小屋の毛布も1枚ある。当時は食事は皆自炊である。隣には、私より少し年若い青年がいた。ご飯を炊こうとバーナーを出すと、二人とも全く同じ物であった。ただ違いは、彼のコンロは擦れて古く使い込んでいる事は一目で分る。そこに私の誤解が生じる大きな原因があった。若いが山のベテランと勝手に思い込んでしまったのが失敗であった。

  コンロに点火するまでは良かったのであるが、バーナーが音をたてて燃焼中に燃料タンクの栓を開け白ガソリンを補給したのである。ガス化したガソリンに着火し、補給するガソリンにも火が着き燃え広がろうとしたのである。私がすかさず毛布を掛けて消し止め、事なきを得た。ところがである。翌朝また同じ失敗を繰り返したのである。私は違う方向を向いていたので気が付かなかったが、「あ!またやっちゃった!」と騒ぎ、本人の手に付着したガソリンも紫の炎で燃えている。その時、3m程離れた中年の男性から、私に毛布が投げられた。すかさず毛布を掛け、空気を遮断して火を消し止め大事には至らなかったのであるが、一つ間違えば山小屋は焼け、逃げ遅れて犠牲者が出ていたかも知れない事態も予想された。危険物取扱者の資格は、ガソリンスタンドなど石油関係者に多く活用されている。燃焼の三要素の一つである空気(酸素)を遮断する事で、危険なガソリンの燃焼を初期に消火したのである。
 
涸沢から奥穂



 私の人生劇場(60)      〔清水に魚棲まずか〕


 このテーマは、どの項目で扱うのが適切か思案した課題であった。文章で書くのは容易いが、人間の生き様の問題であり、人生の実態と結びつけて、自信を持って胸を張れるか、そこのところで迷いが生じ、できれば触れたくないテーマである。哲学の分野でもあるし宗教の範疇にも属し、義理と人情か、はたまた正義か俗人生か単純な分野でも扱え、多面性をもったテーマである。今迄で一番難しい課題であり、従って中々手が着けられないできた。、今山を扱い、清水と言えばやはり山、水がしみ出す水源が谷になり沢になる、滝があって沢が幾つか合流し激流となって、いつしか川の流れになる。やはりこの山の項で扱うのが適切であろうと落ち着いた次第である。

 ”清水に魚棲まず”とは、物理的な問題ではなく自然現象に例えた、人間社会の例えである。清廉潔白で馬鹿正直、正義感が強く欲得なし、妥協はせず正義を貫く崇高な生き方、言うならば聖人君子のような人間で、他から見れば変わり者とも言えます。どの世界でも、正義感が強すぎると周囲から弾かれ、一匹狼で孤高の人となりがちです。一般社会ではこうした、潔癖な人の周囲には人は寄り付かないし集まらない、こうした例えを表現したものでしょうか。

 谷の清流には、少ないが岩魚やヤマメが棲んでいます。清流にはプランクトンも居ず、餌となる虫もいないであろうし、魚の栄養となる有機物もない。しかし、イワナや山女魚は現に泳ぎ棲んでいる。何を食べて生き成長しているのかは知れないが、冷たい清流で生き抜く生命力は強い。逆に鯉が棲むような多少水が濁って、有機物が沢山有りプランクトンや餌が沢山ある所には、魚が沢山集まるという事です。実際に我が境川もそれほどきれいで清流ではないので、大きな鯉やウグイやクチボソなど、小魚が沢山泳いでいる。人間の社会も全く同じ、潔癖すぎず適当に譲歩したり妥協があり、儲け口の餌が沢山ばらまかれているところには、人が集まってくる。儲かったり得しそうな事には人が群がるという事であろう。それも歴史的な過程や風習、日本社会の多数の生き方であり現実であってみれば致し方ないのかも知れない。

 私も不器用で調子のよい生き方は不得手である。正しいと思うことは妥協も譲歩も出来ない。私の周囲には、そうした優秀で真面目な友人は沢山存在する。71歳にして現実に生きてきた確信でもある。孤高ではあっても孤立でも孤独でもない。ただ、こうした人物は清流のヤマメやイワナと同様雑魚に比較すれば数少ない世の中であることは確かである。少ないから、希少価値があり、尊いのではなかろうか。ただし、心身共に鍛え丈夫でなくてはダメ、清水だから吸収する栄養は少なく、忍耐力・生命力が強くないと周囲に負けてしまう。最近、東大や立派な肩書を持つ教授や学者が、研究データを捏造したり論文の盗用等、次々と事件が表面化している。研究費の詐欺で告発もされている。それに引き替え、私の周囲には、実践を積み重ね、コツコツと研究し闘っている、”在野の学者”とも言うべき優れた人達が居て救われる思いである。

梓川


トップへ(essay)




エッセイ
”喜 寿 全 う 篇”



私の人生劇場(61)   [飲み過ぎは舌過を生む]


 いつぞやの新聞に面白いかこみ記事が載っていた。スエーデンで腐ったリンゴを食べたシカが酩酊し、木の又に引っかかって自爆したり、民家のブランコを外して森の中まで持ち去ってしまう、酒乱シカが多発しているという珍しい話題である。秋になると、リンゴの実が木から落ちて発酵し、それを食べたシカが酔っぱらい、本来はおとなしく人を見ると逃げるシカが酔うと獰猛で攻撃的になり、毎年秋になると同じような事が繰り返される現象であるという。

 人間社会でも同様な行動を取る人が一部に存在する事を長年の人生経験で見ている。宴会でも最初は借りてきた猫のように温和しい人が、酒量がある時点に達すると突然人格が変わってしまう”酒乱”と言われる現象の人を希に見かける。こういう人は決まって日常的には温和しく、飲んでいてもある時点までは普通に話しているか寡黙な人である。それがあるリミットを越すとガラリと人が変わって、必ず暴れるか喧嘩が始まってしまうので”酒乱”という。明日になり酔いが醒めれば、また寡黙な普通の人に戻り、昨夜の事は覚えているのかどうなのか、本人のみぞ知るであるが。普段よほど我慢し耐えていたのが、アルコールによって抑制のタガが外れてしまうのであろうか。在職中2〜3人の人と遭遇し体験できたのは、人生幸運であつたといえよう。

 私も酒には強い方であったが、交通事故以後はアルコール度の低いビールを加減しながら飲むことにしているが、習慣でついグイグイ飲んでしまう。本人は酔ってないつもりでも、長時間に及ぶとやはりビールといえども中枢神経は麻痺されて来るものである。酔わない時は、自制心が働いているから抑えは効くのだが、日頃から心の底に鬱積している思いが、酔うほどにだんだん芽を持ち上げて来る。その本音が、雰囲気によって抑制のタガが外れ、言葉や態度に出てしまう。言うところの舌過が生じやすい時である。この類は、私に限らず酒飲みなら誰もが持ち合わせる事例で、お互い大過なく過ごして来ているものである。

 しかし、その時は感情の赴くままであり、相手もテンションが上がっているのでお互い様でよしとしても、間をおき頭が冷えたとき考えると後味の悪いものである。特に私は、いつも口数少なく飲むのが通例で、常に平常心で過ごしている。酒の勢いを借りて物言うなど、後味の悪さと後悔は並大抵のものではなく、避けたい行為である。酒飲みは、本来飲まない時に云うべき事を言い、飲む時は酔って楽しく過ごすのが心得である。最近は、年齢のせいか酒量も減り、早く酔いが回ることも念頭に置き、飲み過ぎてつまらぬ舌過で後味悪い思いをしないよう、楽しく美味しい酒を飲み続けたいものである。翌日に残るアルコールは、苦しく身体にも良い影響は与えない。




私の人生劇場(62)   カラスの鳴かぬ日はあれど・・・


 「カラスの鳴かぬ日はあれど・・・」とくればその後は、言わずと知れた「酒を欠かした事はない」と続くであろう。私も同様で、休肝日を週1〜2日試みた事は何回かあるが長続きしない。それより、飲まないで我慢している方が余程ストレスが溜まり、精神衛生上よくないと自分に都合良く合理化し、飲み続けてしまう。

 しかし、本当にそれでよいのか?と真剣に考える事もある。人間の体なので、アルコールを飲めば体内で消化し処理しなければならないのであり、肝臓に要らぬ負担を掛けているのは事実である。生まれつきDNAで、処理能力の強弱には個人差があり、全くアルコールを受け付けない体質の人も存在する。しかし、全く影響を受けない不死身の肝臓の持ち主は居ないであろうし、アルコールの量をを減らし、出来るだけ肝臓への負担を軽減するにこした事はない。

 想像の範囲であるが、知人で明らかに飲み過ぎて肝臓を悪くし早逝したと思える人物は存在する。組合の幹部になり、連日連夜飲み会に誘われ飲酒の機会が多く、飲み過ぎて肝臓を患う、そうした人物にも思い当たる。又は、本人も酒好きだが、自分の能力以上の立場を引き受けてしまい、相手はただ酒が飲みたい、飲友達が欲しいで立場上断れない。相手は一回で済むが、本人は同類何人かと付合えば連日となり、無理が続いてしまう。肝臓も身体も耐えられなくなり病気になる、その兆候は事前に現われているであろうに。本人は断れないのか気が付かないのか、結果として寿命を縮め早逝してしまう。

 私も本当に体調の悪い時は、アルコールを飲む気力も湧かない。そんな時はとても飲む気はしないし体が受け付けない。ここ何年間かそういう事がないのである。従ってカラスの鳴かない日はあれど・・・という事になっている。飲めなくなったらおしまい。飲めるうちは飲みストレス解消、ただし分量は減らす必要があるであろう。




私の人生劇場(63)    〔私の病歴〕


 私は幼い頃から病弱であったようである。3歳の時に首に大きなおできが出来、死にそうになったそうである。その頃は終戦前で中々医者へも行けなかった時代、町医者へ行き切開してもらった時には、洗面器に半分くらい膿みが出たそうである。この話は母から何回も聞かされたが、洗面器は少しオーバーとして、多分ステンレスで出来た医療用の受け皿ではなかったかと思われるが、母の脳には洗面器と記憶されたのであろう。それ程大きなおできであった印象から、呼吸も苦しく顔も蒼白で、母親から見れば、我が子が死ぬのではないかと危惧したのであろう。しかし、今の医学で考えれば、おできが首に出来たところで、生命に別状はないと考えるのだが、ちょうど頸動脈の上であり血流を圧迫したり呼吸も荒く、当時とすれば危険な部位だったようである。その痕跡は今でも残っている。そこが治ると今度は、反対に首の後側に同じように大きなのが出来、医者で切った傷痕が今も頸の前後に残っている。よく熱をだし頭痛であったり、風邪をひきやすく学校を休んで、家で寝ていた記憶があるので、あまり丈夫な子ではなかったのであろう。

 鯖の生焼けを食べて、全身蕁麻疹が出来、朝通学途中診療所へ寄り、注射を打ってもらってから登校したこともある。兄弟や親も同じ物を食べているのに私だけが罹患するので、体質的にもデリケートな面は有ったのでしょうか。

 体操の時間高飛びで、飛び損ねて竹のバーが手首に掛かり、その上に自分の尻を着いて体重が掛かったので、手首を捻挫した事もあります。その時は車など無い時代ですから、先生の自転車の荷台に乗ってゆっくり1時間、5km以上も離れた街の接骨院まで痛さを堪えて行き、治療を受けたこともありました。湿布薬程度の手当ですからその夜は痛さと不安で、一晩眠れない夜を明かす。その後は放課後、自分で自転車に乗り接骨院へ通い治療を受けたが、今でも左手首に違和感が残っているのは、その時の後遺症である。

 大人になってからも、虫垂炎や尿管結石や痔疾等、多くの病気や手術で入院している。ただ病気だけでなく、二回も交通事故に遭い、幸い生命を取り留めたが、一歩間違えば現在生きていられなかったかも知れない、正面衝突という大事故にも見舞われた。幸い助かった大切な生命、事故の後遺症が残り苦しい面も多々あるが、生き延びた分世の為人のために尽くせよという任務を負っているのかも知れない。




私の人生劇場(64)    [頸髄損傷・頭部打撲後遺症]


     通勤途上対向車に正面衝突さるという、大惨事に遭遇した件については既に(28)(29)「九死に一生」で取り扱っているので、重複は避けたい。頸髄損傷や頭部打撲の後遺症で、手に力が入らなかったり、退院後も常に精神的に不安定な状態が続き、近くの大学病院へ通い安定剤を処方してもらい服用をやめられず、ちょっとしたストレスで血圧がすぐに上昇し、時々頭の中がボーッと空白になる等、心身に障害を期たして苦しみ、今でも薬を止められず悩まされ通院は続けている。

 忘れっぽい・根気が無くなった・覚えや記憶力が悪くなった・思考力が弱くなり、後頭部が空白になって複雑なことを考えるのが面倒になり避けるようになった。判断力が鈍り頭の回転が鈍くなったし心身とも身体全体のバランスがとれず、常に焦燥感で不安定な心理状態が絶え間なく続いている。落着いて心穏やかに平常心でいられなくなった。外目にも妻からは、「お父さん、いっぺんに5歳は老けましたよ」と指摘されていた。それは本人も自覚しており耐えがたい事ではあつた。こうした辛い状態が長期間続いたが、何処かで自分と対峙し克服しなければならないと、常に自分と闘っていた。

病気にも世間にも負けてはいられない、なにくそという気力が回復するまで長い年月を要した。現在の日本が平和で豊か、安心して生活していられる情勢であれば、安穏と過ごしてもいられようがそんな情勢でも時代でもない。長い間悶々とし、このアリ地獄から抜け出さなければ自分がダメになってしまう。交通事故に遭ったがために、人生の敗者、廃人にはなりたくない。先ず身体を鍛え、体力に自信を付ければ精神は後から着いてくる。

 政治を正すには、憲法が生きいきと通用する社会にしなければならない。世間をまともにするには、憲法の精神は闘って守る以外に道はない。それには負けていられるか、じっとしていられるか 、黙っていられるか、動かずにはいられない。幸い好きな山へ登り、痙攣して動かぬ足を両手で持ち上げ、重い身体とややもすれば弱気になる精神にムチ打ち、努力を重ねて体力も幾分回復し、身体に自信が着けば精神力も比例して付いて来る。何よりも気力を持ち心身ともに鍛え直し自信を持たないと、何事も出来ないし前進しない。半分に落ち込んだ体力も気力も、人並みな水準には回復している。




私の人生劇場(65)   [目標を失い惰性で生きる人生は辛い?]


   自分でも原告として争議を経験し、他の争議を幾つも支援してきた。争議を闘っているときは、勝つ為に必死で集中せざるを得ない。しかし、争議が終わり事後処理も終って一段落、1〜2年も経過すると大概争議の事は忘れていまうのではないか。支援を受けた義理を果たせば4〜5年でおさらば。続く争議がなくなれば尚更、引き続いて関連する任務に就けば、経験し会得した能力を自然に活用できるのだが。争議支援をせずただ遊びや娯楽だけに時間を費やす人生よりは、自分の経験や能力を活かす活動をすれば、例え微力でも老後の生活に生甲斐を感ずると思うのだが。

 私には目的・目標が有り、何処から先に手を付けてよいか迷うといったところか。百名山を完登したら本を出版したい。その為に老骨に鞭打ち、体力維持のため丹沢へは頻繁に登って訓練している。なんとなく気力が薄れ間が空くと、自分の怠惰な気持ちに、しっかりせんかいと、自戒の念にさいなまれる。それだけではなく、今の世の中安穏として暮らしていけるほど正常ではなく、矛盾だらけの社会である。一人の力は弱いが、黙って見過ごしていられる状況ではない。微力ではあるが、出来る範囲のところで行動にも参加している。

 情報公開裁判・CRPSの難病指定の支援等、やることは沢山ある。小説も書きたい。特に、争議の分野は私の経験したテリトリーであり、是非書き残しておきたいジャンルである。しかし、少し荷が重く手が着けられないで来ている。先ずいきなり本番でなく、助走をを付ければ進展すると思う。取り掛かれば私独特の探求心が働き、だんだん深みに嵌って抜き差しならぬところへ進んでいくであろう。最も危惧するのは、真実に近いノフィクション小説であってみれば、身近過ぎて余計な荷重を感じ過ぎているのかもしれない。 もっと気軽に取り組むことが求められているのかも。

  現在は、HPにまとめて発表し助走をつけ、いざ本番への準備中と考えている。百名山あり、エッセイあり、ボランティア有りで、今のところ同時並行で進めでいるが、バランスのとれたところで一旦中間総括。やはり本命は小説に繋がる、ボランティアの項である。現在は筆慣らし、焦らず生きること、じっくりと構想を練り発表する事も、これまた人生の付加価値として、内容の充実に繋がるかも知れない。




私の人生劇場(66)  [我が家の家系から受け継ぐDNA]


 時代は江戸末期から明治と古い話になる。祖父は明治18年に長男として生まれ、大事に育てられたのか、総領の甚六で遊び人というより放蕩の人生を送った人であった。街の商家の娘さんと結婚、明治の時代に馬車で嫁入りして来たという。長女を儲けるが母が1歳の時にフラリと放浪の旅に出てしまったという。帰ってくる時にはいつもつけ馬が付いて来る、博打で負けた借金を背負い付け馬が着いて来るのである。大きな百姓でも農家に博打で負けた大金をすぐ払う現金など有る筈はなく、田畑を売って金に換え、付け馬に引き取ってもらう。そんな事の繰り返しで、土地はどんどん無くなっていく。飲むことや女遊びくらいの道楽ならいざ知らず、ヤクザ相手の賭博のカモにされたら、素人のボンボンなど、掌で弄ばれ堪ったものではない。先祖伝来の土地など、たちまちむしり取られてしまう。

 祖祖父は養子で入った人であるが、長男が18年に生まれているので、江戸末期に生を受けた人である。養子でもあり、このままでは先祖から受け継いだ土地や財産は無くなり、無一文になってしまう。幸いというか、末弟の源蔵さんは長兄の体たらくを見てガメツク育っていた。祖先の財産を少しでも守るには、その末弟へ残りの半分の田畑を分け与え、新宅に出して土地を守るしかないと考えた。博打の借金だけでなく、女遊びも達者、花柳界の女性を連れ込んでは別れる。最初の奥さんは母を生むとすぐに愛想を尽かし出て行ってしまう。すぐに二番目のお妾さんが入り、その女の人に母は育てられたとのことである。祖父の放浪癖は治まらず、その後も何回も家を出て音信不通のまま何年も帰らない事があつたそうで、帰るときは必ず付け馬が一緒である。私が子供の頃知っている祖母というのは花柳界に身を置いた人で、祖父の3番目のお妾さんが居座っていたのである。従って、私は実の祖母も二番目のお妾さんも全く知らない。しかし、母の母つまり実の祖母は、再婚先で亡くなり、そちらの戒名がある。従って墓碑上の祖母は、花柳界の女性で、私達とは何の血の繋がりもない人であった。私が子供の頃はリュウマチで寝ており、放課後自転車で医者へ薬をもらいに行くのが役目で有ったのを覚えている。

 父は山で生まれ育った人で、婿養子に来て母と結婚、潰れかかった先祖の身代を立て直したのは、父母の二人である。もともと母は長女で一人っ子、正当に家督を継ぐのはこの人しかいない。父は寡黙で真面目、粘り強い人であった。雑木林の持ち山を一人で開墾、畑にするために黙々と働く姿を目にして育った。父も母も真っ正直な人であつた。しかし、それまでには祖父が連れ込んだ2号さんとのいじめにに合い、邪魔にされて父の実家へ暫く世話になったり、大変苦労を強いられ、貧しい時代を夫婦力を合わせ乗り切ってきたようである。
 
 同じ境遇に生まれ育ち成長しても、その人の立ち位置によって全く価値観が違うのは不思議である。私の長兄は総領として大事に育てられたのであろうか。兄弟姉妹は皆、戦前の貧しい同じ境遇に育ちながら、価値感や考え方が違うのである。次男の私から見れば、兄はやはり総領の甚六でボンボン、労働者一世で無から出発する私とは、よって立つ基盤が違うことを認識せざるを得ない。祖父や父母のDNA,私の血筋にはやはり先祖の血が入り混ざって流れていることを思い知らされる。正義を捨てたり避けて通ることはできない。最後は、熱い血がムラムラと煮えたぎり、妥協したり譲歩することは許されない。母は祖父の道楽の為に、貧しい生活を余儀なくされた。しかし、生まれと育ちは争えない、娘時代までは御嬢さん育ちで、貧しくとも飽くまでも鷹揚でおおらかな人であった。母から伝え教えられ私に引きつがれたDNAであろうと思っている。





私の人生劇場(67)   [コンニャクと卵油]


 数年前、無料でポストインされるタウン誌に目を通していると、あれ?と気になる広告が目に付いた。中年女性の更年期障害で苦しみ、外出先で症状が出たら大変と、心配で外出もできなったご婦人が卵油を飲んで快復したという内容の宣伝であった。その症状は心臓が苦しくなり、自分の精神ではコントロール出来ない状態、つまりパニック状態に墜いりどうしようもなかった。それが、卵油を飲んだら嘘のように治ってしまい、現在は健康を回復し、毎日楽しい生活を送っている旨の体験談が載せてあったのである。

 当時は私も定年退職後で、生活が変わり不規則になったので体調を崩し、特にアルコールを飲み過ぎた翌日は、心臓が締め付けられて苦しい思いを経験していた。ストレスが大きい時も同様で、落ち着くまでには長時間を要し、誰にも相談できずまた他人に悟られないように、じっと我慢している以外になかった。あるいは散歩をしたり環境を変えて自分の気分を転換させ、そこから意識を逸らせるしかなかった。そんな時目に着いたのがタウン誌の広告で、「あれ、私の症状と同じではないか?」。つまり、卵油には血液をサラサラにする効果があり、心臓に負担を掛けず、血流をよくするので健康に良いということである。

 私も化学で仕事をしてきた関係上、早速ITで作り方を調べてみると出ていた。卵の黄身だけを取り出し、とろ火で時間をかけて掻き混ぜながら煮詰めていくと、最後に黒くなり黄身のエキスである卵油が抽出され、それを回収し保存する。最初は2時間以上かけて抽出には成功したが、出てきた油をどう回収するか迄は考えていなかった。しかし、色々考えて吸引用のスポイトが有ったので、滲みだした油を回収し、回収率は低かったものの一応成功した。2回目は熱効率の良いアルミの圧力なべを利用し抽出迄は成功したが、なべ底が深すぎ回収の段階で油だけ分離出来ず失敗してしまった。次からは、直径30cmのフライパンを使い、掻き混ぜる用具や回収用の吸引具も考案し、火加減もコツを覚え1時間程度で卵油の作成に成功するようになった。ギフト用の手頃なガラス瓶に入れ冷蔵庫に保存し、食後3回服用していた。心臓の圧迫軽減に顕著に効用が有ったか否かは、定かではなかったが。

 私の田舎は群馬で下仁田に近い。コンニャクを粉末にし、混ぜると固まる調剤も入れ、素人でも作成出来るようにし、JAで販売していた。用事で群馬へ行くとJAで購入し、手造りのコンニャクを味わうのであるが、こちらは妻の役目である。箱の中には作り方のマニュアルが入っているのだが、そのとおりに作成しても必ずしも成功しない。一度失敗すると調整は利かず固まらないでドロドロ。処分する方法はなく、仕方なく少しずつトイレへ流して処理したそうである。田舎へ行った時に姉に聞くと、説明書と違い「火加減を強くする」コツを教わり、それ以後失敗はないという。私の卵油作りも最後は「火力を強くする」と、ほぼ100%回収、コンニャク造りも強火がコツ、共通点があったのである。




私の人生劇場(68)    [人生あらゆる分野にドラマあり]


 私の一年は、新年早々1日は群馬で行われる実業団のニューイヤー駅伝から始まる。群馬出身という事もあり、地元の見慣れた風景が出てくるのでこれは見逃せない。2・3日は大学対抗箱根駅伝に釘付けになってしまう。以前は元旦や正月早々用事が入り中々余裕はなかったが、ここのところ駅伝のテレビ観戦が可能になった。42.195kmという、人間の限界ともいえる距離を走るマラソンには人生のドラマがあるが、チームでタスキを繋いで走る駅伝には、更に脚本では描けない多様なドラマが伺える。

 1区で飛び出すチームもあれば、出遅れのチームが花の2区で十数人ゴボー抜きをするのも爽快である。しかし、同じ選手が走っても翌年は脚が動かなくなってしまい、本人も監督も勿論観客も全く想定外の事態が起こる。熱射病でフラフラ、タスキが繋げるかどうかハラハラ・ドキドキの場面が現われたりすると、こちらまで必死になってしまう。箱根の山登りでは柏原のようなヒーローが出現して、チームを引っ張り優勝に導く貢献をしたりする。ただ、飛び抜けたヒーローが一人いてもダメ、総合的な力を持っていないと優勝には結びつかない。しかし、その裏には血の滲むような練習と選手の団結が求められエピソードが語られる。マラソンや駅伝そのもが、真剣勝負の一つのドラマであると言える。

 駅伝だけでなく、あらゆるスポーツにも共通して秘められたドラマが存在しているであろう。だが、弱いチームは悲劇として消し去られてしまい表面には出ない。それが優勝したり強ければ、ヒーローが生まれたりヒロインがクローズアップされ、持て囃されるのであるからスポーツは、優勝したり強く無いと注目されない。どのスポーツでも、常に相手にプレッシャーを掛けていた方が大体勝つ。ボクシングも、ロープに詰められて背負っていては8・9割は負ける。ここ一番必殺パンチ(技)が無ければ、カウンター狙いではプレッシャーに圧倒されクリーンヒットしない。個人の格闘技も団体競技も常に優勢を保っていた方が有利である。歌の世界や歌手にもドラマ有り、サラリーマンにもどの分野の世界にも人生の多様なドラマが存在している。同様に、出世したり人気を得なければ誰も取り上げないし注目もされないのは、どの世界でも共通している。

登山にもドラマあり、自分や家庭にも人間の生きるところ何処にも当然ドラマがある。ただ、それが世の中に認められた勝者でないと注目されないのである。敗者は無視され、いつまでも敗者であるが、敗者が敗者として勝者になるには世間で注目されななければならない。そうなると誰もが勝者になる可能性を秘めていることになる。直近の例を挙げるならば、自閉症の青年が本を出版し、日本では目立った反響はなかったが、イギリスで翻訳本が出版され、一躍注目を浴び、米国やイタリア、ブラジルなど、九ケ国の出版社から注文が殺到したという。彼は弱者ではあったが、その生き様をありのまま著してドラマにした。我が人生の生き様もドラマそのものであったし、その事を世間に示していけばよい。それには自費出版して注目されなければならないし、まだ人生に遅いという事はない。




私の人生劇場(69)   [唯一寿命を縮める事は]


 最近は争議も少なくなり、以前のように心身共に無理し負担を負いすぎる事もなくなった。前は早朝宣伝で早起きし、一日中動き回って一杯、その一杯が引き金で二次会・三次会となり、帰宅は午前様。翌日はまた早朝からと連日続く生活を送っていた。身体には当然、精神的にも他人の一人争議に責任を持つ関係上、陳述書や演説等、自転車操業でストレスも加わり過大な負担を負ってきた。考えてみれば、寿命を縮める生活を送って来た事になるが、それが日常的な生活であった。

  それと比較すれば、現在は心身に無理のない生活を送っていると言える。何もない朝は8時過ぎまで寝ていられる。夜もパソコンを早く切り上げれば、早く寝ることは自由である。定年後、仕事に着いていないので、時間は自由である。好きな時に散歩し、体力維持のために努めて丹沢登山を欠かさないようにしている。行って来た翌日は、多少筋肉痛に悩まされるが、血圧は正常値内に納まり快調である。みかん畑作業も適度な運動と心得、無理はしないようにしている。温泉での懇親会も適度な量で切り上げ、二次会は年齢のためか気が進まなくなったので最近はそのまま帰るよう心掛けている。争議や運動の支援も、外の空気を吸い気分転換になるし、家に閉じこもることもなく適度な頻度で外界のありようを肌で感じられる機会にもなる。

 活動終了後、懇親会で一杯飲むが度が過ぎる程は飲まない友人たちである。駅頭や霞が関の官庁街でチラシを撒きマイクで演説宣伝し、終わった後は多少あった緊張感もほぐれ、喉の渇きを感じる。そんな時は習慣もあろうが冷えたビールは美味しい。何もしないで朝や午前中からアルコールを飲むのは好まないし、潔癖症な私は自分に対して嫌悪感を味わうので避けている。午前中や昼から家で飲むと気分がだらけてしまい、まともな時間は過ごせず一日を無駄に過ごす事になり、多少の罪悪感を覚え、却って気分が滅入ってしまう。

 そんな私でも、時としてつい飲み過ぎてしまうことがある。外で二次会程度なら、ビールなので適度な量で済ませられる。嘗てはつい三次会迄付合わないと気が済まなかった。田舎の宴会は長く、料亭での会の後、帰宅しても必ず延長で飲み続けてしまう。トータル10時間も飲んでいれば相当量のアルコールを体内に入れていることになる。また、外で適度に飲んで帰宅しても、少し物足りず家で飲んでしまう。翌日の二日酔いの苦しさは、妻にも覚られず平然として弱味は見せられない。節制せねばならないと心得、あの分控えておけばこれほど苦しまずに済んだのに、自分の失敗であればこそ後悔も大きい。現在、私が唯一寿命を縮めているとしたら二日酔いの苦しさであろう、あれはいけない。生き証人とし事実を語り、後進に受け継ぐ事も私の役割、長生きすることが私の任務でもある。




私の人生劇場(70)   [喜寿の峠を越えて]


         私は既に70歳の誕生日で古希を越えている。”古希”の謂われは、この歳まで生きるのは”古来希なり”という古き昔のことであり、平均寿命が延びた現在70歳は決して希でなく、周囲を見渡しても同年代の人間は皆ピンピンと生活している。至極当たり前に、取り敢えずは70歳の坂を越えたという程度の気分である。同年代の友人は、殆どが既に孫が居り“爺(じじ)”である。孫が生まれるとやはり環境の変化から精神年齢を実感するらしい。我が家は、まだ孫もいないしその心境に至ってはいない。

 私は、未だ山に登るし本の出版もしたい、パソコンでHPを開設し、世間に率直に語り掛けていくし、まだ遣りたいことは山ほどあり年齢など感じて居られない。古希を無事越えて次の峠は、77歳という喜寿が控えている。大体日本人の平均寿命は85歳くらいであるが、男女差が5歳ほど有る。男性は79歳程であろうか、女性より心身を酷使してきているので短命である。70歳は簡単にクリア出来ても、次の7年はキツイ坂である。私も65歳以後は体調が変化してきていることを自覚するし、身体が重く動き回るのが億劫に感じてきている。そして次は、喜寿の峠に向かって歩み進めるが、周りには古希の峠を越えられずに逝く人が身近にいるし、だんだん人生の終末が迫っている、そんなな年代を実感している。70歳を越すと更に山登りは辛くなってくる。喜寿のお祝いというより、77歳は人生の峠でありそれもキツく険しい坂道を登らないと越えられない峠であり、その峠を越えた者が喜寿を祝ってもらえるものだと。そして、険しい峠を越えるとまた長生きするのではないかと。

 私の手帳には、新聞の訃報欄から書き写した知名人の記録がある。立川談志が75歳で死去した。藤田まことも坂上二郎さんも76歳で逝っている。井上ひさし・児玉清・長門裕之も75〜77歳で逝っている。喜寿を直前にして、75歳か76歳の手前で亡くなる人が統計的に多く、77歳は人生の大きな峠であることを、強く感ずるこの頃である。彼等芸能人は、スケジュールに縛られ精一杯生き、身体も酷使して来たであろう。私も若い時から不眠不休に近い生活をおくり活動に集中し、心身ともに負荷を掛けて生きてきた。このような生き方は寿命を縮めるに違いない。又、昔の食料事情と違い、知らないうちに着色料や化学薬品を含んだ食品を摂取してきている現代人でもある。医学の進歩に伴い人間の寿命が延びたとはいえ、生活環境としては長寿社会と反する体質に変わり、胸突八丁の75〜76歳で逝く宿命に置かれているのではないだろうか。

 70年生きてきた人生を振り返り、自分が選択し歩んで来た道に間違いは無いし悔いもなく、確信を持っている。そうした基盤の上に立って、これからどう生きるかと問われれば、違った選択肢を選ぶであろう。もし仮に20歳若ければ、違った道を選択して歩みを進めるであろう事は間違いない。それはもっとユニークで効率的な方法で、世の中に訴え働きかけて行くであろう。私も健康に留意し、正常で心身共に健康で長生きし、最後まで闘う人生をと思うのだが。しかし、現実に私の現役生活は喜寿まで、残された5年と考えている。体力的にも脳の柔軟性も、年齢的な減退期に来ていることを自覚しての想定であるが。



トップへ(essay)





エッセイ
”偶   感   篇 ”


私の人生劇場(71)   [もう10年若かったら・・・]


 ”もう10年若かったら ”この言葉が現実になったらどうであろうか?更に20年若かったら・・・と。不可能な事であるが、自分の人生を振り返って、もう一度若返ってやり直しが出来るとしたら何をやるか、考えるのも楽しいものである。ただそれは、自分の今迄の生き方がまずく、反省し悔いるのでなく、更にもう10年・20年長生できる確実な保障があるとしたら、現在何を遣れば良いか、前向きに意欲を発揮し発想するのも同様面白いであろう。ただその場合、10年のキャリアは積んでも、20年前の若さと新鮮な感覚や記憶力は喪失しているギャップはあるであろうが。

 抽象的では曖昧なので、例えば具体的に登山について考えてみよう。20年前、50歳で登山に集中していたとしたら、ヒマラヤは別として、外国の高い山へ登っていたであろう。それはツアーでも、ヒマラヤの前衛峰をトレッキングで歩き楽しんでいたかも知れない。その為には、当然体力も鍛え維持するために、日本の山や丹沢へ頻繁に登り、体力維持や登山技術の向上に努めなければならない。現在日本百名山完登を目指しているが、未だ達成できていない。50代であれば、体力的にも経済的にも、一年に20座くらいは頂上を踏めるであろう。さすれば、関連して百名山の登山随想集を発刊していれば、当然今とは生活環境や形態は変わっていたであろう。

 登山のみならず、詩吟や文学作品の創作についても、若く新鮮で鋭い感性や感覚が残されており、一生懸命取り組めば成長も早く上達していたであろう。当時の私は、他の分野で多忙であり、それらについては真剣に取り組む余裕すらなく過ごしてきた。一生懸命取り組むという事は、目的に対し当時の自分の経済力や能力の可能な範囲で有効なあらゆる可能性を追求し、考えられる器具や装備を取り入れて活用し、考慮に入れてのことである。

  こう考えてくると、確かに10年・20年前に今考えていることを始めていれば、人生は現在と変わっていたであろう。ただし、それは自分が過去を振り返り、現実にその年月を経過して会得し到達した考えであり、結論でしかないのであるが。してみると、もう何年若かったらでなく、現在の到達点を起点に、これから健康で10年20年、長生きできる保障があるとして、現在何を行い実践し努力することが最も相応しく現実的であかが問われているのである。何処まで到達できるかは別として、何事に対してもチャレンジする意欲が存在するという事は、未だ成長し目標を結実できる可能性を秘めている明らかな証であろう。




私の人生劇場(72)   [70年不知の不思議]


 自分の身体の事は、自分が一番良く知っていると思うのは当然のことである。身長も体重も視力も、身体の状況は誰よりも本人が承知しているのは、至極当りまえである。病歴についても、現在の体調が芳しいか否か、最近どうも身体が重く不調で、出歩くのが億劫になった等、自覚症状で分かるのは本人である。

 ここのところ、抜かないで長年保たせて来た前歯が槽膿漏で弱り、どうにもこれ以上抜かないでおくのは無理な状態に進行してしまった。仕方なく抜き1本を挟んで前歯3本の義歯を作製して貰った。6年ほど前に同様歯槽膿漏で前歯2本を抜き、入れ歯にしたのであるが、その時は初めて口中に異物が入ったので、馴染むまで違和感に神経が集中していていた為か、自分の口内に異常が在る事には気付かなかったのであろう。

 今回は3本なので、入れ歯を保持する部分が歯茎の内面に当たる為か、違和感と多少の痛みを感じたのである。自分の口内なので鏡では見えないが、指で触ってみるとかなり大きな出っぱりが有り、しかも固いのである。膿や水泡であれば、柔らかく歯科医に診てもらうまでもなく、指や舌の感触でも判断は可能であるが、明らかに硬く骨の出っ張りである。歯茎の外側に出れば八重歯で、すぐに判りそれなりの処置をしたであろうが、内側の腔内に出て、しかも中途半端で皮膚を破らなかった為、痛みもなく不都合も感じなかったので自分でも気が付かなかったのである。それもなんと70年間もの長期間不知であった。

 自分の目で見、触ったり五感で感じれば異常は知れるし容易に分かる。しかし、自分の背中に黒子が幾つ有るか、体内の目に見えない部分については知る由もなく、自分を全て解かっているとは言えない。今回の70年振りの発見は、身体の事だけでなく、精神的な面や癖など、”岡目八目”で本人よりも他人の方が客観的に良く見え、自分では気がつかない仕種や性格等、多数有るのではないかと改めて思い知らされた次第である。




私の人生劇場(73)   [夢(1)]


 最近よく夢を見る。それもかなりリアルなもので、日常生活と直結する現実的かつ鮮明な内容で、知人が出てきたりする夢もある。しかし、良く覚えているつもりが、朝起きていざ記憶をたどろうとするが中々思い出すのは難しく、時間が経過して関連したことを遣ったり考えたりしている時にひょっと思い出すこともあるが、その時メモしておかないとまた忘れてしまう。それが夢というものであろう。悪い夢をいつまでも忘れず背負っているようでは、人生が暗くなり生きていけないであろう。忘却も人生に必要である。

 夢で、何回も同類の内容のものをみる事がある。嘗て頻繁に登山をしていた頃、岩場でニッチもサッチモ行かなくなり、進退窮まった嫌な夢を何回もみた記憶が残っている。無意識のうちにそうした場面を頭に描いていたのかも知れない。登山を中断していた時は、対象が山ではなく、2階へ昇って梯子がなく滑り下りたり、大木や電柱であったりして、手掛かりがなく仕方なく滑り下りたりする場面の夢を見たものである。

 人生で最も多く見る夢は、走る競争をしたり何かに追いかけられたり、逆に懸命に追い駆けているのに、どうにも脚がサッパリ前に進まず、じれったい夢は誰もが経験しているのではなかろうか。そんな夢の時は、眠っていても自然に足を動かそうと努力しているのではないかと思われる。私は、夜中に目覚めたり朝目が醒めると、布団が全く掛かっていない事が時々ある。そうした時は多分、眠っていて布団を蹴飛ばしているのかもしれない。もう一つの発想は、普段実際に走り他人を抜かすほど早く走っていれば、そうした実際の光景が脳裏に焼き付き、夢でも早く走れるのではないかと思われるのであるが。実践し試してみる気力は湧かないが、脚の速いマラソンの選手はどんな夢を見るのであろうか確かめてみたいものである。

 ”朝夢は正夢 ”という諺があるが、夢は大体、眠りの浅い朝方見るようである。睡眠にはノンレム(眠りが深い)とレム(浅い)状態が有ることは証明されているが、夢を見るのは眠りの浅い(レム)時の現象であろう。今迄の私の経験では、楽しく気分の良い夢を見たことは殆どなく、大概は嫌で悪い内容の夢である。どうしょうもなく困っている時にパッと目覚め、「アー夢でよかった!」とホッとする、そんな場面に何度救われたことか。たまには、正夢で宝くじでも当たった夢でも見たいものである。




私の人生劇場(74)   [夢・現実(2)]


 私は若い時から、余り大きな夢(理想)を抱いたことはない。ただ、日常の現実をどう乗り切っていくかで精一杯な人生であったような気がする。金持ちになろうとか出世しようとか、富も栄誉も得ようなど爪の垢ほども考えたことのない、無欲な人間であった。

 ところが現在はどうかというと、老い先短い年齢に到達して来た為かも知れないが、以前より欲が出てきた事を自覚する次第である。ただし、欲とは言っても金持ちになって富も栄誉も欲しいという、俗に云うところの単純な物欲ではない。百名山を目指し、途中でストップしているが、当初の計画では完登して記念に本を自費出版しようと考えていた。本気で努力すれば、実現可能な目標である。しかし、現実には途中まで行って前進していないのである。これはぜひとも達成し、本を出したいという類の欲である。

 詩吟を習い始めて5年、当初は3段程度の実力を持てば十分、結婚式や祝いの席で一曲吟じられる程度になれば良しとして、それ以上のレベルを目指す気持ちは無かった。今迄はそれ相応に曖昧で、一生懸命・本気で吟じ練習に取り組み努力しては来こなかった。発表会の舞台で恥をかかない程度の、所謂一夜漬けの練習でお茶を濁してきたのが現実である。しかし、現在は遣るからには全国大会へも出場してみたい、挑戦するからには上位に入賞したい。それにはやはり、今迄の曖昧さを脱却し本気で練習しなければ勝ち取れない事は明白で、まぐれや偶然は望めない。この一年本気で取り組み挑戦する気概と意欲が湧いてきたのである。

 今迄と違ってきたのは、本気でやれば知恵も湧くし工夫や努力もする、自分にはそうした能力が備わっているかも知れない。いい加減で妥協すれば後で後悔する、詩吟や山は一つの例として挙げたに過ぎないが、自分の保持していた能力を出し切らないで悔いを残す生き方はしたくない。今迄私に無かった欲であり意欲、高い目標と夢を持たないと、本気になって努力しないし持てる力も発揮できない、そんな相互関係に有るのではないか。大きな夢を持ち、挑戦し実現したいものである。
    



私の人生劇場(75)   [無線からインターネットへ]


 阪神淡路大震災は、1995年1月17日(火)に発生したので、今から約19年前の事になり、東日本大震災の3・11が起きて約3年近く経過した現在、既に国民の脳裏からは忘れ去られている。津波とは違い直下型地震であり、建築物の倒壊や火災等で被害は大きく全国の注目を集め、国民を震撼とさせた事は確かであるのだが、長年月が経過すると、人間の記憶からは薄れ忘れ去られていくのが現実である。私は所用で、2日前の15日まで被害の大きかった三の宮に居り、幸い2日の差で被災を免れたので印象深く記憶している。

 私には被災地である神戸に、大事な友達が沢山存在していた。その安否がどうなっているか心配し、確かめようと努力したのは当然であるが、電話が繋がらず中々確認出来ずに時間は経過した。震災が起きたのは火曜日であり、現役であった私は出勤しており、帰宅後や夜に何回も友人へ電話をした。しかし、全国から神戸へ集中する電話で混線し、必死になって掛けても繋がらない。3日間で何十回掛けたか数えていないが、連絡は取れず焦ったものである。4日目の朝ヒョット気が付き、出勤の前早朝に電話したら繋がったのである。十数人の親しい友人中、人的被害は無く、家屋の被害が2人程有ることが確認でき、先ずは安心した。誰でもが掛ける昼や夜は、電話は繋がらないことは明らか、早朝に掛けたのは正解であった。

 しかし、震災を機に異変が起きた緊急の場合に、連絡が取れる良い方法は何かないものかと考えた。気が付いたのはアマチュア無線である。空中を飛ぶ無線であれば、数も少ないし神戸の無線家に繋がる確率は高いであろう。早速本を買い勉強を始めた。最短の試験日を調べ、東京晴海の試験会場へ行きアマチュア無線4級に合格した。欲が出て翌年3級を受けたが、ペーパーテストは満点であったが、トンツーの無線聞き取りの実技は全く分からず、不合格であった。船舶やその他実用的な面では、無線は不可欠であり大きな役割を果たしてきた歴史的事実は確かである。手旗信号では、せめて望遠鏡で可視出来る距離範囲である。無線通信は、海や山と地球の裏側まで通じる意思伝達の重要で有効な手段であった。しかし、若い時ならいざ知らず、50歳を過ぎてトンツーを聞き取るのは、如何にも無理な話である。そこで思案をしたのであるが、考えるより早く技術の進歩が解決してくれた。

 ワープロは早くから活用していたが、コンピューターが発達し、PCが更に発展して、一般人でもインターネット(I.T)で、世界中に通信が可能な時代的背景が生まれた。無線よりも設備が軽易でしかも意志の伝達ができるI.T、時代の流れと文化の発展は人間の思考を簡単に変える。60歳の手習いであるが、定年と同時にPCを購入して覚え、活用する努力をした。現在では非常時だけでなく、日常的な意志の伝達の通信として活用している。




私の人生劇場(76)   [3・11東日本大震災と歴史の接点に生きる]


 ”地震・雷・火事・おやじ ”という諺があるが、地震は予知できず、巨大なエネルギーを発生するので最も恐ろしい。私達の年代は、関東大震災は知らないが、阪神淡路大震災や3・11の東日本大震災を体験している。関東大震災であれば直接的な被害を被っていたかも知れないが、阪神も東日本も、テレビでその猛威を見ただけで直接的な被害は受けていない。被災した現地の人は災難であり不幸な境遇に直面してしまった事になる。しかも3・11では、福島原発の爆発という人災が重なり、放射能被害まで受け、踏んだり蹴ったりという二重の災難に見舞われるという、不幸を被せられた事になる。

地震は地球の歪みを支えきれず、限界を超えた岩盤のズレで、大小の差はあれ、必然的に発生する。しかもそれは一時的な妥協点であり、更に歪は進行しエネルギーが蓄積されていくという循環である。そして50年とか100年、或いは200年に一度は大きいのに見舞われる必然性を有している。日本の国土は地理的に、そうした複雑に入り組み重なったプレートの上に載っているのであり、地震王国と言われる所以である。台風も又しかり、南方海上で海水温が上昇して発生し、北上する通り道に位置しているので、直撃を受ければ自然の猛威に大きな被害を受ける宿命にあると言える。これまた地球の自然現象であるが、地震と違い大きさや進路も予測できるので防御を固め、被害を最小限に食い止める事は可能である。

 地球の歴史から比較すれば、人類の歴史はまだ浅い。火山の噴火あり、現在より巨大な地震に見舞われ地殻が変わったり、南方の海底が隆起し何億年も掛けて日本列島に貼りつき山になったり、大洪水に曝されたりしながら現在の地形が形成されてきたのであろう。地球はその延長線上でさらに変動しているので、未だまだ何が生起するか分らないと認識しておくべきであろう。

 又、人類の歴史から比較すれば、人間一人が生きる年数は更に短い。100年に一度発生する自然災害に、遭遇し被害に遭って犠牲者となる人も居れば、運よくそうした谷間を生きて災害に遭わず、一生を過ごし幸運な人生を送る人もあろう。しかし、それは自分で選択出来るのでなく、生まれた年代や時代、生活する場で決められ、その人の運命で有るといえる。私達の年代は、阪神淡路・東日本と経験しているが、直接的な被害は被っていないが、その洗礼と影響は受けている。更に心配なのは、近い将来、東海・東南海・南海という、地震の巣を抱えている。そこには危険な原発が存在している。このプレートがドミノで動いた時は、3・11よりも巨大なエネルギーが発生し、大災害に結びつくと専門学者は推定している。更にもう一つ、大災害には遭遇したくないものである。クワバラ・クワバラと、避けたいものである。




私の人生劇場(77)   [登山と衣類の変遷]


 私は、若い時から地味で、それは当然着る物にも直反映する。下着は白でその時代のスタンダード版、色付きの物など思いもよらなかった。スーツも紺や暗い地味な色を選び、デザインも当然、平板な至って人並みな物を好んだ。意識するまでもなく、自分で何店か廻り懐具合と相談しながら好みを選び購入してくるのであるから、それがその時の自分が最も気に入ったということであろう。そうした中でも歳を経るに従いカジュアルな衣類は、温かみのある茶系統が好みであった。

 そんな地味な性格であるから、赤や黄色や青など原色でハデな着衣は、とても自分には似合わないと決めつけ、身に着けた事はなかった。衣類だけでなく、身に着ける物や車なども、赤や派手な色は避け、至極一般的で落ち着いた色やデザインの物を選ぶのは共通していた。最初の頃の登山の服装を写真で見ると、上も下も黒、ベストは濃い緑で、キスリングザックの背中の部分は汗で色が移り緑に変色している。

 そうした性格や好みも、山へ登るようになって徐々に変化してきた。登山は重い荷物を担ぎ、険しい山道を登るので、非常に重労働である。従って使いやすさや便利さなど、機能性が要求される。長期間山へ入るには白は汚れが目立つ。更に登山では遭難という危険が伴うので、万が一の場合、遠くからでも目立つ原色、その中でも赤が人目に付きやすい。そんな思案から、上着やストッキング・合羽などは赤系色を選択している。

 日常生活に於いても、山の下着は汗を弾き渇きやすい化繊、しかも色付きにと変わってきている。上着も正式な場でなければ、山へ着ていく赤色、カジュアルな支度で出掛けられる。それにもう一つの理由は、歳をとったら若づくり、せめて気持ちだけは若さを保ちたい。下着は木綿で白、こうした昔の古い観念から抜け出し、現在は機能性を重んじ色彩も場所を選んで、赤など抵抗なく多様性に富んできている。




私の人生劇場(78)   [同 窓 会]


 来年は中学卒業時の、17回目の同窓会が行われる予定である。幹事は私の育った大字白石が担当である。計画や準備は地元の友人が行うが、私は最初の挨拶が担当と前回決められている。群馬は温泉が多いので、次回も上州の温泉で行われるであろう。2年に一度、定期的に行われてきたので、36年前から一年おきに欠かさず続いていることになる。多分日本でもこれだけ長く、継続している同窓会は数少なく、珍しいケースであろう。この内私は、よんどころ無い事情で一度だけ欠席しているが、他は精勤している。

 私達が卒業時、中学は町村合併で町立であったが、直前まで村立で一校だけであり、距離的にほぼ村の中間点に位置していた。低い山を切り開いて建てられたの山の中で、坂道を上っていく。平屋建ての校舎が渡り廊下で繋がれ、階段もあり校舎にも段差がついていた。同級生は最高時で132名、一クラス44〜45名であった。小学校からの持ち上がりで、転入・転出以外は9年間同じメンバー、クラス替え以外は同じ顔を見ながら学び、遊んだ仲間である。

 従って、同窓会が長く継続しているのは、9年間もの長い年月同じ顔ぶれで過ごしたという、親しみと団結力が基礎になっているのではないかと思われる。又、田舎なので広範囲に散らばっているが、集落が5ケ所に分かれ纏まっている。幹事は5か所で順番に持ち回り、担当してきている。相互に連絡を取り合っているが、多少のライバル心も働き、責任を果たすという、競争心も支えになっているのではないか。

 長く継続するためには、もう一つの条件として、一定の参加者を確保しないと絆は弱まり尻すぼみとなって消滅していく要因ともなる。地元で常に顔を合わせている者だけであると話題も少なく、変わり映えせず飽きてしまう懸念がある。そこへ都会に出た同級生が参加すことによって、話題も豊富となり新鮮味が加わり、雰囲気も盛り上がるものである。毎回50名前後の参加者で、盛大に行われ成功してきている事が、実は全体を励ます役割を果たしている。私は田舎を離れて遠くへ出、幹事の役は果たせないが、参加して変わった話題を持ち込み、新風と刺激を与える、そんなところに同窓会が長続きしている要因の一つが有るのではないかと自負し、可能な限り参加しようと考えている。




私の人生劇場(79)   [大量得票・議席は危険信号]


 猪瀬東京都知事が、公職選挙法違反で捜索を受けた徳洲会の前理事長から、5,000万円もの大金を受領していた事が明らかになった。素人の私でも事の真相は容易に予想出来る。5,000万円を受領した時点で、「あんたにはこれからたっぷり悪い事をしてもらいますよ」と、”金縛り”に遭い、都政が私物化される事は明瞭、危険な爆弾を抱える事を認識していなければならず、政治家として未熟というより金銭欲が強く抑制出来なかった。

猪瀬知事の収賄疑獄事件が表面化したのは、徳洲会へ捜索が入らなければ知らん顔、この問題は闇に葬られていたであろう。しかし、徳田毅議員の選挙違反で、検察が徳田ファミリーへ家宅捜索に入り、ゴットマザーと言われた母親の家から5000万円の現金が出た時点で、検察は既に猪瀬収賄事件を承知していた。慌てたのは猪瀬側、「借りた」事にして逃げ切ろうと根回し、偽借用証迄作成し、自分から公表したのだが、時既に手遅れ。徳洲会の選挙違反事件が持ち上がらなければ収賄して知らん顔、東京の一等地新宿に在る、潰れかけた東京電力病院を狙っていた徳洲会。東京都は、東電の最大株主、昨年6月の株主総会に自ら乗り込み「売却しろ」と発言して圧力、裏では徳洲会幹部と東電役員が売却交渉を行い獲得寸前であった。選挙違反事件が発覚しなければ、知事として補助金や税の優遇で徳洲会に大儲けさせ、見返りに毎年億という金が猪瀬君に還流、彼は左うちわで暮らせると甘い夢を見ていたであろう。徳洲会だけで無く、他の企業や団体からも。それにしても猪瀬君の終末は惨め、”奢れる者久しからず”である。

 この事件は偶然の一致で表面化した氷山の一角にすぎず、政界では日常茶飯事、表面化しないだけであろう。彼は作家であり、小泉政権のブレーンとして、又、石原知事の副知事の職に就き、実務家として一定の力を発揮したであろう。尖閣諸島を東京都が買い取る発案をしたのも彼であったらしい。日中関係を険悪に追い込んだ張本人であり、国民からの貴重な尖閣寄付金14億円が使い道なく塩漬、外交問題や政治課題もからみ、処分不能な難問を残して更迭という退場劇。参謀としては使えたが、トップになる人材ではなかった。しかし、彼を自分の能力以上に傲慢にしたのは何なのか、分析しておく必要がある。彼は都知事選が初めてのみそぎであり、最初の選挙で434万票という、都知事選では最高を獲得してしまった。そこに彼の最大の不幸が待っていた事に気が付かなかった。434万人が自分の力であり、勝手に民意は我に味方せりと、架空の錯覚と誤解に墜ちいってしまった。奢り昂ぶりが幹部の人心を掴めず、議会与党にも信を得られなかった。その延長線上に、5000万円や1億円の受領など当然と、妄想に陥り墓穴を掘ってしまったのである。

 同じ過ちは知事だけでなく、自・公安部政権が陥っている。衆参両院で自公与党が議席で絶対多数、議席さえあれば何でも出来ると思い違いをしている。アメリカの戦争のお先棒を担ぎ、国民の知る権利・表現の自由を奪い歴史を逆戻りさせる、特定機密保護法やNSC,TPPへの加盟強行と消費税率アップ等々、これだけ国民をいじめ悪い事を重ねて国民の支持が得られるや否や。議席は多数でも、自公の得票率は有権者の25%に過ぎない、虚構の上に建つ内閣である事に気が付いていない。大量得票・大量議席は危険信号、アメリカの大統領選挙のように、当落の差が僅差、一つ失政を犯したら次は落選の憂き目を見る緊迫感が、大統領や議員のバランス感覚を抑制し、悪政に走らせない。一都知事の収賄疑惑事件から、国民は多くの教訓を学ばねばならない。





私の人生劇場(80)   [情勢は闘って切り拓く]


 衆参の与党自・公の絶対多数を背景に、特定秘密保護法が、国会でろくな審議もせずに強行採決され、両院通過し成立してしまった。戦前の治安維持法を復活、官僚に懲役10年で圧力をかけるだけでなく、市民を監視し公安警察の権力を拡大し、嘗ての暗い警察国家に逆戻り、物言えぬ社会にし、アメリカの肩代わり戦争への道へまっしぐら。日本人を虫けらのように扱い犠牲にする、今世紀最悪の法律である。

 安部自民党政権は野党に転落した時期、水面下でさまざまな戦争法制を準備していた。秘密保護法や国家安全保障会議(NSC)は、その一部に過ぎない。マスコミの取材や発表にも官憲の目が光り、新聞もテレビも大本営発表で、国民は知る権利を奪われ目隠しされてしまう。文字通り「お・も・て・な・し」(表無し)の裏情報で操られ、知らぬ間に戦争への道へ加担・協力に引き込まれていく危険極まりない策謀である。国民は必然的に闘わざるを得ない立場に立たされている。しかし、従来の経過を見ると、圧倒的多数が反対でありながら、誰かがやってくれるだろうと他力本願、自分は無関心で声も挙げず行動にも加わらず、子供のいじめと同様、事実上賛成の側に回ってしまう傾向は日本人の悪習である。

 国会の政治地図を見ると、情勢は一見国民にとって不利な状況に見える。議員の数からすれば、自公で圧倒的多数を占めている。しかし、選挙の得票数からすれば、有権者の26%、1/4に過ぎない。しかも投票した人が全て秘密保護法やNSCに賛成ではない。選挙の公約にのなかった。現在でも治安維持法の悪質さ恐ろしさを、身を以て体験している人達も多数存在している。議員の職を辞した自民党の長老や元幹事長経験者も反対の声を公然と挙げている。学者や芸能人も多数が廃止の狼煙を挙げ反対している。マスコミ陣は勿論、多くの良心的な文化人がそれぞれの立場や分野から声明を出している。未だ嘗て無かった情勢であり、闘う国民にとって有利な面である。

 私が今迄関わってきた運動で、有利な情勢での闘いは唯の一度もなかった。国の段階や地域的な範囲、業界や団体の置かれている力関係でも、常に少数派でありしかも弱小であった。唯一、法と正義は我が方の理が通っている、その一点だけであった。そこを信じて多数派を結集していく、それが真の闘いである。そして闘う中で情勢を有利に切り拓いていく。特定秘密保護法撤廃の闘いはこれから、未だ緒に着いたばかりである。一度定着してしまえば、悪法は一人歩きしてしまう。生まれたばかり双葉の時に叩き撤廃する。国民を信じ、闘いの中で情勢を切り拓き、廃止に追い込んでいく展開を進めねばならない。



トップへ(essay)







エッセイ
”へ ル ス・ケ ア 篇”



私の人生劇場(81)   [ほくろ(黒子)がポロリ]


 ほくろ(黒子)は誰にでも有るし、ある意味では人の顔を印象ずけるポイントともなり、芸能人などはわざわざ付け黒子をして売り出したりする役者も存在する。一番気になるのは、いつも露出し人目に付く顔で、身体の他の部位に多数存在するが、衣類の下に隠れるので殆んどの人は気にしない。

 ほくろの原因は、皮膚の基底層にあるメラニン形成細胞「メラノサイト」によって作られるという。メラニン色素が作られる大きな原因は、皮膚に紫外線が当ると活性酸素が発生し、それを基底層にあるメラサイトが感知し、黒子が生成されるという。メラニン色素は、紫外線によって損傷される皮膚細胞を守る重要な役割を果たしてくれます。直射日光に当たる南國では、紫外線から皮膚を守る為、肌全体が黒くなるのは皮膚を守り生命を守るためです。私も若い頃海水浴に行き、砂浜で日光浴をし過ぎ肩の辺に沢山黒子が出来てしまいました。

 何故”ほくろ”の話が出てきたかと言えば、黒子というのは皮下に存在するので、先天的な物や日焼けして出来たものなど様ざまでしょうが、一度出来たら一生取れないものと考えていました。私には、左眉毛が切れる個所に余り大きくはないが黒子が有りました。物心ついた時には既に有ったので、先天的なもので父にも同じ所に黒子が有ったので、DNAを受け継いだものと思います。ところがその黒子が、ある時ポロリと取れたのです。60年以上も自分の顔に付いており、鏡を見るたびに見慣れていた黒子が。60歳を過ぎた頃、なんとなくカサカサするので、鏡を見ながら剥がしてみると、なんと黒子の部分がポロリと剥がれ、その下に普通の肌色が現れたのです。それまで別段気にもせず、取ろうともしなかった黒子が無くなりました。不思議なことです。

 一般的に40歳になったら自分の顔に責任を持て、とよく言われます。顔にはその人の生き様が現われるものです。柴又の寅さんには、顔にイボが有りました。それが寅さんの一つの特徴で、美男ではないが味わいのある、いい顔をしていました。年老いても、男女を問わず心の美しい人は顔に現われ、その人の人生を物語る見栄えのする顔つきに見えるものです。美しくなるには、心を磨く事でしょうか。




私の人生劇場(82)   [登山と爪の変形]


 山へ登る直前には、手足の爪を短く切り揃えてから出かけます。丹沢のバカ尾根で下りに辛い思いをし、両足の爪が内出血で真っ赤、爪4本を剥がし他は変形してしまうという失態を経験しましたが、以来教訓を生かし深爪しない程度に切り揃えて行きます。日常的にも手の爪が伸びると気持ち悪く無性に気になるのと、うっかりすると伸びた爪で自分の肌を傷つけたりと、思わぬアクシデントの要因にもなります。従って、手足の爪は常に短く切って処理しておく習慣があります。

 爪の成分は骨ですから、カルシュウム(Ca)が主成分と思われます。妻が調理好きなので、外食以外は3食共必ず家庭で食事を済ませます。食材の持ち味を活かすため薄味ですが、繊維質を多く採り栄養のバランスを考えた食事が並びます。夜は必ず晩酌をするので、夕食の時間は長く副食をつまんで済ませ、主食は食べません。特にCa を摂取できる、食材を選んで配膳してくれますので、通常の生活であればCa が不足する食事内容ではありません。

 十数年前登山を再開し、日本百名山達成を目指し始めた時期、土日や休日を空けて登山へ頻繁に出掛けました。暫くして手の爪に変化が現れてきました。それまでは平たく滑らかで艶もあり、所謂正常な形をしていました。気が付くとその爪がデコボコと波うち、明らかに以前と異なり変形する現象が顕著に表れて来ました。最初は何故か不思議に思え色々考えてみました。登山に起因していることはすぐに思い付くが、食事も偏らず栄養のバランスも均衡は採れている、Caも意識して摂取しているつもりであった。それなのに何故爪にまでCa が行き届かないのか理解できませんでした。

 登山は食料や着替え、一定の装備をパッキングしたザックを担ぎ、地球の重力に抗して坂道を登る行動で、脚に最も大きな負担が掛かる事は明らかです。若い頃登ったとは言え、20年のブランクがあり、身体の構造が平地向きに慣れてしまった体質にになっている。あのままコンスタントに継続していればいざ知らす、急激に登山を開始したので脚の骨を強化する為、体内のカルシュウムが自然と要求の強い脚骨に集中しているのであろう。その為に手指の爪迄は十分にCaが行き渡らないための現象であろうと結論づけました。Caを含む食品を意識的に食べ、体内の調整を図るが簡単に元通りには回復はしません。身体がCa を吸収するのは夜であり、牛乳に含まれる形態が最も身体に吸収され易いと言われるが、私は温めて飲んでも受け付けず下痢をしてしまう体質。現在は多少の変形は残ってはいるが、ほぼ正常に回復してきているのだが,人間の身体は至って微妙である。




私の人生劇場(83)   [視力と耳の異変]


 私は若いころから視力は2.0と良好で、疲れた時測定しても1.5はあった。40歳を過ぎた頃からか、目を細めて新聞を離して読むようになるが、当の本人は視力が落ちたなど全く自覚していなかった。それを見た友人が、「Sさん、いよいよ目に来たようですね」と言われても、「いやー、未だちゃんと見えるし眼鏡は必要ないよ」と、言い返し視力の衰えなど本心から気が付かなかったのである。

 社内に健康管理センターが在り、春と秋2回の定期検診は時間中に受けていた。血液検査やX線撮影等基本的な検査は勿論、視力・聴力ともに異常は全くなかった。ところがである、仕事に必要な資格を取得するため、外部講習会に行き後ろの席へ座ったのであるが、講師が書く黒板の字が見えず読み取れないのであった。又、車に乗っていて道路地図を調べても、夜など暗い車内では細かい字は判読できず、現実に視力の衰えは認めざるを得なくなっていた。

 耳も毎年聴力検査を受けて異常はなく、少しの騒音でも出来るだけ耳栓を使うよう心掛け慎重に保護していた。鉄鋼の現場労働者には難聴の人が多い。特に製管工場では、丸いパイプどうしが転がってぶつかり合い高い金属音を発する。高音は周波数が高いので耳には悪影響を与え、パイプ工場の労働者には難聴者が多く自然と話声も大きく、一種の職業病とも言える。だが、私は現場ではないので、騒音で聴力が落ちる環境で働いてはいない。

 視力の方は加齢で老眼、眼鏡を掛けるのは仕方ない。老眼と同時に通常は乱視も現れるので、検眼し両方を満たすレンズは一般よりも高価となるが、細かい活字を目にする事が多く、それなりの品質を備えた眼鏡を使用しているので支障はない。ところが、テレビの音が良く聞こえないのである。敷地が狭く家が密集しているので、妻は隣近所に迷惑がかからぬよう音量を絞って視聴している。私も時にはテレビを観るのであるが、ドラマはどうもセリフが聞き難い。その旨妻に言うと、「耳が悪いんじゃない、調べてもらったら」と返ってくる。通常の会話では支障ないので、耳も正常と確信しているのであるが。




私の人生劇場(84)   [毛髪とDNA]


 私の正月は、元旦の実業団、2・3日の大学箱根駅伝復路のゴールまで見届ける。駅伝の選手には、一卵性双生児や兄弟で出場するケースが有る。兄弟であるから顔も体型もそっくりで良く似ているが、脚の早いのも同様である。走るだけでなく他の競技や分野でも、兄弟で活躍している事例は少なくない。両親から受け継いだDNA、遺伝子が共通しているということであろうか。

 我が家は六人兄弟姉妹であるが、髪の毛が濃くウエーブしているところはよく似ている。父は器用に鏡を見ながらバリカンで自分の頭を坊主刈りにしていたが、年老いても禿げることはなかった。母は剛毛で髪の量が多すぎ、頭の上部を削いで薄くし纏めていた。頭部なので自分ではできず、子供の頃は私の役目で、椿油も貴重な時期であり、ウエーブがかかり絡まった髪を柘植の櫛で梳かすのは、中々大変であった。私もそんなDNAを継承しているので、ウエーブの掛かった剛毛、若い時は1ケ月も床屋へ行かないとボサボサで、ポマードを付けても髪が整わず苦労したものである。

 その兄弟の中で一人だけ突然変異なのか、すぐ下の弟だけが直毛で素直な髪をしていた。髪の濃いのは同じなのであるが、手入れも簡単でサラリと整い、見栄えがよく羨んだもである。性格も真っ正直で、正義感が強く頑固者であるところは、兄弟よく似ていた。

 剛毛でウエーブの髪というのは始末が悪い。理髪店で短く刈った時は良いのだが、少し伸びるとウエーブが現れ、鳥の巣のようにボサボサになり纏まらない。いっその事長く伸ばせばベートーベンのように芸術家タイプで、これはまたサマになるかも知れないが、一般の労働者では手入れが行き届かない。だが、親から受けたDND、悪い事ばかりではない。特別髪の手入れはして来なかったが、70歳を過ぎても自毛は多少薄くなったとは言え、額の幅も広がらず髪は健在で、同僚からは羨ましがられている。従って帽子は髪に癖が付くので被るのを嫌い、年を重ねても直射日光除けの帽子も不要である。ただ登山の時だけは頭を保護するため、山では被ることにしている。




私の人生劇場(85)   [手足の左右長短]


 人間の身体で一対の物は全く同じ対象物ではない。手足にしても、大きさも長さも形も全く同じという人は存在しないであろう。目の大きさにしても顔の輪郭にしても、左右で同じという人はいない。人間の顔も、左からと右から見るのとでは違い、人によって異なるが左右によって、厳しさ優しさの印象は異なるといわれる。このように外見で見える身体の対象物であっても違うのであるから、体内の臓器の配置は全く違って当然である。

 しかも、弓道の選手や野球の選手はどうであろうか?弓を支える手と弦を引く手とでは、異なる働きをし機能がちがう。野球のピッチャーにしても投球する手と腕は伸びるであろうし、長年月の間には用途と使い勝手によって、多分左右の長さは違ってくるだろうと考えても不自然ではない。右利きであれば多分どちらも、左よりも右腕が幾分長いのではなかろうか。進化というか需要によって、人間の身体も多少の変化・変形をしてくるであろうと考えられる。

 和式で畳の生活様式と洋式で椅子の生活環境とでは、当然足の長さや太さスマートさにおいても同様変わって来る事も考えられる。日本人の女性の足の長さスマートさは、昔と比べれば格段に脚線美が多くなってきているのは、外出すれば巷で日常見受けられる。このように、同じDNAを引き継いでも、食生活や環境によって徐々に変化してくるものである。

 私の身長は、最盛期から3Cm程目減りし、171から現在は168Cmと低くなっている。何十という骨格が関節で組み合わさり構成されている人間の身体は、軟骨が減れば当然誰しも身長が縮むのは当然である。特に私は、重い荷物を担いで山に登っているので、他の人より軟骨に負担が掛かっていると思われる。叶わぬ希望であるが、脚の長さがあと5cm長ければ、スラックスも弛まないであろうし、歩幅も広く山歩きも楽になると思うのであるが、これぞ無理というものであろう。




私の人生劇場(86)   [腹圧とヘルニア]


 ヘルニア(脱腸)は子供の病気と思っていたがさに在らず、最近身近で手術をしたという話を耳にする。私が虫垂炎の手術をして入院した際、同室でヘルニアの手術をした子供が居たので、ヘルニア・イコール子供、というイメージが脳裏に植え付けられていたのかも知れない。子供の頃を思い返せば、男子同級生の何人かはヘルニアの手術をしていた事を思い出す。しかし、ヘルニアの発症は年輩になっても起るようであるから安心はできない。

 実は私も幼児の頃、ヘルニアの気が有ったようである。母の話なので、本人は全く記憶にないのであるが。男子は泣いたり力んだりして腹圧がかかると、腸が押し出されてヘルニアになるメカニズムになっているようである。私が幼い頃、泣いて力んだり冷えたりすると、下腹にポコッとコブのような膨らみが出て、母親がその度に小まめにタオルで温め押し込んでくれそうである。そのまま放置しておけば、腹膜に通路が出来てしまい、慢性的なヘルニアになっていたかも知れなかったのである。

 ヘルニアは、男性だけの病気である。女性と違い、男性は成長期にその機能が形成される過程で、腹膜に睾丸が通過する通路が出来、それがうまく塞がらないと腸の通り道となりヘルニアに、大人になっても罹患する構造と可能性を有している。特に老化するとあらゆる筋力は低下する、身体の動きは鈍くなり運動不足も重なり、腹筋も弱まる。生理現象で大便を押し出す腹圧は、大変な力を要すると言われている。こう考えてみると、老化してもヘルニアにならない保障はない。

私は母が注意してくれたので、ヘルニアを未然に防止でき、手術せずに済んだのは幸いで感謝である。今考えると、頸に大きなおできが出来たり、病弱で親には苦労や心配をかけた子だったと想像できる。親孝行らしき事は何も出来なかったが、既に両親ともあの世へ逝って長年月が経過している。父は米寿のお祝いをした年に亡くなっているが、あの世へ行っても両親は、私達子や孫を暖かく見守っていてくれるのであろうか。




私の人生劇場(87)   [結石と左脇腹痛]


 マラソンや駅伝にはドラマが有る。テレビで観戦していると選手や監督その他との、絆や輪で結ばれ、涙有り根性ありで人生の参考になりうる。私も中学生の頃、中長距離走で市の大会や県大会に出場した経験を有している。ただ当時は、予選なしでその気えさ有れば直接競技に参加できる時代とシステムが有った。今でも惜しかったと悔やまれるのは、市の大会で3000m走に出場し、少なくも2位にはなれた場面を、もう少しの差で逃してしまった事である。勝っていれば、当然県大会への出場権が得られたのであるが。

 夏休みに学校へ行き、部活の先生の指導で真夏の暑い中、十分に練習を積み重ねて出場したのであるが。200mのグランドを15周、あと1周でゴールという時には2人で先頭を切り、3位以下を半周以上引き離して走っていた。このまま行けば誰しも1・2位の順位に間違いなしと思われていた。しかし、そこで私にアクシデントが起きたのである。時々起る左脇腹の痛みが発生したのであるが、耐えられないほどの激痛ではなかった。我慢して走れば十分に先頭に着いて行ける余力は残っていたのであるが、不安と精神的な弱さが出てしまい、徐々に遅れてしまった。あそこで我慢、苦しい練習の成果を出し切る歯をくいしばる勝負強さ、つまり根性が有れば、優勝か2位にはなっていたのである。この経験から競技に勝つには、技術や体力だけでなく精神的なケアの必要性を強く感じたのであるが、それが現在の私の教訓になって活きている。

 私は短距離走は速くないが、持久力があり長距離向きであったが、長く走っていると時々左脇腹が痛み出す癖が有った。誰もが疲れると起こる現象かと思っていたが、何年かして会社へ入社して以後、その原因が明らかになった。昔の男子用トイレは、区切りが無く何人か並んで用足し出来る構造で、古くなるとコンクリートの溝が浸食されて窪み底に残っている。私の次に行った人が気が付き、「トイレに血がいっぱい溜まっているぞ」と教えてくれました。次に注意して見るとなんと私の血尿であった。

 その日は何事も無く済んだが、翌朝出勤すると激痛と発熱で苦しみ、すぐ病院へ行き即入院となってしまった。左の腎臓に出来た結石が動き尿管へ落ち、その石が内部を傷つけ出血していたのでした。中学生の頃、走っている途中で脇腹が痛くなったのは、未だ小さい結石だったかも知れないが、走る振動で動き痛みを生じていたのかも知れない。45年前ですから、摘出手術を受けたが、大豆大の結石になんと釣り針の先のような尖った物が着いていた。痛い筈である。DNAは継承するもので、長男も腎臓結石で2回救急車で運ばれ、体外から照射して粉砕する手術を受け、現在は安定している。




私の人生劇場(88)   [血液型と人間の性格]


 人間はそれぞれ違った顔をしていますが、考える中身も異なります。その一つの例として血液型による性格の違いが挙げられます。A型・四方八方気配り型・神経細やかで現実型、良く気が付き思いやりがある。B型・マイペース型・自由奔放・変わり身が早い。AB型・理想追求型・複雑な性格・他人の干渉を嫌う。O型・ロマンチスト・物事を大局的に見て判断・逆境に強い・親分肌で面倒見が良い。等々。

 以上は、概して血液型による典型的な性格の特徴を示す分類ですが、これは飽くまでも統計学上の傾向です。しかし、長年人間を観察してきたなかで、成程と合点がいく行動や言動をする性格の人も存在しますので、あながち全部が外れている訳ではありません。統計学ですから例外も有りましょうが、血液型によって共通点を持ち合わせている現実を、全て否定するのは無理と言えるでしょう。

私が現在まで付き合ってきて、四方八方気配りし、神経細やかで公私共に何事もそつなくこなす友人がいました。痒い所に手が届き細部にわたって満遍なく気が廻り、誰にも好かれ信頼が有りました。私も妻もてっきりA型人間と決め込んでいました。ある時その友人に訪ねてみましたが、なんとB型でした。マイペースと言えば聞こえはいいが、B型人間は概して自分勝手とも言えます。しかし、この友人はそんなところは微塵もなく、全体の気持ちに配慮して場を和らげる、そんな優れたタイプの人間でした。反面、成程B型人間そのもの、主張を曲げないという、若い女性に遭遇したこともありました。

こうしてみると、血液型の要素は内在しているが、生まれや育った環境と教育によって、つまり氏素性によっても性格は大いに影響し左右されるという事になります。それは、同じ内容の事を主張するにしても、感情を直に表現するのでなく相手の立場や性格を考慮し、言葉や方法を考えて対応すれば、受け止められ方も当然変わってくる、そんな手法も長い人生の過程で必要なのではないかと。




私の人生劇場(89)   [自業自得心臓苦・生活改善を]


 現在はほぼ改善されているが、翌日心臓が締め付けられるようで苦しい時期が有りました。私は酒が好きで、外で飲んで来ても家へ帰ると物足りなくて、また同じように飲んでしまう悪い癖が有りました。それだけでなく三次会まで付き合い午前様。決まって翌日は心臓が苦しく辛い思いをします。そしてああ、あそこで止めておけば、あそこまで飲まなければ適量、苦しまなくて済んだのにと、後悔しきりである。

二日酔いで胸がムカムカし、気分が悪いのは若い時から何回も経験済みである。しかし、それとは違い、一日中心臓が締め付けられるようなあの感覚は、更に苦しく辛くて床に寝てもいられない。しかし、他人には言えないし、惨めな姿は見せたくないという意地もある。あれが私の二日酔いの症状であったのかも知れない。そんな心臓の締め付けられる症状に効果ありと、卵油を作成して飲んではみたが、期待したほどの効き目は感じられなかった。結局のところ、前夜飲酒の量を控えれば良いだけで事は簡単である。

 たばこも同様であるが、健康であるうちは喫煙が身体に悪いと分っていても中々止められない。今迄の経験から、禁煙をしても2〜3ケ月で失敗、また吸い始めてしまうパターンの繰り返しで、何回失敗したことであろうか。咳が止まらず体調が悪い、こんな時でないと中々本気で禁煙の決意は出来ないものである。
      
適度な飲酒は”百薬の長”であるが、過ぎたるは及ばざるが如し、過度な飲酒は害と知りつつ、適量で制ぶできないところに人間の弱さが有り、その付けが翌日に回り、自分で苦しむのであるから自業自得と言わねばならない。酒も体調の悪い時は飲む気にならないし、飲んでも美味しくない。年齢を考え適度に飲む術を心得ていかないといけない。




私の人生劇場(90)   [登山に致命的な左膝の故障]


 横綱日馬富士が、足首の故障で初場所休場。嘗て、野球では左膝半月板の負傷で、掛布雅之選手がガラスの膝と言われ苦労した。松井選手も膝の故障を抱えながら、アメリカ大リーグで指名打者として活躍しました。このように、スポーツ選手にとって怪我は避けられないが、大きな故障は選手生命に影響する要因であり試練です。私はスポーツ選手ではないが、左膝に古傷を持ち登山には大きなウイークポイントを抱えていると言えます。若い頃は、体力に任せ馬力でがむしゃらに歩いたので、無理をして時々古傷が痛み出し苦しい山行きとなった苦い経験をがあり、私の登山記録をめくると、そうした場面が何ケ所か出てきます。山は登りは喘ぎながら歩くので精一杯、無理出来ないので脚を痛めたり事故も起こりにくいが、下りは楽になり、つい飛ばすので、脚を痛めたり事故にも繋がります。膝の故障については、いざという時の為少しでも痛みや負担を軽減するために、専用のサポーターを常時持ち歩いています。

 (63)[私の病歴] で若干触れているが、私の左膝は同じ所を3回負傷しています。最初の事故はバイクに乗っていて、交差点で私は直進、右折のタクシーの鋼鉄のバンバーの角が左膝に激突したのであり、右膝であればバイクとの間に挟まれ、砕けていたかも知れない事故でゾッとします。二回目は、車を運転していて通勤途上の正面衝突事故、右足は急ブレーキを掛け思い切り突っ張っていたので無傷。衝突の衝撃でエンジンルームが運転席まで押し出され、左脚の皿は割れ、満身創痍という状態で、救急車で運ばれました。2ケ月入院、退院後は歩行に大きな支障を期たす後遺症は脚には残りませんでした。

 4〜5年覇気のない生活を送り、身体の訓練を兼ね心身ともに健全さの快復をと意気込み丹沢通いを始めました。いつものように表尾根を縦走し、大倉尾根を下るときバランスを崩し左足で支えました。生憎その時登山靴が岩でロックされた形で自由にならず、膝に全重心が掛かり捻じれてギクッという鈍い音がしました。思わず「ヤッタ」と叫んで、左膝を押さえました。多少の痛みを覚え暫く揉んだり屈伸をして様子を見ました。5分もすると痛みもなくなり普通に歩けました。バカ尾根の中間で、そのまま大倉バス停まで下り帰宅しました。入浴して足を伸ばしたり思い切り曲げ、身体を温めほぐしました。それがいけなかったのです。シャワーを浴び、左足を冷やしておけば事なきを得たのですが、既に後のまつり、例のように一杯飲んで食事をしていると痛みが激しくなり、一人では歩けなくなっしまいました。風呂で思い切り膝を曲げた時、傷ついていた血管や靱帯が切れ、出血してしまったものと考えられます。痛さで一人では歩けず、妻の肩を借りて二階へ上がり、床を敷いてもらい寝すみました。

 翌日朝一番で病院へ行き、整形外科で診察を受け、レントゲンやCTスキャンを撮り検査をしました。この医師はスポーツ医学の資格を持つ整形外科医でした。膝の模型を前に説明するには、靱帯が切れており、手術する必要があるとのことでした。しかし、40代ならば即刻手術しなければならないが、60代なのでそれほど無理はしないだろうから、「少し様子を見ましょう」という結論になりました。暫くすると普通に歩けるようになり、丹沢へ登っても以前と変わり有りません。北アルプスの3000mの山にも幾つか登りましたが、支障はなく手術はせずそのままになっています。このように、私は同じ左膝を3回負傷するという、登山には致命的なリスクを抱えています。ガラスの膝、故障しないよう気を付け慎重に登山しています。




私の人生劇場(91)   [ 登山と風邪の罹患率]


 私は子供の頃病弱であった事は、今迄に何回か触れてきています。風邪をひいたり熱を出したり腹痛であったり、年に何日かは欠席し、一年間休まず皆勤賞を受けた事は無く、入社してからも、風邪で熱を出し年休で休んでいます。病気だけではなく、年間20日の年休を使い切り翌年に繰り越した記憶はありません。

 ところが、登山を始めると風邪をひく事は少なくなってきました。山へ行くには、山へ行って疲れないように、日常的に走ったり腕立て伏せや腹筋など、それなりに身体を鍛えていました。出勤すれば昼の休憩時間に先ず走り、シャワーを浴びてから昼食を採る習慣が着いていたし、休日でも4〜5Kmは走っていました。運動していたので体力もつき、風邪も寄せ付けず健康でした。登山をすると脚を使うので、特に大腿部がスピードスケートの選手のように太くなり、スラックスがスマートに履けず気にしたものです。

30歳を越してから公私共に多忙となり、登山とも縁が遠くなり生活も不規則となり、当然の事ながら身体の抵抗力も弱まります。早朝会社へ出勤し、帰宅は深夜で睡眠不足の状態が続きます。昼休みの運動で汗を流すどころか、疲れをとり睡眠不足を補うために昼寝をする。これでは体力もつかず、抵抗力もよわまり風邪もひきやすくなります。

 百名山を目指し、55歳から登山を再開、以前のように昼休みも体力づくりに励みました。 真夏の日射の暑い中の登山は厳しく、年老いても山に登れば汗びっしょり、そのままではバスの座席も濡れてしまうので着替えなければなりません。従って体力もつくし一定の体力は維持できる自信もつきます。夏身体を鍛えておくと、冬風邪をひかないとも言います。丹沢へもトレーニングに月3回は行く、頻繁に山へ登っていると山歩きも楽で、下りてきても筋肉痛も起こりません。インフルエンザの予防接種も受けず、登山を続けていると、こうした運動の効果で、ここ数年は風邪はひかないようになり、風邪気味でも鼻水が出る程度で済み、風邪で寝込むような事は10年以上なくなりました。




私の人生劇場(92)   [ 禁 煙 考 ]


 酒は百薬の長と言われ、度を超さなければ薬にもなりうる。しかし、タバコだけは害にこそなれ、身体に良い影響は与えない。私も何回か禁煙を試みたが、中々完全に止められず苦労したものである。現在は4年前から完全に止め全く苦にならず、他人のたばこの臭いを嗅ぐと不快感を覚えるほどになっている。又、周囲にも喫煙する友人は少なく、たばこそのものの存在が薄れてきている。その経過を辿ってみたい。 

私がたばこを吸い始めたのは18歳になってからであるから、喫煙歴は約40年という事になる。その詳細は意外とつぶさに記憶しているが、禁煙は止めようとする意識と意思だけでは難しく、病気や体調不良等、生命に係るようなそれなりの理由がないと、中々止められないものである。私の最初の禁煙は10年程長く続いた。そのキッカケだけは良く覚えている。1966年北アルプスの雲ノ平へ行った時、土砂降りの雨の中を徘徊し、雨具がポンチョであった為下はずぶ濡れであった。三俣山荘へ宿泊し、翌朝鷲羽岳へ向かったのであるが、濡れたズボンは冷たくて履く気がせず短パンを履いて出かけた。真夏とは言え3000mに近い稜線に吹き付ける朝の気流は冷く身体に堪えた。午前中は寒さに耐え、予定のコースを歩いて下山した。

帰宅して暖かいラーメンを注文し食べようとするが、湯気が喉を刺激しむせて咳きこみ中々呑み込めない。自分の通常呼吸する空気が、喉を刺激して咳きこんでしまう。話をしていても呼吸の刺激で咳きこむ、四六時中咳をしている状態が続いてしまった。山での寒さで、喉か気管支に炎症を起こしてしまったものと思える。勿論病院も幾つか変えて通ったが、効果的な治療は見つからなかった。そんな状態が続いたので、喫煙しても苦しいだけで禁煙することを決意し、10年近くは続いたであろうか。そのまま禁煙が続けば良かったのにと思うので有るが、ところが、喉の調子が快復するとまた喫煙を初めてしまった。その後禁煙は何回か試みたが、2〜3ケ月で失敗している。禁煙を始めるのは苦痛ではないのであるが、2ケ月程続くと安心する。ところが、飲み会が難所である。アルコールはたばこを誘引する。隣で喫煙しているとつい「1本」と所望してしまう、2本迄はよいがそれ以上他人にたかるのは気がひける。つい1箱買ってしまい、これが終わったら止めればよしが、どうせならもう1箱で再開してしまう。全く同じパターンで、2〜3ケ月禁煙、5〜6回禁煙に失敗している。私だけでなく、同様の方も多いと思うのであるが。

 最後に禁煙に成功したのは意外なキッカケであった。詩吟の稽古を初めて1年程経過し、新年1月10日には流派の発表会が有り、私も前座で吟ずるエントリーをしていた。ところが年末に風邪をひき咳が止まらず病院へ行き,幾つかの薬を受け取った。風邪でなくとも私は喉が弱く咳き込みがちな体質であった。2日もすると熱も下がり咳もピタリと止んだ。「この機会に禁煙しよう」と決意した。発表会も無事終わり、それ以後丸4年、喫煙はしていていない。





私の人生劇場(93)   [ 大痔主の激痛 ]


 私のきょうだいは6人、その内男兄弟は4人全員が痔主であり、ここでもDNAが影響して、同じ痛みを経験している。この内手術を受けたのは2人、後はどうにか小康状態を保ってきていたのであろうか、長兄は既に逝ってしまっていが、その中で最も酷く痔疾で苦しんだのは私であろうと思われる。

 痔疾の症状の最初は、なんと言っても硬便を押し出してなる裂け痔であろう、紙で拭くと血が付くが、清潔にして傷口が塞がれば簡単に治癒してしまう。ところが、現在のように水洗便座で洗浄し、柔らかいテッィシュやトイレットペーパーで拭けば清潔さを保てたが、子供の頃にそんな上等な紙はなかったしボットントイレであった。私が痔を悪化させたのは、酒が好きだったのと登山で無理をした事が原因であることははっきりしている。酒を飲み過ぎた翌日は調子が悪く、特にアルコール度の強いウイスキーを飲んだ翌日が、お尻の調子は最悪であった。

ところで痔疾には3種類の疾患があり、一つは切痔、二つはイボ痔(内痔核)であり三つ目は痔瘻と言われている。どれが痛くてどれが悪質かは専門家でないので避けるが、私は内痔核の大地主で、酷い時の激痛は耐えがたく、苦しんだものである。肛門には3本の動脈が来ており、そこから肛門全体へ配血されるが冷えたり血行障害で静脈から心臓へ戻らず鬱血してして瘤になってまう。イボ程度の小さい物であれば体内へ押し込めるし、痛さもさ程ではない。身体を冷やしたり登山等で無理をすると悪化する。排便で圧力が掛かると細い血管が切れ、古いボットントイレだと、ポタポタと雫のように垂れて音がし滴り落ちる。水洗式陶器の便器になると鮮血で真っ赤に染まる程の出血。私の酷い時は大きさも痛さも並大抵ではなく、年休もなく出勤して、職場の人にツボを押さえれば痛みが和らぐと、色々心配をかけたり介抱してもらったものである。

私は痔疾を放置していたわけでなく、病院で治療を受けたり手術を2回受けている。1度は若い時に新人外科医師で、先輩の指導を受けながらの執刀であったが、2年程度ですぐに悪化してしまった。2度目は酷くなり横浜の痔専門病院での執刀であった。この病院では、動脈を3本切断する本格的な手術であったが、1本の血管が塞がらず2回ほど出血、再手術を繰り返し1ケ月半程の長期入院となってしまった。半年ほどで完治したが、お尻の調子が良いとはこれほど楽なものかと、以後快適さを味わっている。同時に洗浄式の便座を備え、清潔にして悪化を防いでいるが、未だ全般的に普及していないので不便である。






トップへ(essay)








エッセイ
”我が家に関わる七不思議篇 ”



私の人生劇場(94)   [2階トイレの水漏れ]


 ウサギ小屋、田舎から無一文で都会へ出てきた労働者一世が真面目に働き、一生かかって手に出来るのはせいぜい狭い土地に建てられた家一軒程度である。今では更に厳しく、それさえも難し世の中になっている。私は、幸い大企業に就職したので、どうにかそんな平凡な事が叶えられたといえるが、それも建蔽率一杯に建てられた、外国人が言うところのウサギ小屋である。

 手抜きされたり、素人が集められた俄職人で建てられた家屋で、住んでみると色々不都合が生じる。入居後暫くして深夜寝静まった頃、雨も降らないのにポタリポタリと、水滴が垂れる音がしている事に気が付く。翌日調べてみるが、晴れた日で屋根からの雨漏れではない、天井裏に水で濡れたような浸み痕もなく、それらしい原因はどこにも見当たらない。それでも寝静まった深夜、ポタリポタリと周期的に水滴の垂れる音は続いていた。夜中に目覚め、怪談話等想像すると薄気味悪く感じる時もあるが、日を経るにつれ慣れてしまっていた。

 数年して2Fトイレの便座洗浄機が故障し、水漏れの量が多くなり使用不能となってしまった。この便座は、痔の手術をした関係で必要となり、前に住んでいた団地に自分で購入し取り付けておいたもので、未だ一般的に出回り始めた初期の段階で、今と比較すれば結構高額であった。引っ越しに際して取り外し、持参した中古品である。1Fトイレは既に洗浄機付き便座が設置されていたが、安普請の建売住宅ゆえ2階は単なる洋式の便座だけであった。たまたま親切な職人さんが居た時で、持参した中古品を取り付けてくれたものである。

 私も好奇心が強いので取り外して分解し点検すると、成程初期の製造品であり複雑な構造で、手の混んだ設計であった。故障の原因は、ゴムの薄い膜が破れて水漏れして居る事が判明、接着剤で補修し取り敢えず使用可能にした。しかし、水と接触する部分で10日もすると剥がれてしまう。何回か補修したが使用に耐えられず、ホームセンターへ行き新品を購入し取り付けて使用している。すると、例の深夜のポタリという水滴音がピタリと止まったのである。持参して取り付けた中古品、取り付けた時から僅かばかり便器の中に漏れていた水滴の落下する音が、寝静まった深夜に聞こえていたと数年経って解明されたのである。




私の人生劇場(95)   [風呂場タイル・洗面台ひび割れ]


 建て売り住宅にもランクがあり、名の通った建設会社が開発した住宅団地は、規模も大きければ立地条件や環境も整備されている。敷地面積も広く、住宅そのものもそれなりの水準でしっかり建設されている。当然購入するには、億を超す資金が必要であり、一サラリーマンにはとても手は届かず、無理というものである。我々の支払能力では、せいぜい車1台置けるスペースが有れば良しとする、底辺の物件に限られてくる。

 それまで住んでいた社宅や団地は、何故か最上階の5Fばかりで、地震になると振幅が大きく揺れは下層階より酷いのは当然である。その点1戸建て住宅は1Fに居ると、小さな揺れの地震では気が付かないこともあり、テレビの画面で知らされることもある。しかし、大きな地震であると、元々華奢な造りであるため、家全体がギシギシと揺れる。

 鉄筋コンクリートの最上階に住んでいたので、地震の揺れそのものには一定の免疫が出来ており、さ程の恐怖心は湧かない。しかし、木造の家屋では揺れと同時にピチッピチッという、異常な音が聞こえてくる。柱の組み合わせ部分が軋んでいるのか、壁がヒビ割れているのか原因は分らないまま、その原因を追究するでもなく過ごしていた。

 3・11の東日本大震災の地震の揺れは特別であった。小刻みな激しい激震ではなく、振幅が大きく長時間緩やかにユラユラ揺れる、生まれて初めて経験する振動であった。家族が全員居間に揃っていたので、それぞれ本棚や茶箪笥を押さえ、揺れが収まるのを待つのみであった。揺れが治まりテレビを観ると、津波の予報はどんどん高くなり、被害もこれまた初めての猛威と威力を思い知らされたのであった。我が家の風呂場は、タイル張りである。地震の後入浴し、タイル何枚かにヒビワレが目立つのに気が付いた。洗面台も安物の塩ビ製でヒビ割れているのに、後で気が付く。大きく揺れた地震の度に、ピチッとう異常音は、タイルや塩ビの劣化で弱い部分に負荷が掛かり、ヒビ割れ破損する音であった事が、東日本大震災によって明らかになった次第である。




私の人生劇場(96)   [2Fタオル汚れの怪]


 前記したように、我が家には1Fと2Fにトイレが有る。1Fは居間と食堂なので、トイレも共用となる。2Fは長男の部屋が有り、私もPCが在るので、一日の殆どを過ごしている。トイレのタオルを洗濯するのは妻であるが、数年前から「2Fのタオルが黒く汚れが酷い」と時々指摘されていた。たいした事でもないので、原因を究明することもなく時は経過していったが、我が家の不思議の一つであった。

 それでも指摘された時は気になり、原因らしきものを探し考えてみることもある。私は殆どPCに向かっているので、特別手が汚れる作業はせず思い当たる事はない。長男は寝に帰るだけで、これまた私より汚れるような原因は見当たらない。私に原因の多くは有ると思われるが、書道を遣る訳でもなく、せいぜいプリンターのインクを取り換える程度で、特別黒く手が汚れる作業はしていない。

 私は若い時からい一貫して東京新聞の愛読者であり、主要な記事には目を通している。ある時、担当の配達員がノルマを果たす為なのか、無料でいいから朝日新聞を入れさせてくれ、名前を貸してくれという依頼で、対応した妻も何か事情が有りそうなので了解し、新聞を2紙購読する事になってしまった。私は年金生活で時間だけは余裕があり、午前中掛けて2紙を読み特別な記事はスクラップもしたりして、3ケ月過ごすことになったのである。

 私は無頓着なので全く気が付かなかったが、2紙を手にしてトイレのタオルの黒い汚れは酷くなっていたらしい。ある時妻が「お父さん判ったわよ!新聞のインクよ」「エッ!」。新聞のインクも良質になり印刷技術も発達したとはいえ、毎日2紙の分厚い新聞を手にすれば、当の本人は気付かなくとも、インクが手に移り汚れるのは仕方ない事である。その手で何回もトイレへ行き、簡単に手を洗いタオルで手を拭く。黒い汚れの原因はその時解明されたのである。




私の人生劇場(97)   [花の咲かない庭木に巣作り]


 安普請の建売住宅であっても、都市計画の条例で街の緑化が義務付けられ、建物だけでなく、何本かの庭木が植えられている。多分植樹園では商品にならない半端物を安く買ってきて義務的に植樹された代物であろう。我が家にも10本程の庭木が植えられていた。その中につつじの木が2本あり、一本は玄関先ともう一本は庭に植えられていた。ところがこのつつじ、木は大きいが一向に花を咲かせないのである。狭い敷地であり、家が密集しているので、玄関先のつつじには一年中陽が当らない、日照不足で花も咲けないのであろうと善意に解釈して過ごしていた。

 庭の方はと観察していると、こちらは陽当たりは悪いにしても、夏や日中には時々日光も当たっているのに、こちらも蕾を持たないし花は咲かない。必ずしも陽当たりだけが原因ではなさそうである。庭木は植物、生き物なので引き抜いて捨てるのも可哀そう、幸い妻の実家が農家なので空き地に植えてもらうよう、義弟夫婦に軽トラで来てもらい、他の何本かの木と併せ移植し、整理してもらった。

 まだ何本かの木が残っているが、隣家の垣根を越境してはいけないので、枝がはみ出さないようこじんまりと剪定している。ところがその中に金木犀の木が有るが、これがまた一度も花が咲かないのである。木にも雌雄があるのか、花も咲かせなければ実も持たない木が有ることを知らされたのである。イチョウの木は、銀杏の実を付ける木と成らない木が有る事は以前から承知していた。

 ところがこの金木犀、小鳥には好かれていたのである。枝が伸びないよう剪定すが、少しボサボサになると、なんとこの木を狙って小鳥が巣作りに来るのである。ビニールの紐や小枝を運んでを巣作りを始める。周囲の家にはもっと生い茂った、巣作りに適した木や環境は有るのに。家と家の狭い空間なので、カラス等の天敵が来なくて安全なのか、この家の人は安心と私達を信頼しているのか、何故か我が家の花の咲かない金木犀が好かれているようであった。しかしベランダの近く、洗濯物干場なので妻は嫌う。巣作りを妨害すると、なんとその鳥は洗濯物に糞を掛け、ちゃんと仕返しをして去っていく愛嬌のある鳥で、毎年同じ時期に訪れていたずらをしていく。




私の人生劇場(98)   [柱と壁の隙間から草の芽がニョキ]


 ホテルや美術館など空間をタップリ採って有る建物では、植物の鉢植えを置いて客の心を和ませる趣向を凝らしている所が多い。最初から中庭を設置する建物は土地も広く贅沢である。又、鉄筋コンクリート建のマンションでは、室内に植物を置く愛好家も増えてきている。緑は目に優しく、心が和む効果があり、寒さに弱い観賞用熱帯植物等は室内で保護され、人間にも植物にとっても多様な効果が有るのかもしれない。

 しかし、そこまで関心もなく、余裕のスペースさえない人も多く存在する。ある日突然、柱と壁の隙間から植物の芽が室内にニョキリ伸びてきたとしたらどうであろうか。ビックリもするし、家の壁が腐食して草が生えて来たのではと余計な心配をし、建築士や専門家に点検を依頼する騒ぎが起こらないとも限らない。

 ところがその奇妙な現象が我が家に起こったのである。今年の夏妻が「お父さん、玄関の柱と壁の間から何か草の芽のようなものが出ているよ」と言われ、確認すると室内に長い蔓が伸びていたので、すぐデジカメに納め、切り取って処分しておいた。この予兆は既に前年の夏から現われていたのである。我が家と隣との間はコンクリートの塀で仕切られている。車や自転車を置くためにコンクリートを敷き詰め、塀との間は蜜着していた。ところが、3・11の大きな地震の揺れで僅かばかり、1mm程の隙間が空いていたのである。その狭い隙間から、隣からコンクリートの塀の下を潜って越境し、草の芽が生えて来たのである。長く伸びないうちに摘んで処理していたのであるが益々増殖していた。隣家は一人住まいだが、敷地は草が茫々と生え繁り全く手を入れない。夏の終わりにシルバーを頼んで一回しか刈らず、行き場がない草芽が遂に塀を潜って我が家にまで進出するに至ったという次第である。

 私は農家の生まれであるが、農作業や植物には全く疎い。数年前から老齢化で手の及ばなくなったみかん農家へ、ボランティアで援農に行っている。そこで一番大変な仕事は除草作業である。夏の盛りは、半月も経てば腰位の背丈に伸びてしまう。草刈機4〜5台でフル回転、野菜の植えてある場所は手作業と分担で、猛暑の下での慣れない仕事は、十数人で一日掛かりと大変である。そこで初めて見、教わったのが”草っ枯らし”という蔓草の存在である。正式名は判らないが、通称草っ枯らし、生命力・繁殖力が強く、他の草は生えられない勢いで増殖し、地面を占拠してしまう、そこから名付けたのであろう。その根は掘って陽に当てても枯れず、燃やさない限り何年経っても芽を出し繁殖する猛者である。我が家の玄関へ出て来た蔓は、正にその”草っ枯らし”の蔓であった。境界の塀の下を潜り、更に家の土台を潜って壁の間を伸び、僅かな隙間から差し込む光に向かい、玄関の内側へ50Cmも伸びた生命力には驚くばかりである。
 



私の人生劇場(99)   [手抜き施工とシロアリ駆除]


 現在の木造建築の戸建家屋では、シロアリ防除の措置が施されないと、建築法で許可は下りず家は建てられない。建築途中の工事現場では、土台から柱にオレンジ色の蟻除けの薬剤が塗られているのを目にする。シロアリと悪人は同じで、陽の目を見ない陰の暗闇で悪い事が行われる。従って両方とも、駆除法は白日のもとに曝せば退治出来るという共通点がある。嘗てはシロアリに家を遣られたという話をよく耳にしたが、風呂場や台所にトイレ等湿気の多い所でシロアリが繁殖し、土台や柱が浸食されやすい場所であった。我が家も最初に記した通り、建売の既製品で低レベルな安普請、入居してから風呂場の床下のパイプから水漏れ、台所のパイプ継手から水漏れ等トラブル続きであった。4戸同時に売り出されたが、我が家が手抜き工事で不良個所が多く一番の欠陥住宅であった。そんな経過で、シロアリは風呂場周辺から現われるのでは、という予測は頭から去らなかったのである。

 生暖かくなった5月のある日、妻に大きな声で呼ばれた。尋常でない叫びなので急いで行くと、玄関に羽の生えた蟻がウヨウヨ動き、玄関を開けて見ると小さい隙間から外へも出ていた。一瞬何が起きたのか戸惑い慌てたが「シロアリが孵った成虫じゃない」という言葉に、良く見ると普通の蟻の大きさに黒い羽が生え動いていた。未だ羽化したばかりで飛ぶまでに至っていないが、飛んで家中に散乱されては厄介と考え、先ず蚊取りの殺虫剤を噴射し動きを止める事にした。一応成虫の大量発生の動きは治まり一段落したところで、何処から発生したのか観察すると、玄関の上がり框が原因であるように思われた。素人ではここまで、これ以上は専門家に依頼せねば退治は無理と、その場の殺虫は妻に任せ建築業者の書類を探した。保証書が見つかり電話すると今日は無理で明日来ると云う、それまでは殺虫剤で対応し抑えておいてくれという。私達の処置は正しく、羽蟻の大量発生は取り敢えず治まり一段落した。

 契約書を読むと、家を購入してから丁度10年経過していた。保証期間は5年で、既に期限切れになっていた。発生場所は見当がついたので、午後から原因を調べる事にした。 洗面所に在る収納庫を開けると床下に入れる、酸欠で事故を起こしては大変と扇風機を取り出し、暫く外の空気を送り続け床下を換気してから懐中電灯や殺虫剤を持ち、マスクをし完全武装して狭い縁の下へ潜り、匍匐前進しながら目的地へ向かった。シロアリ発生の原因は素人の私にも容易に判った。玄関のコンクリート枠の内側ベニア板が取り外されず、そのまま残されていたのである。下半分は土に埋まり、うえは上がり框に着いているので、水分は有り白蟻発生と安住の好条件の環境が整っていたのである。懐中電灯の光を当て良く見ると、白蟻でベニア板はボロボロに食い荒らされ、白く小さな白蟻の幼虫が肉眼で見えるではないか。持ち込んだ殺虫剤を1本これでもかという思いで全部噴射し、更に散らばっているシロアリ発生の原因となる木材の切れ端を集めて床下から脱出した。それにしてもいい加減というより、なんとも杜撰な手抜き施工業者であろう。

   床下から出て暫く考えた。明日駆除の業者が来ても、薬は散布するであろうが肝心なベニア板迄は除去してくれないかも知れない。原因物質を取り除かなければ再発する。いっその事自分で撤去してしまおうと、バールを持って再度床下へ潜った。暗い床下での素人作業に不安は有ったが、べニア板は白アリに浸食され脆くなっているので、思ったよりは簡単に剥がせたが、しっかりした部分も残っており30分程時間を要して終了した。翌日、駆除の専門業者が1人来、真面目な職人らしく丁寧な仕事ぶりで、床下全体に薬品を散布してくれた。これで安心と思いきや、翌日午前中同時刻にまた羽蟻が出始めたのである。電話すると暫くして来て点検、専門業者なので直ぐに分り、上がり框の柱の中が遣られていますねと、框にドリルで穴を幾つか明けて液状の薬品を注入、液体は何の抵抗なく吸い込まれていく、シロアリの浸食でほぼ空洞な状態になり、そこにシロアリが残っていたのである。翌日から蟻の出現はなくなり一件は落着した。




私の人生劇場(100)   [テレビデジタル化癒えぬ後遺症]


 我が家の前には市道一本隔て、リリエンハイムという255戸の中規模団地が存在する。1975年建設なので既に40年近く経過している。北側に当たるので日陰にはならず、日照権の問題は発生しない。しかし、9階建ての高層建築は東京タワーの電波を遮るのでビル陰となり、アナログテレビ時代は、裏の戸建て住宅には電波は届かない。従って、団地建設に当たっては建築主である長谷工は環境アセスを実施、近隣住民に迷惑が掛からぬよう、団地屋上にアンテナを立て、ビル陰となる各戸にケーブルを張り巡らし、電波障害を解消する対策を講じた。その他周囲の支障になる問題を解決し、一生懸命頭を下げ近隣住民を回り、承諾印を押して貰う為工作した経過が有る。承認の印が集まらなければ行政の団地建設許可は得られないので長谷工は必死であった。

 住民側は個人では大企業に対抗できないので、翌年の4月「共同受信施設組合」を結成、故障や不調交渉等に対応する組合を組織し、役員を決めて運営してきた。私が越して来たのは20年前、年一度開催される総会に出席し、前に住んでいた団地で多少携わった経験が有るので、いきなり副会長に就任した。実は購入の際住宅建設会社の「重要事項説明」から、電波障害の件は抜けていたので、越して来るまで電波に障害が有るなどは知らなかったのである。数年して2人の会長が高齢で亡くなり、副会長の私が三代目会長として引き継いだという経過である。

 電波は総務省の所管であり、2001年6月に、「10年後の2011年7月24日、完全にデジタル放送へ移行する」事が国会を通過し国の方針として決定された。私達組合は、その日に向け組合員がスムーズに移行出来るよう、2〜3年前から調査研究し準備を始めた。そして1年半前の2010年3月17日、リリエンハイム管理組合へ話し合いを申し入れた。一度理事会の会議に出席し、申し入れの内容を説明したがその後ナシの礫。配達証明や内容証明で申し入れるがこれも半年以上無視される。産経と東京新聞に私の名前で掲載されると流石に慌てて反応を示すが、最初から喧嘩腰、解決する姿勢は全くなく、話し合いにならず。仕方なく、「総務省テレビ受信者支援センター」(デジサポ)の調停に持ち込み、組合主張を全面的に採用する公正な調停案が出された。内容は概ね以下の通りであった。

1、UHFアンテナは組合員が自分で取り付ける。
  1、設備の撤去費は、リリエンハイム側が負担する。
           ただし、1年間は現状維持。
     1、これを以って、お互いの債務関係はないものとする。

 しかし、総務省のサポートセンターであり裁判所ではないので、この調停案には強制力がない。どちらか一方が拒否すれば、調停そのものが流れる仕組みであった。とは言え、公平な第三者である行政の決定でり、逃げて拒否し破廉恥を行う不思議は理解に苦しむ。最も奇怪で世間的に通用しない団地主張は、団地の屋上にアンテナを建てたのは周囲の組合、組合の所有物だから自分たちで取り外せだと。所有権が有れば管理責任があり、団地の鍵は組合にも渡し出入り自由、団地外に鍵を渡すなど、私が団地理事であれば、無原則な危険は絶対避けるでしょう。言う事が矛盾だらけで支離滅裂の怪。最も不可解なのは、団地住民は理事であろうが全員平等、全体に正しく組合の意向が伝わっているのか?伝わっているとしたら、255世帯、誰か一人くらいは真面に物事を判断し、「それはまずいよ!」と、正しい主張が出来る人物が一人も存在しないという不思議。大体同じようなレベルの入居者集団なのであろうか?。地理的には隣近所、粘り強く交渉は続けるができれば穏便に解決すべく事ある度に働きかけているのが組合側の姿勢なのに、既にデジタル放送に移行して3年近く、解決の意向を示さない。伝家の宝刀は鞘に納めて解決したいのであるが。




トップへ(essaytop)


エッセイ
”最 終 雑 感 篇 ”



私の人生劇場(101)   [禅語を学んで生きる]


 東京新聞に連載されている”親鸞 ”、毎朝最初に読むが、トイレで愛読している。作者の五木寛之氏が、親鸞の生きた鎌倉時代と現在とは、時代背景が非常によく似ているという。一言で表現すれば、混迷の時代ということであろうか。約900年前のこととて、現在と比較すれば科学も文化も医学も世情そのものが未開・未熟な時代ではあった事は想像に難くない。加えて、地震や津波に火山の噴火や火災の多発、飢饉や疫病の流行等々、京の五條河原には死体が捨てられ幾つも転がっていようである。正にこの世の末世、ハルマゲドンの現象である。そこに現れた法然や親鸞は、苦しい生活を強いられた民衆にとって、一筋の光明を与えてくれた存在であったに違いない。

 その光は、公家であっても、偉かろうが貧乏で乞食だろうが、罪人であろうが男女の区別なく、”南無阿弥陀仏 ”と唱えれば、死後は極楽浄土へ行ける。当時の人達は、死後地獄へ堕ちることを非常に恐れた文明未成熟な時代、生前は苦しくともあの世へ行けば皆平等、苦しい人生から解放され、死後は皆同等に極楽往生できる。貧乏な庶民にとっては有難い教えであり、たちまち普及し信者はひろがる。単純に南無阿弥陀仏と唱えさえすれば死後は何人も皆極楽へ、法然や親鸞の真の教えはもっと深遠で奥深いものであろうが、本旨から逸脱し自分に都合よく解釈し故意に悪事を働いても誰もが極楽浄土へとなると、必ず世の中は乱れる。庶民に分かりやすい簡潔な理論には、必ず短絡的に解釈し都合よく利用する過激派が派生する。支配者や金持ちにとっては、罪人と同列に置かれたのでは堪ったものではない。決して許せはしない。トロッキストが弾圧の火種となり、権力の弾圧・介入を誘う役割を果たすのは、いつのご時世でも同じである。

  親鸞は浄土真宗、禅宗と宗派は違うが大元はお釈迦様、仏教や儒教の教えの底流は共通している。本来の教えは、自分にとってこれだけあれば十分だと思える心、つまり欲張らず知足を知る「小欲知足の生き方」を教えているのである。つまり、「遺教経」(ゆいきょうぎょう)・・自分の分を弁え小欲の人は概ね善人で周囲からも好かれる。しかし、人間には多欲で異常に欲張りな人が一部に必ず存在する。適度な欲は必要であり、向上心にも繋がる。だが強欲は執着心の塊となり限度を弁えない。欲を叶えるには努力も無理もしなければならず、苦労も多く栄華はいずれ破綻する。欲張りすぎないことである。

  しからばこれからどう生きたら良いかが課題で、自分の生き方を考え決めなければならない。「而今」(にこん)、「過ぎ去った時」「この時間」は、二度と戻ってこないから、過ぎ去った時間に固執してはならない。過去の苦しみからは抜け出せないし、かこの失敗を悔やんだり取り返そうとしても戻りはしない。過去の栄光にしがみついて居ても進歩に繋がらない。そんな過去とは絶ち切り、今この瞬間を大切に、一生懸命生きる事が未来に繋がる。そして本来の自分に立ち返り、穏やかな気持で自分の安住できる場を見つけ、努力する境地に至ることである。(「帰家穏坐」(きけおんざ)、禅の道は悟りの心を求めて。(枡野俊明・参照)




私の人生劇場(102)   [鶴の平和主義・無事を願う]


 鳩は平和のシンボルとして崇められているが、それはそれとして否定するものではない。しかし、必ずしも穏やかで平和な鳥は鳩だけでないことを知らされる光景に遭遇し、改めて考えさせられた。その日も陽射しの強い午前中、いつものように境川畔を散歩していると、初めて見る大きな鳥が上空を飛んでいた。境川には、川に沿って海の鳥が迷い込み、飛来して来るのを時々見かけるのである。

 今迄に見たことのない、いやに大きな鳥だと観察していると、鴎であったりすることがあった。また、川に住み着いている鴨は沢山いるが、三種類であることは経験則上良く知っているが、鴨と同じ程度の大きさで、見たことのない珍しい種類の鴨が一緒に泳いでいるのでよく観察していると、異種でも互いに争いもせず隣り合って集団で泳いでいたりする。翌日行ってみると姿は無く、やはり鴨ではなく後でよく調べるとウミネコであったと判る。

 今日見掛けた鳥は、1羽で鴎よりも大きく羽も形が変わっており、灰色とも薄茶にも見え種類は分らないが、鶴の一種であることはその姿形から素人の私でも判別はついた。コサギやダイサギは全身が白くよく飛来して、小魚を餌に啄ばんでいるので承知している。今日の鶴は、川の水面に沿って飛んでいたが、横浜線のガードを越えるのに高く舞い上がって通過しようとした。その時、異様な光景を目撃したのである。横から一羽の黒い鳥が飛び出し、大きな鶴を目掛けて攻撃を仕掛けたのである。以前はオオタカが一羽住み着いていた場所であるが、今はいない。数倍の大きさの鶴に攻撃を仕掛けたのは黒い羽のカラスである。鶴は反撃するでもなく、高い木の枝の先に止まって攻撃を避け、羽を休めて様子を伺っていた。

 狭い川の反対側、すぐ近くの高圧線の鉄塔には、先ほどのカラスともう数羽、何羽かのカラスが鶴の様子を伺っている。鶴も高い樹の枝先から首を伸ばしてカラスの動向を見守っていた。そんな膠着状態が暫く続いていたが、散歩の途中でもあり陽射しが強いので、結果を見定める事無くその場を去ってきた。鶴にすれば、川に沿って迷い込み、帰路に予期せぬギャングの攻撃を受けるとは思いもよらず、とんだ災難に遭ったといえよう。鶴の大きな羽での緩慢な動作では、どう見てもケンカにならず、カラスの獰猛さや敏捷さ、数多い攻撃には太刀打ち出来ないのは明らかである。温和で平和主義の鶴が、無事仲間のもとへ帰れることを願いその場を去った。




私の人生劇場(103)   [ス イ カ と 夢]


 私は出歩く事がおおいので大分前からスイカ(Suica)を利用している。そのスイカも消費税の増税で、霞ヶ関の裁判所や官庁へ出掛けると、一回で今までより50円は多く引かれ、残額が急激に減少する印象は否めない。スイカはタッチするだけで改札を通過出来るので、その都度切符を買う手間が省け利便性はすこぶる良好ではある。しかし、その反面キップを買い、直に現金を支払わない分消費税が多く獲られている事を見過ごし、実感として気づかず、金銭意識が希薄になり勝ちである盲点が潜んでいる。老後の年金生活者になり、資本の搾取から解放されても、国家による収奪を否応なく受け、抜け出せないでいることになる。それが怒りに結びつかないカラクリで、巧みに国民から税金や保険の名目で収奪が行われ、国民は騙され踊らされている事に、中々気が付かないでいる。

 或る夜変な夢をみた。何処か知らぬ駅であるがキップを持っていないので、駅員に無賃乗車と咎められ執拗に追及されている。スイカなので切符のように乗った場所も行く先を説明しても分かってもらえず、証明する術がなく対応に苦慮しているが、駅員の意地悪は止まるところを知らない。キップを持って無いので駅の外へも出られず戸惑い困り果てている。一旦外へ出られればキップを買えるのだが、改札を出るキップがないのでそれも出来ないでいる。

 どうしてその場を切り抜けたら良いか困り果て、なんの気なしにヒョイと周囲を見ると、なんと現役時代十数年前に通勤で通っていた、会社近くの浜川崎駅の風景が突如現れたのである。朝夕のラッシュ時は駅員は改札に居るが、昼の乗客は殆どなく無人駅であった。夢とは脈絡のない過去の記憶や現実との一端がない交ぜになり、浮かんでくるものである。

 いつも東京の混雑する駅を利用するので、その情景が脳に刻み込まれてしまっているのであろうか。夢とは不思議なもので、困ったところで寝覚めて現実に戻り、なんだ夢だったのかとホッと助かるのがいつものパターンで、目醒めると難問は即座に解決してしまう、便利で荒唐無稽なものである。しかし、駅員のいじめが夢の中で行われたのは、収奪を意味していたのであろうか。




私の人生劇場(104)   [結 石 と 頻 尿]


 年齢を重ねると切れが悪くなる、或いは頻尿となり一日に何回もトイレへ脚を運ぶという話を耳にする。夜も何回も目覚め熟睡できないと、同年代の友人は概ね似たようなものである。私は両方で、切れが悪い事については加齢の為で仕方なしと諦めて居る。若いときには年輩者からそのような話を聞いても信じられず来たが、自分がその年齢に達し当事者になってみると、成る程と認めざるをえない。出来るだけ時間を掛け、残さないよう処理しなければならない巡り合わせになって来ている。

 頻尿の方は、正確に数えたことはないが、通常でも毎日トイレへ十数回は行っているであろうか、出る量は少量である。しかし、回数が多いのは加齢でも病的でもなしと、特別気には止めていない。それにはれっきとした理由が存在するからである。私は25歳ころ尿管結石の激痛を経験し、摘出手術を受けている。その時医師から、「利尿作用が有るからビールを飲め」「膀胱に溜めないで尿意を催したら我慢せずすぐに出せ」と、手術後に医師の指導を受けていた。従って、尿意を感じたら直ぐにトイレへ行くのが習慣なので、現役の勤務時間中でも、一日10回以上はトイレへ脚を運んでいた。電話が来て不在だと、「Sさんは何処へいった?」「どうせ又トイレだろう」と、周囲から認知される存在であった。

 しかし、こうした習慣が長期間に亘って続くと尿を溜めないので、膀胱その物が通常の人より小さくなり、少量溜まっても尿意を感じ頻尿となる。それでも、トイレが備わっている建物であればなんら支障は感じずに済んできた。しかし、宴会などでアルコールが入ると、ビールでなくとも利尿作用で尿が溜まる。元々小さくなった膀胱は、少量溜まっても我慢出来ず、宴席で何回も席を外すのは仕方ない事である。

 最も困るのはバス旅行である。最近は長距離バスにはトイレが設置されるようになったが、嘗てはトイレ付きバスは殆どない。アルコールの好きな私は、旅行という開放感もあり、バスが動き出すと同時に朝から缶ビールが廻ってくるとグイグイ飲んでしまう。次のサービスエリアや休憩まで、満タンの尿を我慢するのは、拷問のような苦しみを味わうこととなる。最近はそうした耐尿の苦痛を和らげるため、SAが近くなり休憩が視野に入ってから安心して飲むように心掛けている。又、東京で飲んで帰宅の経路では、駅で乗換毎にトイレタイムを採るが、同行者も毎度の事で万事心得てくれている。




私の人生劇場(105)   [糞 尿 談 議]


 続けて尾籠な内容で失敬するが、もう一話尿に関する話題に触れておきたい。朝起きて最初に行くのはトイレ、それも大概の人は小の方が緊急で我慢できず簡単で先に出すが、特に若い時はその傾向は強い。そんな事から、大か小かどちらが先か、職場で話題になったことがあり、たわいない論議をした経験である。

  その先輩の主張は以下の理由からである。大を出すには小を我慢し、腹の中の容積は同じなので、膀胱が満タンならば大腸を圧迫するので大が出やすい、という説である。しかし、私達若者は出たいのは小の方が緊急、我慢できないし液体なので出やすい。しかも膀胱に溜まった水圧を借りなくとも、若いので腹筋は強く、腹に力があるので気にせず、便秘で困ることはない。その糞尿譚は両論平行線で結論らしきものには至らず、単なる茶飲み話で終わってしまった。

 しかし、私は後日痔疾の手術をしてからは洋式トイレに座り、力まず焦らず自然に出るまで新聞を読みながら、ゆったり時を待つ習慣がつづいた。不思議なもので、何年かそうした生活が続くと、人間の身体と神経系統の関連というのは不思議なもので、長年月の間に力み方を忘れてしまう。便秘程ではないが固くなると出が悪くなり、出そうでも力むが力の入れ方が分からなくなる。急ぐ時は焦りも加わって余計に便通は悪くなり、加齢と共に腹筋が弱くなる事とも関連してくるようである。

 そんな事から昔の論議を思い出し、洋式便座に座っている。ガスが溜まると大腸を刺激するが、車のブレーキオイルが沸騰して泡立つことを「べーパロック現象」というが、圧縮されても気泡に吸収され力は伝わらない。尿は液体なのでガスより圧力はマシであるが、固体のようにそのまま力は伝わらずブレーキは効かない。現在思うに、若いときは便秘で悩んだ事はないが、考えてみるに糞尿譚の相手は私より年輩者であった。従ってその人は、便通で多少困っていた時の事ととて、話題にしたのではないかと思われる。しかし現在の私は、結局先に出やすい尿が出てしまい、糞尿譚とは関係ないところで生活しているのが結論である。




私の人生劇場(106)   [鉄 を 食 っ た 男]


 おもちゃや電子機器に使用されるボタン電池を幼児が誤って飲み込み、医療機関で受診した事故が2010年12月から3年4ヶ月間に、全国で93件報告され問題になっている。私は、小学高学年か中学1年の時か、年代は正かには記憶してないが、遊んでいて間違え鉄製サイレンを飲み込んでしまうという同様の「事故」を経験している。13歳としても60年前の話である。今であれば、「事件」としてマスコミに取り上げられ、大騒ぎになったことであろう。数年前コン二ヤクゼリーを喉に詰まらせたお年寄りが窒息死し、製造メーカーが世間から袋叩きを受けた事件は、未だ記憶に新しい出来事である。或る面では自己責任で有っても、事故が連続して数件重なり全国から情報が集まれば、製造元や販売業者は予見可能だったとして、直接因果関係がなくても、その責任を問われるのが今日のご時世である。

  私の場合は、喉に詰まらせたのではなく、おもちゃの鉄を胃に飲み込んでしまったのである。子供時代は現在と違いメンコやビー玉、ベーゴマと石けり等単純な遊びが多く、田舎なので庭も広く簡単で手近な遊びに熱中していた。珍しい遊び道具が発売されれば、安ければ飛びつくし高価であれば身の程知って諦めてしまう。当時、一時的に薄い鉄板で造られたサイレンが売り出されたことがあった。口にくわえて吹いたり吸ったりすると、風圧で小さなプロペラが回転し、サイレンのように音を出すおもちゃである。私は多少小遣いを持っていたので購入し、弟や数人の遊び友達に貸したりして遊んでいた。

  口でくわえる遊び道具なので、現在であれば、塩ビかプラスチック素材で作製されたであろうが、まだ開発されて居らず、当時とすれば薄いブリキ板をプレスして使用し、薄い鉄板で造られた小さなものであった。ある時、5〜6人で遊んでいて、その鉄製のおもちゃをうっかり飲み込んでしまったのである。瞬間気が動転して、頭の中は真っ白になってしまった。暫くして多少落ち着いてみると、胃に入ってしまったことは確かであるが、痛いわけでもなく違和感もない。それより、親に言うべきかどうしようかと迷った。親に言えば、当然病院へ連れて行かれ、腹を切られ手術して取り出される、その方が心配で怖かった。今のように胃カメラなど存在しない時代の事であるから、腹を切って胃から取り出す以外に方法はない。考えただけで怖く、結局親にも誰にも言わず一人黙って心配しながら様子を見、不安な日々を過ごしていた。

 しかし、一人密かに悩み心配して居るのは苦痛であった。ビー玉であれば丸いガラスであり、喉に指を入れて吐き出すことも出来る。例え吐き出せなくとも、溶けないし2〜3日内には便と一緒に出てしまうが、飲み込んだのは変形した鉄板である。胃の中に入ってどうなるか、子供心に不安は尽きない。一週間が過ぎ一ヶ月が経っても、痛みも感じず異変は現れなかった。一年も経過すると、頭の隅には残っているが、だんだんと心配は薄れ、現在に至っている。胃酸は強酸性なので胃の中で鉄を溶かし腐食する。尖った形で腐食すれば、胃や腸に刺されば痛みか何らかの異変を感ずるだろう。或いは腐食し溶けて余り変形しない内に便と一緒に排出されてしまったのか、当の本人は知る由もない。半世紀以上が経過した現在、時々鉛のような物を飲み込んだ夢を見るが、鉄製のサイレンを飲み込んだ時の恐怖心が、トラウマ(心的外傷)の後遺症として残り影響しているのであろうか。しかし、何の異常も無かった事実は、鉄を食った男、つまり筋金入りの人間であると、冗談交じりに自分一人で頷いているのであるが。

 (註) 多分、当時全国では私と同じような事例が何件か起きていたであろうと想像できる。子供が鉄を飲み込むような遊具、そんな危険な物を製造販売した企業は、現在ならばマスコミを介して大きなニュースとなり、社会的に叩かれいたであろうが、60年前ラジオの時代では社会的問題にならず済んでしまった。その代わり、その遊具は暫くして、おもちゃ屋さんの店頭からすっかり消えていた。




私の人生劇場(107)   [眉間の縦皺と額に下駄歯の凹み]


 (1) 番でも若干触れ、一部重複する部分が有るかも知れない。私の眉間には深く刻まれた縦皺が存在している。更にもう一つ、額の中心に下駄の歯形に骨が凹んで残っている。3月末生まれの私は奥手で、小学3年生頃まではどちらかと言えばいじめられっ子でもあった。4年生になると体力も付き、いじめられるだけでなく相手に向かって行く気力も育ってきた。昼休みに遊んでいて同級生と喧嘩となり、相手の下駄で額を殴られ、歯形の角で頭骨が窪み、出血はしなかったが手で触ると額に凹みが有るのがハッキリと分かった。今でもその跡は残っているが、外見上は誰も気が付かなくなっている。頭部なので脳神経への影響を心配したが、先生にも言わず医者へも行かず、これも黙って心の奥底に秘めておいた。幸い脳への障害は現れず経過したので、殴った相手も気が付かずに忘れているであろう。私が負けん気を持った出発点、スタートを切った記念すべき名誉の痕跡は、額にできた下駄の歯形であった。

 私は普段は温和しく寡黙、いつもじっと他人の話を聞いていることが多く、自分の事は余り口にしない。しかし、その行動力は、他人には、短期間の付き合いで「獅子奮迅」「律儀」「男気」等々、強い印象を与えるらしい。自分で喋らないだけに何を考えているか、その分他人は余計に気を巡らして、注意深く観察しその人が醸し出す雰囲気から受け止める印象なのであろう。その要因の一つに、眉間に深く刻まれた一本の縦皺が大きく影響しているのかもしれない。岩をも砕く眼光鋭く寺院を守る仁王像には、眉間に深い縦皺が刻まれ、悪を寄せ付けない凄みを効かせている。同様私の縦皺には、人生の生きざまそのものが刻まれ、染み込みこんでいるようである。

 ”40歳になったら自分の顔に責任を持て ”と言われるように、その人の人生が顔に現れるものである。平和で豊か道理が通る世間なら、老後はあくせくせず安穏に笑って暮らしてもおれましょう。しかし、現在の日本はそんな平和な状態ではなく、当たり前の要求さえも通らないご時世、目的を実現するには闘う意外に道はない。そればかりでなく戦争への道へ逆戻りしひた走っている。政治や諸悪に対して妥協せず、いつも正義と怒りに燃え、叩かれても挫ける事無く常に闘い前進する姿勢を崩さず生きてきた半生、世直しの執念と脳の思考が、いつも”苦虫を噛みつぶしたような顔”をしていると言われる所以である。当初は蟷螂の斧のような闘いに起ち上がり、どうしたら正義を貫き、悪を正だして勝利できるか、弱小の立場から対等の力関係にまで引き上げ要求を実現する、頭の中が常にその事で占められているとしたら、笑顔など出てくる術はなく、眉間に皺が寄り、長年月の間に益々深く刻み込まれるのは自然の摂理と言えるであろう。眉間に深く刻まれた一本の縦皺は、正義と怒りに燃え不屈に闘ってきた人生の証として、今更消しようのない私のシンボルであり、墓場までつき合わざるを得ないであろう。

 額の歯形は物理的な力が加わり、頭骨まで凹んだのであるが、眉間に深く刻まれた縦皺は、簡単に出来るものでない事はくどくどと記してきた。愉快な人生であれば恵比寿様のように、額に波打つように横皺となるのが通常である。闘うが為に差別され、低賃金に堪えてどうにか一家を支え、悪政や社会悪を許せず果敢に挑み、尚かつ闘いがあれば火中に飛び込んででも栗を拾う気性は現在も変えようがない。ただそうした中でこそ新たな道が拓け、だんだんと踏み固められて行く。そして、力を合わせ共に闘う中でこそ信頼できる友人も生まれるのである。

このテーマは、この項のみで解釈するよりは、他のエッセイやボランティアの項を参照され、総合的に判断されるとより理解が深まるかのではないかと思われる。




私の人生劇場(108)   [大雪の連続に思う]


 今年は60年振りと言われる大雪が2月8日と14日、1週間に2回降った。私の家の配置は、ビル風の通り道になるのか他家に比べ積もる量が多い気がする。狭いベランダに50cmも積ると、敷地が狭く隣家に入らないよう落として処理すのは大変な苦労と工夫が必要でる。又、北向きの私道が長く、吹き溜まりとなり特に積もる量が多く、1mにもなると玄関のドアが開かない状態になってしまう。朝起きると、押しても外へ開かなくなってしまうのである。これも除雪に大変な労力を要したのは言うまでもない。

  嘗て下麻生に住んでいた時、周期的に週末に4週連続で雪が降った事があり、交通量の多い幹線道路は別にして、横浜ニュータウンの中の広い道路は地形上特に積雪量が多く、新横浜駅を過ぎた安全な場所で、チェーンを取り付けて通過した記憶を鮮明に覚えている。最初の頃はチエーンを装着し過信して思わぬ危険に遭遇したが、馴れるに従い適度なスピードで走行する術を覚えた。そして翌日、土曜日の休日には、子供達が滑って転ばないようにと団地内と周辺の通路を除雪し、一段低い公園へ雪を投げ落とし、安全を確保したものである。当時は未だ若さが有ったので、体力的には楽しみながら雪掻きしたのであるが。

 私が生まれたのは3月下旬だが、「おまえが生まれた日は雪が降っていた」と、母によく言われたものである。お産の日なのに、6番目に生まれたので母もそんな余裕があったのであろう。そして私が中学生であった60年前、群馬の平野部に大量の雪が積もった事も記憶している。自然現象とは、このように何十年かに一度は循環し、異常気象が来ることを認識しておれば、何事も特別ビックリする程の事ではない。福島第一原発大事故と爆発は人災であるが、3・11の東日本大震災の津波に見られるように、100年に一度は、震災や豪雨に火山の噴火等、大災害に見舞われる事を、歴史の事実から学び覚悟しておかなばならない。地球が誕生し現在に至るまでには、もっと何十何百倍という幾多の激動を経て沈静化し、現在の平静な地球に至っていることを考えれれば、何処かで又大きな力が蓄積されいつかまた、破壊する事を予期し準備しておく必要があるのではないか。

 その事を基本にして、被害を最小限に食い止めるには、一人の人間の力では如何ともし難く、科学者達が研究し科学の進歩の上に予測や予知し、政治の力で国民の生命と財産をいかに防御するか以外に、対抗措置は不可能である。”水を治める者が国を治める”諺の如く、政治家が私利私欲に走るのではなく、現在の政治を良くすると共に、長い目で見た将来の天下国家・国民の立場にたち、国の将来像を見据えて働かなければならない所以である。




私の人生劇場(109)   [真剣勝負とショー]


 テレビが一部に出回り、プロレスが流行した頃、リングを舞台にしたショーに過ぎないと批判し「真剣勝負なら俺が勝つ」と、力道山対柔道の木村政彦という対決が行われた。しかし、幾つか出版されている本によると諸説があり、未だ解明されていない部分があってナゾは解けていないのであるが。あの興行は真剣勝負という名の八百長試合で、台本(ブック)のあるショーであったが、何故か途中から力道山がブック破り(八百長破り)を行い、不意を突かれた木村が力道山の張り手や空手チョップを防御する術もなく、結果は呆気なく5分ほどで木村選手がマットに沈み、力道山の勝利で決着してしまった。これを機にプロレス人気は益々高まり、力道山は国民的な英雄としてもて囃され、私も中学生の頃、中華そば屋に入ってプロレスを見ながらラーメンを食べたりしたものである。一定の時間は、観客を楽しませるショー的助走も必要であろうが、最初から結果が決まっているブック・ショーに魅力は感じない。

 真剣勝負となれば双方が熟達した技量を持ち、力量が拮抗している場合、一瞬の隙や心の乱れが勝敗を分ける決め手となる。武蔵・小次郎の巌流島の闘いも、切っ先3寸で勝敗が決まるとみて、武蔵は櫂を削って武器とし小次郎に相対した。小次郎の刀は物干し竿(備前長船長光)で長尺、背中に背負って歩いていた。武蔵はそれに匹敵する長さで、舟の櫂を削って武器とし相対した。同時に揺動作戦で、決闘の場である巌流島へ時間を遅れて行き、小次郎の焦りを計算して心の乱れを誘い勝負に勝った。昔の武士や剣客・達人の勝負は切っ先3寸、つまり刀の先10Cmで勝負が決した。今は竹刀の試合でも、深く踏み込めば自分も打たれるリスクをともない、切先の3寸で勝敗が決するのは変わりない。他の格闘技も、一瞬の隙で勝負が決まってしまうのは例外ではないであろう。

 異種格闘技はどうであろうか。嘗て猪木とモハメド・アリの試合が行われた事がある。興行収入を得ようと大々的に宣伝し、高い入場料を支払い、リングサイドへ観戦に行った人も居たであろう。私達一般人は、テレビ観戦しかないが、期待に反して日本であれほどつまらない試合は無く、多くの批判をあびたのは当然であり、金儲け主義と歴史的汚点を残したといえる。観客を喜ばせるという点では見せ場が一つもなく、期待外れの詐欺にも等しい内容であった。その責任の100%は猪木に存在していた。リングの中央に寝そべりグルグル逃げ回ってアリの脚を蹴るだけ、それだけパンチの威力が怖かったのであろう。対戦相手が寝そべっていたのでは、ボクサーのアリは打ち合うことも出来ず試合にはならない。観客の期待は、レスラーの猪木がボクサーにパンチを見舞う。アリが猪木を投げ飛ばす、そんなシーンが一回でも有れば喝采を浴びたであろうが、ゴングが鳴って最初は、立って堂々と向き合って睨み合い絡み合って試合は始まるものであるが、猪木は最初から最後まで寝そべっていたので試合にならない。最初から負けを宣言したようなものであり、プロレスは所詮脚本のあるショーにすぎない事を証明してしまったといえる。

 現在、異種格闘技・総合格闘技を一つにしたのが「Kー1」と言えるであろうか。ボクシング・プロレス・柔道・空手等々、選手が得意の専門分野は種々様々である。しかし、最初はお互い睨み合い殴り合って戦いは始まり、どう自分の得意な態勢に持って行くかの駆け引きが緒戦である。ボクサーであれば、立ってKOパンチを狙う。空手ならば、回し蹴りのカウンターがフックにヒットすれば、一発でKOできるであろう。柔道ならばパンチより、倒して寝技に持ち込み決め手は絞め技か関節の逆を取って相手をギブアップさせる作戦がある。何れにしても、必殺技・決め技を持たないと試合には勝てない。プロレスは脚本があり、ストーリーで時間を稼いで客を楽しませる。K−1は真剣勝負、四角いジャングルで1対1の戦い、色んな必殺技が飛び出す格闘技で、人間の体力では4Rが限界であろう。何れにしても打ち合ってKOシーンを見せるのが、観客を堪能させる場面である。




私の人生劇場(110)   [もう一つの真実は事実ではない]


 私は裁判には縁があり、自分で5回原告となって闘い、また深く関与し支援した争議は二桁で、多数の裁判に直接深く関わりを持ってきている。しかし、判決で勝ち決着したのは自分の交通事故での裁判だけであり、その外の労働裁判や労働委員会での判決と決定は何れも不当判決で、残念ながら勝ったためしはない。判決では勝てなくとも、だからといって争議で負けたこともない。こう言うと矛盾していると思われるであろうが、一審の地裁での不当判決で負けても、その後の運動で会社を社会的に包囲して追いつめたり、判決前に会社がギブアップし、和解で解決し争議としては勝利解決している。私が関わった殆どの事件が、このケースで決着している。

 私達の提起する労働裁判は、企業の内部での力関係では解決出来ず、第三者機関である裁判所や県労働委員会へ提訴し、外部の力を借り結集して企業を社会的に包囲し追いつめ、要求実現を図り目的を達成する。勿論その強力な第一歩は、裁判所や労働委員会で勝利判決や命令を獲得する為に全力を尽くす。ここで勝てば次の闘争を、圧倒的に有利な条件を獲得する事になり、これだけで会社や行政は折れ問題は解決、うまくすれば一件落着という可能性も生まれ得る。従って、法廷や県労委での闘いを決しておろそかにするのではなく、全力投球で取り組むのは当然である。しかし、どんなに真剣に闘い有利に進展しても、判決で勝てる保障はない。そこで裁判を活用し、支援者を増やし社会的運動を広げて企業を包囲し追いつめていく、大衆的裁判闘争という戦術が編み出されたのである。

 日本の憲法では三権分立、立法・行政・司法は平等であり、この三権は独立しており対等の立場に置かれているのが建前である。憲法で保障されたこの対等の建前が本分であれば、事は単純明快であり、日本の国家は平和で国民も幸福な生活が送れている筈である。ところが、名目と実際とは大きくかけ離れ乖離しており、一致点は無いに等しい状態が日本の現実である。日本の司法は、その時々の現体制を保持する為に存在しているのであって、等しく国民に平等ではない。行政・資本家・金持ち・大きな団体等々、強いものを守り勝たせるのが本来の立場と役割であり、保守が司法の本質である事を認識すべきである。おおよそ、裁判所に平等とか公正等を期待するのは、雲を掴むのと同様、無理な話である。

 裁判官はエリート集団で有るが無知な人間の集まりでもある。20歳で司法試験に合格すれば格別扱い、20歳では子供同然で社会を世間も知らないで常識もなく、気位だけが高く幼稚である。たまたま暗記力が多少良かっただけで司法試験に合格、考える能力は弱く頭が良いのとは違う。狡猾な検事には、証拠は隠され簡単に騙されてしまう。エリート意識が強いだけに尚更質が悪く、騙された事が分かっていても認めたくない。こうした裁判官が最高裁の判事となる。最高裁の決定は、一つの「真実」となってしまう。日本では、間違った「決定」は世の中に違う真実が二つ存在する、不条理の世界である。真犯人と冤罪の犯人と2人が存在することになり、真犯人は舌を出しのうのうと社会で生活し、冤罪で仕立てられた無実の人間が犯人として絞首台で殺されるという、国家的犯罪がまかり通り、その被害者が何十人この世を去っていったか。原子力には素人で無知な裁判官が、行政と電力会社や学者の巣ぐう「原子力村」に手玉にとられ、原発安全神話を作り上げた。原発が危険なのは真実、安全神話も最高裁判決で「真実」、二つの真実が併存したが、しかし現実には、3・11で事故は起こった。司法の判決でつくりあげたもう一つの「真実」は、事実ではない虚空のものであり、事実は一つしかないのである。




私の人生劇場(111)   [ボケを防ぐ頭の柔軟体操]


 年齢を重ねると頭が硬くなるのは、異常ではなく当然である。それでなくとも年齢を重ねると、頑固になった、融通が利かないと言われても、本人は自覚しないというよりは認めたくないのが常である。老人になれば視力も落ちるし身体も重く動かすのも億劫になる。まして、自発的に運動をしたり、活字を読んだり文化的な関心や思考力も劣化してくるし意欲も弱まる。このこと自体が既に、脳細胞が減退し衰えの現れであり、「最近物忘れが酷くなって・・・」と、口ぐせには言うが、都合良く使える言葉で、本人は何処まで自覚しているかは疑問である。

 何はともあれ、頭をいつも柔軟にしておくことは重要で、そうした意識を保つには、能動的な努力が求められている。視覚に訴えるテレビは、スイッチを入れれば自然に目に映るが、私はニュースや天気予報以外は余り観ない。その点新聞や活字を読むのは、一定の努力を必要とするし、テレビの受動的立場より、能動的な意欲が求められ、脳細胞の活性化にも繋がり刺激を強く与える。しかし、これも何のことはなく、習慣化する事による慣れでもある。それにも増して努力と忍耐が必要なのは、読むよりは活字を書くことで脳への刺激を強く与える効果は更に有効であろう。活字は読めても、いざ書くとなると漢字の半分は頭に浮かんでこないのが現実である。その事によっても、自分の脳細胞の減少と劣化が図れるというものである。

  私は、入院生活を何回か経験しているので、病状が快復してくると、時間つぶしにクロスパズルを埋めたものである。これに取りかかると時間が経つのを忘れるし、分からないとなにくそという挑戦・闘争心も湧いてくる。クロスパズルは雑学であるが、多方面に亘って種々の分野での知識や記憶が要求される作業である。正面からまともに考えるだけでは回答は浮かばないし、いろんな角度から頭を廻らし発想豊かに、或いは変化球をラフに考えてヒントを得る事も必要になる。縦横埋めて行く内に分からなかった答えが出来上がっている事がある。その事によって今まで知らなかった知識を結果的に教わり、「そういう事だったのか」と逆に学べる。あくまでも雑学であるが、出題の答えから学べる楽しさでもある。大概のパズルは、今まで解けないことは無かったが、唯一手が付けられず苦手なのは、タレントの名前で解くクイズだけである。

 同年輩だと、生きてきた歴史や背景が同じなので、考え方や発想も自然と似通ってしまう。年齢の差や違う分野で生活し生きてきた人、異性も当然なことに、よって立つ基盤が違うので考え方も変わってくる。全く異なった条件や環境で育った青年の発想は、予想も付かない突飛なものであったりする。ラフで感覚的かも知れないが、若い人の脳細胞から浮かぶ新鮮な発想や意見を聞き、意外な角度からの視点を吸収し参考にする事も、頭の柔軟体操に必要ではなかろうか。柔軟な頭で、ボケずに長生きしたいものである。




私の人生劇場(112)   [シーザーに学ぶマイクの魔術]


  シェークスピアのオペラ「シーザー将軍」の演説は、巧妙だったようである。今ならば駅頭や団地、人の集まる場所で演説し、拡声器が有ればその場で口を動かすことで、相手が聴いてくれるかは別に、少なくとも耳には届く有効かつ効率的な意思伝達法である。会場へ集まった人への演説や講演は、そこまで脚を運ばせる聴衆の動員組織に力と努力を要するが、講演者にとってはこの上なく便利で楽な宣伝方式である。この宣伝方法を学び現状に有効活用しない謂れはない。

 寺を持てない日蓮は辻に立って説法し、集まってきた聴取に仏法を説いて歩いたと言われ、現在でも宣伝カーを人の集まる場所へ止めての演説を”辻説法”という。演説にも説得調と民衆を焚きつけ奮い立たせるるアジ演説とがある。街頭では足を止めて聞き入る聴衆は少なく、通過してしまう一過性の人が多いので、アジ演説で印象を与え、室内や特定の聴衆に一定の時間話しかけるには、理路整然とした説得調の講演演説が向いている。今から2,070年も前に、ジュリアス・シーザーは聴衆に向かってどんな演説をしたのであろうか。多分説得し扇動する、その両方を兼ね備えていたのであろう。演説も予め頭の中に一定のストーリーを構成して臨めば、慣れてくると自然と後から言葉が湧いてくるが、聴衆に説得力を持つのは身近で具体的な話題であったり、数字を使うと印象深く耳に残るらしく、聴いた人から他人へと伝わり、数字が勝手に独り歩きし、宣伝効果は有効である。

 しかし、マイクを持って自然に言葉が湧いてくるまでになるには、やはり意識して日常的に何事にも関心を持ち勉強を欠かさない事が重要である。それでこそマイクを握ると、頭に詰め込まれた情報や知識が浮かび、口から発せられ説得力を持つのである。しかし、私は最初から演説が好きだったわけではない。学校では正解が判っていても、手を挙げて発言した事は一度もない程寡黙であった。指名されれば答えるが、挙手をしたことはなく、引っ込み思案な性格であったし、人前で話す事などは最も苦手で嫌いであったし、それは成人になってからも十数年続いた。

 私がマイクを持つようになったのは、40歳近くになってからではないかと思う。裁判が解決して、自分用のスーパーメガホンを車に積んで持ち歩くようになってからである。工場の門前宣伝を一ヶ所担当し、週一回多いときは3回も行うことがあった。20歳代の頃は、とても人前で話す気力はなく、ましてマイクを握って大勢の人に訴えかける等、予想もできなかった時期もあった。それが大きく変わったのは、世の中を良くする為には、マイク宣伝の効用と有効性を知ってからで、勿論必要性にも迫られたからである。音量にも関係し、演説も自分の声が反響すると心地よく、気分も乗って来て自分の声に酔ってくるが、そうなると相乗的に良い内容も浮かんで演説も聴衆を引き付けるものとなる。それも50歳代が最盛期、一時は出番がないと不十分さが残り、スッキリしない時代もあり、スーパーメガホンが一台あれば怖いものなし、大きな力になると確信していた時期もあった。しかし、最近は争議も少なくなりマイクを握る機会も減り、演説も説得力が低下してきている。70代に至った現在、どちらかと言えばマイクを握るのは遠慮したい気分になって来ている。これも気力・体力と自分との闘い、シーザーから学んだ演説も、年齢と共にそろそろ遠ざかる時期に来ているのであろうか。




私の人生劇場(113)   [邪魔な自販機の撤去]


 自動販売機が有害と社会問題になったのは、タバコの自販機が普及した時であったように記憶している。お金さえ投入すれば誰でも買えるので、未成年者の喫煙が増え、社会的なセンセーションを巻き起こした。現在は成人である証明書をタッチしないと、自販機でタバコは買えない仕組みに変えられている。自販機の氾濫問題は、そこで一段落し納まったかに見える。しかし、自販機の存在は、一見便利そうであるが、日本ほどいたる所に林立し氾濫している国は珍しく、今尚、色んな課題を抱えている。問題が表面化しないだけで、多くの影を落としていることは、間違いのない事実である。

 我が家が建て売りのウサギ小屋であることは、(94)で記したが、土地も狭く建ぺい率ギリギリに建てられており、隣とはコンクリートの塀で仕切られており、車が出入する時に左側の見通しはは全く効かない。50m程離れたすぐ裏には中学校が在り、我が家の前の歩道は通学路になっている。朝夕の通学・下校時は、生徒がぞろぞろ通り、車の出し入れは危険であり、大変な気遣いを要する。家を出るときは少しずつ前進し、生徒や通行人にボンネットが見えるようにして意識させ、こちらもある程度前進し視界が開けると、生徒の動向を確認し安全を確かめ、道路へ出るようにしている。最も危険なのは、自転車で突っ込んで来られる事で、速度が早いのでこちらは見通せず、対処しようにも避けようが無いのである。幸い細心の注意を払っているので、現在まで事故は起きていない。ところがそんな見通しの悪い場所へ、塀と道路ギリギリに、(株)三紅という会社が飲料水の自販機を設置したのである。自販機は塀より背丈が高く、更に歩道側へ出ているので、見通しは益々悪くなってしまった。それだけでなく、飲んだペットボトルは乱雑に散らばるし、時々我が家にも投げ込まれるという被害を受けるようになってしまった。

隣家は元々小売商店であり、現在はマンションになっている道路の反対側は、元は工場跡地で、近辺に一軒しかない小売店は、一時は結構繁盛したようではある。たばこの専売権も持っていたが、現在は飲料水の販売機一台の設置料が唯一の収入源である。プライバシーの関係でこれ以上記す事は出来ないが、息子一人残された隣家と話し、物事が解決し処理する事は不可能な事情を有している。従って、設置した会社(株)三紅と交渉を進めなければ、問題は解決しない状況になっている。(株)三紅という会社は、本社は横浜市瀬谷区に籍を置き、アイスクリームや冷凍食品と飲料を扱っている。自販機設置のエリアは神奈川県下全体・東京23区・静岡は熱海をはじめとして箱根の内側、県内営業所を、横浜中央・湘南・西湘・川崎と4ヶ所を持つ、レツキとした中堅企業であるが、一族個人経営の枠に嵌って視野が狭い。会社へ電話をしても私の名前は確認するが自分の名前は名乗らない受付嬢。通常は自分の姓名を名乗ってから相手の名前を尋ねるのが常識であるが、こちらから確認しても名乗らない。挙げ句の果てに、責任者から電話させますと言い、要件を満足聞かずに電話を切ってしまう。何日も待つがいっこうに返事はこない。仕方なく又こちらから電話をすると、私の名前を言っただけで切ってしまう傲慢な態度。社員教育の至らない杜撰な会社である事がこの一事で分かるというもの。飲料ボトルの補充もこそこそと秘密裏に、私の姿が見えると途中で止めて逃げてしまう。これがアイスクリームや冷菓・冷凍食品を扱う会社かと思うと、この企業の製品は食中毒が危険でとても飲食する気にはなれない。本社は横浜市の瀬谷区、わざわざ行く気にもなれず、或る作戦を練り、暫く放置し見守ることにした。

 春になると人の心も、ウキウキそわそわする季節を迎えた。隣人も違わず入院する事になり、留守宅になるので安全を期し、付添人の助言もあり電源を切りガスの元栓を締めて行ってしまった。某仲介者を通さないと用事が有っても入院先の病院も知れない。電気の通じていない自販機は、車で止まってお金を入れても飲物は買えないが、序でに空き缶やボトルを投げ捨てていく。時には我が家にも投げ込んで行く不届き者もいる。何れにしても、空ボトルは捨てられ散乱し見るに耐えない荒れ放題な状態になっていく。しかし、他人の敷地であり、不法侵入になるので誰も勝手に入って片づける事は出来ない。時あたかも年に2回、春の自治会全体のいっせい清掃日となり、大きな問題になってしまった。しかし、事情が有るので民生委員や区長、その他の関係者を交えないと事は進まず、自治会全体の問題に発展してしまった。幾多の機関から、自販機の撤去勧告が(株)三紅へ寄せられたのは当然である。1ヶ月ほどして散歩に行き帰ってくると、何かスッキリしていると気が付き、良く見ると自販機が無くなっているではないか。かくして、中学生の通学に邪魔な自販機は、手を煩わずして撤去された次第である。




私の人生劇場(114)   [登山用具の使い勝手と点検]


  エッセイはこの項を以て暫くお休みとしたいので、どうしても最後に、山の話題を取り上げて締めくくりたい。若いときから山が好きなことは、これまで色んな箇所で触れてきたし、「T・M・Kの理論」でも記したように、条件が揃わないと山には行けない。そんな時山の用具を揃えたり補修をしながら、頭の中で山の事を思い描きながら手先を動かし、改善改良を加えて過ごすのは楽しいものである。ちょっとした用具の改良や工夫で、使い勝手が向上し快適な山行きが可能になるか否かが左右されることもある。大ぐきりなところは、当然メーカーが研究を積み重ね、その到達点の製品が販売されているから、私は登山家では無いので、日本のアルプス3000m級の夏山、冬は通い慣れたは丹沢の雪山程度の水準に合わせ話を進めていきたい。

 オールドアルピニストなので、ニッカボッカを履き馴れており、膝が突っ張らず自由になるのが楽で着用している。現在の登山用品はファッショナブルになり、ニッカは野暮ったい感じは否めず、履いている人も少ないが、歩きやすく今でも愛用している。現在は伸縮も自在、保温性も通気性も良く、特にファッション性に優れている製品を着用している登山者は多いが、私は予備のスラックスとして小屋での替え着や山を下りてから着用し、山を歩くときはニッカと決めている。
 登山は汗を大量にかくので、汗拭きにはタオルを持参していたが、なんとしても大きすぎる。腰タオルやザックのショルダーベルトの下部に結んでおくが、どうにも邪魔になる。そのうち半タオルが普及し、山用にもコンパクトで便利に使えると思ったが、活用範囲がせまく物足りない。現在の到達点は、コンパクトに畳め広げれば首筋の日除けにも風呂にも使え、使用範囲の広い手ぬぐいを尻ポケットに入れ持参している。

 若い頃は、登山帽もオールドアルピニストの象徴そのものの形を愛用していた。しかし、着用していて、色んな気象条件での対応に難点が有ることに気が付く。帽子は、頭部の防護と特に日除けの役割を果たす要件が必要であるが、庇が狭く、紫外線の強い山頂では効用面で難点を持つ。決定的な弱点は、雨の時の視界を保つ機能が悪い事である。ツバが長くて広くないと、合羽の頭部を被ったときに視界を固定して確保出来ない。その点、後方からの陽射しに首筋を守りツバで被い日射病予防にも使える、野球帽が便利である。

 腰バンドは、日常使用する皮製の物はハイキング程度には使用できるが、大汗をかく登山には吸水性があるので適さない。木綿でしっかりした布、バックルはギザギザで細いロールが斜めのミゾに入っており、最初はきつめに締めて腹に力を入れると適度な所で止まり、それ以上は緩まない物を使用していた。汗で濡れても洗わないので、塩分が白く浮き出て来るのを、長年月使っていたが手入れをしないので、塩分で金属が腐食してきてしまった。今は化繊ナイロンベルトも飛躍的に強靱になっており、25o幅のサイドリリースバックルを購入し、手作りで腰バンドに使用している。プラスチックと化繊なので、軽く排水性も良く、ニッカに着けたまま洗濯も出来るので、常に清潔で利便性に優れている

 足回りは登山の快適さを左右するだけでなく、遭難にも結びつく最も重要な装備である。若いとき購入した靴は皮製で、片足2sあり重くて現在はとても履いて行けない。ビブラムソール(熱圧着)が開発され、登山靴の軽量化・機密・通気・履き心地等、機能は飛躍的に向上した。山行きの用途に合わせ、何種類かの靴を持っているが、つい履き馴れた物に集中してしまう。サイズは、昔は登山靴下2枚と言われたが、足は保護出来ても力が吸収され踏ん張れない。そこで私は、5本指の薄いものを下に付け、登山用の毛の靴下を履くことにしている。指の股の通気と共に、靴擦れの豆も予防出来る。
  靴の中に雨や朝露が入り濡れるのは不快であり、3000mの高山で翌朝、冷たく濡れた靴下に乾かぬ靴を履くのは、辛いものである。木くずや小石が足首から入ったまま歩くのも、歩き難いだけでなく、足を痛めてしまう。スパッツは足首用と膝までとがあるが、必ず着けて快適な登山をしたいものである。

  ザックは若かりし頃は、キスリング型という横幅の広い帆布の袋に、30sもの食料や荷物を詰めて出掛けたものである。日にちが経つにつれ食料が減って軽くなり、最後はルンルンという山行きであった。最近は装備が改良され食料も研究され、小型軽量化されたので、ザックも縦長でパッキングし易く、重心の安定性も良く小型化が進化している。山小屋もホテル化で、朝夕2食付きで弁当も作ってくれる。最低限生命維持の装備を持参すれば、コンパクトなザックで登山が可能になった。デザインは多種多様、本人の趣向で選べばよい。しかし山に雨は付きもので、晴れていても気象は急変、雨具は必需品である。雨に濡れると荷物は重くなり体力を消耗する。登山用品専門店へザック他を購入に行くが、目移りし中々決めかねていた。
  ザックカバーがザックに繋がっており、しかもザックの底にファスナーの収納袋が有り、畳んで収納出来るのが気に入り、全体のデザインには不満が有ったがそれを選んだ。良かれと思ったのであるが、実際に使用してみると決定的な弱点に気がついた。雨に濡れたカバーが小屋に入るのにザックから外せないのである。ましてや水分を除去しないと部屋には持ち込めないリスクがあったのである。帰宅すると早速取り外し、新しいのに買い換えた次第である。

  雨合羽は、上下セパレートタイプ、ゴアテックスの物を購入してある。高山で降られても、雨の浸透はなく通気性も良しと快適であり、いつも常備している。上下合羽は着てスパッツを着けても未だ不十分、手袋が濡れる。ゴアテックスの防水用手袋カバーを嵌めれば完全装備、高山の稜線で雨に遭っても安全。だが、丹沢あたりでは、一日中降られると分かれば完全装備を整えるが、登山靴を履いており下を履くもは億劫なものである。途中で降り出しても通り雨か、小屋が近ければ取り敢えずザックカバーは着けるが、上着は頭だけ被り急いで当面の目的地へ向かう。そこで様子を見て判断する。つい先日、山を下り舗装された林道を歩いていると急に降り出した。バス停まではあと40分、通り雨だとは朝家を出るときから分かっていた。この時の為に、サバイバルシート(薄いアルミ箔)を、すぐ取り出せる場所へ畳んで持っていた。ただ何年間も畳んであるので心配はあったが、油脂分を含んだ超薄い箔なので、何年かのうちに圧着し剥がれない、薄いので破れてしまう。普通に開けば、人間一人はスッポリ被れる大きさになるのだが、どうにか頭とザックが濡れない程度で歩いた。降り出して30分、風の吊り橋が見え、大倉バス停近くになると太陽が出、雨は止んだ。こんな時の為に、一時的に被るポンチョが要るなと思った。冬は別にして、今の時期でも軍手は必要、滑ったり躓いたり、木や岩を掴む手の保護になる。記録を残すのに、小型のカメラで十分、今までのが故障したので、掌に入る小さなデジカメを購入した。




私の人生劇場(115)   [結 び に]


 今迄身近で気が着いたり気になった事、単に見過ごすのではなくメモし、短文で要点をまとめ記載してきた。多分普通の人であれば気にも留めず見過ごしてきた、他愛のない内容で有ったかもしれない。私の性格的な特徴なのであろうか、文章にして整理しておかないと頭の中が何時までもスッキリしない性分から来ているのであろう。感想や主張を書きとめ積み重ねて来たら、いつの間にか114編に達していた。

 東京新聞夕刊に、著名人の生い立ちや人生の足跡を語る、「この道」が連載されている。このエッセイが、一回約千字程で纏められている。今迄の実績を見ると、一人平均50編程度掲載されている。これを編集し直すと、小冊子一冊に製本できる分量となる。前々回、落合恵子さんのサブタイトル「私を私にしたもの」は127回という、特別長期連載であった。近日中に一冊の本に纏められ発刊される予定のようである。

 私のエッセイは、「結びに」を含めて115編、これも手を加えて編集すれば一冊の本に製本して発刊出来る分量ではある。しかし、全く無名の素人が世に出すには、自費出版という方法しかない。出版したいが、採算を考慮すれば、一年金生活者ではとても手に負えず、生活が立ち行かない。そうした関係で、今回は残念ながらHPという形でしか世に問いかられない段階で終わっている。

 しかし、夢と希望はそう簡単に断念し諦めてはならない。今回はひとまずこれをもって一区切りとし、更に研鑽を積み書き溜めて、質・量ともに必ず出版にこぎ着けたい。その間は、現在ストップしているボランティア、そして新たな分野である小説の創作に挑戦するつもりである。
 




トップへ(essay)